浮気した彼に、破産のプレゼントを​

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浮気した彼に、破産のプレゼントを​

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大親友の実の兄・連城公生(れんじょう きみお)と、お酒の勢いで一夜を共にしてから、私は彼の誰にも言えない恋人になった。 ​ 人目を忍ぶ関...

Chương (1)

第1章

大親友の実の兄・連城公生(れんじょう きみお)と、お酒の勢いで一夜を共にしてから、私は彼の誰にも言えない恋人になった。 ​ 人目を忍ぶ関係のまま8年が過ぎた頃、実家から無理やり見合いを勧められた。 ​ 「公生、実家から最後通告を突きつけられたの。今年中に必ず結婚しなさいって」 ​ 彼は動かしていた手を止め、私の額にそっと口づけを落とした。 ​ 返ってきたのは、いつもの「もう少し待ってくれ」という言葉だ。 ​ ところが、何気なくスマホを眺めている私は、新人社員の戸松リナ(とまつ りな)のSNS投稿を目にした。 ​ そこにあるのは、彼女と公生の婚姻届の写真だ。 ​ 添えられた言葉は【社長なんて、余裕でゲットしちゃった】。 ​ 私が8年間求めても手に入らなかった人を、彼女はわずか3ヶ月で手に入れた。 ​ 胸にこみ上げる苦い思いを力ずくで抑え込み、「いいね」を押した。 ​ そして、コメントを残した。 ​ 【おめでとう。末永くお幸せに】 ​ その後、私は実家が用意した挙式の日取りを承諾した。 ​ すると突然、スマホが鳴り響いた。 ​ 公生の声が、これまでに聞いたことがないほど慌てている。 ​ 「彩芽、誤解しないでくれ。友達とゲームをして負けたから、罰ゲームでリナと籍を入れることになっただけで……」 ​ 私はその言葉を遮った。 ​ 「公生、私、結婚するの」 ​ 第1話 ​ 大親友の実の兄・連城公生(れんじょう きみお)と、お酒の勢いで一夜を共にしてから、私は彼の誰にも言えない恋人になった。 ​ 人目を忍ぶ関係のまま8年が過ぎた頃、実家から無理やり見合いを勧められた。 ​ 「公生、実家から最後通告を突きつけられたの。今年中に必ず結婚しなさいって」 ​ 彼は動かしていた手を止め、私の額にそっと口づけを落とした。 ​ 返ってきたのは、いつもの「もう少し待ってくれ」という言葉だ。 ​ ところが、何気なくスマホを眺めている私は、新人社員の戸松リナ(とまつ りな)のSNS投稿を目にした。 ​ そこにあるのは、彼女と公生の婚姻届の写真だ。 ​ 添えられた言葉は【社長なんて、余裕でゲットしちゃった】。 ​ 私が8年間求めても手に入らなかった人を、彼女はわずか3ヶ月で手に入れた。 ​ 胸にこみ上げる苦い思いを力ずくで抑え込み、「いいね」を押した。 ​ そして、コメントを残した。 ​ 【おめでとう。末永くお幸せに】 ​ その後、私は実家が用意した挙式の日取りを承諾した。 ​ すると突然、スマホが鳴り響いた。 ​ 公生の声が、これまでに聞いたことがないほど慌てている。 ​ 「彩芽、誤解しないでくれ。友達とゲームをして負けたから、罰ゲームでリナと籍を入れることになっただけで……」 ​ 私はその言葉を遮った。 ​ 「公生、私、結婚するの」 ​ 電話の向こうで、一瞬の沈黙が流れた。 ​ やがて、苛立ちを隠そうともしない公生の声が響き、その周囲からは女の子の甘ったるい笑い声が混じって聞こえてきた。 ​ 「またその話か。 ​ そんなに結婚に焦ってるのか?うちの会社は今、資金繰りが厳しくて破綻寸前なんだ。頼むからこれ以上邪魔しないでくれ」 ​ 私はスマホを握りしめ、夜風の中に立ち尽くしている。メリハリのない声で淡々と話した。 ​ 「邪魔なんかしてないわ。本当に結婚するのよ」 ​ 彼は鼻で笑った。まるで途方もない冗談でも聞いたかのように。 ​ 「君の周りには、いい仲になれそうな男一人いないじゃないか。結婚相手なんているはずがない」 ​ 私が久木山一弘(くきやま かずひろ)の名前を口にしようとした、その時だ。 ​ 公生は向こうで急いで電話を切ろうとした。 ​ 「切るぞ。別の電話が入ったんだ。籍を入れたのは本当にただの罰ゲームだから、変な勘違いはするな」 ​ ツーツーと無機質な音が響いた。 ​ 通話が切れたスマホの画面を見つめる私の指先は、かじかんだように冷たくなっている。 ​ 8年だ。 ​ 彼はいつも、「変な勘違いはするな」という言葉で片付けてきた。 ​ 翌日、私はプロにデザインしてもらった結婚式の招待状を両手にいっぱい抱えて会社へ向かった。 ​ オフィスは朝から騒がしく、リナは大勢の社員に囲まれて、顔を真っ赤にしている。 ​ 「リナちゃん、すごすぎるよ!あのクールな連城社長を、たった3ヶ月で落としちゃうなんて!」 ​ 「これからは社長夫人だね。これからもよろしく頼むよ!」 ​ リナは両手で顔を覆い、照れ笑いを浮かべている。その声はオフィス全体にちょうどよく響く大きさだ。 ​ 「皆さんが思っているようなことじゃないですよ。ゲームに負けて籍を入れただけなんです。内緒にしてくださいね」 ​ 私は心の中で嘲笑った。 ​ SNSで世界中に発信しておいて、今さら内緒も何もないだろう。 ​ 彼女は目ざとく私の手元にある招待状を見つけると、ハイヒールをコツコツと鳴らしながら駆け寄り、私の腕に縋りついて揺さぶった。 ​ 「先輩!それ、私と社長の結婚式の招待状ですか?社長から用意するように言われたのでしょう?ありがとうございます。お疲れ様です!」 ​ 私が「違う」と言おうとしたその瞬間。 ​ 彼女は私の手から招待状をひったくるように奪い取り、宛名を確かめながら同僚たちに配り始めた。 ​ 「皆さん、見てください!社長がわざわざデザイナーに依頼して作ってもらった、とても可愛い封筒です!」 ​ 周囲は口々に賞賛の言葉を交わし、社長のロマンチックな気配りを褒めちぎった。 ​ ちょうどその時、公生がエレベーターから姿を現した。 ​ 周囲が一斉に「社長、ご招待ありがとうございます!」と冷やかすように声を上げた。 ​ リナは恥ずかしそうに上目遣いで彼を見つめ、すっかり恋する乙女の表情を浮かべている。 ​ 公生は一瞬呆気に取られたものの、すぐに口元を緩め、微笑みを浮かべて応じた。 ​ 「ああ、ぜひ来てくれ」 ​ 「その招待状は、私のものです」 ​ 私が声を上げた瞬間、オフィス全体が水を打ったように静まり返った。 ​ 全員の視線が一斉に私の顔に突き刺さった。 ​ 公生の顔が瞬時に引きつり、その瞳には焦りの色が混じった。 ​ 「若草彩芽(わかくさ あやめ)、ここは会社だ。君がわがままを言っていい場所じゃない」 ​ 「わがままなんて言っていません」 ​ 私は顔を上げ、彼の視線を真正面から受け止めた。 ​ 「それは私の結婚式の招待状です。来週の土曜日に結婚しますから」 ​ 彼の顔は墨のように真っ黒になり、大股で私に歩み寄ると、歯を食いしばりながら声を潜めた。 ​ 「そこまでして俺を追い詰める気か?」 ​ 傍らにいる誰かが、くすくすと鼻で笑った。 ​ 「若草さん、付き合っている彼氏の姿さえ見たことないのに、誰と結婚するんですか?もしかして、リナちゃんが社長と結婚したのが羨ましくて、頭がおかしくなったんじゃないでしょうね」 ​ リナの目が瞬時に赤くなり、唇を噛みしめながら言葉を紡いだ。 ​ 第2話 ​ 「先輩が以前、社長のことが好きだったのは知っています。でも、社長は先輩にそんな気はなかったんですよね。前、二人の間で噂が立った時も、社長は裏で私たちに、ただの上司と部下だからってきっぱり否定していました」 ​ その言葉が出た瞬間、周囲の私を見る目が一変した。 ​ まるで、想いが届かずに逆上した、哀れな泥棒猫を見るかのような目だ。 ​ 私は公生を見た。 ​ 彼は目をそらし、視線を窓の外へと逃がして、私を庇う言葉を一言も口にしなかった。 ​ 8年間の秘密の恋。 ​ 彼のために、私はどれほど取引先のお酒に付き合い、どれほど会社を救う大口の契約を勝ち取ってきたことか。どれだけ周囲から都合のいい女だと噂されても、彼はいつも聞こえないふりをしてきた。 ​ それなのに今、最後のプライドさえも、私に残してはくれない。 ​ さらに周囲が調子に乗って囃し立てる。 ​ 「若草さん、社長はリナちゃんと籍を入れたんだから、これ以上しつこくすると泥棒猫ですよ。そんな噂が広まったら、会社が営業できなくなるんじゃないですか」 ​ 「その通りです。後輩の男を奪おうなんて、恥を知るべきですわ」 ​ 自分が一から育ててきた同僚たちを見つめながら、私は突然、すべてが馬鹿らしく思えた。 ​ 招待状を全部回収したくなるほど、彼らのことが嫌いになった気がした。 ​ 体の横に垂らした手でスマホを強く握りしめ、全員を冷たく見据えた。 ​ 「そこまで言うなら、婚約者を紹介しておく必要がありますね」 ​ 私がアルバムを開き、一弘とのツーショット写真を見せようとしたその時。 ​ 手首を不意に強く掴まれた。 ​ 公生が私のスマホをひったくり、その顔色はこれ以上ないほど険しくなっている。 ​ 「全員、仕事に戻れ!」 ​ 彼は周囲に向かって怒鳴りつけると、私の腕を引っ張り、社長室へと引きずり込んだ。 ​ 背後からは、リナを囲んで慰める声と、私に向けられた軽蔑の視線が突き刺さっている。 ​ 社長室に入るなり、公生は乱暴にドアを閉め、苛立たしげにネクタイを緩めた。 ​ 「籍を入れたのは罰ゲームだって言っただろう!どうしてみんなを巻き込んで泥沼にしないと気が済まないんだ!」 ​ 「罰ゲームだと言うのなら」 ​ 私は彼を見上げ、氷のように冷たい声で言った。 ​ 「どうしてさっき否定しなかったの?どうして私が泥棒猫呼ばわりされるのを、黙って見てたの?」 ​ 彼は言葉に詰まりながらも、どこか当然だと言わんばかりの口調で返した。 ​ 「リナはまだ若いんだ。プライドもある。みんなの前で彼女に恥をかかせるわけにはいかないだろう?」 ​ だから、私のプライドなら、いくら踏みにじられても構わないというわけだ。 ​ 私は彼の手からスマホを取り返し、外へと歩き出した。 ​ ドアノブに手をかけた瞬間、足を止めたが、振り返ることはなかった。 ​ 「結婚式は来週の土曜日。戸松さんと一緒に来て。待ってるから」 ​ …… ​ 地下駐車場に着いた途端、スマホが鳴った。 ​ 以前から連絡をくれていたヘッドハンターからだ。 ​ 「若草さん、以前お話しした上場企業のマーケティング部長のポストですが、先方が提示額からさらに2割の給与上乗せを約束してくれました。もう一度、前向きにご検討いただけないでしょうか?」 ​ その給与は、この業界における最高峰だ。 ​ 「お受けします」 ​ 私の声は驚くほど落ち着いている。 ​ 「それから、5億円規模の案件をそちらに手土産として持参します。それに見合うボーナスの確保をお願いします」 ​ 電話の向こうで、ヘッドハンターは喜びのあまり悲鳴を上げそうになっている。 ​ 「お任せください!万全の体制でお迎えできるよう、しっかりと手配いたします!」 ​ 電話を切り、車内に乗り込んだ私は、連絡先にある一弘の名前を指でなぞり、メッセージを送った。 ​ 【契約の調印は少し待って。後で連絡するから】 ​ 公生は会社の状況が厳しいと言い、私に足を引っ張るなと言った。 ​ けれど、この8年間、会社の危機を命がけで救ってきたのは、一体誰だと思っているのだろう。 ​ 今回の久木山グループとの共同事業だって、私がプライドを捨て、一弘に何度も頭を下げてようやく掴み取ったものだ。 ​ 公生の会社の命綱となるはずの案件だった。 ​ 車を地下駐車場から発進させると、路頭の景色が猛スピードで後ろへと流れていった。 ​ まるで、私と公生が共に過ごしたこの8年間の歳月が、あっという間に過ぎ去ってしまうかのように。 ​ 初めて彼に出会ったのは、大学の寮の前だった。 ​ 私の大親友である連城つむぎ(れんじょう つむぎ)の実の兄で、妹の夏休みの帰省を迎えに来ていた。白いシャツを着て木陰に立つ彼。笑った時に下がる目尻に、小さな泣きぼくろが見えた。 ​ 私はその一瞬で、恋に落ちてしまったのだ。 ​ その後、卒業祝いの集まりで、私たちは一緒にお酒を飲みすぎ、気づけば一線を越えてしまっていた。 ​ 第3話 ​ 流れるように公生の立ち上げたばかりのベンチャー企業に入社し、一番下っ端の社員として泥臭く働き始めた。 ​ 最初は「恋愛関係を公表しないのは、君がコネで出世したと周囲に言われないためだ」と言われ、私は待った。 ​ 自分の実力でマーケティング部のトップに上り詰めた時、今度は「つむぎとの親友関係にヒビが入るかもしれないから」と言われ、私はまた待った。 ​ いつかはきっと、妻として迎えてくれると信じて疑わなかった。 ​ けれど、リナの投稿にあったあの婚姻届を見るまで、目を覚ますことができなかった。 ​ 彼は結婚したくなかったわけではない。 ​ ただ、私と結婚したくなかっただけなのだ。 ​ 車を走らせ、公生と五年間同棲していたマンションへ戻った。 ​ 退職の手続きには数日かかるが、まずは自分の荷物をまとめて出ていくことにした。 ​ スーツケースを引き出し、クローゼットを開けると、彼の服が大半を占めている。 ​ 以前、私は彼の服があまりにも地味すぎると言って、明るい色のパーカーを勧めたことがあった。その時彼は、「俺は社長なんだから、落ち着きが必要だ」と拒んだ。 ​ それなのに今、クローゼットの最も目立つ場所には、流行りのストリートブランドの、鮮やかな色のパーカーが何着も掛けられている。 ​ 変わるのが嫌だったわけではない。 ​ ただ、私のために変わりたくなかっただけだ。 ​ 自分の服を一枚一枚丁寧に畳んでスーツケースに詰めていると、背後で鍵の回る音がした。 ​ 公生が入ってきて、開けられたスーツケースを見るなり、不快そうに眉をひそめた。 ​ 「リナとは本当に何でもないんだ。いい加減、怒るのをやめてくれないか?」 ​ 彼は歩み寄り、私の手を握ろうとした。 ​ 「籍を入れたのはやりすぎだった。今日の午後にでも、彼女と役所に行って離婚届を出してくる。 ​ 久木山グループとの契約書さえ交わして、会社が落ち着いたら、俺たちの関係を公表するから。な?」 ​ 私は口を開き、「別れよう」と言いかけようとした。 ​ すると彼は突然私の言葉を遮り、周囲を見回した。 ​ 「そうだ、M区のあのマンションの鍵、どこに置いた?」 ​ 「ナイトテーブルの一番下の引き出しよ」 ​ 私は一瞬ためらったが、それでも尋ねずにはいられなかった。 ​ 「資金繰りのために、あのマンションを売るの?」 ​ 彼は一瞬呆気に取られたが、すぐに他愛のないことのように笑った。 ​ 「売るわけないだろう。空けておくのももったいないし、リナの今の家の契約が切れるらしいから、あそこにしばらく住まわせることにしたんだ」 ​ 胸の奥が何かに強く塞がれたかのように、鈍い痛みが走った。 ​ M区のあのマンションは、去年の私の誕生日に、彼が「俺たちの結婚後の新居として買おう」と言ってくれた場所だった。 ​ それを、別の女に住まわせるという。 ​ 彼は私の青ざめた顔に気づくこともなく、さらに言葉を続けた。 ​ 「それから、久木山グループの契約だけど、書類が整ったらそのままリナに引き継いでやってくれ。彼女、もうすぐ試用期間が終わるんだ。この案件を成功させて、正社員に登用してやりたい。 ​ 心配しなくていい。ボーナスは全額君の口座に振り込ませるから」 ​ 私が返事をする間もなく、彼のスマホが鳴り響いた。 ​ 画面の表示を確認した途端、彼の声はこれ以上ないほど甘く優しくなった。 ​ 「うん、住所を送るから、引っ越し業者にそのまま向かうよう伝えていい」 ​ 彼は電話に応じながら、私に一瞥もくれず、そのまま外へ去っていった。 ​ カチャリと静かにドアが閉まった。 ​ 私は誰もいない、がらんとしたリビングに立ち尽くし、気がつくと声を上げて笑っている。 ​ 8年間の青春を捧げた私は、彼にとって、入社してわずか3ヶ月の新人社員よりも価値のない存在なのだ。 ​ …… ​ スーツケースを引きずってマンションを出る時、一度も振り返らなかった。 ​ そのまま、実家へと車を走らせた。 ​ 一弘との縁談を承諾して以来、母の顔から笑みが消えることはなかった。玄関に入るなり、母は嬉しそうに駆け寄ってきて、スーツケースを受け取ってくれた。 ​ 「やっぱり一弘くんが一番確実よ。小さい頃から見てきた子だもの、人柄も分かってるし、彩芽が彼と結婚できるなら、お父さんも私も心の底から安心できるわ」 ​ 私と一弘は、幼馴染という言葉では表せないほど、長い付き合いだった。 ​ 私の母と彼の母は親友同士で、昔は冗談半分に「お腹の中にいる時から婚約させよう」と話し合っていたほどだった。 ​ もし大学時代に公生に出会っていなければ、私はとっくに一弘と結婚していただろう。 ​ 彼がずっと私のことを想ってくれていたことも、知っていた。 ​ 今回、公生の会社の資金繰りがショートし、万策尽きた時、プライドを捨てて一弘の元へ向かい、公生に手を差し伸べてほしいと頼み込んだのも、私だった。 ​ 第4話 ​ 一弘はその時、長い間黙り込んでいた。けれど、最後には頷いてくれた。 ​ 今思えば、当時の私は本当に救いようがないほどバカだった。 ​ 食事を終えると、仕事の引き継ぎ資料を整理するために書斎にこもった。ふと、スマホが小さく震えた。 ​ 公生からのメッセージだ。 ​ 【遅くなるから、先に休んでてくれ】 ​ その言葉を見つめながら、彼のトークルームごとそのまま消去した。 ​ 整理が一段落した頃には、夜の十時を過ぎていた。お風呂を済ませてベッドに横たわり、何気なくSNSを開いた。 ​ タイムラインの一番上に表示されているのは、30分前にリナが投稿した近況だ。 ​ 写真の背景は、まぎれもなくM区のマンションのリビングだ。公生は数人の男友達と肩を組みながらじゃんけんに興じており、テーブルの上には空いた酒瓶が山ほど転がっている。 ​ 添えられた言葉は【みんなの前でミルク飲むかって聞かれちゃった。もう子供じゃないのに】。 ​ その下のコメント欄はひたすら冷やかす声で溢れ返り、【社長、甘やかしすぎ!】【ラブラブだね!】といった言葉が並んでいる。 ​ 私は画面をほんの少し見つめてから、静かにアプリを閉じた。 ​ 悲しみも、怒りも湧いてこなかった。 ​ 8年間の恋心は、同僚たちが私を「泥棒猫」と呼んだのを彼が黙って見ていたあの瞬間に、もう跡形もなく燃え尽きていたのだ。 ​ 突然、ラインの通知が飛び込んできた。 ​ 一弘からだ。 ​ 【明日、時間は取れそうかな?ドレスショップから、仕立ててたウェディングドレスの直しが終わったって連絡があったんだ。よければ合わせてみない?】 ​ 私は【分かった】と返事をした。 ​ 翌朝、一弘は早朝から車で迎えに来てくれた。母は嬉しそうに私を送り出し、彼の好物のお菓子を二箱も手渡してくれた。 ​ 車内での私は、少し気恥ずかしさを感じながら頭をかき、彼に話を切り出した。 ​ 「久木山グループとの契約書、私のせいで待たせちゃってごめんね。実は新しい会社に移る予定なの。そこでの最初の案件にしたくて」 ​ 彼はちらりとこちらに視線を向け、優しく微笑んだ。 ​ 「いっそのこと、僕の会社に来ないか?」 ​ 「仕事と私生活は分けておきたいの」 ​ 私も笑って返した。 ​ ドレスショップに到着すると、店員がすぐに満面の笑みで迎えてくれた。その腕には、美しいマーメイドラインのウェディングドレスが抱えられている。 ​ 「久木山様から直々にご指示をいただき、若草様のサイズに合わせて何度も手直しを重ねた一着です。きっとお似合いになることでしょう」 ​ 着替えを終えて鏡の前に立った私は、しばらくの間、呆然と立ち尽くしてしまった。 ​ 昔、公生とドレスショップの前を通りかかった時、私が少し目を留めるだけで、彼はいつもこう言っていた。 ​ 「いつか俺が、世界に一着だけのドレスをデザインしてやるから、今は焦るな」 ​ 8年間待ち続けたが、彼がデザインしたドレスが届くことはなかった。 ​ それよりも先に、一弘が私のために仕立ててくれたドレスに袖を通すことになった。 ​ 「写真を撮って、SNSに載せてみたらどうかな?」 ​ 一弘が私の後ろに立ち、穏やかな声で言った。 ​ 私は頷き、店員にスマホを差し出した。 ​ 「すみません、ツーショット写真を撮ってもらえますか?」 ​ 一弘は一瞬驚いたようだったが、すぐに目元を優しく緩めて私の隣へ歩み寄り、とても紳士的な仕草でそっと私の腰に手を添えた。 ​ 写真は、とてもきれいに撮れた。 ​ それをSNSに載せ、言葉を添えた。 ​ 【来週の土曜日、Aホテルにて久木山一弘と私の結婚式を執り行います。皆様のご来場を心よりお待ちしております】 ​ 投稿してわずか1分で、コメント欄は瞬く間に大炎上した。 ​ 【嘘でしょ?あの久木山グループの社長?彩芽、今まで黙ってたなんて水臭すぎるよ!】 ​ 【前に、若草さんが連城社長に都合のいい女として扱われてるって言ったの、誰だっけ?完全に形無しじゃない!久木山社長の方が、連城社長より何百倍も素敵なのに!】 ​ コメントを追いかけている最中、突然スマホが鳴り響いた。 ​ 公生からだ。 ​ 通話に出ると、受話器の向こうから酒気を帯びた嘲りの声が、突き刺さるように響いてきた。 ​ 「彩芽、大したものだな。俺と結婚したいがために、今度は久木山を巻き込んでお芝居か? ​ そこまでして俺の妻になりたいとは、本当に手段を選ばない女だな」 ​ 私が言い返そうとした、その時だ。 ​ 一弘がすっと手を伸ばして私のスマホを取り、スピーカー通話に切り替えた。 ​ 彼の声はどこまでも冷静で、しかし決して退かない重みを帯びて、受話器の向こうへと響いた。 ​ 「連城社長、僕と彩芽は本当に結婚します。 ​ 彼女は君を8年間待ちましたが、僕は彼女を12年間待ち続けました。 ​ 彼女を手放してくれたことに、心から感謝します」 ​ 電話の向こう側が、一瞬にして凍りついたかのように静まり返った。 ​ 数秒の沈黙の後、ようやく公生の理性を失った絶叫が響き渡った。 ​ 「そんなわけがない!彩芽、声を聞かせろ!」 ​