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夫の不倫相手に殺された私が、蘇って復讐した
藤原渚(ふじわら なぎさ)が亡くなってから3年。その墓参りに向かっていた山口晴香(やまぐち はるか)は、途中で突然めまいを起こして倒れて...
Chương (1)
第1章
藤原渚(ふじわら なぎさ)が亡くなってから3年。その墓参りに向かっていた山口晴香(やまぐち はるか)は、途中で突然めまいを起こして倒れてしまい、同行した山口聡(やまぐち さとし)はすぐに救急車を呼んだ。
晴香が目を覚ますと、医者は晴香が膵臓がんで、余命1か月だと告げた。
医者の提案で心臓ドナーの同意書に署名した晴香は、それが聡の仕組んだ罠だと知ることになる。
聡は初恋の相手である渚の妹を救うため、医者を唆して晴香に末期がんだという嘘をつき、ドナーになるよう仕向けたのだ。
渚の死は自分のせいだと思い込んでいた晴香は、聡の嘘に気づいていながらも、罪滅ぼしのために彼が医者に用意させた致死性の薬を毎日欠かさず飲み続けていた。だがある日、渚の死が自分とは無関係だったことを知った。
ならば、もうこんな薬なんて飲むものか。この心臓も、誰にも渡さない。
第1話
藤原渚(ふじわら なぎさ)が亡くなってから3年。その墓参りに向かっていた山口晴香(やまぐち はるか)は、途中で突然めまいを起こして倒れてしまい、同行した山口聡(やまぐち さとし)はすぐに救急車を呼んだ。
晴香が目を覚ますと、医者は晴香が膵臓がんで、余命1か月だと告げた。
膵臓がん。それは、容易に受け止められるものではなかった。
患えば激しい苦しみを伴うと聞くが、晴香にはまったく実感がなかった。
医者は臓器提供の同意書を静かに差し出し、親身なふりをしてこう言った。「とても難しいお話かもしれませんが……臓器提供という形で、他の方の治療に役立てる道もございます。この病院には、来月心臓移植を待っている患者さんがいらっしゃいます。ご本人の意思があれば、心臓をご提供いただくこともできます」
晴香は同意書を受け取ったが、移植を受ける相手の詳しい情報を見つけられなかった。
しかし彼女はほとんど躊躇することなく、同意書のサインをした。
「誰かのためになるのなら、私の心臓を使ってください」
晴香のサインを見た医者は、驚いたように口を開けたが、結局何も言わなかった。
彼には知る由もない。晴香は死ぬ前に償いをしようとしただけなのだ。
かつて一人の命を奪ってしまったのなら、死ぬ前に一人を救いたい。それが晴香の思いだった。
病院で死を待つ間、微睡む意識の中で、晴香は聡と医者の会話を耳にしてしまった。
「その点滴、あとで確実に命取りになるやつだよな?」
医者は点滴を手にしたまま、どうしても手を下せずにいた。
「山口社長、本気ですか?藤原さんを助けるために、奥様を膵臓がんだと騙し、毒が混ざった点滴で少しずつ殺すなんて……あまりに可哀そうです」
だが聡の声はどこまでも冷たかった。
「莉子は心臓移植を待っている。そして晴香は昔、渚を死に追いやった。その責任を考えれば、渚の妹を救うことで償うべきじゃないのか」
胸に引き裂かれるような痛みが走り、全身の血の気が一瞬で引いた。
起き上がって問いただす力もなく、腕に小さな針が刺さるような感覚が走り、晴香は意識を失った。
これまでろくに眠れなかったのに、毒を盛られてからは、泥のように深い眠りに落ちるようになった。
今夜、晴香は夢を見た。
親友の渚といた夢だった。
一緒に郊外に遊びに行くと約束した日。晴香は待ち合わせに急いだせいで自転車で転んで怪我をしてしまった。
病院で手当てを終え、渚のもとへ向かおうとしたその時だった。
渚が不幸な出来事に巻き込まれたという連絡が入った。
渚は複数の男に襲われ、そのショックで屋上から身を投げようとしているという。
知らせを聞いて駆けつけた晴香は、屋上で必死に渚の腕を掴んだが、死を願った渚に振り払われてしまった。
渚が飛び降りたその瞬間、晴香は絶望して叫んだ。「渚!」
聡が駆けつけ、晴香の首を絞めて問いただした。なぜ渚を助けなかったのか、なぜ自分を独り占めするために、自分の愛する女性を殺したのか、と。
後になって晴香は知った。渚は自殺する前に、聡にメッセージを送っていたことを。
【穢れてしまった私は、もうあなたに相応しくない】と。
そして、【晴香こそがあなたを一番愛しているのだから、彼女と一緒にいるべきだ】と告げていたのだ。
こうして聡と結婚はしたものの、幸せだと感じられる日は一日もなかった。
形式上は妻という肩書きこそあったものの、聡の愛情は全て、渚の双子の妹である藤原莉子(ふじわら りこ)に注がれていた。
そして今、莉子のために聡は嘘の診断結果を用意し、晴香の心臓を手に入れようとしている。
目覚めると、晴香の頬には涙が伝っていた。
枕元にいた聡が、いままで自分に向けたことのない優しい表情をしていた。
「どうした?悪夢でも見たか?」
彼はハンカチを取り出し、優しく晴香の涙を拭ってくれた。
それでもなお、晴香の体の震えは止まらなかった。
以前に入院した時は、聡は見舞いにさえ来なかった。
それが今、毒が効いているか確かめるために、わざわざベッドの隣で見守るなんて。
「目が覚めたな。点滴を変える時間だ」
晴香は眉間にしわを寄せた。自分が今起きたばかりなのに、医者を呼んで毒を盛らせようとするのか。
まるで一刻も早く莉子のために死んでくれと言っているようだった。
第2話
「聡、退院してもいい?」晴香はなんとか起き上がり、懇願した。「どうせ助からないの。死ぬ前にずっと病院にいるのは嫌」
「だめだ!病院で大人しくしていろ!」
疑念を抱かせないように、聡はふと晴香を見やり、珍しく穏やかな口調でなだめた。「ほら。病気なんだから、点滴をちゃんと打たないと辛いまま死んでしまうぞ」
晴香は心の中で笑った。点滴を打たないと死ぬのか、それとも打つと死ぬのか?
「どうせ死ぬんだから同じことじゃない?点滴じゃなくて薬じゃダメかしら。家に帰ってからもちゃんと時間通りに飲むから」
聡が医者と目配せをすると、医者はすぐに頷いて言った。「山口社長、奥様がそうおっしゃるなら、点滴を薬に切り替えましょう。帰宅して服用してください」
「わかった。なら、家でちゃんと薬を飲むんだぞ」
聡は晴香の胸元に、自分の手のひらを重ねた。
「どうだ?一晩経って、ここは辛くないか?」
聡に触れられ、晴香は全身がこわばるのを感じた。
「辛くないわ」
「そうか」
聡は安堵したように頷いた。
晴香にはわかっていた。聡が確認しているのは、彼が医者に用意させた点滴が、莉子に移植する心臓に影響を及ぼすかどうかだ。
莉子への愛は、やけに深いのね。
帰宅すると、莉子が不満げに駆け寄ってきて、聡の腕に飛び込んだ。
「聡さん、やっと帰ってきた。寂しかったわ」
莉子の面影は渚に似ていたが、性格はまるで正反対だった。
甘えん坊で、やけにべったりなのだ。
それでも聡は莉子を溺愛し、渚に注ぐことのできなかった愛情を、全て莉子に向けていた。
聡は莉子の手を引いて言った。「待たなくても、ちゃんと戻ってきただろ?飯は食べたか?心臓は辛くないか?」
「最初は辛かったけど、聡さんの顔を見たら治っちゃった」莉子は晴香を一瞥すると、顔をしかめた。「なんで晴香さんが帰ってくるの?病気で死ぬんじゃなかったの?」
「放っておけ。先に食事にしよう」
聡に寄り添って歩きながら、莉子が文句を言った。「聡さん、もしかして後悔してる?晴香さんの心臓で私を助けるのをやめたから、それで家に連れ戻したの?」
「そんなわけない。ちゃんとお前を助ける。晴香の心臓は間違いなくお前のものになるから安心しろ」
「聡さん、私すごく怖いの」
「大丈夫だ。お前には辛い思いを一つもさせない。誓うよ」
二人の声は小さかったが、晴香にははっきりと聞こえていた。
背中越しに見る聡の姿に、胸が締め付けられる。
ずっと好きだったけれど、これでようやく諦めがついた。
部屋に戻ると、晴香は荷物をまとめ始めた。
聡と結婚して3年。荷物はそれほど多くなかった。
結婚したその日に、聡は莉子を家に連れて帰ってきたのだ。
それ以来、莉子のほうがこの家の主人らしく振る舞い、晴香のほうはまるで雇われた家政婦のように暮らしてきた。
晴香のせいで莉子が少しでも不機嫌になれば、聡は冬の庭で晴香を一晩中跪かせた。
莉子が病気になると、晴香は寝ずに看病をしないといけなかった。
外出先では、莉子に彼女の荷物を持たされた。
結婚記念日でさえ、聡はいつも莉子と過ごしていた。
晴香が一生懸命準備したプレゼントに、見向きもしなかったのだ。
これまでのすべてに、晴香は不平ひとつこぼさなかった。
渚の件の罪滅ぼしをしなければならないと、ずっと自分にそう言い聞かせてきたのだから。
まさか、聡は自分の罪が、死ぬことでしか償えないと思っているなんて。
それなら、その願いを叶えてあげる。
第3話
寝る前、聡が晴香の寝室に入り、ベッドで一緒に横になった。
「薬は飲んだか?」
薬を飲む時間になったばかりなのに、聡は部屋に入ってきてそう確認してきた。
晴香は聡に背を向け、こみ上げてくる悲しみを必死に抑えた。
「飲んだわよ。信用できないなら、あなたの目の前でもう一回飲んで見せようか?」
聡は少し呆気にとられ、「そんな、決められた量の薬しか飲んじゃいけないだろ。俺はただ心配しただけだ」と言った。
心配?一緒に過ごした間、彼がいつ自分に心配したことがあったというの?
高熱を出して死にそうになった時だって、見向きもしなかったくせに。
薬のせいか、胃の奥に不快感が広がり、口の中には血の味が滲んだ。
晴香はベッドから懸命に起き上がり、洗面所へ駆け込んだ。
便器に突っ伏して吐き出すと、大量の鮮血が便器の中を真っ赤に染め上げた。
この光景を前に、晴香は毒の影響が現れ始めたのだと悟った。
「大丈夫か?どうして血をそんなに吐いたんだ?」
後を追ってきた聡は、晴香が吐き出した鮮血を見て、ほんの一瞬だけ動揺を見せた。
晴香は冷静に水を流すと、口元を拭いて力なく笑った。「なんてことはないわ。膵臓がんだもの、吐血なんてきっとよくあることよ」
そう言うと、晴香はベッドに戻って再び目を閉じた。
聡はその背中を、複雑な表情で見つめていた。
「そうだ。明日、莉子が登山に行きたいって言ってる。昔お前は登山が好きだったから、一緒にどうだ?」
「いいわよ」
晴香は断ることもなく、頷いてから、激しい痛みを堪えながら眠りについた。
翌朝、3人は身支度を済ませ、まだ道が整備されていない山へと向かった。
莉子も登山好きだった。観光地として人気な山ではなく、あえて整備されていない郊外の山に登りたがるのだ。
莉子に甘い聡は、彼女を止めることなくそのまま一緒に山を登り始めた。
最初は足場も安定してて、二人は談笑しながら歩みを進めていた。晴香は大きな荷物を抱え、その後ろをついていった。
いよいよ道が険しくなると、聡が莉子を止めた。「莉子、この先は危ない。体調が良くなったら、また今度来よう」
「やだぁ」莉子は聡の袖を引っ張って甘えた。「この先のところにすごくきれいな滝があるんだって。どうしても見たいの!」
莉子に弱い聡は、彼女を連れてさらに先へ進んだ。
彼は手にした道具で道沿いの藪を払い、莉子が安全に通れるようにした。
しかし、そのあとを追う晴香の足首はすでに痛々しく傷んでいた。
ようやく崖の上に辿り着くと、水のせせらぎが耳に届き、莉子がはしゃいだ。「聡さん、見て!すっごくきれいな滝よ!」
莉子が嬉しそうに聡へ大きく手を振った瞬間、手首のダイヤモンドのブレスレットが外れ、少し先の崖下の木の枝に引っかかった。
「聡さん、あのブレスレット……お姉ちゃんの遺品なの」
そう言って下へ下りようとした莉子を、聡が慌てて引き留めた。
「やめろ、危ないぞ」
聡は晴香に視線をやり、「お前は学生の頃は登山部の部長だったよな。下りて取ってこい」と言った。
晴香は、目の前の男を信じられないという思いで見つめた。
自分が?これほど危険な崖から下りて、木の枝に引っかかったブレスレットを取ってきてほしいと言うのか?
自分の命は、あのブレスレットよりも軽いの?
莉子は目を細めて、満足げに微笑んだ。
「晴香さん、お願いしてもいいかしら?私にとって、あれがすごく大切なものだって知ってるでしょ?」
「何をためらっているんだ?晴香、お前は自分が藤原家に借りを作っていることを忘れたわけじゃないよな。渚の遺品だ、必ず取ってこい!」
冷たい聡の声が耳元に響き、晴香はゆっくりと頷いた。「わかったわ。取ってくる」
第4話
晴香は登山用のロープを腰に巻き、慎重に崖を下りていった。
一歩踏み外せば命を落としかねない難所だというのに、崖の上の二人は談笑していた。
指の爪の間からは血が滲み、ロープを握りしめる手にはすでにひどい痣ができていた。
顔を上げて見ると、聡と莉子はすでに米粒ほどの大きさにまで遠ざかっていた。
「晴香さん、気をつけてね!落ちちゃダメだよ!」
「晴香、そのブレスレットを取ってくるまで、上には戻ってくるな!」
聡の言葉に、胸が抉られるように痛んだ。
足元の石が崩れ落ちていくのにも関わらず、晴香は必死に手を伸ばし、目の前のブレスレットを掴もうとした。
しかし、頼りない枝に引っかかっていただけのブレスレットは、あっけなく目の前で谷底へと落ちていった。
「ああっ、聡さん、晴香さんがブレスレットを落としちゃった!」
莉子はわざとらしく悲鳴を上げると、すぐに泣き出した。
聡は崖下の晴香に向けて怒鳴り散らした。「晴香、わざとやってるのか?お前はクライミングが一番得意だったはずだろ?谷底に落としたのなら、飛び降りて拾ってこい!」
「ダメだよ、聡さん。危険すぎるよ」
「こいつはクライミングの大会で優勝したことがあるんだ。死ぬなんて心配することはない」
二人の会話が遠のいていく。晴香はそっと目を閉じ、今まで感じたことのない悲しみに襲われた。
晴香が聡と出会ったのは、大学2年生の時だった。
当時、晴香は大学の登山部の部長を務めていて、聡と藤原姉妹はその部の部員だった。
あの頃は、いつもみんなで一緒に山登りに出かけていた。
ある冬の夜。山でキャンプしていた時に、聡は渚を喜ばせるために木の実を探しに行き、道に迷ってしまったのだ。
暗闇の中、命懸けで聡を探し出したのは晴香だった。
聡を見つけた時、彼は高熱を出して地面に倒れ込み、自力で立ち上がることもできない状態だった。
晴香は彼を必死に抱えて近くの洞窟に運び込み、徹夜で看病をした。
夜中にはイノシシが洞窟に入り込み、彼女は身を挺して聡を守った。
目を覚ました聡は、「この恩は必ず返す」と誓ったのだ。
その頃から、晴香は聡に淡い恋心を抱いていた。
でも、聡が渚を好きなことも知っていた。渚と晴香は親友だったから、晴香はその気持ちを一生隠すと決めていた。
しかしそのあと、不慮の出来事がきっかけで、渚が身を投げることになるとは想像もしていなかった。
渚が亡くなってから、晴香と聡の間にどうにも埋まらない距離が生まれてしまったのだ。
あたりはすっかり暗くなり、冷たい風が吹き荒れている。
迷っている時間はなかった。晴香はロープを握りしめ、トゲだらけの茂みを抜けて崖の底まで下りた。
ブレスレットは崖の底を流れる小川の対岸にあったから、晴香は水を渡るほかなかった。
突き刺すような冷たさが足首を襲い、思わず身をよじるほどの痛みが走った。
それでも晴香はためらうことなく、凍える冷たさを我慢して、ブレスレットを拾い上げた。
手に取った瞬間、晴香は愕然とした。それは渚の遺品なんかではなかったのだ。
ただの、どこにでもあるような安いアクセサリーだった。
あまりにも惨めで哀れな自分に、思わず笑いが漏れた。また、莉子に騙されたのだ。
傷だらけの体を引きずりながらも、晴香は深く息を吸い込み、力を絞って崖を登り始めた。
何度も息を整えながら登り、ようやく崖の上へとたどり着いた。
全身が傷だらけで、激痛が晴香を襲った。
傷の手当よりも先に、彼女はあたりを見渡して聡と莉子の姿を探した。
だが、二人はどこにもいなかった。
「聡……よくもこんなことができるのね」
闇に包まれた山の中、疲れ果てて地面に崩れ落ちた晴香はスマホを取り出したが、圏外だった。
この時、彼女は言いようのない絶望を感じた。
せめて、自分が戻るまで待ってくれるくらいの情は、聡にもあると思っていたのに。
でもその期待は間違っていた。莉子が自分の心臓を必要としていなければ、聡にとって自分など、この山で命を落としたって構わない存在なのだろう。
第5話
落ち着きを取り戻した晴香は、自力で下山しようと決めた。
すると道の途中で、どこからか莉子の声が聞こえてきた。
聡と莉子はこの場所でキャンプをしているらしく、焚き火の明かりに照らされて、テントの中に二人の影が映っていた。
二人は抱き合いながらキスをして、莉子のあえぎ声が大きく響いた。
「聡さん。晴香さんは大丈夫かしら?私、彼女の心臓が必要なのに。もしものことがあったらどうしよう?」
「安心しろ。大丈夫さ。あいつのような図太い女なら、どんな劣悪な環境でも生き延びる。お前や渚とは違うんだ」
冷たい風が吹き荒れて、晴香は心臓から全身へ、氷のような冷たさが広がっていくのを感じた。
彼女はテントの外で一晩中座り、二人が睦まじく交わる吐息をずっと聞き続けていた。
夜が明けると、莉子のほうが先にテントから出てきた。
晴香の姿を見つけると莉子は悲鳴を上げ、晴香の背中を勢いよく蹴りつけた。
「きゃあっ!バケモノ!」
今の晴香は、確かに化け物のような見た目だった。
髪はボサボサで、体は傷だらけだった。
真っ白なワンピースに着替えた清楚で美しい莉子に比べると、目を覆いたくなるほど哀れな姿だった。
「どうしたの、莉子?」
聡がテントから顔を出した。晴香を見ると、眉間にしわを寄せ、その瞳の奥には言いようのない複雑な感情が走った。
「お前……」
莉子の蹴りはあまりにも痛かったが、それでも晴香は立ち上がった。手のひらにブレスレットを乗せ、莉子に差し出した。
「拾ってきたわよ。でも、これは渚の遺品なんかじゃない。私が間違っていなければ、これはどこにでも売ってあるような安物よ」
まさか晴香が本当に拾ってくるとは思わず、莉子は気まずそうに言った。
「あっ、私が勘違いしていたみたい。落ちた時に、ついお姉ちゃんの物だって思っちゃったの」
聡は目を伏せた。これほどひどい晴香の姿を見るのは初めてだったのだ。
「一晩何も口にしてないのか?」
少しばかりの後ろめたさがあるのか、聡が晴香を気遣うように声をかけた。
晴香は死んだ目で、ポケットから薬を取り出した。「薬のこと?今飲むわ」
晴香の言葉を聞いた聡は、とっさに彼女に駆け寄り、手の中の錠剤を払い落とした。
「正気か?薬の話なんかじゃない。ご飯は食べたのかと聞いているんだ、腹が減ってるんだろ?」
聡は荷物からビスケットの袋を取り出し、晴香の方へ放り投げた。
「ここで死なれると困る。早く食え」
莉子は呆気に取られて聡を遠くの方に引っ張った。「聡さん、どうして晴香さんにその薬を飲ませないの?もしかして後悔してる?彼女のことが好きになったの?もう私を助けてくれないの?」
聡は頭を左右に振った。「違う。ただ、彼女は弱まってるんだ。そんな時に毒のある薬なんて飲んだら、何が起きるか分からないだろう」
「本当?嘘じゃないよね……ごめんなさい、わざとじゃなかったの。お姉ちゃんの遺品じゃなかったと知っていれば、晴香さんに拾いに行かせたりしなかった。聡さんも知っているでしょ?私はそんなに意地悪な女じゃないわ」
「ああ、分かっている」
聡は莉子を抱きしめたが、その視線は晴香へと向けられていた。
すると、晴香がビスケットの袋を破ろうとした途端、その場でぐったりと倒れ込む姿が目に入った。
聡は莉子を突き放し、狂ったように晴香の元へ駆け寄った。
「晴香!」
晴香の体は焼き付くほど熱かった。高熱が出ているのだ。
全身の傷口は炎症を起こし、脚はひどく腫れていた。
「晴香、目を覚ませ!」
聡は晴香を抱き上げ、無我夢中で山道を駆け下りた。背後で莉子が必死に呼んでいても、そんな声など耳に入らない様子だった。
意識が混濁する中、晴香は自分が移動していることを感じ取った。
かろうじて目を開けると、そこには聡の凛々しい顔が見えた。
「ふふ、私はきっとおかしくなったのね」晴香は弱々しく笑った。きっと自分は正気じゃないはずだ。これが現実なら、こんなに聡が必死に自分を助けるはずがない。
ついに晴香は力尽き、意識はそのまま闇へと沈んでいった。
第6話
山口家。
診察を終えた医者が静かに告げた。「奥様の容体は非常に悪いです。例の薬は、もう飲ませない方がいいでしょう」
「しかし、莉子の心臓が……」
聡はベッドの上の晴香を見やり、言い淀んだ。
「山口社長、本当のことをお伝えします。藤原さんの病状はそこまで深刻ではありません。奥様を犠牲にしてまで、心臓を移植する必要はないはずです」
「考えておく」
医者が立ち去った後、聡はベッドで苦しげに瞼を閉じたままの晴香を見つめ、黙り込んだ。
「大丈夫だよ、聡。きっと大丈夫だから」
眠っていたはずの晴香がふいに口を開いたのを見て、聡は慌てて彼女の傍らに座った。
「晴香?」
「聡、あなたを絶対守るから」高熱でうなされているのか、晴香は途切れ途切れに呟き続けていた。「あのイノシシ、私が追い払うから、怖がらなくていいんだよ。
聡、昔の約束。恩を返すって言ったこと、まだ覚えてる?」
その言葉が、聡に過去のことを思い出させた。一度だけ、晴香に助けられたことを。
確かに恩返しをすると約束したのに、今、自分は一体何をしているのか?
「聡さん」
傷だらけの莉子がドアの向こうから現れ、泣きながら訴えた。「もう私のこと、見捨てるの?」
「どうしてそんなことを?」
「だって、山を下りる時も私を放っておいて晴香さんばかり構っていたじゃない?後ろから何度も呼んだのに無視するから、私、すごく悲しかった」
莉子が自分の体にできた傷口を聡に見せた。それは痛々しく、目を背けたくなるようなものだった。
聡の胸に、罪悪感が突き刺さる。「すまない。お前の手術のために晴香を死なせないようにしているだけだ。それ以上の感情なんてない。不安にさせるつもりはなかったんだ」
「ねえ聡さん、昨夜お姉ちゃんの夢を見たの。血を流してボロボロになったお姉ちゃんがすごく苦しそうにしていたの。もしあの時、お姉ちゃんが命を絶っていなかったら、今ごろきっと幸せだったはずなのに」
その一言で、聡の押し殺していた憎しみが再び燃え上がった。
「ああ、渚の死は痛ましいものだった」
「それと、昨日帰ってきたらお姉ちゃんのブレスレットが無くなってて。昨日私がつけていたのはそれなのに!晴香さんは私が別の安物をつけていたって言いがかりをつけてくるの!お姉ちゃんの遺品が山で見つからなかったことがバレるのが怖いからって!」
「晴香!」
その瞬間、聡は理性を完全に失った。
彼はボディーガードに冷水を汲んでこさせると、ベッドに伏せる晴香の頭から容赦なく浴びせた。
冷たさに驚き、晴香が目を見開いた。
「聡!」
「いい加減にしろ!よくも渚の遺品を失くしたな。それどころか嘘まで吐くなんて、死んで当然だ」
聡は晴香の腕を掴み、床へと力任せに引きずり下ろした。
「晴香、これほど救いようのない女だったとはな!」
腕をねじられ、あまりの激痛に晴香は息を呑むことしかできなかった。
間髪入れず、聡はボディーガードに毒薬の瓶を持ってこさせた。
「薬だ、3錠飲ませろ」
「えっ?」
医者が「1日に1錠」と言っていたことを思い出し、晴香は震えながら首を振った。
これ以上飲めば、死期を早めるだけだ。
そんなに、聡は自分を殺してしまいたいのか?
「ダメ、聡、お願いだからやめて!」
強引に顎を固定され、晴香は抵抗ができないまま、口の中に錠剤を無理やり流し込まれた。
薬を飲み込むと、晴香は床に這いつくばって激しく咳き込んだ。
「ゴホッ……ゴホッ……」
苦しむ晴香を見て、莉子は唇の端を吊り上げて微笑んだ。
晴香の目から涙が溢れ出る。全身の隅々に、言葉では言い表せない激痛が走る。
腹部を灼けるような痛みが襲い、次の瞬間、鮮血が口から噴き出した。
飛び散った血が、聡の頬を汚す。
彼は表情を変えないまま、指先でその血を拭い、「晴香、今日起きたことは全て、自業自得だ」と言い捨てた。
彼は冷たい言葉を残し、振り返ることなくその場を去った。
第7話
莉子はボディーガードに部屋の鍵を閉めさせ、晴香を見下ろした。
「やだやだ、本当に哀れね!
聡さんはどうして、あなたにこんなことができるのかしらね。晴香さん、さっき彼があなたに飲ませたものが何か分かる?毒よ。あなたを殺すための毒。あと数日しかもたないだろうね。もうすぐ死ぬのよ」
晴香は苦悶の表情で目の前の女を睨みつけた。「莉子、人の心がないのね。あなたなんて、渚の足元にも及ばないわ」
「黙りなさい!」
莉子は晴香の腹を蹴りつけた。「確かに私はお姉ちゃんには敵わないわ。お母さんにまで、お姉ちゃんはいい子だけど、私は生まれつき性格が最悪だって言われてるもの!お姉ちゃんの方が先に死んで当然よ。私と同じ男を好きになったんだから!」
莉子は鼻で笑い、ベッドの端に座った。
「もうすぐ死ぬあなたに、教えてあげようか。お姉ちゃんを襲ったあの男たち、実は私が手配したのよ」
「何を言っているの?」
晴香は信じられない思いで莉子を見た。「莉子、どうかしてるの?渚はあなたの姉よ!」
「それがどうしたっていうの?私の男を奪おうとしたんだもの。死んで当然よ!聡さんの瞳にはお姉ちゃんしか映っていない。だから、消えてもらう必要があったの!」
「なんてことするの。頭がおかしい!」晴香は苦痛に耐えながら叫んだ。「あなたがやったことを聡に話したら、どうなるか考えないの?」
莉子は軽蔑するように笑った。「聡さんが信じると思う?教えてあげる、彼はずっと、襲わせたのはあなただと疑っていたのよ!何年もの間、あなたの命でお姉ちゃんの命を償わせたくて仕方なかったんだから!」
どうりで、この数年間、聡の自分に対する憎しみが日々増していくわけだ。
あの時、渚が複数の男に襲われた事件、あの人たちは実は自分の差し金だと聡が疑っていたなんて。
心が冷めきった。晴香はずっと、あれは不慮の事故だと思っていた。まさか、黒幕が莉子だったとは。
この真相だけは、何としてでも突き止める必要がある。
「莉子、絶対に許さない!」
「そんなことを言えるくらい生きていられるかしらね」
莉子は肩をすくめた。「晴香さんは私よりもよっぽど可哀想ね。死んだお姉ちゃんは少なくとも聡に愛されていた。じゃああなたは?結婚して3年、聡さんが何度触れてくれた?彼は私が体調の悪い時しかあなたと会わないのよ。あなたはただの鬱憤晴らしの道具に過ぎないの。
そうそう、あなたがサインしたあの臓器提供の同意書、提供先は私よ!安心して。あなたの心臓で、幸せに生きるから」
莉子の言葉は一言一句が胸を抉るようで、晴香はついに耐えきれず、その場に崩れ落ちた。
目が覚めたとき、床の上で倒れたままだった。そして部屋に莉子の姿はなかった。
辛い体を動かして時計を確認すると、深夜1時を回っていた。
「莉子、私の心臓なんて絶対に渡さない。散々悪事を働いたあなたこそ、心臓病で死ねばいいんだわ!」
晴香は考えを改めた。たとえ毒で命を落とすことになろうとも、このクズの二人の思い通りにはさせない。
自分の荷物をまとめ、階下へ向かった。明かりのないリビングは、しんと静まり返っていた。
最後に一度だけこの邸宅を目に収めると、晴香は振り返らずにその場を去った。
家を出ると、彼女はホテルをとって身を隠した。
次の日の朝、晴香は私立探偵に連絡を取った。
「ここに200万あります。あることの調査をお願いしたいです」
「200万ですか?」
探偵は渋った。「3年も前の話なんて、調査は困難ですよ!」
「400万払います。私の全財産ですよ」
山口家での数年間、晴香に仕事はなく、聡もほとんど生活費をくれなかった。
これは長年、必死に切り詰めて貯めてきたものだった。
「分かりました。そこまで言うなら、調べてやりましょう」
探偵は金を預かり、すぐ結果が出ると言って電話を切った。
第8話
ホテルで横になっていると、晴香は息苦しさと、胃をかき混ぜられるような痛みに襲われた。
昨日、あの薬を一度にあんなに飲まされたせいで、体がさらに弱まったようだ。
スマホで近くの病院を調べ、診察を受けることに決めた。
幸いなことに、毒はまだ手の施しようがあり、胃洗浄と薬による治療を受けた。
「先生、毒以外に体に異常はありませんか?例えば、がんとか……」
「いいえ、体はいたって健康ですよ。がんだなんて、何かの間違いでは?」
「これを見ていただけますか?」
晴香が一枚の診断書を差し出すと、医者は眉をひそめた。「これは偽物です。誰かに騙されているんですよ」
「やっぱり……」
晴香は冷ややかに笑うと、「先生、改めて検査をお願いできますか?新しい診断書が欲しいんです」と頼んだ。
「診断書を偽造するのは犯罪です。そんな書類を出した医者は、警察に通報して捕まえてもらうべきですね」
「分かっています」
もちろん警察に通報するつもりだ。莉子だけでなく、聡のことも許さない。
若かりし頃の愛情は消え失せた。今、晴香の心にあるのは復讐のことだけだ。
山口家。
聡は晴香との寝室ではなく、客室で一晩過ごした。
朝起きると寝室の前で立ち止まり、昨日薬を飲まされた晴香の様子が気になった。
自分の行動が感情的だったことは分かっている。だが、渚が殺されたことを思い出すと、理性を失うほどの怒りがこみ上がってくるのだ。
ノックをしようと手を上げたが、諦めてそのまま下ろした。
思い悩んだ末、ようやくドアを開けた。
しかしベッドには晴香の姿がなく、机の上もきれいに片付けられていた。
聡は眉をひそめ、「晴香」と低く声をかけた。
返事はない。
嫌な予感がして、他の部屋も覗いたが、やはり誰もいなかった。
「晴香、どこへ行った?
晴香!」
そこへ使用人が駆けつけてきた。「旦那様、どうかされましたか?」
「俺の妻は?」
「奥様ですか?姿を見ておりません。下りてこられた様子もありませんでした」
聡の顔つきが険しくなり、クローゼットの扉を開いた。普段着が消えており、自分が買い与えたドレスしか残っていなかった。
「晴香、逃げるつもりか!」
聡は荒っぽく扉を閉めた。「探し出して連れ戻せ!」
「旦那様、申し上げにくいのですが、奥様をお嫌いなのであれば、なぜお連れ戻しになったのですか?」
この数年、晴香が山口家で受けてきた扱いを見てきた使用人たちは、気の毒に思っていたのだ。
「旦那様は、莉子様のことがお好きなのでは……?いっそ奥様とはご離縁なさって、莉子様とご一緒になられては……」
「俺のすることに指図するな!」
聡の冷たい視線に使用人が畏まり、「承知いたしました。至急手配いたします」と頭を下げた。
聡たちの会話は、部屋の外にいた莉子には丸聞こえだった。
逃げた?昨夜の件でショックを受けて逃げ出したのかしら?
でも、晴香がいなくなったら、自分が必要としている心臓はどうなるの?
「聡さん、晴香さんがいなくなったの?」
「あいつはどこへも行かせない」
「聡さん、最近心臓が苦しくて。もう長く持たないかも知れない」
莉子は苦しそうな表情を作った。聡は彼女を抱き寄せ、眉をひそめた。「必ず見つけ出してやるから安心しろ」
街角のカフェで、晴香は探偵が渡した書類を受け取り、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「やっぱり、莉子ね」
写真があれば、過去に渚を追い詰めた人たちは莉子の差し金だったことを証明できる。今度こそ法のもとで裁かせてやる。
「ありがとうございます」
晴香が証拠を持って立ち去った直後、入れ替わるように莉子が探偵の対面に腰を下ろした。
第9話
「どなたですか?」
探偵は眉間にしわを寄せた。「何か用ですか?」
「誰かなんてどうでもいいでしょう?1000万払うから、やってほしいことがあります」
その金額を聞いて、探偵は呆然とした。最近、おいしい仕事ばかり転がり込んでくる。
「一体どんなことですか?」
莉子は口元を歪めた。その目は、すでに結果を見据えているようだった。
「晴香さん。今度こそ、潰してやるわ」
晴香は再び山口家へ戻ってきたが、その心境は以前とは大きく変わっていた。
玄関の扉を見上げ、晴香の胸には憎悪だけが渦巻いていた。
手元の封筒には莉子が渚をいじめていた動かぬ証拠が入っている。
「渚。安心して。必ず仇を討ってあげるから」
深呼吸をして家に入ろうとしたその時、車から莉子が降りてきた。
「あら、晴香さん。一度出ていったのに戻ってくるなんて、よっぽどここが恋しいのね」
晴香は莉子を無視して通り過ぎようとしたその時、いきなり駆けよってきた小さな子供とぶつかり、手にした封筒が床へと落ちた。
「うぇぇん!」
泣きじゃくる子供を見て、晴香は慌てて慰めた。「大丈夫?怪我はない?」
「いたい、いたいの……」
泣き止まない子供に、晴香はカバンの中にあった飴を渡した。
飴を握りしめると、子供はすぐに泣き止んで走り去っていった。
晴香は封筒を拾い、立ち上がった。
「その封筒、中身は何?」莉子が怪訝そうに尋ねる。
「何が入っているのか、すぐに分かるわ」
晴香が扉を抜けると、彼女に気づいた使用人が上の階に向かって叫んだ。「旦那様!奥様が戻られました!」
晴香の帰りを知った聡は、読みかけの資料を投げ捨てて駆け下りてきた。
「晴香、よくもまた戻ってきたな!」
その声には激しい怒りがこもっていた。
「聡。今日戻ってきたのは、言いたいことがあってのこと。まずは、離婚しよう」
「何だと?」
聡は信じられない思いで晴香を見つめた。これまでどんなに酷い扱いを受けても離婚に応じなかったのに、今日はどういうつもりだ?
「私の署名は済ませてあるわ」
晴香はテーブルに離婚届を叩きつけた。「あとはあなたが署名して」
「頭がいかれたか?」聡が乱暴に晴香の腕を掴んだ。「この数日どこに行っていた?新しい男ができたから、離婚を切り出しにきたと?」
「あなたみたいにそんな汚らわしい考えは持ってないわ!」晴香は鼻で笑った。「聡。本当にバカね」
「病気でおかしくなったのか?薬は飲んでないのか?」
「飲まないわ!もう二度とあんな薬は飲まない!死んだあとに私の心臓を莉子に渡すなんて、そんなことはさせない!」
激しく声を荒らげ、晴香の体は細かく震えていた。
聡は絶句した。「お前、知っていたのか?」
「ええ、ずっと前からね。医者に病気の捏造を頼んだ日からね。渚の妹が救われるならって黙って医者の言葉に従おうとした。でも真実を知ってしまった。渚が死んだのは私のせいじゃない!あなたが愛してやまない莉子の仕業だったの!」
「何言ってるんだ?いい加減にしてくれ、晴香。莉子を貶めるなんて許さない!莉子は自分の姉にあんなことするわけないだろ?」
「証拠よ」晴香は封筒を聡の方へ押しやった。「中身を見て。それが真実よ」
「やめて、見ないで」
莉子が慌てて走り寄り、聡の腕にしがみついた。「聡さん、やめて!終わった話じゃない?」
「怖いの?」
晴香は鼻で笑った。「真実を知られたら、聡があなたにがっかりしてしまうのが怖いんでしょ?」
「何も後ろめたいことなんてないから怖くないわ!」
「まだ強がるの?」晴香は震えた。「聡、あなたは渚を一番愛していたでしょ?渚が死んだ本当の理由、知りたいと思わないの?」
聡は目を細め、迷いながらも封筒を受け取った。
中を開ける勇気がなかった。ここまできて、事実を知るのが怖いだなんて。
「開けられないなら、私があけてあげる」
聡が迷っていると、晴香が封筒を奪って写真を取り出した。
写真を見た瞬間、聡の顔がみるみるうちに青ざめた。
「晴香、お前だったのか!やはりお前が渚を……それなのに、よくも真実なんてぬかせるな!」
第10話
聡は激昂し、晴香の頬を力任せに殴った。
「そんなはずがない!ありえない!」
写真を見た瞬間、晴香は全身の力が抜け、目を大きく開いた。
写真に写っている女は莉子ではなく、自分だったのだ。
そして自分と一緒に写っているのは、ほかでもない、かつて渚を襲っていた男たちだった。
「晴香さん、本当に、お姉ちゃんを死に追いやったのね!」莉子が突然、声を上げて泣き出した。「聡さんの前で何度もあなたをかばってきたのに。まさか、あなたがこんな人だったなんて!」
さっき扉の前でぶつかった子供の姿が頭をよぎり、晴香は莉子を鋭く睨みつけた。
「あなた、写真をすり替えたでしょ!」
晴香はそのまま莉子に飛びかかり、その首を強く絞めつけた。
「けほっ……聡さん、助けて」
莉子が悲鳴を上げると、聡が駆け寄り、晴香の髪を掴んで力ずくで引き剥がし、床に突き飛ばした。
「いい加減にしろ!昔は証拠がないから見逃したが、今はこの写真がある。これからは、もう容赦しない!」
聡はボディーガードに合図を出し、冷たく言い放った。「こいつを海辺の別荘へ連れて行け」
「やめて、何をする気なの?聡、この写真は嘘よ!莉子がすり替えたのよ、渚を殺したのは莉子よ、信じて!」
「黙らせろ」
聡は憎しみを抑えられなくなり、晴香の弁解さえ耳に入らなかった。
彼の命令と同時に、晴香の肩に衝撃が走り、そのまま気を失った。
次に目を覚ました時、そこは知らない場所だった。
周囲には高い壁がそびえ、窓は小さかった。
晴香は深い水槽の中に取り残され、手足は鎖で固定されて動くこともできなかった。
壁の隙間から絶えず水が注ぎ込まれ、たちまち足首まで浸かった。
「ここはどこ?聡!どうかしてるわ!出して!」
「考えろ。あの時、渚がお前のせいでどれほど絶望したかをな」
男の低い声が上から響く。晴香が顔を上げると、闇の中に聡が潜んでいた。
「聡、お願いだから信じて。渚は私の親友だったの。傷つけるわけなんてないでしょ?」
晴香がいくら叫んでも、聡は聞き入れようとしなかった。
「安心しろ。そう簡単に死なせてやるものか。水位は首の下までゆっくり上がっていく。それまでにこの水槽の中で反省していろ」
そう言って、聡は一度も振り返らずにその場を去った。
扉が閉まる音がした。晴香がどんなに叫び続けても、誰からも返事はなかった。
水が腰まで迫ってきているのを見つめ、晴香は激しく震えた。かつてこれほどまでの恐怖と絶望を感じたことはなかった。
「どうして信じてくれないの?」
涙が頬を伝った。晴香は鎖を振りちぎろうと必死にもがいたが、無駄だった。
水が胸を超え、晴香は力なく笑った。「聡……大馬鹿者よ!」
もう一度チャンスがあるなら、あの時の登山で、命がけで助けたりはしなかっただろう。
放っておけばよかったのだ。
「苦しいか?」
頭上から、勝ち誇ったような女性の声が響いた。顔を上げると、そこには莉子の姿があった。
「ねえ、死の恐怖っていうのはどんな感じ?」
莉子の歪んだ笑みを見て、晴香は可笑しくなった。
「莉子……死んでも、許さないから!」
「あいにくね、聡さんはあなたに死んでほしくないみたいよ」莉子は指先のマニキュアを眺めながら鼻で笑った。「でも、たとえここで死んだって、聡さんは一生気づかないんだから!」
「どういうこと?」
「すぐにわかるわよ」
水は首の下まで上がったけれど、止まる気配がなかった。水位が上がり続け、ついに顎まで届いた。
「この水槽には止水栓があるの。聡さんは帰るときに閉めさせたけれど、私が勝手に開けておいたわ」莉子が狂ったように高笑いする。「死ねばいい!消えてしまえ!あなたが死んだらその心臓を私がもらうの。そうすれば、私は永遠に聡さんと一緒にいられるんだから!」
「ふざけないで……莉子、絶対に呪ってやるから!」
莉子は嘲笑う。「なら幽霊になって出てきなさいよ!待ってるから!」
ついに口元まで水没し、呼吸は鼻だけでかろうじて保たれていた。
間もなくして鼻も浸かり、呼吸ができなくなった。
喉を締めつけるような窒息感に襲われ、晴香の意識はぼやけ、最期の瞬間を悟った。
走馬灯のように思い出が巡り、静かに目を閉じた。込み上げる無念を抱えたまま。
聡。生まれ変わったとしても、二度とあなたには会いたくないわ。