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ホワイトデーの求婚は、嘘だった
ホワイトデーの前夜。 妊娠五か月の私、夏川綾乃(なつかわ あやの)は、恋人の赤坂直哉(あかさか なおや)から「ちゃんとプロポーズしたい」...
Chương (1)
第1章
ホワイトデーの前夜。
妊娠五か月の私、夏川綾乃(なつかわ あやの)は、恋人の赤坂直哉(あかさか なおや)から「ちゃんとプロポーズしたい」と告げられた。
胸を弾ませて向かったのは、直哉が予約した山あいのペンション。
けれど着いてみると、そこは直哉の初恋の相手、園田結愛(そのだ ゆあ)が新しく始めたキャンプ場だった。
夕食のとき、結愛はきのこのスープを出してきた。
「妊婦さんには栄養があるのよ」
そう笑って、私に勧めた。
それを口にした私は、吐き続けて脱水を起こし、病院へ運ばれた。
顔中に赤い発疹が出て、間近に控えたコスメ発表会は中止。
高額のキャンセル料や違約金まで発生し、私は一気に追い詰められた。
マネージャーの香村美咲(こうむら みさき)は、私の代わりにSNSで結愛のキャンプ場の利用を控えるよう呼びかけてくれた。
それを知った直哉は、激怒した。
「離婚して一人でやり直そうとしている結愛を、そこまで追い詰める必要があるのか」
そう言って、私を責めた。
ホワイトデー当日、直哉は私を車に乗せ、結愛に謝りに行かせると言った。
けれど車が止まったのは、キャンプ場ではなく、山の中腹だった。
直哉は私のバッグとスマホを奪い、ぬかるんだ山道の脇に、私ひとりを置き去りにした。
「ここから歩いて行って、結愛に謝ってこい」
雨はどんどん強くなった。
私はお腹をかばいながら泥道で何度も転び、ズボンの裾は血で染まった。
このまま夜を越せないかもしれない。
そう思ったとき、山道を見回っていた管理人が、私を見つけてくれた。
救急車の中で、直哉から届いたボイスメッセージが再生された。
「放っておけ。どうせ芝居だ。
腹があれだけ大きくなって、今さら別れ話で俺を脅せると思ってるのかよ。
ホワイトデーに少し思い知らせただけだ。自分が結愛より上だなんて勘違いされちゃ困るからな」
私は再生を止めた。
そして、震える手で手術同意書に名前を書いた。
第1話
私の名前は、夏川綾乃(なつかわ あやの)。
ホワイトデーは、本来なら赤坂直哉(あかさか なおや)が私にプロポーズしてくれるはずの日だった。
前の晩、直哉からメッセージが届いていた。
【明日、サプライズを用意してる】
それだけでも胸が高鳴ったのに、続けて届いた一文で、私はすっかり舞い上がってしまった。
【綾乃と赤ちゃんを、ちゃんと家族として迎えたいんだ】
私はスマホを握りしめたまま、しばらく頬が緩みっぱなしだった。わざわざゆったりした白いワンピースを選んだのも、妊娠五か月のお腹を少しでも目立たせないためだ。
この日が、人生でいちばん幸せな一日になる。
そう信じて疑わなかった。
けれど、山に着いた私を待っていたのは、プロポーズではない。
直哉の初恋の相手、園田結愛(そのだ ゆあ)が新しく始めるキャンプ場の、プレオープンだった。
直哉の言うサプライズは、五か月のお腹を抱えた私を連れてきて、結愛のキャンプ場の宣伝役にすること。
夕食の時間になると、結愛がきのこのスープを運んできた。
その顔には、優しい笑みが浮かんでいる。
「綾乃、地元の人にわざわざ聞いたの。これ、妊婦さんにもいいんだって」
私はきのこが苦手だった。
直哉は私の隣に座り、スープを一杯よそって私の前に置いた。
「結愛が午後ずっと準備してたんだ。せっかくなんだから飲めよ」
私は飲んだ。
半分も飲まないうちに、胃の奥が焼けつくように熱くなっていく。
トイレに駆け込んだ私は、喉の奥に血の味が広がるまで吐き続けた。やがて、顔中に赤い発疹まで浮かび始める。
予定していた新作コスメの発表会は中止。
ブランド側からは、代理人弁護士を通じて正式に抗議を受けた。マネージャーの香村美咲(こうむら みさき)は、怒りで声を震わせていた。
「下処理もろくにしていない野生のきのこを妊婦に食べさせるなんて、下手したら命に関わるのよ!」
美咲は、私のSNSで結愛のキャンプ場を名指しし、利用を控えるよう注意を呼びかけてくれた。
その夜。
病室のドアが、勢いよく開いた。
直哉はベッド脇まで来るなり、スマホを私の布団の上へ投げつけた。
私の具合も、お腹の子のことも、直哉はひと言も尋ねない。
「綾乃、これで気が済んだか。
結愛のキャンプ場、ネットで散々叩かれてる。もう営業どころじゃないんだぞ」
喉はまだひりついていて、声がうまく出ない。
「……結愛の出したものを食べたから、こうなった」
直哉は鼻で笑った。
「野生のものだろ。少し合わなかったくらいで、そこまで大ごとにする必要あるか?
結愛は離婚して、やっと立ち直ろうとしてるんだぞ。始めたばかりのキャンプ場まで潰して、何がしたいんだよ」
私は直哉を見た。
七年も一緒にいた相手なのに、その瞬間、ひどく遠い人に思えた。
私は人前に立つ仕事をしている。
顔に発疹が出ることが、どれだけ大きなことか。直哉なら分かっているはずだった。
妊娠してから、体調だってずっと不安定だった。
この発表会のために、半年かけて準備してきた。
それなのに直哉が心配しているのは、私でも、お腹の子でもない。
叩かれている結愛のことだけだった。
ホワイトデー当日、直哉は私に、結愛のところへ謝りに行けと言ってきた。
私は拒んだ。
次の瞬間、身体がふわりと浮く。
直哉に抱え上げられ、そのまま車へ押し込まれた。
乱暴な揺れに、お腹の奥がきゅっと痛む。
「お願い、もう少しゆっくり……」
それでも直哉は、速度を落とさない。
車が山の中腹で止まった瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた。
「直哉、何する気?」
直哉は答えない。シートベルトを外し、助手席側へ回ってドアを開ける。
バッグもスマホも、まとめて奪われた。
「結愛のキャンプ場をめちゃくちゃにしたんだ。
歩いて行け。本人の前で謝ってこい」
思わず自分の耳を疑った。
「私、妊娠五か月なの」
直哉は眉ひとつ動かさない。
「だから途中まで乗せてきてやったんだろ。全部歩かせるよりマシだ。
綾乃、お前、昔はこんな女じゃなかったよな。いつからそんなに性格が悪くなったんだ」
ドアが閉まる音が、山道に響いた。
テールランプはすぐに、木々の向こうへ消えていく。
雨は突然だった。
土の山道はみるみるぬかるみ、踏み出すたびに泥が跳ねる。
私はお腹をかばいながら、一歩ずつ前へ進んだ。
最初に足を滑らせた拍子に、膝を石に打ちつける。
立ち上がろうとして、また滑った。
二度、三度。
泥に手を突いた瞬間、指先に鋭い痛みが走った。爪がめくれているのが分かる。
脚の傷から雨に薄まった血が流れ、ズボンの裾に赤く滲んでいった。
泥の中に倒れ込んだまま、私は直哉の名前を呼んだ。
返事はない。
どれくらい経ったのか分からない。
雨音の向こうから、誰かの声と懐中電灯の光が近づいてきた。
山道を見回っていた管理人だった。
担架に移されたときには、意識はもうほとんど残っていなかった。
救急車の中で、管理人が美咲に電話をかけてくれた。
スマホは、沢のそばの泥の中から拾い上げられた。
画面は割れていたが、まだ電源は入る。
直哉からの音声メッセージが、何件も届いていた。
美咲がひとつ再生する。
「放っておけ。どうせ芝居だ」
直哉の声だった。
「腹があれだけ大きくなって、今さら別れ話で俺を脅せると思ってるのかよ。
ホワイトデーに少し思い知らせただけだ。自分が結愛より上だなんて勘違いされちゃ困るからな」
救急車の中が、しんと静まり返った。
管理人は険しい顔で黙り込み、美咲は目を赤くして私を見た。
「綾乃……」
私は泣かなかった。
ただ手を伸ばし、再生を止めた。
病院に着くと、すぐに検査へ回された。
結果を確認した医師の声は重かった。
「夏川さん、胎児の状態がかなり不安定です」
差し出された検査結果の文字は、うまく頭に入ってこない。
ただ、いちばん下の一文だけが目に焼きついた。
妊娠継続は困難。人工妊娠中絶を要する可能性あり。
胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。
お腹の下のほうに、まだ鈍い痛みが残っていた。少し動くだけで、奥までずんと響く。
「手術をしなかったら、どうなりますか」
医師はすぐには答えなかった。
「胎児の心拍が不安定な状態です。お腹の中で、赤ちゃんがかなり苦しんでいる可能性があります。
食中毒に、強いアレルギー反応、低体温。そこへ転倒の衝撃も加わっています。子宮の収縮も続いていますし、胎盤が一部はがれかけている可能性も否定できません。
このまま妊娠を続けるのは、赤ちゃんにとっても、夏川さんにとっても危険です。最悪の場合、大量出血につながるおそれがあります」
私は手の甲に残った点滴の跡を見つめた。
しばらくして、顔を上げる。
「……同意書にサインします」
医師は静かにうなずいた。
震える手でペンを握る。
指先にうまく力が入らない。
それでも私は、署名欄に名前を書いた。
その瞬間、七年続いた恋も終わった。
署名を終えると、私は弁護士の佐伯宗一郎(さえき そういちろう)に電話をかけた。
「佐伯先生。新居にするはずだったマンションの件、競売の申立てを進めてください」
電話の向こうで、宗一郎が一瞬黙った。
「夏川さん、本当に進めてよろしいんですね?」
「はい」
あのマンションは、登記上は直哉の名義になっている。
けれど頭金は、両親が交通事故で亡くなったあと、私に支払われた賠償金から出したものだった。
それだけではない。
直哉の起業資金として、私はさらにまとまった額を貸している。
借用書には、直哉本人の署名があった。
その担保に、あのマンションも入れてある。
「これがあれば、お前も安心だろ」
その言葉を、私は疑わなかった。
まさか本当に、この書類を使う日が来るとは思っていなかった。
「できるだけ早く、競売にかけてください」
第2話
手術は三日後に決まった。
炎症を抑え、点滴で体の状態を整えてからでなければ、手術はできないと医師に告げられた。
美咲はずっとそばにいてくれた。目は赤く、ほとんど眠っていないのが分かる。
「少し寝て。病院の外のことは、私が何とかするから」
私は首を振った。
「発表会は……?」
美咲は答えなかった。
それだけで、結果は分かった。
そのとき、スマホが震えた。
直哉からだった。
私は出なかった。
けれど、すぐにまた鳴る。三度目の着信で、美咲が代わりに通話をつなぎ、スピーカーにした。
「綾乃、いい加減にしろよ」
直哉の声には、苛立ちがにじんでいた。
私は何も言わない。
「結愛は一晩中泣いてたんだぞ。お前がアレルギーを起こすなんて、本当に知らなかったって言ってる。
今すぐあの投稿を消せ。それから謝罪の動画を上げろ」
美咲は呆れたように笑った。
「赤坂社長。綾乃がどこにいるかも知らずに、よくそんなことが言えますね」
直哉は少し黙った。
「どこって……どうせ、俺が迎えに来るのを待って、どこかに隠れてるだけだろ」
美咲の声から温度が消えた。
「病院です。お腹の子も危ない状態でした」
電話の向こうが、ふっと静かになる。
けれど次に返ってきた声には、心配の色などなかった。
「美咲さん、そうやって大げさに言うのはやめてくれ。綾乃はすぐ子どものことを持ち出す」
私は天井を見つめたまま、妊娠が分かった日のことを思い出していた。
あの日、直哉は私を抱き上げて、嬉しそうに笑った。
「綾乃、俺たち、本当に親になるんだな」
そのときの私は、本気で信じていた。
直哉も、この子を待ち望んでくれているのだと。
けれど今なら分かる。
――人は変わるのだ。
それとも、変わったわけではなく、私には彼の本性が見えていなかっただけなのかもしれない。
結愛が戻ってきて、ようやくそれに気づいただけだった。
電話の向こうから、結愛の声が割り込んできた。
「直哉、もういいよ。綾乃を責めないで。全部、私が悪いの。私なんか、戻ってこなければよかった」
か細い声だった。
まるで、自分こそが一番傷ついているとでも言うように。
直哉はすぐに声をやわらげた。
「結愛のせいじゃない。そんなこと言うな」
けれど、私に向ける声は違った。
「綾乃、聞こえただろ。結愛はここまで言ってくれてるんだ。お前はまだ何が不満なんだよ」
私はかすれた声を絞り出した。
「直哉」
直哉は一瞬、黙った。
「やっと喋る気になったか」
「別れよう」
電話の向こうが、しんと静まり返る。
数秒後、直哉が鼻で笑った。
「またそれか。
綾乃、いい加減大人になれよ。
お腹には俺の子がいる。新居の内装ももうすぐ終わる。ウェディングフォトだって撮っただろ。
今さら別れるなんて言って、俺を試してるつもりか」
私は言い返さなかった。
「佐伯先生の連絡があるはずよ」
直哉の声が、そこで少し低くなった。
「どういうことだ」
「新居にするはずだったマンション、競売にかけることにしたの」
「は?ふざけるな。あれは俺の家だぞ」
私は口元だけで笑った。
「頭金は私が出した。借用書にも、担保の書類にも、あなたのサインがある。
貸した分を、返してもらうだけよ」
電話の向こうで、何かが床に落ちて割れる音がした。
結愛が小さく悲鳴を上げる。
「直哉!」
直哉は押し殺したような声で言った。
「綾乃、いい加減にしろ。金なら払う。家を競売に出すなんてやりすぎだろ」
私は静かに返した。
「やりすぎじゃない。返してもらうだけよ」
電話越しに、直哉が息を詰めたのが分かった。
「俺が本気でお前と別れられないとでも思ってるのか?」
以前なら、その一言だけで胸が潰れそうになっていた。
けれど今は、何も感じない。
私は電話を切り、そのまま着信拒否にした。
美咲が私を見ていた。目はさっきよりも赤くなっている。
「綾乃、やっと目が覚めたのね」
私は答えず、お腹に手を当てた。
かすかな動きが、まだ伝わってくる。
この子は、まだ生きている。
けれど私はもう、この子を守れない。
その夜、直哉が病室に現れた。
片手には病人食。顔色はひどく悪かった。
ドアが開いたとき、私はベッドにもたれて、競売手続きの資料に目を通していた。
私の顔を見るなり、直哉は入口で足を止めた。
「本当に入院してたのか」
私は顔を上げなかった。
直哉はお粥をサイドテーブルに置いた。
「医者に聞いた。子どもはまだ助かる可能性があるって。
簡単に諦めるなんて言うな」
私は小さく笑った。
「どの医者に聞いたの?」
直哉が眉を寄せる。
「どういう意味だ」
私は診療記録を差し出した。
「見て」
直哉は診療記録を受け取った。
ざっと目を走らせた途端、表情がこわばる。けれどすぐに、何も見なかったような顔でテーブルへ戻した。
「医者は大げさに言うんだよ。少し休めば落ち着く」
私は直哉を見た。
「あの山で私が死んでたら、どうするつもりだったの?」
直哉は一瞬、言葉に詰まった。
「あんな雨になるとは思ってなかった。ただ、少し頭を冷やしてほしかっただけだ。
俺だって、そこまでひどいことをするつもりはなかった」
胸の奥が、すっと冷えた。
山道が危ないことも、私が妊娠していることも、直哉は分かっていた。
それでも、私は死なないと思ったのだ。
本気で離れていくはずがないと思ったのだ。
目を覚ましたら、また子供のことを思って自分を許す。
直哉はそう決めつけていた。
直哉はベッドの端に腰を下ろし、私の頬へ手を伸ばした。
私は顔を背けた。
触れる前に、その手が止まる。
「綾乃、もうやめよう。これからは結愛に会わせない。
退院したら、籍を入れよう」
私は聞いた。
「じゃあ、あの投稿は?」
直哉は一瞬黙った。
「消せ」
私は彼を見た。
直哉は、私の目を見なかった。
「結愛のキャンプ場は始まったばかりなんだ。あんな投稿を残されたら、客が来なくなる。
お前は顔が知られてるだろ。謝れば、ネットなんてすぐ別の話題に流れる」
私は笑った。
「そう。私が毒を盛られて流産しかけたことも。
あなたに山へ置き去りにされたことも、謝れば済む話なの?」
直哉は顔をしかめた。
「そういう言い方をするな。誰も毒なんか盛ってない。俺だって、お前を傷つけるつもりはなかった」
私はテーブルの上のお粥を、容器ごと床に押し落とした。
熱い中身がこぼれ、床に広がる。
直哉が勢いよく立ち上がった。
「綾乃!」
私は顔を上げ、彼を見た。
「出ていって」
七年一緒にいて、私が直哉にそんな言い方をしたのは初めてだった。
直哉は言葉を失った。
私はナースコールを押した。すぐに看護師が入ってくる。
「警備の方を呼んでいただけますか」
直哉の表情がみるみる険しくなった。
「本気でそこまでするのか」
私はもう、彼を見なかった。
警備の人に退室を促されると、直哉は入口で足を止め、低い声で言った。
「綾乃、お前は必ず後悔する」
私は目を閉じた。
後悔なら、もうしている。
あなたを愛してしまったことを。
第3話
翌日、新居にするはずだったマンションが、競売物件として掲載された。
それから直哉からの電話は、朝から夜までかかってきた。ひとつ着信拒否にすれば、すぐに別の番号。最後には、結愛の番号からメッセージが届いた。
【綾乃、怒ってるのは分かるよ。でも、あの家は直哉にとって大事なものなの。そこまでするのは、さすがにひどいよ】
その文面を見て、思わず笑いそうになった。
美咲がスマホを取る。
「言い返していい?」
私は首を振った。
「必要ない」
ほどなくして、今度は結愛から音声が届いた。
流れてきたのは、甘ったるいほどやわらかい声だった。
「綾乃、本当に傷つけるつもりなんてなかったの。
あのスープ、私も飲んだの。私は何ともなかったから、そんなに大変なことになるなんて思わなくて。
綾乃が私を憎むなら、私は引くよ。でも、直哉まで追い詰めないで」
私は音声を保存し、そのまま宗一郎へ転送した。
【これも証拠に入れてください】
美咲が親指を立てた。
「いい判断」
私はかすかに口元を緩めた。
けれど次の瞬間、お腹の奥がぎゅっと痛む。
体が勝手に丸まり、冷たい汗がにじみ出た。
看護師が駆けつけ、私はそのまま検査へ回された。
結果を確認した医師は、厳しい表情で口を開いた。
「これ以上は待てません。遅れるほど、大量出血の危険が高くなります」
診察室の椅子に座ったまま、私は冷えきった手を握りしめた。
「今日、できますか」
医師が私を見た。
「本当に今日でいいんですね?」
私はうなずいた。
「はい」
手術の前に、同意書と緊急連絡先の確認が必要になった。
同意書には、私自身が署名すればいい。
ただ、術後の説明や万が一の連絡のために、家族か、それに代わる人を一人立ててほしいと病院側は言った。
両親はとっくに亡くなっている。
祖父母も、もういない。
この数年、私は直哉を家族のように思ってきた。
けれど今、その欄に直哉の名前を書くことはできなかった。
「私ではだめですか」
美咲が言った。
医師は少し困ったように答えた。
「付き添いはしていただけます。ただ、今回の手術はリスクがありますので、緊急時に連絡が取れて、ご本人との関係を確認できる方にも説明を受けていただきたいんです」
美咲は黙った。
私はペンを握った。
手が震えて、うまく力が入らない。
そのとき、廊下のほうから男の声がした。
「俺が同席します」
顔を上げた瞬間、息が止まりかけた。
黒いコート姿の男が、入口に立っていた。
手には書類を持っている。
「……怜司?」
彼は私の前まで来ると、少しだけ表情を和らげた。
「久しぶりだな、綾乃」
黒江怜司(くろえ れいじ)は、母の親友の息子だ。
子どもの頃、彼はうちの隣に住んでいた。
両親が事故で亡くなったあと、葬儀を手伝ってくれたのは怜司の母だった。
その後、黒江家は海外へ移り、私たちの連絡は途絶えた。
まさか、こんな形で再会するとは思わなかった。
美咲が声を落とす。
「綾乃の……?」
怜司は医師に書類を差し出した。
「親族ではありません。ただ、昔から家同士の付き合いがあって、母が綾乃の緊急連絡先になっていました。
今は、その連絡先を俺が引き継いでいます。確認書類と委任状もあります」
怜司は一度、私を見た。
「手術の説明には、俺も同席します」
医師は書類を確認し、ようやくうなずいた。
「分かりました」
怜司はペンを取った。
「綾乃、本当にいいんだな?」
「うん」
怜司は何も言わずに、名前を書いた。
「分かった。そばにいる」
その一言で、こらえていたものが込み上げた。
直哉も、妊婦健診についてきてくれたことはある。
けれど診察室でも、彼はいつも結愛にメッセージを返していた。
医師に「心拍は正常です」と言われたとき、私は泣きそうなくらい嬉しかった。
それなのに直哉は、スマホから目を離さないまま言った。
「結愛、胃が痛いらしい。ちょっと行ってくる」
何度も愛していると言われるより、今の私には、ただそばにいると言ってくれる一言のほうがずっと重かった。
手術室へ向かう直前、直哉が病院に駆け込んできた。
どこで聞きつけたのか、顔から血の気が引いている。
「綾乃!」
直哉は看護師を押しのけるようにして、私のストレッチャーをつかんだ。
「そんなこと、させない」
私は彼を見た。
「離して」
直哉の目は赤かった。
「俺の子だろ。お前ひとりで勝手に決めるなよ」
私は笑った。
「私を山に置いていったとき、この子のことは考えなかったの?」
直哉は言葉に詰まった。
「だから、わざとじゃないって言ってるだろ。こんなことになるなんて思わなかったんだ」
私は直哉を見た。
「あなたって、いつもそう。
何が起きても、そんなつもりじゃなかった、で終わらせる。
私が本気で離れるなんて、思ってもみなかったんでしょう」
直哉は、何も言い返せなかった。
怜司が前に出て、直哉の手をストレッチャーから引きはがした。
「離せ」
直哉が怜司をにらむ。
「お前、誰だよ」
怜司はまっすぐ直哉を見返した。
「綾乃の付き添いだ」
直哉は馬鹿にしたように笑った。
「付き添い?俺は綾乃の恋人で、この子の父親だぞ」
怜司は一歩も退かなかった。
「今さら名乗る資格があるとは思えない」
直哉の表情が怒りに変わる。
「綾乃、お前、こいつのために子どもを堕ろすのか?」
私は静かに息を吐いた。
こんなときまで、直哉は私を責める理由を探している。
自分のせいだとは、絶対に認めない。
私が離れていくのも、別の男のせいにする。
私は看護師を見た。
「中へお願いします」
それでも直哉は、まだストレッチャーに手を伸ばそうとした。
次の瞬間、怜司の拳が直哉のみぞおちに入った。
直哉は痛みに体を折る。
怜司はストレッチャーの前に立ち、低い声で言った。
「もう一度触れたら、ただじゃ済まない」
手術室の扉が、ゆっくり閉まっていく。
最後に見えた直哉は、廊下に立ち尽くしていた。
その顔には、初めてはっきりと焦りが浮かんでいた。
でも、もう遅い。