嫁入り舟を譲ったあなたへ、さようなら

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嫁入り舟を譲ったあなたへ、さようなら

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私・春木宵(はるき よい)の生まれ育った水郷の町には、古くから伝わる風習がある。愛する女性を妻に迎える際、男は自らの手で木舟を造り、「...

Chương (1)

第1章

私・春木宵(はるき よい)の生まれ育った水郷の町には、古くから伝わる風習がある。愛する女性を妻に迎える際、男は自らの手で木舟を造り、「嫁入り舟」として贈るというものだ。 交際7周年の記念日。恋人の周防迅(すおう じん)は、完成したばかりの真新しい舟の進水式を開いてくれた。 集まった友人たちの歓声に包まれながら、胸の奥が早鐘のように鳴りやまない。 たまらずその舟に足を踏み入れようとした瞬間、迅の友人たちが声を潜めて話すのが耳に入った。 「おい、マジでこの舟、ゆのちゃんにあげる気かよ。宵さんにバレたら修羅場になるぞ」 「そうそう、宵さんって結構キツいとこあるし。あんま調子乗ってるとヤバいって」 次の瞬間、聞こえてきたのは、微塵も悪びれる様子のない迅の呆れたような声だった。 「平気だって。宵は適当に機嫌取っとけばチョロいから。俺のことに首ったけだしな。 それに、あいつの地元じゃ28歳なんてとっくに行き遅れだ。今さら俺に愛想尽かせるわけないだろ。 大体さ、籍を入れるのは宵で、嫁入り舟をあげるのはゆの。ちゃんと平等だし……これで俺の未練も晴らせるってわけ」 私と結婚することは、迅にとって「未練」が残るようなことだったの? チョロい。 行き遅れ。 その言葉の数々が、鋭い棘のように耳の奥を突き刺す。 喉が締め付けられるように苦しかったけれど、涙は出なかった。 ただ静かにスマートフォンを取り出し、画面をタップした。 【お母さん。お母さんの言う通りにするね。私、もう28だもん。これ以上は待たないよ】 第1話 私・春木宵(はるき よい)の生まれ育った水郷の町には、古くから伝わる風習がある。愛する女性を妻に迎える際、男は自らの手で木舟を造り、「嫁入り舟」として贈るというものだ。 交際7周年の記念日。恋人の周防迅(すおう じん)は、完成したばかりの真新しい舟の進水式を開いてくれた。 集まった友人たちの歓声に包まれながら、胸の奥が早鐘のように鳴りやまない。 たまらずその舟に足を踏み入れようとした瞬間、迅の友人たちが声を潜めて話すのが耳に入った。 「おい、マジでこの舟、ゆのちゃんにあげる気かよ。宵さんにバレたら修羅場になるぞ」 「そうそう、宵さんって結構キツいとこあるし。あんま調子乗ってるとヤバいって」 次の瞬間、聞こえてきたのは、微塵も悪びれる様子のない迅の呆れたような声だった。 「平気だって。宵は適当に機嫌取っとけばチョロいから。俺のことに首ったけだしな。 それに、あいつの地元じゃ28歳なんてとっくに行き遅れだ。今さら俺に愛想尽かせるわけないだろ。 大体さ、籍を入れるのは宵で、嫁入り舟をあげるのはゆの。ちゃんと平等だし……これで俺の未練も晴らせるってわけ」 私と結婚することは、迅にとって「未練」が残るようなことだったの? チョロい。 行き遅れ。 その言葉の数々が、鋭い棘のように耳の奥を突き刺す。 喉が締め付けられるように苦しかったけれど、涙は出なかった。 ただ静かにスマートフォンを取り出し、画面をタップした。 【お母さん。お母さんの言う通りにするね。私、もう28だもん。これ以上は待たないよ】 バラの花で美しく飾り立てられた真新しい舟が水面へ滑り出すと、周囲からは冷やかしの歓声が上がった。 「宵さん、早く乗って!」 「宵、付き合って七年だもんね。ついにゴールインじゃん!」 親友の五十鈴凪(いすず なぎ)が興奮したような声を上げる。心から私の幸せを喜んでくれているのが伝わってきた。 皆の視線を集めながら、迅は舟を降りてこちらへ歩いてくる。 ところが、私の横で一瞬だけ足を止めたかと思うと、そのまま通り過ぎてしまったのだ。 そして、真行寺ゆの(しんぎょうじ ゆの)の目の前で立ち止まると、甘やかすような軽い口調で言った。 「誕生日プレゼント。気に入った?」 その途端、場の空気が凍りついたように静まり返る。 ゆのは両手で口元を覆い、その瞳には驚きと歓喜の色が浮かんでいた。 二人は手を繋ぎ、そのまま舟の方へと向かう。 今度こそ私の前で足を止めた迅は、悪びれる様子もなくあっけらかんと言い放った。 「宵、悪いけどこの舟は一旦ゆのに譲るよ。次のやつももう造り始めてるから、そんなに焦んなって」 野次馬のように面白がる視線と、私を気遣う視線が交差する。 まるで、町一番の『瞬間湯沸かし器』である私が、ここで盛大にキレるのを期待しているかのように。 けれど、私はただ静かに迅を見つめ返した。 「もういいよ、迅」 まさかそんな反応が返ってくるとは思わなかったのだろう。迅は一瞬、ハッと息を呑んだ。 空気が悪くなったのを察したのか、迅の友人たちが慌ててフォローに入ってくる。 「よ、宵さん、変な誤解しないでよ。迅はただ、ゆのちゃんの誕生日の願いを叶えてやっただけで……」 「そうっすよ。迅の奥さんになるのは、宵さんに決まってるじゃないすか」 あまりにも苦しい言い訳を聞いていると、なんだか笑いすら込み上げてくる。 隣では、凪がギリッと歯軋りをして怒りを露わにしていた。 「迅のやつ、信じらんない!男が一生に一度しか嫁入り舟を造っちゃいけないことくらい、あいつだって知ってるくせに!」 胸の奥に、ギュッと酸っぱいものが込み上げる。 そう、この水郷の町では、三歳の子供でさえ知っている常識だ。男は、生涯で初めて造り上げた舟で妻を迎え入れてこそ、一生の愛が約束されると言われている。 耳元で、凪の震えるような声が響いた。 「宵……私まで悔しくて泣きそうだよ…… あんな玉の輿狙いのアシスタントのどこがいいのよ!迅のやつ、目ぇ腐ってんじゃないの!」 だが、ゆのは単なるアシスタントではない。周防家の古くからの知人の娘であり、昔から面倒を任されている存在なのだ。 だからこそ、迅はゆのをとことん甘やかしてきた。 どんな集まりにもゆのを連れて行き、記念日に私へプレゼントを用意する時は、必ずゆのの分も一緒に買う。 私が七年間も待ち焦がれていた嫁入り舟でさえ、ゆのの「誕生日のお願い」というだけで、いとも簡単に差し出してしまうほどに。 「もういいの、凪」 私は凪の手を軽くポンポンと叩いてなだめた。 やがて舟の上での儀式を終えた二人が、岸へと上がってくる。 ゆのは口元に満足げな笑みを浮かべ、弾むような足取りでこちらへやってくると、いつもの甘ったるい声を出した。 「宵さん、迅くんは私の誕生日のお願いを一つ聞いてくれただけだから、変な誤解しないでね」 迅くん。ずいぶんと親しげな呼び方だ。 私が口を開きかけた瞬間、サッと前に出た迅に肩を掴まれ、言葉を遮られた。 「宵、たかが舟一つだろ。 こんなに人がいるんだ、騒ぐなよ」 声のトーンこそ相変わらず優しかったが、その瞳にははっきりとした警告の色が浮かんでいる。 「騒がないよ」 私は一歩後ろに下がって迅の手をかわすと、笑顔でゆのに頷きかけた。 「お誕生日、おめでとう」 言い終わった瞬間、周囲が水を打ったように静まり返った。 迅は宙に浮いた自分の手を少しの間見つめ、呆然としている。 無理もない。以前の私なら、ここでとっくに怒り狂って修羅場を作っていただろうから。 見かねた凪が、声を荒らげて問い詰めた。 「ちょっと迅、嫁入り舟をゆのにあげちゃって、宵にはどうやってプロポーズするつもりなの!? 宵はあんたのこと七年も待ってんのよ!はっきりしなさいよ!」 その場にいる全員の視線が、一斉に迅へと突き刺さる。 私も静かに迅を見つめながら、心の奥底でほんのわずかな期待を抱いていた。 迅、これが私があなたに与える最後のチャンスだよ。 一秒、二秒。 爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握り締め、この重苦しい空気に耐えかねて、私の方から場を収めようと口を開きかけた、その時。 迅は鼻で軽く笑い、どこか上の空で口を開いた。 「まあ、次はちゃんとするって」 どこまでも軽く、その場しのぎのいい加減な言葉。 私の中に残っていた最後の一欠片の愛が、針で突かれた風船のように弾け、あとはただ、冷たい静寂だけが残った。 第2話 隣で目を赤くして激怒している凪の腕を、私はそっと引いた。 進水式が終わり、舟の上では酒宴が始まろうとしている。 通りすがりの人たちが、面白そうに足を止めていた。 「また一組夫婦が誕生するんだな。立派な嫁入り舟だ!」 「おめでとうー!」 誰かが大声で祝福の言葉を投げる。 ゆのは舟の舳先に立ち、迅の腕に抱きついて甘えるように揺さぶった。 「迅くん、私、もう一つ誕生日のお願いがあるの」 よく通るその声に、周りにいた全員が一斉に振り返る。 「私と……7日間だけ恋人になってほしいな!」 その瞬間、場がドッと沸き立った。 「ヒュー!」 「受けちゃえよ!」 囃し立てる声の中、迅は困ったように笑い、一切の躊躇を見せずにゆのの頭をポンポンと撫でた。 「しょうがないな。約束通り、7日だけだぞ」 最初から最後まで、迅が私に視線を向けることは一度たりともなかった。 ゆのは誰にも気づかれないようにチラリとこちらへ視線を投げ、口元の笑みをさらに深めた。 事情を知る友人たちが、時折こちらへ探るような目を向けてくる。 同情、面白がる目、そして哀れみ。 どうやら「元カノ」の私は、これ以上ここに居座らない方がよさそうだ。 踵を返そうとした瞬間、迅に呼び止められた。 「宵、もう帰るのか?」 「うん。元カノがここにいたら、邪魔でしょ」 迅は不快そうに眉をひそめた。 「馬鹿言うな。ちょっとあいつのワガママを聞いてやっただけだろ。 悪いけど、先タクシーで帰っててくれ。後でゆのを家まで送らなきゃならないからさ。 夜、お前の好きなカニのおこわ買って帰るから。な?」 言うが早いか、迅は私のバッグから勝手に家の鍵を抜き取り、再びあの宴の輪の中へと戻っていった。 遠ざかる彼の背中を見つめていると、どうしようもなく目頭が熱くなった。 家に帰ると、ゆのから動画が送られてきた。 再生すると、そこにはお酒で顔を赤らめたゆのが映っていた。 周りから囃し立てられ、ドンと背中を押されたゆのが、迅の胸の中へとよろけ込む。 誰かが茶化すように叫んだ。 「もうさ、いっそのこと結婚式もゆのちゃんと挙げちゃえばよくない?」 「そうそう!宵さんなんて、お嬢様のゆのに敵うわけないって!」 ゆのは嬉しそうに笑いながら、「もう、酔っ払いすぎ!」とたしなめている。 だが迅は、口元に笑みを浮かべて見つめているだけで、彼らの言葉を否定しようとはしなかった。 続いて、一通のメッセージが届いた。 【宵さん、どうして先に帰っちゃったの?一緒に盛り上がってる気分になれるように、動画送るね!】 不思議なことに、そんなものを見せられても、私の心はもう微塵も波立たなかった。 ただ、動画の中に映る嫁入り舟をぼんやりと見つめていた。 昔、迅は私の耳元で何度も繰り返していたっけ。嫁入り舟は水郷の女の子にとって人生の一大事だから、絶対に妥協はしないって。 甲板には上質なヒノキを使い、両側の欄干には私の大好きな白木蓮を這わせ、日よけの幕は私が自分でデザインするんだ、と…… やっぱり、少し未練はある。なんてったって、ずっと心待ちにしていたのだから。 でもその未練は、彼に対してではない。あの舟に対してだ。 迅が帰ってきたのは、ずいぶんと夜遅くになってからだった。その両手には何も持っていなかった。 私と目が合うと、迅は一瞬ハッとしたように立ち止まり、すぐにいつものように抱き寄せてきた。 むせ返るようなキツい香水の匂いが、鼻を突く。 私が最後に香水をつけたのは、もう5年も前のことだ。あの時、迅は露骨に眉をひそめ、「香水の匂いって吐き気がするんだよね」と言っていた。 今日になって、ようやくわかった。吐き気がするかどうかも、相手次第なのだということが。 迅はこちらを見つめ、相変わらずの優しい声で言った。 「遅くなっちゃった。まだ起きてたの?俺のこと待ってた?」 私はその言葉には答えず、ただ尋ねた。 「私のカニのおこわは?」 迅は私と目を合わせることもなく、傍らにあったコップを手に取って水を一口飲んだ。 「ああ、ゆのを家まで送った時に食べたいって言うから、あいつにあげちゃった。 それに、お前、結婚の記念写真を撮るからダイエットするって言ってただろ?だからまた今度にしろって。な?」 彼がそう言ってはぐらかすのは、これで三度目だった。 私がカニのおこわを食べたいと言ったのは、もう半月も前のことだ。 「俺が買ってくるよ」と言いながら、見事に三回ともすっぽかされた。 一回目は、途中でゆのに「物件探しに付き合って」と呼び出されたから。 二回目は、ゆのが職場で孤立して落ち込んでいるからと、迅が焼肉に付き合ってやったから。 そして三回目が、今日。 私は小さくため息をつき、胸の奥にこみ上げる苦い思いを押し殺した。 「迅。私たち、別れよう」 第3話 彼が持っていたコップが、ピクッと揺れた。そして、馬鹿にしたように鼻で笑う。 「今度はそういう作戦?わざと黙っててやったのに、まだ続ける気かよ」 私は呆気にとられ、一瞬彼が何を言っているのか理解できなかった。 迅は冷ややかな笑みを浮かべたまま続ける。 「今日、凪に言わせたんだろ?俺にプロポーズを急かすためにさ。 なんだ?プロポーズ作戦が失敗したから、今度は別れるとか言って気を引こうってわけ?」 ここでようやく合点がいった。迅は、今日進水式で凪が怒鳴ったあの言葉を、私が言わせたのだと思い込んでいたのだ。 あまりの馬鹿馬鹿しさに言葉も出なかったが、わざわざ弁解する気にもなれなかった。 私は静かに頷いた。 「そうね。プロポーズ作戦が失敗したから、もう別の人と結婚しようと思って」 私がそう返すと、迅の顔に浮かんだ嘲りの色はさらに濃くなった。 「宵、お前が俺と別れられるわけないだろ? いい加減にしとけよ。あんまり拗らせんなって。 お前ももう28だ。俺以外に、そんな行き遅れの女を貰ってくれる奴がどこにいるんだよ。 ほら、さっさと寝ろ。明日はイトばあちゃんの誕生日で、実家に顔出さなきゃならないんだからな」 そう言い捨てて、迅は一人で寝室へと消えていった。 残された私は、彼の背中を見つめながら、ただ泥のように重い疲労感だけを感じていた。 翌日、私はそれでも迅の祖母・イトおばあちゃんの誕生日会へと足を運んだ。 以前、イトおばあちゃんから翡翠の指輪をいただいていた。それだけは、どうしても返しておかなければならなかったからだ。 周防家の玄関に着くと、迅の母・芙美代(ふみよ)さんの姿があった。その腕にゆのがしっかりと抱きつき、目を細めて笑っている。その様子は、まるでこの家のお嫁さんのようだった。 一緒に到着した私たちにいち早く気づいたゆのが、パッと満面の笑みを浮かべて自分から歩み寄ってきた。 「あ、宵さん!迅くんが、宵さん怒ってるって言うから、今日はてっきり来ないかと思っちゃった!」 そう言いながら、ゆのは自分の手首で揺れる翡翠の腕輪をわざとらしく見せびらかした。それは、周防家が代々、嫁に贈るものだ。 祖母からは指輪を、母親からは腕輪を。 実は、迅はだいぶ前に芙美代さんからその腕輪を預かっており、「いつか俺の手で宵に着けてやるからな」と約束してくれていた。 もっとも、その約束が果たされることはもうないけれど。 迅も腕輪に気づいたようで、バツが悪そうに弁解した。 「ゆのがちょっと着けてみたいって言うから貸しただけだ。後でちゃんと返してもらうから、変な誤解するなよ」 そこへ芙美代さんも歩み寄ってきた。私を見るその目は冷ややかで、チクリと釘を刺すような口調で言った。 「いらっしゃい。昨日の話は聞いてるわ。けど、たかが舟一つのことじゃないの。 ゆのちゃんは身寄りがないんだから、私たちが少し多めに可愛がってあげるのは当然でしょう?あなたも大人気ない真似は慎みなさい。周りから笑われるわよ」 誰もが、私がここでキレると思っている。なのに、誰も迅の身勝手な振る舞いを止めようとはしない。 その事実が、たまらなく滑稽に思えた。 迅がいつもの癖で私の腰を抱き寄せ、スキンシップで機嫌を取ろうと手を伸ばしてきた。だが、私はサッと身をかわしてそれを避けた。 空を切った手が宙で止まる。迅の眉間が一瞬にして険しくなった。 「またかよ」 声を潜めつつも、その口調には明らかな苛立ちが混じっていた。 「今日はばあちゃんの誕生日なんだぞ。変に意地張って空気悪くすんなよ。帰ったらちゃんと謝るから、な?」 私は堂々と顔を上げ、迅の視線をまっすぐに受け止めた。 「本当に、怒ってなんかないよ」 そして、持参した翡翠の指輪を取り出すと、芙美代さんに向けて静かに差し出した。 「芙美代さん。これも、ゆのさんに差し上げてください。私はイトおばあちゃんのお邪魔になるといけませんので、これで失礼します」 その言葉を聞いた瞬間、迅はハッと息を呑み、目を見開いた。 ゆのはスカートの裾をぎゅっと握りしめ、いかにも健気でかわいそうな被害者を演じ始めた。 「宵さん、もしかして意地張ってるの? 迅くん、ごめんなさい……私が図々しくあの舟をもらっちゃったから…… 私のせいで宵さんを怒らせちゃった。やっぱり、舟も腕輪も宵さんに返した方が……」 そう言いながら、ゆのは慌てた様子で手首の腕輪を外そうとする。 だが、どういうわけか、あんなにサイズが緩そうなのに一向に外れる気配がない。 私の差し出した指輪を見て一瞬動揺していた迅だったが、ゆののその姿を見てすっかり落ち着きを取り戻したようだった。 彼は鼻で冷たく笑うと、私の手から指輪をひったくり、ゆのの方へ歩み寄った。 「返す必要なんてない。お前にやるって言ったんだから、お前のものだ。ほら、この指輪も着けとけ」 そして私を振り返り、見下すような目を向けた。 「上等だよ。宵、いつまで意地張ってられるか見ものだな! お前が要らないって言うなら、全部ゆのに着けさせておくからな。 中に入らないって言っただろ?だったらさっさと帰れば?」 以前の私なら、こうやって挑発されればされるほどムキになって、絶対に帰ったりしなかった。 けれど今は、肩の荷が下りたような清々しさすら感じていた。 「じゃあ、これで失礼します」 私は踵を返し、その場を後にした。 背後から、ゆののわざとらしい「迅くん、そんな言い方ダメだよ」という声が聞こえる。 それに火に油を注がれたのか、迅の怒鳴り声がさらに大きくなった。 「放っとけ!どうせ結婚焦って俺の気を引こうとしてるだけだろ。自分の歳も考えないで、バカみたいに!」 私は一度も振り返ることなく、拾ったタクシーに乗り込んだ。 ちょうどその時、お母さんからメッセージが届いた。 【宵、見てごらん。これがあなただけの嫁入り舟よ】 第4話 添付された写真に写っていたのは、昨日見たものよりずっと大きくて、美しい舟だった。 何より私の目を釘付けにしたのは、舟全体が私の大好きな白木蓮で埋め尽くされていることだ。バラの花なんて、一本たりとも飾られていない。 マンションに帰ると、私はすぐに荷造りを始めた。 当面の着替えと、身分証明書などの貴重品を、一つ一つ手際よくカバンに詰めていく。 ふと、二人で撮りためた写真の束に手が止まった。どの写真の裏にも、彼の手書きのメッセージが残されている。 私はそれを一枚一枚めくっていった。 初めての旅行で行った海辺の写真の裏には、「一生、宵にひっついて生きていく」と書かれている。 一緒に日の出を見た時の写真には、「日の出なんかより、宵の方がずっと綺麗だ」と…… 私はそれらをきれいに束ねると、一瞬だけためらい、そのままゴミ箱へ放り込んだ。 しばらくすると、窓の外から車のエンジン音が微かに聞こえてきた。 突然雨が降り出したせいで、迅は予想よりずっと早く帰宅したらしい。 玄関のドアが開くと同時に、ゆののキツい香水の匂いがふわりと流れ込んできた。 私は手を止めることなく、最後の一着を丁寧に畳んだ。 靴を脱いだ迅は寝室の入り口まで来ると、ドア枠に寄りかかった。 脱いだスーツのジャケットを腕に無造作に引っかけ、その顔にはあからさまな苛立ちが浮かんでいる。 「まだ意地張ってんのかよ?」 口調こそ荒げてはいないが、その響きには上から目線の呆れが滲み出ていた。 私はチラリと彼に視線をやっただけで、すぐにスーツケースの蓋を閉じ、ファスナーに手をかけた。 その徹底した無視が、迅の最後の堪忍袋の緒を引きちぎったらしい。 彼は大股で近づいてくると、私の手からスーツケースを乱暴に奪い取った。 バンッという鋭い音を立てて、ケースが床に叩きつけられる。 「いい加減にしろよ!」 迅は眉間に深いシワを刻み、苛立たしげに声を荒げた。 「こっちは最近、会社の仕事が山積みでただでさえクソ忙しいんだよ。 進水式からばあちゃんの誕生日まで、お前がずっと仏頂面してるせいで、俺が周りから笑い者になっただろ!」 忙しい?ゆのの機嫌を取る時間はたっぷりあるくせに。 それに、周りが笑っていたのはあなたじゃない。笑い者にされていたのは、この私だ。 「別に、仏頂面なんてしてないけど」 迅は私の手首を強く掴むと、さも自分が譲歩してやっていると言わんばかりの態度で口を開いた。 「お前が機嫌損ねてるのはわかってるよ。でも、たかが舟一つ、アクセサリー一つのことだろ?そんな小さなことでいつまでもグチグチ言うなよ」 私に関することは全部「小さなこと」で、ゆのに関することは全部「大事なこと」なのだ。 彼を見つめていると、ふと、あの時仲間内のグループチャットで彼が吐いた言葉が蘇ってきた。 【宵は適当に機嫌取っとけばチョロいから。俺のことに首ったけだし、本気で怒るわけないって】 「一つ言っとくけど、明日からゆのと一緒に出張だから」 迅は少し身をかがめ、私の耳元に顔を近づけると、彼にとっての最大の「切り札」をちらつかせた。 「出張から帰ってきたら、時間作って婚姻届出しに行ってやるよ。 お前が七年間も待ってたのは、その紙切れ一枚だろ?望み通りにしてやるよ」 まるで、自分と籍を入れられることが私にとって最大の恩恵であるかのように、彼は当然の権利としてそう言い放った。 迅の中では、嫁入り舟も、特別扱いも、ありとあらゆる特権がゆののものだ。 その代わり、ただ一枚の冷たい婚姻届だけを、私への「慰め」として恵んでやればいいと思っているのだ。 私は彼を見つめながら、ふっと笑い声を漏らした。 私の七年間は、バラの花で飾られたあの「他人の」嫁入り舟と一緒に、海の底に沈んで腐ってしまったんだな、と。 私が笑ったのを見て、迅は機嫌が直ったと勘違いしたらしい。すっかり安堵した様子で、顔つきも一気に緩んだ。 「機嫌直った?じゃあ、大人しく家で待ってろよな」 そう言いながら、迅は寝室を出て行こうとする。歩きながらスマートフォンを取り出し、画面をタップした。 「今からゆのとビデオ通話して、明日の出張の準備しないとな……」 その背中へ向けて、私は声を張った。 「迅。私、明日地元に帰るから。私……」 その時、タイミング悪く迅のスマートフォンが鳴り響いた。 彼は私に向けて片手を上げ、「ちょっと待て」と合図する。 「もしもし、ゆの?どうした?」 電話越しに、切羽詰まったような声が漏れ聞こえてきた。 「大丈夫だ、怖がるな。今すぐ行くから」 電話を切るなり、迅は急いでジャケットを羽織りながら言った。 「雷が鳴ってるだろ。ゆの、雷がすげえ苦手でさ。ちょっと様子見てくる。 用事ならまた後で聞くから」 それだけ言い残し、迅は足早に家を出て行ってしまった。 「私、結婚するから」 喉まで出かかっていたその言葉は、結局伝えられないまま飲み込むしかなかった。 …… 土砂降りの中を急ぎ足で車に向かいながら、迅のスマートフォンが何度か震えた。 彼は鼻で軽く笑った。どうせ、籍を入れると約束した途端、宵がまた焦ってメッセージを送ってきたのだろうと思ったのだ。 ゆののマンションの前に車を停め、画面を確認する。しかし、それは宵からのメッセージではなかった。 【迅、来週の久世グループの御曹司の結婚式、忘れずに出席しなさいよ】 母親の芙美代からのメッセージの後に、一枚の招待状の画像が送られてきた。 何気なくその画像を拡大した瞬間、ドアノブに掛けていた迅の手がピタリと止まった。