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さよなら、七年分の「片想い」
1億6000万円の大型案件が、新人のミスで白紙になった。 高瀬颯真(たかせ そうま)が私に声を荒らげたのは、7年間付き合ってきて初めてのことだ...
Chương (1)
第1章
1億6000万円の大型案件が、新人のミスで白紙になった。
高瀬颯真(たかせ そうま)が私に声を荒らげたのは、7年間付き合ってきて初めてのことだった。
ほかの社員の前で、私の仕事ぶりを徹底的に否定した。
その夜、家に戻っても態度は変わらなかった。
「仕事に私情は持ち込まない。大型案件を失注した責任は、上司のお前にある」
直後、彼の大学の後輩で、新人の水野莉奈(みずの りな)からメッセージが届いた。
【林晴香(はやし はるか)さん、ごめんなさい。商談、私のせいでダメになっちゃったのに、颯真先輩がケーキを買って慰めてくれたんです。すごくおいしかったから、晴香さんの分も冷蔵庫に入れておきました】
翌朝、颯真は私が作った朝食を、迷いもせずゴミ箱へ捨てた。
「朝は食べないって、何度言えばわかるんだ」
出社したら、隣の席の佐藤美紀(さとう みき)が声を潜めて話しかけてきた。
「あの新人、やるわね。さっき社長にコーヒーとサンドイッチを差し入れたのよ。高瀬社長、断るどころか、ぺろっと食べたんだって」
もう、どうでもよかった。
スマホには、以前から私を口説き続けていた男から、またメッセージが来ていた。
【俺と付き合ってくれない?ダメならそばに置いてくれるだけでもいいよ】
私は少しだけ考え、返信した。
【私の彼氏になって】
第1話
1億6000万円の大型案件が、新人のミスで白紙になった。
高瀬颯真(たかせ そうま)が私に声を荒らげたのは、7年間付き合ってきて初めてのことだった。
ほかの社員の前で、私の仕事ぶりを徹底的に否定した。
その夜、家に戻っても態度は変わらなかった。
「仕事に私情は持ち込まない。大型案件を失注した責任は、上司のお前にある」
直後、彼の大学の後輩で、新人の水野莉奈(みずの りな)からメッセージが届いた。
【林晴香(はやし はるか)さん、ごめんなさい。商談、私のせいでダメになっちゃったのに、颯真先輩がケーキを買って慰めてくれたんです。すごくおいしかったから、晴香さんの分も冷蔵庫に入れておきました】
翌朝、颯真は私が作った朝食を、迷いもせずゴミ箱へ捨てた。
「朝は食べないって、何度言えばわかるんだ」
出社したら、隣の席の佐藤美紀(さとう みき)が声を潜めて話しかけてきた。
「あの新人、やるわね。さっき社長にコーヒーとサンドイッチを差し入れたのよ。高瀬社長、断るどころか、ぺろっと食べたんだって」
もう、どうでもよかった。
スマホには、以前から私を口説き続けていた男から、またメッセージが来ていた。
【俺と付き合ってくれない?ダメならそばに置いてくれるだけでもいいよ】
私は少しだけ考え、返信した。
【私の彼氏になって】
……
人事部へ退職届を提出した直後、私は高瀬颯真の社長室へ呼び出された。
扉を開けた途端、飛んできたコーヒーが顔にまともにかかった。頬がひりひりする。
颯真が経営するこの会社では、役員も社員もみんな、若くして成功した彼の顔色をうかがっていた。だからといって、社員にこんな仕打ちをしていいはずはない。
革張りのソファでは、莉奈が目を真っ赤にして泣いていた。
「颯真先輩、晴香さんを責めないでください。商談を失敗させたのは私です。辞めるなら、晴香さんじゃなくて私が……」
颯真は怒りを隠そうともしなかった。
普段は何があっても冷静な颯真が、莉奈のことになると、すぐ感情的になる。
「昨日注意された腹いせに退職届を出して、莉奈を追い詰めるつもりか?
上司なら、部下の失敗にも責任を持て。全部莉奈のせいにして、よく平気でいられるな。
お前が辞めると聞いて、社内では莉奈がお前を追い出したみたいに言われてる。
今すぐ皆の前でちゃんと説明しろ!」
7年付き合った私を引き止めるために社長室へ呼んだかと、一瞬でも思った自分が馬鹿だった。
心配していたのは、私が辞めたあと莉奈が社内で肩身の狭い思いをしないか、それしか頭にないらしい。
莉奈はティッシュで鼻をぬぐい、そのままソファの端へ置いた。
颯真はわずかに眉をひそめたものの、すぐに拾ってゴミ箱へ捨てた。
その何気ない仕草に、胸が締めつけられた。
付き合って2年目、2人で忠犬ハチ公の映画を観たことがある。
私は涙も鼻水も止まらなくなり、彼の胸に顔を埋めた。
すると颯真は、露骨に嫌そうな顔で私を押しのけた。
「悪いけど、俺は潔癖症なんだ。自分で片づけて」
そう言い放って、浴室へ行き、何度も体を洗っていた。
まるで、私に触れたこと自体が汚らわしいとでもいうように。
思わず笑ってしまった。潔癖症でも、莉奈が相手なら平気らしい。
私は颯真に言った。
「辞めるのは、もうここで働きたくないから。それ以外に理由はないの」
「そんなわけないだろ。昨日商談を失敗した直後に辞めるなんて、莉奈への当てつけに決まってるじゃないか?」
颯真は取り合おうとしなかった。
「晴香、莉奈にくだらない嫌がらせをするな。これ以上やるなら、俺も容赦しない」
私はため息をついた。以前なら、必死に反論していただろう。
今はもう、何を言われても腹さえ立たない。
彼にわかってもらおうとすること自体、とうに諦めていた。
第2話
大型契約がまとまりかけていた夜、都内の高級料理店の個室で、最終打合せを兼ねた会食が開かれた。颯真も同席していた。
契約が決まりかけたところへ、莉奈が突然入ってきた。
自分も挨拶したいと言い、取引先の社長に、しつこく酒を勧めるなんて信じられなかった。
先方の社長は、あからさまに不快そうな顔をしていた。
それでも莉奈は、相手が嫌がっていることにまるで気づいていなかった。
入社したばかりのインターンが、取引先の社長に無理やり杯を持たせようとするなんて、理解できなかった。
私は莉奈を止め、先方に何度も頭を下げた。
そして、莉奈にもきちんと謝って席を外すよう言った。
ところが、莉奈は突然、大声で泣き出した。
「晴香さん、同じ女同士なのに、どうしていつも私を困らせるんですか?嫌だって言ってることまで、無理やりやらせて……」
あのとき、颯真が険しい顔をしていたのは、契約がまとまらなかったからだと思っていた。
けれど、違った。彼が腹を立てていたのは、私が莉奈に謝らせたことだった。
もう、疲れた。
「何も企んでないよ。颯真、私たちも終わりにしよう」
表情をこわばらせた颯真を社長室に残し、デスクの私物をまとめると、私はそのまま会社を後にした。
家に戻ると、すぐに荷造りを始めた。
7年分の暮らしを片づけるのは、簡単ではない。
引き出しを開けた瞬間、手が止まった。
中に、見覚えのない網ストッキングが入っていた。
ところどころ破れ、無造作に丸められている。
私は写真を撮って颯真に送ると、そのままゴミ箱へ捨てた。
彼から言い訳のメッセージが次々と届いたが、返事はしなかった。
代わりに、神谷湊(かみや みなと)へ電話をかけた。
「私と付き合いたいなら、先にプロポーズして」
……
湊は電話の向こうで、うれしそうに声を弾ませた。
荷造りを手伝うと言ってくれたが、断った。
颯真と鉢合わせになれば、間違いなく揉める。これ以上、騒ぎを大きくしたくなかった。
市内の西側には、私名義の小さなマンションがある。
今回の賞与が入れば、住宅ローンを完済できるはずだった。
ローンを払い終えれば、ようやくそこが本当の意味で自分の家になる。
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
そのとき、玄関の外から足音が聞こえてきた。引っ越し業者だと思い、確かめもせずにドアを開ける。
そこに立っていたのは、颯真だった。
去年、急性虫垂炎で高熱を出したとき、病院へ連れていってほしくて颯真に電話をかけた。
だが、返ってきたのは冷たい言葉だった。
「仕事中だ。タクシーくらい、自分で呼べるだろ」
ところが先週、莉奈がぬるいお茶を足にこぼして痛いと騒いだときには、彼女を抱きかかえ、自分の車で病院へ連れていった。
颯真が仕事を早退したことなど、これまで一度もない。
だが、莉奈のためなら仕事を放り出すこともできるらしい。
そんな彼が今日は、私を追って会社を抜けてきた。今さら、皮肉なものだ。
颯真はまとめられた荷物に気づくと、声を上ずらせた。
「何してるんだ?別れるなんて、本気じゃないんだろ?俺に謝ってほしくて、こんなことしてるだけだろ。
さっきメッセージで説明したじゃない。あのストッキングは莉奈が置いていったものだ。
雨に濡れていたから、家で休ませて温かい飲み物を出した。ストッキングが破れていたから、着替えを貸した。それだけだ」
2週間前、私が海外出張から戻った日のことを思い出した。
外は大雨で、空港まで迎えに来てほしいと頼んだが、颯真は残業だから無理だと言った。
ずぶぬれで帰宅すると、テーブルの上に、まだ温かいお茶が置かれていた。
私のために淹れてくれたのだと思い、うれしくなって口をつけた。
けれど、あれは莉奈の飲み残しだったのだ。
颯真も同じことを思い出したのか、気まずそうに視線をそらした。
「変な誤解するなよ」
私は静かに首を横に振った。
「誤解なんてしてない。もう、どうでもいいから」
私が責めないことのほうが気に入らないのか、颯真はしばらく黙ってこちらを見ていた。
第3話
しばらくして、颯真が低い声で聞いた。
「どうして怒らないんだ?」
私がずっと傷ついていたことを、彼は知っていたのだ。
それでも気づかないふりをして、嫉妬深いだの、性格が悪いだのと責め続けてきた。
今日中にこの家を出ると伝えようとしたとき、颯真のスマホが鳴った。
電話に出ると、莉奈の泣き声が漏れてきた。どうやら、会社で誰かに嫌がらせをされたらしい。
颯真は電話を切るなり、私をにらみつけた。
「そういうことか。晴香、お前が仕組んだんだな」
事情もわからないまま手首を強くつかまれ、そのまま外へ引きずられ、車に押し込まれた。
車内には、莉奈がつけている香水の甘い匂いが残っていた。
ルームミラーには、莉奈のラインのプロフィール画像と同じ、うさぎのマスコットがぶら下がっていた。
私が颯真の会社で働き始めてから、彼は私を車に乗せなくなった。社内で噂になるからと、付き合っていることも伏せるよう言われた。
その車は、いつの間にか莉奈の気配で満ちていた。
不思議と、もう傷つかなかった。やっぱりそうだったんだ。そう思っただけだった。
会社に着くなり、腕をつかまれて車から引きずり降ろされた。足元がもつれ、その場に倒れ込んだ。
颯真は手を差し伸べるどころか、鼻で笑った。
「大げさなんだよ」
再び腕をつかまれ、立ち上がる間もないまま会社へ引きずられた。
連れていかれたのは、ついさっきまで私が働いていた部署だった。擦りむいた手首と膝から、血がにじんでいる。
颯真は莉奈を抱き寄せると、社員たちを見回した。
「誰にそそのかされたのかは知らないが、入ったばかりの莉奈を寄ってたかって責めるのはやめろ。この会社で、もう晴香の顔色をうかがう必要はない」
颯真は私を指さした。
「ここに残りたいなら、1人ずつ、晴香の頬を叩け。それでどちらにつくのか示せ」
美紀は青ざめたまま、立ち尽くしていた。
ここへ来る途中、同僚から事情を知らせるメッセージが届いていた。
私が退職したあと、莉奈の教育係は美紀が引き継いだらしい。
ところが莉奈は、簡単な手配すらまともにできなかった。
取引先との会議で出す弁当を任されたのに、先方の希望を確認せず、勝手にベジタリアン弁当を注文したのだ。
美紀が注意すると、莉奈はすぐ颯真に泣きついた。
莉奈は颯真の胸元に顔をうずめ、泣きながら訴えた。
「颯真先輩、私、何が悪かったのかわからないんです。先方の健康にもいいと思って、ベジタリアン弁当を選んだだけなのに、佐藤さんがいきなり怒鳴ってきて……」
颯真は莉奈の髪をなでながら、「心配するな。俺が守る」と言った。
それから社員たちに振り返り、言った。
「晴香と仲がよかったからって、莉奈に八つ当たりしてるんだろ。契約交渉が決裂したのは晴香の責任だ。莉奈は関係ない。
もう一度だけ言う。会社に残りたいなら、どちらにつくのか今ここではっきりさせろ。俺に従えないなら、全員辞めてもらう」
社内に相談窓口はあっても、実際には機能していなかった。
颯真に逆らえば、次に仕事を失うのは自分かもしれない。その恐怖が、全員を黙らせていた。
やがって、私が指導してきた後輩の小野由奈(おの ゆな)が、震えながら前へ出た。目を固く閉じ、か細い声で謝る。
「林さん、ごめんなさい……」
次の瞬間、由奈の手が私の頬を打った。
颯真は止めようともせず、ほかの社員へ目を向けた。
「ほかは?」
逆らえば、仕事を失う。社員たちはためらいながらも、1人ずつ前へ出て、私の頬を打った。
その中には、私が仕事を教えた人も、苦しいときに支えてくれた人もいた。
口の端が切れ、血がにじんだ。耳鳴りがして、周囲の声が遠のいていく。
莉奈が思わず吹き出した。
「颯真先輩、見てください。顔、すごく腫れてますよ」
颯真は冷えきった目で私を見下ろした。
「人を陥れることしか考えないようなやつに、この会社で働く資格はない」
第4話
颯真は人事担当者へ命じた。
「退職届は受理するな。自己都合退職ではなく、懲戒解雇扱いにしろ。今期の業績賞与も支給を止めて、莉奈への補償金に回せ」
本人が退職を申し出ているのに、それを無視して懲戒解雇扱いにし、支給が決まっている業績賞与まで別の社員へ回す。法的に通るはずがない。
それでもこの会社では、社内規則より颯真の命令が優先された。
あまりの横暴さに、黙っていられなかった。
「颯真、あの賞与は私の実績に対して支払われるものよ。あなたが勝手に取り上げていいお金じゃない!」
社内規定では、獲得した案件の実績に応じて業績賞与の額が決まる。
あの案件は、取引先への提案から企画書の作成、条件交渉、契約締結まで、すべて私が担当した。
少しでも利益を上げるため、何度も取引先へ足を運び、夜遅くまで会食にも付き合った。
数百万を超えるその業績賞与で、マンションのローンを完済するつもりだった。
両親が離婚したのは、私がまだ幼い頃だった。
どちらも私を引き取ろうとせず、親戚の家を転々とした末、ようやく叔父夫婦の家に落ち着いた。
だが、叔母には、言うことを聞かないなら家から出ていけと、何度も言われた。
そのせいか、大人になってからも、帰る場所を失うのが怖かった。
颯真から離れられなかったのも、いつか捨てられるのではないかと不安だったからだ。
傷つけられるたびに、彼への気持ちは少しずつ冷めていった。
その一方で、誰にも追い出されない、自分だけの家が欲しいと思うようになった。
家さえあれば、誰かに見放されても行き場を失わずに済む。
必死に働いて頭金を貯め、マンションを買った。
生活を切り詰めながらローンを返し、睡眠時間まで削って働き続けた。
目の下にクマができ、白髪も増えた。
颯真は、そのすべてを知っている。私が今回の業績賞与をどれだけ必要としているかも。
それでも、冷たく言い放った。
「この会社は俺のものだ。莉奈を傷つけたんだから、その金で償うのは当然だろ」
その身勝手な言い分に、吐き気がした。
私が頑張って働き、ようやく手にするはずだった私の賞与を、入社したばかりのインターンへ回すというのだ。
私は歯を食いしばり、ふらつく足でどうにか立ち上がった。だが、颯真が呼んだ警備員に腕をつかまれ、そのまま会社の外へ連れ出された。
すぐに颯真からメッセージが届いた。
【今日のことは、お前が悪い】
返事をせずにいると、さらに送られてきた。
【俺も少しやりすぎた。でも、お前が莉奈を追い詰めたから頭にきた。大学の後輩を守るのは当然だろ】
【明日からフランスへ出張する。お前が欲しがっていた新作バッグがパリで先行発売されるから、買って帰る。それで仲直りしよう】
ところが、そのメッセージが届く1分前、莉奈はインスタを更新していた。
【エッフェル塔が見たいって言ったら、出張に連れていってもらえることになりました。誰かさんは、私のお願いなら何でも聞いてくれるみたい】
私は迷わず、2人の連絡先をすべてブロックした。
……
1週間後、フランス出張から戻った颯真は、新作のバッグを手に自宅へ向かった。
本来なら、3日で帰国する予定だった。
だが、莉奈にせがまれるまま観光や買い物に付き合い、帰国が遅れることを晴香へ伝えるのも忘れていた。
バッグを渡せば、晴香の機嫌も直るだろう。驚いて喜ぶ顔を想像すると、足取りまで軽くなった。
ところが玄関を開け、何度名前を呼んでも返事はない。
先日まで置かれていたスーツケースも、晴香の私物も、跡形もなく消えていた。
がらんとした部屋を見回し、颯真はようやく事態を悟った。