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弟の薬を捨てた私を、母は人殺しと呼んだ
弟である理安(りあん)が喘息の発作を起こしたあの日。私、松山星那(まつやま せな)は理安が使うはずだった吸入薬を、すべて洗面台に洗い流...
Chương (1)
第1章
弟である理安(りあん)が喘息の発作を起こしたあの日。私、松山星那(まつやま せな)は理安が使うはずだった吸入薬を、すべて洗面台に洗い流した。
母の紗季(さき)が洗面所に飛び込んできたとき、私の手にある空のボトルからは、まだポタポタと滴が落ちていた。
母は息ができずに胸をかきむしる理安を抱き寄せ、私の頬を力任せに張り飛ばした。
「星那!あんた、まだ8歳なのに、どうしてそんなに底意地が悪いの!この子が死ねばせいせいするとでも思ってるの!?」
違う。その薬は中身がおかしいんだって、伝えたかった。
ボトルの口からは、ツンと鼻を刺す消毒液の臭いがしていた。新しく雇われた家政婦が、掃除用具入れから間違えて持ってきたものだったからだ。
でも、母は私の弁解を最後まで聞こうとはしなかった。
私の腕を乱暴に掴み、まだ改装工事の終わっていない物置部屋へと引きずり込むと、外からガチャリと鍵をかけたのだ。
「自分のくだらない嫉妬心より、弟の命のほうがずっと重いって気づくまで、そこから絶対に出さないからね!」
ドアの向こうでは、父の智也(ともや)が理安を抱きかかえ、慌てて病院へと駆け出していく足音が遠ざかっていく。
一方、ドアの内側では、私が暗闇で蹴り飛ばしてしまったポリバケツから白いペンキがドクドクと流れ出し、じわじわと私の足の甲を覆い始めていた。
私はドアの隙間に必死で爪を立て、「お母さん、お母さん!」と何度も何度も泣き叫び続けた。
翌日。
病院の医師から「理安くんの薬には、確かに清掃用の洗剤が混ざっていました」と電話が入り――そこでようやく、母は思い出した。
物置部屋の鍵が、まだ自分のバッグの底に沈んだままであることを。
第1話
ガチャリと鍵がかけられる音は、さっき母から受けた平手打ちよりもずっと痛く、胸の奥に大きく響いた。
私はドアにすがりつき、両手で必死にバンバンと板目を叩いた。
「お母さん!あの薬、本当に使っちゃ駄目だったんだよ!」
外からは返事がない。
理安の苦しげな泣き声がリビングから玄関へと遠ざかっていく。
「車の鍵は!?急いで!」と焦る父の声。
「とりあえず病院へ行きましょう。あの子のことは、帰ってからたっぷり思い知らせてやるわ」と、怒りを押し殺した母の声が聞こえた。
直後、バタン!と重い玄関のドアが閉まる音がした。
物置部屋には、私だけが取り残されてしまった。
ここは本来、父が理安のために子ども部屋へ改装しようとしていた場所だ。
壁際には新しいフローリング材が積まれ、床には丸められた配線コードが転がっている。そして部屋の隅には、白いポリバケツが二つ置かれていた。
「工事の材料には体に悪いものもあるから、絶対に触っちゃ駄目よ」。母は以前そう言っていたのに。
さっき私をここに放り込んだとき、母の手の力はすさまじかった。
その勢いで弾き飛ばされた私は、暗がりの中でポリバケツにぶつかってしまったのだ。
蓋がきちんと閉まっていなかったらしく、隙間からドロリとした白い液体がこぼれ出し、床材を這うようにして私の靴底へと迫ってくる。
ツンとするキツい臭いがした。
さっきの、理安の薬と同じように鼻の奥を刺す嫌な臭い。
私は思わず鼻と口を両手で覆い、ドアのところまで後ずさった。
「お母さん……ごめんなさい、私がいけなかったから、お願いだから開けて……!」
冷たいドアに耳を押し当ててみるけれど、家の中からは足音一つ聞こえない。
もう一度叩いてみたが、すぐに手のひらが赤く腫れて痛むだけだった。
このドアは、最近新しく付け替えられたばかりだ。
「理安がハイハイするようになったら危ないから、家中のドアを外からロックできるものに替えるんだ」と父が言っていた。
あの日、父は私と同じ目線になるようにしゃがみ込み、優しく頭を撫でながらこう言った。
「星那はお姉ちゃんなんだから、お父さんとお母さんと一緒に、理安のことを見ててあげてね」
――私は、ちゃんとお姉ちゃんとして見ていたのに。
理安の喉からぜいぜいと苦しそうな音が鳴り始めたことに、誰よりも早く気づいたのは私だった。
新しく雇われた家政婦さんが、薬箱ではなく掃除用具入れから「あのボトル」を持ち出したのを見たのも、私だ。
無理もない、二つのボトルはとてもよく似ていた。
どちらも透明なプラスチック製で、水色のラベルが貼られていたから。
でも、中身の臭いが明らかにおかしいと気づいた。だから私は、とっさにあの薬を洗い流したのだ。
それなのに、母は私の弁解に耳を貸そうともしなかった。
発作で苦しむ理安の姿と、私が握りしめていた空っぽのボトル。母の目には、ただそれしか映っていなかったのだ。
私はその場にしゃがみ込み、ドアのわずかな隙間から外を覗き込もうとした。
けれど隙間はあまりにも狭く、床の埃がうっすらと見えるだけだ。
指先を押し込んでみると、床板を引っ掻く爪の音がチリチリと小さく鳴った。
「お母さん……」
絞り出した声は分厚いドアに跳ね返され、虚しく自分の耳に届くだけ。
ふいに小さく咳き込んだ。喉の奥を細い針でチクッと刺されたような痛みが走る。
先ほどの白いペンキが、まだじわじわと広がっているのだ。
私は慌てて傍らにあったダンボール箱を引きずり、その気味の悪い液体の流れをせき止めようとした。
箱はやけに重かった。中に入っているのは、理安のために買った新しい本棚だ。
「お部屋ができたら、壁一面に理安の絵本を並べてあげるの」と、つい昨日も母は嬉しそうに話していた。
私の絵本は、ベランダに置かれた古い衣装ケースの中にしまい込まれている。「もうお姉ちゃんなんだから、いつまでも子どもっぽいものを読まないの」と言われて。
重い箱を無理に引っ張ったせいで、ダンボールの角が腕をかすめ、ぷっくりと赤い血の玉がにじんだ。
第2話
それをスカートの裾で無造作に拭い取る。だが、スカートの裾にはすでにあの白い液体が染み込んでいて、足にべったりと張り付いてひどく冷たかった。
立ち上がり、ドアノブに手を伸ばす。
ガチャ、と半分だけ回るものの、外からのロックに阻まれて開かない。つま先立ちになり、両手で力いっぱいひねってみても無駄だった。
ふと見ると、壁際に古い積み木が入った箱が置かれていた。私が幼い頃に遊んでいたもので、母が荷物整理のついでに放り込んでいたのだ。
私はその積み木を床にいくつか重ね、その上に乗ってドアの上部にある小さな明かり取りの窓へ手を伸ばした。
だが、窓枠には工事用の白い養生シートがべったりと貼られている。爪を立てて少しだけ剥がしかけた途端――足元の積み木が崩れた。
ドンッ、と硬い床材に直接膝を打ち付ける。
息が止まるほど痛くて思わず口を大きく開けたが、声は出さなかった。
理安が泣けば、母は飛んできてすぐに抱きしめてくれる。でも私が泣くと、母はいつも不愉快そうに眉をひそめるのだ。
「お姉ちゃんなんだから。弟と張り合ってどうするの」
――張り合いたいわけじゃない。ただ、ここから出たいだけなのに。
密室の物置部屋は、時間が経つにつれてどんどん息苦しくなってきた。壁に据え付けられた換気扇はまだ配線がつながっておらず、羽はピクリとも動かない。
私は這いつくばり、ドアの隙間にぴったりと顔を寄せた。
そこからほんの少しだけ、外の空気が流れ込んでくる。冷たい廊下の匂いと一緒に、母の服からいつも香る柔軟剤の匂いが微かにした。
そのとき。
外から「チン」とエレベーターの到着音が響いた。
続いて、慌ただしい足音。そして、玄関の鍵穴にカギが差し込まれる金属音。
私は膝の痛みも忘れて飛び起きた。
「お母さん!私、ここだよ!」
バタン、と玄関のドアが開き、真っ先に父の声が飛び込んできた。
「急いで!理安の上着と予備の吸入器、そこの棚に入ってるはずだ!」
私はドアに張り付くようにして、手のひらでガンガンと板目を叩いた。
「お父さん!お母さん!私、ここにいるよ!」
外の足音が、ピタリと止まった。
ドアを隔てた向こう側から、いぶかしむような母の声が聞こえる。
「……今の、何の音?」
気づいてくれた。
私はさらに力を込め、痛む手で何度も何度もドアを叩き続けた。
「お母さん!私だよ、ここだよ!」
物置部屋のドアは分厚く、私の必死の叫びも、外に出る頃にはかすれた息もれのような音に変わってしまっていた。
リビングを歩き回っていた父の足音が止まった。
「今の、星那じゃないか?」
私は大きく頷き、ゴンッと額をドアにぶつけた。
「私だよ、お父さん!」
母の足音が、こちらへ二歩近づいてきた。
私は床に這いつくばったまま、ドアの隙間から差し込むわずかな光に向かって指を伸ばした。
だが次の瞬間、母の足音はピタリと止まった。
母が握りしめていたスマホのスピーカー越しに、車で待たせている理安の苦しげな泣き声が響いたのだ。
母はすぐに踵を返した。「あの子は放っておいて。早く吸入器を見つけて、理安がまた発作を起こしてるわ!」
父もそれ以上、こちらへ近づいてはこなかった。
戸棚が開かれ、引き出しを慌ただしくかき回す音が響く。
私は肩からドアに体当たりをした。だが、頑丈なドア枠はピクリともしない。
「私が、理安をいじめたんじゃないのに……っ」
激しく咳き込み、たまらず体をくの字に折り曲げた。
喉の奥に、嫌な苦味が広がっていく。
こぼれ出した白いペンキは、すでにダンボール箱の底まで達していた。紙が水分を吸ってぶよぶよになり、重みに耐えかねた箱の隅が崩れ始めている。
外では、母が探し物をしながらまだ私をなじっていた。
「あの子をあんなにワガママに育てるんじゃなかったわ。今まで一人っ子で何でも自分の思い通りになってたから、弟ができたのが気に食わないのよ!」
父がなだめるように低い声で言った。「星那だってまだ子供だ。きっとわざとやったわけじゃ……」
「あの子が捨てたのは命に関わる薬なのよ!?さっき理安の顔が真っ青になってたのを見たでしょ!それでもあの子を庇うの!?」
リビングが数秒間、静まり返った。
ガサガサとビニール袋をいじる音だけが響く。
父はもう、私を庇う言葉を口にしなかった。
私は床に転がっていた積み木を掴み、力任せにドアを叩いた。
ガン、ガン、ガン!
さっきよりはずっと大きな音が出た。
ついに、母がドアのすぐ外までやって来た。
それでも、鍵を開けてはくれなかった。
分厚い板越しに、氷のように冷たい声が降ってくる。
「いい加減にしなさい。本当に反省しているなら、そこで大人しくしていなさい」
私はドアに顔を押し当てて叫んだ。
「お母さん、違うの!あの薬、変な臭いがしたんだよ!」
「薬なんだから臭いぐらいするでしょう!」
母は私の言葉をピシャリと遮った。
「あんただって、昔は薬を飲むたびに苦いだの臭いだの文句ばかり言ってたじゃない。そんな見え透いた嘘で私を騙せると思わないで」
第3話
私は慌てて自分のポケットを探った。
スカートのポケットに、短くなった鉛筆が入っている。
崩れかけたダンボール箱から、柔らかい紙を少しだけちぎり取った。
指がガクガクと震え、鉛筆の芯が二度も折れた。
それでも、いびつな字で必死に書き付けた。
【くすりちがう。かせいふさんが まちがえた】
私はその紙切れを、ドアの隙間から外へ押し込もうとした。
けれど隙間が狭すぎて、紙は半分まで出たところでつっかえてしまった。
爪の先を使って、少しずつ、少しずつ外へ押し出す。
そこへ、父の足音が近づいてきた。
隙間の向こう側に、父の履いている黒い革靴が止まる。
紙切れの端は、確かに外側にはみ出しているはずだ。
父が身をかがめる気配がした。
「星那」
私の名前を呼ぶ父の声は、少しだけ優しかった。
「まずは、お母さんに謝りなさい。理安が良くなったら、お父さんが後でちゃんと話を聞いてあげるから」
「お父さん、ちがうの。その紙を見て!」
けれど、私の声はかすれてうまく言葉にならなかった。
寝室から戻ってきた母の足音がした。手には理安の上着が握られている。
「まだあの子の機嫌をとってるの?そうやってあなたが甘やかすから、図に乗るのよ」
父が身を起こす気配がした。
そのとき、一歩後ずさった父の革靴の底が、紙切れの端を無情にも踏みつけた。
――ズリッ。
鈍い音がして、私の書いた紙切れはドアの隙間の埃まみれの床に擦り付けられた。一生懸命書いた文字が、黒く汚れて滲んでしまった。
母がバッグをひったくるように持ち上げ、早口でまくしたてる。
「行くわよ。先生が待ってる」
「……あの子に、何か食べるものくらい残していこうか」と父がためらいがちに言った。
「一食抜いたくらいで死にはしないわ」
玄関に向かいかけた母が、ふと立ち止まった。
「もしあの子が自分の非を認めないなら、絶対に出さないでちょうだい。このままじゃ、いつか本当に理安を殺しかねないわ」
父がため息をつき、テーブルの上に何かを置く音がした。
「星那、テーブルの上にパンを置いておくからな。反省したら、自分で出てきて食べなさい」
私は必死でドアを叩いた。
反省したら、じゃない。お母さんが外から鍵をかけたんだから、出られるわけがないのに!その声は、父には届かない。
「早くして!玄関の鍵も二重にかけておいてよね。もしあの子が勝手に外へ出て、ご近所にある事ない事言いふらしたら恥ずかしいでしょ」
母のきつい催促に急かされるように、玄関の鍵がガチャリ、ガチャリと二重にかけられた。
そして重いドアが閉まり、家の中は再びしんとした静寂に包まれた。
私はドアの隙間に這いつくばったまま、黒く汚された紙切れを見つめていた。
【くすりちがう】と書いたはずの文字は削れ、ただ歪んだ【くすり】という字の端っこだけが辛うじて読み取れた。
足元では、白いペンキがじわじわと私の靴の先まで浸水してきている。
水を吸ったダンボール箱は、ついにグシャリと音を立てて完全に崩れ落ちてしまった。
ドアの向こう、テーブルの上に置かれたパンまでは、ほんの数歩の距離だ。
隙間からその姿が見えるのに、決して手は届かない。
私は、あのパンをずっと見つめていた。
透明なパッケージ越しに見えるのは、私の大好きなミルククリームのパンだ。父は私がそれを好きだと知っているから、わざわざ選んでくれたのだろう。
だが今、私の鼻先に届くのは微かな甘い匂いではなく、強烈な化学塗料の臭いだけだった。
床を這うように立ち上るその臭いは、鼻腔を突き刺し、容赦なく喉の奥を塞いでいく。
外は少しずつ暗くなり始めていた。
ドアの隙間から差し込む光が、白から濁った灰色へと変わっていく。
ずっと鳴り続けていたお腹の虫も、いつしか力尽きたように小さくなっていた。
そのとき。
不意に、玄関の電子錠のパスコードを押す「ピ、ピ、ピ」という電子音が響いた。
父と母ではない。二人はいつも、指紋認証で開けるからだ。
私は弾かれたように顔を上げた。
「家政婦さん!」
痛む手のひらで、バンバンとドアを叩く。
「家政婦さん、私ここだよ!」
ガチャリとドアが開き、家政婦が入ってきた。
彼女の足音はまっすぐキッチンへ向かい、戸棚を開ける気配がした。プラスチックのボトル同士がぶつかる、カラカラという軽い音が聞こえる。
私はドアの隙間に顔を押し当てて叫んだ。
「家政婦さん!薬、間違ってたんだよ!」
――だが、彼女には届いていないようだった。
そのとき、家政婦のスマホの着信音が鳴った。
電話に出た彼女の声は、微かに震えていた。
「紗季様、ただいま家に戻りました」
スマホのスピーカーから、母の甲高い声が漏れ聞こえてきた。
「急いで薬箱の中身を確認してちょうだい。病院の先生が、残っている薬のボトルを見たいとおっしゃってるの」
家政婦は数秒間ためらった後、恐る恐る口を開いた。
「紗季様……あの、青いラベルのボトルですが。私、今朝は掃除用具入れの方から取り出してしまったような気がして……」
私はハッとして、ドアの隙間に指を食い込ませた。
言ってくれた。
やっと、本当の事を言ってくれた。
電話の向こうが、一瞬シンと静まり返った。
だがすぐに、母の声音が氷のように冷たく響いた。
「それ、どういう意味?」
「わ、私もはっきりとは確証がなくて。二つのボトルは近くに置いてあったし、ラベルの色もそっくりだったので……その、理安坊ちゃんが苦しそうにしているのを見て、私も気が動転してしまって」
第4話
「今になって『確証がない』ですって?」
母は鼻でふっと笑った。
「さっき病院にいたときは何も言わなかったのに。星那が私に罰を与えられていると知って、急にそんなこと言い出すわけ?」
家政婦は何も言い返せなかった。
母はさらに畳みかける。
「どうせ、星那に何か吹き込まれたんでしょ?あの子は昔から、そうやって可哀想なフリをして大人を騙すのが得意なのよ。
バレエ教室に行きたくないからって、『先生につねられた』なんて嘘をついたこともあったわ。後で防犯カメラを確認したら、先生はただ姿勢を直しただけだったじゃない」
私はドアに張り付いたまま、ゆっくりと俯いた。
あのとき、先生は本当につねったんだよ。
腕の内側だったから、防犯カメラの死角になっていただけなのに。
母に連れられて教室へ謝罪に行ったとき、私はずっと長袖の裾を引っ張って痣を隠していた。
誰も、私の言葉を信じてくれなかったから。
家政婦が小さく反論した。
「でも紗季様、とりあえず星那お嬢様のご様子だけでも……まだ物置部屋にいらっしゃるんですよね?」
私は必死でドアを叩いた。
「家政婦さん!いるよ、ここにいるよ!」
だが、母はヒステリックに声を荒げた。
「当たり前でしょ!あの中でしっかり反省させてるのよ!」
「でも、あの部屋はまだ工事の途中で、塗料の臭いがキツいんじゃ……」
「私たちがあなたを雇ったのは、理安の面倒を見てもらうためよ。娘の教育方針に口出しするためじゃないわ!」
電話越しに、理安の泣き声が聞こえた。
母の声が急に焦り始める。
「とにかく、薬箱の写真を撮ってすぐに送って。それから、絶対にそのドアは開けないこと!あの子は今、誰かが甘やかしてくれるのを手ぐすね引いて待ってるんだから」
プツッ、と通話が切れた。
リビングには、家政婦の荒い呼吸音だけが残された。
彼女はしばらくの間、そこに立ち尽くしていた。
私はドアに額を押し付け、かすれた声で懇願した。「家政婦さん……お願い、開けて」
やがて、足音がこちらへ向かってきた。
ドアのすぐ外で足音が止まる。隙間から、彼女のつま先の影が見えた。
ドアノブに手が触れ、カチャリと小さな音が鳴る。
私は息を呑んで待った。
だが次の瞬間、彼女のスマホが再び鳴った。
母からのボイスメッセージだった。その声は、ドアを隔てたこちら側にもはっきりと響くほど大きかった。
「もし勝手にドアを開けたら、明日から来なくていいわよ。あんたのせいで理安の検査が遅れたら、ただじゃおかないからね!」
ドアノブにかかっていた家政婦の手が、スッと離れた。
隙間から見えていたつま先が、一歩、また一歩と後ずさっていく。
彼女はキッチンへ行き、スマホで薬箱の写真を撮り、いくつかのボトルを袋に詰め込んだようだった。
家を出て行く直前、彼女はドアの向こうで申し訳なさそうに言った。
「星那お嬢様……どうか、少しの間だけ我慢してくださいね」
私は口を半開きにしたまま、息を吸い込んだ。
その途端、胸の上に重い石を乗せられたように息が詰まった。
我慢して。
――私、もうずっと我慢してるよ。
玄関のドアが閉まる音が響き、家の中は再びしんとした暗闇に包まれた。
床を這う白いペンキは、私が落とした積み木のすぐそばまで迫っていた。
ふと見下ろすと、あの紙切れはすっかりペンキに浸かり、ぶよぶよにふやけていた。
辛うじて残っていた『くすり』という文字も、完全に溶けて消えてしまっていた。
玄関が閉まってから、物置部屋はあっという間に真っ暗になった。
私は膝を抱え、ドアに背中を預けて座り込んだ。
隙間から差し込んでいた光も、今はもうすっかり消えている。
ただ、リビングの壁掛け時計がチクタクと時を刻む音だけが聞こえていた。
少しだけ眠りたい。
でも、眠るのが怖かった。
「お風呂に入らずに床で寝ちゃ駄目よ。風邪をひくでしょ」。母はいつもそう言って怒るから。
今の私は、スカートの裾にペンキがべっとり付いていて、手も壁の埃で真っ黒だ。こんな姿を見たら、お母さんはまた絶対に怒る。
喉の奥に広がる苦味が、どんどん強くなっていった。
口を大きく開けて息を吸っても、胸のつかえは取れない。
私は折れた鉛筆の先を握り直し、もう一度床に字を書こうとした。
【くすりちが】
最後まで書ききらないうちに、短い芯がポキリと砕け散った。
黒い鉛筆の粉が、指先を黒く汚す。
私はその指を、ドアにギュッと押し当てた。
黒い指紋が一つ。また一つ。
五つ目の指紋をつけたとき、外で突然電話が鳴り響いた。
リビングのテーブルに置いてある固定電話だ。
コール音は長く長く鳴り続けたけれど、誰も出る人はいない。
私はドアを見上げながら、力なく呟いた。「お父さん、電話鳴ってるよ……」
やがてコール音が途切れた。
その数秒後、玄関で再び電子錠が鳴った。
「ピ、ピ、ピ」
家政婦が戻ってきたのだ。
彼女はひどく焦った様子で、靴下を滑らせるようにしてリビングへ駆け込み、受話器をひったくった。
「はいっ!?」
第5話
電話の向こうの相手は、ひどく硬い声で何かを告げていた。
ドア越しの私には全ての言葉は聞き取れなかったが、断片的な単語だけが耳に届いた。
「……病院ですが……残留液から……塩素系の……理安くんは現在安定して……」
家政婦の声が、ひっくり返った。
「やっぱり、あの薬がおかしかったんですか!?」
私はドアにペタリと手を這わせた。
電話の向こうが何かを答えると、家政婦はすがるように早口でまくしたてた。
「星那お嬢様が薬を捨てたんです!あの時、お嬢様は『これを使っちゃ駄目だ』と言っていたのに、紗季様が勘違いされて……っ」
そこまで言って、彼女は言葉を詰まらせた。
息を呑むと、彼女はすぐに自分のスマホを取り出し、母へ電話をかけた。
母が電話に出たのか、スピーカーからは病院の喧騒が漏れ聞こえてきた。
看護師の慌ただしい足音、理安の泣き声、そして母の荒い呼吸音。
家政婦は泣き出しそうな声で叫んだ。
「紗季様!病院から電話がありました。薬の中に清掃用の洗剤が混ざっていたそうです!星那お嬢様は嘘なんてついていません、理安坊ちゃんを助けようとして――」
「……もう一度言って」
母の声が、不自然なほど低く掠れた。
「私が薬を間違えたんです。今朝、掃除用具入れから間違えて持ってきてしまって……星那お嬢様はそれに気づいて、あわてて洗い流してくださったんです!」
ガシャン!と、電話の向こうで何かが床に落ちる音がした。
続いて、父の緊迫した声が割り込んでくる。
「そういえばあの子、あの時『薬が違う』って何度も叫んでなかったか!?」
誰も答えなかった。
数秒の重い沈黙の後、ようやく母が口を開いた。
「星那は?」
家政婦の足音がこちらへ近づき、ドアのすぐ外で止まった。
「まだ、物置部屋の中です」
電話の向こうがにわかに騒がしくなった。
父が「すみません、急いで家に戻ります!」と看護師に向かって叫んでいる。
だが母は、まだ信じられないというように問い返した。
「あなた、ドアを開けなかったの!?」
家政婦の声が震える。
「だって、紗季様が絶対に開けるなとおっしゃったじゃないですか!それに鍵は紗季様のバッグの中ですから、私にはどうすることも……!」
電話の向こうが、今度こそ完全に静まり返った。
私はもう一度、ドアを叩こうとした。
けれど、ドアに触れた手は力が抜け、綿を叩いたような情けない音しか出なかった。
家政婦がドアにすがりつくようにして叫んだ。
「星那お嬢様!?聞こえますか!?」
「聞こえるよ」と答えたかった。
だが、喉からはヒューという掠れた息の音が漏れるだけだった。
家政婦がガチャガチャと工具でドアノブをこじ開けようとする音が響く。だが、頑丈なロックは外れない。
繋がったままの通話状態のスマホから、母の金切り声が聞こえた。
「今すぐ戻るわ!下手に触って鍵を壊さないで!」
「鍵が壊れたって構うもんか!」と父が怒鳴り返すのが聞こえる。
やがて、家の外の廊下が騒がしくなった。
どうやら、マンションの管理人さんたちも駆けつけたらしい。
「お子さんは、どれくらい閉じ込められているんですか?」と誰かが問う。
「今日の午前中からずっとです……っ」と家政婦が泣きじゃくりながら答える。
「まだ工事も終わっていない物置に!?換気はしてるんですか!?」
誰も、その問いには答えられなかった。
私はドアにもたれかかったまま、ズルズルと床に滑り落ちた。
遠くで、エレベーターの到着音が鳴る。
「チン」
ドタバタと、複数の足音がこちらへ向かって駆けてくる。
「星那!!」
母が廊下で私の名前を叫んだ。
バッグの金具をガチャガチャと鳴らしながら、猛スピードで走ってくる。
その後ろから、父の掠れた声が追いかける。「鍵だ!早く鍵を出せ!」
母がバッグの中身をひっくり返す音がした。
ポケットティッシュ、リップクリーム、病院の領収書、理安の小さな靴下――それらが次々と床に散らばる。
そして最後に。
チャリン、と硬い金属音が響いた。
玄関の床に、物置の鍵が落ちたのだ。
その瞬間、外の全員の動きがピタリと止まった。
家政婦が、絞り出すように泣きながら言った。
「……鍵は、ずっと紗季様がお持ちだったんですよ」
母は何も答えなかった。
震える手で、鍵穴に鍵を差し込む。
一度目は上手く入らず、二度目でようやく鍵が回った。
ガチャリ。
ドアの隙間から、一筋の光が差し込んだ。
母が短く息を呑む音が聞こえた。
ドアがゆっくりと開かれた瞬間、中からコロンと、芯が折れた短い鉛筆が転がり出てきたのだ。