私を傷つける言葉が、実は聞こえている

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私を傷つける言葉が、実は聞こえている

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私は三枝紗季(さえぐさ さき)。 軽い聴覚障害があり、右耳が少し聞き取りにくい。 幼いころから、幼なじみの白川有博(しらかわ ありひろ)...

Chương (1)

第1章

私は三枝紗季(さえぐさ さき)。 軽い聴覚障害があり、右耳が少し聞き取りにくい。 幼いころから、幼なじみの白川有博(しらかわ ありひろ)は、決まって私の右側に立とうとした。 「そうすれば、誰かがお前の悪口を言っても、俺のほうが先に聞けるだろ」 有博は、いつもそう言っていた。 やがて私たちは婚約し、結婚式の招待状も、もう出来上がっていた。 周囲の誰もが、私は幸せ者だと言った。 十年以上もそばで私を守ってくれた幼なじみと結婚するのだから、と。 それも、本間日菜(ほんま ひな)が有博の会社に転職してくるまでの話だった。 日菜は美人で、ぱっと目を引く人だった。 話すときはいつも、声に笑みを含ませていた。 初めて私に会った日、日菜は私の補聴器をじっと見つめたあと、笑顔のまま有博に尋ねた。 「夜、彼女に甘い言葉を囁いたって、その耳でちゃんと聞こえるの?」 私は血の気が引いた。 けれど有博は日菜を責めることもなく、わずかに眉を寄せただけだった。 「彼女の言葉に悪気はないんだ。気にするな」 結婚式のリハーサルの日。 私は扉の外に立っていた。 中からは、日菜が笑いながら、私の誓いの言葉をふざけて読み上げる声が聞こえてきた。 「有博、私はあなたの耳になります。杖になります。……一生、あなたのお荷物になります」 部屋中がどっと笑い、有博も一緒になって笑っていた。 「勝手に変えるなよ。紗季が聞いたら、また傷つくだろ」 日菜が尋ねた。 「それでも結婚するの?」 有博はわずかに間を置いた。 「招待状ももう出したんだ。今さら結婚をやめられるわけないだろ」 私は廊下の突き当たりに立っていた。 手にしていた有博からもらった傘は、まだぽたぽたと雫を落としていた。 雨がまだ降っているのに、私は中へ入る気になれなかった。 第1話 私は三枝紗季(さえぐさ さき)。 軽い聴覚障害があり、右耳が少し聞き取りにくい。 幼いころから、幼なじみの白川有博(しらかわ ありひろ)は、決まって私の右側に立とうとした。 「そうすれば、誰かがお前の悪口を言っても、俺のほうが先に聞けるだろ」 有博は、いつもそう言っていた。 やがて私たちは婚約し、結婚式の招待状も、もう出来上がっていた。 周囲の誰もが、私は幸せ者だと言った。 十年以上もそばで私を守ってくれた幼なじみと結婚するのだから、と。 それも、本間日菜(ほんま ひな)が有博の会社に転職してくるまでの話だった。 日菜は美人で、ぱっと目を引く人だった。 話すときはいつも、声に笑みを含ませていた。 初めて私に会った日、日菜は私の補聴器をじっと見つめたあと、笑顔のまま有博に尋ねた。 「夜、彼女に甘い言葉を囁いたって、その耳でちゃんと聞こえるの?」 私は血の気が引いた。 けれど有博は日菜を責めることもなく、わずかに眉を寄せただけだった。 「彼女の言葉に悪気はないんだ。気にするな」 結婚式のリハーサルの日。 私は扉の外に立っていた。 中からは、日菜が笑いながら、私の誓いの言葉をふざけて読み上げる声が聞こえてきた。 「有博、私はあなたの耳になります。杖になります。……一生、あなたのお荷物になります」 部屋中がどっと笑い、有博も一緒になって笑っていた。 「勝手に変えるなよ。紗季が聞いたら、また傷つくだろ」 日菜が尋ねた。 「それでも結婚するの?」 有博はわずかに間を置いた。 「招待状ももう出したんだ。今さら結婚をやめられるわけないだろ」 私は廊下の突き当たりに立っていた。 手にしていた有博からもらった傘は、まだぽたぽたと雫を落としていた。 雨がまだ降っているのに、私は中へ入る気になれなかった。 …… 中から有博が出てきたとき、私はうつむいて手についた水を拭っていた。 私に気づいた有博は、一瞬足を止めた。 「いつ来たんだ」 私は顔を上げて、有博を見た。 「今来たところ」 日菜は有博の後ろから出てきて、何もなかったように笑った。 「紗季さん、さっきのはただの冗談ですよ。まさか聞こえてます?」 そう言いながら、日菜はわざと私の右側に立った。ちょうど、私が聞き取りにくい位置だった。 有博は眉をひそめ、日菜に目を向けた。 「やめろよ」 日菜はぺろりと舌を出した。 「はあい、もうやめます。紗季さんは耳が悪いんですもんね。これからはちゃんと左側から話しかけます」 気遣っているかのような口ぶりだった。 けれど、周りにいた友人たちは笑った。 私は有博を見た。 以前なら、誰かが私の耳をからかっただけで、有博はすぐに相手をたしなめてくれた。 右耳が聞こえづらいのは、紗季のせいじゃない。そんなことで人を笑うほうが恥ずかしいんだ。 有博がいつもそう言っていた。 なのに今の有博は、日菜の手から一枚の紙を抜き取ると、何でもないことのように私へ差し出した。誓いの言葉の原稿だった。 「深く考えるな。日菜は言い方がきついだけだ」 私はその紙を受け取った。 紙にはあちこち線が引かれ、私の書いた言葉が乱雑に書き換えられていた。 もともと私が書いたのは、「十年以上、私の右耳でいてくれてありがとう」という一文だった。 それを日菜が、「十年以上、私というお荷物を我慢してくれてありがとう」に書き換えていた。 その一文を指でなぞると、指先についていた雨水が紙に少し滲んだ。 それを見た有博が、紙を取ろうと手を伸ばした。 「新しいのを用意させる」 私は身を引いた。 「もういい」 有博の手が宙で止まった。 「紗季」 私を呼ぶ有博の声には、はっきりと不機嫌さが混じっていた。 そばで日菜が小さく咳払いをした。 「有博、そんなに怖い顔しないでください。紗季さん、きっと私に主役を取られた気がしてるだけですから」 有博は疲れたように眉間を押さえた。 「だって、そうでしょ?」 日菜は笑ったまま、私を見た。 「今日のリハーサル、みんな私のほうばかり見てましたし。紗季さんが面白くないと思うのも無理ないですよね」 そばにいた誰かが、その場を取りなした。 「まあまあ、式の前なんだから。少し気が立ってるだけだよ。 紗季さんも怒らないで。白川くんが今までどれだけあなたを大事にしてきたか、みんな知ってるんだから」 その言葉でようやく思い出したように、有博は私のところへ来て、手を取った。 「もう帰るぞ。送っていく。外、雨が強いから」 有博の手のひらは、相変わらず温かかった。 けれど私は、さっき有博が言った言葉を思い出していた。 「招待状ももう出したんだ。今さら結婚をやめられるわけないだろ」 有博が私と結婚するのは、私と結婚したいからではない。 ただ、もう引き返せなくなったからだ。 私はそっと手をほどいた。 「大丈夫。一人で帰る」 有博は行き場をなくした手を見下ろし、表情を険しくした。 「今度は何だよ」 その言い方に、胸の奥がすっと冷えた。 日菜が一歩前に出て、急にしおらしい声を出した。 「紗季さん、私、本当にわざとじゃないんです。すみませんでした」 そう言って日菜が腰を折ろうとしたところで、有博がとっさに支えた。 日菜はそのまま有博の腕に寄りかかり、私にだけわかるように、勝ち誇ったように笑った。 「ほら。有博って、やっぱり私のこと放っておけないんです」 入口付近にいた人たちが、一瞬しんとした。 有博はすぐに日菜から手を離し、気まずそうに目をそらした。 「今のは日菜がふざけて言っただけだ。変な意味じゃない」 私は黙ってうなずいた。 有博は、私がまだ何か言うと思っているようだった。 けれど私は何も言わず、その紙をきれいに折ってバッグにしまった。 「先に帰る」 有博が手を伸ばし、私を引き止めた。 「式まであと3日だぞ。リハーサルはどうするんだ」 私は有博の手首にある時計を見た。去年の誕生日に、私が贈ったものだ。 ベルトの内側には、「これからもずっと一緒」という短い言葉が刻んである。 そのとき有博は、「重すぎるだろ」と笑っていた。 それでも、毎日身につけてくれていた。 今はその手が私の前をふさぎ、手首の時計まで枷のように見えた。 私は静かに言った。 「有博、少し疲れた」 有博はさらに眉をしかめた。 「疲れたなら帰って寝ろ。こんなときに面倒を増やすな」 日菜が有博の後ろから顔をのぞかせた。 「紗季さん、式の前って段取りが多いですもんね。体調が悪いなら、私が代わりにリハーサルに出てもいいですよ。さっきの誓いの言葉も、けっこううまく読めましたし」 第2話 また誰かが笑った。今度は有博が笑わなかったが、止めもしなかった。 私は有博から目をそらし、傘に手を伸ばした。 さっき誰かにぶつけられたせいで、骨が一本曲がっている。 開いてみると、傘は片側だけ不格好に傾いた。 私はそれを少し見つめたあと、その傘を差して雨の中へ出た。 雨音に混じって、有博の声が背中を追ってきた。 「帰りたいなら勝手にしろ。ただ、あとで俺が機嫌を取りに行くと思うなよ」 足が一瞬止まった。 それでも、私は歩き続けた。 翌日の午前中、ウェディング会社から電話があった。バックパネルに入れる名前を確認したいという。 会場に着くと、披露宴会場の中央に日菜が立っていた。白いサテンのワンピース姿で、ウェディングドレスではないのに、普通のドレスよりも花嫁らしく見えた。 有博は最前列に座り、うつむいて進行表に目を通していた。 担当プランナーは私を見るなり、ほっとしたように息をついた。 「三枝様、お待ちしておりました。本間様が、バックパネルをこちらのデザインに変更したいとおっしゃっていて……私どもだけでは判断しかねまして」 私はステージへ目を向けた。 もとのパネルには、【白川有博 & 三枝紗季】と入っていた。今はそれが英語のフレーズに差し替えられ、下のほうの小さな文字の隅に、私の名前だけが押し込まれている。 日菜が笑って説明した。 「紗季さん、誤解しないでくださいね。ただ、二人の名前を大きく並べるだけだと、ちょっとベタかなって。せっかくの式ですし、もう少し高級感を出したくて」 私が口を開く前に、有博が顔を上げた。 「俺はいいと思う」 担当プランナーは困ったように言った。 「ですが、バックパネルですので、新婦様のお名前がここまで小さいと、お写真に残したとき、ほとんど目立たないかと……」 日菜はすぐに視線を落とした。 「じゃあ、いいです。私、ただ少しでもお役に立てればと思っただけなので……紗季さんは耳が悪いですし、細かい打ち合わせも大変でしょうから」 有博は進行表を閉じた。 「日菜の案で進めてくれ」 私は有博を見た。 「有博、これ、私の結婚式なんだよ」 有博の表情は変わらなかった。 「俺の式でもあるだろ」 そう言われると、私は何も返せなかった。 日菜がこちらへ歩いてきて、親しげに私の腕に自分の腕を絡めた。 「紗季さん、そんなに怖い顔しないでください。結婚式なんですから、もっと楽しくしましょうよ。ずっとそんな顔をしていたら、有博だって疲れちゃいますよ」 日菜との距離が近すぎて、香水の匂いが強く鼻についた。 私は表情を変えないまま、絡められた腕をそっと外した。 「このデザインは好きじゃない」 日菜はみるみる目を潤ませた。 「紗季さん、私のこと嫌いなんですか?」 有博が立ち上がった。 「紗季、日菜に八つ当たりするな」 私は有博を見た。 「デザインが好きじゃないって言っただけ」 「日菜はお前のためを思ってやってくれてるんだぞ」 有博は私の前まで来ると、声を低くした。 「式まであと3日だぞ。こんなところで揉めて、周りに気を遣わせるな」 会場にいたスタッフが何人か、気まずそうに視線を落とした。けれど、みんなの耳に入っているのは分かった。 私の耳は、細かい言葉までは聞き取れない。それでも、こちらに向けられる無数の視線が小さな針のように私を突き刺す痛みだけは、はっきりと感じられた。 日菜が目元をそっと拭った。 「もういいよ、有博。紗季さんの言うとおりにして。もともと、少し繊細なところがある人なんだから」 繊細。 また、その言葉だ。 昔の有博は、私が繊細すぎるんじゃない、相手の言い方が悪いだけだと言ってくれた。 けれど今、有博は何も言わず、日菜の側に立っている。 その沈黙だけで十分だった。 やっぱり私のほうが繊細すぎるのだと、そう言われている気がした。 私はバッグから当初のレイアウト案を取り出し、担当プランナーへ渡した。 「これでお願いします」 有博の表情がすっと冷えた。 「紗季」 私は有博を見なかった。 「申込書にサインしたのは私です。申込金を払ったのも私です。会場の装飾は、私の希望どおりに進めてください」 人前で有博に逆らったのは、これが初めてだった。 有博の目に、一瞬だけ驚きがよぎった。 「こんなことで意地になって、何になるんだよ」 日菜は有博の後ろに立っていた。 「有博、もうやめて。私が帰ればいいんでしょ?」 言い終えるなり、日菜は踵を返した。有博はすぐにその手首をつかんだ。 「誰も帰れなんて言ってない」 私はその手元を見た。有博は日菜の手首を強く握っていた。まるで、彼女が本当に傷ついたのを心配しているみたいだった。 担当プランナーは、ますます居心地悪そうにしていた。 「あの……最終的には、どちらのデザインで進めればよろしいでしょうか」 有博は私を見た。 「紗季、ここまで来て、全部台無しにする気か」 聞き覚えのある言い方だった。 招待状ももう出したんだ。今さら結婚をやめられるわけないだろ。 ここまで来たら、もう引き返せない。 有博にとって、私たちの十数年は、結局その程度のものだったのかもしれない。 私は手にしていた案を、ゆっくりバッグへ戻した。 「じゃあ、二人で決めて」 有博の眉間の皺が少し緩んだ。くだらない言い争いに、やっと勝ったとでも思っているようだった。 日菜も笑った。 「紗季さん、安心してください。紗季さんの結婚式、絶対に素敵にしてみせますから」 披露宴会場を出る前に、私は一度だけ振り返った。 白い照明に照らされたステージで、あの英語のフレーズは見栄えよく浮かんでいた。けれど、少しも温かみがなかった。 私の名前は、ほとんど見えないほど小さかった。 そのとき、ふと、それでもいいと思った。 見えないなら、最初からなかったと思えばいい。 スマホが震えた。 担当プランナーから、こっそりメッセージが届いていた。 【三枝様、万が一、キャンセルをご希望の場合、契約上、申込金の60%はご返金可能です。ただし、本日17時までにご連絡をいただく必要がございます】 私はその文面をしばらく見つめたまま、画面の上に置いた指を動かせずにいた。 そのとき、背後で有博の声がした。 「紗季、日菜のブライズメイドドレスのサイズ、俺に送ってくれ」 第3話 私は振り返った。 「でも、日菜はブライズメイドじゃないよね」 有博は言った。 「一人くらい増えても別にいいだろ」 日菜は有博の隣で、指先に髪を絡めていた。 「紗季さんが嫌なら、私は全然いいですよ。無理にやりたいわけじゃないし」 有博は日菜を見た。 「そう言うなよ」 それから、私を見る。 「紗季、ただのドレスだろ」 ただのドレス。 ただの誓いの言葉。 ただのバックパネル。 ただの傘。 私に関わるものは、日菜が欲しがった瞬間、何もかも「その程度のこと」にされてしまうようだった。 私はスマホを開き、ブライズメイドドレスを扱っている店の連絡先を有博に送った。 有博の表情が少し和らいだ。 「最初からそうすればいいんだよ」 私は何も言わなかった。 午後、家に戻り、結婚式で使うものを整理した。 リビングは段ボール箱でいっぱいだった。 プチギフトの箱、席札、芳名帳、それから結婚式で使う分厚いアルバム。 アルバムは、私が自分で作ったものだ。 小学校から高校、そして大学まで。 一枚一枚の写真を、時系列に貼っていった。 最初のページは、有博が私の右側に立ち、後ろの男子が投げてきた紙の玉から私をかばっている写真だった。 写真の裏には、「私が最初に聞き取れた世界は、彼だった」と書いた。 あのころの私は、本気でそう思っていた。 インターホンが鳴った。 ドアを開けると、日菜が立っていた。後ろにはウェディング会社のスタッフが二人いる。 日菜は笑って、持っていた袋を見せた。 「紗季さん、ブライズメイドドレスを取りに来ました。ついでに、何か手伝えることがあればと思って」 私はドアの前から動かなかった。 「必要ない」 日菜は部屋の中をのぞき込んだ。 「すごい、たくさん用意してあるんですね」 そう言いながら、日菜は私の横をすり抜けるようにして中へ入った。 私は止めようとしたが、日菜はもうリビングのローテーブルに置いてあったアルバムに気づいていた。同行していたスタッフは、気まずそうに玄関先で立ち尽くしている。 日菜はアルバムの最初のページを開き、ふっと笑った。 「子どものころの二人、なんだか可愛いですね」 私は近づいて、アルバムを閉じた。 「触らないで」 日菜はぱちぱちと瞬きをした。 「そんなに大事なんですか?」 玄関のほうから有博の声がした。 「日菜、ドレスを取りに来たんじゃなかったのか?」 有博も来ていた。 日菜はすぐに手を引っ込めた。 「少し見ただけなんです。紗季さん、怒らせちゃったみたいで」 有博は私を見た。 「ただ気になっただけだろ」 私はアルバムを胸に抱えた。 「触らないでって言ったの」 有博は不機嫌そうに眉をひそめた。 「いつまでそうやって突っかかるんだ。 誰もお前のものを取ろうとしてないだろ」 日菜は声を落とした。 「有博、そんなふうに言わないで。紗季さんは小さいころから耳が聞こえづらかったから、自分のものを取られるんじゃないかって、不安になるだけかもしれないし」 私は有博を見た。 有博は否定しなかった。短い沈黙だったのに、私には十分すぎるほど長く感じた。 有博も本当はそう思っているのだと、分かってしまった。 日菜が袋からコサージュを取り出した。 「そうだ、紗季さん。これ、私がもらってもいいですか?すごく可愛いなって思って」 それは花嫁のために用意したコサージュだった。 白い椿。 私は何年も前から、その花が好きだった。 有博も知っている。 子どものころ、有博が「椿」と言ったのを、私はうまく聞き取れず、「ずっと?」と聞き返したことがある。 それ以来、有博は毎年、私の誕生日に白い椿を一輪くれた。 そして、何度も何度も言ってくれた。 「ずっとそばにいる」 そんな大切なコサージュを、日菜は指先でつまんでいた。 笑いながら、もらってもいいかと聞いている。 私ははっきり言った。 「だめ」 有博がこちらへ歩いてきた。 「日菜が気に入ったなら、あげればいいだろ。式の日にもう一つ用意すればいい」 私は有博を見上げた。 「有博、これはあなたが選んだものだよ」 有博は一瞬、言葉に詰まった。 日菜は私と有博を交互に見た。 「有博が選んだんですか?それなら、もっと欲しくなっちゃいました」 日菜はそのコサージュを自分のワンピースにつけた。 「似合いますか?」 有博は答えなかったが、外せとも言わなかった。 抱えていたアルバムが、急に重く感じた。 手首が痛くなるほど重かった。 私はうつむき、アルバムを箱の中へ戻した。 それからスマホを手に取り、担当プランナーへメッセージを返した。 【キャンセルする場合、今日17時までの連絡で間に合いますか?】 相手からはすぐに返事が来た。 【はい。本日17時まででしたら対応可能です】 続きを打つ前に、有博が突然、私のスマホを取り上げた。 「誰とやり取りしてる?」 画面はまだ点いたままで、有博はその文面を見てしまった。 リビングが一瞬で静まり返った。 有博は私を見据え、声を低くした。 「紗季、どういうつもりだ?」 第4話 私がスマホを取り返そうと手を伸ばすと、有博はさっと手を引いた。 「答えろ」 日菜も横から画面をのぞき込んだ。 「え……キャンセルって、結婚式のことですか? 紗季さん、本気で言ってるんですか?」 私は有博を見た。 「スマホを返して」 有博は動かなかった。 「そんなことで、結婚式をやめる気か」 そんなこと。 私は小さく笑った。 「うん。あなたにとっては、そんなことなんだよね」 有博の顔色がさらに険しくなった。 「そうやって俺に折れろって言いたいのか」 「そんなつもりじゃない」 「じゃあ、何なんだよ」 有博はスマホをローテーブルに置き、私が取れないように手で押さえた。 「親戚にはもう話が通ってる。式場も押さえてある。招待状だってとっくに出した。今さらキャンセルして、俺を笑いものにする気か」 私は日菜の胸元につけられた白い椿を見つめ、ふっと言い返す気力をなくした。 「大丈夫、あなたが笑われるようにはしないから」 もっと早く気づくべきだった。 有博が気にしているのは、私が傷ついているかどうかではない。 式を何事もなく終えられるかどうかだけなのだ。 日菜がそっと有博の袖を引いた。 「有博、怒らないで。紗季さん、ただ有博に少し優しくしてほしかっただけかもしれないし」 有博は冷たく笑った。 「俺が今まで、どれだけ甘やかしてきたと思ってるんだ」 有博は私を見つめ、声を低くした。 「お前は昔からそうだ。 聞こえなければ、何度も言い直させる。機嫌が悪いと、こっちに察しろって顔をする。誰かに少し何か言われただけで、すぐ泣きそうになる。 昔は、それが可愛いわがままだと思ってた。今は、ただ疲れる」 私はその場から動けなかった。 右耳の奥がざわついていたのに、その言葉だけは一つ残らずはっきり聞こえた。 日菜がまた小さく言った。 「有博だって大変だったと思います。ずっと紗季さんに合わせてきたんですし、せめて結婚式では、有博の意見も少し聞いてあげてもいいんじゃないですか」 有博は否定しなかった。 私は玄関脇の白い傘を見た。 傘は壁に立てかけられたまま、骨が曲がっていた。 有博はその傘をくれたとき、雨の日に俺がいなくても、この傘がお前を守ってくれる、と言った。 私はその傘を手に取った。 有博が眉をひそめた。 「また出ていくのか?」 私は答えず、ただ傘を有博に差し出した。 有博は受け取らなかった。 私は傘を有博の足元に置いた。 「返す」 有博は一瞬、目を見開いた。 「本気で言ってるのか?」 日菜が横から手を伸ばし、傘を拾った。 「この傘、けっこう古いんですね。骨も壊れてますし」 日菜が傘を開くと、傘は片側だけひどく傾いた。 「もう使えなさそうですね」 私は冷たく言った。 「触らないで」 日菜はびくっとして手を離した。床に落ちた傘の先がローテーブルの脚に当たり、乾いた音を立てた。 最後に残っていた骨まで折れた。 リビングの中は恐ろしいほど静まり返り、ただエアコンの稼働音だけが響いていた。 有博は床に落ちた傘を見下ろし、そこでようやく表情を変えた。 けれど、先に目を赤くしたのは日菜だった。 「ごめんなさい。わざとじゃないんです。紗季さん、そんな目で見ないでください。怖いです」 有博はすぐに日菜の前へ出た。 「古い傘だろ。壊れたなら、新しいのを買えばいい」 私は有博をしばらく見つめて、うなずいた。 「そう」 有博はその反応に苛立ったように顔をしかめた。 「そういう態度、やめろよ」 私はしゃがみ込み、折れた傘の骨を一本ずつ拾い集めた。 金属の端が指先をかすめ、少し痛かった。 有博が私の腕をつかもうとした。 「もういい。怪我するぞ」 私はその手をかわした。 「大丈夫」 日菜が有博の後ろで、遠慮がちに言った。 「有博、私、先に帰ったほうがいいかな。紗季さん、やっぱり私のこと嫌いみたいで」 有博は疲れたように眉間を押さえた。 「下まで送る」 有博は私を見た。 「家で少し頭を冷やせ。式は予定どおりやる。これ以上、周りに迷惑をかけるな」 私はうつむいたまま、傘の骨を拾い続けた。 有博は玄関先で足を止めた。 「お前が俺から離れられるわけないって分かってる。頭が冷えたら電話してこい」 ドアが閉まった。 リビングは完全に静まり返った。 私は壊れた傘をごみ袋に入れ、ローテーブルの上のスマホを手に取った。 担当プランナーからメッセージが届いていた。 【三枝様、期限まであと10分です。いかがなさいますか】 私は担当プランナーに電話をかけた。 電話がつながると、自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。 「キャンセルでお願いします」