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身分を消した妻。3年後、犯罪組織の黒幕の隣に
結婚して5年目の、ごく普通の夜。桐谷泉(きりたに いずみ)のもとに、見知らぬ番号からメッセージが届いた。 【旦那さんのスマホには秘密があ...
Chương (1)
第1章
結婚して5年目の、ごく普通の夜。桐谷泉(きりたに いずみ)のもとに、見知らぬ番号からメッセージが届いた。
【旦那さんのスマホには秘密があります。一生騙されたままでいたくなければ、見てみるといいでしょう】
心臓を見えない手に掴まれたように、急に胸騒ぎがした。泉が思わずバスルームの方に目をやると、中からはかすかな水音が響いていて、夫・桐谷涼(きりたに りょう)はまだシャワーを浴びていた。
衝動に駆られた泉は立ち上がり、サイドテーブルの上にあった涼のスマホを手に取った。指紋認証は、すんなりと通った。
泉の指紋は、最初から登録されていた。すべてを隠さず見せる、と涼は言ってくれていたのだ。
連絡先を開き、泉は震える指先でスクロールしていく。
すると、二つ並んだ登録名が目に飛び込んできた――
「妻A」
「妻B」
そして、自分の電話番号には、はっきりと「妻B」と登録されていたのだ。
第1話
結婚して5年目の、ごく普通の夜。桐谷泉(きりたに いずみ)のもとに、見知らぬ番号からメッセージが届いた。
【旦那さんのスマホには秘密があります。一生騙されたままでいたくなければ、見てみるといいでしょう】
心臓を見えない手に掴まれたように、急に胸騒ぎがした。泉が思わずバスルームの方に目をやると、中からはかすかな水音が響いていて、夫・桐谷涼(きりたに りょう)はまだシャワーを浴びていた。
衝動に駆られた泉は立ち上がり、サイドテーブルの上にあった涼のスマホを手に取った。指紋認証は、すんなりと通った。
泉の指紋は、最初から登録されていた。すべてを隠さず見せる、と涼は言ってくれていたのだ。
連絡先を開き、泉は震える指先でスクロールしていく。
すると、二つ並んだ登録名が目に飛び込んできた――
「妻A」
「妻B」
そして、自分の電話番号には、はっきりと「妻B」と登録されていたのだ。
その瞬間、泉は雷に打たれたような衝撃を覚えた。全身の血が引いていくようで、その場に立ち尽くし、頭の中が真っ白になった。
A?B?
そして、自分が……Bだというの?
足元から凍るような寒気が、一気に全身へと広がっていく。
泉はほとんど本能的に、画面の一番上に表示されていた「妻A」の番号をタップし、発信した。
コール音が2回鳴ると、すぐに繋がった。向こうから若い女性の含み笑いのような声が聞こえてくる。「泉さん?電話をかけてくると思っていました。全てを知りたいなら、明日の朝9時に家で待っていてください。私から説明します」
そう言うと、相手は泉が答える間もなく、一方的に電話を切った。
ツーツーと鳴る無機質な音を前に、泉は顔は血の気がなく、真っ青だった。スマホを握る手が激しく震え、落としてしまいそうだった。
「泉、何を見ているんだ?」
背後から涼の低くて甘い声がした。いつの間にお風呂から上がったのか、彼は心地よい湯気とシャンプーの匂いを漂わせながら近づいてきた。
泉はハッと我に返り、飛び上がるほど驚いた。慌ててスマホの画面を消し、元の場所に置いた。「ううん、何でもないの……ちょっと迷惑メールが届いてね」
涼は何を疑う様子もなく、優しく泉を腕の中に抱き寄せて一緒に眠ろうとした。
彼は少し泉の顔をのぞき込み、整った指でその頬を触りながら、眉をひそめた。「顔色がひどく悪いな。どこか具合でも悪いのか?」
泉は涼の瞳を見ることができず、とっさに言い訳をした。「うん……もうすぐ生理になりそうだから、ちょっとだるいのかも」
それを聞くと、涼はすぐに腕の力を緩め、ベッドから起き上がった。「待ってて、今から痛み止めの薬を用意してあげるからね」
バスローブ姿でキッチンへ向かっていくその広い背中を、泉はベッドで身をすくめながら見つめていた。胸がひどく締めつけられる。
これほど愛してくれて、優しくて、いつでも自分を最優先にしてくれる涼が、浮気なんてするわけがない。
一度溢れ出したら止まらない思い出が、押し寄せて泉の心をかき乱す。
……
泉と涼は、正真正銘の幼馴染だった。
物心がつく前からの知り合いで、よく庭で泥だらけになって遊んだ。思春期を迎えてからは、当たり前のように手をつなぎ合う仲になっていた。そして大学入学共通テストが終わった日、涼はクラスの皆の前で膝をつき、泉にプロポーズしたのだ。
二人は、卒業したらすぐ入籍しようと約束した。
けれど、そんな一番幸せだった人生の夜に、運命は残酷な顔を見せたのだ。
麻薬取締官としての身分を隠し、潜入捜査を続けていた泉の父親・冬月勇大(ふゆつき ゆうだい)の正体が組織に知れ渡り、組織の者たちの苛烈な復讐に晒されることとなった。
その夜、家族は皆殺しにされたが、遠方の大学で過ごしていた泉一人だけが、何とか無事だった。
絶望に打ちひしがれ、激しい復讐心に駆られた泉は、狂気に満ちた決断をする――
自分もおとり捜査員として潜入し、家族の敵を討つんだと。
その夜、涼がやってきて、彼は何も言わずにただ目を充血させながら、泉を一瞬の鋭い打撃で気絶させた。
目覚めた泉が見たのは、枕元に置かれた短いメモだった。【しっかりと生きるんだぞ。泉の仇は、俺が討つ】
涼はそうして自らが代わりを務め、極悪の組織へ身を投じて、おとり捜査員となった。
後の3年間、それは人生で最も闇深く、生きた心地のしない毎日だった。
やがて3年の月日が流れ、涼の必死の情報工作によって、一大違法組織の一掃がなされた。その様子はメディアを駆け巡り大きな話題となった。
全身傷だらけになりながら帰ってきた涼を見た瞬間、泉は泣き崩れた。
それに対し涼は力なく口元を和ませ、指で泉の目元に触れながら言ってくれたのだ。「もう悲しまないで。泉の世界はこれから俺が支え続ける、絶対離れたりしないよ」
それから、彼は持ち前の頭と度胸で実業家としての地位を築き上げ、華やかな成功を収めた。
そして、最初にしたのは、誰よりも立派な挙式で泉を妻に迎えること。彼女は誰よりも羨まれる社長夫人として、何不自由なく愛され大切にされてきた。
悪夢に怯える夜は一晩中抱きしめ、泉の些細な好みをすべて把握し、どんなことがあったとしても彼女を庇ってきたのだ……
誰もが、涼は泉を狂おしいほど愛していると言った。
泉だって、たとえ世界中の男が裏切ったとしても、涼だけは絶対にあり得ないと確信していた。
でも、だとすればあの不敵に記載された名称はいったい何を意味しているの?
体が冷え切り、それ以上を想像することなど到底できなかった。あの恐ろしい現実に直面する勇気すらない。
翌朝、涼はいつものように泉の額に優しいキスを落とし、「仕事に行ってくる」と言った。
涼がいなくなってから、そんなに時間は経たずに、インターホンが鳴った。
第2話
泉は深く息を吸い込むと、ドアへと向かった。ドアスコープ越しに、見慣れた姿があった――
涼の傍らにいつもいる、優秀で容姿端麗な秘書、夏川怜奈(なつかわ れいな)だった。
ドアを開けると、二人はじっと見つめ合った。
泉は乾いた声で問いかけた。「涼の浮気相手って、あなたでしたか?」
怜奈はフッと笑うと、平然と中に入ってソファに腰掛けた。まるで自分の家にいるような振る舞いだった。
「泉さん、そんな不愉快な言い方はやめてください。二人の間に、好きという気持ちがないのなら、愛されていない者こそが部外者だって知っているでしょう?」
怜奈は泉の青ざめていく顔を見つめ、勝ち誇ったように語り出した。「私たちがどうやって出会ったか知りたいんでしょう。なら、教えてあげましょう。
出会ったのは5年前の、あるお祝いの席です。あの時の涼は大きな任務を終えたばかりで、体には傷が残っていたのに、一人きりでベランダに出てタバコを吸っていて……胸が締め付けられるほど寂しそうな背中をしていました。
その後のつらい時期を涼のそばで支え続けたのは私ですよ。涼が言っていたんです、私と出会ってから、初めて本気のときめきと魂の結びつきを知ったって。泉さんに対しては……」
怜奈はそこで言葉を区切り、さらに満面の笑みを浮かべた。
「ただの責任と習慣でしょう。幼馴染としての情だけで、もうとっくに恋愛感情なんてありません。ですから私への気持ちに気付いてから、彼は私をずっとそばに置いていました。
ここ数年の彼の異常な行動、時折の帰宅遅延や急な出張も、実はすべて私と過ごすためですよ。ずっと真実を打ち明けなかったのも、泉さんが傷ついて崩れるのを恐れてのことですよ」
今にも倒れそうな泉の様子を冷ややかに見つめながら、怜奈は自分のスマホを取り出した。「信じられないなら、今ここで証明してあげましょう」
怜奈はそう言うと泉の目の前で、スピーカーをオンにして涼に電話をかけた。
一度のコールで電話はすぐに繋がり、向こうから優しくて低い、泉が慣れ親しんだ涼の声がした。「怜奈、どうした?」
怜奈……
その名前を呼ぶ彼の声は、まるで鋭いナイフのように泉の心臓に突き刺さった。
その声は、愛し合う二人だけに許された甘い響きを帯びていた。
なのに今、彼は同じように、それどころかもっと甘い声で、他の女をそう呼んでいる。
怜奈は勝ち誇った目で真っ青になった泉を一瞥し、受話器に向けて甘えた。「涼、もうすぐ私の誕生日なんだけど、今年は何をくれるの?」
「欲しいものなら、なんでも買ってあげるよ」と涼が優しく甘やかすような声が届く。
「それならね、今年の誕生日の願い事は……泉さんと別れて、私と一緒になってほしい」
電話の向こうが、急にぴりっと沈黙した。
怜奈は追い打ちをかけた。「どうして黙るの?私を愛してはいないの?」
「愛しているよ」ようやく響いた涼の声は酷く苦悩に満ちていた。
「でも、泉とは幼馴染みで家族同然だし……泉の実の親もみんな亡くしている。俺が放り出したら、彼女はもうまともに暮らしていけない。怜奈と先に出会っていればそもそも泉とは付き合わなかった……けれど、今は現実がこうだから……責任を取らなければ……」
責任を取らなければ……
涼のこれまでの優しさが、本当はただの責任であり、愛ではなかっただなんて。
あまりの衝撃に泉はめまいがし、世界が崩れ去る音を聞いたような気がした。
絶望で悲鳴を上げてしまわないように、固く自らの口元を手で押さえ続けた。
怜奈は電話に向かってさらに畳み掛けた。口調には逃げ道をふさぐような圧が込められている。
「困るのも分かるわ。なら、彼女に教えなければいいだけ!内緒で離婚届を提出して、私と結婚すればいい。その後も……これまでみたいに、昼は私と過ごして、夜は家に帰ればいいじゃない?絶対に面倒は起こさないから!」
怜奈は甘え続け、何度も何度も涼に詰め寄った。
ついに、涼が妥協した声で返事をした。困り果てたような、しかし甘やかす声で、「分かった、言う通りにするよ。役所に行って離婚届を提出してから、君と婚姻届を出そう」
「よかった、すぐにいくね!」
怜奈は満足げに電話を切ると、魂を抜かれたような様子の泉を見下ろした。
「泉さん、よく分かったんですね?こんな話を聞いてもまさか、まだ無理やり涼のそばに残ろうとは思わないでしょうね。『桐谷社長の妻』という身分にしがみついても、周囲も邪魔で迷惑なだけ、そうでしょう?」
泉は爪が食い込み、手のひらから血が滲んでも、その痛みすら感じなかった。胸の激痛が全てを塗り潰していた。
彼女は顔を上げ、怜奈を見て、かすれた声で精一杯の誇りを持って答えた。
「心配いりません。私はそんなにプライドを捨てて、心変わりした男にしがみつくほど、惨めになりたくありません。
お二人……末永くお幸せに」
第3話
怜奈は欲しかった答えを得て、すっかり満足して帰っていった。
ドアが閉まった瞬間、泉は体中の力が一気に抜けたように感じ、壁に寄りかかりながら床へへたり込んだ。唇をきゅっと噛み締め、口いっぱいに血の味が広がったけれど、どうしても涙をこぼしたくはなかった。
そんなとき、机の上のスマホが震えた。涼からのラインだった。
【急に泉の声が聞きたくなっちゃった】
【朝ご飯はちゃんと食べてね。胃に負担がかかるといけないから】
【晩ご飯は何がいいかな?お手伝いさんに用意させるね】
【そうだ、昨日食べたいって話していた西区のケーキ屋さんのデザート、仕事が終わったら買っていくよ】
昨日までの泉なら、この短い言葉たちにこれ以上ないほどの幸せを感じていただろう。
けれど今は違う。一言一言がまるで真っ赤に焼けた鉄のようで、心を酷く痛めつけ、苦しめるだけであった。
涼、どうしてそこまで甘やかしてくれるの……
子供の頃に喧嘩をしては泥だらけのボロボロになってまで守ってくれて、あの時も命の保証さえない過酷な組織に身を置いて傷ついてばかりいた。
そこまでしてくれたあなただから、今はもう他人に心変わりしてしまったのに、真実を打ち明けてくれないのだ。傷ついた私を見るのが怖くて、その優しい配慮のために、私に嘘をつき通して怜奈と影で会っているのね……
でも、思ってくれるがゆえの「甘やかし」なんて、絶対に要らない。
怜奈は涼のどのメッセージにも返信をせず、手の震えを懸命に堪えながら、長谷川健一(はせがわ けんいち)の電話番号へとかけた。
「長谷川さん、お久しぶりです。泉です」声は一度泣いたせいか少し掠れていたが、不思議なほど心は穏やかだった。「私……亡くなった父親の意志を継ぎたいんです」
電話の向こうの健一は、かつて勇大の仕事仲間であり、今では治安維持を任された部局を指揮する大物になっていた。
「泉ちゃん!何を言ってるんだ!あの事件でご家族は皆……君は冬月家の、たった一人の生き残りなんだぞ!これ以上、君を危険な目に遭わせるわけにはいかない!しかも涼とあんなに幸せそうにやっているじゃないか、どうしてわざわざ危険な仕事に……」
「長谷川さん、私は本当に頭が冴えています」彼女の言葉に迷いはなかった。「ただ一時的な気まぐれではなくて、何日も考えて出した結果なので……どうか、願いを叶えてください」
健一は電話越しに何度も説得しようとしたが、泉の態度は決して揺らぐことはなかった。
電話から長い沈黙の末、健一は深いため息をつき、重々しく言った。
「そうか……それなら覚悟はできているな。もうこれ以上の引き返しはきかないぞ。そっちの仕事に決まりとなった時点で、世間へ公にされるはずのすべての情報は抹消しなければならないからな。
つまり二度と『桐谷泉』という人間はこの世に存在しなくなる。過去も人間関係もすべて葬り去られることになるんだ。こちらは早速裏の道へと動く準備をするから、本番に通知を待っていてくれ」
「わかりました。ありがとうございます」と彼女は静かに答えた。
電話を切ると、彼女は涼との思い出に満ちたこの部屋を見回した。その瞳から次第に光が消え、ただ虚ろで麻痺したような色が広がっていく。
彼女は片付けを始めた。涼との思い出が残るものを、一つ残らずゴミ処理へと分けていった。
彼からの贈り物である服や宝石、数々の写真。それらを捨てる作業は、まるで傷ついた心に、自ら刃を突き立てるかのような残酷な時間だった。
その夜、涼から急なプロジェクトが入ったから出張に行く、とメッセージが届いた。数日間戻らないが、無理をするなという相変わらずの優しい文面だった。
その文字を見ても、泉は表情一つ変えなかった。
ふと怜奈のインスタを見ると、最新の投稿が目に飛び込んできた。
青い海に贅沢なリゾート。そして男が怜奈を大切そうに守る後ろ姿。
位置情報を見ると、そこは有名な新婚旅行の都市だった。
緊急の出張などという口実は、ただの不倫旅行の言い訳に過ぎなかったのだ。
鋭い痛みが胸を刺したが、涙も出ず、問い詰める気にもならなかった。
泉は静かに画面を消した。
数日後、涼が「出張」から戻った。
家に入るやいなや泉を抱きしめ、涼は、「悪かった。忙しくて構ってやれなかったな。今日は結婚記念日だから、盛大なパーティーを用意したんだ」と申し訳なさそうに言った。
パーティー会場は豪華ホテルの最上階にあるホールで、眩いほどの輝きに包まれていた。
大勢の招待客の前で、涼は高価なダイヤモンドの指輪を自ら泉の指にはめた。
涼の眼差しは愛に溢れ、周囲は二人への祝福で溢れかえった。
「桐谷社長は本当に、長年変わらず奥様を大切になさいますね」
「ええ、まさに理想の夫婦ですね」
「幼なじみ婚って言いますけど、本当に絆が深いんですね……」
そんな言葉が次々と耳に入る。誰もが、涼の深い愛を称えていた。
豪華なドレスに高価なジュエリーを身に纏っているにも関わらず、泉の心は氷水に沈んだかのように冷え切っていた。
その時、怜奈がワインを手に近づいてきた。涼の秘書として、この場に彼女が同席しているのも無理はない。
怜奈は涼に向かって笑いながら、「社長、花火のパフォーマンスの詳細について、最終確認をしたいのですが」と声をかけた。
涼は頷き、泉に「すぐに戻る」と優しく言い残した。
そして次の瞬間、怜奈は泉に対し、挑戦的な目配せを向けた。
胸が嫌な予感に締め付けられた。
ついていけば傷つくことはわかっていたが、足が勝手に彼らを追いかけていた。
ホテルの最上階、お控室のドアがわずかに開いていた。隙間から漏れ聞こえてきた声に、泉は体中の血液が凍りつくのを感じた。
第4話
耳に入ってきたのは、花火についての詳細な打ち合わせではない。それは男女が情欲に流されている時の、押し殺したような息遣いと、お互いの体が触れ合う淫らな音だった。
ドアの隙間から中を覗いた瞬間、泉は二人の体がぴったりと絡まり合っているのを目にした。
涼は、怜奈を掃き出し窓に押し付けていた。これまで見たこともない、まるで怜奈を己の一部にしてしまいたいかのような力強さだった。
「涼、もう少し優しくして……」
「もっと激しくしてやる。自分が誰の女か、体で思い知らせてやるよ」
泉は自分の口を手で固く塞いだが、胃の底からこみ上げてくる吐き気をどうしても止められなかった。
「涼……」怜奈は拗ねたように言った。「私のことを一番に愛しているなんて言うけれど。どうして今日、泉さんのためにこんなに豪華なパーティーを開いて、あれほど立派な贈り物まで手渡したの。正直、嫉妬しちゃう……」
涼は掠れた声で小さく笑いながら、怜奈の首筋へと口づけを落とした。「そうか?それなら、次の君との記念日にはもっと大きなお祝いをさせてくれ。泉のより10倍も価値がある、特別なものをプレゼントしよう。約束するよ」
「パーティーやプレゼントはいらないわ」怜奈は涼の首に細い手を絡ませて甘い声を囁きながら、ドアの外で耳をすませている泉へと、一言一言を聞かせつけるように話した。
「私が本当に欲しいのは……今夜、泉さんの元へ帰らないで……あっちに会わないで。電話にも出ないで。ずっとここで私と体を重ねて……持ってきた一箱のコンドームが全部無くなるまでね……」
涼の息遣いは荒くなり、迷いなく応じた。「ああ、全部願い通りにしてやる。怜奈、欲しいものは全部与えるよ。この命さえもね。でも、今は俺だけに集中してろ……」
あとの言葉は、さらに激しくなった動作とあえぎ声にかき消された。
泉にはもう、それ以上聴くことも、見ていることも耐えられなかった。
逃れるように狂った足取りで向き直ると、おぼつかない体でひたすら薄暗い廊下を引き返した。心の中に巨大な穴があき、大切な何かが消えていくような感覚だった。
打ちひしがれたままパーティー会場の外のテラスへ戻ると、歓声が沸き上がった。「それでは皆様、桐谷社長による特別プレゼントをお届けいたします!愛の花火パフォーマンスです!」
観客が一番いい場所で見ようとテラスになだれ込んでくる。
人波に飲まれるようにして、泉はテラスの端へと追いやられた。
うわの空だったせいか足元がおぼつかない。おまけにテラスの柵は随分前に錆びついて壊れかけていたものだった――
バキッ!
断裂音と共に背後の支えが消えた。周囲の悲鳴が上がる中、泉は折れた柵から投げ出され、高いテラスから墜落した。
落ちていく中でぼんやりとした視界に、漆黒の夜空を飾る豪華な火花が広がる。そこには光る文字があった――
【泉、愛してる】
あの瞬間、16歳の時に見た光景が脳裏に浮かぶ。涼はスターライト・ハーバーの夜風の中で、空を埋め尽くす花火を指差して言った。
「泉、ここを上がる花火は、たったの1時間で2億の金額がかかるんだ。いつか必ず、俺は君のために一晩中空を埋め尽くしてやる。世界中に俺たちの愛を知らせるためにな!」
彼は約束を果たした。
だが、そこに自分への愛はもう残っていなかった。
意識が遠のく中、周りの慌てふためく人間によってストレッチャーへと押し込められる。鳴り響くサイレンが静寂を切り裂いていく。
体に冷たい計器が取り付けられ、チューブが差し込まれる。耳元で医師のあがく指示だけが耳奥を伝ってきた。
「多発性骨折と内臓破裂。危険な状態です!家族は?すぐに手術の同意書にサインが必要です!」
看護師が焦りと苛立ちを滲ませて言った。「患者さんのスマホの連絡先には『夫』って登録されている番号に何度もかけたんですけど……ずっと繋がらなくて。最後には、電源まで切られてしまいました!」
電源まで切られてしまった……
ああ、そうだ。彼は怜奈に約束したんだ。今夜は私の電話に絶対に出ないって。
皮肉に笑おうとしたが、血混じりの涙が目尻から溢れ出した。
昔のことを思い出す。彼のスマホの充電が切れていて、私の電話に出られなかったことがあった。その時、私が少しの間姿を消しただけで、彼は警察に連絡しかけるほど取り乱した。見つけ出したとき、彼は目を赤くして震える声で私を抱きしめたんだ。
「心臓が止まるかと思った。これから一生、君のために24時間繋がるようにしておくから!」
涼……
かつて東都中の人たちの前で、約束をしたよね。生涯を通してそばにいてくれると。
結局、約束なんてものは良心一つでどうとでもなるのね。
熱い涙が頬を伝い、絶望と共に、泉の意識は闇へと溶けていった。
第5話
再び目を覚ましたとき、鼻を突いたのは消毒液のにおいだった。
体中に走る激しい痛みが、高い場所から転落した衝撃を物語っていた。だが、体よりもひどく痛むのは、とうに傷だらけになった心だった。
病室のドアが開き、涼が慌ただしく入ってきた。その顔には、隠しようのない焦りと申し訳なさそうな色があった。
「泉、気がついたか?体は大丈夫か?本当にすまない。まさかそんな目に遭うなんて……あの時は……どうしても外せない国際会議があってね。スマホをマナーモードにしたまま置いていたから、気づかなかったんだ……」
涼は泉の青白くやつれた顔を見ていた。その目には激しい後悔と痛々しさが浮かんでいる。その真に迫った演技に、泉はまた騙されそうになった。
泉は静かに涼を見つめた。胸がナイフで何度も抉られるように痛み、最後には何も感じなくなった。
もう、涼が用意したもっともらしい嘘を暴く気力もなかった。
もしこれが他の男の浮気なら、ただ腹を立て、不快に思うだけだったろう。
しかし、よりによって相手は涼だった……
同じ漫画を読み、同じジュースを分け合って育った涼。幼い頃はいつも後ろにかばって、誰にもいじめさせなかった涼。若い日に星空の下で「一生泉を愛する」と誓ってくれた涼。そして、自分のために復讐を果たそうと、危険な場所へ飛び込んで命を落としそうになった涼なのだ。
20年もの間ずっと愛し続け、もはや自分の一部となった男性。
その涼が、かつて自分だけに注いでくれた唯一無二の愛情を、今はそっくり別の女に与えている。
涼を恨んでいるだろうか?いいえ、恨みきれない。涼は自分のために身を挺して守り、命を懸けてくれたのだ。
まだ愛しているだろうか?それももう違った。涼に何度も騙され、裏切られたことで、熱かった心はすでに冷めきった灰になっていた。残っているのは、底知れない疲労感と虚しさだけだ。
涼は、泉が沈黙していることに、深い事情があるとは思わなかった。ただ怪我とショックで、言葉を失っているだけだと思っていた。
それから数日間、涼はすべての仕事を断った。そして一日中病室に付き添い、食事の面倒から体の清拭まで細々と世話を焼いた。その甲斐甲斐しい姿は、まるですべてを捧げて泉を愛していたかつての夫そのものだった。
泉は魂のない人形のように、それを受け入れた。
退院したその日は、ちょうど父親の勇大の命日だった。
毎年この時期になると、泉は飲食も一切断った。そして勇大の墓前にまっすぐ座り、一日中ずっと手を合わせて供養をしていた。
そんな泉の隣に、涼も毎年だまって付き添い、共に祈りを捧げてくれた。
今年も同じだった。涼は車を運転して、泉を墓地まで連れていった。
空は今にも雨が降り出しそうに暗く、泉の心のようだった。
泉は冷たいお墓の前に座った。父親の墓石を見つめるうちに、大粒の涙が静かにこぼれ落ちた。
涼は、例年と変わらず泉の横にそっと寄り添っていた。
そんな時、この場に全くそぐわない人物が姿を現した。
怜奈が弁当箱を手に、しなやかな足取りでこちらに近づいてきた。その表情には、実に痛々しいほどの心配そうな色が浮かんでいた。
「社長、泉さん」怜奈はしっとりした声で語りかけ、弁当箱を差し出した。「今日は大事な日だとは伺っています。ですが、何か召し上がらないとお体が心配です。これだけでも少し召し上がってください」
涼はたちまち険しい顔になった。追い出すような鋭い口調で突き放すように言った。「誰に聞いてここに来た?今すぐ帰れ!」
涼に冷たく叱りつけられた怜奈は、すぐに目を潤ませた。不満そうに下唇をぎゅっと噛み、結局は弁当箱を残した。何度もこちらを振り返りながら、がっかりした様子で立ち去っていった。
その後ろ姿を眺めながら、泉の心は冷めきっていた。
それからしばらくして、お墓の管理員が数人通りがかり、小声でささやき合うのが聞こえた。
「さっきは驚いたな。足元も見ずに歩いていた女性が、あっちの階段から転げ落ちてな!」
「ええ、血がたくさん流れていて、ずいぶん大きな怪我をしたようで……」
その立ち話が耳に入った瞬間、涼の顔色は一変した。とっさに怜奈が去っていった方向をにらみつけ、その瞳には隠しきれない強い動揺と心配の色が滲んでいた。
第6話
泉は涼の反応を目にし、胸をチクチクと刺されるような痛みが走った。
以前、涼が一緒に墓前でいてくれたのは、愛してくれていたから。悲しみに共感し、父を実の親のように思ってくれていたからだ。
けれど今、彼の愛はもうここにはない。今の付き添いなんて、ただ「責任感がある」ように見せるための行為であり、何の意味もない。
泉は深く息を吸い込んで、泣き出したい気持ちをぐっと堪えた。その声は波一つないほど、ひたすら静かだった。「急ぎの用事があるなら、先に行って」
涼はその言葉を聞き、救われたような顔をした。そして振り返ると、申し訳なさそうに言った。「泉、ごめん。本当に急な会社の問題で、どうしても行かなきゃいけないんだ。次は……次は必ず最後まで付き添うから」
彼は一瞬言いよどんで、付け加えた。「君も、気をつけて。早めに帰るんだよ」
次?
泉は心の中で、自嘲気味にぽつりと笑うことしかできなかった。
そんなもの、もう二度とない。
涼は急ぎ足で去っていった。その足取りは、まるで少しでも遅れると大事なものを逃してしまうかのように、とても速かった。
泉は墓地の出口へと消えていくその後ろ姿を、静かに見届けた。そして目線を勇大の墓石に戻すと、背筋を真っ直ぐに伸ばし、暗くなっていく空の下、一人で静かに正座を続けた。
夜中になり、ひんやりとした雨が静かに降り始めた。それは徐々に大粒の雨になっていく。
冷たい雨がたちまち服をびしょ濡れにし、体ごと凍えさせた。それでも泉は微動だにせず、涙と絶望がすべて雨に洗い流されるがままにしていた。
翌朝になり、ようやく雨が止み始めた。空がうっすらと白んできた頃、泉は冷えきった足を重そうに動かしながら立ち上がった。そしておぼつかない足取りで、やっとのことでタクシーを捕まえて帰宅した。
ドアの鍵を開ける手は、かじかんで細かく震えていた。
玄関に転がっている見慣れないハイヒールと男物の革靴を見て、泉はその場にこわばってしまった。
ある予感が胸の中にむくむくと湧き起こり、心臓を強く掴まれたように苦しくなった。
泉は壁に手をかけ、一歩一歩、やっとの思いで寝室の前まで歩いていった。
隙間が開いたドアの向こうから、甘い声が聞こえてくる。
「はぁっ……涼、もうダメ……本当に無理だから……」怜奈が今にも泣き出しそうな、媚びるような甘い声を上げている。「一晩中激しくされすぎて、体がもう……」
すかさず、涼が掠れた低い声で笑った。「もうダメなのか?最初に仕掛けてきたのはそっちだろう?人を使って嘘をつき、階段から転落したなんて言うからどれほど心配したか……俺をここまで引きつけておいて、すぐに逃げようなんてずるいぞ。いい子だ、もう少し我慢しろ……」
「でも……もし泉さんが戻ってきたら、どうするの?」怜奈がちょっとだけ不安げに尋ねる。
涼は手元にある何かを一瞬見つめて、当たり前だと言うように告げた。「心配いらないよ。まだそんなに早くは帰ってこない」
それからすぐに、さらに激しい音と、耐えかねたように漏れる甘い声が再び室内に響き渡った。
泉がドアの隙間から見てしまったのは、怜奈が身にまとっている、自分の最もお気に入りだったあのシルクのネグリジェだった。
激しく動きながらも、涼の手は習慣のようになって、そっと優しく怜奈の後頭部に手を当て、ベッドの角に頭がぶつからないようガードしているのだった……
あの動作。かつては、彼が自分を溺愛し、骨の髄まで大事にしてくれていると信じていた証だった……
でも本当は、涼の体に染みついた癖だっただけ。相手が自分じゃなくたって、そうするものだったのだ。
冷え切ったあの雨が、とうとう泉の体を芯まで凍りつかせてしまったように思えた。胸に残っていた微かな未練すらも、冷酷な現実に砕け散ってしまったのだ。
悲しみが全身に広がり、最悪な裏切りを目にしたその苦しみは、もう限界だった体からすっかり力を奪っていった。目の前が暗転し、泣き声一つ発せられないまま、泉は冷たい玄関の床へと力なく倒れ込んだ。
第7話
再び目を覚ました時、病院のベッドの上にいた。
涼が泉の病床にずっと付き添ってくれていた。泉が起きたことに気づくと、彼は慌てて気遣わしげな表情になり、語りかけてきた。「泉、起きたんだね。気分はどう?なんで玄関先で倒れてしまったんだ?」
涼は少し間を置いてから、目に見えぬ緊張と何かを詮索するような視線で泉を見つめた。「昨日帰ってきたとき……何か見たりしなかったか?」
隠し事がばれるのを酷く怯えている涼を見て、泉はたまらなく可笑しく思えた。
涼にとって、見られていたなら丁度良い機会だったはずだ。これを機に離婚を突きつけて、怜奈を迎える口実にできるはずなのに、なぜ未だにこんな慌てふためき、後ろめたいフリをするのだろう?
泉は静かに瞳を閉じ、心から溢れてくるおぞましさとやり切れなさを押さえ込んだ。再び目を開けると、その瞳はすっかり冷たく静まり返っていた。
「ずっとお墓でいて、雨に打たれていたせいかもしれない。少し無理をしたみたい。ただ玄関の前でめまいがしただけ。何も見ていないわ。
それとも……何か見る必要でもあった?」
泉が答えたその瞬間、涼の肩が明らかにガクッと落ち、ホッと深い息を漏らした。それから再び優しげな顔つきを取り繕い、「いや、心配していただけだ。大したことなくて、本当によかった」と説明した。
その後、涼は「完璧な夫」を演じ続け、泉を献身的に看病した。
だが数日後、彼のスマホが突然、激しく鳴り響いた。
窓辺で電話に出た彼は、声を潜めていた。それでも、泉にはそのキーワードが鮮明に聞こえてしまった――怜奈、自動車事故、Rhマイナス血液型、至急、一刻も早い輸血……
Rhマイナス血液型……
泉の胸がどさりと重く沈んだ。
自分自身がその稀な血液型なのだから。
電話を切った涼は顔色を変えた。少しの沈黙のあと、彼は泉に言った。「泉、会社の急用だ。どうしても、今から現地に行かなくてはならないんだよ。安心して。早く終えて必ず迎えにくる」
焦燥感を必死に抑え込む彼の背中を見ながら、泉は何も聞かず、小さく頷くことしかできなかった。
「急用」という名の言い訳の先には、彼の「本命」が待っているのだ。
とうの昔に、知っていた。
夜、病室に横たわる泉は、虚脱感のせいで、うとうとと浅い眠りを繰り返していた。
朦朧とした意識の中で、誰かが静かに病室へ入ってくる足音がした。身構える間もなく、首のあたりに激しい痛みが走る。そして意識は闇へと消えていった。
次に意識を取り戻したとき、泉は冷たい手術台の上に拘束されていた。腕には圧迫帯が巻かれ、血管に深く突き刺さった太い針からは、血液が血液バッグへと吸い出されていく。
抵抗しようと体が動いたが、すでに指一本すら満足に動かせなかった。
すぐそばの仕切りカーテン越しに、看護師と涼の会話が漏れ聞こえてきた。
「桐谷さん、奥さんはすでに重度の貧血気味です。これ以上抜き続けるのは、命に関わります。ここで止めるべきでは……」
その時、冷え切った声が、ためらうことなく看護師を遮った。「ダメだ。続けろ!怜奈が最優先だ!」
この残酷極まりない声は、まるで鋭いナイフのように、泉の最後の砦を無残に突き破った。
自分の耳を疑った。
怜奈を救うためだと言って、彼は……あろうことか、私を気絶させて輸血室へ運び込ませた。まるで私のことを人間とも思わず、ただ血を抜き取るためだけに!
血液パックが、みるみる膨れ上がっていく……
1000cc……
看護師の声が震えていた。「桐谷さん、もう1000ccです!もう限界ですよ!」
「続けろ!」彼の声は冷酷なまでに言った。
1500cc……
「桐谷さん!泉さんの心拍数が急降下しています!」
「言ったはずだ、続けろ。足りない!」
2000cc……
「桐谷さん!もう本当に……限界なんです!すでに2000ccも……」
「続けろ!足りるまで抜き続けろ!」
泉の体は冷え、やがて軽くなっていく。消えゆく灯火のように、意識はどこか遠くへ離れていった。
最後に涼の言い放った「続けろ!足りるまで抜き続けろ!」という非道な言葉を聞いた瞬間、泉の意識は糸が切れたように、深い闇に呑み込まれていった。
第8話
再び死の淵から引き戻された泉が目を覚ますと、そこには変わらず寄り添う涼の姿があった。
泉は思わず自分の腕に目をやった。血を抜かれすぎたその場所は青あざになり、痛々しく腫れ上がっていた。
涼の視線も泉の腕に向けられ、その顔にすぐさま心配と申し訳なさそうな色が浮かんだ。
「泉、昨日急に倒れたんだよ。本当にびっくりした。すぐに検査を受けることにして、血を少し抜いたんだけど、何事もなくて本当によかった……」
検査のために少し血を抜いた、だって?
泉は涼が平気な顔で嘘をつくのを見つめた。以前の健康診断でほんの少し血を抜いたとき、彼はひどく心配してくれた。血を作るのは大変だからと、高級なサプリメントや栄養剤を山ほど買い込んできてくれたのだ……
しかし今では、命に関わるほどの血を抜かれているのを見ておきながら、「検査のために少し抜いた」と、平然と言えるのだ。
過ぎ去った日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、目の前の残酷な現実と対比され、泉は息をするのさえ苦しくなった。
彼女はただ黙って目を閉じた。
数日後、泉は無事退院することになった。
そして、涼が泉を迎えにきた。
車が途中に差し掛かったころ、涼のスマホが続けて何度も震えた。誰かからラインが届いたらしい。
信号待ちの合間に涼が画面を覗き込む。泉が視線の端でそれを見ると、そこには怜奈から送られてきた、かなり際どい可愛い服をまとった誘惑するような写真が映し出されていた。
涼は思わず生唾を飲み込み、ハンドルを握る指に力がこもった。
彼は数秒ほどためらった後、ゆっくりと車を道路の脇に寄せた。
涼が振り返ると、その表情はいつものように完璧で、いかにも申し訳なさそうだった。「泉、ごめん。急な会議が入っちゃって、どうしても会社に行かないといけないんだ。悪いけど、ここからタクシーで帰ってくれるかな?」
また急な会議。
泉は、もはや鼻で笑う気力さえ残っていなかった。
ただ静かに涼を見つめるだけで、うなずきもしなければ、首を横に振ることもなかった。
涼は泉が納得したのだと思い、ドアを開けた。泉が車を降りると、窓を下げて言った。「泉、またね。家に着いたら連絡して」
泉は黙って見送るだけで、お別れの言葉を口にはしなかった。
なぜなら、1時間前、すでに健一から連絡が届いていたのだ。
「泉ちゃん、準備はすべて整った。迎えの車がすぐに行くよ」
涼、別れの言葉は必要ないわ。
もう……二度と会うことはないから。
思った通り、涼の車が去って間もなく、何の飾り気もない黒い車が音もなく泉の前に停車した。
車から私服姿のきびきびとした人物が二人降りてきた。泉の身元を確認すると、二人は特別なスマホを1台差し出した。
「これは内部システム専用の端末です。最後の消去ボタンを押せば、一般にアクセスできる世の中のあらゆるシステムから、あなたに関する全てのデータが最高ランクの暗号で隠されます。
住民票、学歴、戸籍、婚姻関係、これまで生活してきた全ての跡も消えるのです。完全に存在が消え、普通の方法では誰もあなたを見つけ出せなくなります」
泉がスマホを受け取ると、画面には赤く、はっきりと「個人情報の消去確認」という選択ボタンが表示されていた。
顔を上げると、涼が消えた方向は、もう何もない。
20年間、涼と過ごした思い出のすべてが脳裏に浮かんだ。嬉しかったこと、悲しかったこと、幸せだったこと、辛かったこと……だが、最後に心に残ったのは、冷たい顔で「続けろ」と言い放った涼の冷酷な声だった。
泉は迷わなかった。わずかに震える、けれど強い意志がこもった指先で、画面の赤いボタンを強く押し込んだ。
暗くなった画面が再び光り、新たな通知が浮かび上がった。
【消去の手続きを完了しました。これまでのあなたの決断と、尽力してくれたすべてのことに心から感謝いたします。どうか、これからの道のりもお元気で】
泉はスマホを相手に返すと、車のドアを開けて中へと乗り込んだ。
車は滑らかに動き出し、涼が消えた場所とは正反対の方向へ、迷いなく走り去っていく。
振り返ることもなく、ここへ戻ってくることも二度とない。