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所詮身代わり?上等。私は別の男と結婚する
付き合って5年目、新井健太(あらい けんた)は小島茜(こじま あかね)に「一生君だけを愛し抜く」を誓い、プロポーズをした。そのプロポーズ...
Chương (1)
第1章
付き合って5年目、新井健太(あらい けんた)は小島茜(こじま あかね)に「一生君だけを愛し抜く」を誓い、プロポーズをした。そのプロポーズの豪華さは潮咲市中の話題となった。
茜は彼こそが運命の相手だと信じていた。しかし、ある時偶然、健太が友人と交わしている会話を耳にしてしまう。
「胡桃はもう結婚した。あいつと結婚できないなら、誰と結婚したって同じさ。
それに、茜は一番胡桃に似ているからな」
茜はわめくことも泣くこともなかった。静かに身の回りの物を片付けると、自分と別の男との結婚式の招待状を一通残し、健太の前から姿を消した。
しかし後日、健太は狂ったように彼女を探し回り、膝をついて「もう一度俺を愛してくれ」と懇願するのだった。
第1話
薄暗い照明の中、小島茜(こじま あかね)は窓際に座っていた。
「お父さん、お母さん。わかったわ。二人の言う通り、陣内家との婚約を受ける」
茜の声には疲れがにじみ、その瞳の奥には拭いきれない悲しみが宿っていた。
「茜、よかった。やっとわかってくれたのね。挙式はN国で行う予定よ。
招待状の準備もできているわ。見本はもう届いているはずよね?」
電話越しに、茜の両親は声を弾ませた。
「届いているわ。明日にはビザの手続きに行くつもり。2週間くらいかかるはずだから」
電話を切ると、茜はテーブルに置かれた前撮り写真に目をやった。
1ヶ月前、5年間付き合っていた恋人の新井健太(あらい けんた)にプロポーズされたばかりだった。
何百機ものドローンで夜空に様々な光のアートを描き出し、潮咲市全域で夜通し豪華な打ち上げ花火を上げて、周囲から羨望の眼差しを浴びていた。
健太は茜にプロポーズを受け入れてもらうために、自身の全財産を彼女の手に委ねるほどだった。
彼は言った。「茜、結婚してくれ。一生君だけを愛し抜くと誓う」
あの時、茜は自分こそが世界一の幸せ者だと信じ切っていた。
しかし、健太がプロポーズ成功の祝杯を友人とあげに行き、茜が迎えに行った際、彼らの会話を耳にしてしまった。
「お前、あんな大掛かりなことまでして、本当に茜と結婚する気か?まだ胡桃のこと、吹っ切れてないんだろ?」
健太はテーブルの酒を一気に飲み干すと、暗い影を落とした表情で言った。
「胡桃はもう結婚した。あいつと結婚できないなら、誰と結婚したって同じさ。
それに、茜は一番胡桃に似ているからな」
ドアの前に立ち、ドアノブを固く握りしめた茜の胸には、深く刃物を突き立てられたかのような激痛が走り、呼吸もままならなかった。
健太が彼女を見た瞬間に猛烈に言い寄ってきたあの頃、「一目惚れした、一生離さない」と口説かれた言葉が、今は酷くむなしく聞こえる。
振り返れば、すべてが皮肉としか思えなかった。
茜は届いていた小包を開けた。中には自分と別の男との、結婚式の招待状の見本が入っていた。
挙式日は3週間後。
健太と決めていた挙式日は、2週間後だった。
彼女はその招待状を箱に入れ、しっかりと封をした。
そうしてから茜は別の箱を取り出し、健太との思い出が詰まった前撮り写真をすべて詰め込むと、庭で火を放ち、跡形もなく燃やし尽くした。
「何を燃やしてるんだ?」
不意に背後で健太の不審がる声が響き、茜は振り返った。
「別に。もういらない物よ。置いといても邪魔になるだけだし、まとめて燃やしたほうがすっきりするわ」
健太は近づくと、茜の肩に自分のブランケットをかけ、慈しむような眼差しを向けた。
「冷えるだろうに、何も羽織らずに出てくるから。風邪でもひいたらたまらないよ」
茜は顔を上げて彼を見た。その瞳の中に、かすかな綻びがないか探りながら。
「何を見ているんだ?未来の旦那がこんなにかっこいいから、見惚れてるのか?」
健太は甘やかすように茜の髪を撫でた。
その時、健太のスマホが鳴った。表示を見た瞬間、彼の表情が少し強張ったが、目は何かの期待に輝いていた。
「会社からだ。ちょっと出てくるよ」
茜は画面を一瞥した。そこには中山胡桃(なかやま くるみ)の名が記されていた。
健太が電話に出て歩いていく間、茜は炎の前で静かに燃え尽きていく灰を眺めていた。
彼が茜のことを心から大切に思っていたのなら、火の中で燃えているのが彼らがかつて描いていた未来であることに気づいたはずだった。
火が消えると、電話を終えた健太が戻ってきた。隠し切れない昂ぶりが瞳に見て取れた。
「茜、急な用件で会社に戻らなきゃならないんだ。君は先に休んでいて。今夜は待たなくていいよ」
茜は準備していた例の箱を取り出し、健太の手に渡した。健太は少しだけ目を丸くした。
「茜、これは?今日は何か特別な記念日だったっけ?」
茜は穏やかな視線で彼を見つめた。
「これはあなたに贈る大事な贈り物よ。結婚式当日まで開けないでね」
その時、このサプライズを気に入ってくれるといいけれど。
健太の顔に幸せそうな笑みが広がった。
「茜、本当にありがとう。挙式当日、みんなの前で君が用意してくれたこのサプライズを必ず開けてみせる」
健太はその箱を大事そうにしまうと、茜の額に名残惜しそうに唇を寄せた。
「茜、愛してるよ」
第2話
健太が出かけた後、茜が部屋で休んでいると、机に置いてあったヘッドホンから音声が流れてきた。
健太のスマホにブルートゥースで接続されていたのだ。
「胡桃が離婚したんだ、本当によかったよ」
健太の声は、ひどく浮ついて聞こえた。
「お前、あと2週間で結婚するんだろ?胡桃が帰ってきて、茜はどうするんだよ?本命が戻ってきたら、身代わりは用済みってか?」
健太の友人が、軽い調子で茶化す。
だが健太は意に介さない。
「茜とは結婚するさ。プロポーズしたことは潮咲市のみんなが知っている。いまさらキャンセルできないよ。胡桃のことは俺が守るつもりだ。でも……」
後の言葉は聞き取れなかった。車が遠ざかり、接続が切れたからだ。
翌朝、茜が目覚めても健太は帰ってこなかった。
一階へ降りると、ちょうどインターホンが鳴った。
ドアを開けると、どこか自分に面影が似た清純な女性が、酔いつぶれた健太を抱えて立っていた。
「はじめまして。健太さんの友達の中山胡桃よ。彼が酔っちゃって、どうしても家に送ってくれって言うから」
胡桃の言い方には、どこか勝ち誇ったような響きがあった。
健太は彼女の肩に頭を預け、焦点の定まらない瞳で胡桃をじっと見つめていた。
「行くなよ……ずっと待ってたんだ、行かないでくれ」
胡桃は健太の背中を優しく撫でた。
「どこにも行かないわよ。今度はもう、離れないから」
茜は健太の襟元に、真っ赤な口紅の跡がついているのを目撃した。
胡桃はわざとらしく自分の唇をなぞり、挑発的な視線を送ってきた。
「健太さんが離してくれないのよ。だからつい、口紅がついちゃったの」
茜は目が熱くなるのを感じ、涙をこらえた。
「彼を中まで運んでくれる?私は出かけるから」
そう言って茜は家を出た。このままいれば、おかしくなってしまいそうだったからだ。
だが玄関を出たところで、車の鍵を忘れたことに気づいた。
慌てて戻り、二階へ上がると、寝室からかすかな声が漏れていた。
茜が寝室のドアの隙間から覗き込むと――
健太と胡桃が、茜が念入りに選んだベッドの上で口づけを交わしていた。
荒い吐息の中、胡桃が健太に尋ねた。
「健太、もう私が帰ってきたんだから、茜とは結婚しないでよ」
健太は何も答えない。ただ彼女の背中で手を動かし続けていた。
茜は自分の下唇を血がにじむほど強く噛み、声にならないように耐えた。
ここは二人の新居として用意した家で、茜自身が一つ一つ愛を込めて整えた場所だ。それなのに健太は今、そのベッドで別の女と行為に及んでいる。
茜はその足で会社へ向かった。プロジェクトの仕上げと引き継ぎのためだ。
着くなり、部長が茜を呼び出した。
「君が担当していたプロジェクトからは外れてもらう。本部の決定でね。新しいプロジェクトマネージャーが来る」
茜は言葉を失った。半年もの間、チームとともに身を削るようにして取り組んできた成果だ。いまは最後の試験段階、ここで外されるのはすべてを奪われるに等しい。
「どうしてですか?」
茜の表情が凍りついた。
部長はあっさりと辞令を投げるように差し出した。
辞令には、プロジェクトマネージャーとして胡桃の名前が記載されていた。
茜は爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。
胡桃が帰国する前から、健太は彼女のためにすべて手配していたのだ。
かつて茜が今のプロジェクトをやりたいと言ったとき、健太は賛成してくれた。
「茜のやりたいことは何でもサポートする。資金も機材も、全部俺に任せておけ」
当時の茜は、そんな健太を見上げて心からときめいていた。
「健太、この仕事、私にはすごく大切なんだ」
健太は茜を強く抱きしめてこう言った。
「茜にとって大切なものは、命懸けで守り抜くよ」
その甘い言葉が、いまやあまりにも空々しい。
茜は会社を足早に出るとビザの手続きへ向かい、帰宅するとちょうど健太が起きてきた。
「茜、どこに行ってたんだ?一日会えないだけで、すごく会いたかったんだぞ」
健太は茜に触れようと手を伸ばしたが、茜はそれをさらりと避けた。
「私のプロジェクト、胡桃にあげたんだね?」
健太は呆然とした。
「話を聞いてくれ。胡桃は離婚して帰国したばかりで頼る場所がない。少し助けてあげたかっただけだよ」
茜の表情が沈んだ。
「そのプロジェクトが私とチームにとってどんな意味を持つか、よく分かっているはずよね。なんでそんなことをしたの?」
茜が食い下がると、健太は不快げに顔を歪めた。
「ただの仕事じゃないか。そんなにこだわりたいなら、別の予算を用意してやるよ。
それより君はすぐ俺と結婚して、俺の妻になるんだ。これ以上出しゃばるのは、俺の面子をつぶすことだって分かってくれよ」
第3話
その瞬間、茜の心は完全に死んだ。
健太は茜の顔色が優れないことに気づくと、彼女の手を引いて優しくなだめた。
「さあ、夜は一緒に食事に出かけよう。サプライズを用意してあるんだ」
夜になり、しつこい健太の頼みに負け、茜は彼と共にフレンチレストランを訪れた。
席に着くなり、健太は待ちきれない様子でプレゼントの箱を茜に手渡した。
「早く開けて見てごらん」
茜が箱を開けると、そこには10カラットのダイヤモンドのネックレスが入っていた。
「これ、わざわざ海外で特注させたんだ。君に対する唯一無二の愛だよ」
健太がそう言い終わった瞬間、向こうからすらりとした影が歩いてきた。
「あら奇遇ね、健太さんもここにいたの!」
胡桃はセクシーなドレス姿で健太の前に立つと、しきりに首元のネックレスを触ってみせた。
茜が目をやると、彼女の首元には先ほど手渡されたものと全く同じネックレスが光っていた。
茜は冷めた笑みを浮かべた。
これが健太の言う「唯一無二」というわけだ。
胡桃はわざとらしく首を触りながら、挑発するような目つきで茜を見た。
「この10カラットのネックレスって本当に重いのね。肩が凝っちゃいそう」
様子を見た健太が慌てて言い訳を並べた。
「茜、これは単なる偶然だよ。明日、もっと大きなダイヤモンドのネックレスを特注してあげるから」
茜はネックレスをバッグに適当に放り込み、淡々と言った。
「必要ないわ」
どうせ、すぐに出て行くつもりなのだから。
食後、茜が立ち上がりトイレへ向かう際、テーブルの下で胡桃が裸足で健太の足に絡みついているのが見えた。
健太は唾を飲み込み、とろりとした目つきで彼女を見ている。
その光景に吐き気を覚え、茜はトイレに駆け込み、胃の中にあるものをすべてを吐き出した。
口元を整えて外に出ようとしたところ、胡桃が入ってきて出口を塞いだ。
「しらばっくれなくていいわよ。健太さんがくれたネックレスが、私と同じだって気づいてるんでしょ?」
茜はその言葉を聞き、表情を硬くした。
「何のつもり?」
胡桃は艶めかしく自分の首を撫でた。
「あなたはただの身代わりなの。私が帰国するまで健太さんがあなたを慰めていただけよ。私が戻った今、潔く身を引いたら?」
「心配しないで。もうすぐ出て行くから」
茜は冷ややかな目で彼女を見下した。
胡桃は当然、その言葉を信じていないようだ。
「信じるわけないじゃない。ねえ、賭けをしない?どちらが健太さんにとって大切なのか」
胡桃はそう言うと、自分から後ろへ下がり、そのまま倒れ込んだ。
次の瞬間、健太が早足で歩いてきて、彼女を抱き留めた。
「茜、何をしようとしているんだ!」
健太は怒り心頭で茜に向かって怒鳴りつけた。
「健太、茜さんが誤解していると思って釈明しようとしただけなの。まさか急に私を襲って、プロジェクトを奪ったと決めつけて……早く出て行けって言われるなんて」
胡桃は彼に身を寄せ、かよわげな姿を見せた。
それを聞き、健太の怒りはさらに燃え上がった。
「茜、ただのプロジェクトじゃないか。そんなに執拗にこだわる必要があるのか?」
健太の言葉は、鋭いナイフのように彼女の心をえぐり取った。
茜は必死に拳を握りしめ、涙がこぼれないよう顔を上げた。
「あのとき言ったでしょう、このプロジェクトは私にとって重要だって。その言葉もう忘れたの?」
健太は不快感をあらわにする。
「なんでそうやって細かなことばかりにこだわるんだ。プロジェクト一つくらい、結婚すればいくらでも好きなように与えてやるよ。
君はもう十分持っているだろう。その一つくらい、胡桃に譲れないのか?」
茜は健太の目を見た。そこにはもう、自分を愛していたかつての影さえ見えなかった。
「結構よ」
茜は一言そう言い捨て、店を飛び出した。
茜が去ると、健太に秘書から連絡が入った。
「社長、外は土砂降りです。奥様が傘もささずにいますが、車で送らなくてよろしいでしょうか?」
健太は窓の外に目をやった。叩きつけるような雨が降っていたが、その瞳には何の感情も宿っていない。
「いい。あいつは最近わがままが過ぎるんだ。俺がいなければ何もできないと思い知らせる必要がある」
第4話
大粒の雨が茜の頬を叩き、彼女は声もなく涙をこぼした。
帰宅した茜は高熱を出し、意識が朦朧とする中で、酒臭い息の健太が戻ってくるのを見た。
「茜、どうしたんだ?どこか具合でも悪いのか?」
ベッドで震えている茜を見て、健太は急いで額に手を当てた。
「熱があるな。今すぐ病院へ行こう」
健太が茜を抱き上げようとしたその時、スマホが鳴り響いた。
茜が着信表示をチラリと見る。
それは、間違いなく胡桃からだった。
健太が電話に出ると、受話器越しに胡桃の泣きじゃくる声が聞こえてきた。
「健太、どうしよう。手を切っちゃって……血がたくさん出てて……怖いの、死んじゃうのかな?」
健太の顔色から、一瞬で余裕が消えた。
「家で待ってろ!今すぐ行くから、絶対に動くんじゃないぞ!」
そう言って駆け出そうとして、ようやく高熱で寝込んでいる茜のことに気づいた。
「茜、ちょっと胡桃のところへ行ってくる。向こうが緊急なんだ。何か適当に薬を飲んで寝ていてくれ」
そして健太は、足早に去っていった。
背中を見送る茜の肌を、夜の冷たい風が容赦なく通り抜けた。
茜は気力を振り絞って起き上がり、タクシーを呼んで病院へ向かった。
診断の結果、40度の高熱が出ており、もう少し遅ければ大事に至るところだった。茜はただ自嘲気味に笑うしかなかった。
一晩点滴を受け、ようやく楽になった翌朝。薬を手に病院を出ようとした時、廊下の先に馴染み深い後ろ姿を見かけた。
健太が甲斐甲斐しく胡桃を支えている。彼女の右手の甲には、目を凝らさなければ見えないほどの小さなひっかき傷があるだけだった。
顔色の悪い茜を見て、健太は呆然とした様子で、慌てて胡桃を離した。
「茜?なんでここにいるんだ。家で待ってろと言ったろ。少しはよくなったのか?」
健太は茜の手から薬を受け取り、心配そうな顔をした。
茜は気分を害したように、そっと手を離した。
「もう大丈夫」
茜の機嫌が悪いと察した健太は、無理やり彼女の肩を抱いた。
「送って帰るよ!体調が良くなったら一緒にウェディングドレスを見に行こう。オーダーした特注のドレスが届いてるんだ」
それを聞いた胡桃の表情が、露骨に険しくなる。
「健太、私は怪我してるのに一人で帰れって言うの?すごく痛いんだけど」
茜は、放置すればすぐにでも治りそうな胡桃の傷を見つめた。
「胡桃さんを送ってあげて。私はタクシーで帰れるから」
健太は茜の手を引き、優しく摩った。
「俺の婚約者は茜だ。送るのが当たり前だろ」
そう言うと、胡桃の方へ視線を向け、冷たい口調で突き放した。
「自分で帰れ。茜を家まで送らなきゃいけないんだ」
胡桃は唇を噛みしめ、不満げに立ち去っていった。
帰り道の車内、健太は終始心ここにあらずで、着信が止まないスマホを何度も見つめていた。
着信音が鳴ると、健太は少しだけ躊躇う様子を見せた。
茜は静かに彼を見つめた。
「急用なら行ってもいいわよ。私は自分で帰れるから」
健太は茜の髪を撫でた。
「茜、本当に良い子だな。仕事が終わったらすぐ帰るよ」
健太は運転手に車を止めさせ、降りていくとすぐに流しのタクシーに乗り換えて去っていった。
彼が去るなり、茜は運転手に声をかけた。
「あの人の車を追って」
運転手は戸惑った様子を見せる。
「それは少々……」
茜は冷たい眼差しを向けた。
「心配しないで。絶対にバレないようにするわ。お金はちゃんと払うから」
運転手はようやく車を走らせた。
車が停まったのはある邸宅の前。ドアが開いた瞬間、セクシーなネグリジェを纏った胡桃が現れた。
健太が近づくと同時に胡桃が飛びつき、二人は周囲の目も憚らず口づけを交わした。
そのまま重なり合うように邸宅の中へ消えていき、扉が勢いよく閉められた。茜がこれまで彼を愛してきた心までも、扉の外に締め出されたようだった。
涙を流しながら、茜は拳を強く握りしめた。爪が手のひらに深く食い込んだ。
「このことは、絶対に健太には秘密にしておいて」
帰路の車内で、茜は念を押した。
家に戻り、茜は荷造りを始めた。ビザが下りるまであと1週間だ。
まさに洋服を詰めている最中、健太が帰宅した。
目の前のスーツケースを見て、健太の顔色が一変する。
「茜、一体何をしようとしてるんだ?」
第5話
「着なくなった服があるの。寄付しようと思って」
茜の声は淡々としていて、少しの揺らぎもなかった。
茜がそう言うと、健太はなぜかほっとした様子を見せた。
「茜は本当に優しいんだな。チャリティ活動に興味があるなら、君名義の基金を作ってあげてもいいよ」
健太が彼女を抱き寄せようと手を伸ばしたが、茜はさらりとそれをかわした。
「必要ないわ。自分でできることをしたいだけだから」
その夜、健太に連れられ出席したパーティー会場には、思いがけず胡桃もいた。
健太が仕事仲間と挨拶をしている隙に、胡桃が近寄ってきた。
「茜さん、病院からの帰り、健太さんがあなたを途中で置いていった後、彼がどこに行ったか知ってる?」
胡桃は勝ち誇ったような顔で茜の耳元に身を寄せ、声を潜めて続けた。
「あの人、私のところに来たのよ。一晩中、二人でずっと一緒だった。
彼がベッドでどんなことを言ってくれたか、聞きたい?」
茜は拳を強く握りしめた。胡桃は、茜のそんな姿を楽しそうに見下ろしながら口を開く。
「あんたなんて、ベッドの上ではマグロみたいで、少しも色気がないって、健太さんは笑っていたわ」
その瞬間、大勢の前で服を剥がされるような、屈辱に震えるしかなかった。
ちょうどその時、ケーキを一切れ手に健太が茜に向かって笑いかけていた。
「茜、君の好きなブルーベリーケーキを持ってきたよ」
健太が近づくのを確認すると、胡桃は茜の耳元でささやいた。
「健太さんがあなたと結婚するのは、私が結婚して離婚したから、自分も一度結婚して離婚すれば私と釣り合うと思っているだけよ」
茜がはっと顔を上げた拍子に、胡桃は手に持っていたグラスの中身を自分の体にぶちまけた。
次の瞬間、健太は勢いよく茜を突き飛ばした。
「茜!一体何をしているんだ!」
ハイヒールの足元がふらつき、茜は傍らのシャンパンタワーへよろめきながら倒れ込んだ。
グラスと酒が砕け散る中、茜は割れたガラスの上に倒れ込んだ。背中と腕が切れ、見るも痛ましい傷を負った。
「健太……私はただ、茜さんの具合がどうかなって声をかけただけなのに、突然彼女が……」
胡桃は健太の胸にすがり、涙ながらにか弱く泣いていた。
健太は倒れている茜を一瞥さえせず、着ていたジャケットを脱いで胡桃にかけた。
「すまない、嫌な思いをさせたな」
ようやく地上に崩れ落ちた茜に目を向けた健太は、茜の手の傷を見て一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに表情を引き締めた。
「茜、今すぐ胡桃に謝れ」
茜は這い上がるようにして立ち上がった。体中は汚れと傷でぼろぼろだった。
「私が何か悪いことをしたっていうの?」
健太の顔色が、さらに険しくなる。
「どうしてそんなに聞き分けがなくなったんだ?最近、君はずいぶんわがままだな」
周囲のひそひそ話が耳に届く。
「あれ、健太さんよね?奥様大好きで有名だったはずなのに、何があったの?」
「あの子なんて、胡桃さんの代わりをしていただけだからね。所詮は捨て駒ってことよ」
「ひどい話……もし私が彼女なら、絶望して飛び降りちゃいそうだわ。自分の婚約者が別の女のために自分を突き飛ばすなんて」
胡桃は嘲笑を浮かべ、勝者として茜を見下ろした。
その目は、「あなたの負けね」と物語っていた。
茜は、最後まで自分のために一言も弁解しようとしなかった健太を見つめ、自嘲の笑みをこぼすと、傷ついた足を引きずりながら会場を後にした。
その背中を見つめる健太は、何かが自分の支配から抜け出し始めたのを感じて、動揺に駆られた。
……
茜は一人病院で手当を受け、帰宅したところで友人・内田菫(うちだ すみれ)からの電話に出た。
「茜!大変よ!
今日のパーティーでの動画がネットに流れて、ツイッターで今トレンドの1位になっちゃってるわ」
心身ともに疲労困憊の茜には、どうでもいいことだった。
「もう……好きにさせておけばいいわ」
疲れていたのだ。
菫は怒りのあまり、声を張り上げた。
「何言ってんの!みんな『あなたが健太と胡桃の間に割って入って二人を別れさせ、胡桃を海外に追いやった』って騒いでるのよ」
その言葉に慌てて茜はスマホのツイッターを確認した。
自分の名前がトップトレンドに居座っていた。
#新井健太・中山胡桃破局騒動
#小島茜略奪女
#小島茜泥棒猫
コメント欄は大炎上していた。
【健太さんと付き合ってるから応援してたのに、実際は略奪愛かよ】
【どの面下げて胡桃さんに嫌がらせなんてしてるの?健太さんがちゃんと胡桃さんを守ってくれてよかった】
【あの気取った雰囲気は猫かぶってただけかよ。裏では一番の悪党じゃん】
コメントを読む茜の手に、次第に力がこもった。
「あれは完全に責任転嫁じゃない。絶対に胡桃が裏で手を引いているわ」
電話越しの菫の声は遠ざかり、茜は何も頭に入ってこなくなった。
テーブルには二人が何年もかけて各地を旅してきた記録のアルバムがあった。
茜はそのアルバムを開き、ハサミで二人の写真を次々と切り離していった。
残ったのは健太一人の姿だけ。その後、彼女は自分の分をすべて燃やし尽くした。
第6話
後片付けをしようとしていたとき、健太が戻ってきた。茜が持っているハサミを見て、彼はきょとんとした。
「何をしていたんだ?」
茜は静かにハサミをしまった。
「ゴミを捨てただけ」
それを聞き、健太は少し安堵した顔をして、茜の横にしゃがみこみ、傷の残る彼女の手をそっと取り、確認した。
「茜、最近の君は少しわがまますぎるよ。今日のことも、急にいなくなって恥をかかされたんだぞ」
茜は黙ってスマホを開き、ツイッターを確認した。
「これについて、説明して」
健太は一瞬言葉に詰まり、動揺した表情を見せて画面を閉じた。
「今のメディアなんて、都合のいいように書き立てるだけだ。気にするな。君は、俺の花嫁になる準備だけしていればいい。
明日は、ウェディングドレスを見に行こう」
夜が明け、翌朝早くから健太に連れられて、二人は高級ウェディングドレスショップを訪れた。
店に入る前に健太へ会社から電話が入り、茜は先に一人で店に入った。
スタッフがドレスの元へ案内しようとしたとき、試着室のドアがゆっくりと開いた。
胡桃が、宝石を散りばめた特注のドレスに身を包んで出てきたのだ。
茜は胡桃が自分のために用意されたはずのドレスを着ているのを見て、眉をひそめた。
「なぜここにいるの?」
胡桃は、ドレスの裾を整えながら言った。
「当然、健太さんに呼ばれたからよ。サイズもあなたより私の方がぴったりだし、その貧相な体つきじゃ健太さんも興ざめでしょう?」
ちょうど言い終わったところで、電話を終えた健太が入ってきた。胡桃を見た健太は一瞬固まり、茜の目には、彼の瞳に見惚れたような色がはっきりと映ったが、すぐさま彼は表情を取り繕った。
「胡桃、なぜここに?これは茜のためにオーダーしたドレスなんだぞ。勝手に着るな!」
しかし、胡桃は平然としていた。
「健太、このドレスは私にこそ似合っていると思わない?寸法もデザインも、まるで私のためにあるみたい。まさか、最初から私のサイズで注文したんじゃないでしょうね?」
そこへ店員が、健太が渡したサイズ表を持ってやってきた。
「新井様、こちらが承ったサイズ表でございます。ご指示通りに仕立てました」
健太は慌てたように言った。
「サイズが合ってるならもういい、見なくていい」
茜はそれを見て、そこに書かれた数字を目の当たりにした。
それは自分のサイズではなかった。
つまり、最初から胡桃のサイズに合わせて作られていたのだ。彼が結婚したかったのは、ずっと彼女だったということだ。
茜は、大勢の前で平手打ちを食らったかのような屈辱で、顔がひりつく思いだった。
「茜、とりあえずドレスを試着してみよう。サイズに修正が必要なら、明日までになんとかできるから」
健太は茜の腰を抱き寄せたが、彼女は微動だにしなかった。
「もういい。他人が着たドレスなんて興味ないわ」
茜はそのまま背を向け、店を出て行った。
健太は急いで彼女を追いかけた。
「茜、いい加減にしてくれ!明日は結婚式だぞ、なんでわざわざ今こんなことをするんだ?」
茜が彼を見る目は、どんどん冷めていく。
「もう、いいわ……」
何も言い返す前に、試着室から胡桃が真っ青な顔をして飛び出してきた。
「健太、お腹が痛いわ!」
健太は胡桃と茜を見比べ、結局胡桃のもとへ走り出し、彼女を抱え上げた。その直前、茜を見てこう言った。
「家で待っててくれ。明日は絶対に最高の結婚式にしよう」
去っていく健太の背中を見つめながら、茜は小さく呟いた。「もう、私たちに明日は来ないわ」
茜はすでに海外への渡航手続きを済ませていた。ビザを受け取ると、彼女はかつて二人で暮らしていた家に戻った。
荷物をまとめ、健太への贈り物をテーブルの上に置いて、彼女は迷いもなく部屋を出た。
その晩健太は帰宅せず、翌朝になって、ようやくウェディングカーを連ねて茜を迎えに行った。
扉を開けて中へ入ると、家の中はがらんとして、恐ろしいほど静まり返っていた。
「茜?」
胸騒ぎがした健太が慌てて二階の寝室へ上がると、茜の私物は全て消えており、クローゼットの中までもが空になっていた。
健太は階下に駆け降り、何度も彼女の携帯に連絡したが、応答はなかった。
そのとき、彼はテーブルの上に置いてある小さな箱に気づいた。
それは茜がくれた新婚祝いの贈り物だった。
健太は嬉しそうにその箱を手に取り、ゆっくりと開けた。
中に入っていたのは、一通の結婚式の招待状だけだった。