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FIFAワールドカップ開幕前夜、久世直哉(くぜ・なおや)がSNSを更新した。 写真の中の彼はポルトガル代表のユニフォームを着て、隣にいる女の子...

Chương (1)

第1章

FIFAワールドカップ開幕前夜、久世直哉(くぜ・なおや)がSNSを更新した。 写真の中の彼はポルトガル代表のユニフォームを着て、隣にいる女の子を見つめながら笑っていた。 添えられた一文は、ひどく甘かった。 【今日からアルゼンチンは卒業。愛するのはC・ロナウドだけ】 共通の友人たちは、誰ひとり何も言わなかった。 知らないはずがない。四年前、アルゼンチンが優勝したあの夜、彼は夜明けまで、私――佐倉知紗(さくら・ちさ)を抱きしめて泣いていた。 そして同じ夜、彼は私の指に指輪をはめた。 「メッシは夢を叶えた。俺たちも、そろそろ家庭を持とう」 彼はそう言った。 誰かが、もうメッシは好きじゃないのかと彼に聞いた。 彼はこう返していた。昔は分かっていなかった。今になってやっと、誰を好きになるべきか分かったんだ、と。 私は長いあいだそれを見つめていたが、コメントはしなかった。 ただ、離婚協議書をリビングテーブルの上に置いた。 搭乗前、私は指輪を彼の青と白のユニフォームのポケットに残してきた。 今度こそ、私はもう彼と一緒に試合を見ない。 第1話 FIFAワールドカップ開幕前夜、久世直哉(くぜ・なおや)がSNSを更新した。 写真の中の彼はポルトガル代表のユニフォームを着て、隣にいる女の子を見つめながら笑っていた。 添えられた一文は、ひどく甘かった。 【今日からアルゼンチンは卒業。愛するのはC・ロナウドだけ】 共通の友人たちは、誰ひとり何も言わなかった。 知らないはずがない。四年前、アルゼンチンが優勝したあの夜、彼は夜明けまで、私――佐倉知紗(さくら・ちさ)を抱きしめて泣いていた。 そして同じ夜、彼は私の指に指輪をはめた。 「メッシは夢を叶えた。俺たちも、そろそろ家庭を持とう」 彼はそう言った。 誰かが、もうメッシは好きじゃないのかと彼に聞いた。 彼はこう返していた。昔は分かっていなかった。今になってやっと、誰を好きになるべきか分かったんだ、と。 私は長いあいだそれを見つめていたが、コメントはしなかった。 …… 「今回、ロナウドのスタメンはほぼ確実だな。あの実使用モデルのユニフォーム、明日持っていくよ」 直哉はドアを開けて入ってくるなり、スマホに向かって目元を緩ませて笑っていた。声には、抑えきれない高揚がにじんでいた。 私はソファに座っていた。スマホの画面の光が、顔をぼんやりと照らしている。 画面に映っているのは、直哉が十分前に更新したばかりの投稿だった。 「まだ寝てなかったのか?」 直哉は靴を履き替えてこちらへ歩いてくると、車のキーを玄関の棚に無造作に置いた。 暗がりの中に座る私に気づき、近づいてフロアライトをつける。 暖かな黄色い光が、目に少し痛かった。 「何見てるんだ?」 彼はごく自然に私の隣へ腰を下ろし、いつものように肩を抱こうとした。 私はわずかに身を引いて、その手を避けた。 彼の手が宙で止まり、眉間にかすかな皺が寄る。 「あなたの投稿」 直哉は一瞬だけ固まったあと、手を引っ込め、ネクタイを緩めた。 「ああ、あれか」 その口ぶりは淡々としていて、まるで取るに足らないことのようだった。 「美玲が帰国したばかりで、どうしても一緒に試合を見たいって言うんだ。女の子だし、ロナウドが好きなんだよ。あんなの、ただの冗談みたいなものだろ」 彼は声を和らげた。まるで、わがままを言う子どもをなだめるように。 「応援するチームを変えただけだ。サッカーなんて、新鮮な気持ちで見るのも楽しいだろ」 「新鮮?」 「ああ。お前はサッカー、よく分かってないだろ。普段、見ようって誘っても、いつも眠そうにしてるし」 彼はソファの背にもたれ、眉間を揉んだ。 「美玲はそのあたりの話が分かるから、話が合うだけだ。変に勘ぐるなよ」 彼はいつもこうだった。 当然のような顔で、ひいきをもっともらしく言い換える。 そして私の努力を、何も分かっていないの一言で、軽く片づけてしまう。 四年前、彼とあの試合を見るために、私は三晩徹夜でチームのことを調べた。 アルゼンチン代表の選手全員の名前とポジションを覚えた。 彼が欲しがっていたユニフォームを買うために、街じゅうを駆け回った。 それなのに今、彼は私がサッカーを分かっていないと言う。 「美玲は四年も海外にいたんだ。帰ってきたばかりで、こっちに友達もあまりいない」 私が黙っているのを見て、直哉は口調を柔らかくし、私の手首を握った。 「俺はただ、昔からの知り合いとしてもてなしてるだけだよ。こっちの生活に慣れさせてやってるだけだ。お前はいつも物分かりがいいのに、どうして今回に限ってそんなに気にするんだ?」 彼の手のひらは熱かった。けれど私は、ただ寒かった。 相沢美玲(あいざわ・みれい)は彼の幼なじみであるだけでなく、初恋の人でもあった。 四年前のあの日、美玲は海外で婚約を大々的に発表した。 そしてその夜、直哉はひどく酔い、胸が張り裂けそうなほど泣きながら私を抱きしめた。 私は、彼がメッシの優勝に感極まったのだと思っていた。 けれど数日前、美玲が私に一枚のスクリーンショットを送ってきた。 四年前のあの夜、直哉が彼女に送ったメッセージだった。 【お前の勝ちだ。俺は適当に誰かと結婚する。幸せにな】 あの、誰もが胸を打たれたプロポーズは、最愛の人を失った彼の当てつけでしかなかった。 私はただ、空白を埋めるための代用品だったのだ。 「気にしてない」 私は少しずつ、自分の手を引き抜いた。 直哉は空になった手のひらを見つめ、目に苛立ちをよぎらせた。 「気にしてないなら、どうしてそんな顔してるんだ?」 彼はため息をついた。 「明日は会社で朝イチの会議があるし、明後日の夜は試合も見る。お前と喧嘩する余裕なんてないんだ。早く寝ろよ。余計なことを考えるな」 そう言って彼は立ち上がり、そのままバスルームへ向かった。 説明は一言もなかった。 どうして私がこんな時間にリビングに座っているのか、尋ねもしなかった。 バスルームから水音が聞こえてきた。 私のスマホが一度震えた。 美玲からのメッセージだった。 写真が一枚。 写真の中で、直哉はショップのカウンターの前に立ち、うつむいてあのポルトガル代表のユニフォームを選んでいた。 添えられた文には、こうあった。 【彼が言ってたの。昔は着るものを間違えていたけど、ようやく本来のユニフォームに着替えられるって。佐倉さん、人の居場所に居座る日々は、そろそろ終わりにしたら?】 私は画面を見つめたまま、返信もしなければ、ブロックもしなかった。 ただ静かに、スマホを伏せてテーブルに置いた。 航空券は、もう取ってある。 明後日の深夜。 ワールドカップのキックオフ一時間前。 直哉、昔は分かっていなかったって、そう言っていたよね。 大丈夫。これから先、あなたが分かる必要なんて、もうないから。 第2話 翌日の午後。 私は、直哉がよく通っているスポーツバーへ向かった。 そこには、半年前に私が預けておいたポスターが一枚あった。試合の夜に、彼へのサプライズにするつもりで用意していたものだった。 バーは昼間は営業していない。けれど、裏口の鍵が開いていることを私は知っていた。 少しだけ開いていたドアを押し、廊下を抜ける。 見慣れた個室の前まで来たところで、中から聞こえてきた笑い声に、私は足を止めた。 「直哉さん、昨日の投稿、攻めすぎだろ」 友人の一人の声だった。明らかにからかっている。 「ほんとだよ。ポルトガル代表のユニフォームを着るだけならまだしも、あの文面はさすがにやりすぎだって。奥さん、見て怒らなかったのか?」 「当時のプロポーズ動画、今でも俺たちのグループチャットでピン留めされてるんだぞ。お前がアルゼンチン好きでたまらなかったの、周りで知らないやついないだろ」 個室の中が、一瞬静かになった。 やがて、ライターを鳴らす乾いた音がした。 「別に」 直哉の声は気だるく、どこまでも投げやりだった。 「あのときは、そういう空気だったから乗っただけだよ。今思えば、人の勝ち負けに自分の恋愛まで重ねるなんて、ずいぶん子どもっぽかったな」 私は指先でドア枠をつかんだ。関節が白くなる。 そういう空気だったから。 乗っただけ。 子どもっぽかった。 私が四年間、大切に胸にしまってきた、人生でいちばんまぶしい瞬間だったはずのプロポーズは、彼の口にかかれば、たったそれだけのものだった。 もう分かっていたはずなのに。 それでも、彼の口から聞くと、胸はやはり痛んだ。 「直哉さん、それはさすがにないだろ。知紗さん、あのときお前のユニフォームを買うために、真冬のショップの前で一晩中並んでたんだぞ」 別の友人が、少し見かねたように言った。 「並んだから何だよ」 直哉は気にも留めない様子で、軽く笑った。 「妻っていうのは、家にいて穏やかに暮らす相手だろ。安定していればそれでいい。 でも試合みたいに熱くなる場面は、分かるやつと一緒に現地で見たほうが盛り上がる。 知紗は退屈なんだよ。オフサイドも分からないし、あいつとサッカーを見るのは正直きつい」 「直哉、佐倉さんのこと、そんなふうに言わないで」 甘えるような女の声が割って入った。美玲だった。 「佐倉さん、投稿を見たら絶対に怒るよ。やっぱり消したほうがいいんじゃない?帰ってから二人が喧嘩になったら、私、申し訳ないし」 「消す?」 直哉の声が、すぐに低くなった。隠す気のないかばい方だった。 「俺には、誰を好きか言う自由もないのか? 大丈夫だよ。あいつは騒がない。体裁を気にするから、こういうことは一人で抱え込むんだ。 それに、俺はただ応援するチームを変えただけだろ。それくらいで離婚なんてするわけない」 個室の中で、どっと笑い声が起こった。 「さすが直哉さん、分かってるな」 「奥さん、あの性格なら確かにすぐ機嫌直りそう。バッグでも買えば終わりだろ」 「ほらほら、美玲ちゃんにも一杯。これで俺たちの観戦仲間にも、やっとサッカーの分かる女神が来たな」 グラスが触れ合う澄んだ音に、美玲のはにかんだ笑い声が混じる。 その音が、ドア越しに私の鼓膜へ突き刺さった。 私はドアの外に立ったまま、胸の奥が急にぎゅっと締めつけられるのを感じた。鈍い痛みが、体の内側へじわじわと広がっていく。 彼にとって、私の我慢や思いやりは、ただ扱いやすいという意味でしかなかったのだ。 彼の邪魔をしたくなくて、私は何度もつらさを飲み込んできた。その我慢さえ、いつの間にか、彼が人前で余裕を見せるための材料になっていた。 私はドアを開けなかった。 中へ踏み込んで問い詰めることもしなかった。 ただ、手元にある紙箱へ視線を落とした。さっきカウンターから受け取ってきたばかりの箱だった。 中には、彼がずっと探していたポスターが入っている。 私は廊下の突き当たりまで歩いた。 そして、手を離した。 鈍い音を立てて、紙箱がゴミ箱の中へ落ちた。 あのころ、彼のために夜を明かして赤くした目は、ただ見えないものを見ようとしていただけだった。 私は振り返らず、バーを出た。 外の陽射しは、ひどくまぶしかった。 私は冷たい空気を深く吸い込んだ。 本当は、とっくに気づくべきだった。 彼が助手席を美玲に譲ったとき。 私の誕生日はきれいに忘れていたのに、美玲がピーナッツアレルギーだということは覚えていたとき。 真夜中、美玲からの電話一本で慌ただしく家を出ていったとき。 この四年間の関係は、もうとっくに腐りきっていた。 それでも私は認めようとしなかった。 傷つけられるたびに、たまに見せる優しさだけを拾い集めて、まだ大丈夫だと思い込んでいた。 でももう、探さなくていい。 第3話 家に帰ると、私は物置から段ボール箱を二つ引きずり出した。 そして家じゅうにあるアルゼンチン関連のグッズを片づけ始めた。 青と白のストライプのクッション。壁に掛けたサイン入りユニフォーム。飾り棚に並べたオーダーメイドのフィギュア。 どれも、かつて私が胸を弾ませながら、彼のために選んだものだった。 今となっては、この馬鹿げた結婚の副葬品でしかない。 私はそれらを一つずつ段ボール箱に入れていった。 涙は出なかった。 未練すらなかった。 夜十一時、玄関の鍵が回る音がした。 直哉が、酒の匂いと香水の香りをまとって入ってきた。 甘ったるいシトラス系のその香りは、今日の午後、バーの前で嗅いだばかりだった。 美玲がいちばん気に入っている香りだ。 「なんでこんなものまで引っ張り出してるんだ?」 リビングの段ボール箱を見て、彼は一瞬きょとんとした。 「大掃除」 私は顔も上げず、マグカップを箱に押し込んだ。 「大掃除って、こんな夜中にやることじゃないだろ」 彼は近づいてきて、背後から私を抱きしめた。 顎を私の肩に乗せる。機嫌を損ねた愛玩用の小動物をあやすような仕草だった。 「まだ昨日の投稿のことで怒ってるのか?言っただろ。美玲に付き合って、ふざけて投稿しただけだって。そんなに心狭くなるなよ」 彼は腕をほどくと、ポケットから小さな箱を取り出し、私の目の前に差し出した。 「ほら。お前のために買ってきたんだ。気に入るか見てみて」 私は箱を開けた。 中には、小粒のダイヤが散りばめられたネックレスが入っていた。 少し派手すぎるデザインで、私の普段の服装にはまるで合わない。 何より目に刺さったのは、箱の底に印字された小さな文字だった。 【C・ロナウド ファンクラブ限定記念品】 その文字を見つめた瞬間、胸が鋭く痛んだ。 十分前、私は美玲の投稿を見ていた。 彼女は何本かのネックレスを並べた写真を載せ、こう添えていた。 【男の人のセンスって、本当に救いようがない。このいちばん派手なのだけは、絶対につけない。誰かほかの人にあげればいいのに】 写真の中で彼女に嫌がられていたそのネックレスが、今、私の手のひらに静かに収まっている。 「どう?きれいだろ?」 直哉は私の異変にまったく気づかず、まだひとりで話し続けていた。 「かなり悩んで選んだんだ。お前にすごく似合うと思って」 人に要らないと言われたものを、彼はまるでプレゼントのように私へ差し出す。 そのうえ、私が感謝して喜ぶとでも思っている。 「いいと思う」 私は蓋を閉め、箱を無造作にリビングテーブルへ置いた。 「ありがとう」 私が受け取ったのを見て、直哉はほっとしたようだった。 彼にとっては、私がプレゼントを受け取った時点で、この話はもう終わったことになるのだろう。 彼は上着を脱ぎ、バスルームへ向かおうとした。 「直哉」 私は彼を呼び止めた。 「ん?どうした?」 彼は振り返った。少し疲れた顔をしていた。 「明後日の夜、試合が始まるよね」 私は彼の目を見つめ、静かに言った。 「家にいて、一緒に見てくれる?」 これが、私から彼への最後の試しだった。 そして、私の八年分の青春に別れを告げる最後の儀式でもあった。 直哉の目がわずかに揺れ、私の視線を避けた。 「明後日の夜は無理なんだ」 彼はわざとらしく困ったようにため息をついた。 「会社で急に大事な会食が入ってさ。断れないんだよ。大口の取引先が何人も来るんだ。 いい子だから、お前は家で見ててくれ。用事が終わったら、すぐ帰ってきて一緒に見るから」 嘘をつくときでさえ、彼はまばたきひとつしなかった。 彼がそう言ったのと同時に、リビングテーブルに置かれた彼のスマホの画面が光った。 美玲からの通知だった。 内容は非表示になっていたが、送信者の名前だけははっきりと画面に映っていた。 私は知っている。 明後日、彼に会食なんてない。 彼はただ、自分の運命の相手と一緒に、新たな最高の瞬間を見届けに行くだけだ。 「わかった」 私は頷いた。彼の嘘は暴かなかった。 「仕事が大事だもの。行ってきて」 直哉は心底ほっとしたように笑い、こちらへ来て私の髪を軽く撫でた。 「やっぱりお前は物分かりがいいな。この忙しさが落ち着いたら、旅行に連れていくよ」 彼はスマホを手に取り、急ぐようにバルコニーへ向かって返信しに行った。 私はその背中を見つめた。 待ちきれないとでもいうように画面を開く彼の姿を見つめた。 そして、小さく呟いた。 「行ってらっしゃい。これからはもう、私に付き合わなくていいから」 第4話 開幕当日。 夕方から街には細かな雨が降り出した。けれど、サポーターたちの熱気が冷める気配はなかった。 直哉は午後三時には家を出た。 出かけるとき、彼は真新しいポルトガル代表のユニフォームを着て、髪もきっちり整えていた。 「先方に急かされてるから、先に行くな」 玄関で靴を履き替えながらそう言う声には、隠しきれない高揚がにじんでいた。 「夜は待たなくていい。早く寝ろよ」 私はソファに座ったまま、彼がドアを閉めるのを見ていた。 部屋は一瞬で、息が詰まるほど静まり返った。 私は立ち上がり、署名済みの離婚協議書をリビングテーブルの真ん中にきちんと置いた。 その隣には、彼が私にくれたネックレスを添えた。 私は左手の薬指から、ゆっくりとダイヤの指輪を外した。 四年間はめ続けていた指輪は、外したあとも指に深い跡を残していた。 私はクローゼットの前へ行き、一番下の引き出しを開けた。 そこには、洗いざらしで色褪せた、彼がみっともないと嫌がったアルゼンチン代表の青と白のユニフォームがしまってあった。 私は一生を誓ったはずのその指輪を、ユニフォームのポケットに押し込んだ。 それから、スーツケースのファスナーを閉めた。 夜八時、私は空港ロビーの搭乗待合スペースに座っていた。 周囲の大型スクリーンでは、まもなく始まる試合の特集映像が流れている。あたりにはユニフォーム姿の人々があふれ、どこもかしこも騒がしかった。 スマホが一度震えた。 美玲から動画が送られてきた。 動画の中のバーの個室は、薄暗く、妙になまめかしい照明に包まれていた。 美玲は丈を短く仕立て直したタイトなユニフォームを着て、人目もはばからず直哉の膝の上にまたがっていた。 直哉は笑いながらグラスを持ち上げ、彼女の口元へ酒を運んでいる。 周りでは仲間たちが囃し立てていた。 「直哉さん、キス!キス!」 直哉は拒まなかった。 彼は顔を寄せ、美玲の横顔にキスをした。 美玲はカメラに向かって、勝ち誇ったようにピースサインをしてみせた。 添えられた文には、こうあった。 【ごめんなさいね。これから彼の最高の瞬間を見届けるのは私だから。佐倉さん、早く寝てね】 私は画面の中で、思うがままに楽しそうに笑う男を見つめた。 けれど胸の中には、驚くほど何の波も立たなかった。 怒りもなければ、痛みもない。 ただ、すべてが収まるべきところに収まったような、軽さだけがあった。 私は美玲とのトーク画面を開き、一言だけ返した。 【お似合い】 それから電源ボタンを長押しして、スマホの電源を完全に切った。 何年も使っていたSIMカードを抜き取り、ゴミ箱に捨てた。 館内放送で、搭乗開始を告げるアナウンスが流れた。 私は立ち上がり、スーツケースを引いて、保安検査場へ向かった。 外では熱狂的な歓声が渦巻いている。 けれど私のいる場所には、ひとりで去っていく静けさだけがあった。 それでも構わない。 これから先、私の世界は、私だけのものになる。 夜十一時。 試合がキックオフした。 バーの盛り上がりは最高潮に達していた。 直哉は大型スクリーンを見つめながら、美玲の腰をしっかりと抱き寄せていた。 そのとき、彼のポケットの中でスマホが激しく震え始めた。 彼はいら立ったようにスマホを取り出し、着信表示に目をやった。 見知らぬ固定電話の番号だった。 切ろうとした。けれどなぜか、その瞬間、胸の奥を不安がよぎった。 彼は美玲をそっと離し、片耳を手でふさぎながら、個室の外へ出て電話に出た。 「どちら様ですか?」 背景では、ゴールが決まったかのような歓声が響いていた。 電話の向こうから聞こえてきたのは、冷静で事務的な男の声だった。 「久世様でいらっしゃいますか。私、佐倉知紗様より依頼を受けております弁護士です。 佐倉様はすでに離婚協議書にご署名されています。書類は現在、お二人のご自宅のリビングテーブルに置かれているとのことです。 佐倉様からのご伝言です。私はもう出ていきました。お時間のあるときに、速やかに離婚の手続きをお進めください、とのことです」 直哉の笑みが、一瞬で顔に張りついたまま固まった。 バーの中を揺らすほどの大歓声が、その瞬間、彼の世界から完全に消え失せた。