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冷徹社長の甘い罠〜執着溺愛が始まった
東都の社交界では誰もが知っていた。柊匡介(ひいらぎ きょうすけ)のそばにいる女は次々と入れ替わり、1年を超えた者は一人もいない。 その中...
Chương (1)
第1章
東都の社交界では誰もが知っていた。柊匡介(ひいらぎ きょうすけ)のそばにいる女は次々と入れ替わり、1年を超えた者は一人もいない。
その中で、篠原澪(しのはら みお)だけが例外だった。社長秘書でありながら、関係を隠した恋人として、匡介と長いこと関係を続けている。
二つの顔を持ったまま千日目を迎えたその日も、澪はおとなしく、匡介が名家の令嬢との見合いをするのを受け入れた。
しかし、高架道路の上で、その見合い相手から匡介に「車が故障した」と電話が入ると、匡介はすぐに澪を車から降ろし、方向を変えて迎えに向かったのだった。
なぜなら、その相手が、澪の存在を見て気分を害さないようにするためだった。
その瞬間、澪はふいに思った。もう、こんな関係はやめよう、と。
第1話
麗宮ホテルの正面玄関に、マイバッハが静かに一台停まっていた。
車の後部座席で、篠原澪(しのはら みお)は黒のスーツに身を包み、白く細い指で絶え間なくノートパソコンのキーボードを叩きながら、仕事のメッセージに返信していた。そのとき、【お誕生日おめでとう】というメールが、受信ボックスに表示された。
彼女は一瞬呆気に取られたが、表情を変えずにそれを消去すると、ホテルの出口をぼんやりと見つめる。
今日は自分にとって少し特別な日だというのに、完全に忘れていた。
自分の25歳の誕生日。
そして、匡介の社長秘書として働き始めてちょうど千日目の日でもあった。
それなのに今、自分は匡介が他の女性と見合いをするのを車で待っている。
澪は腕時計を確認した。彼が興味を持てない相手なら、そろそろ出てくる頃だろう。
案の定、すぐにひときわ端正で目を引く男の姿が中から現れた。その隣には、いかにも名家の令嬢といった装いをしている、可憐な雰囲気の女性・柳奈津美(やなぎ なつみ)がいた。
どうやら楽しい時間を過ごしてきたようで、奈津美の表情には名残惜しさが浮かび、匡介の手を引いて引き留めようとしている。しかし、匡介は相変わらず端正な顔に薄い笑みを浮かべていたが、その眉間には、かすかに皺が寄っていた。
その空気を感じ取った澪は、パソコンを閉じると傘をさして素早く匡介の元へ駆け寄った。
「柊社長。ユニオン・グループとの会議の時間が迫っております」
その言葉を受けて、匡介は奈津美に申し訳なさを含んだ笑みを向けた。奈津美もそれ以上引き止めることはせず、名残惜しそうに彼の手をそっと離す。だが澪に向けるその視線には、わずかながら軽蔑と侮蔑の色が浮かんでいた。
奈津美は澪のことを知っていた。
東都の社交界で、匡介のそばには容姿端麗で仕事もできる秘書がいるという話は有名だった。それも、秘書でありながら、彼の隠された恋人でもある女だと。
だが奈津美にとって想定外だったのは、その澪が、匡介が見合い相手と会っていると分かっていながら、これほど平然と外で待っていることだった。まるでよく躾けられた犬のようだ、と奈津美は思った。
澪もその敵意と蔑みを感じたが表情に出すことなく、ただ匡介から渡されるジャケットを受け取った。二人がその場を離れ、車に乗り込むと、マイバッハは滑らかに走り出す。
後部座席に座る二人の間に距離はあるものの、澪は鼻先をかすめる香水の香りに気づいた。きっと先ほどの女のものだろう。
一瞬だけ顔が強張ったが、すぐに表情を戻し、冷静に言葉をかける。「社長。先ほどの女性はお気に召しませんでしたか?」
匡介が澪を横目でちらりと見た。「お前はいいと思ったのか?」
「家柄も容姿も素晴らしいので、社長にお似合いかと存じます」と、澪は事務的に答える。
すると匡介が澪に近づき、さりげなく彼女の腰に軽く触れた。そして、低く、どこか含みを帯びた声で言う。「そうか?でも俺は、お前の方がいいと思うけどな」
腰にぞくりとした感覚が走った澪が、反射的に彼から距離を取ろうと身を引くと、そんな彼女の抵抗を目にして、匡介の眉間に皺が寄った。
車内がしばらく静まり返る。だが、帰国してすぐ、そのまま休む間もなく柊家の当主であり、父親でもある柊峰行(ひいらぎ みねゆき)に見合いへと引っ張り出された匡介に、澪の心の内を深く探る余裕はなかったのだ。疲労を滲ませた表情で、そっと目を閉じる。
だが5秒も経たないうちに、澪がそっと匡介の目にホットアイマスクをつけた。
3年間ずっと匡介のそばにいた澪には、彼が求めているものが手に取るようにわかる。
冷酷で恐れられている柊グループの社長も、この時ばかりは澪の膝に頭を預け、彼女からの労いを享受した。
大体10分ほど、澪は匡介の頭をマッサージしていたが、静かな寝息が聞こえてきたので、そっとその手を止める。
澪が手を戻そうとした瞬間、彼が目を開けた。
匡介は澪の華奢な手首を掴み、何をするでもなくそっと指をなぞった。
鋭い眼差しが少しだけ緩み、彼が低い声で呟く。「今日はお前の誕生日だったな」
澪の瞳に一瞬だけ動揺が走った。まさか、彼が覚えていたとは……
澪は静かに頷いた。
「何が欲しい?」
こんなことを自分に聞いてくるということは、きっと今日はかなり機嫌が良いのだろう。
今まで自分にプレゼントについて聞くことはなく、社長室にただ置かれていただけだったから。
澪は自分を見つめている彼の目を見つめ返した。その瞳を見ているうちに、本当は明日、出社してから切り出すつもりだったことが、思わず口をついて出てしまった。
「柊社長。ここを離れようと思っています」
第2話
その言葉が出た瞬間、前だけを見て運転していた運転手ですら、思わずハンドルをわずかに切り損ねる。
しかし、匡介の表情に揺らぎはなかった。「休みたいのか?」
澪は静かに言った。「いいえ。会社を辞めたいんです」
車内がしんと静まり返る。
匡介は澪の手を離して身を起こし、その漆黒の瞳で彼女をじっと見つめた。
「理由は?」
淡々と答える澪。「特にありません。ただもうこれ以上は続けたくないので」
22歳、澪は迷うことなく、匡介を運命の人だと信じて、彼の「甘い罠」へと飛び込んだ。
しかし3年が過ぎ、澪は気づいたことがある。
自分にとって匡介は世界のすべてだったが、どうやら彼にとって自分とは、ただ仕事のできる秘書であり、都合のいい女に過ぎないらしかった。自分がいなくなっても、特に悲しむこともなく、すぐに代わりを見つけるのだろう。
澪だって匡介との未来を夢見たことがないわけではない。だが、柊家が次々と彼に用意する見合い相手を目にするたび、複雑な思いが募っていった。
そして匡介が初めて名家の令嬢と見合いをした日、澪は不安を抱えながらも尋ねたことがある――これから本当に、こういった人たちと結婚するつもりなのか、と。
その質問を澪がしたのは、二人で肌を重ね終えたばかりの時だった。匡介は笑みを浮かべたまま澪を見ていたが、その視線には、まるで彼女があまりにも愚かな質問をしたかのように、微かな軽蔑が含まれていた。
匡介が答えた。「そうでなきゃ、どうするんだ?」
ああ、確かにそうだ。
彼のような立場の人間が、そうした家柄の釣り合う令嬢たちと結婚しないで、自分のような、権力も後ろ盾もなく、施設出身の女と一緒になるわけがないのだから。
側に置いてもらえていたとしても、自分は一生隠された存在のままで終わるだけ。
もう3年も惨めな思いをしてきた。だが、それを一生続けるつもりはない。
「本当だな?」
匡介の口調は強いわけではなかったが、そこには言いようのない圧迫感があった。先ほどまでの柔らかさは、跡形もなく消え去っている。
澪は真っ直ぐに彼を見つめ返した。「はい」
すると匡介は目を閉じ、淡々と言った。「好きにしろ。明日にでも、新しい秘書の求人を人事部に出させるから」
肩の荷が下りたような解放感とともに、胸には複雑な苦い思いが込み上がってくる。
やはり自分という存在は、いつでも替えが利く、その程度でしかなかったようだ。
澪はうつむき、それ以上は何も言わなかった。先ほどまで、車内に立ち込めていた甘く曖昧な空気が、一瞬にして重たいものに変わっていく。
数秒後、匡介の携帯が鳴った。どうやらさきほどの見合い相手のようで、甘ったるい媚びた声が漏れ聞こえてくる。
「匡介さん、車が故障しちゃって……お迎えに来ていただくことってできますか?」
少し沈黙した匡介だったが、やがて「ああ」と答えると、電話を切った。
そして、運転手に向かって淡々と指示を出す。「奈津美さんを迎えに戻るから、そこら辺で止めてくれ」
続いて、氷のような冷たい視線を澪に向けた。「お前が車に乗っていたら、相手が気にするかもしれないから、ここで降りろ。タクシーでも拾って、自分で帰ってくれ」
澪は呆気に取られた。ここは高架道路だというのに、この男はこんな場所に自分を置き去りにする気なのか?
しかし、匡介はまるで自分の決断がどれほど冷酷なものかなど、少しも気にしていないかのようだった。淡々とした表情のまま、澪を一瞥することさえない。その冷淡さは、まるで交渉の場で相手を切り捨てるときと変わらなかった。「時間を無駄にするな。早く降りろ」
澪の呼吸が少しだけ乱れる。
あの見合い相手のことを特に気に入っていたわけではないのに、彼女のために、自分をこんな危険な高架道路で降ろそうとするなんて。
まあ、でもそうなのかもしれない。向こうは見合い相手のご令嬢、そして自分はいつだって替えが利く女なのだから……
「分かりました」
目を赤くした澪は、一度呼吸を整えると、素直に車を降りた。
外では、いつの間にか大雨が降っていた。しかし、傘すら持っていなかった彼女はそのまま道を歩き始めるしかなかった。
車の中から、雨風に打たれる澪を見ていた運転手が、いたたまれず口を開く。「社長、高架道路でタクシーなんて捕まりませんし、外はかなりの大雨です。それに、篠原さんはどこか具合が悪いみたいで、先ほど痛み止めを飲んだばかりで……」
そんな言葉を聞いても匡介は眉一つ動かさず、冷静に言い放った。「お前は誰の部下だ?これ以上何か言うんだったら、お前も降りてもらうからな」
慌てた運転手はそれ以上口を開くことなく、すぐにアクセルを踏んだ。
車はそのまま加速し、澪のそばをかすめるように走り抜けていった。はね上がった水しぶきが彼女に降りかかり、澪の全身を濡らす。
無情にも走り去っていく車を見て、澪は思わず苦笑いを浮かべた。さらに、下腹部の痛みも次第に強まっていく。
澪はふと、以前のことを思い出した。あるとき郊外で匡介のために契約の交渉をしていた夜、時計を見ればすでに日付が回っていた。
タクシーも捕まらず途方に暮れていたところ、匡介がわざわざ車で迎えに来てくれたのだった。さらに彼女の生理が重いと知ると、彼は彼女を自分の胸に寄りかからせ、その大きな手で何度も腹をさすってくれた。
あのときの自分は、どうしようもないほど感動し、匡介も本当に自分のことを思ってくれているのだと疑わなかった。
だが今になって振り返れば、それはただ彼が都合のいい女に向ける扱い方にすぎなかったのだと思う。言うことを聞くときは甘やかし、従わなくなれば、あっさりと手放す……それだけのこと。
このことに気づくまでに3年もかかるなんて、自分はどれほど愚かなのだろう。
その後、大雨の中を1時間ほど歩いた澪だったが、結局は腹痛に襲われ、そのまま高架道路の上で気を失ってしまったのだった。
幸いなことに見つけてもらい、澪は病院に搬送された。
病院のベッドで一晩中点滴を受けながら、澪は赤くなった目で窓の外の月を見つめていた。眠れぬまま、時間だけが静かに過ぎていった。
翌朝、点滴を終えた澪は身なりを整えて、そのままタクシーで会社へと向かった。
会社に着くなり、澪は人事部へと退職願を出す。
すぐに処理されると思っていたが、退社時間になっても連絡がなかった。
不思議に思った澪が人事部まで聞きにいくと、彼女の退職願は、社長の手元で止まったままだと伝えられた。
第3話
匡介と顔を合わせたくなかった澪は、今日一日の社長室に行く用件さえも他の人に任せていたのだが、退職手続きを止められているとなれば、自分で行くしかないだろう。結局、澪は渋々社長室へと向かった。
「社長。退職届についてですが、何か不備がありましたか?」
匡介が冷ややかな視線を澪に向ける。「ああ、もちろんだ」
澪は焦る気持ちを抑えて尋ねた。「どのようなことでしょうか?」
「1年前、柊グループの子会社をお前に譲渡した時、契約を結んだことを覚えてるか?その契約の中に、満了までは柊グループを離れることはできないとあるんだ。先ほど確認したんだが、その契約はあと3か月残ってる。つまり、この退職願は3か月後じゃなきゃ受理できない」
しばらく沈黙した澪は、静かに答えた。「わかりました。では、3ヶ月後にまた提出します」
一刻も早く自分と縁を切りたそうな澪の態度を見て、匡介は鼻で笑った。
澪が社長室を去った後、秘書室には澪が辞めるという噂が駆け巡った。
その場にいた人々は、最初こそ驚愕していたが、次第に別れを惜しむ空気へと変わっていく。特に、澪が手塩にかけて育てた秘書たちは、涙を浮かべながら彼女のデスクの前に集まってきた。
「澪さん、辞めないでくださいよ」
「柊社長のこと、誰よりも理解しているのは澪さんなのに。私たち、これからどうすればいいんですか?」
澪は淡く微笑み、当たり障りのない返答をする。「慣れよ。社長についていれば、そのうち分かってくるから」
「でも、どうせ私たちになんか社長秘書なんて到底回ってきませんから。だって、莉奈を見てくださいよ。澪さんが辞めるって聞いた途端、もう3回も社長室にコーヒー運んでるんですから。澪さんの後釜を狙ってるんですよ」
澪も視線を向けると、完璧に化粧をした白川莉奈(しらかわ りな)がコーヒーを持ってドアをノックしていた。
以前の澪なら、表面では平気なふりをしながら、一人で何日も悩んでいただろう。
だが今はただ、黙って莉奈の姿を横目で見るだけ。
無理やりにでも気持ちを切り替えなければ。もう彼の傍にいる女が誰であれ、自分には関係のないことなのだから。
午後、匡介から内線がかかってきて、今夜の接待への同伴を命じられた。
彼は人を遣わし、澪に一着のグリーンのベルベットのロングドレスを届けさせた。一目見ただけで高級品だと分かる代物で、この手のものに関して匡介がケチることは一度もなかった。
夜になり、そのドレスを着た澪は、匡介と腕を組んで接待へと向かった。
到着し、車を降りてすぐ、二人は柊グループと提携している会社の社長と出くわした。
その社長は匡介と少し言葉を交わしたあと、澪に視線を移し、軽口を叩く。「篠原さんは柊社長の秘書になってもう3年になるのかな?それにしても、どんどん綺麗になるね」
澪は軽く笑みを浮かべた。「お褒めいただき光栄です」
「でも、今夜は明和興産の石原社長も来ているのに……柊社長、よく篠原さんを連れてこられたね」
淡々と答える匡介。「彼女の仕事ですから」
石原社長という名を聞いた瞬間、澪の表情は固まり、思わず匡介を見上げた。
石原社長とは石原駿(いしはら しゅん)のことで、彼は東都の社交界では、親の力を笠に着てやりたい放題している二代目として有名だった。
明和興産の若くて美しい女性社員たちには手当たり次第に手を出し、さらには明和興産と取引関係にある企業の秘書にまで、ためらいもなくその魔の手を伸ばしていた。
今までの匡介であれば、駿がいる席には、絶対に澪を同席させなかった。
それなのに、今日は……
澪は不安を抱きながらも、匡介の腕をとって中へと入った。
案の定、中に入った途端、駿のあのいやらしい視線と目が合った。彼に目を付けられたらどうなるか分かっているだけに、澪は思わず身を引こうとしたが、駿の視線は彼女を捉えて離さない。
澪の姿を見た瞬間、駿の目がきらりと光る。
匡介のそばには最高の秘書がいることを、東都のビジネス界では、誰もが知っていた。だが、彼が澪を表に出すことはほとんどなかったのだ。
駿がグラス片手に嫌な笑みを浮かべながら近づいてきた。「柊社長、久しぶり。こちらの女性が、3年も隠していた噂の秘書ちゃん?今日、ようやくお目にかかれたけど、評判通りの美人さんだね……」
そう言うと、駿は澪の腰に手を伸ばした。その手つきに、澪は吐き気を催す。
澪は眉をひそめて振り払おうとしたが、匡介が終始冷淡に見ているだけだったため、駿はさらに大胆になり、手の力をいっそう強めた。
周りの参加者たちも息を潜めて見ているだけで、誰一人止めようとはしない。
澪が匡介の女である以上、彼本人が何も言わないなら、誰も止めには入れなかったのだ。
匡介の冷淡な表情を見て希望が絶たれた澪は、駿を押し返し、自分のグラスを掲げる。「石原社長、乾杯しませんか?」
ふっと笑った駿は、自分のグラスを澪のグラスに当て、そのまま一気に飲み干した。
澪がほっとしたのも束の間、グラスの酒を飲み終わった駿がわざとらしく澪にもたれかかってきたのだ。「秘書ちゃん。俺を潰しといて、そのまま放っておく気なの?」
澪は精一杯抵抗する。「石原社長、しっかり立ってください……」
「柊社長。秘書ちゃんのこと貸してくれる?少し酔ったみたいだから、休憩室まで連れてってほしいんだよね。いいかな?」
その言葉に、周囲の視線が一気に匡介へと集まった。
駿の下劣な下心は、あまりにも見え透いていて、まさに誰の目にも明らかだったから。
この美しい秘書が連れ出されれば、どういう結末を迎えるかなど分かり切っている。
真っ青な顔で、澪は匡介を振り返った。
だが聞こえたのは、匡介が駿に答えた冷酷な一言だけ。「気に入ったんだったら連れてけばいい」
第4話
冷水を浴びせられたかのように、澪の全身から血の気が引いた。
彼女は信じられないという目で匡介を見つめた。この男は、本当に自分が知っている彼なのか?
今は離れることになったが、自分は匡介のもとで丸3年を過ごしてきた。それも、女として一番大切な時期のすべてを捧げてきたのに……匡介は躊躇すらせず、自分をこの悪名高い好色な男へと引き渡すなんて!
匡介の許可を得た駿は、今にも踊り出しそうなほど喜び、無理やり澪の手を引いてエレベーターへと向かった。
今夜の接待はホテルの中にあるレストランで行われていたため、駿はそのまま宿泊階である13階のボタンを押す。
エレベーターの中、待ちきれない様子の駿は澪を抱き寄せた。「柊社長が3年もそばに置いていた女……俺も、どんな味がするか確かめなきゃな」
日頃から遊び慣れているのか、彼は女の抵抗の抑え方を熟知していた。片手で澪の両手を押さえ込み、唇を澪の首に這わせる。
嫌悪感から吐き気をもよおした澪は、駿の顔を立てるなどどうでもよくなり、激しく怒鳴りつけた。「放してください!警察を呼びますよ!」
「警察?」駿は御曹司らしく、鼻で笑った。「柊社長ですら口を挟まないんだぞ?そこに警察が来たってどうなるっていうんだよ?秘書ちゃん、俺の機嫌がいい時に、大人しく抱かれればいいんだよ」
ポーンッ。
エレベーターが13階に着きドアが開くと、駿は澪を強引に引きずり出して、部屋へと向かった。
死に物狂いで抵抗した澪だったが、その腕を振りほどくことはできなかった。しかし、駿がカードキーでドアを開ける一瞬の隙を見て、彼女は思い切り相手の急所を蹴り上げる!
「痛っ!」痛みに眉をひそめた駿は、もう片方の手を振り上げ、彼女の頬を容赦なく打った。「どうせ柊社長に何度も抱かれてるんだから、今更誰に抱かれようが同じじゃねえかよ。清純ぶりやがって!」
殴られた衝撃でよろけながらも、澪は口中の血を吐き捨て、力いっぱい駿を突き飛ばして駆け出した。
だが数歩もしないうちに、駿に追いつかれてしまった。
澪は素早くヒールを脱ぎ、駿に向かって思い切り投げつける。そして、鈍い痛みに唸る彼の声を背に、全力でその場から走り去った。
しかし、焦るあまり何かにつまずいたのか、勢いよく転倒してしまった。
さらには、背後から追いかけてくる足音。絶望が喉元までせり上がる中、どうせやられるならせめて……と腹をくくったとき、視界に高そうな靴が入った。顔は見えずとも、相手が相当な富裕層だということが分かる。
駿に追いつかれる前に、澪は相手の足に縋り付いた。「助けてください……男に追われてて……」
黒崎武司(くろさき たけし)は自分にしがみついている若い女を見下ろし、わずかに眉をひそめた。
これまで長く生きてきた中で、余計なことには関わらない主義だった彼は、後ろに控える二人の護衛に女を引き剥がすように、と手を上げかける。だが、澪が顔を上げて武司を見た瞬間、彼の瞳は大きく揺れた。
付き従っていた護衛たちも、澪の顔を見て言葉を失う。
まだ澪を見つめ続けている護衛たちに、武司は低い声で指示を出した。「片付けてこい」
護衛たちが廊下の奥へと向かっていく。それからしばらくすると、駿の騒がしい怒鳴り声がぴたりと止まった。
武司は澪を支えるようにして立たせた。澪は目の前の男が40代から50代ほどの中年で、物腰が柔らかく礼儀正しい人物だと気づき、何度も頭を下げて礼を述べる。だが駿が再び追ってくるかもしれないと不安になり、礼を言い終えるや否や、すぐに振り返ってエレベーターへと駆け出した。
だから澪は、武司が自分の背中をじっと見つめていることにまったく気づいていなかった。そして、その視線には失われたものを再び見つけたかのような、わずかな驚きと喜びが宿っていたのだった。
あまりにも似ている。
ホテルの1階、ロビー。
運転手は匡介の後ろをおそるおそるついて歩いていた。これ以上機嫌を損ねることだけは避けたかった彼は、呼吸することでさえためらった。
普段の接待なら、数時間は続くはずなのに、今日はそれほど時間も経たないうちに匡介が一人で出てきた。しかし車に乗ってわずか数分後、彼は不機嫌そうな顔のまま再び車を降りたのだった。
その足どりはせわしく、何かを探しに戻るかのようにも見える。
運転手が思考を巡らせていると、反対側からおぼつかない足どりの澪が出てくるのが見えた。
匡介は足を止め、じっとそれを見つめた。
人目のある場所に出てきて、さらに匡介も見つけた澪は、張り詰めていた恐怖がようやく少し和らいだ。
彼女は深呼吸をし、彼のほうへと歩み寄る。
澪を見つめる匡介の目に、一瞬の驚きがよぎった。着衣の乱れはないが、顔には赤く殴られた痕がある。彼は眉をひそめ、声を落とす。「お前……」
パシッ!
ホールに鋭い平手打ちの音が鳴り響いた。
不意に頬を打たれた匡介の顔が、わずかに横へと向く。
澪は震える手で目元の涙を拭うと、何も言わずにロビーを駆け抜けて外へと飛び出して行った。
周囲が騒然とする中、匡介はその場に呆然と立ち尽くした。しかし、その顔は怒りで引きつっている。
あの女……俺に手をあげたのか?!
唇を震わせ、その名前を叫んだ。「篠原!」
第5話
麗宮ホテルを出た澪は、すぐにタクシーを捕まえ自宅に戻った。寝室へ駆け込むなり布団を頭からかぶると、声を押し殺して泣き崩れる。
先ほど起きたことへの衝撃と恐怖、そして何とか無事に戻れたことへの安堵感。
匡介が自分を、代わりが利く存在としてしか見ていなかったことは知っている。しかし、まさか本当に自分を玩具のように他人へ差し出すなんて!
泣きすぎて声も出なくなった頃、ようやく澪の震えが止まる。
思い切り泣いたからだろうか、不思議なことに頭がとても冴えていた。
真っ赤に充血した目で、天井を見つめる。
3年だ。大学を卒業してすぐに匡介のもとへ連れてこられ、そのまま3年間、彼のそばで過ごした。
最初はただ、手の届かない雲の上の存在のような社長だと思っていた。だがある夜、残業に付き合っていた明け方、ふと目を開けると、彼が微笑みながら自分を見ていて——
その瞬間、心が揺れた。それからは、何度もベッドの上で愛を囁かれ、そのぬくもりに溺れていったのだった。しかし今は、そんな時間さえ存在しなかったかのように、彼は自分のことを切り捨てる。
そして今日、あの男はこれ以上ないほど冷酷な現実を突きつけてきた。
澪……自分がまだあの男にとって「一人の人間」だとでも思ってるわけ?
目を閉じ深く息を吸い込んだ澪は、静かに立ち上がると、そのまま浴室へと向かった。
あまりにも衝撃的な夜で、澪は眠れないだろうと思っていた。だがシャワーを浴びてベッドに戻ると、すべての気力を使い果たしていたせいか、すぐに深い眠りへと落ちていった。
翌日、けたたましく鳴り続ける着信の音で目を覚ました。
携帯を確認すると、時刻はもう10時を過ぎていた。しかし、澪は全く気にしておらず、そのまま秘書室からの着信に応答する。
朝から何度かけ直しても繋がらなかった秘書室の部下は、澪の声を聞いた途端、安堵のあまり勢いよく話し始めた。「澪さん!なんで今日出社してないんですか?柊社長が……」
匡介の名前すら聞きたくなかった澪は、冷たく答える。「私、辞めたから」
そんな返答を聞いた秘書室の部下は、今にも泣きそうだ。「澪さん……あと3ヶ月は残るんじゃなかったんですか?」
昨夜の光景がフラッシュバックし、澪は何とか怒りを押し殺す。「もう1日たりとも働きたくないの。違約金でも何でも払うから、とにかく出社はしないよ」
そう言うや否や、澪は通話を切った。
電話を切られた秘書室一同は顔を見合わせ、そのまま怒りで顔を真っ赤にしている匡介に視線を向ける。
彼らは恐る恐る告げた。「社長、澪さんはもう来ないそうです……」
匡介の漆黒の瞳がすっと暗くなったかと思うと、彼が鼻でせせら笑った。
もう、自分を探しには来ないだろうと思っていた澪だったが、匡介はそんな甘い相手ではなかった。数分後、再び澪の携帯が鳴る。
それは弁護士からだった。「篠原様、1年前に調印された雇用契約書に基づき、契約期間中の退職には1億2000万の違約金が発生します。それと、柊社長からの伝言も預かっておりまして、最後のチャンスを与えるから、すぐに出社するように、と……」
澪は思わずベッドから跳ね起きた。彼がこんな嫌がらせまで用意しているとは思わなかった。
1億2000万?
そんな大金あるわけないでしょ?!
こんな手段まで取って、自分を会社に戻らせようとするなんて……まさか、昨夜叩かれたことへの復讐なのだろうか?
澪は怒りから頭を掻き毟ったが、結局は服を着替えるしかなかった。
身寄りのない孤児だった澪は、匡介の下で働いて、ようやく人並みの生活を手に入れた。
だから、1億2000万という借金を背負いながら生きていけるわけがない。
会社に着くと、秘書室の空気は最悪だった。誰一人として声を出せないところを見ると、匡介が不機嫌なのは明らかだろう。
澪に気づいた周囲の部下たちが、救われたような表情を浮かべる。
皆に落ち着くよう合図を送り、澪は覚悟を決めて秘書室を抜けて、匡介のいる社長室へと向かった。
中に入ると、莉奈が匡介の膝の上に座っており、恥じらいを含んだ笑みを浮かべていた。澪はそれを見なかったことにし、何事もないかのように淡々と話しかける。「柊社長、お呼びでしょうか?」
澪の顔を見た瞬間、匡介は、昨日公の場で頬を叩かれた瞬間の苛立ちを思い出した。
匡介は陰鬱な眼差しで澪を見つめ、莉奈をそっと下ろすと、彼女に先に出るよう指示を出す。
匡介が淡々と口を開いた。「辞めるのなら、引き継ぎくらいはしろ。白川はなかなか見込みがあるから、残りの数ヶ月で仕事を教えてやれ」
澪は社長秘書として、思わず顔を顰めた。確かに莉奈はいい大学を出ているが、野心しかなく、秘書としての素質なんて何一つない。それに、秘書室には莉奈よりも、もっと優秀な部下が他にいくらでもいた。
だが澪は何も反論しなかった。先ほどの様子を見る限り、匡介は有能な秘書を必要としているわけではなく、ただ見栄えのいい「都合のいい女」を選んでいるだけなのだから。
視線を落としたまま、澪は事務的に返事をする。「分かりました」
第6話
そんな一切動じない澪を見て、匡介の苛立ちは更に強まった。
突然立ち上がった匡介が、澪をデスクに押し付ける。指で彼女の顎を掴み取って、危険な笑みを浮かべた。「篠原、全部きっちり教えろよ。ひとつ残らず……だからな?」
二人は鼻先が触れそうなほど近く、曖昧な空気が漂う。
痛みを感じた澪だったが、振り払うことはできなかった。「分かりました。彼女を立派な社長秘書に育て上げます」
「社長秘書程度じゃ足りない。お前は、人の世話をする腕前が一流だろ?そこをしっかり教えてやれ」
匡介は含みのある言い方をした。澪はその言葉の意味をすぐに察し、顔色が一瞬で青ざめたが、それでも唇を噛みしめ、感情を抑えて承諾する。
度重なる屈辱で、澪の心はもう麻痺していた。
匡介はふっと鼻で笑うと、顎を掴んでいた指を離し、澪を解放した。
その日を境に、秘書室の面々は気づき始めた。澪は完全に、匡介の寵愛を失ってしまったのだと。
そんな周囲の空気とは裏腹に、澪は淡々と莉奈に仕事のことからプライベートの世話まで、全てを引き継いでいた。それから澪は、社長秘書から平の秘書へと降格する。
一方、新しく社長秘書となった莉奈への羽振りの良さは、以前の澪の時よりも格段に上がっていた。マイバッハで送迎をし、毎日のように変わる莉奈のブランドバッグ。
とても順風満帆に見える莉奈だった。しかし、平の秘書になった澪は、周囲がその待遇をどう見ているのかを耳にするようになった。
「見栄張っちゃって。本当に柊家へ入れるとでも思ってるのかな?」
「自分から望んであんな立場を選ぶなんてね。どうせ、社長が飽きたら捨てられるのに」
「所詮、蛾は蛾なのにね。決して、蝶にはなれない」
そんな声を聞くたびに、澪はこの3年間、自分がどう見られていたのかを痛感した。
他人から見れば、今の莉奈と以前の自分は全く同じなのだろう。
一人は金持ちと結ばれる夢を見ていた孤児、そしてもう一人は、蝶になるため必死にしがみつく蛾のような女。
匡介にとって自分たちは飽きれば使い捨てるただの遊び相手だと誰もが知っていたのに、自分は馬鹿みたいに、本当の愛だと思い込んでいた。
「澪さん、今度ベイサイドホテルで氷をテーマにしたイベントがあるんです。そこに、社長も出席するので、澪さんはその進捗をフォローしてくれますか?」
秘書室にて、社長室から頬を上気させて出てきた莉奈が、そう澪に指示を出す。
ここ数日、すっかり雑用のような仕事に慣れてしまっていた澪は、黙って頷いた。だがそのとき、莉奈がわざと見せつけるようにしていた首元の赤い痕が目に入ってしまい、胸が一瞬詰まった澪は、何も言わず、背を向けてその場を離れた。
あの社長室で、かつて自分が彼と親密に過ごした時間のことを思い出す。
胸が微かに痛むのは、匡介にとって、自分と莉奈が同じ穴の狢であると突きつけられたからかもしれない。
イベント会場に到着した澪は、気を引き締めて仕事に取り掛かった。
しばらくすると氷が不足していることに気づき、澪は他のスタッフと共に製氷室へと向かった。
夕方まで休みなく働いて、ようやく設営が終わる。
全てが終わった頃に、のんびりと遅れてやってきた莉奈と匡介。匡介は服が濡れ汚れた姿の澪をちらりと見ると、一度だけ眉をひそめたが、すぐ興味を失ったように視線を逸らした。
一方、莉奈はあれこれと澪に注文をつけ、もっと氷を取ってきてほしい、などと言い出した。澪は仕方なく振り返り、製氷室へと向かう。だがその背後で、莉奈が浮かべていた陰険な笑みには気づかなかった。
製氷室の奥で、最後の氷の箱を運び出そうとしていた時、ガチャリとドアの鍵が閉められた。
「開けてください!誰かいますか!」
扉をいくら叩いても返事はない。電波も届かず、冷え込む空気で急速に体温が奪われていく。澪は深い絶望の中にいた。
製氷室の片隅で、澪は震えながら自分の膝を抱え込み、必死に耐える。
自分は、このままここで凍え死ぬのだろうか?
死がよぎったとき、皮肉にも頭に浮かんだのは匡介の姿だった。
以前のあるイベントで、澪はうっかり地下倉庫に閉じ込められてしまったことがある。あのときの澪は、死を覚悟していた。だが結局は、匡介が彼女の不在に気づき、全員に捜させた末、無事見つけてもらえたのだった。
今回も、彼は私がいないことに気づいて助けに来てくれるのだろうか?
しかし、待てど暮らせど、誰も探しには来てくれない。
30分も経つと、まつげには氷の粒が張り付き、意識が遠のきかけていた。
その時、ちょうど氷を補充しに来たスタッフが扉を開け、倒れ込んでいた澪を発見した。
「大丈夫ですか?しっかりしてください!」
意識が朦朧とする中、自分を見つけてくれたスタッフの顔を見て、澪はその真っ白になった唇を何とか開く。「大丈夫です。ありがとうございます」
ふらつく足どりで会場へ戻ると、最前列でゆったりとくつろぐ匡介が目に入った。さらに、莉奈は彼にフルーツを食べさせていて、彼も当たり前のようにそれを受け入れている。
第7話
なんて仲睦まじい光景だろう。
どうやら、あの男は一秒たりとも、自分のことなど思い出していなかったようだ。
すでに捨てたペットが死んだとしても、飼い主にとってはどうでもいいことなのだから。
澪は冷え切った心を抱え、その場を去った。
この一件で、もう一日たりとも続けるのは無理だと痛感した。
だが、自分には1億2000万円もの違約金がある。そこで、澪はこれまで匡介から贈られた高級品をすべてかき集め買取店へ持ち込んだが、結局は合わせても2000万程度にしかならなかった。
店を出て、どうやってこの違約金を解決しようかと悩みながら歩いていると、誰かとぶつかってしまった。
急いで謝り、顔を上げると、そこにいたのは、あの日ホテルで自分を助けてくれたあの中年男性だった。
武司は、澪が出てきた買取店をちらりと見て言った。「何かを売りに来たのか?」
澪は頷く。「はい。少し用立てなくてはならないお金があって」
すると、武司が彼女の肩を叩き、親しげに続けた。「急ぎか?もしかしたら、何か力になれるかもしれない」
武司の距離感に少し戸惑った澪は、首を振った。「いえ、結構ですので。ありがとうございます……」
かつて助けられたとはいえ、赤の他人に1億2000万も借りるほどの勇気はない。そうこうしているうちに、莉奈から戻るようにとの催促の電話が入った。
澪は慌ただしく別れを告げ、その場を離れた。
その場に残された武司は、さっき澪の肩を叩いた自分の手をゆっくりと開く。そこには、一本の長い黒髪がひっそりと残されていた。
……
それからさらに1週間が過ぎた。
夜の7時。すべての雑用を終えた澪は、腰と足の疲れを感じながらアパートへ戻った。
玄関を開けた途端、漂ってくる慣れた匂いに、澪は思わず足を止めた。
ソファの上に、予想通りの人影がある。
澪が顔をしかめながらそばに寄ると、かすかに酒の匂いがした。
酔っているのか?
匡介はだるそうにソファに寄りかかり、その長い足を組んでいた。先ほどまで目を閉じていたが、澪の足音に気付き、ゆっくりと目を開けた。
澪は眉をひそめる。「柊社長、なぜこちらに?」
今日、匡介は商談で酒を飲んでいた。そして、これまでであれば、酒を飲んだ日には澪の部屋へ行き、彼女の作るハニーレモンティーを飲んでから休んでいたので、今晩も、いつもの習慣で運転手にこの住所を指示していたのだった。
しかし、澪の冷たい口調に苛立ち、その手を伸ばして強引に澪を腕の中に引きずり込む。
澪が思わず小さく声を上げた次の瞬間、匡介は彼女の華奢な肩にそっと顎を乗せていた。
この身の程知らずが。急にやめると言ったかと思えば、この俺に手まで上げて、平然としている……少し痛い目を見せて、分からせる必要があるみたいだな。
だが酒に酔っているせいか、匡介は頭が回らず、思わずこう呟いた。「寂しかったか?」
その声は低く、枯れていて妙に艶っぽく、以前の澪ならこれだけで完全に溶けていたはずだった。
だが今の澪は、恋愛そのものに興味を失ったかのようで、匡介にどれだけ迫られても心は微動だにしなかった。
匡介の呼吸が次第に荒くなり、彼女の赤い唇に口づけようとした、その瞬間……澪ははっと我に返り、勢いよく彼の上から立ち上がった。不意を突かれた匡介は、そのままソファへと体を崩すように倒れ込んでしまった。
「私と夜を過ごしたいということですか?それでしたら、料金は1億2000万円なので、前払いでお願いします」
その一言が、匡介の酔いを一気に覚ます。彼は眉を寄せ、露骨に不快感を示した。
「篠原、あまりふざけるなよ」
自分がふざけている、だと?
この数日……この男は、自分がふざけてこんなことをしているとでも思っていたのか?
澪は初めて、自分が愚かなくらい滑稽だと感じた。
真っ直ぐ匡介を見据える。「社長、私は本気で言ってます。柊グループを辞めて、あなたからも離れたいので。
それに、もうあなたのそばには、他の女性がいるじゃないですか。でも、私を離そうとしないのは、私が先に離れていく決意をしたからってだけですよね?」
澪は、彼が今日なぜまたここへ来たのかを考えたくなかった。なぜならこの数日で、匡介が自分に対して、ほんのわずかの情も抱いていないと、はっきりと理解してしまったから。だからこそ、もう二度と振り返ることは許さないと、澪は心に強く決めていたのだ。
匡介の表情が険しくなる。「俺から離れて、その後はどうするんだ?他の男でも探すのか?」
そう自分で言った瞬間、匡介の心に得体の知れない焦燥感が湧いた。
たとえ澪が都合のいい女以上の存在でなくとも、自分以外の誰かが手をつけるのは不快なのだ。
あの日、駿のこともそうだった。自分は少し痛い目を見せてやるつもりなだけだったのに、この女は助けを求めてすらこなかった。
澪は苦笑いを浮かべる。結局、彼の中での自分はそんな程度の認識らしい。
目を赤くした澪は頷いた。「そうかもしれませんし、もしかしたら、本当に私を愛してくれる人を見つけるかもしれません。
これからどうなろうとも、柊社長……私は本気であなたとの関係を切るつもりですから」
本当に愛してくれる人。
その言葉が、匡介の逆鱗に触れた。
怒りに駆られた匡介は、感情のまま澪を怒鳴りつける。「そこまでして関係を切りたいなら、ここにいる理由は何だ?この家だって俺が買ったんだ。出て行け!」
第8話
澪は静かに匡介を見つめる。目には微かに涙が浮かんだが、結局は何も言わなかった。
3年前、ここに越してきた時のことを思い出す。新卒だった澪にとって、人が買った高級マンションでの暮らしは居心地の悪さしかなかった。それでも、当時の匡介は彼女にこう言ってくれたのだ。
「ずっと自分の家がなかったって言ってただろ?澪、これからは、ここがずっとお前の家になるんだ」
それが今や、自分を追い出そうとしている。
心の奥がひりひりと痛み出した。この男は、どうしてこうも正確に自分の急所を突けるのだろうか。
澪はふっと自嘲気味に笑うと、背中を向けて家を出た。
外はすっかり日も暮れていて、さらには小雨が降っていた。
10月も半分終わり、風もかなり冷たい。
薄着のまま街を彷徨っていた澪だったが、この凍えるような寒さでさえ、心の寒さに比べれば何ともなかった。
どれだけ冷たい風に吹かれても、凍りついた心よりはずっとましだ。
どうしても頭に浮かんできてしまうこの3年間の日々に、鼻の奥がツンと熱くなる。
零れ落ちそうな涙をなんとか我慢し、やりきれない寂しさを胸に閉じ込めた。
すると背後で、ずっと付いてきていたロールス・ロイスが不意に加速し、澪の隣に止まった。
車の窓が開き、そこから武司が顔を覗かせる。こめかみのあたりには白髪が数筋混じっているが、全体としてはなお上品で威厳のある佇まいを保っており、穏やかな微笑みを浮かべて澪を見ていた。
「送っていこうか?」
澪は呆気に取られた。まさかまたこの男性に遭遇し、しかも、こんな情けない姿を見せてしまうなんて。
澪が答える前に、武司は運転手にドアを開けるよう指示を出す。
「ありがとうございます」澪は車に乗り込むしかなかった。
そういえば、自分はまだ名前も聞いていない。「あの……お名前をお伺いしてもよろしいですか?私は篠原澪と申します」
武司が澪を見つめて答えた。「黒崎武司だ」
その名前を聞いた瞬間、澪は息を呑んだ。
黒崎武司?
あの大富豪で有名な!?
それ相応の身分の人だとは思っていたが、まさか自分を助けてくれた恩人がこんな大物だったとは……
だが、匡介と同じくらい力のある人間が、なぜここまで何度も自分を助けてくれるのだろう?
まさか、体目当てのわけでは……
今や誰に対しても警戒心を抱いていた澪は、慌てて口を開いた。「あの、黒崎社長。次の交差点で降ろしていただければ結構ですので」
すると、まるで彼女の猜疑心を見透かしたように、武司がふっと微笑んだ。そして、どこか懐かしさを滲ませた眼差しで、澪を見つめると、少し遠くを見つめながらこう呟く。「知ってるかい?お前は亡くなった母親に瓜二つなんだ」
母親?
孤児である澪に母親の記憶などない。それに、急に現れた他人から母親に似ていると言われても困惑するだけだった。
怪訝そうな顔をしている澪に、武司は一枚の書類を差し出した。「どうしてお前の母親の顔を、私が知っているか不思議かい?これから言うことは、少しお前を驚かせるかもしれない。
澪。お前は……私の娘なんだよ」
雷に打たれたかのような衝撃を受けた澪は、ただ呆然と、目の前の男を見つめることしかできなかった。
彼が書類を差し出して言う。「見てほしい」
澪は視線を落として、書類の内容を確認した。それは、紛れもないDNA鑑定の結果だった。
澪と武司のDNA一致率は99%、親子関係であると明記されている。
結果を見て固まっている澪の隣で、武司が続けた。
「お前がまだ1歳の頃かな。ベビーシッターに連れられて外出したお前は、人攫いにあったんだ。それからというもの、母親……つまり、私の妻は、塞ぎ込んでしまってね。数年も経たないうちにこの世を去った。それでも私は、ずっとお前を探し続けてきたんだよ。
ホテルでお前を初めて見た時、妻とそっくりで……それはもう驚いたんだ。あの買取店の前で偶然を装って声をかけたのも、髪の毛を入手して鑑定するためだった。そしたら、期待通りの結果だった。
澪、24年間お前を探し続けた。やっと見つけられて……本当によかったって思ってるよ。
お前が今まで辛い思いをしてきたことは、知ってる。見つけるのが、こんなに遅くなって、本当にすまなかった」
まだこの現実を受け入れていない澪だったが、顔を上げて、一度も会ったことのないこの「父親」と名乗る人を見つめた。
まさか、「家」と呼んでいた場所から追い出された直後、本当の家が見つかるとは。
もともと涙もろいほうではなかったはずなのに、澪の頬を伝うものは絶えなかった。溜め込んできた悲しみや苦しみが、すべて解けていくようだった。
武司は優しく澪の涙を拭い、自らも目を赤くする。「澪、お父さんと一緒に家へ帰ろう」