愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える

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愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える

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「高田様、こちらが献体申込書になります。こちらにご署名をお願いします」 高田菜々子(たかだ ななこ)は、差し出された薄い紙をじっと見つ...

Chương (1)

第1章

「高田様、こちらが献体申込書になります。こちらにご署名をお願いします」 高田菜々子(たかだ ななこ)は、差し出された薄い紙をじっと見つめ、ペンを握る手が、かすかに震えている。 その様子に気づいた担当者が、気を利かせて言った。「献体は大きなご決断です。今ここで取りやめても構いませんし、一度帰ってご家族とご相談されてからでも……」 「書けました」 菜々子は苦く笑った。 家族――その言葉は、彼女にはあまりにも重い。夫の心は、すでに彼女のもとにはないのだから。 第1話 「高田様、こちらが献体申込書になります。こちらにご署名をお願いします」 高田菜々子(たかだ ななこ)は、差し出された薄い紙をじっと見つめ、ペンを握る手が、かすかに震えている。 その様子に気づいた担当者が、気を利かせて言った。「献体は大きなご決断です。今ここで取りやめても構いませんし、一度帰ってご家族とご相談されてからでも……」 相手が逃げ道を用意してくれていることくらい、菜々子にも分かっていた。 それでも彼女は微笑み、書類の右下に名前を書き込んだ。 「書けました」 担当者は感謝の気持ちを込めて告げた。「高田様、医療へのご厚意に心より感謝申し上げます。こちらが献体登録証になります。どうぞお受け取りください」 …… 菜々子が帰宅しても、そこには誰もいなかった。 テーブルには今朝出かける前に準備した朝食が、手つかずのまま残されている。 スマホには一通の未読メッセージがあった。 【今夜は仕事が遅くなる。帰れない】 菜々子は苦笑いを浮かべた。 最近、夫·高田真司(たかだ しんじ)の「残業」はあまりに頻繁だ。本当は、また奥山菖蒲(おくやま あやめ)と一緒にいることくらい、彼女にはお見通しだった。 菖蒲は真司の秘書で、心に病を抱えている。 彼に想いを寄せながらも、不倫を受け入れられず、その間で苦しんだ結果、うつ病になってしまったのだ。 真司は責任をすべて自分で背負い込むようになった。 「菖蒲がこうなったのは、俺たちが結婚してるせいだ」菜々子がそう言われたのは、一度や二度ではない。 菖蒲への罪悪感から、彼は以前にも増して彼女の世話を焼き、何でも彼女の言うことを聞くようになった。 やがて積み重なった想いは形を変え、憐れみはいつしか愛へと変わっていった。 二人の関係がいつ始まったのか、菜々子には分からない。 ただ一つ確かなのは、かつて自分をあれほど愛してくれた男でさえ、いつか別の誰かへと心を移すということだった。 菜々子は暇を持て余してソファに寝転がり、ぼんやりとスマホをいじる。 検索などしなくても、昨夜の出来事が嫌でも流れてくる。 動画を開くと、白いドレスをまとった菖蒲が、H市で一番高いビルの屋上に立っていた。 夜空を背に、その白いドレスは異様なほど際立っている。 周囲は騒然とし、人々の視線が彼女に集まっていた。 「何があったんだ?」 「恋の悩みって噂だ」 「可哀想に。こんな素晴らしい女性を捨てるなんて、一体どんな男だ」 儚げで、白いドレスに黒髪という姿がさらに弱々しく、守ってあげたくなる空気が漂っていた。 周囲が心配する中、突然、人々の間からざわめきが沸き起こった。 「来た!誰か上がったぞ!」 「うわあああああ!キスした!」 「映画のワンシーンみたいだ、なんてロマンチック……」 菜々子が画面を拡大してよく見ると、二人は強く抱き合い、唇を重ねていた。 背の高い男と、華奢な女。まるで一枚の絵のように整った光景だった。 真司は菖蒲が愛しいあまり、まるで自分の一部に溶け込むように強く抱きしめ、彼女の頬に手を添えて深く口づける。 やがて彼は彼女を抱き上げ、そのまま屋上の奥へと消えていった。 その夜、街中の人が彼らの恋を目撃したのだ。 菜々子はスマホを閉じ、目の奥が熱を帯び、こらえきれない涙が頬を伝って、ポタリとソファに落ちた。 このソファは結婚したばかりの頃、真司と一緒に選んだものだ。 深く愛し合っていた頃、彼は帰宅するなり菜々子を抱きしめ、髪の香りを感じながら、静かに寄り添っていた。 「菜々子、もう少しこのままでいさせて」と、彼は子供みたいに甘えてきた。 けれど今、その腕に抱かれているのは別の女だ。 やがて、真司が手に朝食の袋を提げて帰ってきた。 菜々子を見るなり、彼は言った。「なんでこんな早く起きてるんだ?ちょうどいい、朝飯買ってきた」 しかし、テーブルの料理に気づいた瞬間、真司は動きを止めた。 菜々子は無理に笑みを作った。「一晩中働いて、疲れたでしょ?少し横になったら?」 真司は気まずそうに言った。「大丈夫だ、そんなに疲れてない」 「じゃあ……少し、抱きしめ合おうか?」 真司はそれを断り、彼女を避けるように、そのままダイニングへ向かった。「そういうのは、もういいだろ」 食事中、二人の間に重苦しい沈黙が流れた。 知り合って8年、結婚して5年。気づけば、言葉すら交わさない関係になっていた。 プルルル—— 真司のスマホが鳴った。 「セールスだ」彼は確認し、そっけなく言って、そのまま切った。 だが、すぐにまた鳴り出した。 菜々子は静かに口を開いた。「出れば?もし奥山さんがまた自殺でもしたら、私は責任なんて取れないから」 第2話 真司の表情が、たちまち険しくなった。 スマホを握りしめ、迷った末に電話に出た。「菖蒲、どうした?」 菖蒲。 その名前を聞いた菜々子の、パンをちぎる手が止まる。 電話の向こうの声を聞くうちに、真司の口調がとろけるように優しくなる。 「ああ……雨には濡れたけど、風邪はひいてないよ。安心して。 分かった。言う通りにする。すぐに着替えるから。 俺のことは心配しなくていい。俺がいない間も、自分のことを大切にするんだぞ? あのパンが好きなら、これからは毎日買ってきてあげるよ」 菜々子には、手に持ったパンまで苦く感じられた。 通話が切れた瞬間、真司の表情からさっきの柔らかさは消え、不機嫌そうな顔に戻る。 彼は沈んだ声で言った。「昨夜も菖蒲の症状が出たんだ。雨が降ると発作が起きるって、知ってるだろ」 菜々子が問いかけた。「このパン、二つ買ってきたのね」 冷めていた理由が分かった。 先に彼女に届け、その後で持ち帰ったのだ。 真司は否定しなかった。 菜々子は淡々と言った。「彼女は大丈夫?」 真司はやっと口を開いた。「間に合ったから、大事には至ってない。ただ精神が不安定で、いつまた発作が起きてもおかしくないんだ」 「じゃあ、これからも、ずっと彼女のそばにいるつもり?」 「……ああ」 菜々子は続けて問いた。「真司、あなた医者なの?彼女のうつ病を治せるとでも言うの?」 真司の声が一気に荒くなった。「何度言わせれば分かる!彼女の病気はお前と結婚したせいなんだ!俺には責任がある!」 「じゃあ私は?私はあなたの妻なのよ。私に対する責任はどうなるの?」 真司は信じられないものを見るように菜々子を見た。「お前は健康だろ?彼女は病気なんだ。比べる話じゃない」 健康…… 「健康であることが、私の罪なのね」 「菜々子、お前はどうしてそんなふうになった」 「どんなふうに?」 「冷たくて、自分勝手で、人の痛みも分からない女にだ!」 菜々子は冷めきった瞳で真司を見つめ、深く息を吸い込んだ。「もし、私が健康じゃなくなったら、どうする?」 真司は眉をひそめた。「何を言い出すんだ。さっきから口答えして、ずいぶん元気そうじゃないか」 菜々子はふっと笑い、うつむいて目を閉じた。 胸の奥で、何かがゆっくりと崩れていく感覚だった。 真司は言った。「菜々子、もうワガママはやめてくれ。昨夜はただ、彼女を救いに行っただけだ」 菜々子は微笑み、顔を上げて彼の目を見つめた。「命を救うのに、キスまで必要なの?」 図星を突かれた真司が、声を荒らげた。「彼女は発作だったんだ!屋上の縁に立ってた!もし拒絶して飛び降りたらどうする!」 菜々子も立ち上がり言い返す。「抱きとめていたはずでしょ!無理やり引きずればいいじゃない!なんでキスなんてしたのよ!」 真司は冷ややかに言い放つ。「菜々子、話にならないな!」 彼は部屋を出ていった。ドアが激しく叩き付けられ、家全体が揺れたように響く。 菜々子の胃に、鋭い痛みが走る。 菜々子はトイレに駆け込み、全てを吐き出した。 便器の中に混じった血を見て、菜々子は苦笑した。 胃癌、末期。 もう1ヶ月も持たない。 この間、何度も検査を受け、治療に耐え、抜け毛もひどかった。 それなのに、夫は—— ちっとも気づいていなかった。 第3話 翌朝、菜々子はトイレの床で目を覚ました。 最近、病状は日に日に悪化していて、意識が遠のくこともあれば、激痛で気を失うこともあった。 ただ、大量に血を吐き、便器が赤く染まっていた光景だけがぼんやりと残っている。 菜々子はレバーを引き、濁った赤い水がゆっくりと流れていくのを見つめた。 その時、インターホンが鳴った。 真司か? 菜々子は慌てて片付け、口をゆすぎ、床に残った血の跡を拭き取ると、玄関へ向かった。 「真司……」 だが、立っていたのは真司ではなく、菖蒲だった。 菖蒲は高級なブランド服に身を包み、メイクも髪型も完璧で、顔色も良く、つい最近までうつ病で自殺騒ぎを起こしていたようには見えなかった。 彼女は唇に笑みを浮かべて挨拶をした。「菜々子さん、初めまして。奥山です」 菜々子はなぜ菖蒲が突然来たのか分からなかったが、淡々と言った。「奥山さん、私を呼ぶ時は、奥様と呼んで」 菖蒲は鼻で笑った。「どうせあなたはもう長くないんでしょう?奥様なんて肩書きも、じきに私のものになるのに、そんな呼び方にこだわる意味あるの?」 「あるわ」菜々子ははっきりと頷いた。「少なくとも、あなたの前ではね」 菖蒲はあざ笑った。「今のうちに私に取り入ったらどう?ここが私の家になったら、物置にでもあなたの位牌を置いて、腐った果物くらいはお供えしてあげるわ」 菜々子の視線が、ふと菖蒲の手首に落ちた。 そこには女性用の腕時計とブレスレットがあるだけで、傷跡など、どこにも見当たらなかった。 菜々子は、先週、彼女が自殺未遂を装ったことを覚えていた。飛び降りではなく、リスカだった。 あの時、生々しい写真も見た。それなのに、たった数日で傷一つなく綺麗になっているなんて。 「手首の傷はどうしたの?」 「あんなこと、本気でするわけないでしょ。傷なんて残したくないもの。最初からやってないわ」 菜々子は息をのんだ。「うつ病も……芝居なのね?真司を騙したの?」 菖蒲はますます勝ち誇ったように笑った。「彼が信じてくれさえすればいいのよ。男っていうのはね、女が自分のために病んだと思えば、心が満たされて罪悪感を抱くものよ。私が具合が悪いフリをすれば、彼は私を心配して、何よりも優先して駆けつけてくれる……」 「奥山菖蒲!」菜々子は憎しみを露わにした。「そんな嘘で彼の愛を奪って、家庭まで壊して、恥ずかしくないの?」 菖蒲は負け犬を見るような目で菜々子を見下ろした。「菜々子さん、あなたの方がよっぽど滑稽よ」 そう言って、襟元をゆっくりと引き下げた。首筋には、くっきりとしたキスマークが残っている。 「……こういうの、あちこちにあるの」 彼女は一歩前に出て、菜々子の手を無理やり引き寄せ、その痕に当てさせた。「見る?胸にも、お腹にも、足元にも、それと……」 菜々子の耳元で、わざとらしく、口にするのもはばかられるような言葉を囁いた。 「どこを見たい?菜々子さん。言ってごらんなさい。真司がどれだけ私を愛し、求めているか、教えてあげる……」 菜々子は必死に手を抜こうとしたが、菖蒲は強く掴んだまま離さない。 突然、彼女のさっきまでの余裕は消え、怯えた表情に変わる。 気づけば、菜々子の手は、まるで首を絞めているかのような形になっていた。 菖蒲は大声で泣き叫んだ。「奥様、お願いだから離して!殺される!」 「菖蒲!!!」 冷たい風が吹き抜け、菜々子は突き飛ばされ、後ろのソファに背中を激しくぶつけ、床に転がった。 激痛のあまり、菜々子は口から血を吐いた。 顔を上げた瞬間、目に入ったのは、真司が菖蒲を抱きしめ、心配そうに「大丈夫か」と声をかけている姿だけだった。 菖蒲は涙をこぼしながら真司にすがりつく。「真司、すごく怖かったわ……」 「もう大丈夫だ。俺がついてる」 「うん、あなたさえいれば、なにも怖くないわ」 真司は菖蒲をお姫様抱っこして、床に倒れ込む菜々子を完全に無視し、寝室へ向かった。 そこは二人の寝室だ。 そして、扉が激しく閉ざされる。 壁越しに真司の自分を責めるような声が聞こえてくる。「家で休めって言っただろ、なぜここに来たんだ?あいつは最近おかしいんだ。君だって体調が悪いのに、何かあったらどうする?」 「あなたに会いたくて、ここしか行く場所がなかったの……」 菜々子は皮肉な笑みを浮かべ、手で血を拭いながら、何とかソファに寄りかかった。 抗がん剤の影響で、身体は限界まで弱っていて、今や、ソファに座ることさえ楽ではない。 真司が寝室から出てきた時、ちょうど菜々子がソファに這い上がろうとしているところだった。 彼は見下ろし、冷たく言い放つ。「いい加減、その芝居はやめろ」 第4話 菜々子は顔を上げ、「何て言ったの?」 「さっきまで必死に菖蒲の首を絞めておいて、今は弱ったふりか?」 「絞めてない!」菜々子は反論した。 「じゃあどうしてお前の手が菖蒲の首にあったんだ?まさか彼女がお前の手を首に持っていったとでも言うのか?!」 真司の声は鋭く、その目つきはまるで彼女を刺し殺さんばかりに鋭く、冷ややかだった。 菜々子は信じられないものを見るように、彼を見つめた。「そうなのよ。彼女が私の手を掴んで、自分の首に当てたの」 真司の目は失望と驚きに満ちていた。「菜々子、もうお前が分からない」 菜々子はふっと笑った。「その言葉、そのまま返すわ」 菜々子はようやく力を振り絞ってソファに倒れ込み、しばらくの間、息を整えた。 「真司、信じるか信じないかはあなた次第だけど、さっき奥山さんは私に、自分は病気じゃないし、リスカもしてないって言ったのよ。信じないなら自分で見に行って」 真司は眉をひそめた。「彼女が手首を切った日、俺は現場にいた。血が床一面に広がってたんだ」 「だったら今、もう一度彼女の手首を見てみて。私の言ったことが本当かどうかわかるわ」 真司は歯を噛みしめ、彼女の言葉にどれほどの真実があるのか見極めようとしていた。 菜々子は鼻で笑った。「行かないの?彼女に騙されていたって事実と向き合うのが怖い?」 「俺は菖蒲を信じてる」と言い捨て、真司は寝室へ向かった。 「きゃっ——」 寝室から突然、悲鳴が聞こえた。 真司はまるで稲妻のように駆け込んだ。「菖蒲!」 「真司……ううっ……」 菜々子はふらつく体を壁に支えながら寝室へ向かった。そして目にしたのは—— 菖蒲の手首から大量の血が流れ、腕が赤く染まっていた。 滑らかだった手首には切り傷が入り、血がとめどなく流れ出していた。 「どうしてまたこんな真似を!」真司の声が震えていた。 菖蒲は彼の腕の中に泣きついた。「全部私のせい……私のせいで真司が菜々子さんと喧嘩してしまったのね。お願い、私のことは放っておいて。いっそ死んでしまえば、菜々子さんも安心するはずだから……」 「馬鹿なことを言うな!死なせたりしない!」 菖蒲の泣き声が激しくなる。「何度も命を絶とうと思ったわ。でも、真司の顔を見ると、どうしても離れたくなくなるの……」 「離したりしない。これからは一生、そばで君を見守ってみせる」 真司はふと振り返ると、鋭い目で菜々子を見た。「お前にも二度と菖蒲を傷つけさせない!」 菜々子には、もう争う気力すら残っていなかった。 壁にもたれ、冷めた目で床にいる二人を見つめる。 菖蒲の傷は浅い。しかし、床に広がってる血はあまりに不自然だった。おそらく、あらかじめ用意されていたものだろう。 だが彼女は正しい。それが偽物だろうと、真司が信じた時点でそれは事実になってしまうのだ。 「菜々子さん、怒らないで……後で床の掃除、ちゃんとするから」と菖蒲がすすり泣く。 真司は菖蒲を抱き、ベッドへ運んだ。「今はちゃんと休んで」 そして、菜々子に言い放った。「お前が掃除しろ」 菜々子は耳を疑った。「何ですって?」 「菖蒲の首を絞め、自殺未遂にまで追い込んだんだ。少しは罪滅ぼしでもしろ」 菜々子はあきれて鼻で笑った。「私は使用人じゃないわ。拭きたければ自分で拭けば?」 「争うなら他でやってくれ。菖蒲が休めないだろう!」と真司も声を荒らげた。 「真司……」 「お願い、真司。もうケンカはやめて。私が出ていくから……」と菖蒲が泣きながら止め、わざとらしくベッドから這い降りた。 そして「あっ」と声を上げると共に、真司の腕の中に転がり込んだ。 真司は彼女を再び寝かせ、優しく布団をかけると、低い声で言った。「ここは俺の家だ。出て行くのは君じゃない」 菜々子は笑った。「そう、私を追い出すつもりなのね?」 「外に出て少し頭を冷やしてこい。ちゃんと反省したら戻ってこい」 菖蒲が芝居を続ける。「だめよ!菜々子さんを追い出さないで!外は暗くて一人じゃ危険よ……」 真司はただ、氷のような目で菜々子を見ていた。「何だ、警備員でも呼ぶか?」 「結構よ」と菜々子は言い放った。「ここは、もう、私の帰る場所じゃないわ」 ……プルプルッ スマホが鳴り、菜々子は電話に出た。 「高田様、こちらは献体登録室です。以前署名いただいた申請書について、ご確認させていただいてもよろしいでしょうか?」 「……ええ」 「ありがとうございます。ご容体についてお話を伺っておりました。ご遺体の引き取り手となるご親族のご連絡先をお預かりできればと考えております」 菜々子は一瞬言葉に詰まり、答えた。「身内はいません」 「そうですか……ご親族がいらっしゃらない場合、万が一の際に引き取りや法的な手続きにおいて、少しお時間がかかる可能性がありまして……」 「……あと3日ください。3日後、そちらへ伺います」 「承知しました。どうか残りの日々を少しでも穏やかにお過ごしください」 「ありがとうございます」 電話を切った菜々子に、真司が訝しそうに尋ねる。「献体だって?菜々子、どういうことだ?」 第5話 菜々子は淡々とスマホをしまい、「なんでもないわ」と穏やかに答え、踵を返して去ろうとした。 だが、真司が追いかけてきて、彼女の行く手を遮った。「はっきり言え。どういうことだ?献体なんて、健康な体でなぜそんなことをする?」 菜々子は視線を上げ、彼を見つめた。「もうすぐ死ぬから。それでいいでしょう?」 真司の目が一気に冷たく怒りを帯びる。「お前、うつ病じゃないんだ。死ぬはずないだろ」 「死に至る病は、うつ病だけじゃないわ!」 「たかが風邪だろ、まるで不治の病みたいに振る舞うな」 菜々子の心に鋭い痛みが走った。 彼女は感情を押し殺し、涙がこぼれないように必死でこらえた。 「そうね、ただの風邪よ」彼女は言った。「友達が最近、献体登録室で働き始めたの。だから、ちょっと届け物をしただけ」 「友達?誰だ?」真司が尋ねた。 「あなたが知らない人よ」 「真司――」菖蒲が彼を呼んでいる。 真司は慌てて戻った。「どうした、菖蒲?」 「痛いの、うう……」 「なぜこんなことを。すぐに救急箱を持ってくる、傷の手当をしよう」 「うん……すぐに戻ってきて。あなたがいないと不安なの」 「分かった。すぐに戻るから」 再び寝室から出てきた真司は、眉をひそめて菜々子を見た。「なぜまだいる?菖蒲がお前の声を聞いて、また発作を起こしたらどうする?」 神様がわざと意地悪をしているのか、外では激しい雨が降り出した。 菜々子が屋敷から出ると、真司は傘すら渡さず、何のためらいもなくドアを閉めた。 薄手の服しか着ていなかった菜々子は、瞬く間に全身ずぶ濡れになった。 やがて、家政婦の井上葵(いのうえ あおい)が買い物袋を提げて帰ってきた。 「奥様!なぜ雨の中濡れているのですか!旦那様は?」 葵は荷物をおろし、菜々子の腕を引いて家の中へ入ろうとした。 「大丈夫ですよ、葵さん」 「体が冷えますよ!風邪をひいてしまいます!」 風邪をひく? あと3日で献体するのに、風邪を心配する必要があるのだろうか。 「奥様、またあの秘書の奥山さんのことで旦那様と喧嘩をなさったのですか?」 菜々子は笑って、葵を安心させようとした。「いいえ。あの人とは……仲良くやってるわ」 「でもお顔の色が良くありません。それにいつもは真司とお呼びだったのに……旦那様のご両親に報告して、旦那様にお話していただきましょうか?きっと力になってくださいます」 菜々子は静かに首を振った。「両親には内緒にして。ただ雨に濡れるのが好きなの。今日という日を、きっと忘れないわ」 今日の雨は、真司が自分に浴びせたもので、現実を悟らせようとしてくれた。 菜々子は微笑んだ。これまでの人生で、今日ほど自分を見つめ直した日はなかった。 真司はもう、自分を愛していない。 かつての愛や優しさも、この雨のように一度降れば、いずれ乾いて消えていく。 「葵さん。これからは奥山さんに丁寧に接して、気を悪くさせないようにしてね。そうしないと、真司が八つ当たりしてくるから」 葵は言葉を失った。「奥様……離婚なさるのですか?」 彼女は首を振った。「いいえ」 離婚の手続きは面倒だ。 3日後、真司は妻を失うことになる。 そうすれば、菖蒲を堂々と迎えることができる。 ただ葵のことが心配なだけだった。 5年間、少しお節介なところはあったけれど、実の娘のように面倒を見てくれた彼女に感謝していた。 だからこそ、自分が死んだ後、菖蒲が葵の居場所まで奪ってしまうのではないかと、心配だった。 菜々子が雨の中で一日中立ち尽くし、日が暮れるころ、ようやく真司がドアを開けた。 菜々子はすでに力尽き、激しい雨の中で倒れ込んでいた。 全身は泥にまみれ、服はびしょ濡れだった。 葵が驚いて駆け寄ってきた。「奥様!気絶しています!旦那様、早く病院へ!」 しかし、真司は傘を差したまま歩み寄り、靴先で菜々子を軽く突いた。「芝居はやめろ。ただ雨に打たれただけだろ。さっさと起きて、菖蒲のためにゲストルームを整えろ」 葵は菜々子の腕と額に触れ、叫ぶ。「熱い!熱があるんですよ!」 真司はそれでも信じず、さらに強く突いた。「病気なら薬でも飲め。ここで俺に抱き上げてほしいのか?」 葵は声を震わせていた。「旦那様、奥様は本当に気絶されているのですよ!」 その時、鋭い痛みに、菜々子は意識を取り戻した。 かすかに目を開けると、視界に入ったのは真司が履いている革靴だった。 その靴は、以前菜々子が贈ったものだ。 高級なワニ革の靴。 今、その靴で彼は何のためらいもなく彼女を蹴っている。 菜々子は起き上がろうとしたが、体に力が入らない。 葵が慌てて抱きとめ、支えた。「奥様、目が覚めてよかった。本当に怖かったです」 真司が冷たく言った。「最初から芝居だと分かっていた。病気になれば俺が同情してやるとでも?菜々子、そんな小細工はやめろ。菖蒲は本当の病気なんだぞ。お前の嘘とは違うんだ」 菜々子は苦笑した。 自分の病気は偽りで、菖蒲は本物? この世界は、いつからこんなにも歪んでしまったのだろう。 「うん、分かったわ」彼女は静かに言った。「もう病気のふりなんてしない」 第6話 葵が菜々子を支えて部屋に入り、ソファに横たえた。 「奥様、少しお休みください。スープを作ったので、少しでも口になさってください」 葵が作ったスープはとても優しい味だったが、今の菜々子には、もう何も食べられなくなっていた。 胃の中は、すでに癌に侵され尽くしていたからだ。 スープを一口飲んだだけで、菜々子は口を押さえ、ふらつきながらトイレに駆け込み、そのまま吐き出した。 中には、スープと一緒に、真っ赤な血が混じっていた。 最後には吐くものもなくなり、ただ、空しくえずくだけになった。 「菜々子」 いつの間にか、真司がトイレの前に立って、険しい表情で、彼女を見下ろしている。 「お前、妊娠しているのか?」 吐いている姿を見て、妊娠しているとでも思ったのだろうか。 残念ながら、嘔吐の原因は妊娠だけではない。 胃癌でも、同じ症状が出るのだ。 それに、たとえ真司が妊娠していると勘違いしたとしても、その顔に喜びは微塵もなかった。 「堕ろせ」と真司は言った。「もし菖蒲に、お前が妊娠していると知られたら、彼女のうつ病がまたぶり返してしまう」 そうだった。菖蒲は、菜々子と真司が結婚したせいで、うつ病になったのだから。 今、もし菜々子が妊娠したと知ったら、また症状が悪化してしまうだろう。 菜々子のスマホが、再び鳴った。 献体登録室からだ。 彼女は電話に出た。 「もしもし、高田様。確認したところ、ご結婚されているようですね。それでしたら、死後のご家族とのトラブルを避けるためにも、ご主人の同意書が必要になります。ご主人のサインがなければ、お引き受けすることは難しいのです」 「夫の署名が必ず必要なんですか?」 「はい。メールで書類をお送りしましたので、お早めにお願いいたします」 「分かりました」 菜々子は電話を切った。 真司は苛立った様子で言った。「俺の話、聞いていたのか?さっさと堕ろしてこい」 「聞いてたわ」 「なら今日中に済ませろ」 「うん」 真司はそう言って去っていった。 菜々子は書斎に行き、メールで届いた遺体提供の同意書を印刷し、真司のもとへ向かった。 「中絶には父親の署名が必要なの。書いてくれる?」 真司は中身も見ず、ペンを取り、サインをした。 「ほら、さっさと行ってこい」 菜々子は苦笑いした。「内容、見なくていいの?」 真司はうんざりした様子で言った。「中絶の同意書だろ。わざわざ見る必要はない」 「手術には命の危険が伴うのよ」 真司は鼻で笑った。「菜々子、お前は最近どうしてそんなに死のことばかり口にする?」 本当にもうすぐ死ぬのだから仕方ない。 残された時間はあと2日だ。 「メソメソするな。早く行け」 「真司、車で送ってくれない?」 「無理だ。今から菖蒲と服を買いに行く。彼女は引っ越してきたばかりで、着替えが足りないんだ」 「そう」 真司は最後にチラリと彼女を見た。「最初からこうやって素直でいれば、雨に打たれることもなかったのにな」 菜々子は部屋を出て。宅配を呼び、署名した書類を献体登録室へ送った。 部屋に戻ると、ちょうど真司と菖蒲が食事をしていた。 菖蒲は口を開け、真司に雑炊を口元まで運ばれるのを待っていた。 菜々子に気づくと、菖蒲は慌てたフリをして真司の手を押し返した。「菜々子さん、お帰りなさい」 真司が眉をひそめる。「病院に行けと言っただろ?なぜまだいる?」 「今から行くところよ」 菜々子は踵を返して外へ出た。 背後から菖蒲の声が聞こえる。「真司、菜々子さんは何の病気なの?」 「大したことない、風邪だよ」 「でも、一人で病院に行くなんて可哀想よ」 真司の声が途端に甘く変わった。「君だって具合が悪いんだ、他人のことは気にするな。さあ、食べて。君が心配だ」 菜々子はドアの前で、手をドアノブにかけて立ち止まった。 「送らなくていいわ。自分でタクシー捕まえるから」 菖蒲はすかさず真司の手を取り、急かした。「そんなの駄目!もし誰かに見られたら、私が泥棒猫みたいじゃない!送ってあげてよ、真司!」 「分かったよ、わかったから落ち着いて。送ってくるから、君は家でゆっくり休んで。いいな?」 「ええ、わかった」 真司は菖蒲のおでこに優しくキスをし、不機嫌な面持ちで菜々子の前に立った。「行くぞ」 菜々子は断ろうとしたが、これが最後に彼が運転する車に乗れる機会かもしれないと思い、口をつぐんだ。 真司の運転は、とにかく乱暴で、幾度となく体が激しく揺さぶられた。 シートベルトがなければ、座席から放り出されていたかもしれない。 車酔いか、胃癌の苦しみか、彼女は車内でも嘔吐してしまった。 その時、真司のスマホが鳴る。 通話に出た途端、彼は怒鳴った。「言う通りにするから、彼女を傷つけることだけはやめてくれ!今すぐ行く!」 菜々子は尋ねた。「何かあったの?」 真司は彼女をチラリと見て、冷たく言い放った。「すぐ分かる」 第7話 真司は彼女を連れ、人里離れた廃ビルへと向かった。 周囲には雑草が生い茂り、人の気配はない。 真司に手首を掴まれた菜々子は、廃ビルの奥へと急かされた。 今の彼女の体力ではもう、ついていくのがやっとだった。菜々子は足をもつれさせ、荒い息を吐きながら歩いた。 真司はまるでそれが見えていないかのように、ただ、ひたすらに先へと急いだ。 ついに、彼は足を止めた。 菜々子が顔を上げると、天井から手首を縛られ、中に吊るされた菖蒲がいた。 「真司、助けて……」彼女は声を上げて泣き出した。 「菖蒲!」真司は彼女をなだめた。「大丈夫だ。俺がいるから。何も心配しなくていい」 「ハハハハ、噂通りの溺愛っぷりだな」 数人の拉致犯が姿を現し、ニヤニヤと笑いながら言った。「金は持ってきたか?」 真司は冷たい声で言った。「こんな短時間で、1億も用意できわけないだろ」 「じゃあ、話にならないな。縄を切って、奥さんが地面に落ちるところを見てるんだな……」 「待て!」 真司は菜々子の腕を乱暴に引っ張り、地面へ突き飛ばした。 「代わりにこいつをやる」 犯人は顔をしかめた。「何を言ってるんだ?俺たちをバカにしてるのか?」 真司は言った。「こいつの臓器を全部売れば、1億なんて簡単に超えるはずだ」 菜々子は地面にへたり込み、信じられないものを見る目で、真司を見上げた。 だが真司の瞳には、菖蒲の姿しかなかった。 さらに真司は言葉を重ねる。「金をもらっても、国内じゃ使うにも困る。警察も嗅ぎ回るだろう。それより海外ルートに流せば、若い女の臓器は高値で売れる。お前たちにとっても安全な商売になるはずだ」 犯人たちは顔を見合わせ、真司の提案に心を動かされたようだった。 拉致は重罪だ。警察も血眼になって追っている。このまま国内を逃げ回る生活など、もうこりごりだった。 それなら、生かしたまま海外に連れて行って、臓器を売った金で、一生遊んで暮らせる! 菖蒲がなおも泣き叫ぶ。「真司、手が痛いよ……」 真司は急かした。「早く彼女を放せ!」 犯人たちは二手に分かれた。二人が菜々子を押さえ、もう二人が菖蒲を縛る縄を切り落とした。 落ちた菖蒲を、真司が駆け寄り、しっかりとその胸で受け止めた。 「大丈夫、俺がいるよ」 「真司……うぅっ、きっと助けに来てくれると信じてたわ」 もう片方では、菜々子が男二人に荒々しく引きずられていった。 彼女は激しく抵抗して泣き叫んだ。「騙されてる!本当の奥さんは私よ!」 犯人たちは大笑いした。「お前が奥さんだって?H市の誰もが、旦那さんがどれほど妻を溺愛してるか知ってる。本当にそうなら、こんな風に売り飛ばしたりしない」 菜々子の心は、瞬時に凍りついた。 溺愛? それはかつての話、今の彼は、もう変わっていた。 その時、階下からサイレンが鳴り響いた。 瞬く間に、警察が廃ビルを完全に包囲した。 罠にかかったことを悟った犯人たちが罵声を上げる。「クソ野郎!よくも嵌めやがったな!」 真司は菖蒲を抱いたまま、すでに警察の後方へ下がっていた。 警察の拡声器が響く。「人質を解放しろ!そうすれば減刑もあり得るぞ!」 警察の包囲網の前では逃げ場がなく、犯人たちは大人しく手を挙げ、菜々子は救助された。 彼女の横を通り過ぎる時、真司は言った。「最初から通報しておいたんだ。お前が無事だと分かってたからこそ、ああやって人質を入れ替えれた」 菜々子は鼻で笑った。「もし警察が間に合わなかったら?犯人が自暴自棄になって私を上から突き落としたら?」 真司は眉をひそめた。「起きていないことを話して、何の意味がある?」 「そうね、もう意味なんてないわ」 菜々子は苦笑いし、何も返さなかった。 真司は菖蒲を抱えたまま、念を押すように言った。「いいか、病院へ行くのを忘れるなよ。俺が言った通り、済ませてこい」 彼はまた、お腹の子を「おろせ」と言っているのだ。 菜々子は頷いた。「分かってるわ。あなたが心配することにはならないから」 人質となった保護対象として、女性警察官が付き添うことになった。 女性警察官は言った。「念のため、怪我がないか病院で検査を受けましょう」 菜々子は軽く笑って、了承した。 病院に着いた途端、菜々子は告げた。「ここで結構です。ありがとうございました」 女性警官は心配そうな表情を見せる。「最後まで立ち会わせてください」 「いいえ、特に異常もありませんから。薬をもらえば済むことですので。お忙しいでしょう?」 「分かりました。何かあったら必ず連絡してくださいね」 「はい。ありがとうございます」 女性警察官の後ろ姿を見送ってから、菜々子は小さく笑みを浮かべ、全く別の棟へと向かって歩き出した。 そこには、献体登録室のプレートが掲げられていた。 菜々子はスマホの電源を切り、SIMカードを取り出して真っ二つに折ると、ゴミ箱へと捨てた。 最後に深く息を吸い込み、彼女はその施設の中へと入っていった。 この瞬間から、真司は二度と自分を見つけ出すことはできなくなった。