機長の夫が、私にだけ見せてくれなかった空の景色

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機長の夫が、私にだけ見せてくれなかった空の景色

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私・坂本千雪(さかもと ちゆき)は、坂本航(さかもと わたる)が副操縦士から機長になるまでの8年間、その長い道のりをずっと支え続けてきた...

Chương (1)

第1章

私・坂本千雪(さかもと ちゆき)は、坂本航(さかもと わたる)が副操縦士から機長になるまでの8年間、その長い道のりをずっと支え続けてきた。 航が一番忙しかった頃、私は仕事を辞め、彼のフライトスケジュールに合わせて毎日食事を作っていた。 私は一度だけ、航に言ったことがある。「航の見ている空の世界、一回でいいから私に見せてくれない?」 彼は箸を止めることもなく言った。「俺は仕事をしに行ってるんだ。遊びじゃない」 「分かった」と私は答え、それ以来その話は二度としなかった。 それからしばらくして、なかなか寝付けなかった私は、彼の携帯のアルバムの中に、ひとつの非公開アルバムを見つけた。 そこには、コックピットから撮った40枚以上の写真。 雲海、夕焼け、雨上がりのダブルレインボー、上空1万メートルの天の川。 どの写真も同じ相手に送られていて、名前は小熊の絵文字で登録されていた。 一番新しいのは3日前の夕焼けの写真で、翼の端に半分だけ沈みかけの太陽が写り込んでいる。 その写真には彼の言葉が添えられていた。 【今日の夕日も綺麗だった。次来るときは、ジャンプシートに座らせて見せてあげる。そこが一番綺麗に見えるから】 相手からの返信は、ハグのスタンプと一言。【休暇になったらね】 暗証番号もアルバムのデータもそのままに、私は静かに携帯を元の場所へ戻した。 夜が明けると、私はいつも通りコーヒーを淹れ、静かに飲み終えた。 そしてパソコンを開き退職願を書くと、雲嶺市へ行く片道のチケットを予約する。 8年経ってようやく、航のフライト時間に合わせた食事作りはもう終わりにしようと決めた。 航がどこにいるのか、誰もいない家で想像しながら待つのもやめる。 彼の上空1万メートルの世界には、私の居場所はなかったようだ。だから私は地上に根を下ろして、自分の夕焼けを見ることにした。 第1話 私・坂本千雪(さかもと ちゆき)は、坂本航(さかもと わたる)が副操縦士から機長になるまでの8年間、その長い道のりをずっと支え続けてきた。 航が一番忙しかった頃、私は仕事を辞め、彼のフライトスケジュールに合わせて毎日食事を作っていた。 私は一度だけ、航に言ったことがある。「航の見ている空の世界、一回でいいから私に見せてくれない?」 彼は箸を止めることもなく言った。「俺は仕事をしに行ってるんだ。遊びじゃない」 「分かった」と私は答え、それ以来その話は二度としなかった。 それからしばらくして、なかなか寝付けなかった私は、彼の携帯のアルバムの中に、ひとつの非公開アルバムを見つけた。 そこには、コックピットから撮った40枚以上の写真。 雲海、夕焼け、雨上がりのダブルレインボー、上空1万メートルの天の川。 どの写真も同じ相手に送られていて、名前は小熊の絵文字で登録されていた。 一番新しいのは3日前の夕焼けの写真で、翼の端に半分だけ沈みかけの太陽が映り込んでいる。 その写真には彼の言葉が添えられていた。 【今日の夕日も綺麗だった。次来るときは、ジャンプシートに座らせて見せてあげる。そこが一番綺麗に見えるから】 相手からの返信は、ハグのスタンプと一言。【休暇になったらね】 暗証番号もアルバムのデータもそのままに、私は静かに携帯を元の場所へ戻した。 夜が明けると、私はいつも通りコーヒーを淹れ、静かに飲み終えた。 そしてパソコンを開き退職願を書き、雲嶺市へ行く片道のチケットを予約する。 8年経ってようやく、航のフライト時間に合わせた食事作りはもう終わりにしようと決めた。 航がどこにいるのか、誰もいない家で想像しながら待つのもやめる。 彼の上空1万メートルの世界には、私の居場所はなかったようだ。だから私は地上に根を下ろして、自分の夕焼けを見ることにした。 …… 「今日は随分と早起きだな」 航がキャリーバッグを引きながら寝室から出てきて、少しだけ眉をひそめた。 私はマグカップを手にしたまま、彼が四本線の入った肩章を白いシャツに丁寧に付けるのを見ていた。 「眠れなかったから、コーヒー飲んでたの」 キッチンカウンターに立った航は、私が自分のために用意していたホットミルクを勝手に飲んだ。 「また深夜までくだらない動画でも見ていたのか?」 「いいえ」 「千雪、最近生活リズムが崩れすぎだぞ」 航は時計を一瞥して、いつものように説教臭い口調で言った。 「これからD国まで飛ぶ。往復で4日だ」 「分かった」 私の落ち着きすぎている反応に、航は少し意外そうな顔をする。 航が海外フライトの場合、いつもの私であれば、胃薬や睡眠薬などをキャリーバッグに詰めて、あれこれ準備を手伝っていた。 さらには、無事に着いたらメッセージを入れてと、しつこく念を押す。 しかし、今日の私はただ椅子に座って航を見つめているだけで、何もしなかった。 「胃薬はどこに入れてくれた?」キャリーバッグの横のポケットを探しながら航が訊く。 「テレビの下の二番目の引き出しに入ってるから、自分で出して」 航の動作が止まり、私を振り返る。 「今日はどうしたんだ?そんなことすら、面倒くさいのか?」 「ちょっと疲れてるだけ」 航はため息をつくと、引き出しを開けて胃薬を取り出し、ポケットに突っ込んだ。 「別にたいした事してないのに、何に疲れることがあるんだ?」 大理石のテーブルに置いていた彼の携帯が光る。 メッセージ通知が表示された。 送り主は例の、小熊の絵文字。 【航さん、D国は冷え込むから厚手の上着を忘れないようにね】 携帯を取り画面を確認した航は、その口元に微笑みを浮かべている。 片手で素早く返信を打ち、キャリーケースのチャックも閉じようとしない。 「仕事の人?」その熊の絵文字を横目に、私は訊いた。 航は携帯の画面を消し、そのままポケットにしまう。 「ああ、成瀬さんからだった。彼女も同じ便に乗るから」 「成瀬さんって、国内線じゃなかったっけ?」 「急遽欠員が出たから、新人育成の手伝いで乗るんだ」 彼の返事はあまりに自然で、言い訳を考える必要さえないというようだった。 航の筋肉質な背中を見ながら、昨晩見た非公開フォルダの写真が頭をよぎる。 どれもこれも、全部航が上空1万メートルの世界から見ている景色。 私には一度も見せてくれなかったその空を、成瀬陽菜(なるせ ひな)にとは全て共有していたのだ。 「航」 「ん?」航は玄関で靴を履きながら返事をする。 「来週の水曜日が何の日か、覚えてる?」 靴を履く航の手は止まらない。 「来週の水曜日?確かシミュレーターの訓練だったはずだと思うけど、どうした?」 「何でもない」 その日は私たちが一緒になってからの8年記念日。 8年前、初めて副操縦士としての辞令を受け取った航が、私を抱きかかえて部屋中をぐるぐる回った日だ。 これからは一番綺麗な空の景色を私に見せる、と約束してくれたのに。 もう、忘れているようだ。 「行ってくる。着いたら連絡するよ」 航がドアを押す。 「航」私はもう一度彼の名前を呼んだ。 ドアノブに手を掛けたまま、航は苛立ちが混じった表情で振り向く。 「何なんだよ?送迎車がもう下で待ってるんだ」 「キャリーバッグのチャックが開いてるよ」 航はキャリーバッグに目をやり、さっと閉めた。 「分かってるよ。今日の君は何だか変だぞ?」 そう言って、彼は出て行った。 部屋の中が再び静寂に包まれる。 私はパソコンの前に座り、先ほど書き上げた退職届を人事部へと送った。 そして飛行機の予約サイトを開き、7日後の雲嶺市行きの片道チケットを購入した。 あと7日。私の8年分の形跡を消すには十分な時間だろう。 すると、携帯が鳴った。親友の吉川南(よしかわ みなみ)からだ。 「退職届出したの?」 「うん」 「決めたからには後戻りできないよ。航さんにはいつ伝えるつもり?」 「ここを離れる日に伝えるよ」 電話の向こうの南がしばらく黙った。 「千雪……あなたは8年もの時間を航さんに捧げたのに、こんなあっさりと終えるつもりなの?」 「もういいの」 私はキッチンカウンターにある、すっかり冷め切ったミルクを見つめる。 「南、彼が誰かに送った夕焼けの写真、あなたは見たことがある?」 「え?」 「すごく綺麗だった。飛行機の翼に反射する光ですら、なんだか優しく見えるくらいに」 私は携帯の画面を裏返し、机に置いた。 「残念だけど、それは私へのものじゃなかったの」 第2話 この部屋の鍵として登録していた指紋を削除してもらうために、午後、私はマンションの管理センターへと行った。 管理人の女性は私にとても良くしてくれていたので、私が指紋を削除するのを見て不思議そうに尋ねてきた。 「坂本さん、なんでわざわざ指紋を消すんですか?これからの出入りが不便になっちゃいますよ」 「もう、必要ないんです」私はそう言って微笑んだ。 家に戻ると、物置から大きな段ボールを2つ引きずり出し、片付けを始めた。 この川沿いに建つ60坪の広い家は、航が一括で買ったものだった。 家を購入した時、航は私に言ってくれた。「一番苦しい時期を、君が支えてくれた感謝のしるしだよ」 だから、ここが自分たちの家だと私は信じていた。 いざ荷造りをしてみると、私物が驚くほど少ないことに気づく。 ウォークインクローゼットにある服の中で、私のものはたったの棚2つ分だけで、残りは全て、航が季節ごとに使い分けるタクティカルスーツや上着、スポーツウェアばかりだった。 私は普段よく着る服をたたみ、スーツケースに詰め、航が私に買ってくれた、高価だが私の好みではないドレスは、そのまま掛けておいた。 ベッドサイドテーブルには、航が初めて海外路線を担当した時に持ち帰ってきた記念品である、航空会社の飛行機の模型が置いてある。 その模型を持ち上げてみると、その下に写真が一枚敷いてあった。 4年前に撮った二人の写真。 当時の航は、機長に昇格したばかりで自信に満ちあふれていた。 私はその写真を静かに抜き取り、近くのゴミ箱へ捨てると、模型をそっと元の位置に戻した。 夕方、携帯が震えた。 航からのラインだった。 【無事着陸。今ホテルに着いた】 いつもなら私はすぐに、【お疲れ様、ベッドの寝心地はどう?】というような言葉を返信していただろう。 だが今日の私が返したのは一言だけ。 【うん】 30分経って、またメッセージが来た。 【こっちはかなり冷えるよ。免税店で何か欲しいものはある?】 私は洗面台に置いてある化粧品類をポーチに詰め込んでいるところだった。 【いらない】 【いつもどこどこのブランドのスキンケア商品が欲しいとか言ってたじゃないか?】 私は鏡に映った自分の顔を見つめる。 【もういいの。欲しくなくなったから】 それきり、向こうからの返信は来なくなった。 私が不機嫌になっていると思ったのか、もしくは……他の誰かの面倒を見るので忙しいのだろう。 私は陽菜のインスタを開いた。 投稿は10分前に更新されたばかりで、川辺の夜景の写真。 そばにはホットワインがあり、そのマグカップの縁には男性の手が添えられている。 その手の中指には、浅い傷痕があった。 あれは、航がフルーツを切っている時に作った傷。当時、私は1週間毎日彼の包帯と薬を替えてあげた。 陽菜の投稿には、こう添えられていた。 【こっちはとても冷えるけど、ホットワインが身体にしみる。誰かが支えてくれるフライトは本当に最高】 航空会社の同僚たちからも、「いいね」が押されている。 こんなコメントもあった。【坂本機長の奢りですか?成瀬さん、幸せですね】 それに対し、陽菜は照れるような絵文字で返信している。 私は淡々と携帯を閉じた。 今や胸の奥の鋭い痛みだけでなく、感覚すらなくなっていた。 この8年間、私は何も疑うことなく航が並べる甘い言葉を信じていた。 航に優しさや気遣いがなかったわけではないらしい。 ただ、その全ての愛情を別の誰かに捧げていただけなのだった。 数日後、航が帰ってきた。 夜7時。手にプレゼントの箱を提げた彼は、玄関のドアを開けた。 私はソファーに座り、航が靴を履き替えるのを眺めていた。 「何で食事が無いんだ?」航が何も置かれていないダイニングテーブルに視線を落とす。 「私は食べたから」 航の眉間の皺が一層険しくなる。 「10時間以上のフライトから帰ってきたのに、飯すら用意してくれてないのか?」 「デリバリーでもしたら?」 航はプレゼントの箱をテーブルにドカッと置いた。 「千雪、何でここ数日ずっとそんなに機嫌が悪いんだ?」 「別に、機嫌なんか悪くないよ」 「だったら何でラインを返さない?何が欲しいか聞いたのに答えもしなかったじゃないか」 私はテーブルの箱を見つめた。 「あれは私に買ってくれたやつ?」 航は一瞬戸惑い、すぐに私から目を逸らした。 「いや、これは……知り合いから頼まれたやつなんだ。君のやつは明日デパートでも行って、一緒に何か買おう」 知り合い。 「成瀬さんに頼まれたの?」私は航をまっすぐに見据えた。 航の表情が曇る。 「俺の携帯を見たのか?」 「成瀬さんのインスタは誰でも見られるようになってるから」 彼はほっと息をつき、そしてまた当然だというように理路整然とした口調に戻った。 「あの人には借りがあるからな。土産くらい買っても、何も問題ないだろ?何で君はそんなに心が狭いことを言うんだ?」 「別に何も言ってないでしょ?」 「そんな冷たい顔してる時点で、不満があるってことだろ!」彼は苛立ったようにネクタイを緩めた。「同僚だから、仕事じゃ毎日顔を合わせるんだ。少し気を遣っただけで、何が悪いんだ?」 「あなたってすごく気を遣えるのね」もうこれ以上話したくなかった私は、立ち上がった。 「千雪!」 背後から航の怒鳴るような声が聞こえる。 「仕事で疲れ切ってる俺のこと、少しは考えてくれよ。どうして帰ってきたばかりなのに、君の機嫌を取らなきゃいけないんだ?」 彼のことを考える……か。 8年間、ずっと彼のことを考え、労ってきたんだけどな。 私は涙を堪え、一言も返さずゲストルームに入った。 「今夜はここで寝るから。お休み」 第3話 その後の2日間、私は黙々と身辺整理をした。 リビングにある観葉植物は自分で買ったものだったので、隣人の女性にあげた。 バルコニーのロッキングチェアも私が選んだものだったから、中古買取業者に引き取ってもらった。 それでも航は、家から物が消えていることに全く気づいていないようで、ただ最近の私が大人しいことに、満足そうにしているだけだった。 「最初からこうしていれば良かったんだよ」 金曜の朝、航はダイニングテーブルで、私が適当に焼いたパンをかじっていた。 「今日、成瀬さんの誕生日なんだ。夜、同僚たちと集まって食事をするから、君も一緒に行こう」 私のテーブルを拭く手が止まった。 「何で私が?」 「だって、君は何で同僚に会わせてくれないんだっていつも文句言ってただろ?今夜はちょうどみんな揃うから、挨拶がてら顔を出せばいい」 まるで私のためとでも言いたげだった。 確かにかつての私は、航に私を同僚の集まりに連れて行ってほしいとお願いしていた。 しかし、いつも航は「全員パイロットで君が行っても話が分からないと思うから、退屈なだけだよ」と連れて行ってはくれなかった。 なのに今、わざわざ誘ってくるのは陽菜の誕生日だからだろう。 「分かったわ」と私は頷いた。 航の同僚たちが陽菜という人間をどう見ているのか、自分の目で確かめてみたかったのだ。 夜8時、私たちは予約された店に到着した。 個室のドアを開けると、すでに7人の男女が集まっていた。 主役の席に座った陽菜は、白いロングワンピースに身を包み、見覚えのあるネックレスを身につけていた。 それは一昨日、我が家のテーブルで目にしたプレゼントの箱の中身そのものだった。 「坂本機長!奥さんもいらしたんですね!」 陽菜が立ち上がり、嬉しそうに駆け寄ってくる。 「初めまして。航さんからずっとお話を伺っていました。お会いできて嬉しいです!」 陽菜が親しげに私の手を取りに来たので、私はサッと手を引いた。 そして、淡々と言う。「お誕生日おめでとうございます」 場の空気が一瞬だけ凍りついた。 航が私の手を掴み、小声で咎める。「今日、俺の顔に泥を塗るような真似はするなよ」 食事の間、話題はずっとフライトのことだった。 どの航路の気流がどうだとか、管制官がいかに理不尽だとか、そういう話ばかり。 聞いてもさっぱり分からないし、私は理解する気も失せていた。 「それにしても、坂本機長の着陸はいつ見ても安定してますね」 副操縦士のひとりが笑みを浮かべながら、グラスを掲げた。 「成瀬さんなら分かるでしょうね。坂本機長が操縦している時は、コーヒー1つもこぼしたことがないんじゃないですか?」 陽菜が口元を覆ってクスクスと笑う。 「そうですよ。航さんの腕前は業界でも有名ですから。この前の雷雨での飛行の時、私は脚が震えるほど怖かったんですけど、コックピットから航さんが『大丈夫、俺がいるから』って連絡をくれて、その一言で本当に安心できました」 その瞬間、テーブルの全員が囃し立て始めた。 「俺がいるから、だってさ!」 航も一緒に笑い、否定することもなく、むしろ目を細めて愛おしそうに陽菜を見つめている。 私は手元のお茶を飲んだ。すっかり冷めていて、少し渋い。 雷雨でのフライト…… あの一件なら私もよく覚えている。 悪天候で5時間も着陸が遅れていた。何度も電話をしたけれど繋がらず、私は心配のあまり眠れなかった。 なのに、その後やっと届いた返信は一言だけ。【忙しいから、無駄な連絡をするな】 あの時、私を無視していたくせに、コックピットの向こうの陽菜には優しくしていたらしい。 「奥さん、普段から航さんのことはあんまり気にしてないんですか?」 陽菜がいきなり私に問いかけてきた。 「航さんは胃が弱いのに、昨日は朝ごはん抜きでシミュレーター訓練に向かっていて、私たち本当に心配してたんですから」 その声には、隠そうともしない非難の色が滲んでいる。 個室の中がしんと静まり、全員の視線が私に向けられた。 「航だっていい大人ですから、そのくらい自分で管理できますので」私は湯飲みを置いた。 陽菜が面食らって、すぐに瞳を潤ませる。 「別に、深い意味なんてないんです。ただ、私は航さんが少し心配なだけで……」 「千雪、いい加減にしろ」 航が箸を叩きつけて、険しい顔で私を見た。 「せっかくみんなで楽しく食事をしているのに、なぜそうやって場の空気を悪くするようなことを言うんだ?」 「私が何か場の空気を悪くするようなことでも、言った?」私は淡々と航を見返す。 「成瀬さんは俺を心配して言ってくれたのに、なんだその態度は!」 「航」 私は立ち上がり、バッグを手に取った。 「あなたの胃の調子をそんなに気にしてくれる人がいるのなら、もう私が心配することもないね」 「千雪!このまま帰れるものなら、帰ってみろ!」 背後から航の怒号が響いたが、私は一度も振り返らずに、個室のドアを押し開けた。 廊下の冷気が顔にあたり、私は深く息を吸い込む。 8年もの間、私はずっと航のために、自分を押し殺してきた。でももう、それを続ける必要はない。 帰宅後、私は残りの荷物を段ボールに詰め終えた。 あとは来週の水曜日を待つだけ。 第4話 その夜、航は帰ってこなかった。 翌日の昼頃ようやく帰宅した航は、ほのかにウッディ系の香水の匂いをまとっていた。 陽菜が愛用している香水の香りだ。 航は玄関に車の鍵を放り投げ、冷ややかな目つきで私を見た。 「もう満足か?」 ガムテープで段ボールを塞いでいた私は、顔すら上げなかった。 「おい、聞こえてるのか?」航が段ボールを蹴り飛ばす。「こんなガラクタを整理して何になるんだ?」 「もう使わないものをまとめているだけ」 航はふっと鼻で笑った。 「千雪、駆け引きにしてはずいぶんとくだらないな。数日口をきかなければ、俺が折れるとでも思っているのか?」 私は立ち上がり、手に付いた埃を払う。 「別に、あなたに機嫌を取ってもらおうなんて思ってないから」 「ならその態度はなんだ?君のせいで成瀬さんは昨夜、1時間近くも泣いていたんだぞ。普通、謝るのが筋だろ?」 「絶対に謝らない」 「話にならないな!」 航は苛立ちを露わにし、ソファにどっかりと座った。 「来週の水曜日、俺はI国へのフライトが入っているから、君とやり合ってる暇はない。自分の過ちを認めるなら、成瀬さんに譲るつもりだった家族チケットを、君にやってもいいぞ。オーロラを見に連れて行ってやる」 私は言葉を失い、その場に立ち尽くした。 オーロラ。 6年前、私は甲状腺に腫瘍が見つかった。良性だとわかっていても、当時は生きた心地がしなかった。 そのとき航は病室で私の手を握り、約束してくれた。「治ったら一緒にオーロラを見に行こう。俺の操縦する飛行機で、一番綺麗な夜空を二人で見よう」 航はその約束を、6年も先延ばしにしていた。 なのに今になって、その昔の約束をまるで私への施しのように差し出してくる。 しかも、もともと陽菜のために用意していたチケットを…… 「いらないのか?」反応がない私に、航は眉を寄せた。「このチケットがどれほど貴重か知らないのか?成瀬さんに散々せがまれてようやく手に入れたんだぞ?でも、俺たちの8年記念もあるし、君に譲ってやろうって言ってるんだ」 「そのチケット……成瀬さんにあげて」私は震える声で、航にそう言った。 「なんて言ったんだ?」 「成瀬さんにあげて。私はいらないから」 航が急に立ち上がった。その表情は恐ろしいほどに険しい。 「千雪、いい加減にしろ。チャンスを与えてやったのに、君が自分で捨てたんだからな。後悔しても知らないぞ」 「後悔なんかしない」 すると、航が近くにあったガラスコップを勢いよく床に投げつけた。 飛び散った破片が私のふくらはぎを切り、鮮血が流れる。 しかし、航は私を見ることもせずに、ドアを荒々しく閉めて出ていった。 ふくらはぎから流れる血をじっと見つめ、私はティッシュで拭き取った。 不思議と痛くはない。 時の流れは速いもので、すぐに来週の水曜日になった。 一緒になって8年目の記念日。 そして私の退職届が受理され、この街を去る日でもある。 スーツケースを引き、私はタクシーで空港へと向かった。 私の便は15時の雲嶺行き。 搭乗券を手にして、私はロビーの椅子から飛び交う飛行機を眺めた。 航たちがオーロラを見に行くフライトは14時の離陸だ。 航は今ごろ、操縦席でエンジン始動の手順を進めているのだろう。 この8年間の締めくくりとして、最後に航のフライト状況を確認しよう。 フライト情報アプリをタップすると、搭乗クルーの情報が出てきた。 しかし、機長の名前は航ではなかった。 全く見知らぬ名前が表示されている。 私は思わず目を見開いた。 病気か何かで急遽変更になったのか? その時、ファーストクラスのラウンジがふと目に入った。 カジュアルな服装をした男性が、ピンクのスーツケースを押して歩いている。 隣には同色系で同じくカジュアルな服装をした女性がいた。 その女性は仲睦まじげに男の腕にすがり、肩に頭を乗せている。 それは航と陽菜だった。 ラウンジへ消えていく二人を、私がただ呆然と見つめていると、そばにいたグランドスタッフの会話が聞こえてきた。 「さっきのって、坂本機長じゃなかった?今日はI国便のフライトじゃないの?」 「急に有給を取ったみたいだよ。成瀬さんとG国に行くためじゃないかって話」 「だって、成瀬さんったら昨日のグループチャットで自慢してたんだから。坂本機長が自分のためにI国行きのフライトを断って、休暇に連れてってくれるって」 「坂本機長の成瀬さんに対する入れ込みよう、本当に凄いんだね」 私にはなんだか急に滑稽に思えた。 そもそもあのチケットは、彼が私と仲直りをするために準備したものではなかったらしい。 なぜなら、航は陽菜のために、本来の飛行任務さえ放棄し、彼女との二人きりのオーロラツアーを計画していただけなのだから。 それなのに、その事実を覆い隠すために、まるで恩恵のような嘘を並べ、私に感謝すらさせようとしていた。 搭乗のアナウンスが流れる。 私は再びファーストクラスのラウンジを見つめた。 だがすぐに背を向けて、手にしていたチケットを搭乗口のグランドスタッフへと差し出す。 ハッチが閉まり、離陸すると機体が空へ舞い上がった。 上空1万メートルの世界で、航の航空会社の飛行機は私を乗せて雲の彼方へ突き進む。 最愛の陽菜のために有給を取った航は、今ごろどこか別の飛行機の座席で旅を楽しんでいることだろう。 私は窓の外に広がる雲の海を見下ろす。 8年越しに、ようやく自由になれた。