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クズ夫との決別、新しい人生へ
夫である獅堂宗介(しどう そうすけ)が初恋の女に未練を残していると知って以来、私は娘の結衣(ゆい)に、彼のことを「宗介おじさん」と呼ぶ...
Chương (1)
第1章
夫である獅堂宗介(しどう そうすけ)が初恋の女に未練を残していると知って以来、私は娘の結衣(ゆい)に、彼のことを「宗介おじさん」と呼ぶよう言い聞かせるようになった。
結衣が学校で足首を捻挫した日の夜。真夜中に宗介のスマートフォンが鳴った。電話の向こうでは桜井玲奈(さくらい れな)が泣きじゃくっていた。
娘の凛(りん)が悪夢にうなされ、お父さんが欲しいと泣き叫んでやまないらしい。宗介は一言も残さず家を出て行った。私は結衣の赤く腫れた足首に氷嚢を当てながら、「宗介おじさんに、さよならって言うのよ」と耳元で囁いた。
宗介は結衣の運動会に参加すると約束していた。しかし、またしても玲奈から電話がかかってきた。凛には二人三脚を一緒に走る父親がいないのだと、彼女はむせび泣いていた。宗介は少しの躊躇もなく、私たちを残して立ち去った。
私は結衣に自分のスマートフォンを持たせ、担任の先生にこう伝えるよう促した。「宗介おじさんは来られなくなった、って」
その度に、結衣は戸惑いを見せた。なぜ母親がこんなことをさせるのか、幼い彼女には理解できなかったのだ。
しかしある日、宗介はようやく自分がどれほど私たちを蔑ろにしてきたかに気がついた。結衣のピアノの発表会の日、彼は仕事をすべて投げ打ち、今度こそ絶対に欠席しないと誓ったのだ。
結衣が他の子供たちと一緒に舞台裏で待機している時のことだ。宗介のスマートフォンが着信を知らせた。玲奈からだった。通話越しに何を言っているのかは聞こえなかったが、容易に想像はついた。
凛が泣いている。凛が彼を必要としている。凛には父親がいないからだ。
通話を終えた宗介が戻ってきた。しかし、彼が言い訳を口にするより先に、舞台の上から結衣の声が響き渡った。
「いいよ、宗介おじさん。彼女のところに行ってあげて。お母さんが見ててくれるから、私はもう平気だよ」
第1話
夫である獅堂宗介(しどう そうすけ)が初恋の女に未練を残していると知って以来、私は娘の結衣(ゆい)に、彼のことを「宗介おじさん」と呼ぶよう言い聞かせるようになった。
結衣が学校で足首を捻挫した日の夜。真夜中に宗介のスマートフォンが鳴った。電話の向こうでは桜井玲奈(さくらい れな)が泣きじゃくっていた。
娘の凛(りん)が悪夢にうなされ、お父さんが欲しいと泣き叫んでやまないらしい。宗介は一言も残さず家を出て行った。私は結衣の赤く腫れた足首に氷嚢を当てながら、「宗介おじさんに、さよならって言うのよ」と耳元で囁いた。
宗介は結衣の運動会に参加すると約束していた。しかし、またしても玲奈から電話がかかってきた。凛には二人三脚を一緒に走る父親がいないのだと、彼女はむせび泣いていた。宗介は少しの躊躇もなく、私たちを残して立ち去った。
私は結衣に自分のスマートフォンを持たせ、担任の先生にこう伝えるよう促した。「宗介おじさんは来られなくなった、って」
その度に、結衣は戸惑いを見せた。なぜ母親がこんなことをさせるのか、幼い彼女には理解できなかったのだ。
しかしある日、宗介はようやく自分がどれほど私たちを蔑ろにしてきたかに気がついた。結衣のピアノの発表会の日、彼は仕事をすべて投げ打ち、今度こそ絶対に欠席しないと誓ったのだ。
結衣が他の子供たちと一緒に舞台裏で待機している時のことだ。宗介のスマートフォンが着信を知らせた。玲奈からだった。通話越しに何を言っているのかは聞こえなかったが、容易に想像はついた。
凛が泣いている。凛が彼を必要としている。凛には父親がいないからだ。
通話を終えた宗介が戻ってきた。しかし、彼が言い訳を口にするより先に、舞台の上から結衣の声が響き渡った。
「いいよ、宗介おじさん。彼女のところに行ってあげて。お母さんが見ててくれるから、私はもう平気だよ」
マイク越しに放たれた結衣の言葉は、会場の隅々にまで響き渡った。周囲の保護者たちが振り返り、一斉に宗介へ視線を向ける。ヒソヒソとした囁き声が波のように広がった。
宗介は凍りついた。私も息を呑み、その場に立ち尽くしていた。
宗介の心がもはやこの家族にないと悟ってからの28日間。彼が玲奈のために私たちを置き去りにする度、私は結衣に彼のことを「宗介おじさん」と呼ばせてきた。それは、価値のない男のために涙を流さないよう、結衣と私自身に言い聞かせるための儀式だった。
だが、結衣はまだ7歳だ。女の子にとって、一番父親を必要とする年齢である。
私、仁川仁奈(じんかわ にな)がそう呼ぶよう促す度、彼女はいつも口ごもり、長い沈黙のあとで消え入るように「宗介おじさん」と呟いていた。
しかし今日、結衣は自らの意思でそう呼んだのだ。頭の中で何百回も反芻してきたかのように、あまりにも滑らかで、自然に。
結衣はピアノに向かい、小さな指を鍵盤に這わせた。一度だけミスタッチをしたものの、決して演奏を止めなかった。弾き終えると、会場は万雷の拍手に包まれた。
結衣は立ち上がってお辞儀をし、私を見た。宗介の方には一切、視線を向けなかった。
審査員から賞状が授与される。三位、二位、そして一位。
結衣は優勝した。音符の飾りがついた、小さな金色のトロフィーを受け取る。
ステージを降りた結衣は、まっすぐに私の胸へと飛び込んできた。私は彼女の小さな体を抱き上げ、きつく抱きしめる。地元紙のカメラマンに声をかけられ、トロフィーを手にした母娘の写真を撮った。
結衣はトロフィーを高く掲げて微笑み、私も彼女の肩を抱き寄せてカメラに笑いかけた。
私たちの背後から、すでに宗介の姿は消えていた。驚きはしない。彼にとってはいつだって、玲奈とその娘の凛が最優先なのだから。
宗介は、この一帯を牛耳る「獅堂組」の若頭だ。かつては私たちを第一に考え、良き夫であり、子煩悩な父親だった。だが、玲奈が戻ってきてからすべてが狂い始めた。
玲奈は彼の初恋の女だった。別の地方の組長に嫁いだものの、夫が抗争で命を落とし、5歳になる凛を連れて地元に戻ってきたのだ。
彼女は女手一つで生きる苦労をこれみよがしにこぼし、宗介はそんな彼女を不憫に思った。彼女たちを助けるために頻繁に駆けつけるようになり、次第にのめり込んで、私と結衣をないがしろにすることが日常茶飯事となった。
玲奈は事あるごとに宗介の周囲をうろつき、悲劇の未亡人を演じた。凛には父親がいないのだと泣きつき、愚かにも宗介はその涙にまんまと絆されたのだ。
ある日、帰宅した宗介のポケットから、大型テーマパーク「ワンダー・スタジオ」の入場券が三枚見つかった。凛の誕生日を祝うために出かけていたのだ。
結衣の6歳の誕生日、家族で大好きなキャラクターのショーを見に行きたいとねだった時は、「子供じみている」と一蹴し、一切の躊躇なく断ったというのに。
数日後、宗介は玲奈と凛と一緒にそこへ出かけていった。
私は玲奈の非公開SNSでその投稿を見つけた。
【世界で一番魔法みたいな場所で、家族と楽しむのが最高】という文面。写真には、お揃いのセーターを着て微笑む宗介、玲奈、そして凛が写っていた。宗介は本物の父親のように、誇らしげに凛を肩車していた。
その夜、私たちはかつてないほど激しく衝突した。私が離婚と結衣の親権を突きつけると、宗介は私を冷酷だと罵り、結衣から父親を奪う気かと凄んだ。玲奈に同情しているだけだ、彼女の夫は極道の世界で死に、もう他に頼る者がいないのだと、必死に自己弁護を繰り返した。
私は結衣の青ざめ、怯えきった顔を見て、血が滲むほど強く唇を噛み締めた。もしあの場で無理やり離婚を押し通せば、宗介が去っていく姿が結衣の心に一生の傷を残すことはわかっていた。
しかし、宗介のような男が一度でも優先順位を違えた以上、同じ裏切りが何度も繰り返されることも明白だった。
宗介の浅薄な同情のせいで、これ以上結衣を苦しませたくなかった。
だから私は別の手段に出た。宗介を騙して離婚協議書にサインさせ、最後の一ヶ月のチャンスを与えるつもりだ。
この30日間のうちに宗介が目を覚まして戻ってくるなら、結衣のためにすべてを水に流そうと決めていた。もし戻ってこないなら、その時間を結衣が「父親の不在」に慣れるための準備期間にするつもりだった。
そして今日が、その28日目だった。
結衣は誰に言われるでもなく、自ら宗介を「宗介おじさん」と呼んだ。
私にすがりつく結衣の小さな体が震えているのを感じ、心臓を無数の針で貫かれたような痛みが走った。怒りではない。ただ果てしなく深い悲しみだった。
通りを渡った時、宗介はついに我に返ったようだった。なぜ結衣が自分をおじさんと呼んだのか問い詰めるためか、私たちの後を追おうと足を踏み出した。その時、彼のスマートフォンが鳴った。玲奈の甘ったるい、涙声が漏れ聞こえてくる。
「宗介、どこにいるの?凛がパパがいいってずっと泣いてて……私じゃ、もうなだめられないよ」
宗介は足を止めた。スマートフォンを握りしめ、遠ざかる私たちの背中を見つめたまま、「わかった、今行く」と答えた。
直後、私のスマートフォンに【今夜話そう】と短いメッセージが届く。車のエンジン音が轟き、遠くへと消えていった。
結衣は歩みを止めた。私の胸に顔を埋め、その涙がシャツをじっとりと濡らしていく。
「お母さん」と、結衣はしゃくりあげながら囁いた。「もう、お父さんいらないよ」
第2話
優勝トロフィーを掲げた結衣の写真を、宗介に送る気にはなれなかった。どうせ一瞥もくれないだろうと、痛いほどわかっていたからだ。
娘を連れて足早に帰宅し、すぐさま荷造りに取り掛かる。
遠く離れた実家のある西央(せいおう)市へのフライトを手配している最中、スマートフォンが震えた。玲奈からの動画メッセージだった。
再生すると、子供向けの出し物大会の様子が映し出される。ステージに立った凛が、帽子からウサギのぬいぐるみを取り出す手品を披露しようとして、無惨にもぬいぐるみを引き裂いてしまっていた。もちろん、入賞などしていない。
だが動画の後半には、手にしたアイスクリームを頬張りながら、玲奈と宗介、そして凛の三人が顔を見合わせて笑い転げる姿が収められていた。どこからどう見ても、幸せな家族の風景だ。
動画には、こんな一文が添えられていた。
【負けちゃったけど、家族が一緒ならへっちゃらだよね】
以前の私なら、即座に嫌味の一つでも叩きつけていただろう。だが今は違う。傍らで玩具を黙々と整理する結衣の背中を見つめていると、怒りよりも深い虚無感が勝った。今更そんなことをして、一体何になるというのか。
静かにチャット画面を閉じ、明後日の西央市行きフライトを二名分予約する。
確定ボタンをタップした、まさにその瞬間。玄関の扉が開き、宗介が姿を現した。その手には、白い百合の花束が握られている。
私と結衣は、思わず目を丸くした。
この男は昔から花を嫌っていた。「金の無駄だ」と吐き捨て、共に過ごした数年間のうち、花束などただの一度も買ってくれたことがない。誕生日も、結婚記念日も。当然、娘である結衣でさえ父親から花をもらった経験など皆無だった。
それなのに、なぜ今になって百合などを?
私と結衣は、信じられないものを見るように顔を見合わせた。
宗介はゆっくりとリビングに足を踏み入れる。しかし、床に広げられたままのスーツケースを目に留めた途端、その表情が強張った。
「……コンテストの後で凛が落ち込んでてな。少し長めに付き合ってやったんだ。その帰り道、たまたま花屋の前を通ったらお前たちのことを思い出してさ。柄じゃないが、買ってきた」
言い訳がましく並べ立てながら、宗介は荷物に視線を落とす。
「旅行の準備か?」
「……まあ、そんなところ」
首を横に振りかけ、曖昧に頷いてみせる。離婚届の提出まで、残りわずか2日。ここで余計な波風を立てるつもりは毛頭なかった。
私の返答に、宗介はあからさまに安堵の息を吐く。
「最近、家のことを疎かにしていたのはわかってる。明日は久しぶりに、家族水入らずで出かけないか?俺たち三人だけで。今度こそ絶対にすっぽかさないと誓うから」
その言葉に、人形を弄っていた結衣の手がピタリと止まる。恐る恐る宗介を見上げ、次いで私に視線を巡らせた。その小さな顔には、捨てきれない期待と、また裏切られるのではないかという怯えが入り交じっている。
揺れ動く娘の瞳を見て、私の心もわずかに揺らいだ。
「……わかった」
どうせこれが、三人で過ごす最後の時間になるのだから。
承諾の言葉を口にした瞬間、結衣の顔がぱっと明るく輝いた。お気に入りの人形をきつく抱きしめ、弾むような足取りで自分の部屋へと駆け出していく。
荷造りを再開した私の傍らに、宗介が歩み寄ってきた。どこか気まずそうに、口ごもる。
「今日の、おじさんって呼ばせた件だけど……」
心臓が激しし跳ねあがった。顔を上げ、正面から宗介を見据える。
宗介はしゃがみ込み、私の手元にそっと百合を置いた。その声は酷く申し訳なさそうで、腹立たしいほど優しげだった。
「仁奈、お前がどう思っているかはわかってる。俺が玲奈にかまけて、お前や結衣をないがしろにしていると怒ってるんだろ。
でも誓うよ、俺は玲奈に同情しているだけなんだ。あいつの夫は極道の世界で死に、頼れる人間が他にいない。ただ、あいつらにこれ以上惨めな思いをさせたくないだけなんだよ」
宗介は私の手を取り、自分の胸へと押し当てた。
「もう少しだけ時間をくれ。玲奈のことはきちんと片付ける。お前と結衣を、これ以上悲しませたりしないから」
私はただ、虚ろな瞳で目の前の男を見つめ返した。
こんな風に熱を帯びた瞳で見つめられたのは、果たしていつ以来だろうか。あの白いチャペルで永遠の愛を誓い合った結婚式の日だったか。それとも、結衣が産まれた日、小さな赤ん坊を腕に抱き、震える唇で私の額にキスをしたあの日だったか。
「仁奈。お前と結衣には、絶対に辛い思いはさせない。誓うよ」
かつての甘い記憶が、脳裏を掠めては消えていく。そして私は、引き出しの奥に眠る離婚協議書の存在を打ち明ける決意を固めた。
「ねえ、宗介。実はね」
「ああ、そうだ」
私の覚悟を、宗介の無神経な声が遮った。
「お前が結衣に買ってやったあの限定物の人形、書斎の戸棚にあったよな?最近、凛が人形に夢中らしいんだ。数日だけ借りていくぞ」
言うが早いか、宗介は足早に書斎へ向かい、結衣の大切な人形を見つけ出すと、車の鍵を掴んで慌ただしく玄関へ向かった。
バタン。
無情にも扉が閉まる。彼は、一度として振り返ることさえなかった。
私は無言のまま立ち尽くし、冷たい玄関の扉をじっと見つめていた。
やがて、言葉の続きを、誰もいない虚空に向かってポツリとこぼす。
「実はね、宗介。私と結衣は、もうあなたを見捨てたのよ」
私たちがこの家を去るまで、あと2日。
第3話
荷造りの疲労がピークに達し、深夜になってようやく私はベッドに倒れ込んだ。
スマートフォンが短く震えた。宗介からのメッセージだった。数枚の写真が添付されている。玲奈と凛が、結衣の人形と一緒に写っていた。凛は新しい親友でも見つけたかのように、その人形をきつく抱きしめている。
【凛が人形をすごく気に入ってな。玲奈がお前に礼を言ってくれってさ】
真夜中。自分の夫が別の女と一緒にいて、あろうことかその女は夫を通して私に礼を言わせているのだ。
無力な笑いが漏れた。もはや怒りすら湧いてこない。今更腹を立てたところで、何になるというのか。
私は静かに文字を打ち込んだ。
【どういたしまして。でも、別に玲奈に譲ったわけじゃないわ。それに、その人形は結衣が一番大切にしている誕生日プレゼントよ。妹みたいに可愛がってた。あなたと一緒にお茶会ごっこをするって、ずっと待ってたんだから。早く返してね】
送信ボタンをタップし、スマートフォンの電源を切って眠りについた。
あのメッセージを読んだ宗介がどんな顔をするかなど、知ったことではない。
翌朝、宗介は早くに帰宅した。朝の8時。彼にしてはひどく珍しいことだった。
リビングに入り、上着を脱ごうとした彼の手が止まる。床に並べられたスーツケースを見て、不審そうに眉をひそめた。
「旅行にそんなに荷物がいるのか?」
結衣の着替えを手伝っていた私は、顔を上げずに答えた。「少し遠くへ行くから」
宗介が結衣を見ると、娘はこくりと頷いた。それで安心したのか、彼は上着をソファに放り投げ、ポケットから「アドベンチャー・パーク」の入場券を三枚取り出した。
宗介は自慢げにチケットを掲げてみせた。まるで立派なトロフィーでも見せびらかすかのように。
「俺が結衣を遊園地に連れて行かないからって、ずっと怒ってたんだろ?今日のチケットを買ってきた。三人で行こう」
耳を疑った。一ヶ月近くも放置しておいて、今頃になって思い出したというのか。
今朝、電源を入れたスマートフォンに届いていた未読メッセージの山を思い出した。ああ、なるほど。罪滅ぼしのつもりね。
何も言わず、黙々と結衣の着替えを続けた。
しかし、結衣は目を輝かせていた。私を見上げ、期待に満ちた声で訴えかける。「お母さん、行きたい」
私が微笑み、頷こうとしたその時だった。宗介が気まずそうに付け加えた。
「ただ、一つだけ。俺たちが明日家族で過ごすってことを玲奈が知ってな。家でご飯を食べるだけだって言ったんだが、凛が仲間外れにされたと思って寂しがるんじゃないかって気にしてるんだ。
だから、明日の家族の日はまた別の機会にしないか」
結衣の動きがピタリと止まった。瞳に宿っていた光が、見る間に失われていく。
「……そっか」結衣はぽつりと呟き、うつむいて肩を落とした。
娘の落胆に、宗介はまったく気づいていない。
「ほんの些細なお願いだろ?よく考えてみれば、家族の日はまた別の日でもいいじゃないか。なあ、結衣?」
明日にはもう、私と結衣がこの家から消えていることなど、彼は知る由もない。
これが、彼に残された最後のチャンスだったのだ。
私と結衣は何も言わず、ただ静かに頷いた。
「わかったわ」
「いいよ」
宗介はホッと安堵の息を吐いた。
「玲奈に伝えてくる。3時にアドベンチャー・パークで待ち合わせな。現地で会おう」
そう言って、彼は玄関へと踵を返した。扉に手をかける直前、振り返ってこう口にする。
「仁奈、結衣。愛しているよ」
私たちは何も答えなかった。
宗介が去った後、結衣は昨日彼が買ってきた百合の花束を手に取った。そのままゴミ箱へと歩み寄り、一切の躊躇なく投げ捨てた。
「お母さん」結衣は振り返って言った。「もう、宗介おじさんには会いたくない。もっと早くお家を出られないかな?」
私はフライトの予約を変更した。今日。午後の三時だ。
航空券の変更を済ませ、最後の準備に取り掛かる。
朝の8時。この家で最後となる朝食を作った。玉子焼きとおにぎりだけの簡素なものだが、結衣は黙々とそれを平らげた。
9時半。弁護士の事務所に立ち寄り、署名済みの離婚協議書を受け取る。書類の第一項目には「親権は母親の仁川仁奈に帰属する」と明記されていた。
その合間に、玲奈のSNSの最新の投稿が目に入った。美味しそうな家庭料理の写真。玲奈、宗介、そして凛の三人が、パスタとワインの並ぶ食卓を囲んでいる。キャプションにはこう書かれていた。
【家族でディナー。凛もテーブルの準備を手伝ってくれたの。このささやかな家族に感謝】
傍らで紙飛行機を折っていた結衣が、その投稿をちらりと見た。彼女は何も言わず、ただ一言だけ促した。「お母さん、早くあの紙出して」
11時半。軽い昼食を済ませ、荷物を持ってタクシーで空港へ向かった。出発の2時間前だ。
タクシーの車内で、結衣はタブレットを開き、宗介の古い写真をスクロールしていた。
お宮参りの時の写真。白い祝い着に包まれた結衣を抱き、教会の前でカメラに向かって微笑む宗介。3歳の誕生日の写真。テーマパーティーで、二人でお揃いの海賊の帽子を被っている。
そして2年前、玲奈が再び姿を現す前の動画――公園のブランコで宗介が結衣の背中を押し、結衣が「もっと高く、パパ!」と叫ぶたびに、彼が楽しそうに笑い声を上げている。
結衣はそれらを何度も繰り返し見つめていた。泣いてはいなかったが、車内は息が詰まるほどの深い悲しみに満たされていた。
私は結衣の隣に座り、ただ黙って寄り添った。
午後一時半。保安検査場を抜けようとしたその時、宗介から電話がかかってきた。
「仁奈、結衣に謝っておいてくれないか?凛が急に高熱を出したんだ。40度もある。今から病院へ連れて行かなきゃならない。3時までにそっちに行けるかわからないんだ。もし俺がいなかったら、先に帰っててくれ。結衣には本当にごめんって……」
こちらの背景で流れている空港のアナウンスが耳に届くよりも早く、宗介は一方的に電話を切った。
「行きましょう」
私は結衣の手を引いた。
結衣はこくりと頷いた。そして、タブレットに保存されていた宗介の写真をすべて削除ボタンを押した。
午後3時。私たちの乗った飛行機が離陸した。
結衣の耳にヘッドホンをつけてやり、窓の外に広がる雲海を見つめる。私は長く、ゆっくりと息を吐き出した。
さようなら、宗介。
同じ頃、玲奈の引き止める声も聞かず病院を飛び出した宗介は、「アドベンチャー・パーク」へと車を飛ばしていた。