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亡き元夫がくれた祝福のメール
陸川景介(りくかわ けいすけ)と長谷川彩寧(はせがわ あやね)の結婚三周年の記念日。彩寧は彼を待つため、陸川グループ本社ビルの前を訪れて...
Chương (1)
第1章
陸川景介(りくかわ けいすけ)と長谷川彩寧(はせがわ あやね)の結婚三周年の記念日。彩寧は彼を待つため、陸川グループ本社ビルの前を訪れていた。
ビルの巨大な屋外ビジョンでは、グループ社長である景介のインタビュー映像が繰り返し流されている。
インタビューの終盤、司会者が「成功への道のりで、最も感謝している人は誰ですか」と尋ねた。
彼はソファにゆったりと背を預けたまま、その端正な顔にふわりと笑みを浮かべ、やがて真剣な眼差しでカメラを見据えた。
「俺が最も感謝しているのは、妻です。
この数年間、彼女はずっと俺のそばで支え続けてくれました。俺の人生において、最も大切な存在です。
俺たちは幼なじみとして育ち、若い頃から心を通わせ、愛し合ってきました。俺の心の中で、彼女の代わりになる人間は誰もいません」
第1話
陸川景介(りくかわ けいすけ)と長谷川彩寧(はせがわ あやね)の結婚三周年の記念日。彩寧は彼を待つため、陸川グループ本社ビルの前を訪れていた。
ビルの巨大な屋外ビジョンでは、グループ社長である景介のインタビュー映像が繰り返し流されている。
インタビューの終盤、司会者が「成功への道のりで、最も感謝している人は誰ですか」と尋ねた。
彼はソファにゆったりと背を預けたまま、その端正な顔にふわりと笑みを浮かべ、やがて真剣な眼差しでカメラを見据えた。
「俺が最も感謝しているのは、妻です。
この数年間、彼女はずっと俺のそばで支え続けてくれました。俺の人生において、最も大切な存在です。
俺たちは幼なじみとして育ち、若い頃から心を通わせ、愛し合ってきました。俺の心の中で、彼女の代わりになる人間は誰もいません。
彼女に出会った瞬間、俺の世界からあらゆる暗闇が消え去った。凍てつく冬は終わりを告げ、夜空の星々は永遠に輝き続けるだろう」
その言葉に、司会者は思わず顔に羨望の色を浮かべた。ビルから出てきた従業員たちも自然と足を止め、集まっては二人の仲むつまじさについて楽しげに語り合っていた。
「社長って、本当に類まれなる愛妻家だよね。全国の視聴者の前で、少しも隠さずに愛を語るなんて、羨ましすぎる」
「わかる。あれほどの成功者なら、普通はスキャンダルだらけで、インフルエンサーや芸能人と派手に遊んでいてもおかしくないのに。社長は女の影がないどころか、奥さん以外の女性を一切近づけないんだから」
「奥さん、何年も海外に留学してたんでしょう?帰国してからは社長のほうから猛アタックしたらしいよ!」
「幼なじみ同士の恋なんて、誰もが憧れるわよね。社長が何年も待っていたってことは、それだけ想いが揺るぎないってことだよ!」
彩寧はビルの入口に立ち、従業員たちが自分と景介の馴れ初めが嬉々として語られているのを耳にして、照れくささに頬を赤らめた。
皆が言うように、この数年間、景介はたしかに彩寧を宝物のように大切にしてくれていた。
物心ついたころから、景介は彩寧を実の妹のようにかわいがってくれた。
やがて彩寧が留学を終えて帰国したとき、彼女は長年彼に片思いしていたにもかかわらず、少女のころから胸にしまってきた想いを打ち明けることができずにいた。
そんな彩寧に対し、景介のほうからアプローチをかけ、世間に交際を宣言した。プロポーズから婚約まで、すべてが順調に進み、二人は結ばれたのである。
彼に嫁いでからの数年、この帆波市(ほなみし)において、景介が類まれなる愛妻家であることを知らない者はいなかった。
そんなことを思い返しているうちに、景介は手元の仕事を終え、一階へと降りてきた。エントランスで自分を待っている彩寧を見つけると、彼はすぐに足を速め、彼女のもとへ歩み寄ってその肩を抱き寄せた。
「いつ来たんだ?どうして中で待っていなかったんだ。外に立っていたら疲れるだろう」
彩寧はほほえんだ。
「さっき来たばかりよ。疲れてなんかないわ」
景介は視線を落とし、彼女の履いているハイヒールを見て眉をひそめた。
「どうしてまたハイヒールなんて履いてきたんだ?この前足をくじいたとき、医者に注意されたばかりだろう。どうして言うことを聞かないんだ」
「今日は結婚記念日でしょう?とびきりお洒落したいじゃない」
景介は彼女にはかなわないとでも言うように、愛情を込めて彼女の鼻先を軽くつついた。
それから腰をかがめ、彩寧を軽々と横抱きにすると、そのまま自分の車まで運んでいった。
周囲から羨望のまなざしを一斉に向けられ、彩寧の顔は火が出るほど真っ赤に染まった。
「やめて。私、もう子供じゃないんだから」
景介はふっと口元をほころばせた。
「でも、俺の中では、彩寧はいつまでも子供のままだ」
二人は、景介が前々から予約していた雰囲気の良いフレンチレストランへと向かった。席に着くやいなや、スタッフがワゴンを押してやってきた。
そこには、真紅のバラの大きな花束と、あらかじめ注文されていたケーキ、そして小さなギフトボックスが載せられていた。
箱を開けると、中にはまばゆい光を放つダイヤモンドのネックレスが収められており、照明の下でひときわ目を奪う輝きを放っていた。
彩寧は驚きに目を見張った。それは、以前ファッション誌でちらりと目にして気になっていたネックレスだった。景介は大金をはたいて、わざわざ海外から取り寄せてくれたのだ。
そのネックレスを見つめる彩寧の瞳には、隠しきれない喜びがあふれていた。
景介は優しい笑みを浮かべ、ネックレスを手に取った。
「俺が着けるよ」
彼がネックレスを持ち、やさしく彼女の首に回して留めようとしたそのとき、テーブルに置かれていたスマホが場違いな着信音を響かせた。
景介は画面を一瞥すると、わずかに眉をひそめた。そして、そのまま片手で通話ボタンを押した。
電話の向こうで相手が何を告げたのか、景介の顔色はたちまち一変した。
通話を切った瞬間、彼の手からネックレスが滑り落ち、硬い音を立てて床に転がった。けれど、彼はそれに気づきもしなかった。
景介は慌てて上着をつかみ、彩寧に一言だけ残した。
「彩寧、急用ができたから先に行く。あとで運転手に迎えに来させる」
そのまま彼は、足早にレストランから立ち去ってしまった。
第2話
慌ただしく去っていく景介の背中を見つめながら、彩寧は少し茫然としていた。
彼が自分を置いていったのは、これが初めてだった。しかも、理由を説明する間さえなかったのだ。
しばらく呆然としたあと、彩寧は床に落ちていたネックレスを拾い、彼のあとを追って外へ出た。
外へ出て初めて、景介がすでに一人で車を出してしまったことに気づいた。彩寧は急いでタクシーを拾い、その車を追うしかなかった。
車は陸川家の本邸の前で止まった。彩寧が車を降りると、少し離れたところに、華奢な女性が大きな袋や箱をいくつも抱え、目を赤くして門の前に立っているのが見えた。
そして、普段は穏やかで品のある、景介の母・陸川冴子(りくかわ さえこ)が、怒りに任せて、手当たり次第に物をその女性へ投げつけていた。
「出てお行き!二度と陸川家に姿を見せるんじゃないよ。景介の前に現れるなんてもってのほかだ!今度その顔を見せたら、叩き出してやるからね!
そんな物を持ってきたからって、私たちが許すとでも思ったのかい?」
彩寧は、冴子がここまで取り乱す姿を見たことがなかった。彼女を知ってから二十数年、冴子はいつだって慈しみに満ち、穏やかで優しい人だった。
この女性はいったい何をしたのだろう。冴子をここまで我を忘れさせるほどのことだったのだろうか。
そして急いで駆けつけてきた景介も、その女性を目にした瞬間、いつもは冷静で自制心が強く、感情を顔に出さないはずの彼が、彩寧の見たことのない表情を浮かべたのだ。
それが喜びなのか、怒りなのか、それとも押し殺された何かなのか、彩寧には言い表せなかった。
景介は女性の前へ歩み寄った。握りしめた手の関節が、白く変色するほど強張っていた。
「何をしに来た」
女性は顔を上げ、赤く潤んだ目で景介を見つめた。
「景介、私……戻ってきたの。おば様と、あなたに会いに来たくて……」
景介の目は、凍りついたように冷たかった。
「俺たちは、お前に会いに来てほしいなどと思っていない。陸川家も、お前を歓迎しない。
程島七瀬(ほどしま ななせ)、警告しておく。今後二度と俺の前に現れるな。お前の顔を見るだけで、吐き気がする」
彼はこの上なく冷たい言葉を吐いていた。けれど彩寧には、景介の手がかすかに震えているのがはっきり見えた。
程島七瀬と呼ばれた女性は、ついにこらえきれなくなったのか、瞳にたまった涙をはらはらとこぼした。
「ごめんなさい。私たちが恨まれているのは分かっています。あの時……」
言い終える前に、冴子は逆鱗に触れられたように激怒した。そばにあった花瓶を乱暴につかみ、七瀬の頭めがけて思いきり振り下ろした。
だが、誰も予想しなかったことが起きた。その瞬間、景介はためらうことなく七瀬を自分の胸へ引き寄せ、身をひるがえして彼女をかばったのだ。
割れた花瓶の破片がたちまち景介の頭にぶつかり、鮮血が地面一面に飛び散った。
「景介!」
彩寧は血の気が引き、慌てて駆け寄った。
病院へ向かう間、彩寧には事情を尋ねる余裕などなかった。ただすぐに景介を病院へ送り、医師が手当てをしている隙に手続きを済ませ、それから冴子をなだめに行った。
すべてを終えたあと、彩寧は医師から処方された薬を手に病室へ戻った。
病室の扉は少し開いていた。中の様子は、ひと目で分かった。
景介はベッドのヘッドボードに背を預けていた。そして、景介にも冴子にもあれほど嫌われていたはずのあの女性が、今は景介の胸にすがりつき、涙ながらに何かを訴えていた。
景介は眉を寄せ、震える手を伸ばした。
けれど結局、彼は彼女を押しのけなかった。
第3話
彩寧の心臓が激しく跳ね上がった。手にしていた薬の箱も、いつの間にか指先から滑り落ちていた。
ドアの外の物音に気づいた景介は、すぐさま七瀬を突き放した。
「消えろ!」
七瀬は大きな音を立てて床に倒れ込んだ。ベッドの上の景介は、荒くなった呼吸をいくらか乱しながらも、冷たい声で告げた。
「出ていけ!」
七瀬は涙をためた目で彼を一度見つめ、結局、泣きながら出ていった。
景介が誰かにそこまで激しい言葉をぶつけるのを、彩寧は見たことがなかった。あの女性の背中が消えていくのを見つめながら、彩寧の胸にはなぜか大きな石でも乗せられたような重苦しさが広がり、息をすることさえ苦しくなった。
彩寧は扉を押し開け、床に落ちていた薬の箱を拾うと、景介のそばへと歩み寄ってそれを置いた。それから、こらえきれずに問いかけた。
「さっきの女性は、あなたとどういう関係なの?」
景介は眉を寄せた。
「別にどうでもいい相手だよ。気にしなくていい」
彩寧の顔にまだ納得のいかない色が残っているのを見ると、景介は彼女の腰を抱き寄せ、声をやわらげた。
「いい子だから。頭がひどく痛むんだ。少し抱かせてくれ」
彩寧はそれ以上、ほかのことを考える余裕がなくなった。慌てて彼を抱きしめ返し、景介が自分の肩に頭を預けるのを受け入れた。
もしかしたら、彼は本当に何かを隠しているのかもしれない。けれど、彼が言わないのなら、自分からは聞かないでおこうと思った。
景介が自分に向けてくれる愛を知っていた。だからこそ、全身全霊で彼を信じるべきだと思ったのだ。
それから数日、彩寧はずっと病院で景介の世話をしていた。そして、あの女性はほとんど毎日のように姿を見せた。
彼女はただ静かに病室の外に立ち、景介を見つめているだけの時もあった。果物を持って入ってくる時もあった。けれど最後には、いつも景介に激しく怒鳴られ、追い出された。
景介は彼女と口をきくこともなく、彼女が持ってきたものを受け取ることもなかった。
ただ奇妙なことに、この時期の景介は、彩寧への依存がほとんど極限に達していた。
彼は毎日、彩寧を抱きしめた。看護師が傷の処置をしている最中でさえ、突然彩寧にキスをすることもあった。
これまでも景介は彩寧に対して十分に情が深く、甘やかしてくれていた。けれど、これほど人目を憚らないことはなかった。
まるで、いつどんな時でも、二人の親密さをわざと周囲に見せつけようとしているかのようだった。
彩寧は、人前であまりにも露骨に睦み合うのが好きではなかった。それでも、何も言わずに耐えた。
景介がなぜそんなことをするのか、彩寧にはずっと分からなかった。その疑問は、あの日、七瀬が保温ジャーを提げて廊下に現れるまで続いた。
景介は突然、彩寧を腕の中へ引き寄せ、顔を伏せて口づけた。
彼はいつも彩寧に優しかった。けれどこの時だけは違った。何かに追い詰められたかのように、必死で彩寧の唇から甘さを奪っていく。
強引に息を奪われ、彩寧の頬は真っ赤に染まった。息をすることさえ苦しかった。
七瀬の手が震え、保温ジャーが大きな音を立てて床に落ちた。
彼女は自分の口を押さえ、目を赤くし、泣きながら背を向けて走り去った。
その瞬間、景介はようやく手を離した。
彼は何かを失ったような目で、誰もいなくなった廊下を見つめていた。その瞳の奥を、一瞬だけ痛みがよぎった。
彩寧は、その痛みがどこから来るものなのか考える間もなく、医師に呼ばれて診察室へ向かった。
医師は、景介の傷の回復は順調で、数日後に抜糸すれば退院できると話した。
彩寧は注意事項を丁寧にスマホへ書き留めた。診察室を出たところで、いつの間にか病室から出てきていた景介の姿が目に入った。
彼は廊下の角に立ち、静かにゴミ箱を見つめていた。体の脇に下ろした手が、かすかに震えている。
彩寧はゆっくりと近づき、彼の視線を追った。
そこでようやく気づいた。ゴミ箱の中で景介の目を引いていたのは、さっき七瀬が手にしていた保温ジャーだった。
第4話
保温ジャーの中身は床一面にこぼれ、容器に貼られていたピンク色の小さなシールも汚れていた。
シールには何の文字もなかった。ただ、小さな笑顔のマークだけが描かれている。
景介はその笑顔を見つめ、なぜか突然、目元を赤くした。
彩寧は訳が分からず、彼の手を軽く引いた。
「どうしたの?」
はっと我に返ったように、景介の瞳の奥にあった痛みは一瞬で消えた。彼はすぐに優しく彩寧の手を握り返した。
「なんでもない。ただゴミを捨てていただけだ」
彩寧はその日のことを深く気に留めなかった。景介が自分の作った温かい手料理を食べたがっているのだろうと思い、翌朝早く、家で胃に優しいお粥をじっくりと炊き上げてから病院へ足を運んだ。
けれど病室に着いてみると、景介はそこにいなかった。
彩寧はスマホを取り出し、景介に電話をかけた。だが誰も出ない。看護師に尋ねて初めて、彼が朝早く自分で退院手続きを済ませ、病院を後にしたのだと知った。
退院するなら、どうして自分に言ってくれなかったのだろう。
彩寧の胸には、理由の分からない不安がこみ上げた。
景介は今まで、こんなことをしたことがなかった。どこへ行くにも、何をするにも、どんな些細なことでも彼女に伝えてくれていた。
けれど、程島七瀬という女性が現れてから、何もかもが知らず知らずのうちに、少しずつ狂い始めている気がした。
彩寧は何度も景介に電話をかけた。けれど、最後までつながらなかった。秘書や運転手にも電話したが、誰も彼の居場所を知らなかった。
彼の傷がまだ完治していないことを思うと、焦りはますます強くなった。彩寧は仕方なく冴子に電話をかけ、景介の行方を尋ねた。
電話がつながり、彩寧が事情を説明すると、向こうからグラスの割れる音が聞こえた。
続いて、途切れ途切れの泣き声が重なった。
電話の向こうで冴子が泣いているのを聞きながら、彩寧は一瞬、何を言えばいいのか分からなくなった。
声が少し震え、不安を隠せなかった。
「お義母さん、どうしたんですか?」
どれほどの時間が過ぎたのか、冴子はようやく口を開いた。
「恋人橋へ行ってみて。景介は……たぶん、そこにいる」
恋人橋。
その名を聞いた瞬間、彩寧の胸がどくりと鳴った。まるで心に突然ひびが入ったようだった。
冷たいものが背筋を伝い、全身へ広がっていく。芯まで凍りつくような寒さに浸された気がした。
帆波市の恋人橋は、恋人たちが必ず一度は訪れると言われる有名な場所だった。
景介と一緒になってから、彩寧はずっとそこへ行ってみたいと願っていた。
そのために、何度も景介に頼んだ。けれど、いつもなら彩寧の望みを何でも叶えてくれる景介が、この願いだけは、いつもあれこれ理由をつけて避けた。
仕事が忙しいからと言葉を濁したり、橋の周辺は足場が悪くて危ないから、彩寧が怪我でもしたらどうするんだと、そうやっていつもごまかしていた。
いつしか彩寧は、恋人橋へ行きたいという思いを口にしなくなった。
誰もが知っていた。景介は彩寧に何でもしてくれる。彩寧が夜空の星を欲しがれば、彼はきっと、どうにかして手に入れようとするだろう。
ただ、恋人橋だけは違った。すべての恋人たちが訪れるその場所へ、景介だけは、彩寧と行こうとしなかった。
それなのに今、彼はどうして、何の前触れもなく一人でそこへ行ったのだろう。
数日前に突然現れたあの女性のこと。景介の見せた、いくつものおかしな態度。その全部を思い出すと、彩寧はなぜか胸がひどくざわついた。
恋人橋に着いたとき、太陽はちょうど橋全体を明るく照らしていた。数えきれないほどの恋人たちがそこに集まり、手を取り合いながら、誓いを込めた南京錠を橋に掛けていく。
彩寧は前へ進めば進むほど、胸のざわめきが強くなった。
そばでは、手をつないだ人々が絶え間なく通り過ぎていく。彩寧は怖かった。この手をつないだ人混みの中に、景介の姿を見つけてしまうのが、たまらなく怖かった。
彼はあんなにも自分を愛してくれていた。限りないほど甘やかし、大切に包み込んでくれた。自分も、いつの間にかその幸せに酔いしれていた。
ありえない。二人は何年も愛し合ってきたのだ。景介が自分を騙すはずがない。
ふいに、そばを通った誰かが彩寧にぶつかった。彼女は考え込んでいて、とっさに踏ん張れず、体ごと橋の手すりの鎖へ倒れ込んだ。
膝をすりむき、痛みに彩寧は眉をきつく寄せた。そばの鎖を支えに立ち上がろうとした瞬間、目の前の名前に、どこか見覚えがあるような気がした。
彩寧はそっと手を離し、自分の手のすぐ先へ視線を落とした。
そこには、少し錆びついた誓いの南京錠があった。その表面に、見慣れた二つの名前がはっきりと刻まれていた。
【陸川景介 程島七瀬】
第5話
彩寧は呆然と、その名前を長い間見つめていた。膝から流れた血が地面に落ち、誰かに声をかけられて、ようやく我に返った。
彼女は何度も何度も、その南京錠に刻まれた名前を指でなぞった。
違う。世の中には、同姓同名の人間なんていくらでもいる。この陸川景介は、きっと自分の知っている景介ではない。
彩寧は恋人橋の周辺をしばらく探し回った。けれど、どこにも景介の姿は見つからなかった。最後には、一人で家に戻るしかなかった。
深夜になって、景介はようやく帰ってきた。目の奥には疲れが濃くにじんでいた。
彩寧はほっと胸をなでおろし、すぐに駆け寄って彼の上着を受け取った。
「今日はどこに行っていたの?何度連絡してもつながらなくて、すごく心配したのよ」
景介は眉間を揉み、ため息をついた。
「すまない。急に処理しなきゃいけない用ができて、連絡する暇がなかったんだ」
いつもの優しさはなく、その言葉の端々には、どこか適当に言い逃れようとする気配が隠れていた。
景介がそれ以上語ろうとしないのを見て、彩寧はこらえきれず、小さな声で言った。
「今日、恋人橋へ行ったの。橋に、あなたと程島さんの名前が刻まれた南京錠が掛かっているのを見たわ」
いつも彩寧にはひどく寛容な景介が、初めて不快そうな表情を見せた。眉間に深いしわを寄せていた。
「世の中には同姓同名の人間なんていくらでもいる。どうして俺とあの女を結びつけるんだ」
彩寧はさらに何か言おうとした。けれど、景介の強く寄せられた眉を見て、また頭痛が起きたのだと思い、慌てて彼を支えながら寝室へ向かった。
「私が考えすぎただけね。怒らないで。また頭が痛むの?先にベッドで休んでいて。痛み止めを持ってくるから」
景介はそれ以上何も言わなかった。静かにベッドへ横になり、そのまま眠りについた。いつものように彩寧を抱き寄せることもなかった。
以前なら、彩寧の体にほんの少し擦り傷ができただけでも、景介はすぐに気づいてくれた。
けれど今日は、彩寧の膝がすりむけ、ガーゼまで巻かれているのに、彼はまるで見えていないかのようだった。
それから数日、景介は同じように朝早く出かけ、夜遅く帰ってきた。帰宅するたび、ひどく疲れ切っているように見えた。
彩寧は、きっと会社が忙しいのだろうと思い、あまり深く気にしなかった。
一週間後、彩寧の従兄である結城凪(ゆうき なぎ)が婚約することになり、彩寧と景介も招待された。
婚約パーティーは帆波市で最も豪華なホテルで開かれる。会場には白い百合が敷き詰められていた。新婦になる人が一番好きな花なのだという。
彩寧は景介の様子がおかしいことに気づき、自分から話しかけた。
「凪兄さんたちも、幼なじみから結ばれたんですって。私たちに似てるね」
景介はスマホを見下ろしたまま返事をしなかった。どこか上の空だった。
そのとき、ちょうど凪がグラスを手に歩み寄ってきて、二人と昔話を始めた。
彩寧の言葉を耳にした凪は、笑いながらからかった。
「彩寧、俺は長年片思いしていた相手と結婚する。お前は長年片思いしていた幼なじみの兄貴分に嫁いだ。いやあ、俺たち本当に似た者同士だな」
その言葉に、景介はようやく顔を上げた。
「長年、片思い?」
凪は少し驚き、すぐに堰を切ったようにしゃべり出した。
「お前、まだ知らなかったのか?あの時の彩寧がお前をどれだけ好きだったかなんて、言い出したらきりがないぞ。毎朝こっそり弁当を届けてたし、スマホにはお前の写真を何千枚も保存してた。
お前が遠くの大学へ行くって知ったときなんか、神社でお百度参りまでして、お前のためにお守りをもらってきたんだ。切なる願いを神様に聞いてもらおうと、必死の思いでお百度を踏んだんだぞ。
親が留学させようとしたときも、絶対に行かないって家族と大喧嘩したんだぞ。最後は昼夜問わず勉強して、5年かかる学業を無理やり3年で終わらせて、予定より早く戻ってきたんだからな。
まあ、お前たちは互いに想い合っていたからよかったけど。このばかな従妹をちゃんと大事にしてやれよ。彩寧の心の中で一番大事な人間は、お前なんだから!」
彩寧は聞いていて恥ずかしくなった。けれど凪は勢いづくばかりで、当時彼女がしていた無茶なことを、一つ残らず洗いざらい話してしまった。
景介はなぜか喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。彼は彩寧を見た。
「どうして今まで俺に言わなかったんだ?」
彩寧は、彼の声に混じった違和感に気づかなかった。笑みを浮かべて答えた。
「もう過ぎたことだもの。それに、今はこうして一緒にいるじゃない」
こらえきれず、彩寧はそっと景介を抱きしめ、告げた。「愛してる」
景介の体がかすかに震えた。
少ししてから、彼はぎこちなく手を伸ばし、彩寧を抱き返した。
「俺も、愛してる」
第6話
婚約パーティーが最高潮を迎えたころ、景介のスマホが不意に鳴った。
彼はスマホを手に席を外し、電話に出た。その顔色は一瞬で血の気が引いたように青ざめた。
電話を切るなり、景介は血相を変えて慌ただしく会場を後にした。彩寧は凪に一言断り、彼のあとを追って車に乗った。
電話越しだったため、彩寧にははっきり聞き取れなかった。ただ、誰かが自殺を図り、今は病院にいて、景介が至急駆けつけなければならないらしいことだけは、ぼんやりと分かった。
二人は車を飛ばし、救急処置室の前へ駆けつけた。景介は扉の外に立ち、充血した目で中を食い入るように見つめていた。
彩寧には、中にいる人物が誰なのか分からなかった。その人が景介にとって、どうしてここまで大事なのかも分からなかった。
景介はいつも、誰よりも冷静で自制心のある人だった。けれど今は、その目を見るだけで、彼の全身からにじみ出る強烈な焦燥と不安が伝わってきた。
突然、救急処置室の扉が開き、医師が焦った様子で飛び出してきた。
「陸川さん、程島さんは出血量が多すぎます。血液センターにも、もう十分なストックがありません!」
景介の瞳はさらに血走った。その顔には、大切なすべてを失うことを恐れるような、尋常ではないパニックが浮かんでいた。
程島……
程島七瀬?
救急処置室に横たわっているのは、七瀬なのか。
あれほど焦りに駆られた景介の姿を見て、彩寧は急に息が詰まった。
景介がここまで取り乱すところを、彩寧は一度も見たことがなかった。たとえ昔、自分が階段から落ちた時でさえ、彼は冷静に自分を抱き上げ、病院へ運んだだけだった。
「陸川さん、程島さんはRHマイナスです。今からほかの病院に手配をかけていては間に合いません。このまま輸血できなければ、命が危ないです」
RHマイナス……
景介はふいに何かを思い出したように、勢いよく振り返った。声が少し震えていた。「彩寧、お前もRHマイナスだったよな?」
彩寧は、ほとんどその瞬間に彼の意図を悟った。体が一気に冷え切った。
信じられない思いで、目の前の男を見つめた。自分を宝物のように扱ってくれていたはずのその人が、今、七瀬のために自分に血を差し出させようとしている。
彩寧が何かを言うより先に、景介はまた口を開いた。「彩寧、頼む。彼女を助けてくれ」
それは頼みの言葉だった。けれどその声には、彩寧に断る余地を少しも与えない響きがあった。
彩寧が答える間もなく、景介はもう彼女の手首をつかみ、医師の前へ引き寄せた。
「彼女は同じ血液型です!」
危険な状態だという説明が次々となされ、彩寧には詳しい事情を尋ねる間さえなかった。そのまま採血室へと連れていかれた。
彩寧はもともと貧血気味で、献血に向いている体ではなかった。けれど目の前で誰かの命が危ないのなら、まず救命を優先すべきなのだろう。
結局どれほどの血を抜かれたのか分からない。彩寧は採血用の椅子に座ったまま、意識を失った。
目を覚ましたとき、彩寧はすでに病室のベッドに横たわっていた。そばにいた看護師が慎重に布団を掛け直し、たしなめるように言った。
「妊娠しているんですよ。これからは絶対に気をつけてください。もう二度と無茶な献血なんてしないでくださいね」
妊娠……?
自分が?
自分と景介に、子供ができたのだろうか。
今この瞬間、自分の胸にどんな感情があるのか、彩寧には言葉にできなかった。彼女は力を振り絞って体を起こし、看護師に尋ねた。「景介は……今どこにいますか?」
看護師は景介という名と顔こそ知っているようだったが、二人が夫婦だとは知らないらしく、世間話のように話し始めた。
「陸川社長ですか?あちらの病室で女性の患者さんに付き添っていますよ。ご存知ないかもしれませんけど、あの方、本当に恋人の方に優しいんです。
昨日、彼女さんの手術が終わってから、一睡もせずにベッドのそばで丸一晩見守っていたんですよ。
今日、彼女さんが目を覚まして、東街区にある行列の絶えない店の魚介スープが食べたいって言ったら、迷いもせず車で買いに行って、戻ってきてからご自身の手で食べさせてあげていましたから」
彩寧の頭の中で、何かがガラガラと音を立てて崩れ落ちる気がした。
彼女は慌ててベッドから起き上がり、よろめきながら七瀬の病室へ向かった。
病室の入口まで来ると、青白い顔をした七瀬が景介を抱きしめているのが見えた。
景介は冷たい顔で告げた。「離せ」
七瀬はさらに強く彼を抱きしめ、とめどなく涙を流しながら激しく訴えた。
「嫌よ!この世界には、結ばれている恋人たちが数え切れないほどいるのに、どうして私たちだけ一緒になれないの?私がいったい何を間違えたっていうの?
どうして運命は、私にだけこんなに残酷なの!景介、ひとつだけ聞かせて。この何年も、私は一度だってあなたを愛するのをやめたことはないわ。あなたは?あなたはまだ、私を愛してる?」
景介の体がこわばった。
長い、長い時間、彼は何も言わなかった。
どれほど経ったのか分からない。やがて景介は、七瀬の手をつかんだ。
けれどそれは、押しのけるためではなかった。
握りしめるためだった。
景介はわずかに重い息を吐き、自分の答えを口にした。
「愛している」
第7話
彩寧は扉の外に立ち尽くしたまま、雷に打たれたように固まっていた。
絶望に押し潰されるように数歩後ずさった。光の届かない底なしの淵へと突き落とされていくような気がした。
もし景介の愛している相手が七瀬なら、自分はいったい何なのだろう。
この数年間の優しさも、大切に扱ってくれた日々も、すべては何だったというのだろう。
全身の血が凍りついたかのように冷え切ったそのとき、ポケットの中のスマホが唐突に鳴った。
彩寧は動揺を隠せないまま、慌てて少し離れた場所へと移動し、電話に出た。
電話の相手は、以前依頼していた内装業者だった。寝室の改修が終わったので、自宅へ戻って確認してほしいという。
寝室の壁を直すと言い出したのは、景介だった。
当時、自分はただ何気なく「この部屋は防音があまりよくないみたい。外が騒がしくてよく眠れない」とこぼしただけだった。すると景介はすぐに業者を手配し、壁を一面まるごと壊して、防音材を入れ直してくれたのだ。
それはただ、自分にゆっくり眠ってもらうためだけの改修だった。
こんなふうに、自分の言うことなら何でも聞き、どんな些細なことでも心に留めてくれていたあの男が、この数年間向けてきた愛は、すべて演技だったというのだろうか。
景介と七瀬は、いったいどういう関係なのだろう。
電話の向こうで業者が早く確認してほしいとせかすため、彩寧は電話を切ると、魂が抜けたような状態のままタクシーで家へと戻った。
家に着くと、彩寧は改修の確認書に署名をした。
業者が帰ろうとしたとき、ふいに一冊の日記帳を差し出してきた。壁を壊すためにクローゼットを動かした際、奥から落ちてきたものだという。
とても厳重にしまわれていたため、おそらく持ち主にとって大切なものだろうと思い、勝手に置いたままにせず、直接手渡すことにしたらしい。
これは……
景介の日記?
彩寧は分厚い日記帳の表紙を撫でた。全身が骨の髄まで冷え切っていくようだった。
景介に日記をつける習慣があるなど、彩寧は一度も知らなかった。
嫌な予感がした。
まるで触れてはいけないパンドラの箱のようだった。一度でもページをめくってしまえば、もう二度と引き返せなくなる気がした。
10秒ほどもためらった末に、彩寧はようやく、ゆっくりとその日記のページを開いた。
日記に何度も何度も綴られていたのは、ある一人の女性の名前だった。
景介はそのページの中で、その女性への愛のすべてをありのままに吐き出していた。
その女性の名は、程島七瀬。
【父さんを轢き殺した一家の娘を、好きになってしまった】
【いけないことだと分かっている。けれど、彼女に惹かれる気持ちはどうしても抑えきれない】
【彼女はとても可愛い。笑っている時も、甘えてくる時も可愛い。彼女はいつも俺に抱きついてきて、一生一緒にいたいと言う。俺もそうしたいかと聞いてくる。俺は口には出さなかった。でもその一瞬で、心の中ではもう答えを出していた。俺もそうしたい、と】
【彼女を連れて恋人橋へ行き、誓いの南京錠を掛けた。昔は神なんて信じていなかった。けれど今は、馬鹿みたいに神に祈っている。愛する彼女と、永遠に一緒にいられますようにと】
【母さんに俺たちのことがばれた。母さんは絶対に認めなかった。誰と一緒になってもいい、だが程島七瀬だけは駄目だと言った。
七瀬の両親がひき逃げしなければ、父さんは死ななかった。母さんは愛する夫を失わず、女手一つで俺を育てることもなかったのだと。そして、別れないなら自殺すると俺を脅した】
【母さんが自殺を図ったのは、これで三度目だ。あの瞬間、母さんの生え際に混じる白髪を見て、俺は決心した。七瀬とは、きっぱり別れようと】
【七瀬は海外へ行った。母さんは俺に見合いを迫ってくる。近所で幼なじみだった妹分が帰国するらしい。母さんの口ぶりから、何を望んでいるかは分かっている。母さんの望み通りにしよう。彩寧を追いかけよう。たとえ、俺が彼女のことを少しも好きではなくても……】
【愛する人と一緒にいられないのなら、ほかの誰といても妥協でしかない。誰と結婚しようが、何が違うというのだろうか】
そのあとには、長い空白のページが続いていた。
そして、日記の最後のページにはこう書かれていた。
【七瀬、俺はまだお前を愛している。深く、深く愛している】
その最後の日記が書かれた日付は、まさに景介が彩寧にプロポーズをした、その日のものだった。
第8話
日記を最後まで読んだ彩寧は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
あまりのショックに声すら出ず、ただ酸素を求めるように浅い呼吸を繰り返す。
胸の奥が鋭くえぐられるように痛んで、立っていることすら辛かった。
彩寧はその日記を抱え、震える手で、自分を傷つけるように何度も何度も過去のページをめくった。
これが真相だったのだ。
彼が愛していたのは、ずっと七瀬だった。
陸川景介は、長谷川彩寧を一度も愛していなかった。
この数年の告白も、プロポーズも、仲睦まじい日々も……
冬の日、彼はいつも笑いながら、彩寧の冷たい手を自分の胸元へ入れて温めてくれた。
「俺の大切な人を冷やすわけにはいかない」と言ったとき、その目に浮かんでいた愛情は、嘘だった。
デートのとき、自分が歩き疲れると、彼は人目も気にせず自分を背負って家に帰った。これから一生、自分を背負っていくと誓ったその言葉も、嘘だった。
数えきれないほど、彼は自分を慈しむように抱きしめ、深くキスをし、何度も何度も愛していると言った。
嘘だった。
全部、嘘だった!
今なら分かる。どうして彼が、恋人橋にだけは自分を連れていこうとしなかったのか。
彼が七瀬と手をつなぎ、あの橋に誓いの南京錠を掛けたとき、彼はもう認めていたのだ。
この生涯で心から愛する人は、七瀬ただ一人。ほかの誰かが入り込む余地など、もうないのだと。
彩寧が長年の片思いの末にようやく願いを叶えたと思っていたものは、結局、彼の口にする妥協でしかなかった。
彩寧は胸を押さえ、息も継げないほど泣いた。最後には、涙さえ出なくなった。
そのとき突然、腹部に激しい痛みが走った。彩寧は震える手で、そっとお腹に触れた。
ここには、小さな命が宿っている。
自分と景介の子供だ。
けれど今、その子供の父親は、自分を一度も愛したことなどないのだと知ってしまった。
ふいに、そばに置いていたスマホが鳴った。
景介からだった。
彩寧は震える手で電話に出た。彼女が声を出すより早く、電話の向こうで景介が切羽詰まった声で言った。
「彩寧、今すぐ陸川グループの本社ビルの屋上に来てくれ!」
言い終えるなり、電話は一方的に切られた。
彩寧は必死に感情を抑え込み、強く涙を拭った。日記をしまい、立ち上がって家を出た。
いずれにせよ、二人のあいだには、たしかに決着をつけるべき時が来ていた。
陸川グループの屋上に着いたとき、彩寧はそこに大勢の人が集まっていることに気づいた。
そして屋上の縁では、凶悪な顔つきの男が、七瀬の首に刃物を突きつけていた。
しばらく押し問答が続いていたのだろう。七瀬の首は締めつけられて真っ赤になり、顔色もいくらか青白くなっていた。
男は怒りに任せ、七瀬の喉をさらに強く締めた。
「くそっ、人はどこだ!俺をなめてるのか!すぐ来るって言っただろうが!陸川、お前のせいで俺の家はめちゃくちゃになった。お前だけ楽に済ませると思うなよ。お前にとって一番大事な人間を失わせて、一生苦しませてやる!」
そばにいた景介は、ようやく彩寧の姿を見つけると、彼女の手をつかみ、自分の前へ引っ張り出した。
「ここだ!連れてきたぞ!」
景介は彩寧を見た。目には罪悪感があった。それでも、震える両手で彼女の手をきつく握りしめた。
「よく見ろ。こっちが俺の妻だ。彼女こそ俺にとって一番大事な人間だ。帆波市中の人間が知っている。俺が一番愛しているのは、この妻だけだ。
今お前が人質にしている女を放せ。彼女は無関係だ。俺にとっては何の意味もない。たとえ殺したところで無駄だ。俺の妻を人質にしてこそ、お前の望む目的は果たせるはずだ」
景介の言葉を聞いて、彩寧はようやく理解した。
彼が慌ただしく自分を呼び出したのは、ただ自分を使って、七瀬の無事と引き換えにするためだったのか?!
彩寧は衝撃のまま彼を見た。その目には、信じられない思いと悲痛が満ちていた。
景介の顔色は蒼白だった。彼は彩寧をきつくつかんだまま、二人にしか聞こえない声で言った。
「彩寧、怖がるな。万全の準備はしてある。お前はただ歩いていって、あいつの注意を逸らせばいい。必ず助けるから」
その言葉を聞いても、彩寧は少しも慰められなかった。それどころか、胸がさらに引き裂かれるように痛んだ。
景介がためらいもなく彩寧を押し出し、七瀬と交換しようとした時点で、彼にとって彩寧の命などどうでもよかった。
一方、犯人は彩寧が来たのを見て、七瀬を放して人質を交換しようとした。その瞬間、ふと視線を上げた犯人の目が、周囲のただならぬ気配に気づいた。
第9話
その瞬間、景介は彩寧を犯人のほうへ突き飛ばし、すぐさま七瀬を自分の腕の中へ引き寄せた。
突き飛ばされた瞬間、彩寧ははっきりと見てしまった。景介が必死の形相で七瀬を抱きしめる姿を。
とっさの反応は嘘をつかない。
昔も今も、景介の心の中で一番大切な人間は、七瀬なのだ。
そのとき、犯人はすでに正気を失っていた。手の届くところにいた彩寧をつかむと、狂ったように刃物を振り下ろした。
一度。
二度。
三度。
彩寧の視界は真っ赤に染まった。
かつての彩寧は、痛いのが何より怖かった。少し擦り傷を作っただけでも、景介は自分のことのように胸を痛め、彼女を腕に抱いてなだめてくれたものだった。
けれど今、彼は別の女性を腕に抱き、もう彩寧のことなど見てはいなかった。
パーン!
耳をつんざく銃声とともに、犯人と彩寧は同時に地面へ倒れ込んだ。
幅の広い鋭いナイフが、彩寧の胸元に深く突き刺さっていた。血がどくどくと流れ出し、あっという間にコンクリートの床を真っ赤に染め上げた。
二人の血は混ざり合い、それが犯人の血なのか、彩寧の血なのか、もう見分けがつかなかった。
薄れゆく意識のなか、完全に取り乱した叫び声が耳に届いた。
「彩寧!」
景介は狂ったように駆け寄り、顔面蒼白の彩寧を強く抱きしめた。震える手で、とめどなく血が溢れる傷口を押さえる。
犯人があんなにも早く異変に気づくとは思っていなかった。
まして、彩寧が本当に傷つくことになるとは思ってもいなかった。
息も絶え絶えの彩寧を見て、景介は何か大切なものを失いかけているような感覚に襲われた。これほどの恐怖とパニックを、彼は一度も味わったことがなかった。
景介は彩寧を抱き上げ、気が狂ったように下へ駆け出した。
「ごめん……彩寧、こんなことになるなんて思わなかった……彩寧、怖がるな……彩寧、お前は大丈夫だ……」
車が病院の救急入口に止まるなり、景介は血まみれの彩寧を抱いたまま、半狂乱で医師を探し回った。
「誰か!助けてくれ!医者を呼んでくれ!」
医師は彩寧の傷があまりにも重いのを見るなり、すぐに緊迫した表情になった。周囲のスタッフが一斉に駆け寄り、彼女を慎重にストレッチャーへ乗せた。
素早く状態を確認したあと、医師の顔色は一気に険しくなった。
医師は冷ややかな目で景介を見据え、ほとんど怒鳴るように言った。
「あなたが患者さんのご家族ですか?患者さんは妊娠しているんですよ!どうしてちゃんと守ってあげなかったんですか?
こんなひどい刺し傷を負わせるなんて……今の状態は非常に危険です!母子ともに助からない可能性があります!すぐに緊急手術を行います!」
医師の言葉を聞いた景介は、雷に打たれたように立ち尽くした。
この数日、彼は怪我をした七瀬に付き添うことばかりに追われていた。彩寧のことを気にかけたことなどなく、まして彼女が妊娠していたことなど、知るはずもなかった。
スタッフが彩寧をストレッチャーに乗せ、手術室へ運ぼうとした。景介は彼女の手をきつく握り、初めて涙を流した。
「彩寧、ごめん。ごめん……」
彩寧はかすかに目を開け、力を振り絞って、身につけていた一枚の紙切れを取り出した。
それは、ずっと隠し持っていた妊娠の診断書だった。ずっと景介に見せたかったのに、渡せずにいたものだった。
診断書は、すでに彩寧の血で赤く染まっていた。彼女が震える手を伸ばすと、その紙はひらりと床へ落ちた。
彩寧は泣きながら笑い、絶望の目で景介を見た。
「景介、これが私たちの子供よ。ちゃんと見て……これから先、私たちはもう二度とこの子に会えない……私も、永遠にあなたには会いたくない……」
言い終えると、彩寧は最後の力を振り絞り、自分の指から血のついた結婚指輪を外した。
震える手で、それを景介の手のひらに置く。
そして、景介の心臓をえぐるような最後の言葉を告げた。
「景介、離婚しましょう。あなたを愛するのは痛すぎる。私はもう二度と……あなたを愛さない……」