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愛は難く、別れは易し
西京市、パスポート申請窓口の前で、係官は目の前の静河をどこか気まずそうに見つめていた。 「榎木静河(えのき しずか)様、本当に海外へ移...
Chương (1)
第1章
西京市、パスポート申請窓口の前で、係官は目の前の静河をどこか気まずそうに見つめていた。
「榎木静河(えのき しずか)様、本当に海外へ移住するつもりですか。ご主人の榎木昭弘(えのき あきひろ)様は、まだ渡航の許可が下りていないと伺っております。ここにご署名、ご捺印なさいますと……当分、お会いになるのは難しくなるかもしれません」
静河に迷いはなかった。印鑑を手に取り、申請書に静かに判を押した。
――一生、会わなくていい。それでいい。
それ以上は何も言えず、係官は書類を受け取った。
「では、手続きには二週間ほどかかります。今しばらくお待ちください」
静河は小さく頷き、窓口を離れた。出口へ向かう背中に、職員たちの低い囁きが追いかけてくる。
「榎木様とご主人、何かあったのかしら……でも、ここまでなさらなくてもねえ。あのご夫妻、西京市内でも評判のおしどり夫婦だったのに」
第1話
西京市、パスポート申請窓口の前で、係官は目の前の静河をどこか気まずそうに見つめていた。
「榎木静河(えのき しずか)様、本当に海外へ移住するつもりですか。ご主人の榎木昭弘(えのき あきひろ)様は、まだ渡航の許可が下りていないと伺っております。ここにご署名、ご捺印なさいますと……当分、お会いになるのは難しくなるかもしれません」
静河に迷いはなかった。印鑑を手に取り、申請書に静かに判を押した。
――一生、会わなくていい。それでいい。
それ以上は何も言えず、係官は書類を受け取った。
「では、手続きには二週間ほどかかります。今しばらくお待ちください」
静河は小さく頷き、窓口を離れた。出口へ向かう背中に、職員たちの低い囁きが追いかけてくる。
「榎木様とご主人、何かあったのかしら……でも、ここまでなさらなくてもねえ。あのご夫妻、西京市内でも評判のおしどり夫婦だったのに」
「そうよ、うちの主人も昭弘さんの部下でね、いつも話を聞かされるんだけど……もう本当に奥さんを溺愛していてね。
静河さんのお肌が繊細だからって毎日牛乳を大量に取り寄せてお風呂に入れてあげたり、静かな環境が好きだからってわざわざ郊外に豪華な一軒家を建てたり。
前に静河さんが街へ出たきり、ほんの一時間ほど居場所が分からなくなっただけで、新聞に尋ね人広告まで出したっていうんだから。それなのに黙って国を出ようとしているなんて……昭弘さん、平気でいられるはずがないわ」
周囲の噂話を耳にしながら、静河はかすかに口の端を上げた。瞳に浮かぶ自嘲の色は、じわじわと濃くなるばかりだった。
そうだ。昭弘がどれほど静河を愛していたか――それは誰もが知っていた。
当時の静河は、舞踊団でもひときわ目を引く花形だった。
一方の昭弘は、市内でも名の通った旧家の御曹司。冷淡で近寄りがたく、三歩以内に女を近づけない男だと、周囲ではまことしやかに囁かれていた。
その昭弘が変わったのは、あの夜会の晩だった。
静河に一目惚れした昭弘は、狂ったように彼女にアプローチしていた。宝石やドレスを惜しげもなく贈り、三日三晩、夜空を染め尽くす花火を打ち上げた。
ある日、静河がふと「昔よく食べた栗のお菓子、もう生産終了だけど食べたいな」と呟けば、猛吹雪の真夜中に車を走らせ、いくつもの街を渡り歩いて探し出し、全身ずぶ濡れのまま、まだ温かい包みを両手で抱えて現れた。
だが、静河が彼を受け入れると決めたのは、そのためではない。
両親が急逝した日のことだった。
遠く離れた県外の病院へ非常勤医師として派遣された昭弘は、すべてを放り出して駆けつけた。よれたスーツに、血走った目。それでも、静河をそっと抱きしめた。
「静河、泣くな。俺がいる。ずっとそばにいるから」
その瞳に宿る深い愛情を見たとき、静河の胸が、一瞬どきりと跳ねた。
――この人だ。そう決めた。
しかし、それほど誠実だった人が、三ヶ月前、誘惑に屈した。職を探して田舎から上京してきた静河の従妹、森永純子(もりなが じゅんこ)と密かに関係を持つようになったのだ。
静河のために建てた一軒家のソファに、キッチンに、夫婦のベッドに……至るところに、彼らの痕跡が残っていた。
榎木家は国の機密に深く関わる家で、海外渡航には厳しい制限があった。昭弘も例外ではなかった。
静河がここを出てしまえば、彼はもう二度と追っては来られない。
静河は移住査証の申請控えをバッグにしまい、まっすぐ榎木家の屋敷へ向かった。
扉を押し開けた瞬間、妙な匂いが鼻をついた。
静河は拳を握りしめ、掌に爪が食い込む痛みで己を保ち、何でもない顔をして中へ入る。
壁に飾りをつけていた二人が振り返った。昭弘は一瞬ぽかんとしたあと、すぐに目元を和らげ、歩み寄って静河の手を握った。
「静河、そんな薄着で寒くなかった?買い物に行くと言ってたのに帰りが早かったね。まだサプライズの準備が終わってなかったのに」
サプライズ?
静河は夫を見つめた。だが視線は自然と、彼の首元で止まってしまう。
そこには、赤く散ったキスマークがあった。
睫毛がかすかに震えた。胸を抉る痛みを、静河はただ黙って押し殺した。
返事がないのを見て、傍らの純子がにこにこしながら近づいてくる。
「昭弘さんったら本当にお姉ちゃんが好きなのね。出会い記念日をこんなに盛大にお祝いするなんて……」
純子は意味ありげに言葉を切り、ソファに山積みになった贈り物を指さした。
「ほら、これ全部、昭弘さんが用意してくれたプレゼントよ」
静河が指先に目をやると、贈り物の山の下に、黒く染み広がった濡れ跡が見えた。
頭の中で、何かが弾けた。
玄関の匂い。目の前の痕跡。すべてが疑惑を残酷なまでに裏付けていた。
――好きだと?妻へのプレゼントを用意する傍らで、純子とソファでもつれ合い、布地に染みを作るほど乱れること。それが彼の「好き」なのか。
これほど心を抉る痛みが存在するものだとは、思わなかった。
昭弘は静河の異変に気づかぬまま、用意したネックレスを彼女の首にかけた。その声は、溶けそうなほど優しかった。
「静河、出会い記念日おめでとう。今夜はキャンドルディナーも用意してる。食材は全部、君の好きな洋食の高級食材を取り寄せたんだ」
静河は全身の震えを感じながら、首を横に振った。
「……食べられない。気分が、悪くて」
今の彼女にとって、昭弘と同じ空間にいる一秒一秒が拷問だった。
最初から伝えてあったはずだ。自分は不貞を極度に嫌う性分で、ほんの僅かな裏切りの傷ひとつ受け入れられないのだと。
あれほど惹きつけておいて、どうして裏切れるのか。
静河の言葉に血相を変えた昭弘は、すぐさま何人もの医師に連絡を入れた。
検査で異常なしと出ても安心できず、部下を走らせて栄養価の高い高級食材を山ほど買い込み、彼自身の手でホットミルクを温めて飲ませ、彼女を寝かしつける。
四、五時間かかって、静河はようやく眠りに落ちた。
深夜、喉の渇きで目を覚ました彼女は、水を飲みに立ち上がる。
だが、扉を開けた瞬間――足が止まった。
隣の部屋の扉が大きく開け放たれていた。皓々とした月明かりが差し込み、ベッドに絡み合う二つの裸の影を照らし出している。
「今日のネックレス、すごく高いやつでしょう。ずっとおねだりしてたのに、昭弘さんったら全然くれなくて。お姉ちゃんは何もしてないのに、ぽんと目の前に出してあげるんだから」
情事の余韻の中、純子は彼の腰に脚を絡めたまま唇を尖らせた。
昭弘は眉をひそめ、身を起こしてベッドの端に腰かけ、葉巻に火をつける。
「自分の立場を忘れたのか。俺が愛しているのは静河ひとりだと言ったはずだ。この関係を続けたいなら、人目につかない場所だけにしろ。もし彼女に知られたらどうなるか、分かっているな」
純子は青ざめながらも、裸の背中から抱きついて言った。
「まあ、お姉ちゃんを愛してるのは分かってるわ。でも私だって好きなの。少し焼きもちを焼くくらい、いけないかしら」
昭弘は答えず、引き出しから静河と同じデザインで色違いのネックレスを取り出した。
「そういう顔をするな。お前にも買った。ただし、人前では絶対につけるな。彼女に見つかったら、この関係は終わりだ」
純子の顔が輝いた。キスマークが浮かぶ首にネックレスを当て、弾んだ声を上げる。
「ありがとう!やっぱり昭弘さんの中に私の居場所があるのね。それにしても、そんなにお姉ちゃんに逃げられるのが怖いの?」
昭弘はほとんど間を置かずに答えた。
「ああ。彼女なしでは生きていけない。もし離れていったら、俺は狂う」
言葉と同時に、昭弘は純子を再び押し倒した。ベッドが軋む音と、純子の声が闇に響く。
廊下に立ち尽くしたまま、静河の頬を涙が伝った。
赤く腫れた目で、壁の結婚写真に写る夫の笑顔を見つめる。
――昭弘。十五日後、あなたが狂うを待っているわ!
第2話
朝、静河は騒がしい声で目を覚ました。
窓を押し開けると、屋敷の外で、疲れ果てた顔の女性が夫らしき男の胸ぐらを掴み、喉を張り裂けんばかりに叫んでいた。
「十年以上、この家のために身を粉にして尽くしてきたのに!結婚するとき、永遠に愛すると言ったじゃない。それがどうして、何年も経たないうちに他の女と……!」
周囲の住人たちが事情を察してひそひそし始める。男は体裁を気にして顔を歪めると、女の腕を掴んで家の中へ引きずり込んだ。
「恥ずかしい真似はもういい。中へ入れ」
呆然と見下ろしていた静河の耳を、後ろから温かい手がそっと包んだ。
「ああいうものは聞かなくていい」
静河は振り返らず、ただ静かに尋ねた。
「ねえ。人の心って、いつかは変わってしまうものなの?」
背後の体がわずかに強張った。昭弘は静河を自分の方へ向かせ、真剣な瞳で言った。
「他の奴らのことは知らない。でも、俺は変わらない。静河、俺はこれからの人生、君だけを愛する」
「これからの人生、ずっと私だけ?でも一生って、長いよ」
昭弘はそっと彼女を抱き寄せ、耳元に温かな吐息を落とした。
「一生が長くても、欲しいのは君だけだ」
静河はようやく笑った。だがその笑みの奥には、かすかな苦味が混じっている。
「もしもの話だけど……もし、裏切ったら?」
「もし裏切ったなら、天罰が下ればいい。惨めな死に方をしてもかまわない」
すべての真実を知った上で聞くその言葉に、胸に鋭い痛みが走った。
「そんな恐ろしい誓いを立てて、本当に怖くないの?」
昭弘は低く笑う。
「怖くないさ。俺が君をどれほど愛しているか、誰よりも俺自身が知っているから。信じられないなら、胸を切り開いて心臓を見せてやる。それでも駄目なら、命ごと君にやる」
――命をやるって?それなのに、どうして下半身すら律することができなかったのか。別の女と交わった匂いを体に残したまま、甘い言葉だけが口から零れ落ちてくる。
「あれ?二人は何してるの?」
不意に入り口から声が響き、静寂が破られた。
瞬間、昭弘の体がわずかに固まる。彼は眉をひそめた。
「……そんな格好で、どこへ行くんだ」
それは妻の従妹に向ける気遣いとは違うトーンだった。着飾って出かけようとする妻を案じるような、どこか拗ねた響きがある。
その声の色に気づいた純子は、艶やかに微笑んだ。
「ふふ、舞踊団の交流パーティがあるの。素敵なひとでも探そうかなって。今夜は帰らなーい」
その言葉に、昭弘の表情があからさまに変わった。純子はその変化を見てさらに微笑みを深める。
「そうだわ。今日、お姉ちゃんと何かご予定は?」
昭弘はそこで我に返ったように、静河の手を強く握った。
「……今日はふたりで、本家に顔を出す」
純子は軽く笑い、「よろしくお伝えして」とだけ言い残して出ていった。
三十分後、昭弘は静河を乗せて本家へと車を走らせた。
両親は、静河という嫁を快く思っていなかった。家柄が釣り合わないというのが表向きの理由だが、結婚して五年経っても子が生まれないことが、彼らにとって最大の不満の種だったのだ。顔を合わせるたび、冷ややかな視線を向けてくる。
昭弘は妻を気遣い、本家へ顔を出す機会を減らしてきた。しかし今回は「母の具合が悪い」と連絡があり、やむなく出向くことになった。
玄関を入ると、談笑していた両親の顔がさっと曇った。昭弘はすぐに察する。静河への当てつけだと。
「……そういう態度をとるなら、俺たちは帰ります。これからはもう来ません」
その一言に、昭弘の父親、榎木太郎(えのき たろう)がテーブルを叩いた。
「なんという口の利き方だ!たかが女ひとりのために、親を捨てるつもりか!」
昭弘は静河の手を握ったまま、一歩も引かなかった。
「俺は静河を一生の伴侶だと言ったはずです。声を荒らげることさえためらうほど大事にしている人を、あんなふうに扱われて、俺が平気でいられると思いますか。
次に同じことをしたら、俺はもうこの家を家だとは思いません!」
第3話
昭弘がこれほど強く出るとは、誰も思っていなかった。リビングの空気がしんと静まり返る。
だが静河は、今この瞬間も自分を守ろうとする夫を見ながら、何の感慨も湧かなかった。
息子の本気に押され、母親の榎木喜久美(えのき きくみ)がついに折れた。
「……分かったわ。とりあえず食事にしましょう」
食卓では、器の音と、喜久美が時おり漏らす冷ややかなため息だけが響いていた。
静河は箸を持つ手を強張らせた。これが説教の前触れだと知っていたからだ。
案の定、喜久美が箸を置いた。
「他のことは言わないわ。でも、跡取りくらいは産んでもらわないと。嫁いで五年、いっこうに吉報がないなんて、どこを探してもそんなお嫁さんはいない。榎木家の血を絶やすつもり?」
昭弘もすぐに箸を置く。
「前にも言ったはずです。静河は痛みに弱いんだ。あんな苦しみを味わわせるくらいなら、俺は生涯子どもなど持たなくていい」
両親はそれを聞いて、食欲を失くしたような顔をした。
また言い争いになりかけたその瞬間、静河が口を開いた。
「あと半月もすれば……お孫さんのことで、いい報告ができると思います」
全員の視線が静河に集まる。
「静河?」昭弘が手を掴んだ。「子どもは作らないと決めてたじゃないか。無理しなくていい」
静河は彼の真剣な顔を見て、微かに唇の端を上げた。
孫の話と言っただけで、自分が産むとは言っていない。
半月後、自分は国を出ている。昭弘があれほど純子に執着して夜な夜な体を重ねているのなら、彼女に産ませればいい。それが一番自然な結末だった。
「お義父様たちのご希望ですから。叶えてあげるべきだと思って」
あまりに素直な言葉に、昭弘の胸がざわめいた。素直すぎて、おかしい。
一方、義父母の顔は怒りから満面の笑みへと変わった。
「そうよ、最初からそう言ってくれればいいのよ」
昭弘がまだ何か言おうとしたとき、部下が入ってきて彼の耳元で短く囁いた。
昭弘の表情が凍りつく。
その内容は、すぐ隣にいた静河の耳にもはっきりと届いていた。
朝から純子を尾行させていた部下からの報告――純子がお見合い目的のパーティで、見知らぬ男と親しげにチークダンスを踊っているという。
聞いた瞬間、昭弘は堪えきれないように立ち上がった。
「すまない静河、急ぎのトラブルが起きた。ここでゆっくり食べて待っていてくれ。片づいたらすぐ迎えに来る」
返事も待たず、上着も持たないまま、昭弘は嵐のように出ていった。
彼が消えると同時に、義父母たちの遠慮はなくなった。冷ややかな言葉の矢を、静河へ次々と放ってきた。
「あんたねえ、嫁いで何年目だと思ってるの。子宝ひとつ宿せないで恥ずかしくないの?親も財産もない孤児のくせに。
昭弘に拾ってもらえなければ榎木の嫁になんてなれなかったでしょう。こっちがどれだけ損したか」
「おい、なに涙ぐんでいるんだ。あとで昭弘に告げ口する気か?嫁はみんな叱られて一人前になるんだよ。あいつに余計な気苦労をかけないでくれ!」
午前から午後にかけての五時間、静河はひたすらその言葉を浴び続けた。
夜になってようやく、昭弘が迎えに来た。
帰路の車内は静まり返っていた。しばらくして、静河が口を開く。
「お仕事の用事は済んだの?」
昭弘は一瞬驚いたような顔をし、それから穏やかに答えた。
「ああ、全部終わったよ」
そう言いながら、ハンドルに置いた人差し指が、無意識に「とんとん」と縁を叩いた。機嫌がいいときにやる、昔からの癖だった。
静河の沈黙に気づいたのか、昭弘が少し遅れて尋ねる。
「俺が出たあと、母さんたちに何か言われたかい?」
静河が答えようとして、ふと足元に目が落ちた。
破れたドット柄のストッキングが一足、マットに転がっていた。
純子に会いに行ったとは思っていた。でも、まさかこの車の中で――
結婚して五年、夜の営みのことでは静河はずっと奥手だった。彼を退屈させていないか不安で、赤くなって尋ねたこともある。昭弘は笑って抱きしめ、何度もキスして言ってくれた。
「静河、俺は君にしか欲情しない。ボロ切れを着ていたって胸が高鳴る。嫌なことを無理にしなくていい。愛している相手なら、ありのままで十分心が動くんだ」
そんな言葉をくれた人が、陰でこれほど獣のように乱れていた。
静河の目が赤く染まる。
「……見れば分かるでしょ?」
昭弘は純子の件がばれたとは知らず、本家でいじめられて泣いているのだと思い込んだ。
慌てて車を止め、静河をきつく抱きしめて宥める。
「すまない、俺が悪かった。君をあんな所に置いていくべきじゃなかった。もう二度と、こんな思いはさせないから」
強く抱かれながら、静河は窒息しそうなほどの息苦しさしか感じなかった。
涙をこらえ、そっと彼を押し返す。
「……いいから、運転して」
どうせ、ふたりに「これから」はないのだから。
第4話
家に戻ると、昭弘は車を駐車場へ回しに行き、静河が先に玄関のドアを開けた。
扉を開けると同時に、ネグリジェ姿の純子がソファにもたれ、お菓子を頬張りながら雑誌を眺めている光景が目に飛び込んできた。
静河は足を止め、わざとらしく言った。
「今日は交流会があって帰らないと言っていなかったかしら?」
純子は口元を妖艶に綻ばせ、恥じらうふりをして言った。
「ごめんね、言い忘れたの。実は彼氏と喧嘩して、腹いせに交流会に行くって言ったんだけど、そのとき彼に話したら平気そうにしていたのに、私がパーティに着いたら、すぐ彼も現れて、私を連れ戻してしまったのよ」
そう言いながら、純子はわざとらしく襟元を引き下げ、首筋にびっしりと散った艶めかしいキスマークを見せつけた。挑むような瞳が静河を射抜く。
「まさか、あんなに嫉妬深い人だとは思わなかった。車の中で三度も……」
静河は爪が食い込むほど拳を握り締めた。痛みが全身に広がっていく。
深く息を吸い、落ち着いた声で尋ねた。
「彼氏なんていたのね。一度も聞いたことがなかったけれど」
純子は顔を上げ、気のない様子で笑った。
「三ヶ月前からよ」
三ヶ月前。純子がここに引っ越してきて、わずか三ヶ月。
つまり、この家に来た初日からだ!
静河の呼吸が浅くなり始めた。何か言おうとした瞬間、背後から大きな手が静河の肩をそっと抱いた。
戻ってきた昭弘が、穏やかな声で言った。
「静河、今日は一日疲れただろう。風呂を沸かしてくるから、ゆっくり温まって早く休んで」
そのまま浴室へ押し込まれた。服を脱ごうとして、着替えを忘れたことに気がついた。
扉を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に全身が凍りついた。
リビングのソファで、昭弘が純子のネグリジェを荒々しく引き剥がし、押し倒していた。大きな手が細い腰を抱き込み、鎖骨から下へと唇を這わせていく。
純子は彼の肩にすがり、仰け反りながらか細い声を漏らした。
「ん……もう少し優しくして……お姉ちゃん、まだお風呂に入っているのよ?昼間の車の中じゃ足りなかったの?」
昭弘は応えるように、純子を抱く腕にさらに力を込めた。純子の喘ぎに泣き声が混じり始める。
「黙れ。よそに男を作ろうなどとしてみろ、どうなるか分かっているな」
純子の唇の端がかすかに上がった。そして何かに気づいたように視線を上げ、扉口で固まっている静河をねっとりと見つめた。
「んっ、わかった、もう行かない。全部あなたのものでいい。この……やきもち焼きさんっ」
静河はそれ以上見ていられなかった。着替えだけ掴んで扉を閉め、浴室へと逃げ込んだ。
湯の中に体を沈め、目を閉じる。さっきの光景が焼きついて離れなかった。
――
五年前の新婚旅行で、静河は海辺でほかの男性の腹筋を一瞬眺めただけで、昭弘は顔色を変えた。
彼女を部屋に連れ戻し、七日間、一歩も外に出さなかった。七日目、避妊具すら使い果たし、ベッドが軋んで壊れた。
昭弘は静河を腕の中に収め、目を赤くして震える声で言った。
「静河、あんな奴らにあるものは、俺にだってすべてある。だから、よそを見ないでくれ。俺を捨てないでくれ」
何度も誓わされて、ようやく彼の嫉妬が収まった。あの頃から静河は、ほかの男性を見るのをやめた。
それと同じ狂おしさで、今は純子のために乱れている……
静河は湯の中から顔を上げ、深く息を吸った。
浴室を出ると、部屋には昭弘ひとりだった。
テーブルには切り分けられた果物と、湯気の立つコップが置いてある。
静河が出てくるのを見た昭弘は、すぐにコップを差し出した。
「日を数えたら、あと数日で生理だろう。前もってミロを淹れておいた。温めると少しは体が楽になるだろう」
静河はコップを両手で受け取った。温かかった。でも、胸の中には何の温もりも届かない。
わからなかった。どうして、これほど演じ続けることができるのか。ほかの女の肌から離れた直後に、こんなふうに優しい夫の顔ができるのか。
その問いが胸に引っかかったまま、静河は一晩中まともに眠れなかった。
うとうとしかけたとき、隣で深く眠っていた昭弘が突然、声を上げた。
「静河!」
次の瞬間、弾かれたように目を覚ました昭弘は、暗闇の中で必死に手を伸ばした。静河の体に触れてようやく、しがみつくように抱きしめた。
「静河、行くな!」
「……どうしたの?」
昭弘は目を赤くして言った。
「悪い夢を見た。君が行ってしまう夢だった。夢でよかった……まだここにいてくれて、本当によかった」
静河は目を伏せ、言葉を飲み込んだ。
――もうすぐ、ここにいなくなるよ。
その夢のせいなのか、翌朝、昭弘は珍しく静河を職場に連れていくと言い張った。断っても、しつこく頼み込む。これ以上時間を使いたくなくて、静河は仕方なく外に出た。
オフィスのデスクには、自分の写真が何枚も飾ってあった。
見つめていると、背後から昭弘が抱きついてきた。
「近づいてくる女が多くてな。これを置いてからは、魔除けとしての効果は抜群だった。安心してくれ、俺は浮ついたことなんかしてない」
静河は何も言わなかった。
部下が会議の開始を告げに来ても、昭弘はなかなか離れようとせず、最後に静河をもう一度抱きしめてからオフィスを出た。
ひとりになった静河は、あてもなく廊下を歩いた。
「静河!」
振り返ると、舞踊団時代の同僚、矢作愛子(やはぎ あいこ)が立っていた。用事があって来たらしく、少し立ち話をした。やがて愛子が思い出したように言った。
「静河、私、退団してからパスポートセンターで働いているの。あなた、海外へ移住するって本当?旦那さんには話してあるの?」
静河が口を開こうとした瞬間、背後から息を呑む声がした。
「移住ってなんだ!?」
第5話
静河が振り返ると、昭弘が青ざめた顔で立っていた。
彼は駆け寄って静河の手を掴んだ。
「静河、誰が海外へ移住するんだ!」
静河は心臓が跳ねるのをこらえ、愛子を指さした。
「愛子が。発つ前に食事をしたいって」
愛子は驚いて静河を見たが、夫婦の間に口を挟むわけにもいかず、引きつった笑みを浮かべて頷き、そそくさと去っていった。
静河の表情があまりに平静だったせいか、昭弘は嘘だとは考えもしなかったようだった。それでも、彼女をぎゅっと抱きしめる。
「君のことかと思った。心臓が止まるかと思ったぞ」
静河はかすかに口の端を上げた。
「移住くらいで、そんなに大げさな」
昭弘はまだ動揺が収まらない様子で言った。
「静河、うちの事情は知っているだろう。榎木家は三代にわたって、防衛関係の中枢に身を置いてきた家だ。海外へ出るには、厳しい許可が要る」
少し間を置いて、念を押すように続けた。
「もし俺が何か悪いことをしたなら、叩いてもいい、罵ってもいい、いっそ殺してもいい。でも移住だけはしないでくれ。そうされたら、永遠に探せなくなる。それは殺されるより辛い」
昭弘の腕の中で、静河はただ微笑んだ。
「わかったわ」
何かを感じ取ったのか、その後数日、昭弘は静河を片時も離さなかった。旧友が新しくレストランを開いたと誘いが来ても、静河を連れていくと言い張った。
気取られたくなかった静河は、仕方なく同行した。
店に入ると、昭弘の友人たちが一斉に出迎えた。
「今日はゆっくりしていってください。邪魔は入りません」
「静河さんが静かな場所を好きなのはみんな知ってるから、今日は貸し切りにしたんですよ」
「さあさあ、こちらへどうぞ。デザートも切ってあります。料理もすぐ来ますから、おすすめを全部出しますね」
昭弘は苦笑しながら言った。
「お前たち、いつからそんなに気が利く奴らだったか?」
「静河さんが昭弘さんの宝だって、知らない人はいませんよ。静河さんに気に入ってもらえなかったら、こいつと付き合いが続けられないじゃないですか」
「そうそう、昭弘は結婚してから友達のことなんか眼中にないんだから、静河さんを味方につけるしかない」
笑い声が広がり、場が和む。
そのとき、小柄な影が店に入ってきた。純子だった。
マネージャーが慌てて前に出た。
「申し訳ございません、本日は貸し切りとなっておりまして」
純子はそれを押しのけて歩いてくる。
「お姉ちゃん、昭弘さん!貸し切りはあなたたちだったんですね。ちょうどここで食事しようと思ってたの。一席加えてもらえるかしら」
返事も待たず、純子は静河の隣に腰を下ろした。そして薄暗い照明の陰で、昭弘の手を取り、自身のスカートの奥へと誘い込んだ。
静河の体が微かに震えた。
横を見ると、昭弘は純子が現れた瞬間こそ追い払おうと顔を動かした。しかし手を引き込まれた瞬間、目を閉じた。長い指が、妖しく蠢いていた。
静河は呼吸ができなくなりそうだった。必死に感情を押し殺し、何も気づいていないふりを続けた。
食事の途中、静河は席を立って化粧室に向かった。
冷たい水で何度も顔を洗い、気持ちを落ち着けようとしていると、鏡の中に純子が現れた。
「悪いことは言わないけど、あんたまだ若いんだから、もう少しおしゃれしたら?いつもそんな地味な格好して」
静河が顔を上げると、鏡の中の純子が、どこか嫌そうな目でこちらを見ていた。
「ねえ、私を見て――」
純子は大きなコートを勢いよく開いた。
その下には、肌が透けるほど扇情的な、黒レースの下着だけがあった。
「男なんて見た目で動くものでしょう。賭けてもいいけど、これを見せたら昭弘さん、あんたの隣に座ってると思う?それとも……こっそりここで私を抱きに来ると思う?」
静河の体が小刻みに震えた。何も言わず、手の水を振り払って席に戻る。
しばらくして純子も戻ってきた。昭弘の横を通り過ぎながら、そっとメモを渡す。
昭弘はそれを広げた。一行だけの短い文字を読んだ瞬間、ごくりと喉を鳴らし、目の色が変わった。
何でもない顔で紙をポケットにしまい、立ち上がる。
「静河、急ぎの用ができた。先にここで待っていてくれ。すぐ戻る」
返事も聞かずに、昭弘は出ていった。少しして純子も理由をつけて席を立つ。
ふたりの消えた背中を見送りながら、静河はひたすら呼吸を整えようとした。それでも胸の痛みは鋭く、波のように繰り返し打ち寄せてくる。
昭弘も同じ地獄に引きずり込んでやりたい。もっと苦しめたい。
夜が深まっても、すぐ戻ると言った昭弘は戻らなかった。
友人たちが気まずそうに顔を見合わせる。やがてひとりが立ち上がり、静河を送っていくと申し出た。昭弘は何かに引き留められているのだろうと、言い訳するように言った。
静河は笑わなかった。純子以外に、何が彼を引き留めるというのか。
でも何も言わずに立ち上がり、店を出た。
友人たちが車まで丁寧に送り届けてくれた。乗り込んだ瞬間、バッグを置いてきたことに気がついた。
取りに戻ろうとしたとき、店の中から声が漏れてきた。
「ようやく帰ったな!もう少し長かったら絶対ばれてた。昭弘さん、よく嫁さんの前であんなに平気な顔ができるよな」
第6話
静河の足はすくみ、地面に縫いつけられたように動けなくなった。
中の声はまだ続いている。
「昭弘さんと嫁さんの従妹、まだ終わってないのか?もう五時間近くになるだろ」
「急かすなよ。昭弘さんがあれだけ激しくて、純子もああいう子なんだから、一日じゃ終わらないって」
「しかしあの二人も大胆だよな。隣の個室でそのまま情事に耽りやがって、途中で声まで聞こえてきたのに。俺が機転を利かせて音楽のボリュームを上げたから姉さんに気づかれなかったけど、あのときはさすがに焦ったよ」
「何を焦ることがある。俺みたいに何度も経験すれば慣れるって。昭弘さんの周りに、ようやく遊び相手になる女が現れたんだから、親友として手助けしてやらないと。いい思いをしてもらおうじゃないか」
「静河さんは確かに綺麗だけど、保守的すぎる。あの澄ました様子じゃ、ベッドの上じゃ、どうせマグロだろうな。男はやっぱり刺激的な女が好きなんだよ」
それ以上の言葉は、耳に入ってこなかった。
頭の中がぐわんと鳴った。
静河はふらふらと、外へ向かって歩き始めた。
――みんな知っていたのだ。自分一人だけに隠していた。
表向きは親切にしながら、陰では昭弘の隠れ蓑になり、こうして堂々と自分を笑いものにしていた。
心臓が、見えない手に引き裂かれるようだった。手足の先まで、耐えられないほどの痛みが走る。
外は大雨だった。静河はそれにも気づかないまま、魂が抜けたように一歩一歩、歩き続けた。
ひとりで雨の中を帰宅し、部屋に籠もって鍵をかけた。
その夜から、静河は高熱を出した。
昭弘が気づいたのは、翌日帰宅したときだった。静河はすでに意識が朦朧とし、人の顔もまともに見分けられない状態だった。
昭弘は半狂乱になって彼女を抱え上げ、病院へ走った。
幸い軽いインフルで、一昼夜の点滴で意識は戻った。
だが昭弘の動揺は収まらなかった。病院の一フロアを丸ごと貸し切り、仕事も放り出して、静河の傍を一歩も離れようとしなかった。
そんな日々が続いたある日、部下が扉を叩いた。重鎮が面会を求めており、どうしても昭弘に会いたいと言っているという。
昭弘は眉をひそめて断ろうとしたが、部下の耳打ちを聞いて表情が変わった。
しばらく迷ってから、静河の手をそっと放す。
「静河、俺……」
言い終わる前に、静河は目を閉じて静かに遮った。
「行って」
その落ち着きすぎた様子に、昭弘の胸がふと痛む。
何かがおかしいとは感じていた。でも今は急いで行かなければならない。静河は病み上がりで気分が落ち込んでいるだけだ、気にしすぎだと自分に言い聞かせた。
看護師に丁寧に頼み、すぐ戻ると告げてから、昭弘は部屋を出た。
三日後、昭弘ではなく純子が現れた。
「ふふふ、いい知らせがあるの。私、妊娠したの。お母さんになるのよ。赤ちゃんのお父さんは、昭弘さんよ。
この数日間、ずっと私のそばにいてくれてね、本当に甲斐甲斐しくて。ベッドから下りる時も抱き上げてくれるし、ご飯まで食べさせてくれるの。
ねえ、安定期に入れば、また身体を重ねてもいいって先生が言ったんだけど、昭弘さんがすごく喜んでね。その夜のうちに来て、何度も何度もしてくれたの。
子どもができたから避妊しなくていいって、前より全然激しくて、一晩中いろんな体勢を試してくれて、疲れたけど気持ちよかった。
あら、ごめんなさい。ついしゃべりすぎちゃった。お姉ちゃん、怒ってない?昭弘さんを責めないでね。熱を出してるあんたより、彼の子どもの方が大事なのは仕方ないじゃない?」
その言葉は、鋭く毒を含んでいた。以前なら、これを聞けば死にたくなっていたかもしれない。
でも今は、もう涙が出なかった。痛みすぎて感覚が消えてしまったのかもしれなかった。
静河は何も言わなかった。何も聞かなかった。
純子が出ていったあと、枕の下から取り出したのは、スイッチを入れた状態でずっと置いてあった小型のボイスレコーダーだった。
――昭弘。あなたがこれを聞いたとらどんな気持ちになるのか、とても楽しみよ。
第7話
退院した日は、ちょうど静河の誕生日だった。
二つの慶事が重なったこの佳き日に、昭弘は惜しみなく私財を投じ、市内で最も豪華なホテルを貸し切って祝宴を開いた。そのあまりの華やかさに、集まった招待客は感嘆の声を漏らした。
昭弘の友人たちも、それぞれに趣向を凝らしたプレゼントを持参していた。
だが、静河にとっては何もかもが空虚だった。あの夜の出来事があって以来、彼の友人たちに対する信頼はひとかけらも残っていない。
友人たちは特に気にする様子もなく、大病のあとでまだ体力が戻っていないのだろうと勝手に解釈していた。
やがてケーキにナイフが入れられ、願いごとをする時間がやってくる。昭弘は背後から静河をそっと抱き締め、彼女の手に自身の手を重ねてナイフを下ろした。
「静河、今日は君の誕生日だ。何か願いごとはあるか?」
以前の静河なら、静かに首を横に振っていただろう。彼に愛されてさえいれば、それだけで十分だったからだ。けれど今は、ひとつだけ強く願っていることがある。彼から離れ、二度と会わないこと。
静河は、自分を深い愛情を湛えて見つめる昭弘の瞳を見上げた。
「……何を願っても、叶えてくれる?」
昭弘は一瞬驚いたように瞬きし、それからいっそう甘く微笑んだ。
「もちろんだとも」
静河は笑った。ただし、その瞳には何も映っていない。
「それなら、三つお願いがあるわ」
昭弘は幼子をあやすように言った。
「言ってごらん。何でも叶えてやるよ」
「最初の願いは、先代がA国大使から受け取った親書が欲しいの」
その言葉に、ホールにいた全員が息を呑んだ。
それは榎木家にとって、ただの古い書状ではなかった。かつて先代当主がA国大使に大きな恩を売り、その返礼として受け取った、本人の署名入りの親書である。
封は切られていない。宛名は、今もその国の外交筋に名を残す一族へ向けられていた。
それを携えて大使館を訪ねれば、通常の査証窓口ではなく、領事部の上層部へ直接取り次いでもらえる。申請が必ず認められるわけではない。だが、静河が昭弘の手の届かない場所へ行くには、それだけで十分だった。
だからこそ榎木家は代々、それを最重要の家宝として秘蔵してきた。かつて名のある有力者が借用を願い出た時でさえ、先代は即座に退けたという。
誰もが思った。昭弘といえども、これだけは渡すはずがない。
ところが昭弘は、一瞬たりとも躊躇わなかった。すぐに家の者を本邸へ走らせ、親書を運ばせると、恭しく静河の手のひらへ載せた。
静河はそれをきつく握り締めた。
これさえあれば、大使館での手続きはさらに進めやすくなる。これで彼の手の届かない場所へ行ける。
静河がわずかに目元を和らげると、昭弘もつられて嬉しそうに顔をほころばせた。
「愛子の申請に何かトラブルでもあったんだろう?それで、二つ目の願いはなんだい?」
静河は顔を上げ、招待客たちを見渡した。
驚愕に目を丸くする者、羨望のまなざしを向ける者。その人混みの端で、ひとりだけ浮いて立ち尽くしているのが純子だった。静河を睨みつけるその顔には、どす黒い嫉妬が張り付いている。
静河の視線は彼らをすり抜け、さらに遠くを目指した。まだ見ぬ異国の、これから自分が生きていく大地を探すように。
静河は静かに微笑んだ。
「二つ目の願いは、金庫の鍵をちょうだい。中にある財産を、すべて私の自由にさせてほしいの」
瞬間、ホールが大きくどよめいた。
当主である昭弘の金庫には、彼個人の資産のみならず、榎木家が三代かけて築き上げた莫大な財産が納められている。いくら妻を溺愛していようと、それを丸ごと差し出すなどあり得ない話だった。
ところが昭弘は、ここでも一切躊躇わず、自身の懐から取り出した鍵を静河へと握らせた。
静河はその鍵を強く握り締めた。
これだけあれば、異国でどんな暮らしをしようと一生困らない。
昭弘は静河の肩を抱き、わざとおどけた調子で言った。
「これで俺はすっかり無一文だ。もう君しかいないんだ、絶対に見捨てないでくれよ」
静河がかすかに笑って応えようとした、まさにその時。人混みの奥から甲高い悲鳴が上がった。
「誰か倒れたわ!」
昭弘が視線を向けると、床に伏していたのは純子だった。
彼の顔色が変わる。反射的に足が前に出かけたが、すんでのところで理性が引き留めたのか、昭弘は一度振り返って静河を見た。
「静河、彼女を先に病院へ運ぶ。君はここで皆と楽しんでいてくれ。三つ目の願いは、あとで必ず叶えるから」
「もういいわ」
「え?」
静河は静かに首を横に振った。
「なんでもないの。早く行ってあげて」
純子を抱きかかえ、足早に去っていく昭弘の背中を、静河はそっと見送った。
――昭弘。三つ目の願いは、もうあなたに叶えてもらう必要がないの。
なぜならその願いは、あなたから完全に離れることだから。
あと三日、すべてが終わる。
第8話
その夜、ひとりで家に戻った静河のもとに、病院にいる昭弘から電話が入った。
「静河、すまない。純子の容体が思わしくなくて、もう少し入院が必要みたいなんだ。君の従妹だからな、余計な心配をかけたくない。この数日は、代わりに俺がつきっきりで看病しようと思う。家でゆっくり休んでいてくれ」
静河は、ひどく平坦な声で返した。
「構わないよ。ゆっくり、そばにいてあげて」
昭弘。これからの人生は、ずっと彼女のそばにいればいい。
離れるまで、あと三日。
純子から、録画されたビデオテープが届いた。
再生すると、映像が流れ始めた。
同じ誕生日の会場で、純子がお姫様のようなドレスを身に纏い、ティアラを載せて、山積みのプレゼントの中心に立っている。昭弘が背後からしっかりと腕を回し、彼女の耳元に唇を寄せていた。
「誕生日おめでとう。何か願いごとはあるか?」
純子は顎を上げて、甘えきった声で言う。
「静河お姉ちゃんと同じにして!私がなにを願っても、ぜんぶ叶えるって約束して!」
昭弘は快活に笑い、純子の鼻先を軽くつついた。
「分かった。お前の望み通り、全部叶えてやる」
次の瞬間、ふたりは貪るように唇を重ねた。
静河は、それを最後まで見なかった。ビデオテープを止めて、外へ出る。
バッグの底には、もう一枚の紙が入っていた。
昭弘の署名と判が入った離婚届。昭弘は普段から、静河が差し出す書類にはほとんど目を通さなかった。
彼女を疑うという発想そのものがなかったからだ。
その日も、家の諸手続きに必要だと言って差し出された書類の束に、彼はろくに目を通さず署名し、判を押した。
その中に一枚だけ、離婚届が紛れていた。
静河はその足で役所へ向かった。
窓口で差し出したのは、昭弘の署名と判が入った離婚届だった。証人欄も、すでに埋まっている。
手続きは、あっけないほど早く終わった。
一時間後、静河の手には離婚届受理証明書があった。
それだけで昭弘から完全に逃げ切れるわけではないことは、静河にも分かっていた。
けれど今は、それで十分だった。
この紙一枚があれば、少なくとも昭弘が気づくまでの間、彼女は榎木家の妻ではなくなる。
離れるまで、あと二日。
また純子からビデオテープが届いた。
映像の中で、昭弘がベッドサイドに片膝をつき、純子のお腹にそっと耳を当てていた。
純子がくすくすと笑う。
「まだ三ヶ月よ。なにが聞こえるっていうの」
昭弘は真剣な顔で言った。
「聞こえたさ。お父さんって呼んでいる声がね」
純子はさらに楽しげに笑い声を上げ、ネグリジェの肩をずり下げた。
「この子にはまだ無理よ。でも、そんなに聞きたいなら……私の声を聞いて。今夜は、あなたが満足するまで呼んであげる」
昭弘の喉が動いた。次の瞬間、彼は純子を押し倒した。
静河はそれも最後まで見なかった。
金庫の鍵を取り出して、中の金塊と有価証券をひとつ残らず持ち出した。それから銀行へ行って、その一部を外貨に換えた。
出発の朝、静河は夜明けとともに目を覚ました。
今日、やることが三つある。
ひとつ目は、昭弘からもらった贈り物を全部まとめて、近所の住人たちに分け与えること。
受け取った人たちは喜びながらも戸惑った。どれも目の飛び出るような品ばかりだったからだ。
静河は明るく言った。
「最近すごくいいことがあって、みなさんにもおすそ分けしたかったんです。気を使わず受け取ってください」
ふたつ目は、純子から送られてきた映像と録音を整理すること。
映像は伝手を頼って映画館に依頼し、市内全館で上映してもらうよう手を回した。録音は業者を使い、街宣車と屋外スピーカーを使い、屋敷の周囲で流し続けるよう手配した。
三つ目は、荷造りを終えて、離婚届受理証明書をテーブルの上に置いておくこと。
ちょうどそのとき、部屋の電話が鳴った。昭弘からだった。
「静河、もうすぐ終わりそうだ。片づいたらすぐ帰る」
静河は短く答えた。
「ちょうどよかったわ。サプライズを用意してあるの」
昭弘は嬉しそうに言った。
「そうか、何を用意してくれたんだ?」
「帰ってくればすぐわかるよ」
うまくすれば、帰り道の途中でもわかるかもしれない。あの映像も、あの録音も。
昭弘が期待を胸に電話を切る。静河はスーツケースを手に取り、玄関を出た。
並木道を歩いていると、近所の顔なじみに声をかけられた。
「静河ちゃん、どこかお出かけ?」
静河は明るく言った。
「ええ、ちょっと遠出してきます」
二度と戻らないだけで。
今日は、空が澄んでいた。静河はスーツケースを引いて、振り返らずに空港へと向かう車に乗り込んだ。