雪山に捨てられた私は、もう振り向かない

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雪山に捨てられた私は、もう振り向かない

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雪山の頂を目指すこの旅は、私、愛川真央(あいかわ まお)と日下部啓斗(くさかべ けいと)が前から約束していた、プロポーズのための旅だった...

Chương (1)

第1章

雪山の頂を目指すこの旅は、私、愛川真央(あいかわ まお)と日下部啓斗(くさかべ けいと)が前から約束していた、プロポーズのための旅だった。 出発前夜のキャンプ地で、ガイドが装備を確認していたとき、予備の防寒具が一式余っていることがわかった。 「日下部さん、予備が一式あります。どうしますか?」 その場にいた全員の視線が、私に向いた。 この登山が、私たちにとって特別なものになるはずだと、みんな知っていたからだ。 けれど啓斗は、隅でしゃがみ込み、寒さに震えている後輩――南条未亜(なんじょう みあ)に目を向けた。 啓斗の声は、あくまで穏やかだった。 「未亜に渡してください。本格的な雪山は初めてでしょうし、まずは体を慣らしたほうがいい」 未亜は頬を赤らめ、両手で装備を受け取ると、声を詰まらせた。 「ありがとうございます、啓斗さん」 ガイドは一瞬黙り込んだが、それ以上は何も言わなかった。 親友の城島美咲(じょうじま みさき)から、衛星電話が入った。 電話口の美咲は、ものすごい剣幕だった。 「あんたたち、山頂でプロポーズする約束だったんでしょ?それなのに、なんで南条まで一緒なのよ!?」 私は小さく笑って、込み上げかけた感情を押し込めた。 「いいの。私は予定どおり登るから」 山頂までは行く。 そこで、啓斗が口にするはずだった言葉を待つ。 最後まで彼が何も言わないのなら、そのときはもう、それでいい。 第1話 雪山の頂を目指すこの旅は、私、愛川真央(あいかわ まお)と日下部啓斗(くさかべ けいと)が前から約束していた、プロポーズのための旅だった。 出発前夜のキャンプ地で、ガイドが装備を確認していたとき、予備の防寒具が一式余っていることがわかった。 「日下部さん、予備が一式あります。どうしますか?」 その場にいた全員の視線が、私に向いた。 この登山が、私たちにとって特別なものになるはずだと、みんな知っていたからだ。 けれど啓斗は、隅でしゃがみ込み、寒さに震えている後輩――南条未亜(なんじょう みあ)に目を向けた。 啓斗の声は、あくまで穏やかだった。 「未亜に渡してください。本格的な雪山は初めてでしょうし、まずは体を慣らしたほうがいい」 未亜は頬を赤らめ、両手で装備を受け取ると、声を詰まらせた。 「ありがとうございます、啓斗さん」 ガイドは一瞬黙り込んだが、それ以上は何も言わなかった。 親友の城島美咲(じょうじま みさき)から、衛星電話が入った。 電話口の美咲は、ものすごい剣幕だった。 「あんたたち、山頂でプロポーズする約束だったんでしょ?それなのに、なんで南条まで一緒なのよ!?」 私は小さく笑って、込み上げかけた感情を押し込めた。 「いいの。私は予定どおり登るから」 山頂までは行く。 そこで、啓斗が口にするはずだった言葉を待つ。 最後まで彼が何も言わないのなら、そのときはもう、それでいい。 未亜が装備を受け取った瞬間、目のふちがうっすら赤くなった。 彼女は顔を上げ、啓斗を見つめた。 「本当にいただいていいんですか?でも……真央さんは……」 言いながら、未亜はおずおずと私のほうを見た。 啓斗は気にも留めない様子だった。 「真央はこのくらいの雪山なら3回登ってる。体力もお前よりずっとある。未亜は初めてなんだから、慣れるまでは見てやらないと」 未亜は装備を胸に抱え、うつむいたまま小さく言った。 「ありがとうございます」 けれど、その声にはかすかな弾みがあった。 そばにいたガイドが一度私を見たが、何も言わなかった。 私はザックから予備の貼るカイロを取り出し、封を切ってお腹に貼った。 たいして暖かくはない。それでも、しばらくはしのげる。 啓斗はその後も、未亜のテントの前に残っていた。 身をかがめて未亜の装備を整え、ベルトやバックルの締め方を一つずつ教えている。 未亜は笑顔で啓斗を見上げ、何度も「うん、うん」と頷いていた。 啓斗をすっかり頼りにしているのが、遠目にもわかった。 遠くから見ると、二人だけで絵になっていた。 そこに私の居場所はなかった。 衛星電話がまた鳴った。 出るなり、美咲が怒鳴った。 「真央!あの装備、私に頼んでスイスから取り寄せたやつでしょ! それに、真央だってまだ一度も使ってなかったじゃない。それを啓斗が、あっさり南条に渡したってこと!?」 「美咲、落ち着いて」 「落ち着けるわけないでしょ」 美咲は少し声を落とした。それでも、苛立ちは隠せていなかった。 「そもそも、山頂で啓斗があなたにプロポーズするって話だったでしょ。あなたが受けたら、帰ってすぐ婚約パーティーをするって。 それなのに、南条が急に加わった?一体何よそれ? あなたの装備まで渡して……あいつ、本当にあなたにプロポーズする気あるの? これじゃ、誰にプロポーズしに山頂へ行くのかわからないじゃない」 私はテントのポールに背を預け、遠くまで続く雪の稜線を見つめた。 夜風は冷たかった。月明かりを浴びた峰だけが、闇の中で白く浮かび上がっている。 「美咲」 声を落として呼ぶ。 「何?」 「啓斗にも考えがあるんだよ。あの人、困ってる人を放っておけないだけだから。美咲も知ってるでしょ」 電話の向こうで、少し間が空いた。けれど、美咲の声はまだ尖っていた。 「真央、そうやって何でも啓斗の味方しないで。 じゃあ聞くけど、今回の登山に未亜まで入れるって、誰が決めたの?」 私は答えられなかった。 そう決めたのは、啓斗だった。 2か月前、啓斗と登山の計画を立てていたころは、まだすべてがうまくいっていた。 ルートも決めた。装備もそろえた。 山頂で言うつもりのプロポーズの言葉まで、啓斗はこっそり紙に書いていた。 紙いっぱいに書いては消し、何度も書き直していた。 あの夜、私はその紙を胸に抱いたまま、長いこと泣いた。 啓斗が慌てて部屋に入ってきて、どうしたのかと聞いた。 私は紙を背中に隠し、虫が出てびっくりしただけだと言った。 彼はあっさり信じた。 けれど、その1か月後。 別の研究室にいた未亜が、啓斗のいる研究所に移ってきて、何もかもが変わった。 研究テーマの都合で啓斗の指導を受ける必要があるとかで、教授が半ば押しつけるように任せてきたらしい。 未亜は23歳で、小柄で可愛らしいタイプだった。声も話し方もやわらかい。 何かあるたびに啓斗を頼り、甘えるように声をかける。 まるで、それが当たり前みたいに。 啓斗も、そんな未亜を放っておかなかった。 夜中まで論文の手直しに付き合い、データ取りを手伝い、昼休みには彼女がちゃんと食べているかまで気にしていた。 私は一度、啓斗に聞いたことがある。未亜に少し構いすぎじゃないか、と。 啓斗は困ったように笑って、軽く受け流した。 「困ってたから助けただけだ。いちいち気にするなよ」 その後、啓斗は、未亜が昔から雪山を見たがっていたと言い、一緒に連れていけないかと私に聞いた。 「一人増えるくらい、いいだろ。家族と揉めたばかりで落ち込んでるんだ。気晴らしにはちょうどいい」 私は、いいよと言った。 あのときは本当に、それでいいと思っていた。 最後に山頂で向き合うのは、私と啓斗のはずだったから。 テントの入口が外から開き、啓斗が顔をのぞかせた。 風に吹かれた頬も鼻先も赤く、白い息がこぼれる。 「まだ起きてたのか?」 啓斗は中に入り、私の隣に腰を下ろした。 私は衛星電話を寝袋の中へ滑り込ませた。 「楽しみすぎて、眠れないの」 啓斗は笑って、私の肩を抱き寄せた。私はそのまま彼にもたれた。 「明日は次のキャンプ場まで上がる。明後日、天候が良ければそのまま頂上アタックだ」 落ち着いた、やさしい声だった。 「山頂に着いたら、話したいことがある」 胸がどきりとした。 「話って?」 「それは、着いてから」 啓斗は顔を寄せ、私の額にそっとキスをした。 テントの外では、風が唸っていた。まるで山そのものが吠えているみたいだった。 それでもあのときの私は、啓斗の腕の中こそが、世界でいちばん暖かい場所だと信じていた。 第2話 翌朝、私たちはキャンプを撤収し、さらに上へ向かった。 いつの間にか、空気の薄さをはっきり感じる高さまで来ていた。 一歩進むたび、体が重く地面に引き戻されるようだった。 登山隊は3つのパーティーに分かれて進むことになった。 私は第2パーティー。啓斗も、本来なら同じ第2パーティーに入るはずだった。 けれど出発直前、彼は未亜のいる第3パーティーへ移った。 「未亜の調子があまりよくない。俺は向こうのパーティーに入って、様子を見る」 啓斗は私にそう言って、念を押した。 「お前はガイドについていけ。遅れるなよ」 私はうなずいた。 午前中、啓斗は甲斐甲斐しく未亜の世話をしていた。 彼は未亜の横を歩き、時折手を伸ばして彼女を支えていた。 崩れやすいガレ場に差しかかったとき、未亜が足を滑らせ、体が横に傾いた。 啓斗はとっさに彼女の腰を抱きとめ、しっかりと支えた。 未亜は胸元を押さえ、まだ青ざめた顔で啓斗を見上げた。 「啓斗さんがいなかったら、本当に落ちるところでした」 啓斗は穏やかな声で言い聞かせた。 「歩幅を小さくしろ。一歩ずつ足場を確かめればいい。焦るな」 前を歩いていたガイドが振り返り、眉をひそめて私を見た。 「彼氏さん、ずいぶん面倒見がいいんですね」 私は答えなかった。 昼は、風を避けられる岩壁の陰で休憩を取った。 私は岩に腰を下ろし、硬い行動食を少しずつかじっていた。 啓斗が近づいてきて、湯気の立つカップを差し出した。 私はそれを受け取り、両手を温めた。 「未亜に高山病の症状が出てる。何度か吐いてるんだ」 啓斗は私の隣に腰を下ろし、眉を寄せた。 「あの状態で明日、頂上アタックに出るのは危ないかもしれない」 「なら、キャンプに残って待ってもらえばいい」 私は言った。 啓斗は少しためらった。 「あいつは登頂したくて、わざわざここまで来たんだ。キャンプに一人で残すのも危ない」 「ガイドに一人ついてもらえばいい」 「ガイドを一人割く余裕はない」 啓斗は少し間を置き、探るように私を見た。 「だから……真央は先に上のキャンプで待っててくれないか? 俺が未亜に付き添って前のキャンプ場まで下ろす。それから戻れば、予定どおり一緒に頂上を狙える」 私は行動食を噛んだまま、思わず啓斗を見た。 「一人で上に行けってこと?」 「半日くらいだ」 啓斗は私の手に軽く触れた。 「上にはテントも補給もある。大丈夫だ」 少し黙ってから、私は行動食の包みを畳んでポケットにしまった。 「いいえ。私は予定どおり山頂まで行く。そこでプロポーズしてくれるんでしょ」 啓斗は少しだけ目を丸くし、すぐに笑った。 「分かった。真央の言う通りにする」 午後になっても、私たちは先へ進んだ。 空は急に暗くなり、西から流れてきた灰色の雲が、低く唸るように頭上を覆っていく。 ガイドはしばらく空を見上げ、表情を険しくした。 「日下部さん、この雲はまずいです。経験上、このあと吹雪く可能性が高い。 今日はここで幕営して、明日の天候を見てから判断したほうがいいと思います」 啓斗はうなずき、ここで幕営すると伝えようとした。 「啓斗さん!」 未亜が後方から、息を切らして近づいてきた。 青白い顔をして、唇の色も悪い。それなのに、目だけは妙に輝いていた。 「啓斗さん、さっき天気予報を見たんです。 明後日もその次の日も曇りで、明日の午前中だけ6時間の晴れ間があるんです。 今日ここで止まったら、そのタイミングに間に合わないかもしれません」 ガイドは眉をひそめた。啓斗も迷っていた。 「啓斗」 私は思わず、啓斗の袖をつかんだ。 「ガイドさんも言ってたでしょ。今日は天気が不安定だって」 「大丈夫です、真央さん!」 未亜はすぐにこちらを向いた。目だけは必死だった。 「私、ネットでいろいろ調べました。こういう雲でも、必ず吹雪くとは限らないって。 それに、もう次のキャンプ場まであと少しです。このまま進めば、2時間もあれば山頂に着きます。 ここで止まったら、せっかくここまで来た意味がなくなってしまうかもしれません」 未亜の声はやわらかく、頼りなげだった。 それでも啓斗の迷いを押し切るには、十分だった。 啓斗は未亜を見て、それから頭上の雲を見上げた。 「このまま進む。今日中に次のキャンプ場まで上がろう」 ガイドは啓斗をじっと見つめたが、何も言わなかった。 私は隊列の真ん中あたりを歩いていた。 背中から吹きつける風は、ますます強くなっていく。 灰色の雲が、残っていた光を少しずつのみ込んでいった。 第3話 私たちは、キャンプ地にはたどり着けなかった。 吹雪は、思っていたよりずっと早く来た。 山の奥から、くぐもった音が響いた。 巨大な獣が低く唸るような音に、ガイドの顔から一気に血の気が引いた。 「雪崩だ!全員伏せろ!」 次の瞬間、視界がぐるりと反転した。 白い壁のような雪が尾根から崩れ落ち、すべてをのみ込むような轟音が迫ってくる。 私は雪煙にあおられて地面に叩きつけられ、耳鳴りが止まらなかった。 雪の塊が体を打ち、氷の粒が襟元から入り込む。あまりの冷たさに、全身がこわばった。 どれくらい経ったのか分からない。 雪煙が少しおさまってからも、私は雪の上にうつ伏せになったままだった。 しばらくしてようやく、自分がまだ生きているのだと気づいた。 「啓斗」 かすれた声で叫んだ。 吹雪の向こうで、誰かがふらつきながら立ち上がった。 啓斗だった。 全身雪まみれで、頬には細い血の跡が走っていた。 けれど彼は私には目もくれず、未亜のほうへ駆けていった。 未亜は十数メートル先の雪の上に倒れていた。体を小刻みに震わせ、泣きじゃくって、うまく息もできていない。 「啓斗さん……怖い……助けて……」 啓斗は未亜のそばへ駆け寄ると、そのまま彼女を抱きしめた。 「大丈夫だ。もう大丈夫だから」 啓斗は未亜の腕や足を手早く確認した。 「どこか痛むところは?」 「寒い……」 未亜は歯の根が合わないほど震えていた。 「啓斗さん、寒いです……」 啓斗は顔を上げ、あたりを見回した。 その視線が、私の体に巻かれたエマージェンシーシートで止まった。 雪崩のあと、まだ使える状態で残っていたのは、それだけだった。 啓斗がこちらへ来たとき、私は起こしてくれるのだと思った。 けれど彼の手は、私ではなく、肩にかかっていたエマージェンシーシートへ伸びた。 私は反射的に指に力を込めた。 「放せ、真央」 声は切迫していて、有無を言わせなかった。 「未亜の体温が下がってる。このままだと危ない」 「じゃあ、私は?」 かすれた声が、自分の口からこぼれた。 啓斗は一瞬だけ言葉に詰まった。 「お前は体力がある。未亜より寒さに強いだろ」 エマージェンシーシートが、私の体から引き剥がされた。 寒い。 冷気が一気に体の奥まで入り込み、息をするだけで肺まで凍りつきそうだった。 啓斗はエマージェンシーシートで未亜の体を包むと、今度はしゃがみ込み、私のハーネスにつながっていたクライミングロープをほどき始めた。 「何してるの?」 その瞬間、ようやく本気で怖くなった。 「連れていけるのは1人だけだ」 啓斗は私を見ないまま、手早く結び目をほどいていく。 「使えるロープはもうこれ1本しかない。この先はクレバス帯だ。ロープなしじゃ越えられない。 今の未亜じゃ無理だ」 「じゃあ、私は!?」 私は啓斗の腕を強くつかんだ。 啓斗はようやく顔を上げ、私を見た。その目には迷いも、後ろめたさもあった。 けれどそれ以上に、私なら置いていっても大丈夫だと、当然のように思っている色があった。 真央なら大丈夫だ。 真央なら、きっと何とかできる。 そう言われている気がした。 「真央、ここで救助を待て」 啓斗は立ち上がり、ほどいたロープを未亜の腰に結んだ。 「もう救助要請は出てる。長くても2時間で救助隊が来る。 お前なら大丈夫だ。今までも、ずっとそうしてきただろ」 啓斗は未亜の手を取り、下りるほうへ歩き出した。 吹雪が、その背中を白くぼかしていく。 私は口を開き、啓斗の名前を呼ぼうとした。 けれど声は、風にかき消された。 彼は振り返らなかった。 二度目の雪崩が来た。 足元の雪が轟音とともに崩れ、私はそのまま暗闇へ落ちていった。 最後に覚えているのは、氷の壁に体を打ちつけられた感覚だった。 衝撃のたびに息が詰まり、意識が少しずつ遠のいていく。 やがて、音も痛みも分からなくなった。 氷点下30度の闇が、静かに私をのみ込んでいった。 啓斗は、2時間待ってと言った。私なら大丈夫だと言った。 しかし、きっと彼は忘れていたのだ。 私だって寒さを感じるし、怖くもなる。死ぬことだってある、ただの人間なのだということを。