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すべてを手放して静かに幸せになるまで
明石智久(あかし ともひさ)が想い人を庇って怪我をし、入院したという知らせを耳にするや否や、梅沢明純(うめざわ あすみ)は真っ先に病院へ...
Chương (1)
第1章
明石智久(あかし ともひさ)が想い人を庇って怪我をし、入院したという知らせを耳にするや否や、梅沢明純(うめざわ あすみ)は真っ先に病院へと駆けつけた。
少しだけ開いたドアの隙間から、姉の梅沢美琴(うめざわ みこと)が智久の胸に飛び込み、涙に暮れる姿が見えた。
「どうしてこんな馬鹿な真似を?車が突っ込んできたら、誰だって逃げるのに。私を突き飛ばして身代わりになるなんて。あれからもう何年も経つというのに、どうしてまだ気にかけてくれるの?
あの時、私が結婚式から逃げ出して、社交界の笑い者にしたのに。少しも恨んでいないの?」
智久は目を閉じ、傍らに下ろした手を微かに震わせながら、低く押し殺した声で答えた。
「愛しすぎて、恨むことすらどうでもよくなってしまったのかもしれない」
美琴は声も出ないほど泣きじゃくり、胸をかきむしられるような思いで咽び泣いた。
「後悔しているの。どうしてあの時置いていってしまったのかって。でも、もう私たちにやり直す道はないわよね。もう、妹の夫なんだから」
第1話
明石智久(あかし ともひさ)が想い人を庇って怪我をし、入院したという知らせを耳にするや否や、梅沢明純(うめざわ あすみ)は真っ先に病院へと駆けつけた。
少しだけ開いたドアの隙間から、姉の梅沢美琴(うめざわ みこと)が智久の胸に飛び込み、涙に暮れる姿が見えた。
「どうしてこんな馬鹿な真似を?車が突っ込んできたら、誰だって逃げるのに。私を突き飛ばして身代わりになるなんて。あれからもう何年も経つというのに、どうしてまだ気にかけてくれるの?
あの時、私が結婚式から逃げ出して、社交界の笑い者にしたのに。少しも恨んでいないの?」
智久は目を閉じ、傍らに下ろした手を微かに震わせながら、低く押し殺した声で答えた。
「愛しすぎて、恨むことすらどうでもよくなってしまったのかもしれない」
美琴は声も出ないほど泣きじゃくり、胸をかきむしられるような思いで咽び泣いた。
「後悔しているの。どうしてあの時置いていってしまったのかって。でも、もう私たちにやり直す道はないわよね。もう、妹の夫なんだから」
智久の胸は深く抉られ、血を流しているかのようだった。
長い沈黙の後、嗄れた声で一つの問いを口にした。
「もし来世があるなら、今度こそ俺と最後まで添い遂げてくれるか?」
「ええ。来世があれば、絶対に手放したりしないわ」
その瞬間、長年抑え込んできた智久の感情が堰を切ったように溢れ出し、ついに手を伸ばして美琴を強く抱きしめた。
その目元が赤く染まるのを見て、明純は胸の奥に何かがつかえたように、どうにも息ができなくなった。
底知れぬ切なさが押し寄せ、涙が視界を滲ませる。
それでも泣くのを堪え、これ以上ないほど醜い作り笑いを浮かべた。
今生はまだ半分も過ぎておらず、妻である自分はこうして生きているというのに。
夫はすでに、姉との来世を待ち望んでいる。
ならば、この三年間の結婚生活は、一体何だったというのか。
きつく握りしめた掌から血が滲み、無数の記憶が次々と脳裏に蘇る。
物心ついた頃から、明純は智久を知っていた。
だがその瞳に自分が映ったことはなく、ただひたすらに姉の背中を追いかけていた。
無邪気な子供時代から恋を知る年頃になっても、明純は常に傍観者として、智久の狂おしいほどの愛が育っていくのを見つめていた。
美琴のために他の女子からの好意をすべて拒絶し、姉だけを守り続けている姿を。
安定した幸せな未来を与えるためだけに、パイロットの夢を諦めて家業を継ぐ姿を。
やがて明石家と梅沢家が縁組を結び、二人の娘から一人を選ぶことになった時、智久は迷うことなく美琴を選び、この上なく盛大な結婚式を準備した。
しかし式当日、美琴は貧しい男と駆け落ちしてしまった。
噂は瞬く間に広まり、式場は非難と嘲笑の渦に包まれ、花婿である智久の誇りと面子は泥水に踏みにじられたも同然だった。
その日、自ら前に進み出て、すべてを被ったのは明純だった。
姉は逃げたのではなく、自分が追い出したのだと告げた。
自分も智久のことが好きで、嫉妬に狂い、姉の花婿を奪うために追い詰めたのだと。
いずれにせよ縁組を無かったことにはできない。
姉を追い出した以上、自分を妻に迎えるしかないと。
その言葉が放たれた途端、式場の人々からの心無い非難は、すべて明純へと向けられた。
だが、明純の本当の性格を知り尽くしている智久と、祖母の明石宇多子(あかし うたこ)だけは分かっていた。
生まれつき気が弱く、梅沢家でも冷たくあしらわれている明純に、姉を追い詰めるような真似などできるはずがないのだと。
その日、智久は明純の指に結婚指輪をはめ、花嫁が入れ替わったまま式は進められた。
式が終わった後、宇多子はなぜあんな真似をしたのかと尋ねた。
明純は口ごもりながら、ようやく本心を打ち明けた。
「智久さんは誇り高い方ですから。あの屈辱を、たった一人で背負わせたくなかったんです」
宇多子はその一途な思いに心を打たれ、明純を孫の嫁として認めてくれた。
息を引き取る間際、宇多子は明純の行く末を案じ、孫に「一生離婚しない」と誓わせた。
智久もまた、明純が自分のためにどれほど泥を被ってくれたかを分かっていたからこそ、その誓いを受け入れた。
結婚してからの智久は良き夫であろうと努めた。
花やプレゼントを欠かさず、記念日には必ずお祝いをしてくれた。
夜のベッドでもこの上なく優しく、常に気遣ってくれた。
夫はすでに自分を愛してくれているのだと、何度も錯覚した。
一ヶ月前、美琴が離婚して帰国するまでは。
貧しい暮らしに嫌気がさした姉は、智久の優しさを思い出し、よりを戻したいと願ったらしい。
だが、祖母との誓いがある手前、智久は首を縦に振ることはできなかった。
口では「もう終わったことだ」と言いながらも、姉に何かあるたび、智久は仕事を放り出して駆けつけた。
その姿を何度も目の当たりにするうち、一生添い遂げたいという夢は完全に打ち砕かれた。
智久が姉に向けていた身を焦がすような若き日の愛を思い出し、どうしても姉を手放せないのだと悟った。
夫を解放し、自分自身も自由になろう。
離婚できないのなら、死別すればいい。
そうすれば、夫婦という縛りは自動的に消え去るのだから。
病院を出た後、明純は親友の富山香瑠(とやま かおる)に電話をかけた。
「香瑠、修理に出す飛行機が一機あったわよね?」
「ええ、あるけど、どうしたの?」
深く息を吸い込み、今下したばかりの決断を打ち明けた。
「飛行機事故を仕組んでほしいの。その飛行機で、私を死んだことにして」
*
家に戻ると、すぐに荷造りを始めた。
三日後、帰宅した智久はトランクケースを見て、何気なく尋ねた。
「急に荷造りなんかして、どうしたんだ?」
「十日後に友人の結婚式があって、海外へ行くの」
本当は、結婚式などどこにもない。
その日は、自ら選んだ死が訪れる日だった。
智久は微かに眉を寄せ、海外で結婚する友人とは誰だったかとしばらく考え込んでいた。
結局思い当たる節はなかったらしく、それ以上追及することもなく、妻の腰を引き寄せた。
首筋に吹きかかる優しい息遣いを感じ、明純は全身を強張らせ、無意識に突き飛ばしていた。
「あの日なの」
だが智久の記憶では、生理は一週間前に終わったばかりのはずだった。
拒絶するような態度を見てしばらく呆然としていたが、やがて探りを入れるように口を開いた。
「美琴を庇って怪我をしたこと、怒ってるのか?美琴を助けたのは君の姉だからだ。万が一のことがあったら、君が悲しむだろうと思って」
何も尋ねていないのに、男はすでにもっともらしい言い訳を用意していた。
誓いを守るため、そして美琴の言葉を聞き入れたからこそ、家に戻って仲睦まじい夫婦の芝居を演じているのだと分かっていた。
だが、いくら取り繕っても、貧しさと咳、そして恋心だけは隠し切れるものではない。
今まさに電話が鳴り、画面に美琴の名前が表示されたのを見ただけで、智久の口角は微かに上がり、瞬時にすべての言い訳など消え去ってしまったように。
一言だけ言い残し、スマートフォンを手に書斎へと消えていった。
「急な仕事が入った。疲れたなら俺を待たずに休んでてくれ」
扉が閉まる直前、微かに漏れ聞こえた姉の声に、小さく笑みをこぼした。
ええ、もう二度と待たない。
やがて彼も、何も隠すことなく、愛する人を追いかけられるようになるのだから。
第2話
翌朝、カレンダーを見て明純は今日が結婚三周年の記念日だったと思い出した。
今年は祝わなくていいと伝えようと階下へ降りると、キッチンで忙しく立ち働く智久の姿が目に入った。
出会ってからずいぶん経つが、完璧なエリートである夫が自ら包丁を握る姿を見るのは初めてだった。
これだけの料理を作るのに、一体どれほどの時間を費やしたのだろう。
見当もつかず、ただひたすらに驚くばかりだ。
やがて料理を終えた智久は明純を座らせ、自ら海鮮料理を取り分けて味見を勧めてきた。
少しだけためらってから、明純は箸を受け取る。
一品味わうごとに、智久は味付けを尋ね、熱心にメモを取っていた。
ノートに記された「エビは新鮮、魚はピリ辛、アサリは味が薄い」という書き込みを見て、どうしてそんなものを書き留めるのかと、つい尋ねてしまった。
智久は手を止めることなく、淡々と答える。
「海外から帰ってきた友人が、ずっと『磯波亭』の料理を食べたがっててね。でもあの店はもう閉まってるし、料理長も亡くなっただろ。だからレシピを探して作ってやろうと思ったんだけど、腕が鈍ってないか心配で、家で試作してみたんだ」
名前こそ出さなかったが、その友人というのが姉の美琴であることは一瞬で察しがついた。
妻である自分は、姉のための単なる味見役に過ぎなかったらしい。
メモを取り終えると、智久は弁当箱を取り出し、評価の良かった数品を詰め込み始めた。
そして車の鍵を手に取り、一言だけ残して慌ただしく家を出ていく。
「先に出るよ。今日は味見に付き合ってくれてありがとう。気に入ったなら、また今度作ってやる」
今日が記念日だったことすら、すっかり忘れているようだ。
声もなく自嘲気味に笑い、うつむきながら誰にも聞こえないような声で呟く。
「……いいの。私、海鮮アレルギーだから」
その言葉が届くはずもなく、智久はそそくさと立ち去っていった。
背中を見送った後、残された料理をすべて片付ける。
再びスマートフォンを開くと、美琴がSNSに投稿した写真が目に飛び込んできた。
【何気なく言った一言を、ずっと覚えていてくれた】
添えられている写真は、先ほど智久が持ち帰ったあの五品の料理。
呆然と画面を見つめ続け、ふと我に返った時、体中に赤い発疹が広がっていることに気がついた。
びっしりと肌を覆う様は、見るも無惨な状態だ。
だが、痒みも刺すような痛みもまったく感じない。
胸に手を当てて、初めて気がつく。
心が抉られるように痛くて、身体の不快感などすべて掻き消してしまっていたのだと。
ふらつく足取りで寝室へ戻り、アレルギーの薬を飲んで布団に潜り込む。
霞んでいく意識の中で、最後に残ったのはたった一つの思いだけ。
すべて、もうすぐ終わる。
*
目を覚ますと、すでに夕暮れ時になっていた。
今夜はパーティーがあることを思い出し、身支度を整えるために体を起こす。
会場に足を踏み入れると、そこには美琴の姿もあった。
姉妹が揃って姿を現したのを見て、招待客たちは三年前の茶番劇のような結婚式を思い出し、口々に噂し始める。
「姉の夫を奪っておいて、よく顔を出せるわよね。図々しいにも程があるわ」
「両家の縁談が取り消せなかったからでしょ。じゃなきゃ、明石社長がこんなどす黒い女を妻に迎えるはずがないわ」
「私が美琴なら絶対に許さない。思い知らせてやるのに」
この三年間で、胸を抉られるような悪意のある言葉を何度耳にしたことか。
深く息を吸い込み、聞こえないふりをして会場の片隅に腰を下ろす。
だが、美琴の取り巻きたちがわざわざ歩み寄ってきた。
「ちょっと明純。美琴も来てるのに挨拶にも行かないわけ?いくらなんでも実の姉妹でしょ。もしかして、やましいことでもあるの?」
「姉の夫を奪うような女が、やましいなんて感じるはずないじゃない。目的のためなら手段を選ばないその図々しいところ、見習いたいものだわ」
「見習うって?媚びへつらうところを?十何年も尻尾を振ったところで、結局は道端の犬コロと同じよ。明石社長が本当に気にかけてるのは、美琴だけなんだから」
嘲笑を浮かべる女たちの顔を見て、きつく拳を握りしめる。
立ち上がって道を空けるよう言おうとした瞬間、女たちはさらに図に乗り、手にしていた酒を明純の顔に浴びせかけた。
視界が塞がれた隙に、数人がかりで思い切り突き飛ばされる。
激しい破砕音とともに、明純はシャンパンタワーに突っ込んだ。
何百ものグラスが体に降り注ぎ、あちこちから止めどなく血が溢れ出す。
ふらつきながら床に倒れ込み、顔面は蒼白になる。
全身を引き裂くような痛みが走り、喉の奥から苦悶のうめき声が漏れる。
涙で霞む目を開けると、氷のように冷たい美琴の視線とぶつかった。
騒ぎに気づき、少し離れた場所で振り返った智久は、その光景を目にして血相を変えた。
「何をしている!」
怒鳴り声を上げながら駆け寄り、明純を抱き起こそうと手を伸ばす。
だがその手が触れる直前、背後から悲鳴が上がった。
「美琴、どうしたの!」
智久はとっさに振り返り、そのまま気を失った美琴の元へと駆け戻っていった。
姉を抱き上げて去っていく夫の姿を見つめ、明純は血だまりの中に倒れたまま静かに目を閉じた。
傷口をなぞるように涙がこぼれ落ち、痛みのあまり全身が凍りつくように冷えていく。
周囲から「自業自得だ」、「天罰だ」と嘲笑する声が響く中、ただ体を抱きしめ、耳を塞ぎ、歯を食いしばって自力で立ち上がるしかなかった。
第3話
明純は一人で病院へ向かい、傷の手当てを済ませると、重い体を引きずって帰宅した。
痛みのせいで、夜はほとんど一睡もできなかった。
翌日の昼、智久が帰ってくる。
妻の青ざめた顔色に微かな罪悪感を覚えたのか、ようやく気遣うような言葉を口にした。
「怪我の具合はどうだ?」
明純は痛みを堪え、作り笑いを浮かべる。
「かすり傷よ。大したことないわ」
その言葉を疑ってさらに問いただそうとした智久の視線が、机上のカレンダーに付けられた赤い丸印でピタリと止まった。
「昨日は結婚記念日だったのか?どうして教えてくれなかったんだ?」
「もう過ぎたことよ」
明純の掠れた声を聞いて、智久はさらに罪悪感を募らせたらしく、罪滅ぼしのように外へ連れ出してきた。
逆らう気力もなく、そのまま一緒に家を出る。
二人がまず向かったのは映画館だった。
妻の希望を尋ねることもなく、智久は今一番人気のある恋愛映画のチケットを買ってくる。
若き日の誤解で別れた恋人たちが、それぞれ家庭を持ち、離婚を経て再び結ばれるという物語だ。
主人公が数年越しに初恋の相手を妻に迎える場面を見た途端、智久は勢いよく立ち上がって席を外してしまった。
彼が何も言わなくても、明純にはその理由が痛いほど分かっていた。
すっかり続きを見る気も失せ、鞄を手にしてシアターの外へ出る。
フロアの片隅にある喫煙室。壁にもたれて煙草を吹かす夫の背中は、どこまでも寂しげだった。
足音に気づいて顔を上げた智久は、明純の姿を認めるなり、慌てて灰皿で火を揉み消した。
「もう見ないのか?」
「目が疲れたから、もういいわ」
智久は無理に笑みを作って頷いた。
「確かに退屈な映画だったな。買い物に付き合うよ」
婦人服の店に入ると、智久は何着ものワンピースを見繕い、自ら試着を勧めてきた。
しかし、ずらりと並んだSサイズの服を見て、明純は表情をこわばらせる。
Sサイズ。
それは美しさを保つために常に体型を気遣っていた、姉のサイズだ。
自分はMサイズだと告げようとしたが、言葉を発する前に遮られてしまった。
「どうした?気に入らないか?」
静かに首を振り、服を抱えて試着室へ入る。
背中にはまだ包帯が巻かれているため、ファスナーを上げるだけでも一苦労だった。
痛みに滲む冷や汗を拭い、何事もなかったかのように装って外へ出る。
くるりと回って見せ、どうかしらと尋ねようとした時、智久が呆然と鏡を見つめていることに気がついた。
その瞳には複雑な感情が渦巻き、まるで鏡越しに遠い過去を見つめているかのようだった。
つられて首を傾けつつ鏡を覗き込むと、そこには十八歳の頃の美琴に生き写しな自分の姿が映っている。
普段はモノトーンばかり好む彼が、こんな淡い色のワンピースを選んだのも、美琴の面影を重ねていたからなのだろう。
ようやく合点がいった。
一瞬にして明純は胸の奥を激しく締め付けられ、息苦しさに襲われる。
その時、背中の包帯から血が滲み出ていることに気づいた店員が悲鳴を上げた。
声に驚いて視線を向けた智久は、血相を変える。
「こんなに酷い怪我だったのに、どうして言わなかったんだ?痛むか?すぐ病院へ行こう」
言うが早いか、彼はカードで慌ただしく服の会計を済ませ、明純の腕を引いて階下へと急いだ。
だがエスカレーターに乗った直後、下の入り口から美琴が入ってくるのが見えた。
その姿を捉えた瞬間、智久は無意識に明純の腕を手放してしまう。
急に引っ張られて足早になっていた明純は、突如支えを失ってバランスを崩し、エスカレーターから転げ落ちてしまった。
激しい衝撃で背中の傷口はさらに裂け、溢れ出た血が瞬く間に服を赤く染め上げていく。
顔の筋肉が引きつるほどの激痛に、食い縛った奥歯が震え、生理的な涙が止めどなく溢れ出した。
慌ててエスカレーターを駆け下りてきた智久は、明純を抱き起こしながら何度も謝罪の言葉を口にする。
その目には明らかな動揺が浮かんでいた。
美琴も騒ぎに気づいてゆっくりと歩み寄ってくると、血に染まったワンピースに視線を落とし、嘲るような笑みを浮かべた。
「明純ったら、新しい服を買ってもらって嬉しすぎて転んじゃったの?でも、その服少し窮屈そうね」
智久はここで初めて、明純の髪に隠れていた背中のファスナーが半分しか上がっていないことに気がつく。
激しい自責の念に駆られたのか、思わずといった様子で尋ねてきた。
「サイズが合わないなら換えればよかったのに、どうして無理をしたんだ?」
明純は爪が掌に深く食い込むほど、強く拳を握りしめた。
目を伏せて涙を飲み込み、低い声で答える。
「ええ、もっと早く換えるべきだったわ。もう二度と、無理なんてしない」
美琴は眉をひそめ、冷ややかに言い放った。
「明純って昔からそうなのよ。一度気に入ったら絶対にしがみついて離さないの。早く病院へ連れて行ってあげたら?」
智久はちらりと美琴へ視線を送ると、妻を抱き上げてその場を後にした。
病院の駐車場に車を停めた途端、智久のスマートフォンが鳴る。
距離が近かったため、通話越しの美琴の声が明純の耳にもはっきりと届いた。
「友達が恋人を紹介してくれるって言うから会ってきたの。智久と同級生だって言うんだけど、知り合いかしら……」
智久の動きがピタリと止まる。
彼がこれから何をするつもりなのか察した明純は、静かにシートベルトを外した。
案の定、通話を終えた智久は、気まずそうに視線を泳がせながらこちらを見る。
明純はすでに車のドアを開けており、彼のために気の利いた言い訳を口にした。
「一人で手当てできるから、用事があるなら行って」
そう言い残し、車を降りてドアを閉める。
智久の乗った車は、あっという間に走り去っていった。
一切の躊躇いもなく。
第4話
その後二日間、智久は家に帰ってこなかった。
明純は家で傷を癒やしながら、美琴の更新するSNSを眺めていた。
海辺の夕日、遊園地の花火、熱気球から見下ろす花畑。
どの写真にも、男の骨ばった手がさりげなく写り込んでいる。
小指にある見慣れたほくろを目にして、胸の奥に様々な思いが込み上げてきた。
この三年間、智久の心に触れたくて、何度もデートの計画を立ててきた。
だがその度に仕事が忙しいと断られ、やがてうやむやになっていた。
今思えば、愛していない相手と恋人のような真似をしたくなかっただけなのだろう。
でも、もう構わない。
彼はもうすぐ自由になれるのだから。
ふっと笑みを零し、身支度を整えて家を出る。
今日は友人の誕生日で、パーティーに誘われていた。
バーに着いて扉を押し開けると、そこには智久と美琴の姿があった。
三人の視線が空中で交差し、まるで示し合わせたかのようにスッと逸らされる。
明純は人混みを避け、フロアの片隅にある席へ腰を下ろした。
店員が酒を勧めてきたが、それに気づいた智久が慌てて制止する。
「まだ怪我をしてるんだ。水にしてやってくれ」
思いがけない言葉に、美琴も明純も虚を突かれた。
周囲の友人たちは「愛妻家だな」と冷やかしてくる。
智久は笑って答えをはぐらかすと、無理に話題を変えた。
「ゲームをするんじゃなかったのか?始めよう」
明純は体調が優れないため、参加せずに黙って見守ることにする。
十数回戦の後、ついに智久が負けた。
引いた罰ゲームのカードには「最も愛する人に電話をかける」と書かれている。
その場にいる全員の視線が、美琴と明純の間を行き来した。
智久も硬直したまま、身動き一つしない。
見かねた友人たちが、酒を飲んで罰ゲームの代わりにすればいいと場を取り繕ってくれた。
智久はテーブルのグラスを手に取り、一気に呷った。
次の瞬間、周囲からドッと拍手が沸き起こる。
ふと顔を上げると、隠し切れない優越感を浮かべた美琴と目が合った。
姉が密かに見せつけてきているのが分かった。
心の底に秘められた、決して口には出せない智久からの愛を。
すぐに次のゲームが始まる。
またしても智久が負け、今度は「人生で最も負い目を感じている相手に酒を注ぐ」という罰ゲームを引き当てた。
彼は目に見えて安堵の息を吐くと、明純の前に歩み寄ってグラスを掲げる。
「これまで苦労をかけた。ありがとう」
だが、その感謝が本当は何に対するものかを知っているのは、明純だけだった。
結婚式で前に進み出て、あの惨事を収拾したことへの感謝。
愛情を与えられないと分かっていながら、結婚という牢獄に閉じ込め、世間の冷ややかな目に晒してしまったことへの罪悪感。
すべて自ら望んでやったこととはいえ、明純はこの瞬間、水の入ったグラスを掲げて彼のグラスと軽く打ち合わせた。
「こちらこそ、ありがとう」
私の人生を通り過ぎてくれて。
これからはもう、二人の道が交わることもない。
場は再び盛り上がり、夫婦で腕を絡ませて酒を飲めと周囲が囃し立てる。
断る暇すら与えられないうちに、美琴が勢いよく立ち上がった。
「急用ができたから、お先に失礼するわ。楽しんで」
誰もが状況を飲み込めないうちに、背を向けて足早に立ち去ってしまう。
グラスを持った智久の手がピタリと止まる。
数秒後、彼はトイレへ行くと言い残し、後を追うように部屋を出ていった。
二人が立て続けに出て行ったことで、場はすっかり白けてしまった。
明純も適当な口実を作り、鞄を手にして退席する。
一階へ降りると、そこには美琴の姿があった。
彼女が金髪の不良たちに囲まれ、壁際に追い詰められて絡まれているのが見えた。
明純は眉をひそめ、店長を呼んで場を収めてもらおうとする。
だが階段を下りた途端、智久が酒瓶を手にして飛び込み、リーダー格の男の頭を思い切り殴りつけるのが目に入った。
取り巻きたちは報復しようと手近なものを武器にして、智久を取り囲む。
客たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、店内は瞬く間にパニック状態に陥った。
血まみれになりながらも五人を相手に大立ち回りを演じ、さらに連中を逆上させていく夫の姿に、明純の胸は激しく波打つ。
美琴の腹いせのために、命すら投げ出すつもりなのだろうか。
不良たちも、これほど命知らずな男だとは思わなかったはずだ。
彼らが振り回していた木の棒すら、すでに折れてしまっていた。
すると、そのうちの一人が血走った目で、テーブルの上にあった果物ナイフを引っ掴む。
鋭い刃が冷ややかな光を反射し、智久の目を射た。
咄嗟の判断で、智久は美琴を近くの個室へ押し込み、扉を閉める。
振り返った時には、ナイフを持った男がすでに眼前に迫っていた。
近すぎて避ける間もなく、智久は腕を上げて身を守ろうとする。
刃が振り下ろされた瞬間、何者かが智久の前に飛び出し、その一撃の盾となった。
果物ナイフが明純の体に深々と突き刺さるのを、智久は呆然と目を見開いて見つめている。
「明純、どうして……」
全身からフッと力が抜け、まるで宙に浮いているような奇妙な感覚に包まれる。
夫の腕に崩れ落ち、自分の胸からとめどなく溢れ出す血を見ているうちに、急速に意識が遠のいていった。
鉛のように重くなった瞼が下がり、思考が深い闇へと引きずり込まれていく。
視界が完全に黒く塗りつぶされる直前。
明純は智久の顔を見上げ、喉の奥から震える声を絞り出した。
「これでお互い、貸し借りはなしよ」
第5話
明純は長い夢を見た。
夢の中で、家族に無理やり水泳を習わされていた彼女は、海で溺れかけていた。
誰にも気づいてもらえない。
波に飲まれ、遊泳区域の外へと流されていく。
海面で必死にもがきながら、自分はここで死ぬのかと絶望し、涙が止まらなかった。
そんな死の淵から救い出してくれたのは、危険を顧みずに海へ飛び込んできた智久だった。
霞む水飛沫の向こうから、焦燥と心配が入り交じった声が聞こえてくる。
「明純?」
ゆっくりと目を開けると、現実でも夢の中と同じ必死な顔が目の前にあった。
乾いた唇を開き、掠れた声で呟く。
「大丈夫よ」
その言葉を聞いた智久は慌てて医師を呼び、何度も容態を確認し始めた。
診察を終えた医師は少し呆れた様子で、同じ言葉を繰り返す。
「刃は急所を外れており、傷も深くはありません。しばらく安静にしていれば治りますよ」
何度も念を押されて、ようやく智久は安堵の息を吐いた。
明純に布団を掛け直し、コップに水を注いでから、複雑な眼差しを向けてきた。
「どうしてあんな馬鹿なことを?わざわざ庇う必要なんてなかっただろう?」
明純は小さく睫毛を震わせ、脳裏に蘇った夢の情景を思い返す。
少しの沈黙の後、彼から受け取った水を一口飲み、十歳の時に命を救われた出来事を語り始めた。
ただ、その口調に、かつてのような淡い恋心の恥じらいはもうない。
あるのは過ぎ去った過去への感慨と、ようやく恩を返せたという安堵だけだった。
智久は呆然とした顔で話を聞き終え、戸惑うように口を開く。
「じゃあ、貸し借りはなしって言ったのは、そのことだったのか?」
彼の表情を見て、そんな出来事はとうの昔に忘れてしまっていることに気がついた。
自分だけが胸を焦がしたあの瞬間は、夫の心の奥底に何の痕跡も残していなかったらしい。
無理もない。
あの頃の彼は、姉のことで頭がいっぱいだったからだ。
美琴の妹だから助けただけで、そこにはそれ以外の感情などなかったのだろう。
口角を上げ、冗談めかして答える。
「ええ。もしこれから私に何かあっても、庇ったからといって罪悪感を抱く必要はないわ」
智久は、その言葉の裏に別の意味を感じ取ったらしい。
問い質そうと口を開きかけた矢先、テーブルに置かれたスマートフォンが鳴った。
画面の着信表示を見た瞬間、彼は弾かれたように立ち上がり、適当な言い訳を口にする。
「急な仕事が入った。ゆっくり休んでてくれ。片付いたらまた来るよ」
画面に表示された名前ははっきりと見えていたが、あえて指摘はしなかった。
その後数日間入院したものの、結局智久が姿を現すことは一度もなかった。
退院の日になって、ようやく迎えにやってくる。
だが、車が向かったのは二人の家ではなく、実家である梅沢家だった。
山腹に見えてきた屋敷を目にして、すっと心が沈んでいく。
「家に帰るんじゃないの?どうしてここへ?」
ハンドルを握る手がわずかに強張り、智久は何気ない風を装って答えた。
「今日は美琴の誕生日だ。姉妹なんだから、たまには顔を見せた方がいいだろうと思って」
胸の奥がざわつき、すぐに彼の本当の意図を悟った。
妹の自分を隠れ蓑にして、姉の誕生日を祝いに来たというわけだ。
俯いてしばらく黙り込み、帰るための口実を探す。
「プレゼントの用意をしていないわ……」
「俺が用意してある。心配いらない」
膝の上の手が微かに震え、それ以上は何も言えなくなった。
やがて庭に車を停めると、屋敷の中から賑やかな声が聞こえてくる。それを耳にしながら、運転席の夫へと振り向いた。
「一人で行ってくれない?気分が優れないの」
「少しだけ顔を出したら、すぐ帰ろう」
こちらの願いを聞き入れることなく、智久は半ば強引に腕を引き、屋敷の中へと入っていった。
第6話
扉が開くと、祝杯を挙げていた梅沢家の面々は、連れ立って現れた二人の姿に少し驚いたような顔をした。
だがすぐに我に返り、愛想笑いを浮かべて歩み寄ってくる。
「智久君、よく来てくれたね。美琴の誕生日を祝いに来てくれたんだろう。さあ、君のような大事なお客は主役の隣に座らなくちゃ」
彼らは智久を半ば強引に席へと押しやり、明純は扉の前に一人取り残されてしまった。
皆が好き勝手に歓談を始め、彼女には誰も見向きもしない。
暗がりの中に立ち尽くし、きつく拳を握りしめて踵を返そうとする。
だが一歩踏み出したところで、美琴の声に呼び止められた。
「明純、どうしてこっちに来ないの?もしかして、まだ怒ってるの?」
部屋中の視線が一斉に突き刺さり、明純は振り返るしかなかった。
だが満席のテーブルのどこに座ればいいか分からず、自ら台所から椅子を運び出し、部屋の片隅に腰を下ろす。
智久がすぐさま立ち上がり、明純の隣へ来ようとしたが、梅沢夫婦に引き止められてしまう。
「智久君はここにいなさい。あの子は昔から引っ込み思案で、隅っこが好きなのよ」
「誰に似たんだか、あの捻くれた性格は何年経っても直らん。放っておけばいい。さあ、飲もう」
智久もそれ以上は固辞しようとせず、大人しくグラスを手にした。
宴席は再び活気づき、談笑と共に杯が交わされていく。
かつてのように美琴のために海老の殻を剥き、代わりに酒を飲み、時折親しげに耳打ちをする夫の姿を見て、明純は静かに視線を逸らした。
箸を手に取ったものの、おかずには一切手を付けず、ただ白米だけを少しずつ口に運ぶ。
宴もたけなわとなり、智久にもだいぶ酔いが回ってきた。
梅沢家の面々は、酔い覚ましに庭を散歩してきなさいと美琴に勧める。
智久もそれを断らなかった。
二人が席を立つのを見て、明純も立ち上がり、トイレへ向かおうとした。
すると、先ほどまで穏やかな笑みを浮かべていた家族の表情が、瞬時に険しいものへと変わる。
「止まりなさい!幼馴染の二人が久々に語り合おうって時に、大人しく座っていられないのか!」
「明石家に嫁いで三年になるからって、調子に乗らないで。あの二人は小さい頃から絆が深いの。お前が入り込む隙なんてないんだから、余計な真似はしないの」
末の娘である自分は、この人たちにとって一体何なのだろう。
もうすぐこの世を去るからか、胸の奥から唐突に勇気が湧き上がってきた。
幼い頃から自分を蔑ろにし、美琴ばかりを贔屓してきた家族に対し、明純は初めて問いを投げかける。
「私が智久さんに相応しくないって言うなら、どうして姉さんが逃げ出した時、縁談を破棄しなかったの?」
過去の出来事を持ち出されたことに激しく怒り、父の梅沢元田(うめざわ げんた)はバンッとテーブルを強く叩きつけた。
「美琴はほんの出来心で間違えただけだ!妹のお前が後始末をするのは当然だろうが!それに、あの時恥知らずにも自分から嫁ぐと言い出したのはお前じゃないか!大騒ぎを起こして二人の仲を完全に引き裂いておきながら、今さら文句を言う資格などあるもんか!」
智久との結婚を、家族はずっと恨んでいたらしい。
そんなに気に入らないのなら、なぜ何百億という事業を勝ち取るために、智久の機嫌を取るよう何度も命令してきたのか。
全身にゾクッと寒気が走り、氷水に突き落とされたような心地がした。
同じ血が流れているはずの肉親をじっと見つめ、掌に爪が食い込むほどきつく拳を握りしめる。
「じゃあ、美琴がこうなったのは、全部私のせいだと言うの?」
母の梅沢貞枝(うめざわ さだえ)は箸を置き、こちらへ冷ややかな視線を向けてきた。
「あなたが横槍を入れなければ、智久君は海外まで追いかけて美琴を連れ戻したはずよ。そうすれば、あんな貧乏人と結婚して苦労することもなかった!明石夫人の座は本来あんたのものではないの。美琴に返すのが筋でしょう」
第7話
物心ついた頃から、美琴は名門の私立校に通い、毎日お抱えの運転手に送迎されていた。一方の明純はごく普通の学校へ通い、同級生たちに混じってバスに揺られていた。
美琴には山のように服やアクセサリーが買い与えられ、湯水のごとくお金が使われている。だが明純の小遣いは昼食代だけで消え、服も姉のお下がりばかりだった。
姉は誰もが甘やかす、賢くて可愛くて優しいお姫様。妹はどれほど努力して棚を賞状やトロフィーで埋め尽くそうと、誰にも見向きされない日陰者だった。
これまで受けてきた露骨な差別を思い返しているうちに、もはや我慢の限界を超え、つい声を荒らげてしまう。
「私も本当の娘でしょう?どうして私が手に入れたものは、全部美琴に譲らなきゃいけないの?私には幸せになる資格すらないの?」
すると、祖母の梅沢美知子(うめざわ みちこ)が不快そうに目を細め、冷ややかに言い放った。
「馬鹿なことを。美琴はあんたよりずっと優秀なんだから、譲って当然でしょう?それに、智久君が美琴を想っていることなんて、誰の目にも明らかだったじゃない。勝手にすり寄っておいて、幸せになれないからと誰を恨むつもり?自業自得というものよ」
明純は家族に対する最後の未練すら、その言葉で完全に断ち切られた。
顔を上げ、込み上げる熱い涙を必死に堪えながら、全身の力を振り絞って告げる。
「分かったわ!望み通り、もう二度と戻ってこない!」
そう言い捨てて、踵を返す。
次の瞬間、怒りに任せて元田がテーブルをひっくり返した。
熱い汁や料理が明純の全身に降りかかり、肌が赤く腫れ上がる。
飛んできた陶器の皿が背中に直撃し、癒えかけていた傷から再び血が滲み出した。
だが一度も立ち止まることなく、足早にその場を後にする。
廊下に出たところで、美琴と鉢合わせた。
こちらの惨めな姿を目にするなり、姉が腕を掴んでくる。
「お父さんたちにまた怒られたの?」
彼女のわざとらしい芝居など見たくもなく、明純は伸ばされた手を思い切り振り払った。
美琴の瞳に狡猾な光がよぎったかと思うと、わざと体勢を崩してこちらにぶつかってきた。
大きな水音とともに、明純は庭のプールへと転落する。
真冬の冷水が傷口に染み、血液まで凍りつくような冷たさが全身に広がる。
激痛と寒さで歯の根が合わず、骨まで凍てつきそうになり、手足の感覚すら失われていく。
助けを呼ぼうと必死に水面から顔を出すと、駆けつけた智久が美琴を抱きかかえ、慌てて屋敷の中へ戻っていく姿が見えた。
最初から最後まで、彼がプールの方へ視線を向けることは一秒たりともなかった。
その後、騒ぎに気づいた使用人に助け上げられた明純は、水を含んで氷のように冷え切った体を引きずり、一人で自宅へと帰った。
激しい痛みを堪えて服を着替え、救急箱を取り出すと、歯を食いしばりながら背中の傷の薬を塗り替えた。
手当てを終えるやいなやベッドに倒れ込み、泥のように眠りに落ちてしまう。
しかし眠りは浅く、何度も悪夢にうなされた。
夢の中で泣き叫んでいるところを、帰宅した智久に揺り起こされる。
智久は明純を抱きしめて慰め、この上なく優しい声で語りかけてきた。
「怖い夢でも見たのか?大丈夫だ、俺がいるから」
その体温に包まれているうちに、次第に心は落ち着きを取り戻していく。
明純は頬を伝う涙を拭い、冷静な声を取り戻した。
「こんな時間なのに、帰ってきたの?」
突然彼女が冷静になったことに戸惑ったのか、智久の目に驚きの色がよぎる。
「ここが俺たちの家なんだから、帰ってくるに決まってるだろ。向こうでお義父さんたちと喧嘩したって聞いたぞ」
明純は彼の腕の中から抜け出し、短く相槌を打ったきり黙り込んだ。
その顔色を窺いながら、智久は呆れたようにため息をつく。
「美琴が海外から戻ってきたばかりだから、甘やかすのも無理はないさ。あまり意地を張るなよ」
「何が原因で喧嘩になったか、知ってるの?」
その問いに、智久は言葉に詰まった。
美琴の世話にかかりきりで、梅沢夫婦が口にした「無礼だ」、「強情だ」といった断片的な非難しか耳に入っていなかった。
以前のように、また何かを巡って姉妹で言い争ったのだと勝手に推測しているらしい。
そう決めつけた上で、さらに説得を重ねてくる。
「お義父さんとお義母さんも年なんだから、言うことにはちゃんと耳を傾けて、言い争うのはやめるんだ」
明純は全身を強張らせ、顔を上げてじっと夫の目を見つめ続けた後、自嘲するような乾いた笑みを浮かべた。
「ええ、言われた通りにするわ」
あなたと美琴が、結ばれるために。
第8話
翌朝目覚めた時、智久の姿はすでになかった。
明純は彼の行き先を気にかけることもなく、使用人に食事を多めに用意するよう頼む。
昼頃に訪ねてきた香瑠は、包帯に覆われた明純の傷を見て痛ましそうに目を細めた。
「もうすぐいなくなるっていうのに、どうしてこんなに傷だらけなの」
明純は静かに笑みを浮かべ、穏やかな声で答える。
「過去と完全に別れなければ、新しい人生なんて始められないわ」
「手配は済んでるわよ。乗務員はパラシュートで脱出し、機体は海に墜落する。この世界から『梅沢明純』という人間は消え去るの。あとは、『ノクティス航空4192便』のニュースだけ気にかけていればいいわ」
香瑠が言い終えるか終えないかのうちに、ガチャリと部屋の扉が開いた。
最後の一言だけを耳にした智久が、怪訝な顔で入ってくる。
「何の便だ?」
明純は顔色一つ変えず、平然と答えた。
「明日乗る飛行機よ」
智久は小さく頷くと、何気なく尋ねてくる。
「結婚式に行くんだったな。いつ帰ってくる?迎えに行こうか?」
明純は一瞬言葉に詰まったが、スッと視線を逸らして答えた。
「結構よ」
もう二度と、帰るつもりはないのだから。
夫もそれ以上は強く言ってこず、香瑠に軽く挨拶をして書斎へ入っていった。
その後、少し言葉を交わして香瑠は帰っていく。
明純はトランクをいくつか用意し、荷物の整理を始めた。
結婚後に彼のために買い揃えた服や日用品、自分の化粧品、洋服、靴、鞄、そして彼から贈られた数々の品。
それらを残さず集め、躊躇うことなくゴミ袋へと放り込んでいく。
夕方になってようやく一階へ降りてきた智久は、すっかり殺風景になった居間を見て眉をひそめた。
「随分と物が減ったな?」
「少し片付けたの」
適当に誤魔化すと、智久もそれ以上深く追及されることはなかった。
「明日は空港まで送ろうか?」
「忙しいなら無理しなくていいわ。その前に、お祖母様のお墓参りに行きたいの」
その言葉を聞いて、しばらく墓参りに行っていなかったことを思い出したのだろう。智久は一緒に行くと申し出てきた。
翌日、二人は花束を買い、荷物を持って墓地へ向かった。
宇多子の墓前で、明純は一つの問いを投げかける。
「あの時、私に指輪を渡したこと、後悔した?」
智久は一瞬瞳を強張らせ、不自然な表情を浮かべた後、長い沈黙の末に答えた。
「もう過ぎたことだ。人生はやり直せない。これからをどう生きるかが大事だろう」
後悔していないと、たった一言言えば済むことなのに。
遠回しな言い方で、話題を避けたのが分かった。
それで十分だった。
明純はそれ以上問いただすことはせず、地面に膝をついて静かに祈りを捧げる。
――お祖母様、この人は後悔していました。私も、決して実を結ぶことのない物語に、これ以上人生を無駄にしたくはありません。天国にいるお祖母様なら、私の選択を理解してくださいますよね?ここから抜け出して、私自身の幸せを見つけます。どうかご安心ください。
深く頭を下げ、立ち上がろうとした時、智久のスマートフォンが鳴った。
「智久、城南町の海鮮料理が食べたいの。付き合ってくれない?」
「分かった、すぐ行くよ」
通話口から甘えるような美琴の声が漏れ聞こえ、智久はすぐにでもここを離れたがっているようだった。
通話が終わるのを待って、明純の方から切り出す。
「タクシーで行くから、用事を済ませてきて」
智久はあっさりと承諾した。
車のトランクから荷物を降ろした後、彼は窓越しに声を掛けてくる。
「道中気をつけてな。着いたら連絡してくれ」
明純は今回ばかりは頷かなかった。
眩しいほどの笑みを浮かべ、彼に向かって手を振る。
「私がいない間、幸せになってね」
なぜか、その言葉を聞いた途端、智久は言い知れぬ不安に襲われた。
瞼がひくひくと痙攣し、とんでもないことが起こるような気がしてならない。
慌てて引き止め、空港まで送ろうとしたが、明純はすでにタクシーに乗り込んでいた。
走り去る車が見えなくなるまで見送った後、智久は眉間に皺を寄せながら城南町へと向かった。
二時間並んで手に入れた海鮮料理は相変わらず絶品だったが、胸騒ぎのせいで一口も喉を通らない。
美琴が食欲がないのかと心配したため、彼女を安心させようと智久は箸を口へ運ぼうとした。
だが一口食べるより先に、店内の大型モニターに映し出された昼のニュースが目に入った。
「十分前、ノクティス航空の小型チャーター機4192便が突如事故に見舞われ海に墜落しました。乗客乗員は絶望的と見られます……」