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聴力を取り戻した私。クズ夫を捨てて永遠に消える
菊地穂花(きくち ほのか)は耳が聞こえるようになると、すぐに菊地徹(きくち とおる)にこの朗報を伝えたくなった。 こっそり自宅に戻った彼...
Chương (1)
第1章
菊地穂花(きくち ほのか)は耳が聞こえるようになると、すぐに菊地徹(きくち とおる)にこの朗報を伝えたくなった。
こっそり自宅に戻った彼女の耳に飛び込んできたのは、耳を塞ぎたくなるような男女がいちゃついている声だった。
女は顔を上げてあえぎながら、誘惑めいた声で囁いた。「徹、あなた本当は穂花のことなんて愛してないんじゃない?だって、欲しくなるたびに私を呼ぶでしょう?まさか、穂花じゃ満たされないの?」
徹の目に一瞬、冷酷な光が走った。「黙れ、お前が穂花のことを口にするな。もし俺たちの関係を穂花に漏らしたら、命はないと思え」
そう言うと、徹はさらに激しく動き、大きな手で容赦なく女の首を締め上げた。衝撃でベッドがきしみ、軋む音が響いた。
穂花は全身から血の気が引いていくのを感じ、両足は鉛を流し込まれたかのように重く、動かなかった。
しばらくして、彼女はスマホを取り出し、見知らぬ番号にメッセージを送った。
【お姉さん、要求を受け入れるわ】
すぐにその見知らぬ番号からメッセージが届いた。【穂花、余計な小細工はしないことね。はっきり言うけど、私たちが入れ替わったら、あなたは二度と徹の前に姿を現さないこと。この約束、守れるわね?】
以前の彼女にとって、徹と連絡を断つことは、まさに命に関わるほど耐え難いことだった。
しかし、徹の浮気を目の当たりにしてしまった今、彼女にはもう手放せないものなど何もなかった。【守るわ】
第1話
菊地穂花(きくち ほのか)は耳が聞こえるようになると、すぐに菊地徹(きくち とおる)にこの朗報を伝えたくなった。
こっそり自宅に戻った彼女の耳に飛び込んできたのは、耳を塞ぎたくなるような男女がいちゃついている声だった。
目に飛び込んできたのは、乱れた格好で、ベッドにいる女の髪を力任せに掴む徹の姿だった。
女は顔を上げてあえぎながら、誘惑めいた声で囁いた。「徹、あなた本当は穂花のことなんて愛してないんじゃない?だって、欲しくなるたびに私を呼ぶでしょう?まさか、穂花じゃ満たされないの?」
徹の目に一瞬、冷酷な光が走り、女を容赦なく平手打ちした。「黙れ、お前が穂花のことを口にするな。もし俺たちの関係を穂花に漏らしたら、命はないと思え」
そう言うと、徹はさらに激しく動き、大きな手で容赦なく女の首を締め上げた。
男の低い咆哮と女のあえぎ声が混じり合い、まるで呪文のように、繰り返し穂花の耳へと入り込んできて、吐き気がする思いだった。
この女は徹の幼なじみである大塚美優(おおつか みゆ)で、穂花も知っている。
名家であるはずの大塚家の箱入り娘が、まるでおもちゃのように徹の相手をさせられている。
徹から電話がかかってくれば、どれほど夜が更けていようと、美優は彼の欲を満たすためにやってくるのだ。
この3年間、ずっとそうだった。
穂花は全身から血の気が引いていくのを感じ、両足は鉛を流し込まれたかのように重く、動かなかった。
どれくらいの時間が過ぎたのか分からないまま、彼女は重い体を引きずるようにして書斎を後にした。
12月のA市ではすでに大雪が降っており、穂花は寒さなど感じていないかのように、庭の椅子に腰掛けたまま、髪に雪が積もるのも気にせずにいた。
しばらくして、彼女はスマホを取り出し、見知らぬ番号にメッセージを送った。
【お姉さん、要求を受け入れるわ】
すぐにその見知らぬ番号からメッセージが届いた。【穂花、余計な小細工はしないことね。はっきり言うけど、私たちが入れ替わったら、あなたは二度と徹の前に姿を現さないこと。この約束、守れるわね?】
以前の彼女にとって、徹と連絡を断つことは、まさに命に関わるほど耐え難いことだった。
しかし、徹の浮気を目の当たりにしてしまった今、彼女にはもう手放せないものなど何もなかった。
3年前、菊地家と遠藤家が結婚話を進め、遠藤家で白羽の矢が立ったのは、穂花の姉である遠藤凪(えんどう なぎ)だった。
当時、姉は恋人と離れがたいほどの深い仲で、菊地家との縁談を拒んで自殺しようとしていた。
姉と瓜二つで、実の母でさえ見間違えるほどだった穂花は身代わりを申し出た。
誰も異論を唱えることなく、彼女は望み通り菊地家に嫁いだ。
誰にも知られていないが、彼女は8年間、ずっと徹に片思いをしていた。
少女時代から大人の女性になるまで、ひそかに抱き続けた想いは、ずっと胸の中に残っていたのだ。
だが今しがた、愛情に育まれてきたその想いは、欲望の炎で焼かれて跡形もなくなってしまった。
穂花は凍りかけた涙を拭い、鼻をすすってから、うつむいたままメッセージを打った。【守るわ。お姉さんが戻ってきたら、私はA市を去る。二度とここには戻って来ない】
【いいよ。契約書を送るから、サインして送り返して。
ビザの更新が終わるまであと7日かかるから、今のうちに過去に別れを告げなさい】
あと7日で、徹とも会わなくなるのだ。
一度汚れた男など、もういらない。
第2話
穂花が【分かった】と返信した直後、自宅の方から徹の怒鳴り声が響いてきた。
「どけ!使えない連中だ。たかが一人の女も見張れないのか?
もし穂花になにかあったら、ただじゃ済まさないぞ」
そう言うと、徹は目の前にいた4人のボディーガードを力いっぱい蹴り飛ばした。
リーダー格のボディーガードは怯えきった様子で、今にも跪きそうだった。「旦那様、奥様は病院の裏口から出て行ったようです。防犯カメラを確認しておりますので、すぐに奥様の足取りもわかるかと」
穂花がボディーガードの目を盗んで抜け出したのは、徹に自分の耳が聞こえるようになったことを伝えたかったからだ。
しかし、徹は彼女にこんなにもひどい裏切りをしていたのだ。
穂花はなんとか気持ちを整えてから、自宅の中へと足を踏み入れた。
彼女が帰宅するやいなや、徹は慌てたように彼女を抱き寄せて言った。「穂花、どこに行っていたんだ。君がいないと聞いて、世界が終わるかと思ったけど、無事でよかった」
彼の瞳からは溢れんばかりの心配が感じられるが、それなのにどうして、他の女と肉体関係を持つなんてことができるのだろうか?
納得のいかない穂花だったが、彼からかすかに漂う生臭い匂いに、思わず吐き気を催した。
スマホを開き、こうメッセージを返した。【ごめんなさい。病院で聴力が戻らないかもしれないって聞いて、一人で冷静になりたかったの】
「そうか……穂花の気が済むならそれでいい。もう何も言うな。お前たちは下がれ!」徹はボディーガードを激しく追い払った。
ボディーガードは皆安堵した表情で去っていった。
その時、隣にいた美優が嘲るように声を上げた。「徹、大丈夫だって言ったでしょ。そんなに緊張して、せっかくだから、もう一回やらない?」
徹は反射的に穂花の方を向いたが、ひどく焦っているようだった。
彼女が助聴器をつけていないことに気づくと、ようやく胸を撫でおろした。彼女に聞こえていなければそれでいいのだ。
徹は冷ややかな眼差しを美優に向け怒鳴った。「穂花の目の前で、俺たちに関係があるような言い方をするな」
美優は気にすることもなく笑った。「なに緊張してるの?どうせ聞こえてないんだから。私と密会するための刺激が欲しかったから、わざと医者に穂花の耳を治させなかったんでしょ?財力がある徹なら、とっくに治せてたはずじゃない?」
その言葉に穂花は凍りつき、衝撃を受けた。
医者が検査のたびに「状態がひどく、一生治らないかもしれない」と言い続けてきたのも、そういうわけだったのだ。
すべては徹が裏で糸を引いていたのだ。
刺激が欲しかった……それだけの理由で?
徹は知らない――生まれつき耳が不自由なのは姉の凪であり、穂花が聴力を失ったのは、あの事故のせいだということを。
美優が執拗に口を挟むため、徹は激昂し、手に持っていたマグカップを投げつけた。「二度とその口を開くな!」
突然の大きな物音に穂花は驚いたが、徹が美優の方に気を取られている間に気持ちを落ち着け、スマホで文字を打って見せた。【何があったの?美優さんの顔、どうしたの?】
徹は美優を睨みつけてから、スマホの音声機能を使って、文字に起こし、穂花に見せた。
【美優のことは気にするな。彼氏と喧嘩して、あいつが一方的に暴れているだけだ。
君が嫌なら、すぐに追い出そう】
徹が平然と嘘をつく姿を見て、穂花は目を伏せ、軽蔑の色を隠して、文字を打った。【そうね】
徹は美優に向かって「すぐに消えろ。二度と穂花の前に現れるな」と冷たく言い放った。
美優は徹の怒りなど全く気にしていないふりをし、意味深に眉を上げ言った。「徹、私が買った大人のおもちゃ届いたわよ。徹の一番好きなロープもあるから、穂花が寝ている隙に、あの子のそばで試してみましょうよ、きっとすごく刺激的よ」
穂花は徹を見たが、彼は否定もせずただ冷ややかに「また今度だ、失せろ」と言った。
穂花はすべてを察し、苦しさが胸の奥にじわじわと広がっていった。
涙をこらえ、二階の自分の部屋へと駆け込んだ。
部屋に入った瞬間、穂花は全身があの吐き気を催すような匂いに包まれた気がして、浴室へ駆け込み、えずき始めた。
物音に気づいた徹も駆けつけ、胆汁まで吐き出そうとする彼女の背をさすりながら、心配そうな声を出す。「どうした?風邪か?」
徹はそう言うと、傍らに控えていた執事の菅野達也(すがの たつや)に向かって鋭い声を飛ばした。「菅野、すぐに入江先生を呼べ!」
しかし穂花の体調が悪かったのは、風邪のせいではなく、妊娠して2ヶ月経っていたからだった。
第3話
主治医である入江正人(いりえ まさと)が手話で状況を伝えると、穂花は自身のお腹に手を当て、深い絶望に打ちひしがれた。
このお腹の子をどうすべきか、迷いばかりが頭を巡った。
しかしその直後、窓際にいた徹が冷ややかな声でか正人に問いかけるのが聞こえた。
「この子をおろしたら、穂花の身体に何か影響はあるのか?」
正人は驚きながら答えた。「菊地様、赤ちゃんは問題ありませんが、今おろせば奥様の体へのリスクが大きいため、私はおすすめしません。どうしてもというのであれば、安定期に入ってからのほうがリスクは抑えられます」
正人が言い終わる前に、徹は険しい口調で言い放った。「ダメだ。俺の家に耳の不自由な子は絶対に必要ない。どんな薬を使おうと構わん、穂花の健康を第一に、至急手術の手配を進めてくれ」
正人は食い下がろうとした。「ですが菊地様、必ずしもそうなるわけではなく、あくまで可能性の話であって……」
しかし徹はその言葉を冷徹に遮った。「もういい、これ以上俺に口ごたえするな。終わったら秘密保持契約書にサインをしておけ」
正人は溜息を吐くと、機材をまとめて部屋を出て行った。
徹の冷酷な言葉はすべて穂花の耳に入り、まるで鋭いナイフのように彼女の心に突き刺さった。
穂花は、流血するくらい力いっぱい掌に爪を深く食い込ませて、その痛みでなんとか涙をこらえた。
どうして私に相談もなく、勝手にこの子の命を奪うんて決められるのだろうか。
どうして私に障害があることを知りながら、妻に迎えたのだろうか。
全身を震わせる穂花を見て、徹は彼女が検査結果に緊張しているのだと誤解し、彼女を優しく撫でながら、スマホで文字を打った。
【穂花、残念な知らせだが、検査の結果、異所性妊娠だそうだ。
君の身体を守るため、どうしてもおろさなければならないんだ】
その画面を見て、穂花は思わず徹に詰め寄ろうとしたが、唇を強く噛みしめて耐え、震える手で文字を入力して徹に見せた。
【そんなはずないわ。以前の健診では、どこにも異常はないと言われたもの】
徹は穂花に補聴器をつけると、心を痛める演技を始めた。「穂花、不慮の出来事なんだ。君の健康管理に問題があったわけじゃない。俺も本当に辛い。まだ二人とも若いし、いずれまた子供は授かれる。君の身体を危険に晒すことはできないんだ」
穂花は首を横に振り、大粒の涙を流した。
本当は「どうして嘘をつくの!」と叫びたかった。
以前の徹は穂花を深く愛しており、彼女が寝込んだ際には、彼は三日三晩つきっきりで看病してくれたのだ。
穂花が欲しがるものは、どんなに困難でも、必ず叶えてくれようとした。
穂花が冗談めかして星が好きだと言えば、徹は本当に星の命名権を買って贈ってくれたのだ。
誰もが徹は穂花を愛していると言っていたのに、どうしてこんなにも彼女に残酷でいられるのだろうか。
【信じられない。ねえ、本当に私に嘘をついていないの?】
穂花は最後の望みをかけてこう尋ねた。
徹は一瞬の迷いも見せず、切なげな瞳で彼女の手を握りしめ、心からの誠意を見せた。
「俺がもし穂花を騙しているなら、二度と君に会えなくなっても構わない。
穂花、もし俺が世界中の人を騙したとしても、君を騙すことだけはできない。君を騙したら、俺はきっと罪悪感に耐えられない。俺にとって君は、俺の心にある穢れをすべて浄化してくれる、純潔で穢れのない存在なんだ」
徹の真剣で優しい眼差しを前に、穂花は悲しみに声も出せずに泣いた。
どうして愛していると言いながら、これほど残酷なことができるのだろうか。
彼女は乱暴に涙を拭い、すべてを諦めたような気持ちで尋ねた。【手術はいつなの?】
徹は穂花の額にそっとキスをした。「3日後だよ。A市で一番の凄腕医師に執刀してもらうから、何も心配いらない、安心してくれ」
穂花が無言で頷いた瞬間、徹のスマホが鳴った。
画面を確認すると、徹は補聴器を穂花から外してから電話に出た。
電話越しに、美優の妖艶な声が聞こえてくる。
「徹、耳の不自由な穂花のこと、上手く丸め込めた?こっちは準備万端よ。いつこっちに来れるの?」
徹は無意識に穂花をちらりと見やり、彼女が悲しみに沈んでいることを確認して言った。「今、穂花の様子がおかしくて、そんな気分じゃない……」
「最高級のムチとロープも用意したのに?もし来ないなら、他の人を呼んじゃうわよ?」
その言葉を聞いて、徹の目つきがふっと陰った。「クソッ……待っていろ、すぐに場所を送れ」
低音で囁く徹の声に、美優はケラケラと笑う。「徹、諦めなさい。あなたと私は最高の相性なんだから。あのひ弱な穂花に、あなたの変態的な要求が満たせるはずないでしょ?」
徹は吐き捨てるように言った。「穂花を傷つけたくないだけだ。お前のような尻軽女と一緒にされてたまるか」
電話を切った徹を見て、穂花はスマホを使って入力した。【今のは美優さん?】
一瞬、徹は穂花の耳が治ったのかと肝を冷やしたが、自分の手元に補聴器があると気づき、やっと安心した。
再び穂花に補聴器をつけると、徹は言い繕った。「ああ、美優からだよ。君も知っているだろう、あいつはプライドが高くて子供の頃から付き合いがあるからさ。恋人にDVを受けていることを隠したがるんだ。さっきも殴られたらしくてね、様子を見てやろうと思ったんだ」
穂花は頷いたが、徹は普段のように不満の表情を見せない穂花に、違和感と胸騒ぎを覚えた。
それでも深くは考えず、異所性妊娠の事実を知ったショックで気持ちが不安定なのだろうと片づけた。
「今夜は何時に帰れるか分からないから、俺を待たずに先に休んでくれ」と言うと、徹は穂花に優しく布団をかけ直した。
徹が席を立とうとすると、穂花はその袖を掴み、瞳に切なる願いを込めて見上げた後、俯いて文字を打った。
【今夜、行かないで。一緒にいて】
徹は甘やかすように笑った。「穂花、約束するよ。出来るだけ早く帰ってくるから、我慢してくれ。
美優も一大事だから、見てやらないといけないんだよ。君は聞き分けがいいから、理解してくれるよね?」
穂花の瞳から光が消え、彼女は大人しく手を放した。【分かったわ】
こうなると知っていながら、彼女はそれでもあえて傷つきに行く自分を止められなかった。
徹がこの部屋から出て行けば、今夜もう彼が帰ってこないことなど、分かっていたはずなのに。
第4話
徹が部屋を出ていくと、穂花もベッドから起き上がった。
凪が送ってきた契約書を印刷した。そこに書かれていたのは、【今後二度と徹の前に姿を現さないこと。約束を破った場合は、莫大な違約金を支払うこと】といった旨が綴られていた。穂花は目を通し、迷うことなく一番下に署名した。
別れると決めてから、穂花は身の回りのものを整理しようとした。
だが、クローゼットを開けてみると、そこには凪が好きな服がぎっしりと並んでいた。
凪になりすますため、穂花は自分の好みの服を捨て、話し方や服装、さらには仕草までも、すべて彼女の真似をして生きてきたのだ。
穂花は決して日の当たる場所に出られない存在で、一生を凪の影の下で生きるしかなかった。
この部屋にあるものでさえ、自分のものではなかった。
これからは自分らしく生きたい、と思いながら荷物をまとめていた時、スマホの画面がふっと点灯した。
見知らぬ番号から、あるリンクが送られてきた。
また迷惑メッセージだろうと思ったが、続けてもう一つのメッセージも届いた。
【穂花、リンクを開かなくて本当にいいの?】
こんな連絡をしてくる人なんて、美優以外に思いつかなかった。
覚悟を決めてリンクを開くと、暗号化された配信画面へと切り替わり、耳をつんざくような女性の苦しそうな喘ぎ声が聞こえてきた。
徹が、美優を自分好みに「調教」しているライブ配信だった。
徹の口から飛び出す下劣な言葉を聞きながら、穂花は、ずっとこの男のことを、何も分かっていなかったのではないか、と錯覚に陥った。
彼女の記憶の中の徹は、潔癖で手の届かない存在だった。しかし、情欲に支配された徹の今の姿は、吐き気を催すほどおぞましかった。
すぐさま、美優からも追い討ちのメッセージが届いた。
【徹が本当にあなたを愛しているなら、私とこんなことするわけないでしょう?
分かったら、おとなしく徹と離婚しなさい】
本当に気持ち悪いと思いつつ、穂花は配信画面を全て録画し、スマホに証拠の動画を保存してから、リンクを閉じた。
掃き出し窓から庭を眺めると、今夜の雪は一層激しく、手入れしていたバラまで枯れ始めていた。
舞い落ちる雪を眺めながら、穂花は遠い日の記憶に思いを馳せた。
穂花が初めて徹に出会ったのは高校二年生のときで、内気な彼女は同級生に、洗面台へと無理やり顔を押しつけられていた。
冷たい水道水が絶え間なく口や鼻に流れ込み、窒息しそうになったそのとき、暖かい陽だまりのような声が耳に届いた。
「おい、これ以上そいつをいじめるな。これ以上やるなら、女相手でも容赦しないぞ!」
その同級生も事を大きくしたくなかったのか、しぶしぶと去っていった。
徹が彼女を水から引き上げた。「おい、やられっぱなしかよ?殴り返せよ。
そんなに可愛い顔してるのに、なんで自信ないんだ。またいじめられたら、俺を呼べよ。
俺は菊地徹。君は?」
本当の名前を名乗る勇気がなくて、とっさに姉である凪の名前を言ってしまった。
その日以来、穂花は自分の人生が変わったと感じ、帰り道、彼女をいじめる者は一人もいなくなった。
後に分かったことだが、徹が陰で彼女を守っていてくれたのだ。
そのお陰で、彼女はようやく勇気を出して鏡を見ることができ、自分が本当はとても綺麗なのだと気づいた。
徹は、穂花にとって光のような存在で、何に対しても恐れず、自信が持てるようになったのは、彼の言葉があったからだった。
こうして、名もなき雑草だった穂花は、可憐な花へと変わっていった。
若くて純粋な感情と温かな徹の姿は、彼女の中に深く根を下ろし、秘めた恋心は枝葉を伸ばすように膨れ上がっていった。
しかし、彼女が差し出した最も純粋な心は、今や彼によってためらいもなく踏みにじられ、粉々に砕かれてしまった。
かつては、あんなにも優しかった徹が、なぜこんな姿になってしまったのか。
第5話
徹が戻ってきたのは、3日後のことだった。
この3日間、徹はずっと美優と過ごしていた。
穂花はその事実を知りたくはなかったが、美優が毎日メッセージを送りつけては彼女を刺激してきた。
こうして日々を重ねていくうちに、穂花の心は麻痺していった。
「穂花、海外の支社でトラブルがあって、3日間そっちに行っていたんだ。
ごめんよ。急ぎの案件で、連絡する暇もなくてさ」
徹は部屋に入るなり、言い訳を並べたが、実際は美優とつるんでいたんだろう。
穂花は徹の嘘を暴くつもりはなかった。あと4日で、凪が戻ってくれば、もう徹のこととは無関係になるのだから。
穂花が何の反応も見せないのを見て、徹は彼女が補聴器を外していることに気づき、執事の達也に命じてつけさせた。
「穂花、怒っているのか?ごめん。俺が悪かった。
どんなに忙しくても、ビデオ通話くらいするべきだったね。今回のことは許してくれないか?
君の大好きなサファイアのネックレスを買ってきたんだ。これで勘弁してくれないか?」
穂花はネックレスに目もくれず、ふと顔を上げると、徹の首筋に残るうっすらとしたキスマークが目に入った。
彼女は冷静にティッシュを一枚取り、それを徹に渡してふき取るようにジェスチャーして見せた。
徹は一瞬ぎくりとし、慌ててティッシュを受け取り、スマホの画面で自分の首元を確認すると、青ざめた表情で取り繕った。「穂花……これは蚊に刺されたんだ。出張先が南の熱い場所だったから……」
徹が言い終わる前に、穂花は素早く文字を打ち込んで見せた。【わざわざ説明しなくていいよ。徹のことを信じているから。
それより、中絶手術だけど、なるべく早めに済ませたいの】
メッセージを読み終えた徹は、穂花の反応があまりにも淡々としていることを不審に思った。
まさか、自分と美優との関係がバレたのだろうか?
その考えがよぎった瞬間、徹はすぐにそれを打ち消した。もし穂花にバレていれば、もっと激しい言い争いになっているはずだからだ。
安心した徹は、優しげな顔つきで穂花の頭を撫でた。「分かった」
穂花は簡単に身支度を整えると、病院へと向かった。
まさか、手術の執刀医が美優だとは思ってもいなかった。
手術台に乗ると、徹は美優に対して繰り返し念を押した。「美優、穂花は痛みに弱いから、なるべく優しくやってくれ。
もし彼女に痛い思いをさせたら、お前が一生痛い目を見ることになるぞ」
美優は徹を嘲笑おうとしたが、その目に宿るあまりの真剣さに、観念したように答えた。「分かってるわよ。徹がこの耳の不自由な子を溺愛してるって、A市で知らない人なんていないんだから」
執刀前、徹は美優に手術室から追い出された。
手術室に二人きりになると、美優はスマホでメッセージを打ち、穂花に見せた。
【どうして徹があなたのお腹の子を堕ろすのか、分かってる?
私が彼の子を身ごもっていて、しかも彼が私に産むことを認めてくれているからよ】
穂花はもとからこの子を産むつもりはなかったが、それでもこぶしを強く握りしめた。
美優の言葉に胸が締め付けられるようだった。
真っ青になった穂花を見つめる美優の瞳の奥に復讐の快感がよぎり、美優は小声で囁いた。
「穂花さん、少し痛むと思うけど、我慢してね。
徹からの指示で、麻酔は打たないでって。私のせいじゃないから、恨むなら徹を恨んでね」
冷え切った医療器具が、穂花の下腹部へと差し込まれた。
穂花はそれが美優の意図的な仕打ちだと分かっていたが、両手を台に固定されていて、抵抗することすらできなかった。
激痛に眉をひそめるしかなく、どうすることもできない。内臓がかき回され、身も裂かれるような苦しみだけが全身を支配していた。
何か温かいものが下腹部からこぼれ落ちていった。
朦朧とする意識の中で、陽だまりのように明るい少年が笑いかけてくる声がした。「俺は菊地徹。君は?」
違う、もし時間を遡れるのなら、もう二度と菊地徹などという男には会いたくなかった。
第6話
穂花が再び目を開けると、眩しい蛍光灯の光が飛び込んできた。病院の病室だ。
下腹部に手術後の激痛が走り、徹によって自分のお腹の子が堕ろされたのだと、否応なく自覚させられた。
しかも、その手術を行ったのは、徹の浮気相手だった。
これ以上に残酷なことが、この世にあるだろうか?
声にならない叫びをあげるように口を開いたが、涙は止めどなくこぼれ落ち、枕を濡らした。
徹は彼女が傷を痛がっていると勘違いしたのか、焦った様子で彼女の手を掴み、問いかけてきた。「穂花、どこが痛い?今すぐ医師を呼ぶから、耐えてくれ。すぐに来るから」
穂花は力なく首を横に振り、スマホで文字を打ち込んで徹に見せた。
【美優に麻酔を打たせないように言ったの、あなたでしょ?】
徹は眉をひそめるが、すぐに力を抜き、困惑したように聞き返した。「穂花、なぜそう思うんだ?麻酔をしないなんてあり得ない。君が痛みに弱いのは俺も知っている、わざとそんな真似をするはずがないだろ?」
穂花は俯いて打ち込んだ。【本当に?でも、美優さんがそう言ってたよ】
彼女は徹をじっと見つめ、徹が本当にこれほどまで残忍な人なのかどうか、彼の表情から真実を読み取ろうとした。
徹は反射的に否定し、彼女の額に優しくキスをした。「美優は君の主治医だぞ、麻酔をしないなんて、そんなことあるわけないだろ。君が美優に不信感を持っているのは分かるけど、彼女はこのA市で一番凄腕の産婦人科医なんだ」
要するに、徹は美優の身の潔白を信じており、穂花の言葉は信じてくれない。
穂花は俯き、スマホの画面を濡らす涙を気にすることもなく、突き出すようにしてスマホを見せた。【……つまり、私のことを信じていないってことね。
私が美優さんを嫌っているから、わざと彼女に意地悪をしているとでも思っているの?】
徹は困ったようにため息をつき、スマホを取り上げた。「穂花、まだ安静にしていないと、こんなことで争いたくない。体調が戻ったら、君の代わりに美優をしっかり叱っておくから、それでいいだろう?」
穂花は、その口先だけの言葉に絶望したように、悲しげな笑みを浮かべた。
自分は一体、まだ何に期待していたのだろう。徹の指示なしに、美優がこんなことできるはずがないことは、最初から分かりきっていたことだった。
最後に穂花は言った。【家へ帰りたい、入院はもう嫌】
穂花がこれ以上騒ぎ立てない限り、徹はそれ以外の彼女の望みをすべて聞き入れてくれた。
帰りの車内、ハンドルを握る徹に対し、穂花は一言も口をきかなかった。
徹の方は穂花の機嫌を損ねまいと、自分から話しかけ、旅行の話まで切り出した。
「穂花、前に海に行きたいって言ってたけど、近いうちに時間を作って、一緒に海へ行かないか?」
そもそも海が好きなのは徹で、穂花は好きではない。
徹に片思いしていた頃、穂花はまるで憐れなストーカーのように、徹のSNSを読みあさっていた。
彼が投稿する海辺の写真を見るたびに、穂花までもその青い海が好きだと思い込んでいたのだ。
結婚後、徹が新婚旅行はどこに行きたいかと尋ねてきたとき、穂花は迷うことなく【鏡湖へ行きたい】と答えた。
穂花が枕にもたれかかったまま何も言わずにいると、ふいにスマホが振動した。
凪からのメッセージが届いていた。
【今、A市に着いたところ。用事を済ませてから、明後日そっちへ向かうよ。
穂花、もし私を出し抜こうなんてしたら、あなたのあの件を全部バラすからね】
穂花は冷静に【はい】とだけ返信した。
あと2日で、すべてが終わるのだから、せめて残された時間くらい、良い思い出にしておこう、穂花はそう思った。
穂花は再び文字を打ち込み、徹に見せた。【ねえ、もう一度新婚旅行したあの場所に行きたいの。
明日、二人で行かない?】
日付を見て、徹は一瞬躊躇したようだったが、すぐに穂花の願いを受け入れ、静かに「分かった」とだけ言った。
第7話
翌朝、穂花は早起きして、荷造りを始めた。
鏡湖はちょうど夏の季節だったので、日焼け止めなどの対策グッズを多く詰め込んだ。
穂花が荷造りを終えた直後、徹が慌ただしく駆け込んできて、申し訳なさそうな顔で言った。「穂花、ごめん、急な仕事が入ってしまったんだ。先に鏡湖へ行ってくれないか?こっちが片付いたら、すぐに向かうから」
徹の会社の海外支店が立ち上がったばかりで、彼が判断を下さなければならないことが山積みだと、穂花は知っていた。
午後2時の飛行機まで、まだ時間はあった。
【じゃあ、徹の方が片付いてから、一緒に行くわ】
徹は安心したように笑った。「穂花、わかってくれて助かるよ。できるだけ早く終わらせるから」
徹が出て行ったあと、穂花は12時を過ぎても彼の帰りを待ち続けたが、彼は戻ってこなかった。
何度か電話をかけてみたが、応答はなかった。
搭乗時間が迫っていたので、穂花は会社へ向かうことにした。
週末のビル内はひっそりとしていた。エレベーターに乗った瞬間、頭上で警報音が響き渡った。
火災報知器が鳴り、エレベーターの扉が閉まったかと思った途端、エレベーター内の照明がすべて落ちた。
一瞬で、穂花は暗闇に呑み込まれた。
彼女には幼い頃から閉所恐怖症があり、暗闇がひどく苦手だった。まるで水から引き上げられた魚のように、息ができなくなる感覚に襲われた。
穂花は膝をついたまま這うようにしてエレベーターの扉へ向かい、震える指で唯一光っている赤い非常ボタンを必死に押し続けた。
しかし、何十秒経っても応答がない。穂花は震える手でスマホを取り出し、徹に電話をかけようとした。
電話がつながると、コール音が繰り返し鳴り続けるだけで、徹は一向に出なかった。
穂花はスマホを握る指に冷や汗を滲ませながら、必死に祈るように呟いた。「お願いだから電話に出て……徹、どこで何してるの?お願いだから、早く出て、怖いよ……」
通話が切れかけたその時だった、ようやく電話がつながった。
しかし、穂花が言葉を発するより早く、暗いエレベーター内に美優の妖艶な声が響いた。
「徹、さっきのはやりすぎよ、火災報知器まで押しちゃって。
ビル中の人がみんな逃げ出して大騒ぎになってるわよ。どう収拾つけるつもり?」
徹は鼻で笑った。「一番楽しんでたのはお前だろ?」
残業など嘘で、徹は美優とただ一緒にいただけだったのだ。
どれほど刺激的なことをしていたのだろうか、すべてを忘れ、警報まで鳴らして、ビル中の人々を混乱させるほどだったのだろう。
知っていたはずなのに、耳にしてしまえば、胸の奥が容赦なく締めつけられる。
穂花は思った。いっそ、この心臓ごと取り出してしまえたなら、もう何も感じずに済むのに。
穂花はその場にうずくまり、自分の腕をきつく抱きしめたまま動けなかった。電話を切る力さえ残っておらず、意識は次第に遠のいていった。
徹と美優が何かを言い合う声をどこか遠くに聞きながら、穂花の意識はそのまま途切れた。
目が覚めると、視界に飛び込んできたのは、徹の心配そうな表情だった。
徹は穂花を抱きしめた。「穂花、やっと目が覚めたか。管理会社に助け出される君を見て、心臓が止まるかと思った。ごめん、全部俺が悪かった。スマホがマナーモードになっていて、電話に気づかなかったんだ」
穂花は彼の胸に顔をうずめ、彼の心臓の鼓動を聴いた。
力強い鼓動だったが、それはもう穂花のためではなかった。
何度か問いかけようと思った。「ねえ、こんな生活、疲れない?美優と肌を重ねた後、何事もなかったかのように、私を慰めるために言い訳をして」と。
しかし、その言葉は喉の奥で止まった。どうせ明日にはここを出て行くのだから、すべてがどうでもよかった。
第8話
穂花の最後の希望も、ついに泡のように消え去った。
徹は彼女の機嫌をとろうと、シャネルの新作バッグを買ってきた。
思い返せば、何かトラブルがあるたびに、徹はいつも美優と会っていて、後で穂花の機嫌を取るために、必ず何かプレゼントを買っていた。
二人の間ではいつしか、穂花がプレゼントを受け取れば、それで怒りは収まるという暗黙の了解ができていた。
だが今回、穂花がこのプレゼントを受け取ったのは、徹と許したからではなく、ここから離れるためだった。
帰宅すると、穂花はすぐに自分の部屋に籠もった。
ベランダのハンモックに身を沈め、各国の旅行情報を眺めながら、ようやくS市行きの飛行機を予約した。
この家にある彼女の持ち物は多いが、持って出られるものは僅かしかなかった。
唯一持っていくのは、母から譲り受けた「ハート・オブ・ジ・オーシャン」だった。末期がんで闘病していた母が、凪と穂花それぞれに手作りしたものだ。
本当は二人の娘たちが、このネックレスを身に着けて嫁ぐ姿を見届けたかっただろうが、その願いは叶わず、母はその日を迎える前に亡くなってしまった。
だから、穂花にとって、このネックレスは非常に大切な母の形見だった。
菊地家での最後の夕食、徹が帰宅した。隣にはドレスを身にまとった美優がいた。
「穂花さん、そのネックレス、少し貸してくださる?」
美優の言い方は、お願いではなく、まるで命令のようだった。
不快感を覚えた穂花は、手話で徹に問いかけた。【どういうつもり?】
徹は穂花の前に立ち、両手で彼女の肩をそっと掴んだ。「穂花、聞いてくれ。今夜は大事な会食があるんだ。君はまだ体調が万全じゃないから、代わりに美優に同行してもらおうと思って。実は用意していたネックレスが破損しちゃって、君のを貸してほしいんだ」
穂花は冷ややかに首を横に振り、手話を続けた。【これが私にとってどれほど大切なものか、知っているでしょう?】
徹は眉をひそめたが、なおもなだめるように説得した。「お義母さんの形見だってことは知ってるよ。一晩借りるだけだから。もし美優が壊したら、俺が必ず同じものを用意させるから」
穂花は無表情のまま、徹を真っ直ぐ見つめた。【どうして、わざわざ母のネックレスじゃなきゃいけないの?】
徹はネクタイを緩め、苛立ちをにじませる。「今回の取引先はお義母さんのデザインの熱心なファンなんだ。彼らが俺に会ってくれるのは、お義母さんの遺作を持っているという噂を聞きつけたからだよ。穂花、お願いだから貸してくれないか?」
穂花は深く息を吐き、これ以上争うのをやめるように一歩引いた。
【貸してもいいけど、条件があるわ。美優さん以外にしてほしい】
二人の険悪な雰囲気を見て、美優が追い打ちをかけた。
「徹、もういいのよ。穂花さんは貸したくないみたいだし。ただ、黒崎さんを怒らせてしまうかもしれないわね」
この一言で、徹の表情がガラッと変わった。
黒崎家といえば業界でも頂点に立つ名門で、彼らと提携できれば、菊地家のビジネスは飛躍的に拡大できるだろう。
徹の顔から笑みが消えた。「いい加減にしろ、甘やかしてきたせいか、君もわがままになったな。なぜそんなに美優を目の敵にするんだ?彼女は君の手術を執刀してくれた命の恩人じゃないか。大人げない振る舞いはやめろ」
それは、徹が穂花に向けた初めてのきつい言葉であり、しかも、穂花ではなく、美優を庇った発言だった。
徹自身も気づかないうちに、彼の心の天秤はとっくに美優へ傾いていた。
穂花は涙を堪えながら、震える指で文字を打った。【ええ、私はそういう人間よ。絶対にネックレスは貸さないわ】
第9話
徹は怒りで胸を大きく上下させ、吐き捨てるように言った。「穂花、君は本当に、俺に甘やかされすぎたようだな」
「菅野、穂花を部屋に閉じ込めておけ。俺の許可なく一歩も外に出すな」
その言葉を聞いて、穂花は信じられない思いで徹を見つめた。聞き間違えたのではないかと、自分の耳を疑った。
ボディーガードに両腕を掴まれ、二階へと引きずられていく中で、ようやくそれが冗談ではないと悟った。
階段を上がる途中、足を取られた穂花は、そのまま大理石の床に膝を強く打ちつけた。
それでも徹は一瞥すらせず、美優を連れて二階へと上がっていった。
すれ違いざま、美優は勝ち誇った顔で唇を動かし、挑発した。
「穂花、あなたじゃ私には勝てないわ」
徹はあのネックレスが金庫に入っているのを知っていた。きっと美優に渡すつもりなのだ。
その事実に気づいた瞬間、穂花は必死にもがいた。
しかし、力は及ばず、二人の屈強なボディーガードに抗うこともできないまま、別の部屋へ強引に引きずり込まれた。
「バンッ」という音とともに扉が閉まり、部屋は完全な暗闇に沈んだ。閉所恐怖症の穂花はパニックに陥り、慌てて壁のスイッチを押したが、どれだけ押しても明かりはつかなかった。
額に冷や汗をかきながら、扉を必死に叩くが、喉は締め付けられ、呼吸すらままならなかった。
外から執事の困ったような声が返ってくる。
「奥様、旦那様のご命令ですので、今夜は電気をお付けできません」
その言葉を聞いた瞬間、穂花の体は冷たい扉に寄りかかったまま崩れ落ちた。
涙が止めどなく溢れ、声も出ないまま泣き続けた。
徹は穂花が閉所恐怖症であることを知っていながら、彼女が最も恐怖する方法で彼女を追い詰めていたのだ。
私が何をしたというの?
ただ、徹の浮気相手にネックレスを貸したくないと言っただけで?
その瞬間、穂花の心は完全に折れた。
絶望の中で、彼女はスマホを取り出し、凪に電話をかけ、かすれた声で呟いた。
「お姉さん、すぐ菊地家にきて。今すぐ、入れ替わりたいの」
凪は穂花から電話がかかってくるとは思わなかったようで、手早くメッセージを返した。【穂花?いま徹の家にいるの?そんなふうに喋ったら、徹にバレるじゃない。今夜は行けないわよ】
メッセージを読んだ穂花は、冷たく言い放った。「今日来ないなら、どんな結末になっても知らないから」
そう言い終わってから、穂花はすぐに電話を切った。
その後すぐに、凪からメッセージが届いた。【1時間後に着く】
しかし、凪は約束した時間より早く現れた。
家政婦に扮して徹の自宅に紛れ込み、掃除の名目で穂花のいる部屋へと潜り込んだ。
泣き腫らした穂花の顔を見ると、凪はすぐに状況を察し、スマホに淡々と文字を打ち込み、嘲るように突きつけた。【なるほどね、そんなに急いで入れ替わりたがったのは、徹が浮気しているのを見たからってわけ?それで傷ついてるの?夫一人も繋ぎ止められないなんて、本当に情けないわね】
穂花は、姉である凪が昔から自分のことを嫌っていたことを知っていた。
一言違えば、すぐに喧嘩が始まってしまうのだ。
しかし、今の穂花には言い争う気力は残っておらず、菊地家で起きた内容を手短に伝えた。
それを聞き終えた凪は、あからさまに呆れたように穂花を見下ろした。【それだけ?その女にそこまでやられて、しかも子どもまでいるの?あなたのこの3年は一体何だったの?本当に役立たずね】
本来、穂花は凪に美優に気をつけるよう釘を刺すつもりだったが、凪の言葉の端々に滲む冷たい殺気を感じ取り、やはり余計な心配だったと思い直した。
凪は穂花の着替えの遅さに苛立った様子で、スマホに素早く文字を打ち込んだ。
【私はあんたほどバカじゃないから。さっさとここを出て、誰にも見つからないようにしなさい。これからは私が『穂花』で、あなたが『凪』よ。約束を忘れないで、もし今後徹の前に姿を現したら、容赦なく社会的に潰すから】
その言葉を見て、穂花は皮肉を込めて返した。【そんな日なんて、二度と来ないわ】
そうして穂花は素早く凪の服装に着替え、帽子を深くかぶって徹の家を後にした。
誰一人として、この入れ替わりに気づく者はおらず、この世に瓜二つの顔が、こんな身近に存在しているなど、誰も想像すらしていなかった。
外へ出た瞬間、穂花は久しぶりに自由の空気を吸い込んだ。
これからの彼女の人生に、もう徹は存在しない。