7年の愛、死んだ君はもう振り向いてくれない

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7年の愛、死んだ君はもう振り向いてくれない

GoodNovel Hoàn thành

会社の飲み会で、同僚たちは「彼氏に電話してお金を振り込んでもらえるかチャレンジ」を始めた。 誰の彼氏が一番気前よく送金してくれるか、誰...

Chương (1)

第1章

会社の飲み会で、同僚たちは「彼氏に電話してお金を振り込んでもらえるかチャレンジ」を始めた。 誰の彼氏が一番気前よく送金してくれるか、誰が一番早く電話に出るかを競うのだ。 案の定、私・一ノ瀬夕奈(いちのせ ゆうな)は今回も最下位だった。 「一ノ瀬さん、そんなの気にしなくていいですよ。社長はぶっきらぼうだけど、お金はあるんですから!」 みんながそう言って取りなしてくれて、暗黙の了解で昔話は伏せられた。 例えば、諏訪涼介(すわ りょうすけ)と創業して7年経つのに、彼が一度も結婚の話をしないこと。 会社の株を役員に分けた際、私が最後の一人だったこと。 私が胃がんだと診断された日だって、親友だけが付き添ってくれた。 私は小さく笑うだけで、特に反応しなかった。 視線の先では、新人の小林夏希(こばやし なつき)がスマホをきつく握りしめて困った顔をしている。 「私はやめておきます。相手が出張中で、とても忙しいんです」 気まずい雰囲気の中、夏希を助けようと、私は手を伸ばして代わりに電話をかけ、スピーカーに切り替えた。 誰も出ないと思ったその電話は、すぐにつながった。 広い個室に、しんとした静寂が広がる。 電話から流れてきたのは、他でもない。ぶっきらぼうな私の恋人、涼介の優しい声だった。 「ミモザの日のプレゼント、もう届いたかい?」 第1話 会社の飲み会で、同僚たちは「彼氏に電話してお金を振り込んでもらえるかチャレンジ」を始めた。 誰の彼氏が一番気前よく送金してくれるか、誰が一番早く電話に出るかを競うのだ。 案の定、私・一ノ瀬夕奈(いちのせ ゆうな)は今回も最下位だった。 「一ノ瀬さん、そんなの気にしなくていいですよ。社長はぶっきらぼうだけど、お金はあるんですから!」 みんながそう言って取りなしてくれて、暗黙の了解で昔話は伏せられた。 例えば、諏訪涼介(すわ りょうすけ)と創業して7年経つのに、彼が一度も結婚の話をしないこと。 会社の株を役員に分けた際、私が最後の一人だったこと。 私が胃がんだと診断された日だって、親友だけが付き添ってくれた。 私は小さく笑うだけで、特に反応しなかった。 視線の先では、新人の小林夏希(こばやし なつき)がスマホをきつく握りしめて困った顔をしている。 「私はやめておきます。相手が出張中で、とても忙しいんです」 気まずい雰囲気の中、夏希を助けようと、私は手を伸ばして代わりに電話をかけ、スピーカーに切り替えた。 誰も出ないと思ったその電話は、すぐにつながった。 広い個室に、しんとした静寂が広がる。 電話から流れてきたのは、他でもない。ぶっきらぼうな私の恋人、涼介の優しい声だった。 「ミモザの日のプレゼント、もう届いたかい?」 「うわあ、小林さん、彼氏さんの声すごく素敵じゃない?本当に大事にされてるね!」 隣の営業部長がそう言って、凍りついた空気を打ち破った。 夏希の手が激しく震え、スマホが今にも皿の上に落ちそうだった。 彼女はパニックになって画面のボタンを叩いた。手が震えているから、2回押して、ようやく通話を切った。 「あ……うちの彼氏、サプライズが好きなんです……」 うつむいたまま、夏希は蚊の鳴くような声で言った。私と目を合わせる勇気もない様子だった。 「そんな照れなくてもいいじゃないか。みんな大人なんだし」 人事の木村健二(きむら けんじ)が笑ってからかったが、その目は私と夏希を交互に見ている。 私は手元の冷めた水を一口飲んだ。 胃に冷たさが落ちた瞬間、いつもの痛みが思い出したように戻ってくる。 「そうね、素敵じゃない?」 私はグラスを置き、真っ白になった夏希の指先を見つめた。 「社長は社内では厳格な方なのに、私生活ではあんなに優しい一面があるなんて」 また空気が張り詰めた。 誰もがその声が涼介だと気づいていた。 長いこと一緒に仕事をしてきたのだ。あの低い、冷徹な声は全員の耳に刻み込まれているのだから。 誰にもそれをあえて指摘する勇気はなかったけれど。 「一ノ瀬さん、人違いです。社長じゃありません」 夏希が勢いよく顔を上げた。すでに目を潤ませている。 「私の彼氏が、たまたま社長と声が似ていただけです」 必死で言い訳をしながら、夏希の手は服の端をぐしゃぐしゃに掴んでいた。 「ええ、聞き間違えたのかもしれないわ」 私は紙ナプキンを取り、優雅に口元を拭った。 「なにしろ社長は出張中で、今頃はD国行きの便に乗っているはずだから」 私は夏希の目を真っ直ぐ見て言った。自分でも驚くほど落ち着いたトーンで。 「そうですよ、社長は今海外にいるんですよ。一ノ瀬さんが一番よくご存じのはずです」 同僚たちはその台詞に乗っかり、わざとらしく別の話題を振り始めた。 食事会が終わるまで、みんな何とか空気を盛り上げようと必死だった。 夏希はトイレに行くと言ったまま、戻ってこなかった。 会計をする際、私はスマホを手に取った。 すると、未読のメッセージが届いていた。涼介からだ。 【着いた。早く休めよ】 そのメッセージを何度も見つめて、視界がぼやけていった。 耳には先ほどの、甘い声が響いている。 返信せず、スマホの画面を閉じた。 店を出ると、初春の夜風が寒々しく体を包んだ。 「一ノ瀬さん、車で送りましょうか?」 営業部長が窓を下げて声をかけてくる。その眼差しには憐れみと探求心が入り混じっていた。 「いいえ、少し歩きたいので」 私はコートの襟を合わせ、さっきとは逆の方角へと歩き出した。 街灯が私の影を長く長く伸ばしていく。 胃の痛みが増してきた。錆びた鋸で切り刻まれるような感覚だ。 私は立ち止まり、道の端にあるプラタナスの幹にもたれかかった。 バッグから痛み止めを取り出し、水なしで飲み込む。 薬が喉にひっかかり、耐え難い苦味がこみ上げてきた。 7年前、涼介は投資を勝ち取るために死にものぐるいで飲み、吐血した。 私が深夜に背負って病院へ運び、夜通し付き添ったのだ。 あの頃、涼介は私の手を握りしめ、真っ赤な目で言った。 「夕奈、会社が軌道に乗ったら、一生かけて恩を返すよ」 今、会社は軌道に乗るどころか上場準備まで進んでいる。 それなのに、涼介はたった一言の真実さえ語ってくれなかった。 スマホが小さく震え、銀行からの通知が届く。 家族カードで560万円の決済がされた。 宛先は中心街で最も予約が取れない高級ブランド店だ。 私はその数字を見つめ、胃の痛みさえ麻痺したような感覚になった。 怒りも悔しさもない。ただ、全てが終わったという虚しさと疲れだけが残った。 第2話 帰宅し、扉を開けると、リビングは暗闇に包まれていた。 電気もつけず、手探りでソファにたどり着き、そこに深く腰を下ろした。 暗闇の中にいると安心する。見慣れた家具の気配に悩まされなくて済むから。 深夜2時。玄関で電子ロックの暗証番号を入力する音が響く。 涼介が、酒の匂いと夜の冷気をまとって帰ってきた。 リビングの明かりをつけると、ソファに座る私を見て、明らかに動きが止まった。 「どうして電気もつけないんだ?それに、なんでまだ起きてるんだ?」 靴を脱ぎながら、涼介は無造作にそう尋ねた。 「眠れなくて」 彼がスーツを脱ぎ、ハンガーにかける背中を私は見つめた。 「D国への出張、うまくいったの?」 私はできるだけ平静を装ってそう尋ねた。 涼介の手が一瞬、わずかに止まった。 「順調だよ。ずっと会議詰めだったから、さすがに疲れたな」 そう言って近づいてきた彼が、いつものように私の髪をなでようとする。 私はわずかに身をかわし、その手を避けた。 空中に取り残された手。涼介の眉間に、微かな不快の色が走る。 「どうしたんだ?もしかして今日の飲み会の時に、電話に出なかったことをまだ気にしているのか?」 涼介は呆れを含んだ優しい口調で、わざとらしく微笑んだ。 「夕奈、もう30だろ?いつまでそんな下らないことを他の女と張り合ってるんだ?」 私は涼介のそんな「当然だ」という態度を静かに眺めていた。 「今日はD国には行ってないよね?」 ネクタイを緩めていた彼の指が完全に停止した。 俯いた涼介からは、困惑の気配が漏れ伝わる。 「誰から聞いた?出張のスケジュールは社内の全員が知っているはずだ」 涼介はそう吐き捨てると、ウォーターサーバーの水をコップに注ぎ始めた。 「今日の小林さんの通話、スピーカーモードのままだったよ」 コップを口に運んでいた涼介の動きが止まる。 数秒の長い沈黙の後、彼は小さく溜息をついて私に向き直った。 「そこまで分かっているなら、隠す必要もないな。 ああ、確かに今日は行かなかった。フライトがキャンセルになったんだ」 椅子を引いて堂々と腰掛ける涼介。まるで天気の話でもするかのような軽い口ぶりだった。 「夏希が職場で少し辛い思いをしたみたいでね。泣きながら辞めると言い出したんだ。 彼女が担当しているプロジェクトはようやく形になりかけている。今辞められたら会社の損失が大きすぎる。 経営者として、部下のケアをしたまでだ。ちょっとした贈り物くらいいいだろう?」 見慣れた涼介の顔が、急に誰だか分からないほど遠いものに感じられた。 「部下のケアに……あんな甘い声で話す必要があるの?」 力のない声で私は尋ねる。 涼介は眉間を揉み、心底面倒くさそうな表情を見せた。 「夕奈、そんなつまらないことで騒ぎ立てるな。 夏希は新卒だし、女の子なんだから優しくしてやってるだけのことだ。 機嫌を取るため話を合わせているだけだよ。ほんの少しの遊びだ」 立ち上がると、涼介は玄関でカバンを開け、一つの茶封筒を取り出した。 「学生街を通ったら焼き芋屋がまだ店を開いていてね。君に食べさせたくて買ってきたんだ」 彼は油の染みた茶封筒をリビングのデスクの上に置く。 「昔、ここの焼き芋が大好物だっただろ? さあ、冷めないうちに食べなよ。これでどうか機嫌を直してくれ」 そう言うと、涼介は迷わずバスルームの方へ消えていった。 私は、中身が潰れて冷めきった焼き芋を眺めていた。 7年前、私たちがどん底で飢えを凌ぐために分かち合った、あの日の思い出。 あの時は、こんな安物の焼き芋ですらひどく甘かった。 だけど、涼介はまだ知らない。先月、私が末期の胃がんだと宣告されたことを。 担当医からは厳しく言い渡されていたのだ。消化の悪いこういった粗食は、絶対に禁物だと。 バスルームから、水しぶきの音が響く。 私はふらつく体で立ち上がり、ハンガーラックへと向かった。 涼介のスーツのポケットから、見慣れぬピンクのリボンがはみ出している。 指先でそっと抜き取ると、それは超高級宝飾店の鑑定書だった。 カスタムメイドのダイヤモンドの指輪。【N&R】と彫られた刻印が目に入る。 夏希と、涼介。 涼介が口にしていた「遊び」というのは、このことなのだ。 私は震える手でその鑑定書を元のポケットへと戻した。 デスクの上にあった茶封筒を手に取り、表情一つ変えず、ごみ箱へと放り込んだ。 ゴトンと鈍い音がする。 涼介に対する、私の中の最後の一欠片すらも、今はゴミ同然だった。 第3話 翌朝の会議室は、何とも言えない微妙な空気が漂っていた。 涼介は上座に座り、手元の四半期レポートに目を落としている。 長テーブルの端に座った夏希は、首元でキラキラと光るピンクダイヤのネックレスを揺らしていた。 今日の夏希は気合の入ったメイクで、驚くほど活き活きとしていた。 「来期のメインプロジェクトの配分について、少し変更を行います」 涼介が報告書を閉じ、冷たい眼差しで部屋全体を見渡した。 「一ノ瀬さんが担当していた新エネルギー事業ですが、これを小林さんに移管します」 その瞬間、会議室にシンと静寂が訪れた。 その新エネルギー事業は、私が丸3ヶ月かけて温めてきた案件だった。 何度も徹夜を重ね、クライアントに断られては泥のように疲弊しながら、やっとの思いで勝ち取った仕事だ。 契約まであと一歩のところで、涼介の何気ない一言で手柄を奪われてしまった。 「社長、それはあまりにも理不尽ではないでしょうか?」 事業部長が状況を見かねて、顔色をうかがいながら口を挟んだ。 「小林さんはまだインターンです。これほどの規模の案件は背負い切れません」 涼介はゆっくりと運営部長に目をやり、鋭く睨みつけた。 「一人では無理ですが、一ノ瀬さんがしっかりフォローすればいいでしょう。 一ノ瀬さんは会社創立当初からのメンバーですし、新人を育てるのは当然の役目ではないですか?」 涼介が私に向ける視線には、一切の拒否を許さない強引さがあった。 「一ノ瀬さん、何か不満でもありますか?」 私は涼介を見つめ、静かにノートを閉じた。 「いいえ、不満はありません」 涼介は私の従順さに満足したのか、小さく頷いた。 「それでは、この方針で決定といたします。以上で会議を終了します」 そう言うと、彼は先陣を切って会議室を出て行った。 夏希がファイルを抱えて私の前に立ち、隠し切れないほどの勝ち誇った笑みを浮かべた。 「一ノ瀬さん、これからは色々とご指導をお願いしますね」 「いいえ、特に何も教えることはないわ」 私はデスクの資料をまとめ、夏希の方へ押し返した。 「お客様の好みに癖はあるけど、この資料を見れば自分で分かるはずよ」 私は固まった夏希の表情を一瞥もせず、そのままトイレへ直行した。 個室のドアを閉めた途端、激しい吐き気が胃を突き上げた。 私は便器にしがみつき、苦しそうに吐き出した。 清潔なタイルに散った血痕を見つめる。私の目には、もう何の感情も宿っていなかった。 水道から出る水の音を聞きながら、冷たい水を手ですくい、何度も顔を叩いた。 ポケットのスマホが震え、親友の佐伯澪(さえき れい)からの電話が入った。 「夕奈、いつになったら手術の日程を予約しに来るの?」 その声は必死に泣くのをこらえているようだった。 「お医者さんが、もう腫瘍の進行を止められないって言ってるの!もう限界だって!」 私はティッシュを引き抜き、ゆっくりと濡れた指先を拭いた。 「澪、ごめん。もう手術は受けないことにしたの」 電話の向こうが数秒間静まり返り、次の瞬間、叫び声が響いた。 「バカなの!?あんなクズ男のために、自分の命まで投げ出す気?」 「彼のためじゃないよ」 私は鏡に映る自分を見つめ、弱々しい笑みを浮かべた。 「胃を3分の2も切除して、その後の化学療法にまで耐えられそうにないの。 私はただ、最期のときを少しでも普通に過ごしたいだけなのよ」 電話越しに、澪の泣き声が漏れていた。 通話を終え、足取り重くデスクへ戻ると、涼介から新しいメッセージが来ていた。 【夕奈、社長室に来い】 ドアを開けると、涼介は掃き出し窓の前でタバコをくゆらせていた。 「会議の場でお前をたてなかったのが、そんなに不満か?」 涼介は歩み寄ってきて、慣れた手つきで私の肩に手を回そうとした。 私は半歩後ろに退き、あからさまな拒絶を見せた。 肩に手を置こうとしてかわされたのを見て、涼介はさらに険しい表情になった。 「最近はあまりに冷たすぎるだろ? あの案件を夏希に渡したのは、彼女の実家に問題があって、金が必要だったからなんだ」 涼介が私を見下ろす瞳は、まるで哀れな存在に慈悲をかけるかのようだった。 「お前には持ち株があるだろ?今年のボーナスも十分にあるはずだ。 先輩らしく、新人に嫉妬など見せるな」 理屈っぽく言い放つ涼介を眺めながら、私は口を開いた。 「ええ、もう嫉妬なんてしていないわ」 静かなトーンでそう答え、私は視線を逸らした。 「涼介、来週の水曜日、時間はある?」 第4話 涼介は、私のあまりに突拍子もない話に面食らっているようだった。 彼はしばし呆然とした後、デスクに向かい、スケジュール表を広げた。 「来週の水曜日か。午前中に重役会議があるが、午後は空いているはずだ」 涼介は顔を上げ、私を探るような目をした。 「どうした?何かあったのか?」 「うん」 私はコートのポケットに手を突っ込み、指先で無意識に薬の瓶の縁をなぞる。 「市立第一病院に行きたいの。家族の署名が必要で」 法律上では、涼介と私は身内じゃない。 けれど心の中では、かつて唯一無二の家族だった。 涼介の表情は緩み、少し笑みがこぼれた。 「病院で署名?まさか、やっと観念して胃のポリープ手術を受ける気になったのか?」 涼介は、私がまだ去年と同じ、軽い胃炎を患っているだけの状態だと思っている。 「分かった。水曜日の午後、一緒に行ってやるよ」 まるで何でもない約束のように、涼介はあっさりと答えた。 「うん」 訂正なんてせず、私はそのまま社長室を出た。 それからの数日間、私は何事もなかったかのように、淡々と引き継ぎをこなした。 涼介と夏希がいちゃついている姿を見ても、心がざわつくことはもうなかった。 間もなくここを去る傍観者として、私が築き上げてきたこの場所を冷ややかに見つめていた。 水曜日の午後1時。 私は市立第一病院のロビーの椅子に座っていた。 消毒薬の匂いが鼻につき、胃の奥から鈍い痛みが何度もこみ上げてくる。 時間は2時半を回ったが、涼介はまだ来ていなかった。 電話をかけてみたが、冷たい電子音が繋がらないことを伝えてきた。 私はスマホを握りしめ、廊下の先にある冷たい灯の明かりをぼんやりと見ていた。 夏希のインスタのストーリーが更新されている。 夏希はまだ私をブロックしていなかった。親しい人限定でこんなインスタを投稿していた。 【優しい彼氏が、私の親知らずの抜歯に付き添うために、20億規模の会議をキャンセルしてくれたの】 写真は、高級歯科クリニックの診察室。 端っこに、仕立ての良い高級スーツを着た男の背中が小さく写り込んでいる。 その背中を、私は7年もずっと追いかけていた。 画面が暗くなるまで、私は何度もその写真を見つめた。 「ご家族の方はまだですか?」 医師が怪訝そうな顔で一人ぼっちの私を見下ろした。 「これは積極的な治療をやめ、緩和ケアに移行するための同意書です。直系親族か法定代理人の署名がどうしても必要で……」 「身内はいません」 言い終えると同時に、熱い涙がどうしようもなくあふれ出した。 涙をぬぐい、椅子に腰を下ろし直す。バッグから取り出したのは、延命治療を希望しない旨を記した意思表示書だった。 「身内はいません。何があっても、全ての責任は私自身で取ります」 真っ赤に充血した私の目を見て、医師は深くため息をついた。 私は頑として考えを変えず、治療方針に関する同意書や意思確認書に、一人で署名を終えた 私の手が震えることはなかった。 署名を終え、タクシーで涼介と暮らしたこの3年間過ごしたマンションへ向かった。 部屋の中は、朝出かけた時のまま、静寂が漂っている。 涼介から贈られた物は何も持っていかない。 古い服を数枚と、7年前からの日記をバッグに詰めた。 スーツケースは驚くほど軽く、中身も半分も埋まっていなかった。 最後に、合鍵をダイニングテーブルの上に置く。 鍵の下には、一通のクラフト紙の封筒。 中には署名済みの、持ち株すべての譲渡契約書だった。 これで、すべてが終わった。トランクを引いて、一度も振り返らずに家を出た。 カチャリと冷たい金属音がした。 私の7年間の青春は、完全に鍵をかけられた。 夜の11時、上機嫌で鼻歌まじりに涼介がドアを開けた。 「夕奈、ただいま」 いつもと同じ習慣で、呼びかけた。 静まり返った部屋に返事などあるはずがない。 眉を寄せ、彼はリビングへと歩み入った。 ダイニングテーブルの上の封筒が妙に目に飛び込んでくる。 涼介は歩み寄ると、何気ない様子で封を切った。 中の1枚目は譲渡書。 「ったく」と笑う。また夕奈が始めた幼稚な嫌がらせだと思ったのだ。 けれど2枚目に視線を移した時、涼介は言葉を失った。 そこには、市立第一病院の診断結果のコピー。 一番下の行に、淡々とこう綴られていた。 【胃腺がん末期】