偽りの仮面を捨て、私らしく咲く

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偽りの仮面を捨て、私らしく咲く

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「彩葉、お久しぶり。身代わりサービスを終了したい。一ヶ月以内に、光希の目の前から綺麗さっぱり消えてちょうだい」 長谷川彩葉(はせがわ ...

Chương (1)

第1章

「彩葉、お久しぶり。身代わりサービスを終了したい。一ヶ月以内に、光希の目の前から綺麗さっぱり消えてちょうだい」 長谷川彩葉(はせがわ いろは)が身代わりを務めて七年目、ついに雇用主である神崎美月(かんざき みづき)が帰国した。 折しもその日、結城光希(ゆうき こうき)は彩葉の前に片膝をつき、プロポーズをしてきたのだ。 血の通った人間である以上、七年もの歳月を共に過ごしてきて、どうして惹かれずにいられようか。 彩葉は莫大な違約金のことすら忘れ、思わず一歩を踏み出した。だがその矢先、プロポーズの場に突然、美月からの着信音が鳴り響いた。 「光希、帰国したわ」 次の瞬間、光希は弾かれたように立ち上がり、血相を変えて空港へと走り去ってしまった。 地面に転がり落ちた、まばゆいダイヤの指輪。彩葉が拾い上げると、そこにはイニシャルが刻まれていた。 他でもない、雇用主である美月のイニシャルだ。 彩葉は自嘲の笑みを漏らした。所詮、身代わりはいつまで経っても身代わりでしかないのだ。 本物が帰ってきた以上、身代わりの自分は当然ながら徹底的に消えるべきなのだ。 第1話 「彩葉、お久しぶり。美月よ。帰国することになったから、身代わりサービスを終了したい。契約上、サービス期間が五年を超える場合は、身代わりに一ヶ月の引き継ぎ期間が設けられるんだったわよね?」 長谷川彩葉(はせがわ いろは)は一瞬、呆然と立ち尽くした。自分と瓜二つのこの声を耳にするのは、実に七年ぶりのことだった。 七年前、神崎美月(かんざき みづき)は身代わり専門の事務所を訪れ、そこにいた女性たち全員に「光希」という名前を呼ばせた。 彩葉が声を発した瞬間、美月はその場で彼女を身代わりに即決した。サービス期間は、美月自身が帰国する、あるいは結婚するその日までと定められた。 それからの一週間、彩葉は美月に付きっきりで、彼女のファッションセンスや生活習慣など、すべてを徹底的に叩き込まれた。 「そうそう、私の誕生日は七月二十日なの。覚えておいて、これからはあなたの誕生日もこの日になるわ」 契約上、身代わりはありとあらゆる面で雇用主と完全に一致させなければならないのだ。 訓練を終え、ふとした仕草や佇まいに自分の影を宿らせた彩葉を見て、美月は満足げに頷いた。結城光希(ゆうき こうき)のそばに自分を連想させる存在を置いておけば、どれほど年月が流れようとも、彼が自分を忘れることなどあり得ないからだ。 そうして彼女は、別の男のためにあっさりと海外へと飛び立っていった。 「彩葉?ねえ、聞いてる?」 電話越しに返事が得られず、美月の戸惑う声にはわずかな苛立ちが混じっていた。 彩葉は気持ちを落ち着かせ、久しく使っていなかった恭しい口調でこう言った。 「はい、神崎さん。サービス期間が長期に及んだため、後々神崎さんの生活に悪影響を及ぼさないよう、私どもが立ち去るための準備期間がどうしても必要になります」 「分かった。この七年間ご苦労様。一ヶ月後、彼の目の前からきれいに消え去ってちょうだい」 通話が切れ、彩葉の茶色の瞳から、わけもなく涙がこぼれ落ちた。 きれいに消え去る、か。 「彩葉、お前……また辛くて泣いてるのか?」 不意に光希が部屋に入ってきた。彼は困ったように笑いながら、手慣れた動作でティッシュを手に取ると、彼女の涙を拭った。その口調は、心底痛ましそうだった。 「お前はいつもこうだ。辛いものが苦手なくせに、どうしてそんなに強がるんだ?」 このセリフを、彼はこれまで幾度となく口にしてきた。 彩葉はそのたびに、「ただ好きだから」と笑って誤魔化すだけだった。 実のところ、彼女は幼い頃から胃が弱く、辛いものなど一切受け付けないし、好きでもなんでもなかった。 しかし、美月が無類の激辛好きであったがゆえに、彼女自身も辛いものを好まなければならなかったのだ。 それでも七年が経った今も、彩葉の辛味への耐性が上がることはついになかった。 光希は彩葉に牛乳を差し出し、彼女がそれを飲み干すのを見届けてから、ようやく眉間のしわを緩めた。 「彩葉、お前を連れて行きたい場所があるんだ」 車に乗り込むと、光希は彼女のためにシートベルトを締めてくれた。薄暗い車内灯に照らされた彼の瞳は、あふれんばかりの情愛が宿っている。 彼は笑って、彼女の鼻先を軽くつついた。 「辛すぎて頭が回ってないのか?なんだか上の空だな。これからは辛いもの禁止だ。お前が胃を痛めるたびに、俺は心配で気が気じゃないんだから」 彩葉が頷くと、光希は嬉しそうに彼女の頬へキスを落とした。 車は高速道路を滑るように走っていく。 彩葉はたまらず、運転席に座る光希の横顔へと視線を向けた。完璧に近いその横顔は、目を逸らすのが惜しいほどに美しかった。 この顔を、自分はもう七年もの間見つめ続けてきた。 初めて光希に近づいたのは、美月が手配したパーティーでのことだった。 彩葉は会場の隅で泥酔している彼を一目で見つけ出し、美月の口調をそっくり真似て呼びかけた。 「光希、もう飲まないで」 聞き慣れたその声に、光希は勢いよく顔を上げると、彩葉を腕の中に強く抱き寄せた。そして、ひどく酔った声でうわ言のように呟いた。 「美月、行かなかったんだな……俺から離れたりしないって分かってたよ。お前は永遠に俺から離れない、そうだろ?」 「ええ、私はあなたから離れないわ」 第2話 ところが、彩葉がそう口にした途端、光希は彼女を激しく突き飛ばした。「失せろ!お前は彼女じゃない!」 それ以来、彩葉は毎日光希の前に姿を現すようになった。 朝は会社の入り口で朝食を差し入れ、深夜に彼がやけ酒をあおっている時は酒瓶を奪い取り、時には邸宅の前に現れて着替えを届けた。 だが、光希は終始冷徹な態度で、ボディガードに命じて彼女の行く手を阻ませた。彩葉には、彼に一歩近づくことさえ許されなかった。 ただ、彼女の声を聞くたびに、彼の険しい表情がわずかに和らぐのだった。 そんな日々が丸一ヶ月続いた後、彩葉は忽然と姿を消した。 これは美月が授けた策だった。いわゆる、駆け引きだ。 この作戦は見事に功を奏した。 一週間後、光希は人を遣って街中をくまなく捜索させ、彩葉は彼が再び酒に酔い潰れている時に、静かに姿を現した。 今回、酔った光希は彼女を突き飛ばさなかった。ただ氷のような冷徹な声で、この数日間どこへ行っていたのか、なぜ急に姿を消したのかと問い詰めた。 彩葉が答える前に、光希はソファに倒れ込み、うわ言のように呟いた。 「俺の名前を呼んでくれ……呼んでくれ……」 「光希、光希……」 彩葉は夜通し彼の名前を呼び続けた。光希の険しい眉間のしわがようやくほどけ、彼がその腕の中で安らかな寝息を立てるまで。 翌日、光希は彩葉にいくら欲しいのかと尋ねた。これまで彼に近づいてきた女は、例外なく金が目当てだったからだ。 彩葉は首を横に振った。「私はただ、あなたのそばにいたいだけ」 金なら、すでに美月が支払ってくれているのだから。 光希がその理由を問うと、彩葉は慣れた様子で嘘をついた。「あなたのことが好きだから」 おそらく彼はその言葉を信じたのだろう。それ以来、彩葉は七年という歳月を、彼の隣で過ごすことになった。 しかし今、自分はどうやって彼のもとを去ればいいのだろうか? 自分が去ることで、光希はあの夜のように泥酔してしまうのだろうか? 彩葉は最も優秀な身代わりであり、本来ならこんなことを考えるべきではなかった。 それでも、いざ別れを目前にすると、彼女の心は千々に乱れ、胸の奥には言いようのない悲しみが込み上げてくる。 彩葉はスマートフォンを取り出し、七年前にサインした契約書を見返した。 【違約金――十億円】 とても払える額ではない。 車が郊外で停まると、光希は一枚のスカーフを取り出し、彼女の目を覆った。 「彩葉、サプライズだよ」 視界が暗闇に包まれ、彩葉は彼に手を引かれるままに歩き出した。掌から伝わる彼の体温に、彼女はわけもなく、繋いだ手に少し力を込めた。 「着いたよ」 スカーフが外されると、燃えるような真紅のバラの花畑が、彩葉の視界へ飛び込んできた。 光希は彼女の手を引き、花畑の中央まで歩いて立ち止まった。彼は振り返り、深い愛情を湛えた瞳で彼女を見つめた。その漆黒の瞳には、彼女の姿だけが映っている。 突然、耳元でからかいの声が響いた。 「へえ、これが噂の彼女さん?」 「すごく美人じゃないか!光希が七年も隠していたのも頷けるな。俺たちに見せるのが惜しかったってわけだ!」 「信じられないな。光希が本当に彼女に本気になっちゃうなんてな」 「この彼女、美月とは全然似てないな。当時、光希があんなに死ぬほど取り乱してたのに、ある日を境に憑き物が落ちたみたいに大人しくなったからさ。てっきり、美月と瓜二つの女でも見つけて、身代わりにしてるんだとばかり思ってたよ……」 その言葉は周囲の囃し立てる声にかき消されたが、彩葉の耳にははっきりと届いていた。 ――身代わり? 周囲に突然現れた友人たちの姿を見て、彩葉はハッとして我に返り、慌てて手で顔を隠して背を向け、その場を立ち去ろうとした。 契約によれば、身代わりはサービス対象者と共に公の場に出ることは許されていない。当然、彼の友人たちの前に姿を見せることも絶対的なタブーだ。 彼女は一生、彼の背後に隠れ、陽の当たらない場所で影として生きなければならない存在なのだ。 だが、光希の手が彼女の腕を引き止めた。 「彩葉、もう隠れなくていい。頼むから、俺の友人たちにお前を紹介させてくれないか?」 第3話 光希の手がそっと離れると、少し離れた場所にあるスクリーンが突然、光を放った。 そこに次々と映し出されたのは、この数年間で撮られた二人の甘い写真の数々だった。 目の前にいる光希が、不意に片膝をつく。そして手品のように、その手にはダイヤモンドの指輪が現れた。 春の風のように優しく、甘い声が、彩葉の心を激しく揺さぶる。 「彩葉、この七年間、俺のそばにいてくれてありがとう。これからの人生も、ずっとお前と一緒に歩んでいきたい。 彩葉、俺と結婚してくれないか?」 彩葉は目を丸くし、信じられない思いで彼の愛情に満ちた瞳を見つめ返した。頭の中が真っ白になる。 嘘でしょう? まさか光希は、身代わりでしかない私を本当に愛してくれたというの? 身代わりの分際で、あろうことかサービスの対象である彼からプロポーズされるなんて。 そもそも、このプロポーズは本来、私に向けられたものではない。私が受け入れる資格なんてあるはずがないのに。 「結婚しろ!結婚しろ!」 光希の友人たちの歓声と手拍子が次第に大きくなっていく。彩葉はどうしていいか分からず、逃げ出したいのに足がすくんで動けなかった。 心臓がかつてないほどの早鐘を打っている。 「彩葉、急すぎて驚かせちゃったか?」 光希は彼女の動揺を察し、片膝をついた姿勢のまま優しく語りかけた。その瞳からは、今にもあふれ出しそうなほどの情愛が滲んでいる。 彩葉の脳裏に、この七年間の記憶が走馬灯のように駆け巡った。 スカートの裾を固く握りしめる彼女の両目には、涙があふれている。 血の通った人間である以上、たとえ身代わりであっても心はあるのだ。 七年という月日を朝から晩まで共に過ごし、幾度となく光希の名前を呼ぶうちに、彼女自身も気づかないまま、その声の響きは美月に教え込まれたものではなくなっていた。 そこには、彼女自身の誰にも言えない秘密の想いが込められていた。 今の彼女と光希は、どこからどう見ても心から愛し合う本物の恋人同士そのものだった。 片膝をつく彼を見つめながら、彩葉はふと思った。十億円の違約金も、今の自分にはそれほど高く感じない、と。 もしかしたら、もう身代わりを辞められるのかもしれない。 彩葉の口元に微かな笑みが浮かび、目の前の男に向かって一歩を踏み出した。 周囲の友人たちはさらにヒートアップして歓声を上げる。 だが、彼女が返事をしようと口を開きかけたその時、流れていた甘くロマンチックな音楽を切り裂くように、着信音が鳴り響いた。 大型スクリーンには、着信相手の名前が表示された。【美月】 光希の瞳が激しく揺れ、彼は無意識のうちに通話ボタンを押してしまった。花畑に、心地よい女の声が響き渡る。 「光希、私、帰ってきたわ」 その一言は爆弾となって、光希の心に凄まじい衝撃の嵐を巻き起こした。 次の瞬間、彼は血走った目で弾かれたように立ち上がると、脇目も振らずに花畑から走り去ってしまった。 その場は水を打ったように静まり返った。光希の友人たちは互いに顔を見合わせ、彩葉を慰めようとするものの、誰一人として言葉が見つからない。彼らは皆、あの声の主が誰であるかを知っているのだ。ただ哀れむような視線を彩葉に向けるしかなかった。 指輪が地面に落ち、彩葉の足元まで転がってきた。 彩葉がしゃがみ込み、泥のついた指輪を拾い上げると、陽光がそこに刻まれたイニシャルを照らし出した。 【K.M】 神崎美月。 心臓を乱暴に鷲掴みにされたような激しい痛みに襲われ、息もできないほどだった。彼女は胸を押さえ込み、こぼれ落ちた涙は、そのまま土へと吸い込まれていった。 やはり、身代わりは永遠に身代わりでしかないのだ。 彩葉の口元に、自嘲の笑みが浮かんだ。自分はあろうことか、光希が愛してくれていると錯覚し、ほんの一瞬でも彼の妻になって、この先もずっとそばにいたいと願ってしまった。 今の自分はまるで、身の程知らずの滑稽なピエロだ。 思えば七年前、光希は美月のために胃出血を起こすまで酒をあおり、それでもなお彼女の名前をうわ言のように呼んでいた。 数え切れないほどの深夜、光希が寝言で漏らすのはいつも同じ名前――美月だった。 美月がかつて身に着けていたネックレス一つを取り返すためだけに、彼は拉致犯に地面に踏みつけられ屈辱を味わっても、決してその手を離そうとはしなかった。 どうして自分は、そんな数々の事実をすっかり忘れてしまっていたのだろう。 第4話 邸宅に戻った彩葉は、隣にある枕を見つめ、わけもなく肌寒さを覚えた。 スマホに新しいメッセージは一件も入っていない。 彩葉は自嘲気味に笑った。今の光希が、彼女のことなど気にかけるはずがないのだ。 予想通り、光希は一晩中帰ってこなかった。 下腹部を襲った突然の激痛に、彩葉は目を覚ました。 もともと体質が弱い彼女にとって、毎月の生理は身を削るような苦しみだった。這うようにしてベッドを降り、鎮痛剤とカイロを探す。 それらは光希が小さな救急箱にまとめ、彼女のためにいつでも使えるように準備してくれていたものだ。 しかし、部屋中をいくら探してもその箱は見つからない。彩葉が力なくベッドの縁に寄りかかっていた。ちょうどその時、玄関のドアが開く音がした。 「彩葉、ちょっと相談したいことがあるんだ」 慌ただしい足取りで入ってきた光希は、彼女の前にしゃがみ込んだ。その表情には、明らかな躊躇いが浮かんでいる。 「ある友達が家に遊びに来たいって言ってるんだけど……」 彩葉の青白い顔色に気づき、彼は手を伸ばして彼女の額に浮かんだ冷や汗を優しく拭った。 「ひどい顔色だ。疲れが溜まってるんじゃないか?今日はリゾートホテルにでも行って、ゆっくりしてきたらどうだ?後で迎えに行くから」 光希は昨夜のプロポーズのことなど、まるで記憶から消し去ってしまったかのようだった。あの場に彼女を一人置き去りにしたことについても、釈明の言葉一つない。 枕元のスマホが震えた。彩葉は下腹部を押さえていた手を離し、メッセージを開く。美月からだった。 【彩葉、後で邸宅へ行くわ。引き継ぎがあるから残っていてちょうだい。ついでに、私と光希の仲が以前のように深まるよう、うまく後押ししてね】 雇用主からの要求は絶対だ。拒否する権利などない。 彩葉は顔を上げ、血の気の引いた顔に無理やり笑みを浮かべた。そして単刀直入に言った。 「神崎さんが来るんでしょう?彼女の好きな料理なら全部作れるから、私が食事の準備をするわ。安心して。私たちの関係は絶対に口外しないから」 そのあまりにも聞き分けの良い態度に、光希はなぜか胸の奥がチクリと痛んだ。一瞬ためらった後、彼は彩葉の頭を優しく撫でた。 「……分かった。じゃあ、彩葉、よろしく頼むよ」 キッチンの流し台で冷たい水に触れると、彩葉の下腹部に走る痛みはいっそう激しさを増した。あまりの激痛に、彼女は耐えかねて腰を折り曲げる。 そこへ、ハイヒールの甲高い足音がキッチンの入り口で止まった。背後から、美月の愉しげな声が響く。 「この数年、よくやってくれたわ。部屋のインテリアも私の好みにぴったりだし、服のセンスもメイクも私そっくり。大満足よ。この一ヶ月間は、私のサポートをよろしくね。あなたが綺麗さっぱり消え去ってくれたら、特別ボーナスを弾んであげる」 彩葉が口を開きかけたその時、突然割り込んできた男の声がそれを遮った。 「綺麗さっぱり消え去るって……誰が消えるって?」 瞬間、美月の瞳にみるみる涙が溜まり、今にもこぼれ落ちそうになった。彼女は振り返ると、逃げ出すようにその場を立ち去ろうとする。 「私……私が悪かった。私がここに来て、二人の邪魔をするべきじゃなかった。安心して。私、すぐに消えるから。あなたたちの前から、綺麗さっぱり消え去るわ……」 「消える」という言葉を聞いた途端、光希の顔色からサッと血の気が引いた。彼は慌てて手を伸ばし、美月をその腕の中にきつく抱きしめる。その声は微かに震えていた。 「駄目だ、行かないでくれ。美月、お願いだからもう二度と俺の前から消えないって約束してくれ……」 美月は彼の胸にすり寄り、恥じらうように甘く答えた。「……ええ」 その確約を得てようやく、光希は彼女を腕から放した。そして振り返ると、その場に立ち尽くしている彩葉に氷のような冷たい視線を向けた。 「今日はお前がいなくてもいいと言ったのに、お前がどうしても残って美月の食事を作ると言い張ったんじゃないか。それなのに、どうして美月を傷つけるようなことを言うんだ。嫌なら今すぐ出て行け。綺麗さっぱり消え去るべきなのは、お前の方だ」 光希が美月を大事そうに抱き寄せながら部屋を出て行くのを、彩葉はただ黙って見送ることしかできなかった。彼を呼び止める言葉は出ない。 身代わりは、雇用主の芝居に絶対に従わなければならないのだ。 彩葉の心臓は、鋭い刃物で深くえぐられたように激しく痛んだ。追い打ちをかけるような下腹部の激痛に、彼女は立っていることもままならず、流し台に倒れ込むように寄りかかった。 彼の言う通りだわ。綺麗さっぱり消え去るべきなのは、最初から私の方だったのね。 七年間、ただの身代わりでしかなかった、この私なのだから。 第5話 結局、美月が口を開き、彩葉をその場に引き留めた。 すべての料理を作り終える頃には、彩葉の顔色はすっかり土気色になっていた。彼女は残されたわずかな気力を振り絞り、最後の一品である激辛の牛肉煮込みをキッチンから運び出した。 「あっ!」彩葉が料理をテーブルに置こうとしたその瞬間、不意に誰かが彼女の肘に強くぶつかってきた。手に持っていた皿が傾き、煮えたぎる熱油が今にも彼女に降り注ごうとする。 危機一髪のその時、光希は咄嗟に美月を引き寄せ、自分の腕の中にすっぽりと庇った。その結果、熱油は、彩葉の腕へと容赦なく降り注いだ。 焼けるような激痛に、彩葉はたまらず床に崩れ落ちた。脂汗がどっと吹き出し、背中をぐっしょりと濡らす。 痛みに顔を歪めながら、助けを求めて顔を上げた。だが彼女の目に映ったのは、美月を抱きかかえ、血相を変えて病院へと走り去っていく光希の後ろ姿だった。 彩葉はただ一人取り残され、激痛に耐えながら震える手でスマホを探り当て、自分で救急車を呼ぶしかなかった。 「一体どうしてこんな怪我を……腕全体が重度の火傷ですよ。お薬を塗りますから、少し痛みますが我慢してくださいね」 医師は慎重に薬を塗りながら、やるせないため息をついた。 「痛ければ声を上げてもいいですからね、相当な痛みのはずですから……実はさっきも、あなたと同じくらいの年格好の女の子が運ばれてきたんですが、薬を塗る間ずっと叫び通しでしてね。 付き添いの彼氏さんがまた、この世の終わりかというほど彼女を心配して、傷口にずっとフーフー息を吹きかけては私に『もっと優しくしてやってくれ』と何度も注文をつけてくるんですよ。爪の先ほどの小さな火傷を処置するだけで、なんと三十分もかかってしまいました」 医師は首を振り、申し訳なさそうに言葉を続けた。 「そのせいで処置が遅れてしまって、本当に申し訳ございません。もう少し早く手当てができていれば、もっとマシな状況だったかもしれないんですが……これでは、痕が残ってしまうかもしれません」 彩葉は痛みを堪え、医師を安心させるように力なく微笑みを返した。 その時、スマホが震え、光希からのメッセージが画面にポップアップした。 【どこにいる?なぜ電話に出ない? お前のせいで美月が怪我をした。今すぐ病院に来て彼女に謝れ!】 「動いちゃいけません!今、お薬を塗っている最中なんですから。一体どんな大事な連絡なんです、今すぐ返さなきゃいけないものなんですか?」 医師が彼女の腕を軽く押さえて手当てを続ける中、彩葉の瞳にはじわりと涙が溜まっていた。腕の火傷よりも、突然、心臓が焼け焦げるように痛んだのだ。 暗くなった画面が再び点灯した。今度は、美月からのメッセージだった。 【彩葉、今すぐ私の病室に来て。私の一芝居に付き合ってちょうだい】 手当てを終えた彩葉は、三十分ほど待合室で痛みが引くのを待ち、そっと長袖を下ろして火傷を隠すと、美月の病室へと足を踏み入れた。 彩葉の姿を認めた途端、美月に向けられていた光希の甘く穏やかな眼差しから一瞬で温度が消え、不機嫌そうに言った。 「ようやく来たか。さっさと美月に謝れ。彼女はお前のせいで怪我をしたんだ」 彩葉が口を開くよりも早く、美月が光希の服の袖を掴み、いかにもか弱そうな声を出した。 「いいのよ、彩葉のせいじゃない。彼女だってわざとじゃないもの。それに、私のために美味しいお料理をたくさん作ってくれたんだから、むしろお礼を言わなきゃいけないくらいよ」 光希は愛おしげな視線を美月に向け、甘やかすように彼女の鼻先を指でちょんと突いた。 「美月、お前は昔と変わらず本当に優しいな。いつも自分のことより他人の心配ばかりして」 二人の睦まじい様子をこれ以上直視するに堪えず、彩葉は美月からの指示を思い出し、淡々と口を開いた。 「申し訳ありません、神崎さん。すべて私があなたに怪我をさせてしまったせいです。本当に申し訳ありません」 美月の顔に笑みが浮かぶのを見て、光希の機嫌もわずかに和らいだようだった。彼は邪魔者を追い払うように手を振った。 「美月が許してくれたんだ、もういい。お前は自分でタクシーを拾って帰れ」 その間、彼の視線が彩葉に留まったのは、三秒にも満たなかった。 以前の光希なら、彩葉の手の甲にほんの小さな擦り傷ができただけで瞬時に気づき、無理やりにでも消毒して薬を塗ろうとした。彩葉はその度に、「大げさすぎるわ」と笑っていた。 だが今は、彼女の腕の半分を覆うような酷い火傷が、彼には全く見えていない。 ――ああ、そうか。関心を失うということは、その人の存在そのものが、もう目に入らなくなってしまうということなのね。 第6話 邸宅に戻った彩葉は、自分の荷物の整理を始めた。この数年で光希から贈られたジュエリーやバッグなどをすべてかき集め、買取業者に連絡して現金に換え、銀行口座に入金した。 あの泥の中から拾い上げたプロポーズのダイヤの指輪だけは、売らなかった。そこに刻まれているのは、自分の名前ではなかったからだ。 自分のものではないのだ。ケースに入れて書斎の机に置いた。 元の持ち主に返すつもりだった。 すべての私物を片付け終えても、光希は依然として帰ってこなかった。 あと一週間。一週間後には、彼の前から消え去るのだ。 彩葉がスマホを取り出し、ここを発つための航空券を予約しようとした矢先、美月からのメッセージがポップアップした。 【彩葉、出発の手配は私がするわ。 それより今、私のSNSの投稿に『いいね』を押してちょうだい】 美月が投稿したのは、数えきれないほどの写真だった。 そのすべてが、彼女と光希のツーショットだ。 どの写真の光希も、見たこともないような満面の笑みを浮かべ、その瞳は愛情と喜びに満ち溢れていた。 そうか、彼もあんな風に、心から楽しそうに笑うのね…… 七年間を共に過ごしてきて、光希がこれほど感情を露わにする姿を見たのは初めてだった。普段の彼はいつも淡々としていて、笑う時でさえ静かな微笑みにすぎなかった。 彩葉が「もっと口を開けて思い切り笑ってよ」とせがむたび、彼は「子供の頃からこういう笑い方しかできないんだ」と答えていた。 笑えなかったわけではない。ただ、自分と一緒にいるとき笑いたくないだけだったのだ。 彩葉は美月の要求通り、無言で「いいね」を押した。スマホを置いた途端、画面が点灯し、光希からのメッセージが届いた。 【どうして美月の連絡先を知っている?彼女に何を言った?】 【お前、SNSなんて見ないはずだろ。どうして『いいね』なんて押したんだ?】 【彩葉、言いたいことがあるなら俺に言え。美月を困らせるな】 彩葉の口元に自嘲的な笑みが浮かんだ。どうやら自分は、彼らの愛を燃え上がらせるための、都合のいい道具になったらしい。 けれど、それこそが身代わりとしての本来の務めだ。 彩葉は返信しなかった。庭に山積みにした自分と彼のツーショット写真の束を見下ろし、一切の躊躇なくライターを手に取った。揺らめく火炎を瞳に映しながらも、彩葉の心に波風一つ立たなかった。 まるで、ただの日常的な業務をこなしているかのようだった。 身代わりにすぎない自分は、最初からサービス対象に感情など抱くべきではなかったのだ。 ましてやその相手が光希ならなおさら、彼の愛など到底望むべくもないものだったのだから。 三日後、光希は両手いっぱいに紙袋を提げて帰ってきた。そして家に入るなり、異変に気づいた。 「なんだか家の中ががらんとしていないか?壁にあった俺たちの写真はどこにやったんだ?」 「あれはずいぶん前に撮ったものだから、新しいのに替えようと思って」 光希の漆黒の瞳に、困惑の色が浮かぶ。 なぜか胸騒ぎがする。彩葉の様子が、どうもおかしい。 彼女はもともと、ひどく物を大切にする性格だ。七年も使い込んでぺちゃんこになった枕さえ、綺麗に洗って大切に保管しておくほど、捨てることができない性分だった。 やはり、これほど長く不在にし、彼女を蔑にしてしまったせいだろうか。 そう思い至り、光希は彩葉にいくつかプレゼントを渡そうと振り返った。だが、土産物を手に取るたびに、美月の弾むような声が脳裏に蘇ってくる。 少しして、彼は愕然と気づいた。これほど大量のプレゼントの中に、彩葉のためのものが一つも無いことに。 思わず心臓が締め付けられた。彼は、彩葉のことを完全に忘れていた。 光希の瞳に一抹の後ろめたさが過り、彼の視線は、端のほうに置かれていた小さな箱に止まった。中には一本のネックレスが入っている。 一瞬の躊躇いの後、彼はそれを手に取ると彩葉に差し出した。その声は、珍しく甘く優しかった。 「彩葉。出張が長引いて、ずっと一人にして悪かったな。これ、お前へのプレゼントだ。気に入ったか?」 彩葉は一目でそのネックレスに見覚えがあった。美月のSNSに写真が上がっていたものだ。 美月が「ダサい」と見下していた、ただのおまけ。 「ええ、気に入ったわ」 彩葉は微笑んでそれを受け取った。おまけならちょうどいい。わざわざ業者を呼んで売る手間が省けるというものだ。 ただの身代わりの私には、所詮おまけがお似合いなのよ。 光希の胸の奥に、得体の知れないやりきれない思いが広がった。彼は彩葉の頭を撫でようと手を伸ばしたが、指先が触れる前にふわりとかわされた。 彼は本能的に察知していた。彩葉はまだ機嫌が直っていないと。 一体、なぜなのだろうか? 第7話 「彩葉、なんだか元気がないな。そろそろ生理が来るんじゃないか?」 光希はどこからともなく一つの箱を取り出した。開けると、中には鎮痛剤とカイロなどが入っている。 それは前回、彩葉が痛みに耐えながら必死に探していた箱だった。 彩葉は伏し目がちになり、その瞳に宿る感情を隠した。 突然、光希のスマホが鳴った。画面に表示された名前を見るなり、彼は即座に電話に出る。 かすかに、女の声が漏れ聞こえてきた。 「光希、私……生理が来ちゃって、お腹がすごく痛いの……」 「待ってろ、今すぐ行く!」 光希の顔には明らかな焦りの色が浮かんでいた。電話を切るなり箱を抱え、足早に玄関へと向かう。 ドアの前で一瞬立ち止まり、振り返って彩葉に弁解した。 「彩葉、美月が少し具合が悪いみたいなんだ。先に彼女の様子を見てくる」 彩葉が口を開くより早く、彼は車に乗り込み、疾風のように走り去っていった。 光希が彼女の生理周期を間違えたのは、この七年間で初めてのことだった。 かつての彼はどれほど多忙であっても、数日前から休暇を取り、彼女の傍に寄り添ってくれた。彩葉が「仕事の邪魔をしたくない」と何度言っても、彼は「お前が一番大事だ」と答えた。 彩葉は自嘲的な笑みを浮かべた。実は、彼が間違えたわけではない。契約上、身代わりである彼女の生理周期は、本来の雇用主である美月と同期するように調整されていなければならないのだから。 光希はその夜も帰ってこなかった。彩葉は庭に植えてあったチューリップをすべて引き抜き、美月が好きな薔薇を植え直した。 庭のチューリップだけが、彼女が美月と一致させていなかった唯一の部分だった。 この庭に咲くチューリップは、本物の自分自身のようなものだった。美月が帰ってくる以上、薔薇に戻すのは当然のことだ。 彩葉がスマホを取り出すと、地元で話題沸騰中のニュースが目に飛び込んできた。 【結城グループの社長、恋人の誕生日に大金を投じてプライベートアイランドを貸し切り】 彩葉は唐突に思い出した。今日は美月の誕生日であり、身代わりである彼女自身の「偽りの誕生日」でもあることを。 そう思い至り、彼女はキッチンへ向かうと、ひときわ美しいケーキを作り上げた。表面には二つの文字が刻まれている。――「新生」 身代わりとしての生活も、ようやく終わりを迎える。お祝いする価値は十分にある。 「今日はどうしてケーキなんか作ろうと思ったんだ?」 光希が笑顔で玄関を入ってきた。ひどく機嫌が良さそうだ。彼はジュエリーボックスを取り出した。中には精巧なネックレスが入っている。 「彩葉、このところずっと放っておいて悪かったな。美月が戻ってきたばかりで、手伝うことが色々とあってさ。彼女……」 宝石の眩い光が彩葉の目を刺した。彼女はプレゼントを受け取ろうとはせず、彼の言葉を遮った。 「気にしないで。ちゃんと分かっているから。 今日は私の誕生日なの。一緒にろうそくを吹き消して、光希」 彩葉の口調は春の風のように穏やかで、不満の欠片もなかった。おそらく、彼の名前を呼ぶのはこれが最後になる。 光希は一瞬、呆然とした。なぜ彼女たちが同じ誕生日であることを忘れていたのか。 胸の内に再び異様な感覚が湧き上がった。後ろめたさのようでもあり、そうではないようでもある、息が詰まるような不快感だ。 彼が口を開くより早く、彩葉はすでにろうそくに火を灯し、目を閉じて願い事をしていた。 光希の視線は彼女に注がれたまま、ほんの一瞬、なぜか目を逸らしたくないという思いに駆られた。だが、スマホが十回目の振動を知らせた時、ついに彼は画面を確認した。 メッセージを見た瞬間、彼は振り返ることもなくドアの外へと走り去っていった。 彩葉が目を開けると、目の前にはもう誰もいなかった。彼女は微笑みながらろうそくを吹き消した。 彼女の願いは、叶った。 ――一生、光希とは二度と会わないこと。それが彼女の願いだった。 今日が、彩葉の去る日だ。ちょうど美月に連絡を取ろうとした矢先、メッセージがポップアップした。 【彩葉、今すぐ島まで来てちょうだい。そこから出発の手配をするわ】 彩葉の手が微かに震え、一粒の涙が音もなく床に落ちた。 これが最後だ。すべてが、終わろうとしている。 第8話 彩葉は島に到着すると、美月の手配によって小さな部屋に案内された。外からは絶えず人々の噂話が聞こえてくる。 「信じられない、結城さんって本当に一途なのね。神崎さんが海外にいた丸七年間、ずっと彼女を想い続けていたなんて。 神崎さんが帰国するなり、毎日彼女の後を追いかけて、今回はこんなに盛大な誕生日パーティーまで開いて。あの二十億円もするというネックレス、見た?世界にたった一つの逸品よ!」 「忘れられない人の笑顔のためなら大金も惜しまないなんて、本物のセレブは愛のスケールも違うわね」 「ちょっと、変なこと言わないでよ。結城さんには恋人がいるはずよ。この前なんて、その彼女にプロポーズしたらしいわ!もっとも……」 「まさか。この七年間、彼の隣に他の女がいるのなんて見たことないわよ!酔っ払うたびに神崎さんの名前を呼んでいたし、毎年私に『真珠をありったけ買い占めてくれ』って頼んできたのよ。神崎さんが真珠好きだからって!」 彩葉の心に波風一つ立つことはなかった。彼女は手鏡に向かい、眉を描き続けた。 今回のメイクは、もう美月に似せる必要はない。ようやく自分自身の顔に戻ることができる。 背後からヒールの足音が近づき、鏡の中に美月の美しい顔が映し出された。 「彩葉、この期間の協力に感謝する。追加の報酬は前のカードに振り込んでおいたから。今日を限りに、二度とお会いしないことを願っているわ」 美月は彩葉の腕を取り、ゆっくりと階段を降りていった。その二人の姿を認め、一人の男が驚愕に目を見開いた。 人々の前に進み出ると、マイクを通した美月の声が、広大な宴会場に響き渡った。 「皆様にご紹介いたします。こちらが結城さんの婚約者、長谷川彩葉さんです。どうかお二人に、心からの祝福をお願いいたします」 会場は一瞬にして静まり返り、無数の驚きの眼差しが、苦虫を噛み潰したような顔の光希へと向けられた。 光希に婚約者がいたことなど、誰一人として想像していなかった。ましてや、その事実を美月が発表するとは。 美月は恥じらうように微笑んだ。 「私の誕生日パーティーの場をお借りして、私も彼らのように幸せになれる素敵な出会いを見つけたいと思っています。ご興味のある方はぜひお声がけくださいね。私、フリーですので」 宴会に招待されているのは名家の子息ばかりだ。少なからぬ男たちの目に、興味の光が宿った。 光希が手にしていたワイングラスを床に叩きつけた。粉々に砕け散ったガラスが、無残に散らばる。 彼は彩葉の前に歩み寄ると、その瞳にはどす黒い怒りが満ちていた。抑えきれない怒りに声を震わせる。 「誰の許可を得てここに来た? 俺がいつお前と結婚すると言った?どの面下げて俺の婚約者を名乗っているんだ!」 言い捨てるなり、光希は有無を言わさず美月の腕を掴み、連れ去ってしまった。 その場に一人取り残された彩葉を、無数の同情と軽蔑の眼差しが値踏みするように見つめていた。 彩葉は彼らの視線を無視し、真っ直ぐにホテルを出た。そして美月の最後の指示通り、海辺の断崖へと向かい、彼女を連れ出してくれる者を待った。 海辺を照らす月はひときわ明るく、満天の星は息を呑むほど美しい。 「お待たせ」美月の心地よい声が響いた。襟ぐりの広い服から覗く胸元には生々しい赤い痕が広がり、その顔は真っ赤に火照っていた。 先ほどまで何があったのかは、火を見るより明らかだった。 突然、二人の覆面姿の男たちが姿を現し、美月と彩葉を断崖の端に縛り付けた。 美月は彼女に向かって微かに微笑んだ。「怖がらないで。ただの芝居よ。これが終われば、あなたは完全に自由になれるわ」 夜の潮風が彩葉の体を打ち据え、思わず寒気を覚えて身震いした。 間もなく、一人の男が猛烈な勢いで駆けつけてきた。 「その女たちを離せ!」 光希の低く地を這うような怒声と、その凄まじい形相に、「拉致犯」の男たちは思わず手を震わせた。 犯人の一人が深く息を吸い込み、頭の中で台詞を思い出しながら、強がって怒鳴りつけた。 「二つに一つだ!この二人の女のうち、連れて帰れるのは一人だけだ!」 光希の瞳には底知れない怒りが宿って、その身から放たれる凄まじい威圧感は、周囲の空気を凍りつかせるほどだった。 犯人は縛られた二人をさらに崖っぷちへと押しやった。 「選ばないなら、二人とも死ぬだけだ!」 足場を失い、宙に浮きそうになる二人を目の当たりにし、光希の理性が完全に崩壊した。彼はほとんど無意識のうちに叫んだ。 「右だ!彼女を降ろせ!彼女は高所恐怖症なんだ!」 右側にいたのは、美月だった。 美月の顔に満足げな笑みが浮かんだ。彼女は振り返り、彩葉に視線を向ける。 「さようなら。あなたの任務はこれで終わりよ」 彩葉は目の前で取り乱す光希を見つめた。彼の視線は最初から最後まで、一度たりとも自分に向けられることはなかった。 答えを得た犯人は、直ちに美月を解放すると、そのまま彩葉を抱え込み、共に断崖から身を躍らせた。 彩葉は静かに目を閉じ、なすがままに重力へと身を委ねた。 さようなら、光希。