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まさか婚約者の11股目の彼女が私だった
誕生日当日の夜明け前。 私は、藤堂清貴(とうどう きよたか)が用意してくれた会場にこっそり指輪を忍ばせ、彼を驚かせてやろうとしていた。 ...
Chương (1)
第1章
誕生日当日の夜明け前。
私は、藤堂清貴(とうどう きよたか)が用意してくれた会場にこっそり指輪を忍ばせ、彼を驚かせてやろうとしていた。
思いがけず、扉の向こうでは、まだ明かりがついていた。
床いっぱいに散らばった色とりどりの風船。
その中心で、清貴は何事もなかったように、ひとつ、またひとつと風船を結んでいる。
「別れるどころか、桃花まで呼んで誕生日会の準備をさせるなんて。お前、本気かよ?」
誰かの声がした。
清貴は退屈そうに煙草の火をもみ消した。
「あいつ、すぐ傷つくからな。別れるのも面倒なんだよ」
伸ばしかけた私の手が、扉の前で止まる。
隣にいた佐伯桃花(さえき ももか)が、くすりと笑った。
「私たち、賭けてるの。十二星座の恋人を先に全員そろえたほうが勝ち。負けたほうは、相手の願いを一つ聞くって。
清貴にとっては、あの子がもう十一人目よ。今さらやめるわけないじゃない」
扉一枚を隔てて、彼の声はあまりにもはっきり聞こえた。
「当然だろ。次の相手なら、もう見つけてある」
扉の隙間から見えた清貴の横顔。
冷たくて、知らない人みたいな顔だった。
指輪を外し、父に頭を下げて用意してもらったプロジェクト契約書と一緒に、近くのゴミ箱へ捨てた。
それきり、私はもう二度と振り返らなかった。
背後で、誰かが聞いた。
「で、あの子は何座なんだっけ?」
「さそり座」
ねえ、清貴。
さそり座の女が、いちばん執念深いって知らなかった?
第1話
誕生日当日の夜明け前。
私・水瀬若菜(みなせ わかな)は、藤堂清貴(とうどう きよたか)が用意してくれた会場にこっそり指輪を忍ばせ、彼を驚かせてやろうとしていた。
思いがけず、扉の向こうでは、まだ明かりがついていた。
床いっぱいに散らばった色とりどりの風船。
その中心で、清貴は何事もなかったように、ひとつ、またひとつと風船を結んでいる。
「別れるどころか、桃花まで呼んで誕生日会の準備をさせるなんて。お前、本気かよ?」
誰かの声がした。
清貴は退屈そうに煙草の火をもみ消した。
「あいつ、すぐ傷つくからな。別れるのも面倒なんだよ」
伸ばしかけた私の手が、扉の前で止まる。
隣にいた佐伯桃花(さえき ももか)が、くすりと笑った。
「私たち、賭けてるの。十二星座の恋人を先に全員そろえたほうが勝ち。負けたほうは、相手の願いを一つ聞くって。
清貴にとっては、あの子がもう十一人目よ。今さらやめるわけないじゃない」
扉一枚を隔てて、彼の声はあまりにもはっきり聞こえた。
「当然だろ。次の相手なら、もう見つけてある」
扉の隙間から見えた清貴の横顔。
冷たくて、知らない人みたいな顔だった。
指輪を外し、父に頭を下げて用意してもらったプロジェクト契約書と一緒に、近くのゴミ箱へ捨てた。
それきり、私はもう二度と振り返らなかった。
背後で、誰かが聞いた。
「で、あの子は何座なんだっけ?」
「さそり座」
ねえ、清貴。
さそり座の女が、いちばん執念深いって知らなかった?
玄関まで来たところで、スマホの画面がふっと明るくなった。
【若菜、明日の誕生日会、絶対気に入ると思う。かなり気合い入れて飾りつけしたんだぞ】
清貴からのメッセージが、次々と画面に浮かぶ。
風船。花束。楽しそうに笑う友人たち。
どれも、彼がこの誕生日会にどれだけ力を入れているかを物語っていた。
【なんで返事しないんだ?既読になってるだろ】
【何かあるなら、ちゃんと話してくれ。二人で向き合っていかないと、長く続かないだろ】
長く?
一度でも、私と長く付き合うつもりなんてあったの?
送信ボタンの上で止まっていた指を、そっと下へずらす。
打ち込んでいた【清貴、別れよう】の文字を消した。
彼に聞きたかった。
少しでも、私のことが好きだったのかを。
そして、今までの優しさは、全部演技だったのかを。
けれど、送信ボタンは押せなかった。
私の異変に気づいていないのか、それとも、気づいていてもどうでもいいのか。清貴は勝手にメッセージを送り続けてきた。
【俺、桃花と賭けをしたんだ】
【お前にも関係ある】
【桃花がさ、俺がお前と別れたら、俺の願いを一つ聞いてくれるって言ったんだ】
【あいつの前で負けを認めたくないの、分かるだろ?】
【若菜、協力してくれるよな?】
画面を見つめたまま、黙っていた。
なるほど。
今夜の目的は、それだったのか。
そのためにわざわざ口実を作って、私という面倒な彼女を遠ざけたらしい。
返事をしないでいると、また清貴からメッセージが届いた。
【この件が落ち着いたら、俺がお前に泣きついて、よりを戻したってみんなに言っておく。お前のメンツだけは絶対に潰さないと約束する。一回だけ合わせてくれ】
【欲しいバッグでも服でも、なんでも買ってやるから】
文字だけでは足りないと思ったのか、続けて音声メッセージが送られてきた。
聞こえてきたのは、聞き慣れた清貴の声。
けれどそこには、私に向けられたことなど一度もない、甘えるような響きが混じっていた。
「若菜、俺と桃花が賭けてること、仲間はみんな知ってるんだ。桃花なんて、俺に手本を見せるために、とっくに彼氏と別れたんだぞ。でも俺は、お前が傷つくのが嫌で、ずっと先延ばしにしてた。
今日もみんなに笑われたんだ。お前は勝負から逃げてるだけだって。
形だけでいいから別れよう。俺が賭けに勝ったら、頃合いを見て、お前とよりを戻したって言えばいい。だから……」
音声は、そこでぷつりと途切れた。
ざわついた背景音の向こうから、桃花の声が聞こえる。
「清貴、こっち来て飲みなよ」
私は「いいよ」とだけ返信し、そのまま清貴をブロックした。
トーク画面を閉じ、スマホの壁紙を変える。
それまで壁紙にしていたのは、清貴とのツーショットで、付き合って一週間ほど経った頃に撮った写真だった。
その時、ショッピングモールでこっそり二人の写真を撮ろうとして、すぐ彼に見つかった。
清貴は甘やかすように私の髪を撫でると、手からスマホを取り上げた。
「写真が欲しいなら、最初からそう言えばいいだろ」
彼がボタンを押す、その瞬間。
頬に、清貴の唇が触れた。
あの時、「ばかだな」と笑う彼に、私はむきになって言い返した。
今思えば、本当にばかだった。
彼の目の奥に浮かんでいた、面白がるような光に、もっと早く気づくべきだったのだ。
重たい体を引きずるようにして家へ帰ると、ソファには清貴が座っていた。
余裕たっぷりに足を組み、どこか拗ねたような顔でこちらを見上げている。
かすかに酒の匂いがした。
「俺をブロックしたんだな?なんでだ?」
清貴がスマホを掲げる。
画面には、私とのトーク画面。前回のやり取りの後、彼はまたメッセージを何通か送ってきていたが、二度と既読がつくことはなかった。
私は清貴を押しのけた。
「私たち、別れたから」
清貴が口を開きかけた、その時だった。
「清貴のボディソープ、すごくいい匂い」
不意に、女の声がした。
声のほうへ視線を向ける。
桃花が、清貴のバスローブを羽織り、私のスリッパを履いて立っていた。
私の家なのに。
「誰の許可で、その女をうちに入れたの?」
「桃花は酔って服を汚したんだ。ここが近かったから、少しきれいにさせようと思って」
桃花はべったりと清貴に絡みつき、私を指さした。
「この子、怖い……
別れてよ。ねえ、彼女と別れて」
清貴は眉をひそめ、小さな声で桃花をなだめた。
「聞いてなかったのか?もう別れたって言っただろ。わがままなやつだな」
「清貴。その女と一緒に、今すぐ出ていって」
清貴が一瞬、固まる。
「若菜、桃花は酔ってるんだ。少しくらい大目に……」
「出ていって」
もう一度、同じ言葉を繰り返した。
清貴の顔色が変わる。
「若菜、そこまでする必要あるか?」
そうだ。私も、自分に聞きたかった。
こんな男のために、そこまでする価値があるのか、と。
清貴の手首には、私が贈ったブレスレットがまだついている。
けれど今、その腕が抱いているのは別の女だった。
そんな価値なんてない。
残っていた力を振り絞り、二人を玄関の外へ押し出した。
「もう二度と、私の前に現れないで」
部屋の中が、急に静かになった。
その静けさを破るように、スマホの着信音が鳴る。
【演技、うまかったな。本当に別れたみたいだった】
第2話
【でも若菜、ブロックまでする必要なかっただろ。あいつらが俺のスマホを見るわけじゃないんだから】
スマホの画面を消し、返事はしなかった。
この期に及んでも、清貴は私たちの別れを、仲間をごまかすための形だけのものだと思っている。
けれど、もうこれ以上、彼の賭けごとに付き合うつもりはない。
桃花が触れたかもしれないものは、家の中からすべて処分した。
新しいものを一式用意する。
いつまで片付けに追われていたのかわからなかった。私は疲れ果てて、泥のように眠っていた。
次に目を覚ました時、清貴からメッセージが届いていた。
【今夜六時、会場に来てくれ。誕生日を祝うから】
【別れても、友達には戻れるだろ】
それでも、返事はしなかった。
けれど午後六時、私は時間どおりに会場へ向かった。
清貴ときちんとけじめをつけ、この関係に終止符を打つために。
支配人が恭しく宴会場の扉を開ける。
私の姿を見た瞬間、中の喧騒がぴたりと止んだ。
そこで初めて、清貴の友人たちの顔を一人ひとり見回した。
面白がる目。傍観する目。哀れむ目。
私は結局、本当の意味で彼の世界に足を踏み入れたことなど一度もなかったのだ。
でも今となっては、それももう、どうでもよかった。
清貴は煙草の火を消すと、紳士ぶって私のために椅子を引いた。
それから、そばにいたスタッフに声をかける。
「すみません、冷房を少し弱めてもらえますか。あと、ブランケットも一枚。この子、寒がりなんで」
全員の視線が集まる中、清貴はポケットからハーブティーのティーバッグを取り出した。
お茶を注ぎ、少し冷ましてから、私の前へ差し出す。
「相変わらず彼女さんには甘いな……」
清貴はすぐに反論した。
「もう彼女じゃない。とっくに別れた」
元恋人をそこまで気遣うのは不自然だと思ったのか、言い訳のように言葉を足す。
「今日はこいつの誕生日だしな。最後の食事くらい、ギスギスする必要ないだろ」
友人たちは、察したような顔をした。
そしてすぐに、視線は入口へ向く。
少し遅れて現れた桃花は、ひときわ華やかなドレス姿で、そのまま清貴の隣に腰を下ろした。
「最後の食事って、何のこと?」
「清貴が彼女のために……」
隣にいた男が、そっとその腕を小突く。
「もう彼女じゃないだろ」
「あ、そうだった。水瀬……水瀬、何だっけ?」
清貴が眉をひそめて遮った。
「若菜だ」
「水瀬さんでいいのよ。どうせこの先、会わないんだし。名前なんて、そんなに大事?」
桃花が笑って口を挟む。
その話題は、すぐに何事もなかったように流された。
ただ一人、清貴の向かいに座っていた江藤悠司(えとう ゆうじ)だけが、私の顔を見つめたまま、しばらく動かなかった。
二か月前、水瀬家のパーティーで一度顔を合わせたことのあるその男に、私は軽く会釈した。
悠司がいつまでも私を見ていることに気づいた清貴は、面白がるように口を開いた。
「何だよ。俺の元カノに気でもあるのか?」
桃花が笑いながら、清貴の肩を軽く叩く。
「もう元カノなんでしょ。なんで気にするの?
私との賭け、勝つ気ないの?」
今度の清貴は、何も答えなかった。
代わりに、彼の友人たちが次々と声を上げる。
「桃花、親父さんが水瀬家の南エリアのプロジェクトを取るって本当か?」
「それはまだよ。でも、うちの会社もかなり手応えはあるみたい」
「だったら、清貴と組むように親父さんに口利きしてみなよ。
あのプロジェクトを取れるのなんて、藤堂家と佐伯家くらいだろ。取れたら、俺たちにも一枚噛ませてくれよ。美味しい話は共有しないとな」
桃花はちらりと私を見てから、にこにこと清貴へ視線を戻した。
「私はもちろん構わないけど、父を説得できるかどうかは、清貴の腕次第かな」
清貴は何気なく私の皿に料理を取り分けた。
「今日は若菜の誕生日だ。仕事の話はなしだ」
桃花はわざとらしく気まずそうに笑い、グラスを持ち上げた。
「やだ、私ったら。主役を差し置いちゃったわね。水瀬さん、気にしないでね?」
次の瞬間、桃花のグラスが傾き、中の酒が一滴残らず私の服にぶちまけられた。
私は表情を変えずにハンカチで拭き取る。
それから、テーブルを囲むそれぞれの顔を見渡した。
最後に、桃花の顔をまっすぐ見据える。
「気にするわ。
このドレス、有名ブランドの新作。5920万円よ。
昨日、佐伯さんがうちで使ったものも全部処分した。合計376万円。
まとめて弁償してもらえる?カード?それとも現金?」
「は?ぼったくりのつもり?」
清貴も、呆れたような顔で私を見た。
「若菜、やりすぎだぞ」
「清貴、どこでこんな女見つけたんだよ? いや、元カノか」
「有名ブランドの新作って、偽物かどうか一番分かってるだろ?」
「昨日の夜中、俺たちと桃花がわざわざ誕生日会の準備を手伝ってやったのに。俺たちをカモにするつもりかよ」
それまで黙っていた悠司が、不意に口を開いた。
「水瀬若菜……思い出した」
第3話
「君、水瀬家の令嬢だったんだな」
悠司の一言に、宴会場は一瞬、水を打ったように静まり返った。
だが次の瞬間、さっきよりもあからさまな嘲笑があちこちから漏れ出す。
「悠司、お前シラフだろ?何言ってんだよ。こいつが水瀬家の令嬢なわけないだろ。たまたま名字が同じなだけだって」
桃花も鼻で笑った。
「悠司、水瀬さんをかばいたいからって、さすがにその嘘は苦しくない?」
誰も信じようとしない空気の中、悠司は清貴へ視線を向けた。
「清貴、元カノのことなら、お前が一番よく分かってるはずだ。
彼女が水瀬家の令嬢だってこと、本当に知らなかったのか?」
清貴は眉をひそめ、私の顔を射抜くように見つめた。
その腕を、桃花がすっと自分のほうへ引き寄せる。
たったそれだけで、私と彼らの間に見えない境界線が引かれた気がした。
「悠司、水瀬さんがそんなに気になるなら、素直に口説けばいいじゃない。清貴はもう別れたんだし、誰も止めないわよ。
でも、二人で口裏を合わせてまで私たちをだまそうとするなんて……まさか、水瀬さんから何かもらってたりしないわよね?」
「悠司」
清貴の冷えた視線が、悠司に向く。
「お前、若菜とどこで知り合った?」
「もういいわ!」
これ以上、こんな茶番に付き合う気はなかった。
吐き捨てるように言った私の声を、清貴が遮る。
なぜか、その声には濃い苛立ちが滲んでいた。
「こいつをかばうのか?」
「清貴。私は本当に水瀬家の娘よ。
これは私たちの問題でしょう。江藤さんを巻き込まないで」
清貴は冷たく鼻で笑った。
「若菜。そいつをかばうために、そんな嘘までつくのか?
付き合ってからのお前は、毎日のように俺にまとわりついてたよな。服も靴もバッグも、俺が買ってやったものばかりだ。
水瀬家の令嬢様が、男にすがってブランド物を買ってもらう必要なんてあるのか?」
平手打ちの乾いた音が、静まり返った宴会場に響いた。
振り下ろした手の先が、まだかすかに震えている。
私は目の前の男を、まっすぐに見据えた。
――あの日も、清貴はこんな目をしていた。
たちの悪い男たちに囲まれ、進退きわまった私の前に、清貴は突然現れた。
怖くて何も見えなくなっていた私には、真っ暗な世界に、そこだけ光が差したように見えた。
その人が藤堂清貴だと知ったのは、あとになってからだった。
それからの私は、まるで取り憑かれたみたいに彼を追いかけた。
親友の深町渚(ふかまち なぎさ)に頼み込み、清貴が顔を出すパーティーに何度も連れていってもらった。
清貴に近づくためなら、なりふりなんて構っていられなかった。
私たちの関係が変わった、あの日。
桃花は、アルコール度数の高いカクテルを私に差し出した。
「これ、一気に飲めたら、清貴と付き合えるらしいよ?」
笑いながらそう言う桃花の向こうで、清貴は部屋の隅のソファに深く腰を沈めたまま、何も言わなかった。
私に恥をかかせて、諦めさせるつもりだったのだろう。
けれど私は、それくらいで引き下がるような性格ではない。
笑ってグラスを受け取った。
酒を唇へ運ぼうとした、次の瞬間。
清貴が血相を変えて駆け寄ってきた。
「お前、正気かよ」
怒りを隠そうともしないその目に、私はまた吸い込まれた。
けれど今、同じ目で私を見つめて、同じセリフを吐き捨てた清貴に、あの頃の温かさは少しも残っていなかった。
「お前、正気かよ」
清貴は私を壁際へ乱暴に押しやり、骨ばった手で手首をきつくつかんだ。
「そんなに、あいつにいい顔したいのか?
俺、何か間違ったこと言ったか?あの時、なりふり構わず俺を追いかけ回してきたのはお前だろ。
一か月も付き合っておいて、俺とは何もなかったって言うつもりか?」
そして、呆然と立ち尽くす悠司を横目で見やり、口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「それとも、俺より都合のいい男でも見つけたつもりか?」
さらに顔を近づけ、耳元で低くささやく。
「若菜。俺の女だったお前を、あいつが本気で受け止めると思うか?
俺たちの関係を終わらせるかどうかは、最初からお前が決めることじゃないんだよ」
私は力任せに清貴を突き飛ばした。
かつて、胸が苦しくなるほど好きだった人を、まっすぐに見据える。
好きだった頃は、どれだけ傷つけられても、まだ清貴を選んでいた。
一度は本気で愛した人だから、最後くらいはきれいに終わらせたいとも思った。
けれど、もう十分だった。
こんな男のために、これ以上自分を傷つける必要なんてない。
言い返そうと口を開きかけた、その時。
宴会場の入口が、にわかにざわめいた。
「若菜、誕生日おめでとう!ちょっと見て、すごい人連れてきたよ!」
第4話
父の秘書である長谷川誠司(はせがわ せいじ)を伴い、少し遅れて渚が現れた。
「会長は急な会議でどうしても抜けられないんだって。代わりに長谷川秘書を向かわせるって言ってた」
そう告げるなり、鋭い視線で個室の面々を見渡し、迷わず私の前へ歩み出る。
「あら、タイミング悪く来ちゃったみたいね。
私が少し遅れた隙に、みんなで若菜を責め立ててたわけ?」
射殺さんばかりの視線が、清貴へ向けられる。
「元カノをみんなで寄ってたかって責めるなんて、最低ね」
清貴は深く息を吐き、ふっと冷静さを取り戻したように口を開いた。
「若菜。桃花に謝れ。
それで、今日のことは終わりにしてやる」
すかさず桃花がその腕にすり寄る。
「深町さん、聞いて。私はただ、うっかり水瀬さんのドレスにお酒をこぼしちゃっただけなの。なのに、5920万円払えって言われたのよ。
水瀬さん、お金に困ってるみたいだし、私だって払ってあげてもいいと思ったの。でも、だからって悠司と組んで清貴をだますなんて、ひどすぎるじゃない。
私だって、さすがに黙っていられない。深町さんまでだまされないで」
それを渚は一瞥しただけで、私を庇うように言い放った。
「その猫なで声が通じるのは、清貴みたいに目が曇ってる男だけよ。私には効かない。
それに、若菜は水瀬家の令嬢よ。お金に困るわけないでしょ」
宴会場に、再び嘲笑が広がった。
「深町さん、その嘘、もうとっくにバレてるって。若菜と一緒になって見栄張るの、そろそろやめたら?見てて痛いぞ」
「そうそう。水瀬会長が一人娘をどれだけ大事にしてるか、誰だって知ってるだろ。本物の水瀬家の令嬢の耳に入ったら、ただじゃ済まないぞ?」
誠司が静かに一歩前へ出た。
「若菜様は、水瀬会長のただ一人のお嬢様でいらっしゃいます。
皆様、事実関係をご確認のうえで、発言には十分ご注意ください。
また、佐伯様が『若菜様が藤堂様を騙した』とおっしゃった件につきましては、追って水瀬グループ法務部にて、然るべき対応を取らせていただきます。ご自身の発言には、相応の責任を負っていただくことになりますので。
それから、裏切りというお話ですが、水瀬会長はそもそも、藤堂様を水瀬家の婿としてお認めになったことなど一度もございません」
「水瀬さん、長谷川秘書にまでこんなことを言わせるなんて……」
桃花は大げさに目を見開くと、いかにも胸を痛めたように眉を寄せた。
「何か困っていることがあるなら、私や清貴に相談してくれればよかったのに。
たしかに水瀬さんと清貴はもう別れたし、そもそも付き合ったのも私との賭けがきっかけだったけど……だからって、こんな嘘までつかなくてもよかったでしょう?」
「賭け」という言葉が出た瞬間、清貴の表情がわずかに強張り、私から逃げるように視線を逸らした。
「賭けって何よ?あんた最低ね、清貴。若菜の気持ちを何だと思ってるの?この子、あんなにあんたのこと好きだったのに!」
今にも飛びかかりそうな渚を、私は手で制した。
そして、静かに清貴へ問いかける。
「清貴。ほかに言うことは?」
今なら、何の未練もなくこの言葉を口にできた。
清貴は顔を上げ、黒い瞳で私を見据えてから、深くため息をついた。
「俺がお前と付き合ったきっかけが、賭けだったのは事実だ。
でも、ここまでこじらせる必要はなかった。今日、お前がこんな嘘を押し通そうとしたせいで、俺たちの間にあった暗黙のルールを壊したんだよ」
その言葉に、思わず呆れた笑いが漏れた。
「暗黙のルールって、何?」
清貴はふっと視線を外した。
「権力を握る者こそが、ルールだ。
もう帰れ。俺もこれ以上お前を追い詰めるつもりはないし、こいつらにも手は出させない」
「清貴。出ていくのは、あなたたちよ」
椅子に腰掛けたまま、私は冷ややかに笑って手を振った。
支配人がすぐに恭しく頭を下げる。
「お嬢様」
その瞬間、宴会場の扉が再び開いた。
入ってきた人物を見た途端、桃花をはじめ、その場にいた全員の顔色が変わった。
「どうして……あなたがここに?」