娘の死より初恋?戸籍を消しクズ夫に復讐する

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娘の死より初恋?戸籍を消しクズ夫に復讐する

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離婚から3年、夏川泉(なつかわ いずみ)は夏川学(なつかわ まなぶ)が放った火によって、再び結婚という檻へ連れ戻された。 ライターを手にし...

Chương (1)

第1章

離婚から3年、夏川泉(なつかわ いずみ)は夏川学(なつかわ まなぶ)が放った火によって、再び結婚という檻へ連れ戻された。 ライターを手にした学は、氷のような冷たい声で言った。「泉、この古いマンションには17世帯もの人が住んでいる。寝たきりの老人もいれば、生まれたばかりの赤ん坊もいる。 今日、お前が復縁協議書にサインしなければ、下のガソリンの詰まったドラム缶は点火される。お前に住人の命を背負う覚悟はあるのか?」 無関係な住人を巻き込むわけにはいかず、泉は震える手で復縁協議書に名前を書き入れた。 復縁してからというもの、学はありったけの愛情を泉に捧げた。雲嶺市の一等地にある商業ビルを泉の名義にし、泉専用の香水まで特注した。さらには、泉が7年前に何気なく口にしたオーロラを見たいという願いを叶えるため、全ての国際会議をキャンセルし旅行の準備をした。 世間では、学が元妻とよりを戻すため、泉に会社の資産の半分を差し出すほど、ここ10年でも稀に見る献身的な愛だと噂されていた。 第1話 離婚から3年、夏川泉(なつかわ いずみ)は夏川学(なつかわ まなぶ)が放った火によって、再び結婚という檻へ連れ戻された。 ライターを手にした学は、氷のような冷たい声で言った。「泉、この古いマンションには17世帯もの人が住んでいる。寝たきりの老人もいれば、生まれたばかりの赤ん坊もいる。 今日、お前が復縁協議書にサインしなければ、下のガソリンの詰まったドラム缶は点火される。お前に住人の命を背負う覚悟はあるのか?」 無関係な住人を巻き込むわけにはいかず、泉は震える手で復縁協議書に名前を書き入れた。 復縁してからというもの、学はありったけの愛情を泉に捧げた。雲嶺市の一等地にある商業ビルを泉の名義にし、泉専用の香水まで特注した。さらには、泉が7年前に何気なく口にしたオーロラを見たいという願いを叶えるため、全ての国際会議をキャンセルし旅行の準備をした。 世間では、学が元妻とよりを戻すため、泉に会社の資産の半分を差し出すほど、ここ10年でも稀に見る献身的な愛だと噂されていた。 だけど、本当のことは誰にも知られていない。他人から見れば喉から手が出るほど羨ましいその愛が、泉にとっては必要のないものなのだ。 学が贈った高級ジュエリーを、泉が家に持ち帰ると即座にゴミ箱へ捨てた。学が7桁もの費用をかけて泉の好みに合わせて内装した豪邸も、彼が取締役会へ行く隙を狙って、泉は寝室のカーテンに火をつけた。二人の名前を刻んだペアグラスも、泉は執事の前で粉々に叩き割ったのだ。 こうした日々が続く中、ある日、学が帰宅すると、昨日プレゼントした限定のバッグが、跡形もなく切り裂かれて玄関に捨てられていた。すると、3ヶ月も抑え込んでいた怒りを爆発させた学は、泉の手首を関節が白くなるほどの力込めて掴み上げると、睨みつけて言った。 「泉!一体どうすれば許してくれるんだ?言ってくれ!俺にできることなら何だってする!」 しかし泉は口をつぐみ、至って冷たい表情のままだった。 でも学の記憶の中、3年前の泉はこんなふうではなかったのだ。 3年前、泉は国内最年少の首席交渉専門家だった。どんなに凶悪な犯人でも泉の交渉一つで武器を下ろし、ビルから飛び降りようとする人さえ彼女は引き止めて見せたのだ。 泉のその交渉術は優しさを纏った鎧のように、彼女にとって最強の武器であった。 それなのに今、泉はほとんど口を開かない。 医師の診断によれば、PTSDによる失語症だ。喋れないのではない。喋りたくないのだ。 そしてその傷の原因は、3年前に死んだ彼らの娘、夏川柚葉(なつかわ ゆずは)である。 リビングの目立った場所に置かれている仏壇には、柚葉の遺影が飾られていた。そこには3歳の可愛らしい盛りで、ツインテールを結び、笑うと頬に小さなえくぼができる、甘いイチゴ飴が大好きだった柚葉が写っていた。 ふとそれを見た学は顔から、みるみる血の気が引いた。 そう、3年前の出来事が、毒の塗られた鋭い刃となって、二人の間を切り裂いているのだ。 泉は今もあの日の光景を忘れられずにいた。 あの年、学の初恋の人である後藤美羽(ごとう みわ)が海外から戻った途端に拉致されてしまった。当時、学が彼女の迎えに柚葉を連れて行ったら、柚葉まで巻き込まれてしまったのだった。 廃棄された倉庫で喚き散らす犯人と、恐怖で泣き叫ぶ美羽。 美羽に抱きしめられた柚葉は、3歳で何が起きているか分からず、ただ大きな目を見開いて「ママ、こわい……」と呟いていた。 当時、泉は交渉専門家として現場の指揮を執っていた。 策を練っている間も、犯人は学に二者択一を迫った。美羽を助けるか、それとも柚葉を選ぶか、と。 学が選んだのは、美羽だった。 その時、彼はこう言った。「美羽は体が弱いんだ、きっと耐えられないはず。柚葉はまだ小さいし、子供相手に犯人もそこまで酷いことはしないだろうから。泉、分かってくれ。これが一番正しい判断なんだ」 だが特捜班が突入し犯人を確保したその時、揉み合いの中で美羽が、柚葉をバルコニーから突き落としたのだ。 3歳の柚葉は3階から落下し、泉に最後の一言すら残せなかった。 皆が美羽は恐怖で正気を失っていた、過失致死だと口を揃えた。 さらに学は自ら和解の文書に署名し、美羽が精神的な疾患を患っていると発表すると彼女を郊外の病院に保護した。だが、3年間のうち、美羽は責められるどころか、厳しく当たられることさえなかったのだ。 「もう過ぎたことだ。泉」 学の声が震え、泉の顔に手を伸ばすが、泉はそっぽを向いて避けた。 「怒るのはもっともだ。でも、美羽にもう罰は受けさせている。また子供を作ればいい。約束する、これからは何だってお前に従う。これでいいだろう?」 しかし、そう言っているそばから、学のスマホが震え、画面には美羽の名前が表示された。 学は電話に出た瞬間、顔を青ざめて慌ててコートを手に外へ向かった。「美羽が退院することになった。不安定みたいだ。迎えに行ってくる、夜にお前の好きなお菓子を買っていくよ」 そして、家のドアが勢いよく閉まり、広いリビングには、泉が一人きり残された。 一方、玄関を出た学は、最後に一度だけ振り返って、何かを言いかけたが結局そのまま立ち去った。 扉が閉まった音を確認し、泉は仏壇の前で膝をついた。そして遺影を手に取ると、額をその冷たいフレームに押し当てた。 しばらくして、彼女は暗号化された番号にメッセージを送信した。 【後藤さんが戻った。当初の計画通りに、私と彼女の戸籍、および身元情報を改ざんしてほしい。いつまでかかる?】 2秒後、【最短で7日】と返信が来た。 返信を見た後、泉は柚葉の遺影に視線を落とすと、胸が酷く痛んだ。 ちょうど7日後が、柚葉の3回忌である。 【分かった】と返し、すべての対話を削除した。 そして、泉は指先で遺影を撫でながら、氷のように冷徹な瞳を光らせた。「7日後、ママと一緒にここを離れよう。あの人たちを地獄に突き落としたら、二度とここへは戻らないから」 第2話 こうして、学が美羽を連れて帰宅したのは、もう深夜11時を回っていた。 リビングのソファに座る泉は、明かりも点けずにいた。ただ、柚葉の遺影を飾った小さな棚で、ろうそくの灯りが頼りなく揺れ、そのシルエットを浮かび上がらせていた。 鍵の回る音がしてドアが開く。玄関から差し込んだ光に、泉は目を細めた。 「泉、起きていたのか?」学の声は、どこか取り繕ったような、わざとらしい明るさを帯びていた。 そして、彼の後ろから、美羽が恐る恐る顔をのぞかせた。 3年ぶりの美羽は随分と痩せ、顔色は青白く、地味なワンピースに身を包み、さらりとした長い髪を肩に落としたその姿はなんとも可憐で、華奢に見えた。 美羽は泉を一瞥するとすぐに目を伏せ、不安そうに指先で裾を握りしめた。 「学、やっぱりホテルに泊まるわ……」 美羽は震える声でつぶやいた。「泉さんが私を見ると、きっといい気がしないでしょから」 「何を馬鹿なことを言ってるんだ?」 学は体を横に寄せると美羽を促した。「お前は安静が必要なんだ。ホテルなんて不安だろう?泉も分かってくれるさ」 一方、泉はゆっくりと立ち上がった。 玄関へと歩み寄ると、彼女は学と美羽の前に立った。 あの日、柚葉を死に追いやったこの女を、これほど近くで見るのは3年ぶりだった。 「泉、美羽はここ数日しか泊まらない。住むところを確保したらすぐに出てもらうから」 学はそう説明しながら、泉の肩に手を伸ばすが、泉はひらりとそれを避けた。 そして、泉は沈んだ表情で、美羽をただ見つめていた。 一方、顔を上げた美羽の目には、すぐさま涙が浮かんだ。「泉さん、ごめんなさい。合わせる顔なんてないの……柚葉ちゃんのこと、一生自分を許せないわ……」 だが、美羽が最後まで言い終える前に、泉は手を振り上げた。 そして、パシッ、と乾いた音が静かなリビングに響き渡った。 不意を突かれた美羽は大きく顔を歪ませた。その白い頬には、赤々と手の跡が浮かんだ。 すると、美羽は頬を押さえ、信じがたい表情で泉を見上げ、大粒の涙をこぼした。 「泉!」学が声を荒らげて泉の手首を掴んだ。「何を考えてるんだ!」 だが、泉は抵抗をせず、逆に反対の手をもう一度美羽の顔に叩きつけた。 二度目のビンタは更に力が込められていたから、美羽はその場に崩れ落ち、髪を乱したまま床に伏して泣きじゃくった。その背中を小さく震わせる姿はなんとも不憫に見えた。 「泉!いい加減にしろ!」ついに激昂した学は、泉を激しく突き飛ばした。「美羽は3年も精神病院にいたんだぞ!これ以上何をする気だ!」 後ろによろけた泉の腰が、仏壇の角に激しくぶつかった。すると棚に置いてあった柚葉の遺影が揺れ落ち、バリンという音と共にガラスが砕けた。 そして、とっさに拾い上げようとした泉の手も、鋭いガラスの破片に切り裂かれ、滴り落ちた真っ赤な血が写真の中の幼い笑顔に染みわたり、柚葉のえくぼを赤く染めていった。 痛みで震えが止まらなくなった泉は喉に何かが詰まったように声も出ずにいた。ただ、塩辛い涙だけが傷口に沁みて、泉はこめかみをピクピクさせていた。 「学。私、胸が苦しくて……」 そう言うと、美羽は学の腕の中で、しおれたように力なく胸を押さえて荒い息を吐いた。「さっき、古傷に当たっちゃったのかな。息が苦しい……」 すると、学は一瞬にして慌てた。彼は、血を流す泉を一瞥もすることなく、美羽を抱きかかえて部屋を飛び出した。 一方、美羽は衰弱しきった様子で学の腕にしがみついていたが、視線は学の肩越しに泉に向けられていた。 その目に浮かんでいたのは痛みでも罪悪感でもなく、一瞬だけ見せた、ふてぶてしい優越感だった。 泉には、その目線の意味が痛いほど理解できた。 そして、泉は学が丁寧に美羽をソファに横たわらせて、焦った声をかける姿を見て、自分のことなど彼は最初から眼中にないことを改めて思い知ったのだった。 3年前と全く同じだ。 学の中で美羽の体はいつも最優先だが、自分や柚葉などは、いつだって後回しにできる存在なんだ。 「美羽を寝かせてくるから、お前はここで頭を冷やせ!」学は美羽を抱えたまま、足早に階段を上っていった。 一方、床に座り込んだ泉は、散らばった最後のガラス片を拾い集めた。 そして、血に染まった掌で、慎重に破片を並べては、どうにかして元のフレームに戻そうとした。 しかし、二度と戻らない。 壊れてしまったものは、何をどうしても元には戻らないのだ。 泉は立ち上がり、物置から新しいフレームを探し出すと、大切に写真を入れ替えた。 作業の合間に、指先の血が写真に点々と飛び散るのを見て、彼女は慌てて手の甲で拭おうとしたが、かえって鮮やかなシミが広がっていった。 すると泉は手を止め、再び写真を仏壇へと戻した。 そして、泉はお香を立てて、仏壇の前で跪くと額を冷たい床に置いた。 彼女は泣き声をたてることなく、震えることもなかったが、ただ一滴の涙だけが落とされ、床の隙間へと消えていった。 第3話 こうして、泉は柚葉の位牌の前で、一晩中ひざまずいていた。 夜が明ける頃には手のひらの血も固まり、少し動かすだけで激痛が走った。 床を支えにして立ち上がろうとしたが、膝に力が入らず、その場に崩れ落ちた。 その時掃き出し窓から朝日が差し込み、リビングを淡い金色に染めていった。 新しくした額縁に入った柚葉の笑顔の写真が、朝日を受けて輝いてみえた。 写真を見つめる泉の頭に、ふと柚葉の3歳の誕生日が蘇った。 あの時の柚葉はお喋りだった。 柚葉を抱っこしながら、自分はケーキの蝋燭を指差して「柚葉、お願いごとをしてね」と笑いかけながら言った。 すると、柚葉は小さな手を合わせ、可愛らしい声で「パパとママと一緒にいたい、イチゴをずっと食べたい」と願いを言った。 その隣でスマホで撮影していた学は、「柚葉の願い事は必ず叶うよ」と優しく笑っていた。 美羽がまだ帰国する前、すべてが幸せだったころの話だ。 泉は目をつぶり、記憶の中の光景をかき消そうとした。 すると、朝食のトレイを手に持った学が、泉の背後で立ち止まった。 彼は泉の手の包帯を見て、眉をひそめた。「泉、少し話をしよう。 その手……なぜ昨日、そんなに酷い怪我をしたと教えてくれなかったんだ?」 しかし、泉は返事もせず、朝食に目もくれず洗面所に向かった。 「待て」と手首を掴まれる。「昨夜のことは悪かった。突き飛ばしたのは申し訳なかったが、美羽にも事情があることを理解してくれ」 だが、泉は乱暴に学の手を振り払った。 「いい加減にしてくれ!」学の声に、抑えきれない怒りが混じる。「いつまで引きずるんだ?柚葉がいなくなって3年だぞ。俺たちの人生は続いていくんだ。美羽だって罪を償った、それ以上どうしてほしいんだ?」 そう言われ、足を止めた泉は、静かに振り返った。 彼女の瞳は澄み切っていたが、その奥に潜む冷たい絶望を間近に感じ、学は思わず息を呑んだ。 「病院へ行こう。手当し直さないと」 学は声のトーンを下げながら、泉の頬に手を触れようとするが、またしても泉にそっぽを向かれてしまった。 「意地を張るな」そう言って、学は強制的に腕を引いた。「感染症にでもなったら大変だ」 それから彼は有無を言わせず、泉を車に押し込んだ。 泉はもがいたが、力では学に及ばず、結局そのまま車に乗せられてしまった。 病院までの道中、二人の間は相変わらず沈黙が続いた。 学は何かを切り出そうとするが、隣に座る泉の冷たい横顔を見ると、彼は言葉を飲み込むしかなかった。 そして、診療中、手のひらを貫く生々しい傷跡を目にした学は、思わず息を呑んだ。 「何をやったらこうなるんですか?」と医師が渋い顔をする。「ガラス片が深く入り込み、腱まで傷ついています。縫合も必要ですし、破傷風の注射も打たなければなりません」 泉は俯いたまま、ただ無言だった。 その様子を見つめる学の表情が険しくなる。 それから5針も縫合したあと、破傷風の予防接種も行った。 施術中、泉は眉一つ動かさず、ただぼんやりと天井を見上げていた。 そんな泉の虚ろな瞳を見ていると、学の言葉も喉の奥に詰まって出てこなかった。 そして、病院から出た学は言った。「会議があるから戻る。美羽はゲストルームで寝ているから、邪魔するなよ」 それに対し、泉は一言も発さず、そのままエレベーターに乗り込んだ。 家に戻ると、中はひどく静まり返っていた。 泉はまっすぐ、かつての子ども部屋へ向かった。 扉を開け、泉は一瞬立ちすくんだ。 部屋には先客がいた。 美羽だ。彼女は泉のシルクのネグリジェを着たまま、机の前でオルゴールを弄んでいた。 それは柚葉の誕生日に泉が手作りしたもので、音楽と共にバレリーナが回る特別な品だった。 「これ、可愛いわね」 美羽は泉の気配を感じ、悪びれる様子もなく微笑んだ。「お帰り。その手の怪我は大丈夫?」 そう言われ、泉の視線がオルゴールから美羽の顔へと移った。 「朝、目が覚めちゃって。少し散歩しようと思ってね」 美羽はオルゴールを置いて近づいてきた。「学が、ここでは自分の家みたいに過ごしていいって。泉さんも構わないでしょ?」 だが、泉は一歩も動かなかった。 すると、距離を詰めてきた美羽が、ささやくように耳打ちした。「ねえ、知ってる?昨日柚葉ちゃんの写真を見た時思ったの。柚葉ちゃんはあの時もこんな可愛らしい顔をして死んだのかしら?高い場所から落ちたら、随分と痛かったでしょうね」 泉の呼吸が一瞬、止まった。 「実はね」美羽はさらに身を寄せ、いたずらっぽくささやいた。「廃棄された倉庫で彼女を突き落としたの、うっかりじゃないのよ」 それを聞いて、泉の手が細かく震え始めた。 「わざと突き落としたの」そう言って美羽は悪魔のような笑みを浮かべた。 「あのガキ、泣き喚いてばかりで煩くて。もしあのガキがいなくなれば、学は私だけを見てくれるって思ったの」 その瞬間、時間は静止したかのようだった。 泉の全身の血が逆流し、耳鳴りがガンガン鳴り響き、彼女の頭の中で何かが音を立てて崩れてしまったかのようだった。 だが、美羽はまだ笑いながら言っている。「どうせ私は精神病と認定されてるし、死刑になんてならない。3年経てばこうやってまた自由になれるしね」と美羽が笑う。 次の瞬間、その言葉は途切れた。 泉が美羽の髪を掴んでいたからだ。 痛みに美羽が悲鳴をあげる。 それに対し、泉は無言で美羽を引きずりながら、階段へ向かった。 美羽は喚きながらもがいたが、泉の手はまるで鋼のように彼女を掴んで緩まなかった。 「何するの!離して!学、助けて――」 だが、泉はそんな悲鳴に構うことなく、怯えきった表情の美羽を見つめながら、彼女の背中を押した。 すると、叫び声と共に、美羽の体は宙を舞い、階段を転がり落ちた。 鈍い音が立て続けに響きわたり、最終的に静まり返った。 その様子を、泉は踊り場から階段の下へ静かに見下ろした。 そこで、美羽はうずくまったまま、ぴくりともしない。そして彼女の体から真っ赤な血が流れ、広がっていった。 それを見届けてから泉は振り返らず、子ども部屋へ戻り、テディベアについた埃を優しく叩き払って抱きしめた。 外から差し込む暖かな日射しが、泉を照らしていた。 彼女は静かに目を閉じ、深く溜息を吐き出した。 それから満足げに微笑みを浮かべると、もう美羽のことなど忘れてしまったかのようだった。 第4話 それから、美羽が救急処置室に運ばれた時、学は泉の肩を掴んだ。 「頭がどうかしてるんじゃないか?」彼は顔を真っ赤にして、怒鳴りつけた。「美羽を殺す気か?」 そう言われ、泉は静かな瞳で学を見つめた。 腕には美羽がつけた生々しいひっかき傷が残っていたが、泉は痛みを全く感じていないようだった。 「美羽を恨んでいるのは分かっている」学は疲れきった声で非難した。「だが泉、お前はいつからこんなに非情になったんだ?」 すると、泉はようやく学に目を向けた。 彼女は手を上げ、自分を指し、次に心臓を指した。最後に手のひらを広げ、「もう何もない」という仕草をした。 学はその意味を理解した。 泉は「私はとっくに、何もかも失った」と言いたいのだ。 学の胸が痛んだが、その感情はすぐに怒りによって取って代わられた。「だからと言って他人を傷つけていいわけないだろ?美羽は過ちを犯したが、すでに精神病院で3年もの月日をかけて罰を受けたんだ!なのにお前はなぜそこまで意地になるんだ?」 泉の唇が少しだけ引きつった。 それは皮肉を込めた笑みだった。 彼女が立ち去ろうとすると、学が引き止めた。「どこへ行くんだ?美羽はまだ予断を許さない状態だ。ここにいろ。彼女が目が覚めたら謝るんだ」 だが、泉は学を振り払い、前へと歩みを進めた。 「待て!」学が追いつき、泉の手首を掴んだ。「謝るんだ。お前が美羽に怪我をさせたからな!」 泉の手首はあまりに細く、学の片手ですっぽりと収まってしまった。 骨は学の掌で角ばっていて、今にも折れてしまいそうなほどだった。 一方掴まれた泉は振り返ると、もう片方の手で学の頬を力いっぱい平手打ちした。 乾いた音が、広々とした廊下に響き渡った。 学はその勢いで顔をそらし、頬には赤い手形が刻まれた。 すると、彼はゆっくりと振り向き、目線がどんどん冷たくなっていた。 「そうか」学は言った。「わかったよ」 彼はスマホを取り出し、電話をかけた。「今すぐ病院に来い。泉を連れていけ。俺の許可を下すまで、一歩も家から出すな」 こうして泉は監禁された。 学は泉のスマホを取り上げ、家のネット環境を遮断し、玄関にもボディーガードを2人配置した。 窓には鉄格子が取り付けられ、泉はこの豪邸で唯一の囚人となった。 それから3日後、ネット上である噂が広まり始めた。 【夏川グループの社長の愛人が妊娠しているにも関わらずその妻に突き落とされ、重体になった?】、【交渉専門家から人殺しへ――冷酷な女の本性】、【声なき妻の復讐――名家に隠された血みどろの真相】 報道は病院の写真と、病室で蒼白になっている美羽のアップを並べ立てた。 コメント欄は大荒れだった。 【その妻って性格に問題があるんじゃないのか?自分の子供が死んだからって他人の子供まで傷つけてしまうなんて?】 【確かその妻の娘さんも彼女が目を離したから事故死してしまったんだよな。それで他の人まで逆恨みして傷つけるなんて、根っからの悪者じゃん】 【こんなのが交渉専門家なんて名乗れるのか?交渉の場でも気に入らなきゃ人を殺すのか?】 【夏川社長が可哀想すぎる。狂った女と結婚してしまうなんて】 【だけど不倫相手の方にも非があるんじゃないの?】 【常識を疑うわ。その女は殺人未遂を起こしたんだぞ!犯罪者だろ!】 こうして、世論は巧みに誘導され、美羽に味方する方に傾いていった。 泉のアカウントが特定され、DMには罵詈雑言が殺到した。 だが、泉はその現状を知らない。 彼女は家に閉じ込められ、毎日柚葉の遺影の前で一日中座り込んでいた。 そして5日目、学が帰ってきた。 やつれた様子で、目の下には隈ができており、スーツもしわくちゃのままだった。 彼は部屋の入口で立ち止まり、中には入らなかった。「美羽の命は助かった。だが精神的なショックで、毎晩悪夢にうなされるようになった」 だが、それを聞かされても、泉は背を向けたまま、ただ柚葉の遺影にお香を立てていた。 すると、学が中に入り、テーブルにタブレットを置いた。「これを見ろ」 そこには【被害者の墓地が荒らされる。犯行の意図は?】という見出し。柚葉の墓がペンキで汚され、【呪われる】、【さっさと消えろ】などの文字が並び、供えられている花も踏み荒らされた様子が映し出されていた。 それを見た泉が手を震わせた拍子に、お香の灰が落ちて手の甲に赤い火傷跡を残した。 だが彼女は動かず、ただじっとその画面を見つめた。 「ネットで物凄い騒ぎになっているんだ」そう話す、学の声は恐ろしいほど淡々としていた。「彼らは柚葉の墓を見つけ、こんな真似をした。掃除をさせて、警備も強化した。だが……」 彼は一瞬止まったあと、泉の後ろ姿を見つめて続けた。「同じようなことは今後も起きるだろうし、興奮した奴らを完全に止めるのは無理だ」 すると、泉はゆっくりと振り向き、学の目をじっと見つめて、「それが何よ?」というような目線を送った。 一方、学は視線を逸らし、低く告げた。「病院に行って、美羽に謝れ。公にだ。カッとなってやったと言うんだ。俺が記者を揃える。お前はただ頷けばいい。お前が謝罪すれば、全ては収まる。柚葉の墓ももう荒らされずに済む」 しかし、泉はピクリともしなかった。 彼女は無反応で、その表情からすべての感情がなくなってしまったかのようだった。 「泉」学が一歩歩み寄った。声には懇願の色が混じった。「お前が受け入れられないのは分かる。でも、これが唯一の方法なんだ。柚葉を静かに眠らせるためにも、頼むよ」 頼む。 学はあえて、その言葉を選んだ。 すると、泉はしばらく彼を見つめた。 やがて、彼女は小さく頷いた。 それを見て、学は力が抜けたように安堵の息を漏らした。「明日迎えにくるから。安心しろ手配はしておく」 それから、学が立ち去ろうとすると、泉が彼の袖を引いた。 泉は遺影を指し、次に自分を指すと、両手を重ねて頬に寄せ、静かに眠る仕草をした。 彼女はきいているようだった。そうすれば柚葉は安らかに眠れるの? 学は喉を上下させて、掠れた声で、「ああ。約束する」と言った。 それを聞いて、泉は手を放すと、また背を向けた。 一方、学はほっとしたかのように続けた。「記者会見は明日の午後3時に予定してある。 お前はただその場に出て、用意した謝罪文を読み上げるだけだ、後は任せろ」 そう言った後彼は、包帯を巻いた泉の手に一瞬触れようとしたが、結局代わりに肩を叩いてこう言った。「じゃあ、ゆっくり休め」 第5話 翌日、病院のカンファレンスルームが記者会見場になった。美羽は頭に包帯を巻いて、か弱い様子で最前列に座っていた。 カメラのフラッシュがせわしなく焚かれ、目がくらむほどだった。 泉は白シャツに黒のパンツという簡素な装いで学の隣に座っていたが、まるで魂のない人形のようだった。 そこで、学が口を開いた。「本日はお集まりいただきありがとうございます。妻の泉と後藤さんとのトラブルについて、妻に代わり深くお詫び申し上げます。 これは痛ましい事故です。妻は日頃からのストレスが重なり、感情の制御ができずに過ちを犯してしまいました。深く反省し、責任を負う覚悟です」 すると、記者たちがざわつき、次々と質問を投げかけた。 「泉さん、あなたは本当に衝動的にやったのでしょうか?それとも計画的だったのですか?」 「後藤さんを階段から突き落としたとき、相手が妊娠していると知っていたのですか?」 「元交渉専門家として暴力で解決を図るのは、プロとしての素質を欠いていると思いませんか?」 「娘さんの死と後藤さんに関係があるのでしょうか?それが逆恨みになって彼女を突き落したんじゃないですか?」 こうして、立て続けに投げかけられた質問は、刃のように泉に突き刺さった。 泉は握りしめた書類のせいで指の関節を白くしていた。 話したかった。弁解したかった。柚葉を殺したのは美羽であり、美羽に仕組まれて激怒したのだと伝えたかった。 だが、声が出なかった。 ただそこに立って、口がきけないまま、すべての非難を一身に受けることしかできなかった。 「娘さんが亡くなってから失語症になったのは、良心の呵責を感じたからではありませんか?」 「娘さんが亡くなったのはご自身の過失で、それを受け入れられず、後藤さんのせいにしているのではないですか?」 「喋れないなら大人しく家にいてくださいよ、迷惑をかけないでください」 最後の言葉がひときわ耳障りだった。 その若い男性の記者は声が大きく、隠そうともしない悪意に満ちた言葉で攻撃してきた。 それを聞いて、泉はようやく顔を上げた。 静かな視線でその記者をじっと見つめると、相手はなぜかたじろいたように後ずさった。 それから、記者たちはさらに執拗に迫ってきて、質問はより過激になった。 「泉さん、天国にいる娘さんがあなたのしたことを知ったら、どう思うんでしょうね?」 「母親である資格があなたにあると思いますか?」 その言葉に、泉の体は震え始めた。 彼女は学の方を見た。何かを言ってほしい、何かをしてほしいという思いを込めて。 しかし学は眉間にしわを寄せたまま、警備員に場を収めるよう合図した。 最後に、学は決断を下した。 彼は美羽の方へ歩み寄ると車椅子を押した。「後藤さんは気分がすぐれません。会見はここで終わりにします。後のことは秘書に連絡してください」 こうして学は、そのまま美羽だけを連れて退室してしまった。 泉一人を舞台に取り残し、カメラとフラッシュの中にさらしたままで。 すると、記者たちが一気に殺到し、泉を囲んだ。 マイクが顔に迫り、質問は嵐のように彼女を襲った。 そして、その質問はどれもが悪意に満ちたものだった。 「娘さんを死なせたのは自業自得です!子供から目を離したからです!」 「話せない人なんて夏川社長にふさわしくないんですから、さっさと離婚してください!」 「人殺し!とっとと失せろ!」 もみくちゃにされ、泉は床に倒れ込んだ。 手の傷が再び開き、包帯が赤く染まっていく。 地面に手をついて立ち上がろうとすれば、また誰かに押された。 助けてくれる人などいない。 力尽きた泉は抗うことを諦めた。 座り込んだまま、目の前で揺れる記者たちの足元を眺め、滴り落ちる血をじっと見つめた。 どのくらい経ったのか、人々は去っていった。 警備員がやってきて、素っ気なく言った。「泉さん、片付けますからどいてください」 泉はゆっくりと、時間をかけて立ち上がった。 そして、病院を出ると、眩しい日差しが目に刺さるように感じた。 道では行き交う車や人が沢山いたけれど、誰も傷ついた彼女を気に留めなかった。 泉は通りをあてもなく進んだ。足がすりむけていたが、痛みを感じなかった。 家に着くと、もう日は暮れていた。 リビングのソファに学が座り、機嫌が悪そうにしていた。 泉の帰宅を見るなり彼は立ち上がった。「どこに行っていたんだ?なぜ電話に出ない?」 だが、泉は無視して2階へ向かった。 「待て!」学が泉を止めた。「今日の話だ。記者が酷かったのはわかるが、お前の態度だっていかがなものかと――」 泉は顔を上げた。 その視線の強さに、学の言葉は喉で詰まった。 「美羽が妊娠した」学が低い声で切り出した。「俺の子だ」 その言葉と共に、時間は止まったかのようだった。 泉の顔には何も現れなかったが、学は彼女の瞳が揺れるのを見た。 「事故だったんだ」学は視線を逸らした。「彼女がこの前退院する直前、酒のせいで……こうなるとは思わなかった。だが、子供に罪はないだろう」 泉の唇が少し動き、声は出なかったが、急に吹き出したようだった。 あまりに薄い笑いだったが、その刹那の微笑が学の背筋を冷たくした。 だが、泉はただ頷いて階段を上がっていった。しばらくしてから、ドアの向こうから声がした。「泉、もう寝たのか?」 泉からの返事はない。 「恨んでいるのは知っている」学の声が、ドア越しに遠く響く。「でも、俺はお前を愛している。美羽とは……ただの事故だったんだ。 もう一度チャンスをくれないか?彼女の子供が産まれれば全て元通りになる、俺たちもまたやり直せるはずだ」 泉は鼻で笑うした。 愛だと? この男の口から聞くその言葉ほど、滑稽なものはない。 泉はスマホを取り出し、暗号化された番号に最後の一言を送った。 【準備して】 明日で、すべてが終わる。 第6話 こうして、泉は、眠れぬ一夜を過ごした。 そして、窓の外の空は、漆黒から深い青へと変わり、やがて白み始めた。 泉は天井のひび割れを見つめたまま、瞬きもせずにいた。そしてそのひび割れをまるで、醜い傷跡のように感じた。 朝の6時、ドアが勢いよく開け放たれた。 学がそこに立っていた。彼は顔色が悪く、目は血走っていて、同じく一睡もできなかったようだった。 しかし、泉の淀んだ静けさとは裏腹に、学は怒りに震えていた。 「美羽がいなくなった」彼は低い声で、絞り出すように言った。「泉、彼女をどこへやったんだ?」 すると、泉はゆっくりと身を起こし、学を見上げた。 「病院に聞いた。昨日の夜8時を最後に誰も彼女を見ていない。美羽が自ら去るなんてあり得ない」 学は部屋に踏み込み、迫った。「お前が美羽を憎んでいるのは知っている。でも、拉致は犯罪だ!美羽を返せば、今回はなかったことにしてやる」 泉は布団をめくるとベッドを降り、学に背を向けたまま窓辺へと向かった。 「泉!」学は泉の肩を掴み、強引に振り返らせた。「俺を見ろ!彼女をどこにやったんだと聞いているんだ!」 泉はその手を見つめ、それからゆっくりと視線を上げ、学と真っ向から向き合った。 そんな泉の瞳は嵐の前の海のように、あまりに静かだった。 「言わないつもりか?」学の忍耐はついに限界に達した。「いいだろう。吐かせる方法はいくらでもある」 彼は泉を離すと、背を向けて部屋を出ていった。 数分後、戻ってきた学の手には、細長い杖が握られていた。 泉はその杖を見覚えがあった。 それは長年使われていなかった、夏川家でお仕置き用に使われる杖だった。 かつて学の父親がまだ生きていた頃、過ちを犯した子供たちを叱るために使っていたものだ。 学が家業を継いでからは、この杖は奥深くにしまわれていたはずだった。 まさか今日、これが自分に向けられるとは泉も思ってもいなかった。 「夏川家の仕来りだ。間違いを犯せば罰を受けなければいけない」 学の声は氷のように冷たかった。「美羽を連れ去った罪は重い。10回だ。その後、どこに隠したか吐け」 しかし、それでも泉は立ち尽くしたまま、微動だにしなかった。 ただ、一発目が背中を打ち付けた時、少しだけ体を揺らした。 布が裂ける音とともに、焼け付くような痛みが全身に広がった。 学は杖に積み重なった怒りと焦りを込めて、容赦なく泉を打ち付けた。 「どこにいる?言え!」怒号が部屋に響く。 泉は奥歯を食いしばり、ただ黙っていた。 5回、6回、7回……背中は傷だらけになり、白かったネグリジェは血に染まった。 額には冷や汗がにじみ、顔色は真っ青になったが、泉は決して泣き言を漏らさず、倒れることもなかった。 30分経っても何も答えぬ泉に痺れを切らした学は、杖を投げ捨てた。「家で大人しくしていろ!美羽を見つけたら、すぐにけりをつけてやる!」 それから、ドアが閉まる音がし、周りに静寂が戻った。 泉は学の去った背中を見つめ、小さく微笑んだ。 壁を伝ってようやく立ち上がると、血が滲む背中の傷が疼くのも忘れたかのように、綺麗な白い上着に着替えた彼女は、ドレッサーに置いていた柚葉の写真を大切そうに抱え、一歩ずつその家をあとにした。 空は朝焼けに染まり、晩秋の風が頬をかすめていった。 ちょうど今日で7日目。柚葉の3回忌の日であり、以前から決めていた旅立ちの日と重なっていた。 墓地は静かだった。かつて赤く塗られた墓石は既に綺麗に掃除されていた。約束の手続きを済ませると、泉は無事に柚葉の骨箱を受け取った。それは小さくても温かみがあるように感じ、3年前、柚葉を抱きしめた時の温もりを感じさせるものだった。 泉はその冷たい骨箱に顔を寄せ、微かに微笑んだ。 柚葉、行こうね。一緒に、柚葉を苦しめた悪い人たちを裁きに行こう。 もう、ここには帰らない。 第7話 一方、学はありとあらゆるコネを使って、雲嶺市の至る所を必死に探した。 しかし美羽はまるで神隠しに遭ったかのように、何も痕跡を残していなかった。 病院の防犯カメラによると、廊下に姿を見せたのが最後で、その後は非常階段の死角に入り、二度と映らなかった。 美羽のスマホの電波も西区で途絶え、完全に消息を絶った。 「社長、後藤さんの戸籍データですが……」 秘書の菊地潤(きくち じゅん)がデスクの前に立ち、震える声で告げた。「除籍となっていました」 学はガバッと顔を上げた。「なんだと?」 「それだけではありません」潤がタブレットを差し出し、そこには2枚の戸籍データが表示されていた。 「奥様の戸籍も同日に改ざんされています。理由は……死亡です」 目を向けると、泉の名前に「除籍」と書かれていて。学はそれを見つめた瞬間、背筋が凍りついた。 死亡? そんなバカな。 今朝だって会ったじゃないか?泉を叱った時、彼女は確かに生きていた。そしてどんよりとした目で自分を見ていたじゃないか? 「誰がやった?」学の声は絞り出すように枯れていた。 「わかりません。それに不備もありません。すべて正規の手続きでした」 潤がファイルを表示する。「死亡診断書に火葬許可証、全て書類は完璧です」 「調べろ!」学はデスクを叩いて立ち上がった。「過去1週間に妻と関わった全ての人間、全銀行口座、全てを――」 学の言葉はそこで止まった。 パソコンの画面に、一通の暗号化されたメールが送られているのを見たから。 送信者は文字化けしており、件名はただ一つ。【真相】 それを見た、学がマウスの上に置いた手はかすかに震えていた。 メールを開くと、そこには、複数の動画、音声ファイル、そして書類が入っていた。 まずは動画をクリックする。 それは家の子ども部屋を映した防犯カメラ映像だ。日時は美羽が越してきた翌日のもの。 入ってくる泉に向かって、優しげに微笑みながら口を動かす美羽の姿が映っていた。 学が音量を上げた。 「お帰り。その手の怪我は大丈夫?」 続いて、声を潜めた美羽の言葉が、一語一句はっきりと響く。 「ねえ、知ってる?昨日柚葉ちゃんの写真を見た時思ったの。柚葉ちゃんはあの時もこんな可愛らしい顔をして死んだのかしら?高い場所から落ちたら、随分と痛かったでしょうね」 その言葉に、学は一瞬呼吸が止まったようだった。 「そうそう、廃棄された倉庫でのあの時もね、うっかりじゃないのよ。 わざと手を離したんだから。 あのガキ、泣き喚いてばかりで煩くて。ずっと泣き止まないし犯人もイライラしてた。あのガキがいなくなれば、きっと学も私を愛してくれると思ったの。 どうせ私は精神病と認定されてるし、死刑になんてならない。3年経てばこうやってまた自由になれるしね――」 動画はそこで途切れた。 学は動けず、座り込んでいた。全身の血液が一気に凍りついたようだった。 そして動悸と耳鳴りが止まらず、まるで全身の血液が沸き立つようで、頭がガンガンした。 ありえない。 そんなことあるわけがない。 美羽が、そんな…… しかし画面を見つめていると、学は次第にクラクラするように感じた。 その動画に映された全てが、まるで鋭いナイフのように学の心臓を突き刺したのだった。 そして、彼はあの日の泉の目を思い出した。 死んだように平穏で、光も涙もなかったあの目。 あれを無関心だと思っていた。 やっと分かった。 あれは憎しみではない。 憎しむには感情が必要だ。 それは心から絶望を感じた時の表情だった。 自分が美羽を庇った時、泉に謝罪を強要した時、美羽の妊娠を理由に泉を追い詰めた時、泉は何を考えていたのか? 心の中で何度も問いかけていたのか?学、どうしてそんなことができるの、と。 どうして柚葉に、こんなことができるの、と。 学は狂ったように立ち上がり、飛び出した。 潤が背後で叫ぶ。「社長、どこへ行くんですか?」 「帰る!」学は振り返らずに怒鳴る。「すぐに車を出せ!」