夫の初恋の身代わりを拾っちゃった

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夫の初恋の身代わりを拾っちゃった

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結婚して五年―― 黒崎あずさ(くろさき あずさ)は、ようやく離婚を決意した。 その日、あずさは書類を届けるために夫の黒崎直哉(くろさき ...

Chương (1)

第1章

結婚して五年―― 黒崎あずさ(くろさき あずさ)は、ようやく離婚を決意した。 その日、あずさは書類を届けるために夫の黒崎直哉(くろさき なおや)の執務室へ向かった秘書に声をかけ、「ついでだから」と言って書類一式を受け取った。そして、その束の中にもう一通の書類をそっと紛れ込ませる。 それは、他ではない離婚届だ。付箋で要所要所が隠され、一目ではそれだと分からないよう、あずさがあらかじめ準備したもの。 執務室に入ると、机の向こうで直哉はまだ二日酔いが抜けきっていない様子だった。 額を押さえながら書類を受け取り、内容もろくに確認しないまま次々とサインを入れていく。 ――その離婚届も含めて。 最後の一筆が記された瞬間、あずさの視線はその紙から離れなくなった。 全部、終わるんだ。 そう思いながら書類を回収しようとしたときだった。 不意に腕が机の端に触れた。カタン、と小さな音を立ててフォトフレームが倒れ、床に落ちる。 ガラスが砕け散った。写真の中で微笑む少女の顔を、飛び散った破片が半分ほど覆い隠す。 少女の名前は青木怜奈(あおき れいな)。 直哉が今も忘れられない、最愛の人だった。 第1話 結婚して五年―― 黒崎あずさ(くろさき あずさ)は、ようやく離婚を決意した。 その日、あずさは書類を届けるために夫の黒崎直哉(くろさき なおや)の執務室へ向かった秘書に声をかけ、「ついでだから」と言って書類一式を受け取った。そして、その束の中にもう一通の書類をそっと紛れ込ませる。 それは、他ではない離婚届だ。付箋で要所要所が隠され、一目ではそれだと分からないよう、あずさがあらかじめ準備したもの。 執務室に入ると、机の向こうで直哉はまだ二日酔いが抜けきっていない様子だった。 額を押さえながら書類を受け取り、内容もろくに確認しないまま次々とサインを入れていく。 ――その離婚届も含めて。 最後の一筆が記された瞬間、あずさの視線はその紙から離れなくなった。 全部、終わるんだ。 そう思いながら書類を回収しようとしたときだった。 不意に腕が机の端に触れた。カタン、と小さな音を立ててフォトフレームが倒れ、床に落ちる。 ガラスが砕け散った。写真の中で微笑む少女の顔を、飛び散った破片が半分ほど覆い隠す。 少女の名前は青木怜奈(あおき れいな)。 直哉が今も忘れられない、最愛の人だった。 「お前……何をしてるんだ!」 鋭い怒声が部屋に響いた。 つい先ほどまで酒の残っていたはずの直哉の目が、一瞬で覚める。 彼は勢いよく立ち上がると、あずさを乱暴に突き飛ばした。 よろめいたあずさは床へ手をつく。 その瞬間、砕けたガラスの破片が掌に深く食い込み、鋭い痛みが走った。 彼女は唇を噛みしめ、悲鳴は飲み込んだが、込み上げた涙までは止められなかった。 手を見ると、ぽたりと血が指先を伝い、床に散らばった書類を赤く染めていく。 それでも直哉は、あずさを一度も見なかった。彼の視線はただあの写真だけに向けられている。 床に膝をつき、写真を拾い上げると、ガラスの破片を丁寧に払い落としていく。傷一つ付けまいとするその手つきは、驚くほど優しかった。まるで世界で何よりも大切な宝物を扱うように。 その光景を見た瞬間、あずさの心は完全に冷え切った。言葉にできない悲しさが込み上げてくる。 結婚して五年も経ったのに、自分という生身の人間は、一枚の写真にも敵わないなんて。 「まだいたのか?」写真を確認し終えた直哉が顔を上げる。その目は氷のように冷たかった。「今後、俺の許可がなければ、執務室に入ってくるな」 あずさは何も答えなかった。ただ黙って床の書類を拾い集める。 血はまだ止まっていない。けれど、不思議と痛みは感じなかった。 扉へ向かいかけたそのとき、背後で直哉が誰かに電話をかけた。 「例の件はどうなった?」低く冷たい声だが、その奥には隠し切れない焦りが滲んでいる。「怜奈に似た女はまだ見つからないのか?」 電話の向こうで何か返答があったらしい。次の瞬間、直哉の声が苦しげに震えた。「探し続けろ!もう何年も探したのに、どうして怜奈に似た人間を一人も見つからないんだ?どうして俺をここまで苦しめるんだ……」 あずさの足が止まった。胸の奥がずきりと痛む。 血で汚れた掌に視線を落とし、自嘲するように小さく笑う。 ――直哉。怜奈に似た人なら、あなたはまだ見つけられていないけど、私は見つけた。 安心して。私があの子を完璧に育て上げ、そして、自らあなたのもとへ送り届けるから。 …… 家を出たあずさはタクシーを拾い、自身が所有する郊外の別荘へ向かった。 車は華やかな街並みを駆け抜けていく。流れる景色を眺めながら、あずさの意識は自然と過去へ引き戻されていた。 直哉とは幼なじみだった。物心ついた頃から一緒に育ち、気づけば恋をしていた。 十年間、彼だけを想い続けたが、直哉の心には別の人がいた。 青木怜奈。 あの少女が現れてからというもの、彼の世界には彼女しか存在しなくなった。 しかし運命は残酷だった。 怜奈は重い病に倒れ、二十歳という若さでこの世を去った。それ以来、直哉は笑わなくなった。心を閉ざし、抜け殻のように生き続けた。そして最終的に、あずさとの政略結婚を受け入れた。 周りの人間は誰もが知っている。あずさが、どれほど直哉を愛しているのかを。 だからこそ―― 直哉が家の中に怜奈の仏壇を置き、毎日のように手を合わせても、あずさは何も言わなかった。 寝室のベッドサイドを怜奈の写真で埋め尽くし、まるで彼女がそこにいるかのように語りかけ続けても、耐えた。 世界中を旅し、怜奈に似た女性を狂ったように捜し続けても、黙って見過ごした。 あずさは信じていた。直哉との思い出を少しずつ作っていけば、いつかは振り向いてくれるかもしれないと。 怜奈を忘れ、二人の間に子供が生まれ、夫婦として穏やかな人生を歩んでいく――そんな未来を夢見たことさえあった。 けれど現実は、容赦なくその幻想を打ち砕いた。 あずさは三度、妊娠した。そして三度とも、子供を失った。 体質の問題なのだと思っていた。自分の身体が弱いせいで、子供を守れなかったのだと。 だが三度目の流産のあと、直哉と友人の会話を偶然耳にしてしまった。 「なあ直哉。本当にいいのか?あずささんが妊娠するたび、お前が薬を飲ませて流産させたこと……もし本人が知ったら、立ち直れなくなるぞ」 「あいつがどうなろうが俺には関係ない。俺が他の女との子供を持ったら、怜奈が悲しむ」 その瞬間になって、あずさはようやく理解した。今までの流産が自分のせいではなく、すべて、直哉が仕組んだことだったと。 そして、その理由はまさかの、亡くなった怜奈を悲しませたくないなんて。 真実を知ったあずさは、頭の中が真っ白になった。全身から血の気が引いていく。 その夜、あずさは半ば逃げるようにバーへ向かい、酒をあおった。そしてそこで、一人の若い女性と出会い、助けた。 親に金目当てで歳の離れた男性へ嫁がされそうになっていた可哀想な女性だった。 彼女の顔を見た瞬間――あずさは息を呑んだ。若い頃の怜奈にあまりにも似ているのだ。 そして、あずさの胸に一つ狂気じみた考えが芽生える。 ――怜奈のことがどうしても忘れられないというのなら、直哉と別れよう。そして、彼に最高の贈り物を残す。 この女性を怜奈の代わりにして、永遠に直哉のそばにいてもらうのだ。 …… 湖畔の別荘。 玄関を開けたあずさは、リビングでレッスンを受ける赤羽花音(あかばね かのん)の姿を見つけた。専属の講師が、怜奈の服装や立ち居振る舞いを教えている最中だ。 丸い襟の白いワンピースにパールのネックレス。清楚で儚げな雰囲気が、花音によく似合っている。 ただ、栄養不足のせいか、彼女の髪はツヤがなく、体も少し華奢だ。 けれどその細ささえも、病に蝕まれていた頃の怜奈を思わせた。 その姿に、あずさは思わず見入ってしまう。 「怜奈は、こういう白いワンピースを好んで着ているけど、髪はもう少しゆるく巻いたほうがいいかな。香水もフローラル系がいいわ」 気づけば口を開いていた。 花音は素直に頷き、柔らかい声で答える。「わかりました、あずささん。ちゃんと覚えます」 花音には選択肢がなかった。年の離れた男との結婚も、金づるのように娘を扱う両親の元へ戻ることも、どちらも望んでいない。 だからこそ、あずさが直哉の写真を見せた時、花音は心を決めた。 背が高く、洗練されていて、近寄りがたいほど気品のある男。本来なら自分とは決して交わることのない世界の人間だ。 そんな彼の隣にいられるなら、どんなことでもやり遂げよう。 花音はあずさの頼みを聞き入れ、少しでも怜奈に近づけられるよう、熱心に学び続けていた。 あずさはそんな彼女を見つめていると、言葉にならない感情が渦巻く。 そっと手を伸ばし、花音の髪を撫でる。 「心配しないで。あなたはもう十分彼女に似ているよ。あと少しで、あなたを彼のもとへ送ってあげるね」 第2話 別荘を後にしたあずさは、今まで自分が「家」だと呼んでいた場所へ戻った。 玄関を開けても、迎えるのは静寂だけ。リビングを通り過ぎ、そのまま自分の部屋へ向かう。パソコンを立ち上げると、一ヶ月後海外行きの航空券を予約した。 花音のレッスンが終わり、怜奈になりきってくれれば、自分はここから出られる。広い世界へ飛び出し、自分の人生を取り戻せるのだ。 きっとこれからは、自分らしく生きられる。そしていつか、本当に自分を愛してくれる人にも出会えるだろう。 そして直哉は――自分の人生から消えるのだ。 その夜、直哉は泥酔した状態で帰宅した。 玄関の扉が乱暴に開かれる。 直哉のネクタイは緩み、ジャケットは腕に引っ掛けられたまま。足取りも覚束ない。 けれど、あずさに近づいた瞬間、ぼんやりとしていた彼の目に、突然光がよぎった。 深く息を吸うと、何か懐かしい匂いをたどるように、その瞳が熱を帯びていく。 「……怜奈」 震える声に込められた想いは重く、痛々しいほどだった。 次の瞬間、直哉はあずさを強く抱き寄せた。息が詰まるほどに、二度と離すまいとでも言うように。 「怜奈……戻ってきてくれたんだな……会いたかったよ。ずっと……会いたかった」 苦しげな吐息が漏れる。 「今度こそ離さない。もう二度と、お前を失いたくない……」 あずさの身体が強張る。胸の奥を鋭い刃で抉られたようだ。 彼女は目を閉じ、静かに息を整えてから、ゆっくりと彼の胸を押し返した。 「……人違いよ」その声は驚くほど冷静だった。「私は怜奈じゃない」 直哉は数歩よろめきながら後退した。その頃には酒も少し醒めていたらしい。 熱を帯びていた瞳から光が消えていく。代わりに浮かんだのは、いつもの冷たさと怒りだった。 「その香水……」直哉の声が低く、どこか不快そうな響きを含んでいる。「怜奈が一番好きだった香りだ。二度と使うな」 あずさの指先がぴくりと震えた。掌の中へ爪が食い込む。 それでも彼女は表情一つ変えず、直哉を見上げ、穏やかな声で言った。「わかった。もう使わない」 直哉はそれ以上何も言わなかった。背を向け、そのまま寝室へ向かう。その後ろ姿はどこかよそよそしく、冷酷だった。 扉が閉まる音を聞きながら、あずさはその場に立ち尽くす。胸の奥は凍りついたように冷たかった。 ふと視線を落とすと、握り締めていた掌には、深く食い込んだ爪の跡が赤く残っていた。 …… 翌日は二人の結婚記念日だった。 これまでの直哉は、記念日など気に留めることがなかった。だからこそ、「今夜、食事に行くぞ」と言われた時、あずさは一瞬耳を疑った。 しかも予約されていたのは、夜景の見える高級レストランだった。 柔らかな照明。静かに流れる音楽。 誰が見ても理想的な記念日のディナーだが、向かい側に座る直哉の表情は淡々としていて、どこか義務を果たしているだけのように見えた。 彼はメニューを開くと、ほとんど考えることなく料理を注文していく。 その内容を聞いた瞬間、あずさの胸が静かに沈んだ。 すべて、怜奈が好きだった料理だ。 注文を終え、店員が立ち去ろうとした時、あずさが声を掛ける。 「すみません」 向かい側で直哉が顔を上げ、わずかに眉が寄った。 「私、今の料理は全部好きじゃないので、注文し直してもいいですか?」 穏やかな口調だったが、その言葉に迷いはなかった。 直哉は意外そうに目を細める。彼はメニューを閉じ、あずさを見据える。 「好きじゃない?今までは喜んで食べていただろう」 あずさは静かに彼を見返した。「ええ、今まではそうだった。けどもう違う。あなたが注文した料理、全部怜奈が好きだったものでしょ?私は好きじゃないし、これからも好きにはなれないわ」 直哉の眉間に深い皺が刻まれた。あずさの反応が予想に反し、視線に苛立ちが混じる。 「いきなりどうした?こんなことをして、俺の注意を引くつもりか?結婚する時に話したはずだ。俺の心には怜奈しかいないと。それでも構わないと言ったのはお前だろう?今さらこんな話をしてどうするんだ?まさか、死んだ人間に嫉妬しているのか?」 あずさは答えなかった。ただ静かにワイングラスを揺らす。 直哉の容赦のない言葉を浴びても、不思議と動揺しなかった。以前なら傷ついていたかもしれない、けれど今は違う。 今までの彼女は、直哉と少しでも同じ時間を過ごしたくて、苦手な料理も無理に口へ運んだ。時には体質に合わず、アレルギー症状が出るものさえ我慢して食べていた。 ――でも、その我慢はもう終わりだ。これ以上、自分を偽るつもりはない。 第3話 重苦しい空気のまま、結婚記念日のディナーは終わった。 帰りの車内でも二人の間に会話はない。直哉は無表情のままハンドルを握り、あずさは助手席から流れていく夜景を眺め、虚しい感情だけが胸に満ちていく。 その時、鋭いブレーキ音が耳をつんざく。 二人が同時に顔を上げると、対向車線から一台の車が制御を失ったまま猛スピードで突っ込んできていた。 あずさが状況を理解するより早く、激しい衝突音が響いた。 車体が大きく跳ね上がり、視界がぐるりと反転した。 頭が車の窓に叩きつけられる。鈍い衝撃とともに視界が真っ暗になり、意識が遠のいた。 どのくらい経ったか、耳元で直哉の荒い呼吸音が聞こえる。 ぼんやりとした意識の中、あずさはかろうじて目を開く。すると、直哉の腕が自分の前へ伸ばされているのが見えた。 ――守ってくれたのだろうか。 一瞬だけ、そんな考えがよぎる。 だが次の瞬間、その期待は無残に砕け散った。 直哉が庇っていたのはあずさではなく、助手席の脇に置かれていた天然石のペンダントだった。 怜奈が生前、彼に贈ったものだ。 事故の衝撃でペンダントには血が付着している。それなのに直哉は、自分の傷など気にも留めず、震える指で血を拭っていた。 やがてペンダントの表面に小さな亀裂を見つけると、その瞳に痛みが走る。すぐにスマホを取り出し、どこかへ電話を掛けた。 「至急、腕の立つアクセサリー職人を手配しろ。修復してほしいものがある」 あずさはぼんやりとその光景を見つめていた。胸の奥から、どうしようもない虚しさが込み上げてくる。 彼の妻である自分が血まみれで、身動きもできないほど傷ついているのに、彼は一度もこちらを見ない。 容体を確認することもなければ、救急車を呼ぶことさえしない。彼にとって大切なのは、あのペンダントだけ。 直哉はふらつく足取りで車を降りる。 その背中を見ながら、あずさの意識はゆっくりと沈んでいった。 世界が暗闇に飲み込まれる直前、最後に見えたのは――振り返ることなく去っていく直哉の背中だった。 …… 手術室の照明が眩しく目に刺さる。 あずさの意識は途切れたり戻ったりを繰り返していた。遠くから慌ただしい声が聞こえる。 「ご主人と連絡が取れません!手術同意書にサインする方がいないんです!」 「こんな重傷なのに、一度も病院へ来ないなんて……同意書くらいすぐ書けるでしょ?いくら急用でも、妻の命より大事だっていうの?」 その言葉に、あずさはかすかに笑った。乾いた、自嘲の笑みだった。 その通りだ。直哉にとって、怜奈と怜奈の遺品は、自分の命よりずっと大事なのだ。 「自分で……署名します……」 小さくて、掠れた声が漏れる。 看護師たちは驚いたように顔を見合わせた。迷っているようだが、他に思いつく方法はなく、結局、同意するしかなかった。 あずさは震える腕を持ち上げる。血の付いた指先でペンを握り、自分の名前を書いた。 一画ごとに全身の力が削られていく。 それでもどうにか最後まで書き切ったところで、再び意識が途切れた。 次に目を開けた時には、病室のベッドの上だった。 入院する日が続いたが、その間、直哉が顔を見せることは一度もなかった。 理由は分かっている。彼はペンダントの修復で忙しく、自分のことなど思い出す暇もないのだろう。 そして退院の日が訪れた。まだ傷は完全には治っておらず、自力で歩くことも難しいため、あずさは車椅子に座ったまま病院の玄関へ向かった。 ようやく直哉も、妻が同じ事故で重傷を負っていたことを思い出したらしい。 迎えに現れた彼の表情は相変わらず淡々としていた。まるでスケジュール帳に書かれた予定を一つ片付けに来ただけのように。 帰り道、運転手は渋滞を避けるため、車通りの少ない道へ入った。 車内に流れるのは直哉がキーボードを叩く音だけ。 あずさが何気なく視線を向けると、画面には秘書とのやり取りが映っていた。内容はすべてペンダントの修復状況について。 怜奈が何気なく渡した品を、直哉は宝物のように扱っている。一方で、自分という生身の人間には一瞥すら向けない。 車は道路を滑るように走り続ける。二人の間に相変わらず会話がない。 そんな沈黙が続いていた時、突然、キーボードを叩く直哉の指が止まった。彼は窓の外を見た。 呼吸が浅くなり、車のグリップを握る手にも力がこもる。まるで、心の底から求め続けていた何かを見つけたように。 あずさもその視線を追う。 少し離れたところで、白いワンピースを着た女性の後ろ姿が見えた。長い髪がゆるく巻かれ、どこか怜奈に似ていた彼女は、一台の車に乗り、反対方向へ離れていく。 「車を止めろ!」直哉が叫んだ。 運転手は慌ててブレーキを踏む。車が路肩に停車するや否や、直哉はドアを開けて飛び出そうとする。視線はなおも女性が乗った車を追い続けていた。 そして振り返り、あずさに言い放つ。その声は冷たく、ひどく焦っていた。「お前は自分で帰れ。俺は用事ができた」 あずさは息を呑み、信じられない思いで彼を見つめる。 何か言おうと口を開くが、その前に直哉は彼女を車から降ろしていた。怪我人であることなど意にも介さず、車椅子ごと路肩へ移す。 そして運転手へ短く命じる。「さっき走っていった車を追え」 すると車は勢いよく方向転換し、猛スピードでその女性が消えた方向へと走り去った。 残されたのは――道路の脇で、一人きり車椅子に座るあずさだけだった。 第4話 その時、何の前触れもなく、雨が降り出した。 大粒の雨が容赦なくあずさの身体を打つ。冷たい雨水は服を瞬く間に濡らし、まだ癒えていない傷口へと染み込んでいった。 滲んだ包帯の下で、裂けるような痛みが走る。 あずさは唇を噛みながら車椅子の車輪に手を掛けた。 とにかくここを離れなければ。 だが、車通りの少ない道では、タクシーなど捕まるはずもない。 雨で冷え切った指先は思うように動かず、濡れた路面に車輪は何度も滑った。危うく転倒しかけながら、それでも前へ進む。 けれど、あるカーブに差しかかった時、車椅子のバランスが崩れてしまい、あずさは地面へ投げ出された。 膝がコンクリートに激しくぶつかる。 傷口が開き、鮮血が雨水に混じって流れていく。 痛みに息が詰まる。それでも何とか起き上がろうと腕に力を込めた。だが衰弱した身体は言うことを聞いてくれず、何度挑戦しても、立てなかった。 雨脚はさらに強くなり、視界も滲み始める。頬を伝うのが雨なのか涙なのか、自分でもよく分からなかった。 冷たい地面に伏したまま、どうしようもない虚しさだけが胸の奥から込み上げてきた。 怜奈に少し似ている後ろ姿を見つけただけで、直哉は自分を置き去りにした。それなのに今までの自分は、いつか彼が振り向いてくれると本気で信じていた。 どうしてそんな夢を見られたのだろう。 あずさは小さく笑った。 自嘲するような笑い声は、いつしか嗚咽に変わり、涙が次々と溢れる。 どれほど時間が経ったのか分からない。あずさはようやく身体を起こし、這うようにして車椅子へ戻った。 服はびしょ濡れで、傷口はふやけて白くなっている。痛みで感覚さえ麻痺し始めていた。 それでもあずさは前を向いた。少しずつ、車椅子を押しながら家を目指す。 そして五時間後、あずさはようやく自宅へ辿り着いた。 傷だらけで、全身はずぶ濡れ。 玄関にいた使用人たちがそんな彼女を見た時、誰もが言葉を失った。 けれどあずさは彼らの反応など気にも留めなかった。ただ掠れた声で告げる。「お湯と、替えの包帯を用意して」 …… 夜になってようやく直哉が帰宅した。 スーツは乱れ、顔には疲労の色が浮かんでいる。そして、その目には失望が宿っていた。 ソファに座っているあずさは、彼を見上げると、静かに尋ねた。「あの女性、見失ったの?」 「いや、見つけた。でも、似ていなかった」 それだけ答えた彼は、あずさの全身に残る傷にも、包帯にも一切気づかない。どうやって帰ってきたのかさえ聞かない。 彼の頭の中にあるのは、怜奈に似た女性を探すことだけ。あずさなど最初から存在していなかった。 その後の数日間も、直哉は朝早く出て行き、夜遅くになって帰ってくる。家にいる間も、手には怜奈の写真。ぼんやりと眺めては何かを思い出すように目を閉じる。 あずさはただ静かにその様子を見ていた。 身体の傷が少しずつ癒えていくのと反比例するように、家を出る決意は日に日に固まっていく。 そしてある日、あずさは部屋の整理を始めた。 直哉の好みに合わせて買った洋服、アクセサリーや香水。それらをすべて整理し、庭へ運ぶと、一つずつ火鉢へ投げ込んでいく。 炎が揺らめく。 今までの思い出も、自分の未練も焼かれていき、長い間手放せなかった執着が、少しずつ灰になっていく。 火鉢の火が消えかけたところで、直哉が帰宅した。 庭で燃え盛る火を見た瞬間、顔色が変わり、駆け寄っては火鉢を蹴り飛ばした。 火が四方へ飛び散る。そのうちのいくつかがあずさの腕や足に当たった。 「っ……!」 火傷の痛みに思わず息を呑む。 だが直哉はそれどころではなかった。怒りに満ちた目であずさを睨みつける。「どうして怜奈の物を燃やした!」 あずさは眉を寄せながら答える。「違う。燃やしたのは怜奈の物じゃない。私の物よ」 直哉は一瞬言葉を失った。次の瞬間、踵を返して家の中へ駆け込んでいく。怜奈の遺品が何一つ失われていないことを確かめると、ようやく安堵したように息を吐いた。 そして再び庭へ戻ってくる。 あずさを見つめる目には苛立ちと困惑が入り混じっていた。「急に自分の物を燃やして、何をするつもりだ」 あずさは俯き、足元に残る赤い炭火を見つめる。しばらくしてから、彼女は静かに口を開いた。「もう必要ないから。私、ここを出て行くの」 第5話 あずさの声は静かだった。 けれどその言葉は、思いのほか重く直哉の胸に落ちた。一瞬だけ、彼の表情が固まる。 だが数秒後には何事もなかったように冷静さを取り戻した。「出て行くって?また旅行にでも行くのか?」 その返答に、あずさは思わず苦笑した。 彼は一度たりとも、自分が本気で離れていくとは考えたことがない。だから本音を口にしても、旅行の話だと思い込んでしまう。 それほどまでに、自分の存在は当たり前になっていた。 返事しようとあずさが口を開きかけた時、直哉は話を逸らした。「しばらく旅行は控えてくれ。もうすぐ俺と怜奈が出会って七年になる。その記念にパーティーを開くつもりだ。お前も手伝ってくれ」 あずさは言い返す気力もなく、ただ「分かった」と答えただけだった。 それから数日間、あずさはパーティーの準備に追われた。 会場は豪華に飾り付けられた。怜奈が生前好きだったクチナシの花が至る所に飾られ、無数の照明が幻想的な光を落としている。 招待客たちがグラスを交わしながら談笑する中、あずさの耳にも様々な噂話が聞こえてくる。 「黒崎社長は本当に一途だな。七年経ってもまだ青木さんを忘れられないなんて。亡くなった人との記念日を祝うのって、やっぱり初恋の相手って特別なんだろうな」 「そうよね。それにしても奥さんもすごいよ。聞いた話じゃ、このパーティーは彼女自身で準備したらしい。黒崎社長のことが大好きでしょうね、私なら絶対無理」 ――大好き。昔はそうだったかもしれない。 あずさは胸の中で静かに呟いた。 テーブルに並ぶデザートへ手を伸ばそうとした時、ふと視線の先に直哉の姿が映る。彼は怜奈の遺影の前に立ち、丁寧に包装されたプレゼントをそっと置いた。 そこへ友人たちが集まってくる。一人が苦笑しながら言った。 「なあ直哉。さすがに今回はやり過ぎじゃないか?あずささんがお前をどれだけ想ってるか、俺たちだって見てきた。お前はずっと怜奈さんを忘れられないままだろ。もしあずささんが愛想を尽かして出て行ったらどうするんだ?」 その言葉に直哉は笑った。まるであり得ない冗談でも聞いたように。「出て行くって?そんなの、あいつだけはありえない」 その声には絶対的な確信があった。 あずさの指先がかすかに震え、顔に苦い笑みが浮かぶ。 ――直哉。今回に限って、あなたは間違っている。私は本当に、出ていくの。 …… パーティーが終わり、二人は車で帰宅した。だが家へ近づいた瞬間、異変に気付く。 夜空が赤く染まっていた。目の前に飛び込んできた光景にあずさは息を呑む。 家が燃えていたのだ。 激しい炎が建物を包み込み、黒煙が空へと立ち上っている。轟々と燃え上がる火は、まるで夜そのものを焼き尽くそうとしているかのようだ。 直哉の顔から血の気が引く。車が完全に止まるより早くドアを開け、火の中へ飛び込もうとする。 あずさは咄嗟に彼の腕を掴んだ。「何をするの?中に入るなんて危険よ!消防が来るまで待って!」 だが直哉は彼女を振り払った。その目には狂気にも似た焦りが宿っている。「待っていたら、怜奈のものが全部なくなってしまう!」 勢いよく振り払われた反動で、あずさは地面に転倒した。膝を強く打ってしまい、治りかけていた傷口が再び裂け、血が滲み出る。 彼女は顔を上げ、炎へ向かう直哉の背中に向かって問いかけた。「そんなの、ただの物でしょう?自分の命より大事だっていうの?」 直哉の足が一瞬だけ止まった。だが振り返ることはない。 「そうだ」その声は冷たいが、驚くほどはっきりしていた。「怜奈はもういない。だから、彼女が残したものが俺のすべてなんだ」 炎の中へ飛び込むその背中を、あずさは呆然と見つめていた。やがて小さく笑い、もう引き止めようとは思わなかった。 炎はますます勢いを増していく。熱気と煙が周囲を覆い、近づくことさえできない。 その中を直哉は駆け回った。怜奈に関する物を必死に探し集める。まるで自分の命より大切であるかのように、一生懸命それらを守った。 しばらくして、直哉はようやく炎の中から飛び出してきた。腕の中には大量の荷物が抱えられている。 服は焼け焦げ、肌には火傷や切り傷が無数に刻まれていた。それでも彼は気にしていない。ただ胸に抱えた品々を守るように抱き締めている。 その瞳には安堵が浮かんでいた。まるで何より大切な使命を果たしたかのように。 第6話 救急車が到着した頃、直哉はすでに意識を失っていた。 ストレッチャーへ運ばれていく彼を見て、看護師があずさに声をかける。「ご家族ですよね?一緒に病院へ行かれますか?」 あずさは静かに首を横に振った。「いいえ」 その声は驚くほど穏やかだった。もう彼の怪我を心配する気持ちも、後を追いかける気力も残っていなかった。 救急車が去った後、あずさは自分の荷物を整理した。そしてそのまま、郊外の別荘へ向かった。 …… 玄関の扉を開けたのは花音だった。 その姿を見た瞬間、あずさは思わず息を呑む。 白いワンピースに、ゆるく巻かれた長い髪。そして柔らかな眼差し。そこに立っているのは花音のはずなのに、一瞬だけ怜奈が目の前にいるような錯覚を覚えた。 「あずささん。私、だいぶ似てきましたよね?」花音は嬉しそうに微笑んだ。その声まで柔らかく、どこか怜奈を思わせる。 あずさは小さく頷いた。「ええ。よく頑張ったわ」 少し観察してから続ける。「もう一つアドバイスをさせてもらうと……目線と話し方に気をつけることかな」 あずさはゆっくり説明する。「怜奈は裕福な家庭で育った娘だった。だから人を見る時に怯えたり遠慮したりしなかったの。あなたも、もっと自信を持つといいわ。 それから話し方。怜奈はいつも穏やかで声も小さめだったけど、それは体が弱くて病気がちだったからで……」 それから三日間。あずさは別荘に泊まり込み、花音に怜奈のことを教え続けた。怜奈の好き嫌いも、趣味も、あずさが知る限りの情報を、一つ残らず伝えていく。 「花音、忘れないで。直哉のそばにいれば、お金も地位も、あなたのほしいものならなんでも手に入るでしょう。でも――彼の愛情だけ欲しがってはだめ。彼の愛情は最初から怜奈ものだから。どれだけ似せても、あなたは怜奈本人にはなれない」 花音は素直に頷いた。「分かっています。私はただ安心して暮らしたいだけです。誰かに愛されたいなんて望んでいません」 あずさはようやく肩の力を抜いた。「わかっているならいいわ。私がいなくなった後も、その顔があれば直哉はきっとあなたを大切にしてくれる。もう家族に利用されたり傷つけられたりする心配もない」 話すべきことをすべて話し終え、あずさが別荘を出ようとした時だった。 スマホが鳴る。画面には直哉の名前が表示されていた。彼から電話がかかってくることなど滅多にない。 あずさは少しだけ目を細めて通話ボタンを押した。「もしもし」 直哉の声は相変わらず冷たかった。「新しく別荘を買った。怜奈の遺品を全部そっちへ移しておいてくれ。それと仏壇も整えておけ。俺が退院した時には全部終わっている状態にしておいてほしい」 あずさは断らなかった。ただ言われた通り、最後まできっちりと準備を整えた。 退院した直哉は新しい別荘へ足を踏み入れる。仏壇は整えられ、遺品も丁寧に片付けられていた。 その光景を見た彼は珍しく満足そうな表情を浮かべた。 夕食の席では、さらに珍しいことが起きる。直哉が料理を取り分け、あずさの皿へ置いたのだ。 だがその直後、あずさは突然吐き気を覚える。慌てて席を立ち、洗面所へ駆け込んで、食事を全部吐いてしまった。 戻ってくる時、直哉の表情がわずかに変わっていた。彼はテーブルの上に置かれたミルクを手に取る。 「最近体調が悪いのか?これを飲んで早めに休め」 あずさはミルクを受け取った。何気なくグラスの底を見ると、白い液体の底に、わずかな沈殿物があった。 その瞬間、全身の血が凍り付いた。 脳裏に過去の記憶が蘇る。妊娠するたび、直哉は珍しく優しくなり、決まってミルクを持ってきてくれた。 ――そうだったのか。 薬を入れていたのは、その時だった。 では今回もそうなのか? さっき吐いた姿を見て、妊娠したと思ったのだろうか。 こんなものなんて飲みたくない。 だが直哉は彼女の拒絶を許すはずもなく、半ば強引にミルクを飲ませた。そして冷淡に言い放つ。「早く休め」 その夜、あずさは激しい腹痛に襲われた。胃の中を刃物で掻き回されるような苦痛に何度も意識を失った。 それでも直哉は何もしなかった。ただ傍らで冷たく見ているだけで、心配する様子もなければ、医者を呼ぶこともしない。 やがて夜が明け、ようやく直哉は彼女を病院へ連れて行った。 診察を終えた医師はカルテを見ながら眉をひそめた。 「胃腸炎なのに、違う薬を飲ませたんですか?とりあえず、胃洗浄をしてもらったから、しばらくはかなり辛いと思います。ご家族ならちゃんと付き添ってあげてください」 だが直哉は何も答えなかった。医師の説明を聞き終えると、そのまま踵を返す。 そして一度も振り返ることなく病室を後にした。 第7話 三日後、あずさは一人で退院した。 その日は偶然にも、怜奈の誕生日であり、同時にあずさ自身の誕生日でもあった。 予約していたバースデーケーキが届くと、あずさはキッチンに立ち、自分の好きな料理を作った。 テーブルに料理を並べ、ケーキにろうそくを立てる。小さな炎が揺れるのを見つめながら、静かにバースデーソングを口ずさんだ。 そして目を閉じる。 ――願わくば、もう二度と直哉と会いませんように。 願い事を終えた直後、玄関の扉が開く音がする。 直哉が帰ってきたのだ。 酒に酔っているらしく、足取りは少しふらついている。 テーブルの上に置かれたケーキとろうそくを見た瞬間、顔が険しくなる。 彼は大股で歩み寄り、ケーキを床へ叩き落とした。さらにテーブルを乱暴に払いのける。 「何度も言っただろう!誕生日を祝うなって!怜奈はもう誕生日を迎えられないんだぞ。それなのに、勝手に自分の誕生日を祝うなんて……俺が苦しむってわかっててやってるのか!」 あずさは直哉を見据え、静かに問い返した。「じゃあ聞くけど、怜奈が亡くなったからって、たまたま同じ日に生まれた私も一生誕生日を祝う資格がないの?」 直哉は一瞬言葉に詰まった。だがすぐに冷たい表情へ戻る。「少しくらい配慮してやってもいいだろ。怜奈はもうこの世にいないんだから」 あずさは呆然とした。そして次の瞬間、小さく笑った。 笑いながら、涙が滲む。 「分かった。直哉、これから先、あなたの前で誕生日を祝うことは二度とないわ」 …… それから、あずさの顔をもう見たくないのか、直哉は家にも帰らなくなった。 彼の秘書のSNSを見れば、直哉の近況は自然と伝わってくる。 相変わらず怜奈に似た女性を探し続けていること。だが決定的に似た相手には出会えていないこと。 その情報を確認しながら、あずさは静かに時を待った。 そしてついに――全ての準備が整い、花音が直哉のそばに来れる日が来た。 あずさもようやく、自由になれる。 その日、あずさは一人で役所へ向かった。今後のために、そして、直哉に現実を理解してもらうために、離婚届受理証明書をもらいに行ったのだ。 家に帰ると、酔い潰れた直哉がソファで眠っていた。そして眠りながらも、掠れた声で同じ名前を呼び続けている。 「怜奈……怜奈……」 あずさは彼を一瞥して、静かに離婚届受理証明書をテーブルに置く。そしてスマホを取り出し、花音を呼び出した。 玄関の外で、花音は緊張した様子で立っていた。不安そうにあずさの手をぎゅっと握る。「あずささん……私、本当に大丈夫でしょうか。ちゃんとできるか心配で……」 あずさはその手を優しく握り返す。「大丈夫よ。中へ入ったら、自分は怜奈だって伝えればいい。生き返ったって言えばいいの。あなたにはその顔があるもの、直哉は信じてくれるし、一生優しくしてくれるわ」 花音の顔こそが最大の切り札なのだ。 花音は唇を噛みしめる。次の瞬間、ふと思い出したように尋ねた。「あの……もし直哉が、あずささんのことを聞いたら?どこへ行ったのかって聞かれたら、私は何て答えれば……」 その問いに、あずさは穏やかな声で返事をした。 「聞かないと思うわ。でも、もし聞いたら――死んだって言って」 そう言って、あずさはそっと花音を抱き締め、彼女の背中を押した。 そして、スーツケースを手に取り、玄関の扉を閉める。 道路へ出ると、一台のタクシーがちょうど通りかかる。手を上げると、車は静かに停まった。 運転手が尋ねる。「お客様、どちらまで?」 あずさは笑った。「空港までお願いします」 その声は、かつてないほど軽やかだった。