遅すぎた後悔と静寂の海

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遅すぎた後悔と静寂の海

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「真実か挑戦か」のゲームで負けた笠井宥丸(かさい ゆうまる)は、今までで一番刺激的だったことは何かと尋ねられた。 彼は片腕で篠崎千穂(...

Chương (1)

第1章

「真実か挑戦か」のゲームで負けた笠井宥丸(かさい ゆうまる)は、今までで一番刺激的だったことは何かと尋ねられた。 彼は片腕で篠崎千穂(しのざき ちほ)を抱き寄せ、気だるげな表情を浮かべていた。 「この耳の聞こえない出来損ないとやる時に、七緒の名前を呼ぶことだな。こいつは聞こえないから、自分の名前を呼ばれていると思い込んで、愛情たっぷりの目で俺を見つめてくる。喘ぎ声もさらに大きくなるんだ」 その瞬間、個室にいた全員が歓声を上げ、割れんばかりの拍手と囃し立てる声が鳴りやまなかった。 誰一人として、千穂の顔から血の気が一気に引いたことに気づく者はいなかった。 第1話 「真実か挑戦か」のゲームで負けた笠井宥丸(かさい ゆうまる)は、今までで一番刺激的だったことは何かと尋ねられた。 彼は片腕で篠崎千穂(しのざき ちほ)を抱き寄せ、気だるげな表情を浮かべていた。 「この耳の聞こえない出来損ないとやる時に、七緒の名前を呼ぶことだな。こいつは聞こえないから、自分の名前を呼ばれていると思い込んで、愛情たっぷりの目で俺を見つめてくる。喘ぎ声もさらに大きくなるんだ」 その瞬間、個室にいた全員が歓声を上げ、割れんばかりの拍手と囃し立てる声が鳴りやまなかった。 誰一人として、千穂の顔から血の気が一気に引いたことに気づく者はいなかった。 千穂はその場で完全に硬直した。周囲の騒がしい笑い声やからかいの言葉が、容赦なくその耳に流れ込んでくる。 「耳の聞こえない身で、宥丸さんに気に入られて囲ってもらえるなんて、一生分の運を使い果たしたレベルだぜ!宥丸さんに群がる女なんてごまんといるのに、七緒に少し似ていなかったら、あいつに順番なんか回ってくるわけないだろ?」 「でも、七緒が宥丸さんと復縁することに同意したって聞いたぜ。それなら、この耳の聞こえない身代わりはお役御免ってことか?宥丸さん、こいつは障害者だけど、顔はけっこう清純派で俺の好みなんだ。飽きたなら、俺に少し遊ばせてくれない?」 その言葉を聞いた瞬間、宥丸の顔から笑みがスッと消え失せた。 その美しい瞳に冷徹な光が宿り、鋭利な刃物のような視線で、口を開いたドラ息子を射すくめた。 「千穂に手を出してみろ、殺すぞ」 個室の空気は一瞬にして氷点下まで冷え込んだ。 しばらくの静寂の後、ようやく誰かがビクビクと愛想笑いを浮かべながら、その場を取り成した。 「冗談だって、宥丸さん。そんなにみんなを怖がらせないでくれよ。この界隈で、宥丸さんが目をつけた女に手を出す命知らずなんて、いるわけないよ」 「そうそう、怒るなって。みんな悪気のない冗談だよ。だけど、そこまで千穂のことを庇うなんて、まさか本気で惚れちまったわけじゃないだろ?」 それを聞くと、宥丸はフッと鼻で笑い、無造作な口調で答えた。 「本気になるわけがない。七緒は体が弱くて、ベッドの上のことにはあまり興味がないんだ。今回やっと俺との復縁に頷いてくれたんだ、ただ掌の上の宝物のように大切に甘やかしてやりたいだけさ。無理させるなんて可哀想でできないね。 こいつは18歳の時から俺についていて、体の相性もすごくいい。欲を処理する身代わりとして残しておくのに、ちょうどいいんだよ」 彼の口調が和らいだのを見て、個室にいる者たちもホッと息をつき、また軽口を叩き始めた。 「愛は七緒に、欲望はこの耳の聞こえない女に。宥丸さんのやり方はマジで完璧だな。この女はともかく、七緒はちょっとワガママが過ぎるから、しっかり機嫌をとってやらないとな」 「宥丸さんがこの数年、どれだけ尽くしてきたと思ってるんだ?七緒がアイドルの追っかけを好きだからってだけで、宥丸さんが自ら芸能界に入ってトップスターになったんだぞ。 彼女が拗ねて別れて海外へ行った時も、宥丸さんは週に三回も飛行機で飛んでいって復縁を求めたんだぞ。あらゆる祝祭日やイベントには必ずプレゼントを用意して、一度だって欠かしたことがない。その上、胸元に彼女のイニシャルのタトゥーまで彫り込んだんだからな」 「まったくだよ、七緒も相当薄情だよな。宥丸さんが4、5年も追いかけてやっと復縁に同意したんだから。俺ならとっくに諦めてるね!お前らに聞くけど、宥丸さんほど一途に、ここまで深く愛せる男が他にいるか?」 一つ一つの言葉が鋭い刃となって千穂の心に突き刺さり、胸が締め付けられて息もうまくできなかった。 彼女はこれ以上聞いていられず、全身を強張らせながら宥丸の腕の中から抜け出した。声まで震えていた。 「私、眠い……帰りたい」 彼女の顔色が優れないのを見て、宥丸が口を開こうとしたが、ふと何かを思い出したようにポケットから補聴器を取り出し、彼女の耳に着けてやった。 「ここはうるさすぎるからね、気分が悪くならないように補聴器を外しておいたんだ。何も聞こえないままここにいても、確かに退屈だろう。疲れたなら、先に帰っていい子にして俺を待っているんだよ、ね?」 彼はそう甘く囁いて機嫌をとりながら、彼女の口元に軽くキスを落としてから、ようやく手を離した。 千穂はうつむいたまま、ふらつく足取りで個室を後にした。 バーを出た途端、ずっとこらえていた涙が溢れ出し、頬を伝い落ちた。 体の力がすべて抜け落ちてしまったかのように、彼女は力なくその場へへたり込んだ。 耳元の補聴器が滑り落ちると、押し殺した自分の泣き声がはっきりと聞こえてきた。 千穂の耳が昨日すでに完治していたことなど、誰も知らない。 だから、先ほど個室で行われていた会話は、すべて千穂の耳に届いていた。 初めて宥丸に出会ったのは、ある交通事故の現場だった。 生死の境をさまよう千穂を置き去りにして運転手がひき逃げする中、偶然通りかかった宥丸が病院へ運んでくれたからこそ、一命を取り留めることができた。 九死に一生を得て目を覚ますと、彼が笑みを浮かべながら補聴器を差し出し、優しい声で語りかけてきた。 「医者がお前は耳が聞こえないと言っていた。これを着ければ、風や雨の音、蝉や鳥の声が聞こえるようになる。またこの世界と繋がることができるんだよ」 12歳の時に両親を亡くし、不慮の事故で失聴して以来、千穂はまるで世界から見捨てられたかのような日々を送っていた。 6年間も孤独に生活し、卑屈で敏感になり、他人との接触をひたすら拒んできた。 宥丸に出会うまでは。彼との出会いによって、千穂の暗闇に包まれていた人生にわずかな隙間ができ、そこから温かな太陽の光が差し込んできた。 彼女はその優しい眼差しに溺れ、自分を心から案じ、気にかけてくれるこの少年に一目惚れした。 身寄りのない哀れな境遇に同情したのか、宥丸も彼女を格別に世話してくれた。 宥丸は千穂を側に引き取り、他人との接し方を教えた。特別支援学校と連絡を取り、無事に大学へ進学できるように手配した。春夏秋冬の景色を共に眺め、無数のサプライズを用意してくれた…… 日々の寄り添いに、千穂はすっかり彼を好きになり、恋に落ちていった。とうとう堪えきれなくなって想いを打ち明けた。 彼女は当初、世界中にファンを持ち、数え切れないほどの崇拝者がいる国民的アイドルの彼なら、きっと自分を拒絶するだろうと思っていた。 しかし、彼は微笑んでラブレターを受け取ってくれた。「千穂、俺もお前が好きだよ。ただ、俺の立場をわかっているだろう?この恋を公にすることはできないんだ」 その答えを聞いて、千穂は喜びで胸がいっぱいになり、彼と一緒にいられるなら何も気にしないと、必死に首を振って伝えた。 こうして二人の秘密の恋が始まり、宥丸は以前と変わらず彼女を溺愛した。 けれど、耳の障害のせいで、千穂は常に自分が彼にふさわしくないと感じていた。 堂々と彼の隣に立つために、彼女は密かに医師と連絡を取り、長く苦しい治療を始めた。 そして今、ついに聴力を取り戻した。 今日こそこの素晴らしい知らせを彼に伝えるつもりだったのに。まさか、自分が救いだと思い込んでいたものが、緻密に仕組まれたペテンに過ぎなかったとは思いもしなかった。 最初から、宥丸は彼女が白川七緒(しらかわ なお)に似ている顔立ちに目をつけ、意図的に近づいたのだ。 だから、彼の胸元にある「N・O」のタトゥーは、七緒のイニシャルであり、彼が言っていたような「適当に彫った模様」ではなかった。 欲情に身を任せている最中に補聴器を外すのは、別の女の名前を呼ぶためだった。 頻繁に海外の仕事をこなしていたのも、七緒に会いに行くためだったのだ…… この数年間の数々の不自然な出来事を思い返し、千穂は心が引き裂かれるような絶望に陥った。 目が赤く腫れ上がるまで泣き続け、心に抱いていた熱い愛情は、涙と共に次第に冷めきっていった。 絶望の淵に沈んでいた時、一本の電話が崩壊寸前の彼女の理性を引き戻した。 震える手でスマートフォンを取り出すと、大学の先輩の秋元実鈴(あきもと みすず)からの着信だった。 「千穂、本当に国立研究院への加入を諦めるつもりなの?この数年、あなたが示してきた驚異的な研究の才能には、私たちも到底及ばないわ。その若さでこれほどの成果を出すのは容易なことじゃないのよ。 今、宥丸と一緒にいるのは知っているけれど、あなたと彼は住む世界が違うの。少し年上の立場から忠告させて。そんな対等になれない恋にのめり込んではダメよ。彼が心からあなたを好きだとは限らないんだから」 その一言が、彼女をハッと覚醒させた。 もうこれ以上、自分を騙し続けることはできない。身代わりでいることも二度とご免だった。 だから彼女はゆっくりと涙を拭った。 この滑稽な恋に終止符を打ち、宥丸との関係を完全に断ち切る決意を固めた。 「先輩、私、行きます」 第2話 千穂が突然考え直したことを知り、実鈴は心から喜んだ。 「よかったわ。すぐに高橋教授に伝えておくわね。研究院に加入したら、あなたの経歴はすべて封印されて、名前を変えて私たちと一緒に秘密の拠点へ向かうことになるわ。10日後に私が直接迎えに行くから、それまでに準備を進めておいてね」 「分かりました。ありがとうございます、先輩」 電話が切れると、千穂はようやく苦痛に満ちた感情から抜け出すことができた。 重い足取りで家に戻り、ソファに倒れ込むと、心身ともに疲れ果ててそのまま眠りについた。 一晩中悪夢にうなされ、泣き叫びながら目を覚ますと、目の前には宥丸の姿があった。 彼は優しく彼女を胸に抱き寄せ、額に滲んだ汗を拭ってくれた。 「どうしてソファで寝ていたんだ?風邪を引いたらどうする」 千穂は伏し目がちになり、何と言えばいいか分からず、ただ沈黙するしかなかった。 宥丸は彼女が拗ねているのだと思い込み、機嫌をとるように口づけを落としてきた。 「昨夜は少し用事があって帰れなかったんだ。寂しかった?キスしようか」 昨夜彼が口にした言葉を思い出し、千穂の全身にゾクッと寒気が走った。 彼女は本能的に身をよじって避け、もがきながら立ち上がると、数歩後ずさりした。 彼女が拒絶するような素振りを見せたことに、宥丸はその場で呆然とした。 以前なら、彼女が少しすねてもキスさえすればすぐに機嫌が直ったのに、今日は一体どうしたというのか。 彼が戸惑っていると、ふと彼女の耳に補聴器が着いていないことに気がつき、ようやく合点がいった。 なんだ、聞こえていなかっただけか。 彼は引き出しから新しい補聴器を取り出すと、彼女の耳に優しく着け、苦笑まじりに言った。 「またどこかで補聴器を落としてきたのか?俺以外の人間と関わるのが好きじゃないのは分かっている。これからはあんな騒がしい場所には連れて行かないよ。付き合いの飲み会も少し減らして、なるべく家でお前と一緒にいるから。ね?」 愛情に満ちたかのようなその眼差しを見て、千穂は胸が締め付けられる思いがした。 「私の耳、もう治っ……」 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。 千穂の掠れた声と激しいチャイムの音が重なり、宥丸がそれを聞き取ることはなかった。 彼は玄関へ向かい、ドアを開けた。 七緒がバッグを提げて中へ入ってきた。その声は柔らかかった。「宥丸、腕時計を忘れていったわよ。メッセージを送っても返事をくれないから、わざわざ届けに来たの」 そう言いながら顔を上げた七緒は、千穂の姿が目に入った瞬間、ハッとして動きを止めた。 「この人は?どうしてあなたと一緒に住んでいるの?」 宥丸は七緒がここまで追ってくるとは思っておらず、微かに顔色を変えた。 彼は真っ先に千穂の側へ歩み寄ると、先ほど着けてやったばかりの補聴器を取り外した。 そして、手を動かして手話を交えた。 [友達が仕事の相談に来たんだ。お前は部屋に戻って少し休んでいて。外に出てきちゃ駄目だよ] 千穂はその意味を読み取り、思わず自分と似ているその顔に視線を向け、瞬時に目頭を熱くした。 力なく身を翻して二階へと歩き出すと、背後から宥丸の落ち着き払った声が聞こえてきた。 「俺のアシスタントだよ。あいつは幼い頃から耳が聞こえなくて、少し人嫌いでね。仕事の都合がいいから、この邸宅に住まわせているだけさ」 「アシスタント?耳の聞こえない人を雇うなんて、慈善事業でもしているつもり?本当なの?嘘は許さないわよ」 「俺がいつお前に嘘をついた?彼女は孤児で、両親もすでに亡くなっている。可哀想だと思って手元に置いているだけだよ」 宥丸が穏やかな声でなだめるように説明しても、七緒はまだ納得していないようだった。「本当にそれだけ?彼女、私にそっくりじゃない。何か下心があるんじゃないの?」 千穂が寝室のドアを閉めたのを確認すると、宥丸は慌てて七緒を胸に抱き寄せた。「お前に似ているからこそ、憐れみを感じたんだ。この顔がなければ、たとえ両足が不自由で、目が見えず口がきけなかったとしても、俺は一瞥もくれなかっただろう。 お前に会いたくてたまらなくて、彼女をお前の身代わりにして寂しさを紛らわせていただけだ。俺の気持ちがまだ分からないのか?」 ドア越しにその言葉を聞き、千穂の胸は重いハンマーで激しく殴られたかのような激痛に襲われた。 千穂は必死に両手で口を覆い、喉の奥から込み上げる嗚咽を辛うじて押し殺した。 強く噛み締めた歯が手の甲を食い破り、血の生臭さが口いっぱいに広がって、いつまでも消えなかった。 外で遠ざかっていく足音を聞きながら、千穂は邸宅内の防犯カメラの映像を開いた。 画面の中では、宥丸が七緒と手を繋ぎ、千穂には決して近づかせなかった最上階のコレクションルームへと向かっていた。 ドアが開くと、室内には数千点に及ぶジュエリーやドレス、バッグが丁寧に保管されており、それを見た七緒は喜びで目を丸くした。 宥丸は七緒を部屋に招き入れ、一つ一つ手に取って見せた。 「これらは全部、お前が去った後に俺が買ったプレゼントだ。どれもお前が一番好きなデザインばかりだよ。お前を想うたびに一つ買ってはここに保管していた。 いつかお前が戻ってきたら、これを見せてあげようとずっと思っていたんだ。俺が片時もお前を忘れることなく、ずっと心に想い続けていたことを知ってほしくてね」 イヤホン越しに聞こえる宥丸の愛情たっぷりの声を聞きながら、千穂は、彼が泥酔するたびに決まって自分の補聴器を外し、抱きしめながら熱心に贈り物を選んでいた姿を思い出していた。 だが、彼が正気に戻った後、千穂がそのプレゼントを受け取ったことはただの一度もなかった。 すべてはこの部屋に隠され、真の主人が現れて見つけてくれるのを待っていたのだ。 そして、酔った彼が呟いていた、当時の千穂には聞こえなかったあの言葉の数々も、すべて七緒への思慕を語るものだった。 それなのに自分は、馬鹿みたいに彼の体を心配し、一晩中一睡もせずに寄り添っては、酔い覚ましの薬を用意していた。 本当、笑えるほど滑稽だ。 第3話 七緒も彼がそれほど深く自分を愛してくれていたとは思いもよらず、すぐに彼に抱きついた。 「ごめんなさい、宥丸。あの時、意地を張ってあなたと別れて海外に行ったりしなければよかった。あなたがそこまで私を愛してくれているって分かっていたら、もっと早く復縁していたのに」 宥丸は彼女の目尻の涙を優しく拭った。「お前のせいじゃない。俺が悪かったんだ。最初からお前を怒らせるべきじゃなかった。でもよかった。俺はずっとお前を待っていたし、お前もこうして戻ってきてくれたんだから」 七緒は泣きじゃくりながら彼の胸にすがりつき、大粒の涙をこぼした。 宥丸がいくらなだめても泣き止まないため、気を紛らわせようと食事に誘った。 彼女が「あなたの作ったご飯が食べたい」と駄々をこねると、手が汚れるのが大嫌いなはずの彼が自ら進んでキッチンに立った。 彼はテーブルいっぱいに料理を並べ、一つ一つ彼女の皿に取り分け、エビの殻まで剥いて口に運んでやった。その瞳からは、彼女への愛おしさが溢れんばかりだった。 「海外の食事が口に合わなくて、こっちのあのレストランの味が恋しいって言っていたからな。俺が直接シェフから作り方を教わったんだ。海外に行くたびに作って持っていって、その店からテイクアウトしたって嘘をついていたのに、どうして俺が作ったって分かったんだ?」 七緒は彼の胸に身をうずめ、愛嬌たっぷりに彼を見つめた。 「私を馬鹿だと思ってるの?飛行機で十数時間もかかる距離なのに、あなたが毎回持ってくる料理はいつも出来立てみたいに温かかったじゃない。 あなたのお手製だってことくらい、とっくに気づいてたわよ。ただ、まだ怒りが収まってなかったから、わざと知らないフリをしてただけ」 食卓で親しげにいちゃつく二人の姿を見て、千穂はようやく理解した。3年前、宥丸がどうして突然料理に夢中になったのかを。 あの頃、彼は毎日何品も料理を作っていた。千穂はシーフードが食べられなかったが、彼がせっかく作ってくれたからと、アレルギーの薬を飲みながら味見に付き合っていた。 あの数ヶ月間、彼女の体に現れた赤い発疹は、引いてはまたぶり返し、一度として完全に消えることはなかった。 すべては、彼の純愛を裏で支えるための犠牲に過ぎなかったのだ。 千穂は音もなく自嘲気味に笑ったが、その瞳には涙が溜まっていた。 温かい涙がスマートフォンの画面にぽたりと落ち、抱き合ってキスをする二人の姿をぼやけさせた。 彼女はただ呆然とそれを見つめていた。果てしない悲哀と苦しみが胸に押し寄せ、彼女を完全に飲み込んでいった。 ズタズタに傷ついたその心は、次第に麻痺し、氷のように冷え切っていった。 ふと我に返ると、イヤホンから七緒の甘い吐息が聞こえてきた。 「昔キスする時は、いつも乱暴で焦っていたのに。4年ぶりに会ったら、どうしてこんなに優しくなったの?」 宥丸は彼女の腰をきつく抱き寄せた。「あの時お前が怒って別れたのは、俺が初めての恋愛で余裕がなくて、手加減もできずにお前を痛がらせてばかりだったからだろう? この4年間で反省して、俺も一つ学んだんだ。『好き』という感情は衝動を抑えきれないものだが、本当の『愛』なら相手を想って自制するものだってな」 彼自身の口からその言葉を聞き、千穂の手は抑えきれないほど震え出した。 目を閉じると、これまでに彼が自分を求めてきた夜のことが蘇った。彼はいつも乱暴で焦り、彼女の体中を傷だらけにし、黄体嚢胞破裂で何度も病院に運ばれたこともあった。 あの時の彼女は、彼が自分を愛しすぎるあまり、理性を抑えきれないのだと思い込んでいた。 だが今思えば、そこに愛など微塵もなかった。 愛していないからこそ、彼は彼女を気遣うことなく、ただ自分の欲望を発散させていただけだった。 結局のところ、自分はただの身代わりでしかなかった。 憐れみや心痛など、彼が抱くはずもなかったのだ。 涙が袖口を濡らし、頬には乾いた涙の痕がこびりついていた。 どれくらいの時間が経っただろうか。外から車のエンジン音が聞こえ、カメラの映像から二人の姿が消えた。 メッセージアプリの通知音が鳴った。宥丸からのメッセージだった。 【千穂、急遽仕事のトラブルが入って処理に行かなきゃならなくなった。いい子で家で待っててくれ。ご飯を作ってテーブルに置いてあるから、ちゃんと食べてね。お腹を空かせちゃだめだよ】 千穂は血走った真っ赤な目でそのメッセージを見つめ、長い沈黙の後、ようやくふらふらと立ち上がった。 彼女は段ボール箱を取り出し、宥丸に関するすべての物を片付け始めた。 彼がプレゼントしてくれたぬいぐるみ、一緒に撮った写真、彼女が買ったお揃いのペアマグカップやキーホルダー…… 一つも残すことなく、テーブルに置かれていた手料理と共に、すべてゴミ箱に放り捨てた。 その後、宥丸は2日間家に帰ってこなかった。 千穂も彼がどこへ行ったのか問い詰めることはせず、一人黙々と家の中で荷物を整理していた。 彼が帰宅し、半分ほど空になってガランとした邸宅を見た時、その顔に驚きの色が浮かんだ。 「千穂、どうして家の中の物がこんなに減ってるんだ?」 千穂はうつむいたまま、適当な言い訳を口にした。 「気に入らなくなったから、全部捨てたの」 宥丸はどこか違和感を覚え、さらに問いただそうとしたが、ふと彼女の耳元に視線を走らせた瞬間、その動きが完全に凍りついた。 「千穂、お前、補聴器をつけていないのに……俺の言葉が聞こえているのか?」 第4話 千穂がコップを持つ手を止め、口を開きかけたその時、宥丸のスマートフォンが鳴った。 画面に表示された名前を目にした瞬間、彼は先ほど感じた違和感などすっかり頭から消し去り、隠そうともせず彼女の目の前で電話に出た。 「宥丸、この2日間で撮った写真を送ったわ。海辺で夕日を見たときの手繋ぎの写真と、昨夜の花火の下でのキスの写真は、絶対にSNSのタイムラインにアップしてよね。みんなに私たちが復縁したって公表するの。私の彼氏が他の女に狙われるなんて絶対に嫌なんだから!」 宥丸は笑いながらそれに頷き、プロジェクトの打ち合わせがあるという適当な口実をつけて、書斎へと入っていった。 彼の背中を見送りながら、千穂はスマートフォンを手に取り、以前こっそり彼を友達に追加しておいた、彼には内緒の裏アカウントにログインした。 10分後、タイムラインを更新すると、彼が立て続けに投稿した十数件もの写真付きのタイムラインが目に飛び込んできた。 【世界に向けて、俺の生涯ただ一人の愛する人を公表する】 【日が昇り、日が沈む。朝も夜も、俺の心にはお前しかいない】 【初めて出会ったあの瞬間に恋に落ちてから、この胸の高鳴りは一生止まらない】 どの投稿にも二人が親密に抱き合っている写真が添えられ、すべてに七緒がタグ付けされていた。 千穂はそれらを最後までスクロールして見届けると、今度は自分の本アカウントのタイムラインを開いた。 そこには宥丸の投稿は一つとして表示されていなかった。その代わり、彼の友人たちがタイムラインでこぞって騒ぎ立てているのが見えた。 【何万人から注目される立場であっても、復縁した瞬間に迷わず全員に関係を公表するなんて。やっぱり『本命』の破壊力は絶大だな!】 【連続で十数件も愛の告白を投稿するから、スマホがバグったのかと思ったぜ!誰かさんはみんなに知ってほしくてたまらないみたいだな。でも、『ある人』を非公開にするのだけは忘れるなよ】 名指しこそされていないが、その「ある人」が自分であることは、千穂には痛いほど分かっていた。 千穂はついに悟った。宥丸が「仕事柄、恋人の存在は公表できない」と言っていたのは、単なる嘘だったのだと。 ずっと深く愛し続けてきた初恋の相手のためなら、ファンにバレるリスクを冒してでも、彼は躊躇うことなくその愛を世間に公表したではないか。 それに引き換え、表に出せない日陰の身代わりである自分は、誰にも気づかれないようにひっそりと隠されて当然なのだ。 自分は彼の心の中に一度たりとも足を踏み入れたことなどなかった。そんな自分が、彼から堂々と愛を示してもらえる資格などあるはずもない。 心臓の奥底からじわじわと痛みが広がり、無数の針で刺されているかのように、耐え難い苦痛が胸を締め付けた。 宥丸は笑みを浮かべて出てきたが、千穂の血の気のない青ざめた顔色を見て、わずかに眉をひそめた。 最近彼女を放っておいたせいで傷ついているのだと思い込み、すかさず彼女を抱き寄せる。 「千穂、この数日俺に会えなくて寂しかったんだろう?構ってやれなくて悪かった。今日は仕事がないから、デートに行こう」 彼はサングラスに帽子、マスクを身に着けながら、彼女の耳に補聴器を着けると、外へと連れ出した。 二人はかつてのように、食事をし、映画を観て、街を歩いた。 しかし千穂はどうしても気分が晴れず、道中ずっと口を閉ざしたままだった。 なかなか機嫌を直そうとしない彼女を見て、宥丸はそのままジュエリーショップへと千穂を連れ込んだ。 「前にお揃いのペアリングが欲しいって言ってただろ。ちょうどいいから今日買おう。お前は指にはめて、俺はネックレスにして首から下げるから。どれがいいか選んでみて」 千穂が相変わらず気乗りしない様子でいると、彼は適当に一組選び、レディース用のリングを手にとって彼女の指にはめようとした。 次の瞬間、背後からひどく驚いたような七緒の声が響いた。 「宥丸?午後は家で休むって言っていなかった?どうしてここにいるの?」 宥丸は振り返って七緒の姿を確認すると、顔色一つ変えずに千穂の補聴器を外し、手話で伝えた。 [友達と少し話してくる。先に見ていて] だが、彼が背を向けた途端、千穂の耳には、平然と嘘をつく彼の声が飛び込んできた。 「前に別れた時、お前は俺たちのペアリングを捨ててしまっただろう。新しく一組買おうと思ってな。ちょうど俺のアシスタントがお前と指のサイズが近いから、試着させるために連れてきたんだよ」 それを聞いて、七緒の顔にほんのりと照れくさそうな色が浮かんだ。彼の胸元を軽く小突くと、彼女はショーケースの前へと歩み寄った。 「私のものを他の人に触られるのは嫌よ。リングは私が自分で試すわ」 「なら試さなくていい。ここにあるのを全部買って、お前にプレゼントするよ。毎日違うものを一緒につけよう。そうすれば、お揃いだと見た周りの連中も、お前が俺の彼女だって全員気づくだろう……」 宥丸が甘い言葉で七緒をなだめていると、ふと視界の端に、彼の名前が書かれたボードを掲げた大勢のファンが店に向かって押し寄せてくるのが見え、心臓が跳ね上がった。 彼はとっさに店員に案内させ、七緒を庇うようにしてVIPラウンジへと逃げ込んだ。 すさまじい勢いで金切り声を上げながら雪崩れ込んでくるファンの大群を目にした千穂は、嫌な予感に襲われて背筋が凍るのを感じた。 無意識に振り返ると、逃げるように立ち去る二人の慌ただしい後ろ姿が目に飛び込んできた。 この熱狂的なファンたちの恐ろしさを身をもって知っていた千穂は、本能的に彼らの後を追い、同じくVIPラウンジに身を隠した。 ドアが閉まった途端、外から激しくドアを叩く音が響き渡った。 店長もこの尋常ならざる騒ぎにすっかり腰を抜かし、言葉をしどろもどろにさせた。 「外はすっかり取り囲まれています。裏口の方がまだ人は少ないですが、笠井さんはそのお姿があまりにも人目を引きすぎますので、どこから出ても囲まれてしまうでしょう。 ここから抜け出すには、うちのスタッフが笠井さんの服に着替えて、先に注意を引くしかありません。いかがでしょうか?」 宥丸はためらうことなく、スタッフと服を交換した。 そして、七緒と千穂に交互に視線を走らせると、彼女たちにも服を交換するよう促した。 七緒は言われるがままに従ったものの、理由が分からず、その瞳には困惑が浮かんでいた。 「どうして私が着替えるの?」 「ファンたちは、俺がお前と一緒にVIPラウンジに入ったのを見ている。もし俺が一人だけで出て行けば、すぐにバレてしまう。だからお前が俺のアシスタントの服に着替えて、あいつがスタッフと一緒に出ていけば、全員を騙し通せるんだ」 宥丸はそう説明しながら、七緒の服を強引に千穂の体に着せかけた。 そして、信じられないものを見るような千穂の視線を受けながら、彼はいけしゃあしゃあと手話で伝えた。 [千穂、ここに残っていたら危険だ。お前を危ない目に遭わせるわけにはいかない。お前はスタッフと一緒に先に逃げてくれ!] 第5話 彼の手話を理解した瞬間、千穂の頭の中で轟音が鳴り響き、全身の血が凍りついた。 次の瞬間、宥丸と背格好の似た店員が彼女の肩を抱き込み、強引にVIPラウンジから連れ出した。 ファンたちは金切り声を上げながら飛びかかり、千穂の襟元を乱暴に掴んだ。 「どこの馬の骨よ、この身の程知らずな女!宥丸さんに気安く触るんじゃないわよ!その汚い手をどけなさい!」 「男に媚びてすり寄るような勘違い女は、見つけるたびにボコボコにしてやる!死ねばいいのに!」 「薄汚い女は私たちの宥丸さんから離れなさいよ!さもないとタダじゃおかないからね!」 彼女たちは容赦なく罵詈雑言を浴びせながら、千穂の体に爪を立て、幾筋もの赤い血の痕を刻み込んでいった。 さらに誰かが彼女の髪を鷲掴みにし、鬱憤を晴らすかのように、その頬に何度もきつい平手打ちを食らわせた。 焼け付くような痛みが走り、千穂は四肢が引きちぎられそうな感覚に陥りながら、絶望の悲鳴を上げた。 涙と混じり合った血が滴り落ち、青あざだらけの腕を赤く染めていく光景は、目を背けたくなるほど凄惨だった。 誰かが店員の被っていた帽子を奪い取ると、ファンたちの興奮は一気に爆発し、彼女はそのまま冷たい床に突き飛ばされた。 身動きも取れないほど密集した人波が押し寄せ、彼女の手足を力任せに踏みつけた。骨の髄まで突き刺すような激痛が彼女を襲った。 千穂は泣き叫んで助けを求めたが、誰一人として顧みる者はなく、ただ硬い靴底が何度も彼女の体に叩きつけられた。 全身から引き裂かれるような痛みが走り、足元で踏みつけられているせいで空気も薄くなり、彼女の意識は次第に朦朧としていった。 意識が混濁していく中、誰かの甲高い叫び声が響いた。 「この人、宥丸さんじゃない!宥丸さんはあの女と一緒に下の階にいるわ!」 その言葉を合図に、群衆は引き潮のように一斉に向きを変え、次の標的へと駆け出していった。だが、その大混乱に紛れて誰かが落とした分厚い本が、千穂の頭部を直撃した。 激しい衝撃とともに割れた傷口から血が流れ落ち、冷たい床の上に生々しい血溜まりを作っていった。 彼女の体は無意識に痙攣し、意識が遠のいていった。 完全に意識を失う直前、最後に彼女の耳に届いたのは、ファンたちの落胆に満ちた怒号だった。 「宥丸さんとあの女、もう車に乗っちゃった!追いつけないわ!」 果てしない闇が押し寄せ、千穂は自分が嵐の海を漂う小舟にでもなったかのように、なすすべもなく激しく揺さぶられ、浮き沈みを繰り返していた。 やがて嵐が去り、ゆっくりと目を覚ますと、真っ白な病院の天井が視界に入った。 看護師が彼女の容態をチェックしながら、心底安堵したような声で言った。 「気がつきましたか?昨日病院に運ばれてきたときは大出血で、危ないところだったんですよ。病院の血液バンクに在庫が足りなくて、彼氏さんが1000ccも血液を提供してくれたおかげで、一命を取り留めたんです。 彼もそのあと倒れてしまいましたけど、大事には至っていませんから心配いりませんよ。今はしっかり休んでください」 その言葉を聞いて、千穂の生気を失っていた瞳に、わずかに光が戻った。 「……あの人は、私の彼氏じゃありません」 「彼氏じゃないんですか?あんなに尽くしてくださったのに……では、お二人はどういったご関係なのでしょう。あの人、大人気スターの笠井宥丸さんですよね。最近ネットでも熱愛の噂で持ちきりですが、本命の彼女が誰なのかご存じですか?」 ちょうどその時、病室のドアを開けて入ってきた宥丸は、看護師の好奇心に満ちた言葉を耳にして、顔色をサッと変えた。 彼は足早に歩み寄ると、千穂を庇うように彼女の前に立ち塞がり、ぞっとするほど冷酷な顔で言った。 「私の友人は耳が聞こえません。くだらない詮索をして彼女の休息を邪魔するのはやめていただけますか」 看護師はハッと目を見開き、驚きを隠せない声で返した。 「でも、彼女、さっき私の言葉を……」 宥丸は看護師の言葉を最後まで聞く気すらなく、彼女を強引に病室の外へ押し出した。 ドアを閉めると、彼はこれ以上ないほど痛ましげな表情を浮かべて千穂のそばに歩み寄り、その手をきつく握りしめた。 「千穂、昨日は俺が裏口からファンを引きつけて、お前を安全に逃がしてやろうと思ったんだ。でも、あいつらがこれほど狂暴だとは思わなかった。俺の考えが甘かったせいで、お前にこんな大怪我をさせてしまって……本当にすまない」 千穂は無表情な顔で彼を見つめ、ひどく掠れた声で、どうにか言葉を絞り出した。 「あなたはただ……私が聞こえないのをいいことに、騙し通せると思っただけでしょう?」 第6話 唐突に放たれたその一言に、宥丸は一瞬、呆気にとられたように固まった。 千穂の耳元に何もないことに気づき、そこでようやく補聴器を着けさせていなかったことを思い出した。 彼は慌ててポケットから取り出し、千穂の耳に着けようとしたが、彼女はその手を冷たく押し返した。 「……結構よ。もう、何も聞きたくないから」 どうせ、何一つ本当のことなんてないのだから。 病院に入院していた数日間、宥丸はずっと千穂の世話を焼いた。 検査に付き添い、傷口の薬を塗り替えて包帯を巻き、水を差し出してはスープを優しく口に運んでやる。その姿は誰もが羨むほど甲斐甲斐しく、至れり尽くせりだった。 だが、千穂の心は微塵も動かなかった。 なぜなら、彼女が目を閉じるたび、宥丸は千穂には何も聞こえていないと思い込み、すぐそばで平然と七緒に電話をかけたり、甘いボイスメッセージを送ったりしていたからだ。 「七緒、今夜のコンサートのチケット取れたよ。後で迎えに行くから」 「昨日買ってあげたネックレス、気に入った?もし気に入らないなら、明日また別のを見に行こうか」 「眠れなくて俺に会いたくなった?わかった、今からそっちに行くよ」 彼が病室を出て行った後は、その都度そっとスマホを開き、時間を確認した。 …… 彼女が退院する日、彼のもとを去るまで、残された時間はあとわずか4日となっていた。 宥丸は自ら病院へ迎えにやって来た。千穂がずっと塞ぎ込んでいるように見えたのか、彼は気晴らしにどこかへ行こうと自ら提案してきた。 今回、彼が選んだのは人けの少ない静かな湖畔だった。心地いい風に当たりながらコーヒーでも飲もうというつもりらしい。 だが、車を停めて降りた途端、正面から歩いてきた七緒と出くわした。 「宥丸?アシスタントを連れてこんな所で何してるの?」 宥丸はここで彼女に鉢合わせるとは夢にも思っておらず、一瞬息を呑んだ。 彼はちらりと千穂を振り返り、彼女が補聴器を着けていないことを確認してから、もっともらしい言い訳を口にした。 「この近くで撮影の仕事があってね。どうした?」 七緒は軽く首を横に振った。「ううん、なんでもない。時間があるなら買い物にでも付き合ってもらおうかと思ったんだけど。仕事なら仕方ないわね」 宥丸は頷き、千穂を連れてその場を離れようとしたが、再び七緒に呼び止められた。 「あなたが撮影してる間、そのアシスタントは暇でしょ?私の買い物に付き合ってもらえないかしら。一人じゃ退屈だし」 宥丸は反射的に断ろうとしたが、彼が口を開くより早く、七緒は一方的に言葉を続けた。 「知ってるでしょ?私、こっちには友達が全然いないの。だから彼女を貸してよ。ただのお供として隣に誰か歩いててほしいだけなんだ」 そう言われてしまうと、宥丸も承諾するほかなかった。 立ち去る前、彼はわざわざ千穂の前に立ち、手話でこう言い聞かせた。 [千穂、急な仕事が入ってしまったんだ。退屈だろうから、俺の友達の買い物に付き合ってやってくれないか?安心して楽しんでおいで、後ですぐに迎えに行くから] 彼が送る手話を見て、千穂が返事をする間もなく、七緒に腕を引かれて車に押し込まれた。 道中、車内の雰囲気は意外なほど平穏だった。七緒は鼻歌まで口ずさんでおり、すこぶる機嫌が良さそうで、本当にただ買い物がしたいだけのように見えた。 千穂の胸の内にあった不安も少し和らいだが、彼女は依然として沈黙を保ったままだった。 ところが、ショッピングモールに到着した途端、どこからともなく屈強なボディーガードが二人現れ、千穂の左右にピタリとついた。 七緒は千穂を美容室へと連行し、強引にカットチェアに押さえつけると、薄気味悪い笑みを浮かべた。 「彼女の髪、切ってちょうだい。私と同じような顔をして、お揃いの髪型でいるなんて、見るだけで反吐が出るわ」 第7話 千穂は驚愕に見開かれた目で顔を上げ、七緒を見つめた。だが、何か言葉を発するよりも早く、七緒の嘲笑交じりの声に遮られた。 「何見てるのよ?私が、あなたと宥丸の関係を知らないとでも思った?でもね、私がいる限り、あなたに付け入る隙なんて一生ないわよ」 そう言い放つと、彼女は美容師に命じて千穂の髪を不揃いで無残な状態に切り刻ませ、おまけにわざと眉毛まで全て剃り落とさせた。 その後、七緒はボディーガードに千穂を高級ブランド店へと引っ立てさせ、床に跪かせて自分の靴を履かせるよう強要した。そして、侮蔑を込めた口調で言った。 「耳も聞こえない欠陥品のくせに、宥丸にすがりつこうなんて図々しいにも程があるわ。あなたみたいな卑しい女、私の足元にも及ばないのよ!」 さらに七緒は、淹れたての熱いコーヒーを千穂の頭から浴びせかけ、彼女の服を引き裂くと、最も人目の多い広場のど真ん中へ引きずり出し、無理やり跪かせた。 「教えてあげる。宥丸はね、14歳の時に私に一目惚れして、私にくれたラブレターなんて、山積みにしたら天井に届くくらいだわ。私の体が弱いと知れば、莫大な資金を投じて病院を建て、世界トップクラスの専門医を呼び寄せて治療に当たらせた。 私が思いつきで『エクストリームスポーツをする男の人が好き』って呟いただけで、あんなに高所恐怖症の彼が、5000メートルの上空からためらいもせずスカイダイビングまでしてみせた。 私がこれだけ言っても、どうせ一言も聞こえていないんでしょうね?でも構わないわ。あなたの存在がいかに惨めで、滑稽なものか、今日この場で証明してあげるから。 宥丸があなたをそばに置いているのはね、単に顔が少し私に似ていたからに過ぎないのよ。でも今日、きっちり分からせてあげる。身代わりは所詮身代わり、本物の私には永遠に敵わないってことをね! たとえ今日、私があなたのその顔を切り刻んで、泥水の中に踏み躙って辱めようと、宥丸は絶対にあなたを庇ったりしないわ」 七緒は勝ち誇ったように千穂を見下した。次の瞬間、どこからか取り出した刃物で、無防備な彼女の顔を容赦なく切り裂いた。 「ああぁっ……!」 刹那、額から左の頬を縦に引き裂くような深い傷口がぱっくりと口を開き、真っ赤な鮮血が流れ出した。 あまりの激痛に千穂は息を詰まらせた。視界はまたたく間に真っ赤に染まり、猛烈な眩暈が襲った。 千穂は悲鳴を上げて傷口を押さえ込み、その目から大粒の涙をぼろぼろとこぼれ落とした。 それでも七緒は手を緩めない。ボディーガードに命じて、千穂を近くの噴水に顔から押し込ませた。流れ出た鮮血が、水面をみるみる赤く染め上げていく。 冷たい水が鼻や喉の奥へと流れ込み、彼女は激しくむせ返った。 このまま窒息してしまうのではないかという恐怖の中、必死にもがき抵抗したが、男たちの力に敵うはずもなかった。 肺の中の酸素が完全に尽きかけ、意識が遠のきそうになったその時、ようやく男たちの手が離れた。 千穂は力なく地面に崩れ落ちた。霞む視界の先で、信じられないものを見るような顔をした宥丸が、こちらへ駆け寄ってくるのが見えた。 ほんの数歩の距離まで近づいた瞬間――七緒が青ざめた顔で胸を押さえ、悲痛な声で彼を呼び止めた。 「宥丸……あなたのアシスタントが、私の薬を失くしてしまったの。胸が……すごく痛いわ……」 その弱り切った声を聞いた途端、宥丸は一切の躊躇いもなくきびすを返し、七緒を大事そうに抱き抱えた。 凄まじい痛みが波のように押し寄せ、千穂の意識をじわじわと呑み込んでいった。 彼女はどんどん遠ざかっていく二人の背中をただ見つめたまま、やがて視界が暗転し、深い闇へと沈んでいった。 …… 深い混沌の底から、千穂は全身を貫くような絶え間ない激痛によって、無理やり意識を引き戻された。 全身は冷や汗でびっしょりと濡れ、骨の髄まで染み込んでくるような寒気で小刻みな震えが止まらない。 重い瞼を押し上げると、宥丸が怪訝そうに眉を寄せながら、彼女のスマホを覗き込んでいるのが見えた。 「国立研究院だと……?いったい誰がお前にこんなメッセージを送ってきたんだ?」 その言葉に、千穂は痛む体を無理やり起こし、彼の手から乱暴にスマホを奪い返した。 突然の激しい動作に宥丸はあっけにとられていたが、慌てて彼女の耳に補聴器を着けさせると、ひどく胸を痛めているような声を出した。 「千穂、誰からのメッセージだったんだ?なぜ国立研究院なんて名前が……いや、それより傷口はまだ痛むか?安心しろ、国内でもトップクラスの美容外科医を呼んで縫合させた。絶対に傷跡なんて残させないから」 千穂は唇をきつく噛み締め、スマホの画面を消した。 再び顔を上げたとき、彼を見つめる彼女の瞳には、何の感情も宿らない死んだような虚無だけが広がっていた。 「誰からの連絡だとしても、あなたには関係ないでしょう。傷跡が残ったところでどうだっていいわ……私のことなんて見捨てたはずなのに、今さら何をしに来たの?」 第8話 宥丸は一瞬言葉に詰まったが、すぐに口を開いた。「いつ俺がお前を見捨てたって言うんだ?ただ、あの時は七緒の症状の方が深刻だったんだ。あいつは体が弱くて常に薬を持ち歩いてなきゃならない。 それを失くしたとなれば焦るのも当然だろう?だからお前に無理やり探させたんだ。それに、噴水の中に鉄線が沈んでいて、お前の顔を傷つけるなんて、七緒だって知るはずがないじゃないか」 いまだに七緒を庇おうとするその言葉に、千穂の胸に深い無力感が押し寄せた。 「あの人が言ったことは全部本当だって言うの?あなたは、彼女の言葉をそこまで信じ切っているのね」 宥丸は彼女の冷え切った手を自分の懐に入れて温めながら言った。「本当にただの事故だったんだ。変なふうに思い詰めるな。お前が不安なのは分かってる。ずっと俺との関係を公にしたがっていただろう? あと2日で俺の誕生日だ。そのパーティーの席で、俺の家族や友人たちに正式にお前のことを紹介するよ。だから機嫌を直してくれないか?」 もし以前の彼女なら、これを聞いて何日も眠れないほど喜んだだろう。 だが今の彼女に残っているのは、ただ深い疲労感だけだった。 病院での2日間、宥丸は彼女の機嫌をとるため、たくさんのプレゼントを贈ってきた。 しかし彼女は一つも封を開けることなく、すべて部屋の隅に放り投げていた。 退院の日は、実鈴と約束していた国立研究院への入所日当日でもあった。 そのまま立ち去ろうとしていたところへ、宥丸が自らこの上なく豪奢なドレスを届けに来て、着替えるように言ってきた。 「千穂、後で一緒に誕生日のパーティーに行こう。俺へのプレゼント、ずっと前から用意してくれてただろう?どこに置いてあるんだ?一緒に取りに行こうか」 そのプレゼントなら、確かに1ヶ月前にはもう用意してあった。 サプライズ感を出すために、千穂はそれを専門の業者に預けており、誕生日の当日にスタッフがホテルへ直接届ける手はずになっていた。 かつては、彼がそれを受け取ったときにどんな顔をするかを心から楽しみにしていたが、今となってはもう、微塵も興味が湧かなかった。 「いいの、後でわかるから。今日は用事があるし、あなたの誕生日パーティーには行かないわ」 それを聞いて、宥丸は心底驚いたように慌てて彼女の手を握りしめた。「行かないってどういうことだ?言っただろう、今日のパーティーで家族や友達にお前のことを紹介するって」 まだ前のことで怒っているのだと思い込んだ彼は、何度も彼女をなだめすかし、結局そのまま半ば強引に彼女をホテルへと連れ出した。 千穂はまだ時間があるのを確認すると、計画のボロが出るのを恐れ、大人しく従うことにした。 パーティーの開始は夜の7時。今はまだ6時で、大広間にはまだ数人しかおらず、そのほとんどが宥丸の悪友たちだった。 中に入る前、彼はいつものように千穂の補聴器を外し、それから彼女を連れて皆に挨拶に向かった。 「宥丸さん、今日はみんなの前で七緒との関係を公表するんじゃなかったのかよ?なんでこいつを連れてきたんだ? 耳は聞こえなくても、目は見えてるんだぞ。こんな派手にやったらさすがにおかしいって気づくだろ。ショックでどこかへ逃げ出したらどうするんだよ」 宥丸は千穂を自分の胸元へ抱き寄せるようにして、軽く鼻で笑った。「千穂は俺のことを人生唯一の救いだって思い込んでる。もし真相を知ったところで、せいぜい泣いて喚くくらいで、俺から離れられるわけがないさ。 それに、今日はただ顔見せのために連れてきただけだ。関係を公表するって騙して適当に会場を連れ回し、パーティーが始まる前に理由をつけて追い返せばいい。だからこいつには何も分かりはしないさ」 その自信満々な口調を聞いて、悪友たちは揃って親指を立てた。 「宥丸さん、マジで頭いいな!どうせこいつには何も聞こえやしないし、連れてきてもらっただけで大喜びしてんだからさ。後で『記者が嗅ぎつけてここに向かってきてる』って言えば、お前に迷惑かけたくない一心で自分から大人しく帰ってくだろ。 そのあとで七緒に告白すれば、両方とも上手く丸め込めるってわけだな。いや、マジで拾ったのが耳の聞こえない女で大正解だったよ。少しでも耳が聞こえる女だったら、こんな計画絶対にバレて台無しになってる。 あの頃、医者が『失聴は治癒できる』って言ってた時、俺たちも治療を受けさせてやれよって勧めたよな。でもあの時、お前が『耳が聞こえないなら聞こえないなりの都合の良さがある』って言った。 俺たち半信半疑だったけど、今思えばマジでその通りだった!こいつには絶対に黙っておこうぜ。一生耳が聞こえないままにしておけば、ずっとお前のそばから離れないだろ!」 第9話 宥丸は片眉を吊り上げ、「ああ、聞こえない方が都合がいい。騙しやすいからな」と言い放った。 その言葉は、一言一句漏らさず千穂の耳に届いていた。 彼女はスッと目を伏せ、瞳の奥に浮かんだ嘲りと冷ややかな色を隠した。 そう、彼女には何もかも聞こえていたのだ。 もう二度と、何も知らない耳の聞こえない女のままで、宥丸に騙され続けるつもりはなかった。 彼女の人生を照らしていた光は、すでに完全に消え去った。 今度こそ彼のもとを永遠に去り、二度と戻ることはない。 時計の針が一分、また一分と進み、やがて6時50分になった。 招待客が続々と集まり始めると、宥丸は時間を確認し、千穂の手を引いて大広間の脇の扉へと向かった。 彼は自ら千穂の耳に補聴器を着け直すと、「千穂、たった今連絡が入ったんだ。俺が恋愛関係を公表するって聞きつけた芸能記者たちが、大勢こっちに向かってるらしくて、俺は……」と切り出した。 千穂は彼の白々しい演技を静かに見つめ、彼が描いたシナリオ通りに、淡々と答えた。 「それなら、今日の公表はやめましょう。私、もう疲れたから、帰って休みたいわ」 彼女が期待通りの反応を見せたことに、宥丸は安堵の息を漏らしたが、同時にほんの少しの違和感も覚えた。 あんなに関係を公表したがっていたのだから、もっと悲しむはずじゃないのか?なぜ、これほどまでに平然としているんだ。 そう怪訝に思っていた矢先、七緒からメッセージが届いた。【もう着いたけど、どこにいるの?】という連絡だった。 彼はもはやそんな違和感に構っている余裕はなく、適当な気遣いの言葉をいくつか残して、そそくさとその場を立ち去った。 千穂は彼の背中が見えなくなるまで見送った後、待たせていた車には乗らず、ホテルの窓際へと歩み寄った。 窓越しに、満面の笑みで七緒を抱き寄せる宥丸の姿を見つめても、彼女の心にはもう何の感情も湧かなかった。 6時55分。一人の配達員が美しくラッピングされたギフトボックスを手に、大広間へと入ってきた。 「笠井宥丸様はいらっしゃいますか?ある女性の方から、誕生日プレゼントをお届けにまいりました」 宥丸は千穂からのプレゼントがホテルに届くとは思っておらず、ハッとして動きを止めた。 傍らにいた七緒はそのギフトボックスを見て片眉を上げると、躊躇うことなく勝手に包みを開けてしまった。 箱の中に入っていたのは、千穂が初めて宥丸と出会った時の、彼の横顔をかたどった水晶の彫刻だった。 このプレゼントを用意するため、千穂は2年間も彫刻を学び、ようやく本物と見紛うほど精巧な作品を彫り上げた。 それを見た宥丸は、胸の奥が激しく揺さぶられるのを感じ、手を伸ばして受け取ろうとした。 しかし、七緒が一足先にそれを手に取って弄びながら、意味ありげな口調で言った。 「宥丸、これ誰からのプレゼント?どこで買ってきたのか知らないけど、ひどく安っぽい水晶ね。本当にダサいから、捨てちゃっていいわよね?」 宥丸はほとんどためらうことなく、彼女の言う通りにした。 次の瞬間、その彫刻は七緒の手によって窓の外へと放り投げられ、まさに窓外に立っていた千穂の目の前でガシャンと砕け散った。 バラバラに砕け散った彫刻を見つめながら、千穂は固く握りしめていた手をふっと緩め、無言のまま背を向けて車に乗り込んだ。 家に帰り、荷物をまとめ終えたちょうどその時、実鈴から電話がかかってきた。 「千穂、もう家の前に着いてるわよ。出てきて」 「はい、先輩。今すぐ行きます」 千穂は頷くと、あの失聴完治診断書を手に取り、リビングのテーブルの上に置いた。 宥丸が帰ってきた時、真っ先に目に入る場所へ。 これで彼はすぐに思い知るだろう。本当は、彼女にはすべて聞こえていたのだということを。 診断書を置き終えると、彼女は荷物を手に取り、一切の未練もなく、決然とその邸宅を後にした。 彼女を縛るものは、もう何一つない。どこまでも広がる自由な世界へと、彼女は歩み出した。二度と、誰も彼女の行方を見つけることはできない。