中絶サインで愛は冷めた。結婚式は夫への復讐劇!

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中絶サインで愛は冷めた。結婚式は夫への復讐劇!

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北条由理恵(ほうじょう ゆりえ)が病院で中絶手術の同意書にサインをしてくれる人を探していた時、中村潤(なかむら じゅん)は生理痛に苦しむ...

Chương (1)

第1章

北条由理恵(ほうじょう ゆりえ)が病院で中絶手術の同意書にサインをしてくれる人を探していた時、中村潤(なかむら じゅん)は生理痛に苦しむ彼女の遠藤渚(えんどう なぎさ)をなだめている最中だった。 いつも高慢な中村グループの御曹司が、片手に温かい飲み物、もう片手にはブランドバッグを提げ、プライドも何もかも捨て渚に尽くしている。 しかし、由理恵はもう諦めていた。中絶手術の同意書を両手で差し出し、「悪いけど、ちょっとだけ手を止めて、先にサインしてくれない?」と静かに言った。 潤は思っていた。由理恵は少し拗ねているだけで、どうせ最後には自分のもとへ戻ってくる、と。なにしろ、彼女はあれほどまでに自分を愛していたのだから。 だが彼はまだ気づいていなかった。この日、初めて授かるはずだった子どもと、生涯でいちばん自分を愛してくれた女性、その両方を同時に失っていたことを。 第1話 北条由理恵(ほうじょう ゆりえ)が病院で中絶手術の同意書にサインをしてくれる人を探していた時、中村潤(なかむら じゅん)は生理痛に苦しむ彼女の遠藤渚(えんどう なぎさ)をなだめている最中だった。 いつも高慢な中村グループの御曹司が、片手に温かい飲み物、もう片手にはブランドバッグを提げ、プライドも何もかも捨て渚に尽くしている。 由理恵は何人かに連絡したが誰も空いておらず、だからといって両親に頼むこともできないため、仕方なく潤に声をかけた。「悪いけど、ちょっとだけ手を止めて、先にサインしてくれない?」 潤は苛立ちを隠そうともせず、眉をひそめた。「俺がいま忙しいの、見てわからないか?」 「ほんの一瞬で終わるから」と由理恵は食い下がる。「どうあっても、私はあなたの婚約者なんだから、サインくらいしてくれてもいいでしょ?それに、こんなことが外に知れたら、あなたのご両親だっていい顔はしないはずじゃない?」 潤は手を止め、振り返って由理恵を睨んだ。「どういう意味だ?俺を脅してるのか?」 由理恵は媚びるように微笑んで紙とペンを差し出し、サインが必要な場所を手のひらで示す。「ここにお願い」 「結局思い通りにさせようってか」と鼻で笑いながら、潤は荒くサインをした。 ペンを放り投げると、頬を膨らませてみせる渚に向き直り、愛おしそうに頬を撫でる。「ほら、拗ねるなよ。やきもち焼くことないだろ。由理恵なんて形だけの存在だ。結婚しようがしまいが、お前を大事にするのは変わらないんだから」 温かい飲み物を渚に飲ませ、ブランド物のバッグを手渡しながら囁く。「まずは先生に見てもらおう。体調はどうだ?痛いとこはないか?生理痛といっても、痛みが続くようであれば、心配だからな。診察が終わったら買い物に行こう。何でも欲しいものを買ってやるから、な?」 「その言葉、忘れないでよ?時間がないなんて言ったら、許さないんだから」渚が涙を拭いて笑う。 潤も優しい笑みを浮かべながら「約束は守るよ」と言った。 人目もはばからないその甘ったるい距離感に、見ているだけで胸焼けしそうになる。 目も鼻も、どこかにひびが入ったみたいにツンと痛み、何かが込み上げてくる。由理恵は唇をきつく噛みしめ、涙がこぼれないよう必死にこらえた。 中絶手術の同意書をぎゅっと握り締め、産婦人科の手術室へと戻ろうと背を向ける。 すると、背後から潤の声が聞こえた。「待てよ」 ようやくここが病院だって気づいたのか、そして自分がここにいること自体おかしいと察したのか……そう思って、由理恵は足を止め、振り返った。 しかし、そこにあったのは冷たく、自分にはまるで無関心といった表情だった。「さっき何にサインさせたんだ?よからぬことを考えてるんじゃないだろうな?」 サインしといて、今更? 中村家と北条家は釣り合いが取れている。ここまでの関係だって、打算で続けてきたわけじゃない。それなのに、どうしてこんなふうに、やましいことでもあるみたいに言われなきゃいけないのだろう。 一瞬、皮肉が駆け巡ったが、由理恵は首を振った。「あと1ヶ月もすれば私たちの結婚式でしょ?だから、最高に綺麗な状態で迎えたくて、ちょっと美容医療でも受けようかなって思っただけ」 潤は深く考える様子もなく、「勝手にしろ」と言った。 そして振り返り、渚の肩を抱いて潤は去っていった。 遠ざかりながらも、渚の小さな声が聞こえてくる。「北条さん、もう十分綺麗なのに整形なんてするんだ」 「あいつが何しようとどうでもいい。俺にとっては、渚が一番美しいんだから」 結婚を控えた仲だというのに、どうでもいいだと? 堪えきれずに、涙が決壊したダムのように溢れ出す。止めようと思っても、止めることはできなかった。 諦めようと思ったって、そう簡単に忘れられるはずがないのだ。 潤とは幼馴染であり、彼は大人になったら自分と結婚する、と言ってくれたため、由理恵はその言葉だけでなく、彼という存在そのものを大切に心の奥にしまい込んできた。 しかし潤は、その約束をとっくに忘れていた。 10代で恋を知った頃から、彼はこれまで何人もの女性と付き合ってきた。 華やかな年上の女性もいれば、無垢な年下の子もいた。どの女性に対しても、潤は金をかけ、共に時間を過ごし、ありったけの優しさで夢中にさせてきた。 しかし、由理恵に対してだけは違った。 幼馴染としての優しさや礼儀はあっても、ひとりの男として女性に向けるような甘さや、距離の近い親密さはまったくなかった。 それでも由理恵は構わなかった。婚約さえ破棄されなければ、長い一生を共に過ごせると思えたから。 それが変わったのは、ほんの2ヶ月前のことだった。潤が酒に酔いつぶれ、由理恵がバーまで迎えに行ったあの夜。潤は誰と勘違いしたのか、由理恵をソファへと押し倒したのだった。 思い描いていた潤との初めては、本当なら華やかでロマンチックな新居のはずだった。それが、こんな安っぽいバーの個室になってしまったことに、由理恵は少なからず心残りを感じていた。 その後まもなく妊娠がわかり、彼女はその小さな心残りも、そっと胸の奥へ飲み込んだ。 今まで何もなかった二人だが、もしかしたらこの子をきっかけに変われるかもしれないと、心のどこかで期待する。 しかし、検査結果を嬉々として届けに行った時、耳にしてしまった潤の会話…… 「由理恵?ああ、あいつはそんながつがつくる感じじゃなかったけど、まあ……悪くはなかったな。 渚が生理の時に、ちょうどあいつが際どい服を着ててさ。なんとなく押し倒しちまったんだよ。抵抗もしなかったし、どうぞって言わんばかりだった。 終わった後も知らないふりしてたら、追及もしてこなかったしさ。素直で余計なことも言わない妻なら、こんなに都合のいいことはないだろ?俺たちみたいな家には、こういう女が必要なんだよ。 でも笑えるよな、あいつ。いまだに酒のせいで俺が押し倒したって本気で思ってるんだから」 20年以上想ってきた男は、ただの最低な人間だったらしい。 潤が自分に手を出さなかったのは、尊重していたからではない。ただ単に、自分をつまらないと思っていたからだった。 関係を持ってもそこに愛情などは皆無で、自分などただの暇つぶしの道具でしかなかった。 このまま潤の子を産んでも、自分も子供もただの都合の良い道具になるだけ。 それでいいのか? いや、違う。北条家だって決して見劣りする家じゃないし、自分自身だって、軽く扱われるような存在ではないはずだ。 何の価値もない男に心も身も売り払うことなどない。 まぶたを閉じ、再び開くと、由理恵はサイン済みの中絶手術の同意書を医師に手渡した。「サインもらってきました。すぐに手術をお願いします」 第2話 まだ若く体力もあったおかげか、術後も思っていたほどの不調はなかった。しかし、さすがにそのまま家へ帰るのはなんとなく気が引けたので、ホテルで1週間ほど、のんびり過ごした。 その後の診察では、順調な回復が確認され、将来への影響もないと言われた。ようやく一安心できたので、せっかくだから、美味しいものでも食べに行こうと決めた。 手術からまだそんなに経っていないから、刺激のあるものや味の濃いものは避けないといけないので、自然派食品のお店を選んだ。 席に座って注文しようとスマホを出した時、耳元で鈴を転がすような可愛らしい女性の声が響いた。「北条さん、今は混雑してて、空いている席がないの。もし差し支えなければ、ご一緒させてもらっても?」 由理恵はメニューを見る手を止め、視線を上げる。そこには淡いピンク色の服を着た、可愛らしい渚と、その背後で彼女を愛おしそうに見つめる潤の姿があった。 目が合い、潤が口角を上げた。「由理恵、奥へ詰めてくれ」 当たり前のように言われ、由理恵はふっと笑ってしまった。「私は一人でゆっくり食事をする権利もないの?」 「一人がいいのか?」潤は呆れたように由理恵を見下ろし、低い声で言った。「じゃあ、別の席を探すか、店を変えるんだな。そういえば鍋を食べに行きたいって言ってたよな?俺が奢ってやるから、鍋でも食いにいってこい」 断る余地も与えず、潤は冷たくそう言ってきた。 由理恵のスマホを握る手に、ぐっと力が込められる。由理恵はどこまでも自分本位な潤をまっすぐに見据えた。 前に潤へラインで送った、市内で評判の人気鍋料理屋のことを、この男はちゃんと見ていたのだ。ただ、返信しなかっただけのこと。 返信したら、しつこく「一緒に行こう」って誘われるとでも思ったのだろうか? だったらどうして、この男は自分のことをこんなふうに扱っているくせに、席をさも当然の如く譲ってもらえると思っているのだろう? あまりの理不尽さだったので、由理恵は座ったまま動かず、「今日は気分がすぐれないから、優しい味が食べたいの」と言った。 断られるとは思っていなかったのか、潤は眉を寄せ、露骨に不機嫌になった。 渚がすぐに彼の腕に抱きつき、甘え声を上げる。「潤、怒らないで。北条さんはあなたの婚約者でしょ?」 潤をなだめたあと、彼女はくるっと由理恵のほうを見て、少し困ったように笑った。「北条さんも、あんまり潤のこと困らせないであげて? 私、この前ちょうど生理で体調を崩しちゃって、潤が病院に連れていってくれたの。そしたら先生に、もともと体が冷えやすいから、ちゃんと気をつけないと将来の妊娠に影響するかもって言われちゃって…… それで潤、すごく心配してくれていて。冷たいものも辛いものも駄目って言うし、でもご飯は絶対抜いちゃいけないっていうから」 わざとだったのかどうかは分からないが、「妊娠」という言葉を渚が強調していた気がする。 由理恵は長い睫毛を揺らし、さっと潤の顔を見上げた。 長年一緒にいても、潤が自分を愛してくれていないことは知っていた。それでも、ここまで特定の女に入れ込んだことは一度もなかった。 付き合っては別れるを繰り返してきた潤が、これほど一人の彼女と続くなどあり得ない話だったのだ。 それなのに、どうして渚だけは…… 「渚は他の女とは違うんだ」まるで、由理恵の心の声が聞こえたかのように、潤は深い瞳でそう言い切った。「そういうことだから、分かってくれるよな?たかが席ひとつくらい、譲ってやれ」 他の女とは違う。 渚は他の女とは……違う。 氷水を頭からかぶったように、由理恵の体が急速に冷えていくのを感じた。 もしあの時、お腹の子を堕ろさず無理矢理にでも結婚していたら、潤はどうしたのだろう?家庭を持ちながらも、渚との関係を続けていたのだろうか? 「結婚したら落ち着くから、子供を作って家族になろう」という言葉は、嘘だったのか? まあ、結局のところ、もう未練なんてないのだが……とにかく今は、あの子を迷わず堕ろしたように、結婚式前に潤との全てを終わらせるだけだ。 それでも最後にと聞いてみる。「もし私が譲らないと言ったら?」 「由理恵」潤は高圧的な態度で由理恵を見下ろす。「あと2日でウェディングドレスの試着だろ?せっかく3ヶ月もかけて準備したドレスを見てくれる相手がいなくなったら、困るのはお前じゃないのか?」 「脅してるの?」由理恵は驚いて顔を上げる。 どんなにもう心が決まっていたとしても、やはり心は嵐の中に放り出されたように激しく波打った。 もう食欲などなく、どんな豪華な食事も味が感じられなかった。 席も、そして心のないこの男も、全てを渚に譲って店を出た。 早足で店を離れ、由理恵は気持ちを整えると別の店で軽く食事を済ませた。家に帰ると、リビングのソファの上に見覚えのない美しい包みの箱が置いてあった。 「充くんが届けに来たの。結婚式当日は予定があって行けないから、少し早いけどって」 二宮充(にのみや みつる)が? 由理恵の美しい眉がひそめられる。 ふと、潤と婚約した日のことを思い出した。婚約後、充と食事に行ったのだが、グラスを合わせた際、充が悲しそうな、沈んだ声で言ったのだった。「由理恵。この結婚で、本当に幸せになれる自信はあるのか?」 いつか潤の心を温められると信じていたから、当時の由理恵は自信があった。 しかし現実は、潤からの冷淡な仕打ちで、全てを打ち砕かれた。 重い気持ちのまま、由理恵は箱を開ける。 中に入っていたのは綺麗なフラットシューズと、一枚のメッセージカード。 【結婚式のヒールで足を痛めたら、無理に履かなくていいからね。いつでも新しいのに替えて】 第3話 結婚の贈り物にしては、かなり違和感を覚える。まるで「合わない相手とはすぐに別れたっていい」と言われているような……充は一体何を考えて、これを自分に? しかし、本人に電話をして直接尋ねる勇気はなかった。 複雑な気分のまま部屋に戻り、靴箱ごとクローゼットの奥深くにしまい込む。クローゼットを閉めようとしたとき、棚の真ん中に置かれた大きな抱き枕が目に入った。 それは、潤が以前付き合っていた女性のために買ったものの「おまけ」だったが、大人になった彼からもらった初めての贈り物だった。 由理恵はそれを宝物のように大切にし、汚れるのも嫌で使うこともせず、ただ棚に置いては眺めていた。抱きしめてキスをしたことだってある。しかし、このおまけの抱き枕こそが、知らぬ間に由理恵の価値を下げ、愛される資格のない、軽んじられて当然の女に仕立て上げていたのだ。 自嘲気味に笑った由理恵は、その抱き枕を床に投げ捨てた。さらに、潤に関連するものをすべて探し出す。マフラーや帽子といった小さなものから、宝石やブランドバッグなどの高価なものまで、手当たり次第に集めた。 二つの大きな箱から溢れるほどになった。これは長い年月をかけ、由理恵が潤を愛した日々であり、嵐のような青春そのものだった。 箱にガムテープで封をすると、隣の収納部屋へ片付けた。すべてが終わる日に返却する決意をして、由理恵は2日間、穏やかに休息をとった。 朝、目覚まし時計の音で目を覚ます。 【今日はウェディングドレスの試着。結婚式まであと20日】という通知を見て、眉をひそめた。 何か理由をつけて断ろうか、あるいは延期してもらおうかと悩んでいると、突然ドアが開いた。完璧なスーツ姿の潤が、笑みを浮かべ、落ち着いた様子で入ってきた。 「なんだ?そんな目で俺を見て」潤の声は穏やかで、数日前のことなどなかったかのようだった。 由理恵は布団を引き上げ、寝起きの顔を隠す。「まだ顔も洗ってないのに」 「別に今までだって何度も見てるだろ?」潤は大股でベッドに近づくと、声を潜めた。「それに、服を着ていない姿だって、知っているしな」 ついに、本性を現す気になったのか? 由理恵は不意を突かれ、固まった。「それって、いつの話?」 潤の深い瞳には、からかいの笑みが浮かんでいる。「もちろん子供の頃の話さ。昔はずっとうちに入り浸っていたし、おねしょをしたことだってあるだろ?忘れたのか?」 張り詰めていた緊張が、ふっと和らいでいくのを感じた。 由理恵は自分を責めた。こんな状況でさえ、潤のペースに簡単に乗せられてしまうなんて。 とっくにわかっていたはずだ。この男は、底意地の悪い最低の人間だってことを。あの夜のことも、まるでこっちだけの記憶みたいに封じ込めて、自分は何もなかった顔でのうのうと過ごしている。そのくせ裏では、じわじわと彼女を弄び、逃げ場をなくすように追い詰めてくるのだ。 だが、こっちはすでに子供を堕ろしている。 もう二度と、潤の汚い手段に心をかき乱されたり、傷ついたりすることはない。 「そういうことなら、私もあなたの体を見たことあるわ」由理恵はあえて屈託なく笑い、布団をはねのけた。「今から着替えるから出て行ってくれない?ここにずっといたら、彼女さんに誤解されるわよ」 そう言って、由理恵はウォークインクローゼットへと向かった。 下着からコートまで念入りに選び、潤の存在を無視するように振る舞う態度に、彼は眉をひそめた。 勘違いかもしれないが、由理恵が変わった気がする。以前よりも少し攻撃的になり、少し自我が出て、大人しいだけの女じゃなくなったようだった。 自分の渚への態度を見て、焦っているのか? 潤の瞳から冷たさが消え、興味深げな光が宿る。 少し棘があったっていい。 いつも言いなりの女なんか、好む男はいないのだから。 面白がらせてくれて、かつ自分を愛しているのなら、なお好都合だ。 朝食は北条家で済ませ、食後、二人はドレスショップへ向かった。 由理恵が3ヶ月も前から大金をはたいて用意したドレスだ。文句なしに素晴らしく、メイクも加われば、かなりのものだろう。 代金は払い済みで、品物も届いている。着ようが着まいがもうそれは由理恵自身が決めることだ。彼女は期待を胸に、メイクスタッフに連れられて準備を始めた。 潤のためではない。自分自身のために、美しい姿でありたい。 ところが、準備を終えて戻ってみると、そこに飾っていたはずのドレスが消えていたのだ。 その代わりに目に入ったのは、ウェディングドレスを身に纏い、鏡の前で嬉しそうに回っている渚の姿だった。 「潤、似合ってる? こんなに素敵なドレス、今日を逃したらもう二度と袖を通すチャンスなんてないもん。 この後はちゃんと北条さんに付き添ってあげて。私はあなたの幸せを見るだけで十分だから。それに、結婚式当日は、泣きも騒ぎもせずにちゃんとお祝いするから……」 愛する女性からこんなにも健気で深い愛を語られ、感動しない男などいるのだろうか? もちろん、潤だって例外ではない。 冷たかった彼の瞳が、一瞬にして赤く熱を帯びる。「渚……」 渚も感情を溢れさせた。「ごめんなさい、潤。私たちが出会うのが遅すぎたみたい。それに、実家も釣り合わないから、あなたと一緒になることはできないの……」 見つめ合う二人を前に、周囲のスタッフたちは無言で視線を落とした。 由理恵も同じように黙り込み、存在を消すのが正解だと分かっていた。しかし…… 「潤。遠藤さんと、1日たりとも離れたくないの? だったら、20日後の結婚式は遠藤さんが花嫁になればいいよ。このドレスは、私から二人へのささやかな結婚祝いってことで……どうかな?」 第4話 その言葉は突然だった。 二人の世界に入っていた潤と渚も、そして気配を消していたスタッフも、一斉に由理恵へ視線を向けた。 由理恵は周囲の驚きや憐れみの視線を無視し、少し暗い顔で潤を見つめる。「ねえ、あなたはいつも、遠藤さんは他の女性とは違うって言っていたよね?でも、具体的に何がそんなに違うのか、私を捨ててまで、なんで遠藤さんを選ぶのかは教えてくれなかった」 由理恵が事実を指摘すれば、潤が不快に思い、怒るだろうと思っていた。しかし、返ってきたのは渚の涙だった。「ごめんなさい、北条さん。全部私のせいだよね。私がここに来たのも、勝手にウェディングドレスを着たのも、本当にごめんなさい。今すぐ脱いで返すから、許して」 渚はそう言いながら、手探りでウェディングドレスのファスナーに手をかけた。 しかし、渚は小柄だ。裾の長いウェディングドレスは少し無理があったようで、ファスナーを無理やり引っ張った勢いでバランスを崩し、転んでしまった。 ビリッと布が裂ける音がする。 渚はその音を聞くと、さらに激しく泣き出した。「ごめんなさい。壊すつもりなんてなかった。でも、私があまりに不器用だったから……弁償する。たとえ全財産を失っても、必ず同じものを用意するから……」 結婚式まであと20日しかない。 3ヶ月かけて丁寧に作られたドレスがこのタイミングで破けてしまったのだ。果たして渚がお金で解決できるというのか?たとえ、倍以上の値段を払ったとしても、同じクオリティのものがすぐ用意できるわけがない。 同じものが手に入らないのなら、他のドレスをあてがわれたところで意味がない。どんなに高価でも、一番着たかったものでなければ、20年間待ちわびたこの結婚式は台無しだ。 不意に、由理恵はすべてを馬鹿馬鹿しく感じた。 潤が「特別だ」と言い張る女が、所詮はこの程度のレベルだったとは…… 由理恵は拳を固く握り締め、隣の潤を見上げる。「あなたは、どうしてくれるの?」 潤の目が少し陰り、由理恵を冷ややかな目で一度見ると、そのまま通り過ぎて渚の方へ歩いていった。 「泣くなよ、渚。大したことじゃないんだから、誰も責めたりしないよ」 力強い腕で渚を抱き寄せ、潤は優しく渚をなだめる。 しばらくしてようやく渚が落ち着くと、潤は由理恵の方を向き、小切手を一枚書いた。 「このドレスが億単位で、お前のへそくりを全額使ったことは知ってる。20億やるよ。それで新しいドレスとアクセサリーを買い揃えろ。残りは自分のために使っていいから。だから、何も言うな。俺の親に一切余計なことは漏らすなよ?」 これが、彼の答えということだろう。 渚をどこまでも守り抜くけれど、結婚はしない。心は渚にあって、自分は形だけの妻ということか? 呆れるほど、最低だ。 由理恵は怒りと悲しみで震えた。「それってどういう意味?お金で私を買うつもり?私が欲しいのは、そんなお金で買えるものじゃない!」 由理恵が声を張り上げると、渚が再び泣き出した。「私のせい……私が北条さんを怒らせた。潤、私なんかいいから、北条さんと一緒にいてあげて」 そう言って渚はウェディングドレスを脱ぎ捨てると、そのまま走り去った。 潤は迷いもせず渚を追いかけ、背中越しに冷たく言い放った。「由理恵、いい加減にしろよ!これ以上わがままを言うなら、この結婚自体破談にするからな!」 両家で取り決めた婚約、20年も言い交わしてきた関係が、ただの脅し文句で、簡単に壊れていく。 どうやら彼にとっては、この遊びの関係ですら、最後まで付き合う価値はなかったらしい。 しかし、思ったほど辛くはない。いや、悲しくないわけではないけれど、手術台に向かう前にすでに涙は枯れ果てていたのだ。 由理恵は赤い目のままスタッフに破損したドレスをまとめさせ、タクシーで自宅に戻った。 朝はあんなに嬉しそうにドレスを試着しに行った娘が、すぐに一人で戻ってきた上に、泣きはらして目を真っ赤にしている。 母親の北条杏(ほうじょう あん)が心配そうに尋ねた。「どうしたの?潤くんに何かされたの?」 由理恵は真っ赤な目で答える。「お母さん。もし潤が私を好きじゃなくて、私と結婚したくないとしたら……」 言葉を言い終える前に、杏に遮られた。「そんなことあるわけないでしょ。潤くんはこんなに大切にしてくれているし、結婚式の詳細まで一人で決めてくれたのよ?招待客の手配だって彼がしたし、司会者まで東都から高額で雇った。中村家がどれだけこの式を大切にしているか分かるでしょ?」 大切にしているかどうかだけで、愛情の有無については触れない。 自分と潤の関係については、双方の家族も内心では理解していたのだろう。 周りはみんな暗黙のうちに、自分と潤の結婚を政略結婚としていた。その中でただ一人、自分だけが、これを理想の愛を手に入れた結婚だと信じていたなんて、あまりにも皮肉だ。 どうしようもなくやり切れない気持ちになり、家にはいたくなかった。 由理恵は航空券を買い、しばらく海外で過ごすことに決めた。 ところが、空港で運悪く潤と出くわしてしまった。 白いシャツに黒いズボン姿の潤、そして隣には白いワンピースを着た渚がいた。その光景はあまりにもお似合いで、周りの視線すら集めている。 由理恵は思わずもう一度だけ視線を向けた。ほんの一瞬だったのに、それを渚は見逃さなかった。 渚は得意げに、挑発するような視線を送りつけてから、わざとらしくはにかんで笑う。「ごめんなさいね、北条さん。潤ったら、私がちょっと落ち込んでるのを心配して、気分転換に旅行に連れてってくれるって言って。 もし気に入らないなら、今すぐ潤を返してもいいよ?だからさ、空港で騒いだりしないでね。彼の立場もあるし、恥をかかせたらかわいそうでしょ?」 別に気に入らないなんて言ってない。 それに、たまたま見かけただけなのに。 由理恵は呆れて言葉を失った。 潤は厳しい表情のまま、大きな体で渚を庇うように由理恵の前に立ち塞がった。「20億やったんだ、それで十分だろ?なのに、わざわざ空港まで追いかけてくるなんて。いい加減にしろよ。話をややこしくするな」 第5話 潤の冷たさに慣れていたはずの由理恵だが、その時ばかりは赤の他人かのように感じた。「いい加減にしろって?潤。私たち、こんなに長い付き合いでしょ?愛してくれないのはもういい。でも、信じてくれることすらしてくれないの?」 泣き腫らした瞳は、疲弊しきっていて哀れだった。 潤の黒い瞳がかすかに動く。「信じてないわけじゃない。ただ、お前のやることは……正直、理解できないし、うんざりするんだよ」 捨てた女が自分を追って空港までやってきたのだ。愛されているのだという絶対の自信が潤にはあったのだろう。 由理恵は自嘲気味に笑い、潤の勝手な思い込みを否定する。「あなたも遠藤さんと同じような考えなのかしら?まあ、確かにあなたと同じタイミングでここに着いたけれど、追いかけてきたんじゃなくて、バカンスに行くだけだから」 そう言って、カバンから航空券とパスポートを取り出した。 手に握って振ってみせる。「ドレスショップで恥をかかされて、気が滅入ったから少し逃げ出したかったの。普通の反応でしょ?」 自分の残酷さにやっと気付いたのか、潤の表情がわずかに曇る。 潤の気配が変わったのを感じ取ると、渚の華奢な体は震え、顔を真っ青にした。「ごめんなさい、北条さん。深い意味はなかったの。ただ潤が心配で……それに、私がいたら北条さんに迷惑がかかると思ったから……」 潤の胸にかすかに浮かんだ揺らぎは、すぐに消えた。残っていたわずかな情もなくなり、彼は渚を抱き寄せ、かばうように腕の中に収める。「もういいだろ。渚だって謝ったんだ。由理恵も、そのへんでやめとけよ。いつまでも細かいことで騒ぐな」 彼らの仲睦まじい姿は、自分を正当な婚約者ではなく、二人を邪魔する悪役かのように見せた。 なんて皮肉なのだろう。 でも、もう何も言うことはない。 潤の心に自分はいないのだから、もう何を言っても無駄だ。 由理恵は一言も答えず、背を向けて搭乗口へ歩き出す。 搭乗アナウンスが流れたので、由理恵は最低限の荷物だけを持ち、一番初めに飛行機へと乗り込んだ。 誰からも邪魔されず、誰のことも気にしないでいい2週間が始まった。 ある日、ビーチで日光浴をしていると、杏から電話がかかってきた。「あと2日で、あなたの25歳の誕生日でしょう?それに、独身最後の誕生日でもあるわね。潤くんも一緒に帰ってお祝いするって言ってたけど、どう過ごしたいか、何か考えてる?こっちも準備しておきたいから」 「潤と?」由理恵は表情を凍り付かせる。裏で何かされているかもしれない。 さらなる杏の言葉が、由理恵の疑惑を確固たるものにする。「潤くんが自分のことを好きかどうかわからないってあなたが言ってたけど、彼、結局はあなたのことが大好きなのよ。だって、怒って海外に行ったあなたをすぐに追ってきたんでしょ?仕事も全部置いて追いかけるなんて、好き以外のなんでもないでしょ?」 どうやって帰りの飛行機に乗ったのか、由理恵はよく覚えていない。 全身を重たい泥に引きずり込まれるような、それでいて、別々であるはずの二人が無理やり引き離せないものとしてくっつけられているような無力感に包まれている。 海市に到着した。心に重い荷物を抱えたまま、飛行機から降りる。 出口には、潤が待ち構えていた。 由理恵は方向を変え、別の出口へ向かおうとした。 しかし、潤の大きな手で捕まえられた。「しばらく会えなかったな。お前の親も心配してたから、家まで送るよ」 よくそんなことが言えるものだ。 この間、一度も心配の電話や、メッセージを送ってきていないくせに。 掴まれた腕から熱が伝わり、焼けるように熱くなる。 由理恵が力いっぱい振り払おうとしても、潤は離さない。由理恵の目が、さっと冷たくなる。「一人で帰れるから、お構いなく」 「水くさいな」潤は笑って、由理恵の腕を引き寄せると、カバンから高級そうな青い箱を取り出した。「あと5日で俺たちは夫婦になるんだ。過去のことは水に流して、やり直そう。いつまでも意地を張ってるのは、よくないだろ?」 プレゼントができるくらいにはなったらしい。 もし、まだこの男と結婚したく、数日後に控える結婚式を挙げるつもりなら、由理恵はここで受け取るべきだっただろう。 しかし、由理恵は手が出せなかった。 見えない鎖で腕を縛られているように、全く動かないのだ。 一向に由理恵が受け取らないのを見て、潤の顔から笑みが消えていく。「要らないのか?」 由理恵は唇を引き結び、無表情で答える。「一緒に海外へ行ったわけじゃないから、わざわざ一緒に帰る必要はないと思う」 潤が何か言い返そうとした時、彼のスマホが鳴った。 潤は画面を一目見ると、険しい表情を瞬時に柔らかな笑みに変える。 「要らなきゃ捨てればいい」と、潤は箱を由理恵に押し付け、さっさと歩き出した。 遠ざかりながら、今まで聞いたこともないほどの優しい声で潤が電話に出ていた。「もしもし、渚?」 第6話 由理恵はその場でしばらくぼーっとしていたが、振り返り家に戻ることにした。 杏から「潤くんはどうしたの?」と聞かれたが無視して、シャワーを浴び夕食を済ませる。落ち着いてからようやく、潤から押し付けられた青い箱を開けてみた。 中身はダイヤモンドのブレスレットだったが、特別高価なものではなかった。由理恵はふっと鼻で笑うと、ブレスレットを箱に適当に放り込み、クローゼットの奥へと押し込んだ。 一日中部屋に籠もって過ごし、朝を迎えると由理恵の誕生日になっていた。 北条家は朝早くから、慌ただしかった。 屋敷内や庭に飾られた誕生日の装飾から、料理やデザートの一つひとつ、ケーキの細かなあしらい、そしてドレスに散りばめられた小さなラインストーンに至るまで。そのすべてが、丁寧に考え抜かれて用意されたものだった。 あまりの盛大さに、由理恵は何度も杏に「潤と連絡はとったの?彼は来るの?」と聞きそうになった。 潤の芝居はうまいから、両親は今も彼に期待を寄せている。 なら、見てもらえばいい。潤が本当に「理想の婿」なのかどうか、ちゃんとその目で確かめてもらえばいい。すべてをはっきりさせたうえで……そうすれば、数日後の結婚式で彼女が決断を下すときも、両親だってきっと、今よりは受け入れてくれるはずだから。 しかし、時間は無情にも過ぎ去り、あっという間に午後5時を回った。 その時、潤から一通のメールが届いた。【暇か?少し会って話したい】 少し疑いを抱いたが、由理恵は送られてきた住所へ急いだ。 ドアを開けると、テーブルの中央に、豪勢で繊細なピンクの誕生日ケーキが置かれていた。 ケーキの周りには大勢が輪になり、バースデーソングを歌っている。 しかし、ロウソクの明かりの中で、潤の凛々しい顔と、渚の幸せそうな笑顔が揺らめいているのが見えた。 由理恵の心に、冷たい刃物が突き刺さったように、深い絶望が広がった。 潤のことは、まだ許せた。 だがそこに集まっているのは、自分が招待した客たちで…… 近所の人、仕事上の付き合いのある人、友人までと様々だった。 しかし、なぜ彼らがこんなにも献身的に、渚のためにバースデーソングを歌っているのだ? 自分が来たことには、誰も気づいていない。 いや、気づいていても興味がないのか? だが、自分はロボットではない。こんなことになって、傷つかないわけがなかった。 由理恵はこみ上げる涙をこらえ、気を取り直す。「私……タイミング悪かったかな?」 渚の笑みが一瞬にして消えた。「北条さん、何しに来たの?」 その場には気まずい沈黙が流れる。 目を逸らす者、戸惑う表情で様子を窺う者。 しかし潤だけは、愛おしそうな表情を変えず言った。「ほら、ロウソクを吹き消して。そうすれば世界で一番幸せになれるから」 潤の言葉に心酔しきった渚は笑った。「潤ったら、なんでこんなに優しいの……ロウソクを吹き消さなくたって、私はもう十分幸せだよ」 その瞬間、渚の指に輝く高価なダイヤモンドの指輪が光り輝く。 由理恵は瞬時にすべてを悟った。あの時、潤から贈られたブレスレットが、なぜあまり特別に見えなかったのか。 あのブレスレットは、渚がはめている指輪のおまけだったのだ。 作りもそこまで精巧ではなく、ダイヤも小ぶり。主役ではなく、あくまでも指輪を引き立てるための脇役、といったところだろう。 メインの指輪は渚へ贈り、自分には格落ちの添え物でお茶を濁すなんて。 潤は自分に対して、ほんの少しの配慮すら見せないつもりらしい。 なぜ、このタイミングで自分を呼んだのかも理解できた。 由理恵は唇を噛み締め、悔しさを抑える。「邪魔してごめんなさい」 帰ろうと背を向けた時、潤が苛立たしげに引き止めた。「邪魔だと分かっていたなら、なぜ来たんだ?」 その目で見られるだけで、由理恵の目は涙で滲む。 これまでの25年間を、あまりにも無駄にしてしまった。 本当は、相手を変えてきちんと恋愛をしたってよかったし、いっそ潤みたいに気ままに恋を楽しむ相手を選んだってよかったのに。そうしたほうが、きっと今よりずっと楽で、自由に過ごせたはずだった。 それなのに、どうしてこんなにも惨めな思いをしなくてはならないのだろう。 「何か言えよ」黙り込む彼女に、潤は苛立ちを隠さず言い放つ。 「渚が勘違いしたときは、お前は正論振りかざして言い返してきた。俺が機嫌取ろうとプレゼント渡せば、突っぱねる。で、今度はこんなところまで来て、何がしたいんだ? 誕生日が終わったら渚とは別れて、ちゃんと気持ち切り替えてお前と結婚するって言っただろ?それでまだ何が不満なんだよ。 わざわざこのタイミングで意地張って、渚の楽しい時間を台無しにするつもりか?」 容赦ない怒声が、大きな岩のように由理恵の心にのしかかり、息ができない。 いつの間にか、唇を血が滲むほど噛み締めていた。 もう言い返す気力もなかった。潤の、今にもこの場で自分を締め殺しそうなほどの険しい態度を見ればわかる。あのメッセージが誰の仕業であれ、ここで一言でも反論すれば、返ってくるのはきっと、さらにひどい屈辱だけだろう。 「帰る」由理恵は力なく背を向けた。 「待て」突然、潤が立ち上がった。たくましい身体で迫ってきて、その大きな手で由理恵の腕を力任せに掴む。「渚に謝れ。自分が悪かったと言え。そうしなければ……」 グラスにワインを注ぐと、潤は鼻で笑い、挑戦的な眼差しで由理恵に突き出した。 第7話 揺れるグラスの中の酒は、流産したあの日に流した血よりも毒々しく、目に刺さる。 由理恵は自嘲気味に笑った。「もし私が、謝らないし、お酒も飲まないって言ったら?」 「死ぬわけじゃないんだから、飲め」潤の瞳は鋭く、とても冷たい。 「被害者ぶるなよ、由理恵。婚約を決める前から、俺がどんな人間かくらい分かってただろ。全部分かったうえで受け入れたくせに、今さら後悔するなんて都合が良すぎる。世の中、そんなふうな自分勝手は通らない。お前の親みたいに、無条件で甘やかしてくれるやつなんて、他にいないんだよ」 そう、ずっと分かっていた。潤が自分を愛していないことも、そして、人としての欠片も持ち合わせていないことも。 「もし最初から、あなたがやったことに責任すら持てない最低な人間だって分かってたなら、こんな最悪の結婚に賭けるような真似、絶対にしなかった」 今まで、由理恵がこんな口調で自分に言い返したことがあっただろうか? てっきり怯えて地面に膝をつき、必死に泣きついて「捨てないで」と懇願するものだと思っていたのに。 これまで散々、自分が浮気を繰り返してきても、何も言わずに受け入れていた由理恵だった。 潤は訝しげに眉をひそめる。「はっきり言え。誰が責任すら持てない人間だって?自分の過ちを認めないどころか、人の指摘をするのか?」 由理恵は潤を冷たく見つめた。「そんなに焦らないでよ。2日後の結婚式当日になれば、本当に無責任なのが誰だかはっきりするから」 潤はどこか違和感を覚えたが、何がとははっきり分からなかった。 まさか、大人しかった由理恵が反抗し始めたというのか? これこそが潤が求めていたものだった。 刺激を好み、由理恵との単調な関係に退屈していた潤。しかし、由理恵の氷のような目に、言いようのない焦りを感じた。 「出ていけ!」潤は激昂し、ワイングラスを地面に叩きつけた。 「お前も、俺の前から消えろ!」隣で、潤のことを上目遣いで見ていた渚も、由理恵と共に追い出される。 「潤……」渚は涙目になった。 由理恵は言われるがまま、静かにその場を後にした。 外へ出た後、由理恵はすぐさま杏に電話をかけ、誕生日の飾り付けを全て片付けるよう伝えた。 杏は困惑する。「え?もうすぐ誕生日パーティーが始まるこの時間に?」 「私の言う通りにして。すぐに片付けてほしいの」由理恵の声は落ち着き払っていた。「招待客たちも潤も、来ないはずだから」 杏だって北条家の妻という立場にまで上り詰めた人間だ。愚かなはずがない。 ほどなくして、杏も人づてにこの話を聞きつけた。怒りを抑えきれない様子で言い放つ。 「もうすぐ結婚式だっていうのに、潤くんは何を考えているの?こんなことするなんて!由理恵、この結婚本当にするつもり?もし少しでも迷っているなら、やめたっていいよ。無理して一緒になる必要なんてないんだから」 母が真実に気づき、ビジネス上の損得を捨ててまで自分を支持してくれるなら、もう何も怖くない。 透明なファイルに入った中絶手術の同意書を眺め、由理恵は冷徹な表情を浮かべる。「分かったわ。潤が予定通り結婚式を行うつもりなら、この婚約、きっちり結んでもらおうじゃないの」 10月3日、吉日。 朝早く、スーツを着た潤が、車で由理恵の様子を見にやってきた。 数日ぶりに顔を合わせたのだが、潤の目にはわずかな迷いが浮かんでいた。数日前に見せていたあの鋭さは、もうどこにもない。「本当にいいのか?」 「ええ」由理恵は微笑み、小箱を渡した。「私の決意だから。式が終わってから開けてみて」 由理恵は贈り物まで用意している。やはり自分との関係を気にしているのだろう。 数日前の騒ぎは、単なる感情的な爆発に過ぎなかったに違いない。 もう現実は受け入れたし、両親の気持ちも分かっている……まあいい。これからは、せめてもう少し由理恵に優しくしてやろう。長い付き合いなんだ。お互いのこともよく分かっている。愛情がなくても、情くらいは……残っていてもいいはずだからな。 「分かってるじゃないか」潤は笑い、由理恵の頬に触れようとした。 しかし、由理恵はふいと顔をそらす。しかし、潤は気にしなかった。 これほど美しい花嫁姿なら、化粧崩れを気にするのも当然だ。 「じゃあ、また後で式場でな」そう言って、潤は由理恵と別れた。 しかし、数分後。式場で待っていたのは花嫁姿の由理恵ではなかった。 スクリーンに映し出される、数々のきわどい写真。渚と親密に絡み合う潤の姿が、招待客たちの前で次々と晒されていく。 「やめろ!早く消せ!」潤は血相を変えて叫んだ。 裏での火遊びと、表の場で暴かれることはわけが違う。 中村家としても、こんな醜聞で家を汚すことは許されない。 「ダメです!ボタンが壊れていて反応しません!」抵抗も虚しく、画面が次の画像へと切り替わった。それは、一枚の中絶手術同意書。 手術の申請者の名前欄には由理恵の名前。 そして同意書欄には、他ならぬ潤のサインが鮮やかに刻まれていた。 潤は凍りついた。1ヶ月前、病院で急かされるまま書いたあの書類…… エステの同意書だと聞かされたうえに、渚に急かされて深く確かめもしなかったあの書類。 まさか、あれが自分たちの子供を葬る同意書だったというのか? バーに迎えにきた由理恵が、思いの外魅力的で、思わず押し倒してしまったあの夜にできた子なのか? 全身に震えが走る。 由理恵が二度と戻らないことを確信し、潤は足をもつれさせながら、控室へと走り出した。 あの、由理恵が最後に渡してくれた小箱。 丁寧に包装されたあの中身を、一刻も早く確かめなければ! 時を同じくして、隣の別室で由理恵は監視カメラの映像を眺めていた。 隣にいてくれる充を見つめながら、由理恵はバッグからフラットシューズを取り出す。「前に言ってたよね。結婚したあと、もしヒールで歩き疲れてしまったら、これを履いて歩けばいいって。じゃあ、もし結婚する前から合わないって分かってたら、そのときは……あなたが私に靴を履かせてくれる?」