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荒れていく彼の心を見送って
私には、秘密がある。 誰かに触れた瞬間、その人が心の中でいちばん大切に想っている人の顔が見える。 7歳のとき、上田大河(うえだ たいが)...
Chương (1)
第1章
私には、秘密がある。
誰かに触れた瞬間、その人が心の中でいちばん大切に想っている人の顔が見える。
7歳のとき、上田大河(うえだ たいが)が隣に引っ越してきた。あの日から、大河の心の中にはずっと、私だけがいた。
18歳、初めて手を繋いだとき――私だった。
22歳、プロポーズされたとき――私だった。
結婚式の夜、唇が重なったとき――やっぱり、私だった。
しかし結婚3周年の朝。ネクタイを直してあげようと、指先が喉仏にそっと触れたとき、いつものように目を閉じた。
浮かび上がったのは、二つの顔だった。
一つは私。もう一つは、見知らぬ女。
その夜、大河のスマホが光った。
【大河さん、今日は付き合ってくれてありがとう】
21年間で、10万回もの触れ合い。
初めて、狂いが生じた。
第1話
私には、秘密がある。
誰かに触れた瞬間、その人が心の中でいちばん大切に想っている人の顔が見える。
7歳のとき、上田大河(うえだ たいが)が隣に引っ越してきた。あの日から、大河の心の中にはずっと、私だけがいた。
18歳、初めて手を繋いだとき――私だった。
22歳、プロポーズされたとき――私だった。
結婚式の夜、唇が重なったとき――やっぱり、私だった。
しかし結婚3周年の朝。ネクタイを直してあげようと、指先が喉仏にそっと触れたとき、いつものように目を閉じた。
浮かび上がったのは、二つの顔だった。
一つは私。もう一つは、見知らぬ女。
その夜、大河のスマホが光った。
【大河さん、今日は付き合ってくれてありがとう】
21年間で、10万回もの触れ合い。
初めて、狂いが生じた。
……
結婚記念日を祝うために、1カ月前からレストランを予約していた。
着ていく赤いワンピースは、大河が「似合うよ」と言ってくれたお気に入りの一着。パールのピアスも大河からもらったもの。
午後6時。着替えを終えて鏡の前に立ち、ピアスをつけていると、大河から電話がかかってきた。
「急な出張が入った。今夜は無理だ」
慌ただしい声で、それだけ言い残して電話は切れた。
大河のほうから先に電話を切るなんて、これが初めてだった。
鏡の中の自分を見つめる。右のパールはちゃんと収まっているのに、左のピアスだけがつけられないまま、指先で揺れていた。
ほどなくして、親友の真野菜奈(まの なな)から電話がかかってきた。「じゃあ私が付き合うよ」と。
彼女の車に乗って、街なかの洋食屋へ連れていってもらった。
店の前に着いて、ドアに手をかけた瞬間、私の足が止まった。
ガラス張りの窓際の席に、大河がいた。
向かいに座っているのは、25、6歳くらいの女性。笑うと口元に、くっきりとしたえくぼが浮かぶ人だった。
大河はすっと手を伸ばし、親指で彼女の口元についたクリームをそっと拭った。
18歳のころからずっと、私だけに向けてくれていた仕草だった。
隣の菜奈もそれに気づいていた。今にもドアを押して飛び込んでいきそうな彼女の腕を、私は咄嗟に掴んで引き留めた。
「やめて」
「……あの女、誰なの!?」
「ううん、知らない」
夜の11時、大河が帰ってきた。毎年の記念日とまったく同じように、赤いバラを一束抱えていた。
シャワーを浴びて出てきた大河が、背後からそっと私を抱きしめる。あごを私の頭の上に乗せて、低い声で言った。
「実里、今日は本当にすまなかった。絶対埋め合わせするから」
そっと目を閉じると、二つの顔が脳裏に交互に浮かんだ。私――伊能実里(いのう みのり)と、あの女。
半分ずつ。
21年間で初めて、大河の心の中に「他の誰か」を見た。
大河が眠りについてから、スマホをそっと手に取った。
ロック解除のパスコードは私の誕生日のまま、何も変わっていなかった。
チャット一覧のいちばん上に「ピン留め」されていたのは、本間望美(ほんま のぞみ)との会話だった。
半年前から始まったそのやり取りは、仕事の連絡からいつしか日常の雑談へと変わっていた。【了解です】というビジネスライクな返信が、【おやすみ】という親密な挨拶になっていた。
【今日、気分が落ち込んでて。甘いもの食べたい】という彼女のメッセージに、大河は【1階のお店のナポレオンパイ、買ってきてあげるよ】と返していた。
少し遡った日のメッセージには、【前に勧めてくれたお店、一人で行ってみたけど、イマイチだった。次は一緒に連れてって】と。
そして最後が、今夜届いたメッセージだった。【大河さん、今日は付き合ってくれてありがとう】
スマホを置いて、ベッドに戻った。
大河は寝返りを打って、長年の習慣のように私を引き寄せ、寝ぼけた声を漏らした。私はそっと問いかけた。
「……今日、誰と一緒にいたの?」
眠りの淵で、大河は「ん」とだけ喉を鳴らして、私をもっとしっかり抱きしめた。
「クライアントと」
私は、もう何も聞かなかった。
翌朝、出かける前に大河が私の額にキスをした。
「昨日は本当に抜けられなかったんだ。週末、温泉に連れていくから」
その笑顔は、昔と何も変わらなかった。
しばらく彼の瞳を見つめてから、私は「うん」とだけ言った。
大河が出ていくと、あの赤いワンピースをきちんと畳んで、クローゼットの一番奥にしまい込んだ。
昼に菜奈から電話があった。大丈夫かと聞かれて、長い沈黙が流れた。
「実里。あんた、7歳のころからずっと、彼だけを見てきたじゃない」
「わかってる」
「これから……どうするつもり?」
窓の外を見た。空はどこまでも青く、雲ひとつなかった。
「私にも、わからない」
第2話
その日、大河の会社へ行った。
乗り込んだエレベーターの中で、望美と鉢合わせた。私の顔を見るなり、彼女は太陽のようにまぶしい笑顔で手を差し伸べてきた。
「こんにちは。本間望美と申します。上田社長の秘書をしております」
臆する様子も微塵もない、堂々とした自然な振る舞いだった。
彼女はフロアのボタンを押すと、一歩引いて私の隣に並んだ。
しばらくして電話が鳴り、彼女が出た。
「大河さん?うん、あの人、お昼はだいたい食べないんですよ。コーヒー一杯で済ませちゃって。もう慣れました。わかった」
通話を切って、望美は私に向けて微笑んだ。
「お昼を届けにいらしたんですか?」
ちょうどエレベーターのドアが開いたが、私は答えなかった。
社長室に入ると、大河は書類に目を落としたまま、顔も上げなかった。
持参した弁当箱をデスクの上に置く。
「お昼、ちゃんと食べてないの?」
「忙しいと、ついな」
すぐに望美がノックして書類を持ってきた。弁当箱をちらりと見て、くすりと笑いながら言う。
「さすが、気が利きますね。大河さんが肉じゃがを食べたいって言ったら、もうちゃんと作っていらっしゃるなんて」
大河に肉じゃがを取り分けようとした手が、宙で止まった。
大河は黙って食べ続け、その間、一度も顔を上げなかった。
望美が出ていくと、社長室には二人だけになった。
「あの子、大河のことよく知ってるのね」
「誰が?」
「本間さん。お昼を食べないこと、コーヒーしか飲まないこと」
大河は箸を置いた。
「実里、彼女は秘書だよ。俺のことを把握しておくのは、仕事のうちだ」
「そう」
「また変なこと考えてるのか。俺の心の中にいるのはお前だけだ」
わざとらしいほど大きなため息をひとつついて、大河は俯いたまま食べ続けた。
その夜、大河は22時まで残業した。書斎にお菓子を持っていくと、デスクのスマホの画面が光っていた。望美からの、自撮り写真の通知だった。
大河は私が見ている前でスマホをひっくり返して、画面を下にして伏せた。
「仕事の件だ」
「聞いてないわ」
お菓子を置いて、書斎を出た。
ドアノブに手をかけたまま、私はそこで一瞬だけ立ち止まった。
――大河は、呼び止めなかった。
……
週末、「記念日の埋め合わせ」だと言って、大河はレストランに連れていってくれた。
席に案内されるとき、スタッフがにこやかに言った。「上田様、いつものお席ですね」
窓際から2番目のボックス席。一度や二度ではないのだろう。
腰を下ろして、向かいの空いた椅子をしばらく眺めた。
「ここに、誰かを連れてきたことある?」
グラスに水を注ぎながら、大河の手が一瞬止まった。
「クライアントを連れてきたことはあるよ。どうして?」
「別に。いい席ね、と思って」
手を洗いに席を立った大河が戻ってきて、私の皿に彼のステーキを取り分けてくれた。
「ねえ、大河。私たちの間に、もう一人いるみたいな気がすることがあるの」
彼の手が、一瞬止まった。それから、また何事もなかったように動き出した。
「何それ、急に。誰のこと言ってるんだ?」
「なんでもない。ただ聞いてみただけ」
大河は黙々と私の好きなコーンを入れてくれた。
食事を終えて店を出ると、大河のスマホが光った。
彼は少し体を傾けてメッセージを返した。画面が視界の端をちらりと掠めた。
望美からだった。【大河さん、また明日ね】
大河は絵文字だけで返して、画面をロックし、そのままごく自然に私の手を取った。
「行こう」
引かれるままに歩いた。うつむいて、繋がれた手をじっと見つめる。
街灯が地面に影を落とし、私たちの影が前後に長く伸びていた。
ふと、18歳のあの夜を思い出した。初めて手を繋いだとき。
あのころは目を閉じるだけで、心の中は大河の顔でいっぱいだったのに。
そっと目を閉じて、彼の手首に触れた。
……やっぱり二つの顔があった。一つは私で、もう一つは望美。
どちらも、まったく同じくらいの大きさで。
大河が振り返った。「どうした、立ち止まって」
「なんでもない」と答えて、また歩き出した。
大河は、繋いだ私の手をぎゅっと握り直した。
何も変わらない、昔と同じ温もりで。
引かれるままに歩いた。
でも私にはわかっていた。
もう、同じじゃない……
第3話
大河は書斎で残業していた。
深夜11時。温めた牛乳をマグカップに注ぎ、私は書斎へと向かった。
ドアがわずかに開いていた。大河は電話中だった。もうずっと聞いていなかった、あのひどく甘く、柔らかな声で。
「うん、先に寝て。また明日話そう。俺もだよ」
通話を切って顔を上げた大河は、ドアの隙間に立つ私を見て、一瞬だけ固まった。
「……まだ起きてたのか」
「部下に対しても、いつもそんな優しい声で話すの?」
「普通に話しただけだろ。また変な勘ぐりをするなよ」
私は何も言わず、背を向けてその場を離れた。
背後で、書斎のドアがかちりと冷たく閉まる音がした。
昔は大河のほうからあのドアを閉めることなんて、一度たりともなかったのに。
それから20分ほど待つと、ようやく大河が寝室に入ってきた。まだ起きている私を見て、わずかに目を細める。
「大河、聞いてほしい話があるの。私には昔から、不思議な力があって。誰かに触れると、その人が心の中でいちばん大切に想っている人の顔が見える」
ジャケットを脱ごうとしていた大河の手が、ぴたりと止まった。
「7歳のとき、初めてあなたに触れた瞬間、見えたのは私だった。18歳で手を繋いだときも、私だった。プロポーズの日も、私だった。
……そして結婚3周年の朝。あなたの喉仏に触れたとき、二つの顔が見えた。私と、本間さんの顔が」
しんと静まり返った時間のあと、大河はふっと吹き出すように笑った。
「想像力がたくましいな。最近ひとりで家にいることが多いから、気が滅入ってるんじゃないか?」
「冗談で言ってるんじゃない。一言一句、ぜんぶ本当のことよ」
大河の口元から、すっと笑みが消えた。
「お前やっぱり疲れてるよ。一度、ちゃんと診てもらったほうがいいかもしれないぞ」
私は立ち上がり、大河の手を握った。
「1秒だけでいい。今すぐ、頭の中で誰か一人を思い浮かべて。あなたの心の中に今、誰がいるか、私が当ててみせるから」
大河は、さっと手を引き抜いた。
決して乱暴な動作ではなかった。けれどそこに、微塵の迷いすら存在しなかった。
「いい加減にしてくれ!秘書に何か不満があるなら直接俺に言え。彼女にはちゃんと付き合っている相手がいるんだぞ。そんな根も葉もない妄想で、彼女を悪く言うのは失礼だろ!」
大河はジャケットを掴み直すと、そのまま寝室を出ていった。
私はその場に立ち尽くした。先ほどまで大河の手を包んでいた私の手は、まだ何かを掴むような形のままだった。
午前2時。微かなタバコの匂いをさせて、大河が寝室に戻ってきた。
私はそっと目を閉じ、眠っているふりをした。
大河は静かにベッドへ潜り込み、少し間を置いてから、後ろから私をそっと抱き寄せた。
目を閉じたまま、彼の体温に神経を集中させる。
浮かび上がったのは、ただ一つの顔だけだった。
望美の顔。
私の顔はもう、彼の世界のどこにもなかった。
腰に回された大河の腕の重さと、耳元をくすぐる穏やかな寝息。
21年間、ずっと当たり前のように隣にいたのに。彼の心の中から「私」という存在を見つけられなかったのは、これが初めてだった。
そっと、彼の腕の中から抜け出す。
大河がうっすらと目を開け、寝ぼけた声で「……動くなよ」とつぶやいた。
彼の呼吸が再び規則的なリズムに戻るのをじっと待ち、私は寝返りを打って、完全に背を向けた。
カーテンの隙間から差し込んだ月明かりが、部屋の隅にあるドレッサーを照らしている。
私のドレッサー。大河はその上に何が置いてあるか、一度だって気にしたことがなかったのに。
白々とした夜明けが近づくころ。私はそっと起き上がり、小さなスーツケースに最低限の荷物を詰め込んで、ゲストルームへと移った。
翌朝、朝食の時間。大河が、ゲストルームのドアの前に揃えられた私のスリッパに気がついた。
「……そっちで寝たのか?」
「昨夜、どうしても眠れなくて。大河を起こしちゃ悪いと思ったから」
大河は「そうか」とだけ口にして、すぐにまた手元のスマホへと視線を戻した。
それ以上は、何も聞かれなかった。
……
ゲストルームで寝るようになって3日目。
妊娠検査薬に、くっきりと2本の線が浮かんだ。
病院で血液検査を受け、「妊娠6週目です」と告げられる。
もらったばかりの小さなエコー写真を日記帳のページに挟み込み、その余白に、ペンで短く書き添えた。
【あなたがこの世界に来てくれたとき、パパの心には、もうママがいなかったよ】
その足で、大河の会社へ向かった。
オフィスビルの車寄せに着いたとき、ちょうど大河が、望美のために車のドアを開けてあげているところだった。
望美は助手席へと滑り込む。
――かつて、そこが私の指定席だった場所に。
彼女が頭をぶつけないよう、大河はルーフの縁に右手を添えて守っていた。
昔は、私にしか見せなかったはずの、あの仕草で。
「運転手さん。すみません、このまま戻ってください」
バッグに入ったエコー検査の報告書が手元に触れていた。
それでも私は、車を止めてとは言わなかった。
その夜。帰宅した大河を、私はリビングのソファで待っていた。
「今日、お昼に会社まで行ったの」
玄関で革靴を脱ぎながらも、大河の動きは一瞬たりとも止まらなかった。
「なんでオフィスまで上がってこなかったんだ?」
「行っても、なんて言えばよかったの」
大河がちらりとこちらに視線を向けた。その瞳の奥に、明らかな苛立ちが滲んでいる。
「また何か言いたいことがあるのか?」
「あなたが、彼女のために車のドアを開けてあげるのを見たわ。頭を庇ってあげるのも。昔は、私にしかしてくれなかった仕草なのに」
大河は大げさにため息をつき、眉間を押さえた。
「実里。秘書に車のドアを開けてやるくらいのことは、ただのビジネスマナーだろ。昔のお前はもっと物分かりがよくて、そういうのもちゃんと分かってくれていたじゃないか」
「大らかにしろ、って言うの?あなたが私にだけくれていた特別を、他の誰かにそっくりそのまま差し出しても、私は賢い妻として微笑んでなきゃいけない……そういうこと?」
彼は困ったような顔で言った。
「今日は疲れてるんだ。お前と不毛な言い争いはしたくない」
それだけ言い捨てて書斎に入り、またあのドアをピシャリと閉めた。
以前の私なら、見て見ぬふりもできたかもしれない。
けれど今はもう、ただひどく疲れていた。
第4話
病院に一緒に来てほしいとメッセージを送ると、大河からは【わかった】と短い返信があった。
けれど翌朝の7時。私のスマホに届いたのは、1通の冷ややかなメッセージだった。
【急な出張が入った。明後日には戻る。体調が悪いなら運転手を呼んで病院に行ってくれ】
すぐに電話をかけたが、無機質なアナウンスが「電波の届かない場所にいるか、電源が入っておりません」と告げるだけだった。
会社の受付に問い合わせると、電話口に出た若い女性スタッフが、あっさりと答えた。
「上田社長は本日、出張のご予定は入っておりませんが……」
私はひとりでタクシーを呼び、病院へと向かった。
産婦人科の長い廊下。
目の前では、お腹の大きな妻のために、夫がしゃがみ込んでスニーカーの靴紐を結び直してあげていた。少し先では、別の夫が妻の腰をそっと支えながら、気遣うようにゆっくりと歩調を合わせている。
この空間で、ひとりでいるのは私だけだった。
血液検査の結果、黄体ホルモンの数値が著しく低く、切迫流産の危険があると医師に告げられた。
「ご家族の方は、本日はいらっしゃっていませんか?」
「……私が自分で署名します」
そう答えた私を、医師は痛ましそうな目で一瞬だけ見つめた。
「ご主人は?」
「仕事で、出張中です」
医師はそれ以上、何も踏み込んでこなかった。
処置室のベッドに横たわり、張り止めの点滴を受けながら、ぼんやりとSNSのタイムラインをスクロールしていると、不意に望美の新しい投稿が目に飛び込んできた。
息を呑むほど美しい海岸の夕焼けを収めた、9枚の写真。
添えられたキャプションには──
【誰かさんが、ストレスがたまると海を見たくなるって言うから、今日は連れてこられちゃった。上司に甘やかされすぎてます】
9枚目、最後の写真。
画面の右下に、男性の手がほんの少しだけ写り込んでいた。
その薬指に光る指輪。
今この瞬間も私の左手にあるものと、まったく同じデザインの、私たちの結婚指輪だった。
その日の夜10時。
お腹の奥から、引き裂かれるような激痛が始まった。
ひとりでタクシーを呼んで夜間救急に駆け込み、看護師に車椅子を押されて処置室へと運び込まれる。
「……もう、だめでしたか」
「残念ですが、すでに進行流産となっています。今すぐ子宮内容除去の手術が必要です。ご家族への連絡は――」
「私が、自分で署名します」
手術が終わったとき、時計の針は深夜3時を回っていた。
廊下のベンチに腰を下ろし、何度コールしても、大河のスマホは頑なに沈黙を守り続けた。
最後に、短いメッセージを残した。
【大河、大変なことが起きたの。お願いだから早く帰ってきて】
大河から着信があったのは、翌日の午後になってからだった。
通話が繋がった瞬間、電話口の向こうから、ざわめくような波の音と車のエンジン音が漏れ聞こえた。
「今、飛行機を降りたところだ。どうかしたか?」
下腹部に残る鈍い痛みを必死に堪えながら、私は感情の抜け落ちた声で答えた。
「……ううん。もう解決したから、大丈夫」
「そうか?なら良かった。今夜の便で帰るよ。お土産に美味い海の幸を買っていくからな」
その日の夜、大河が帰宅した。
明かりのついていない真っ暗なリビングのソファに座り、私は彼を待っていた。
「なんで電気もつけずに座ってるんだ」と大河は言いながら、手に持っていた大きなビニール袋を、ダイニングテーブルの上にどさりと置いた。
「蟹を買ってきたんだ。明日、蒸してやるよ」
私は何も答えなかった。
大河が隣に腰を下ろし、青ざめた私の顔色に気づいて、心配そうに額へ手を伸ばしてくる。
私は首を振って、その手をそっと払った。
「大河。聞いてほしい話があるの……実は私、妊――」
その言葉を言い終えるより早く、けたたましい着信音が鳴った。望美のために設定された、あの専用のメロディだった。
彼はすぐに視線を落として画面を見た。
その瞬間に変わった表情を、私はよく知っていた。
「……悪い、ちょっと待ってくれ」
言うが早いか、彼の親指が素早く通話ボタンをスワイプした。
「もしもし、どうした?」
漏れる声は、ひどく弱々しかった。けれどこの距離なら、一言一句が嫌でも耳に届いてしまう。
「大河さん……なんか、熱が出ちゃったみたい。体がだるくて、全然力が入らなくて……ねえ、助けて……」
「熱って、ちゃんと測ったのか!?今、何度ある?」
「……38度5分……」
大河は立ち上がり、スマホを耳に当てたまま、すでにつま先を玄関へと向けていた。
「分かった、今すぐ行くから!」
玄関のドアノブに手をかけたところで、彼はようやく思い出したように振り返り、早口で私に告げた。
「すまない。望美がひどい熱を出したんだ!あいつ一人暮らしで、看てくれる人がいないんだ。放っておけないからちょっと様子を見てくる!すぐ戻るから、話はあとで!」
喉の奥までせり上がっていた言葉を、私はただゆっくりと飲み込んだ。
エレベーターの前で、彼の足音が消えていくのを聞いていた。
リビングは静かで、蟹はまだビニール袋に入ったまま、ダイニングテーブルに置かれていた。
胸の奥に残っていた最後の未練も、そこで消えた。
……
翌朝。
大河は、胸の奥にざわめく正体不明の焦燥感を抱えながら、足早に自宅のマンションへと帰ってきた。
ドアを押し開け、ローテーブルの上の流産処置の同意書を目にした瞬間、彼の足がぴたりと止まった。