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9命のチェシャ猫はクズ男に尽くし死んで消える
横山寧々(よこやま ねね)という名を与えられたあやかしのチェシャ猫。命の恩人に恩返しするため、人間の姿に化けて陣内直樹(じんない なおき...
Chương (1)
第1章
横山寧々(よこやま ねね)という名を与えられたあやかしのチェシャ猫。命の恩人に恩返しするため、人間の姿に化けて陣内直樹(じんない なおき)の傍に寄り添っていた。
最後の命を使い果たしても直樹の心は温まらず、彼女はついに、彼のもとを去る決意をした。
だが、今さらになって直樹がすがりついてきた。「ずっと俺のそばにいるって言ったじゃないか」
第1話
修行を経て人の形を得た化け猫には9つの命があるが、横山寧々(よこやま ねね)にはもう1つの命しかなかった。
スマホの通知音が鳴り、寧々にメッセージが届いた。
【ブルガリホテルに来い。コンドームを持ってきて、サイズは一番大きいやつで】
外は激しい雨だった。
あやかしである彼女にとって、不浄な現代都市の空気に晒され、ましてや雨に濡れることは命取りだったが、彼女は迷わずタクシーを拾い、陣内直樹(じんない なおき)の待つホテルへと急いだ。
客室の前までたどり着くと、中から情けない声が聞こえ、通りかかった清掃スタッフの顔を真っ赤にさせていた。
寧々の心臓がキュッと締め付けられ、体中がわなわなと震えた。
それでも彼女はドアを叩いた。
バスタオルを腰に巻いただけの直樹が顔を出し、苛立ったように言った。「遅いぞ。妖術を使えばいいだろ」
「妖術を使えば使うほど……私の命が削られていくの……」
言い訳を聞こうともせず、直樹は不機嫌に言い放った。「だから何だ。お前は猫だろ?9つの命があるんじゃないのか。そう簡単に死ぬわけないだろうが」
しかし、寧々に残された命はあと1つ。これまで酷使され、限界をとうに超えていること、彼は知らなかった。
部屋の中から菊地奈津美(きくち なつみ)がしびれを切らして催促する。「直樹さん……」
ドアの隙間から、部屋で寛ぐ奈津美の頬が上気し、潤んだ目で満たされた後の恍惚とした表情が見えた。
寧々は喉を鳴らし、「わかった」とだけ呟いた。
直樹の婚約者でありながら、自分以外の誰かと愛し合う彼を外で見ていることしかできなかった。
寧々はもともとチェシャ猫だった。人間になる修行中、野獣に命を狙われたことがある。
命を救ってくれた直樹に恋をし、必死で人の姿になれるよう修行を積んだ。
9つの命を抱えて恩返しに来た彼女は、彼のためにすべての災厄を引き受け、一生添い遂げると誓ったのだ。
当時、直樹は初恋の人である奈津美に捨てられて荒れており、寧々は彼の傍らに寄り添い続け、ごく自然な流れで彼の婚約者になった。
しかし、2年前、奈津美が戻ってきたことで平穏な生活は砕かれた。
朝の4時。奈津美は顔をすっぽりと隠して部屋を出た。今や人気女優である彼女にとって、スキャンダルは命取りになるからだ。
奈津美は廊下でうずくまる寧々を見つけると、声をひそめてせせら笑った。「隠し聞きは楽しい?直樹さんはあなたをただの化け猫だと言ってたけど、私から見ればただの追っかけ女ね」
寧々はゆっくりと顔を上げた。顔色は真っ青だったが、その瞳だけは負けん気に溢れ、真っ直ぐに相手を見据えていた。
「私がいなかった間にあなたが隙をついて、直樹さんの婚約者の座を奪ったくせに」
入れ替わりに現れた直樹は、寧々への暴言を咎めるどころか、優しく奈津美の襟元を正してやった。
直樹は部屋の外で震える寧々を見据え、冷ややかに言った。「寧々、もし俺と奈津美さんが写真を撮られたら、いつものように自分のせいにしろ。奈津美さんの評判に傷一つつけさせるな」
寧々は唇を噛み、すぐに答えられなかった。
顔が青ざめていく。心の中には複雑な感情が渦巻いた。不満と悔しさ、そしてどうしようもない絶望。
直樹は不機嫌に眉をひそめ、さらにきつい口調で責め立てた。「それぐらいのこと、困るはずなんてないだろう?」
困るはずなど、あるわけがない。その恩を返すためなら何でもすると、彼女は心に決めていたのだから。
2人は周囲の目も気にせず、足早にその場を去った。撮られるリスクなど承知の上でこれほどまでに傍若無人なのは、誰かが自分の尻拭いをしてくれることに、すっかり慣れきっているからに他ならない。
奈津美が芸能界に入ると決めた時、直樹は当たり前のように、寧々にも芸能界へ入るよう促うながした。
片方は輝かしい人気女優、片方は悪評まみれで世間から石を投げられる存在となった。
スキャンダルが漏れるたび、寧々が責任を被り続けた。そうして彼女はいつしか、誰もが忌み嫌う「嫌われ者」へと成り下がっていた。
それでも寧々は構わなかった。直樹の傍にいられるだけでよかった。傷だらけの体で、いつか彼の凍てついた心を温められると信じて疑わなかったのだ。
第2話
雨に濡れたせいか、帰宅すると寧々は高熱を出していた。
妖術を使えばすぐに治せる。でも、それを使えば命を削ることになる。熱でふらつきながらも、彼女は懸命に耐えていた。
1本の電話が、ぼんやりしていた寧々を現実に引き戻した。「エリュシオンに来い。大事な商談なんだ。なるべく目を引く格好でな」
ふらつく足取りで、寧々は必死に意識を保ちながらクローゼットから黒のバックレスドレスを取り出した。
個室に入ると、相手の社長は寧々を見るなり、食い入るような視線を向けてきた。
直樹は、寧々にその社長の隣へ座るよう促した。
「お前が横山さんか。噂以上の美女だな……それにしても随分と遅かったじゃないか」
直樹は場を取り繕う。「井上社長のおっしゃる通りです。寧々、井上社長に失礼のないよう、まずは一杯お付き合いしなさい」
寧々は助けを求めるように直樹を見たが、彼は気付かないふりをした。
何度も酒を注がれ、化粧をしても隠せないほど顔色は青白かった。ようやく理由をつけて外へ出た寧々は、必死に酔いを醒まそうとした。
廊下の角を曲がろうとしたその時、聞き慣れた声が耳に届く。近づくにつれはっきり聞こえる言葉が、彼女の心を容赦なく切り刻む。
直樹とその友人の声だった。
「寧々さんはお前の婚約者だろう?長年そばで支えてくれた彼女に対して、これっぽっちの情も湧かないのかよ。奈津美さんが海外にいた時も、帰国した今だって……あんなクソジジに彼女を差し出して弄ばせるなんて、正気か?」
直樹は、指先でタバコが燃え尽きるまで黙ったままだった。そして、「彼女が望んだことだ」と言った。
その言葉を聞いて寧々は立ち尽くした。拳に食い込ませた爪が痛みを突きつけ、鮮血が滲んだ。
そう。自分が望んだことだから。
1つ目の命は、奈津美を引き止めようと空港へ向かう直樹を事故から救うために使った。
2つ目の命は、自らの死をちらつかせてまで奈津美の帰国を望んだ直樹のために捧げられた。
3つ目の命は、帰国した奈津美を芸能界で売れっ子にするために捧げた。
……
彼に寄り添った5年間で、寧々に残された命はあとわずかだった。
2人の会話は続く。
「いやいや、あんな美人を抱いていないはずがないだろ。感触は、お前のお気に入りの奈津美さんとどう違うんだ?」
「あんなあやかしに触れるわけがないだろう」
友人はさらにニヤつきながら言った。「じゃあ、あのクソジジにくれてやる前に、まずは俺に味見させてくれないか?」
直樹はスマホでネットの情報を確認し、顔をしかめて一言だけ告げた。「好きにしろ」
そう言って、直樹は足早に去っていった。
隅で凍りついていた寧々。この数年間を思い出し、胃のあたりがぐらりと裏返るような吐き気を感じた。
真心を尽くしても、無駄だったのか。
彼の想いを叶えるために自分の命を差し出し続けた。それなのに、彼は自分の存在をちっぽけな石ころとしか見ていなかった。
この数年は、一体何だったのだろうか。
長い時間をかけて気持ちを整理し、苦しさを押し殺して、寧々は重い足取りで再び個室へ戻った。
個室の前には、なぜか落ち着かない様子で歩き回る直樹の姿があった。
彼と目が合った瞬間、直樹の顔には急に期待の光が灯り、まるで唯一の救いを見つけたかのような、打算的な考えが透けて見えた。
「寧々!どうしてこんなところに。契約は?そうだ、例の騒ぎ、すぐにSNSで説明を出せ!」
昨夜撮られた、人気女優が謎の男と密会しているというゴシップ記事のことだ。
ネットでトレンド入りする中、寧々は自ら説明を出した。【ホテルから出ていたのは私です。奈津美さんにご迷惑をかけ、申し訳ありません】
寧々の言葉で騒ぎを収めたことで直樹は満足し、早速奈津美に甘い声で電話をした。「大丈夫だよ。解決した。奈津美さんには一切の悪影響が及ばないように手を打っておいたから、安心して」
寧々はただそこに立ち尽くし、直樹をじっと見据えた。これまで自分の世界のすべてだったこの男を、その本性を暴こうとするかのように冷ややかに見極めていた。
直樹は電話の向こうの奈津美に対し、いかに自分が手を尽くして彼女を守り抜いたかを、誇らしげに語り続けている。
彼がようやく電話を切ったのを見て、寧々は絞り出すような息を吐いた。
「ねえ、直樹。この数年間……一度でも、私を愛してくれたことはあったの?」
第3話
薄暗い照明の下で、直樹はあからさまにきょとんとした。
しばらく黙り込んだ後、彼はすぐに何事もなかったかのように口元を緩め、どこか適当でありながら確信に満ちた口調で言った。「もちろん、愛してるよ」
その答えは寧々の耳に届いたが、彼女の心を温めることはなかった。
直樹は寧々の疑念を見抜いたのか、言葉を足した。「この契約を取り付けてくれたら、もっと寧々を可愛がってやるよ」
彼の瞳には、言いようのない焦燥と打算が混じり、まるでその契約こそがすべてであるかのような響きがあった。
寧々の心には、言いようのない悲しみが広がった。直樹はまだ、数年前に世間知らずのまま人の姿になったばかりの幼いあやかしとして彼女を見ているのだ。
あの頃の彼女は純粋で人を疑わず、彼の何気ない言葉にいつも振り回されていた。
けれど、この人間界での数年間は、彼女に酸いも甘いも噛み分け、裏切りという名の人情の機微を、残酷なまでに教え込んでいた。ただ、彼に利用されているという事実に気づきたくないだけ。
心のどこかで、彼からの少しの真心にすがりたいだけだった。
寧々は力なく個室へ戻ると、次から次へと酒を飲み干した。喉を焼く辛い液体に胃がせり上がる思いをしながらも、どうにか契約の判は押させた。
だが、井上社長は卑猥な視線を向けていた。そもそも酒など二の次で、意識が朦朧とする彼女の体を目当てに手を伸ばしてくる。
無意識と意識の間で必死にもがき、力が抜けていく。彼女は助けてほしいと心の中で叫んだ。かつてのように、直樹がこの窮地を救ってくれると信じていたから。
だがこの冷酷な現実を前に、その望みは砕け散った。
井上社長は抵抗しない寧々を前にすると、呆気にとられる隙に肩を組み寄せた。「可愛い子だ。直樹さんがお前をよこしたんだろ。この俺の夜の相手にな、絶対に逃げさせやしないぞ」
直樹の名前を聞いた途端、呼吸すら忘れるほどの窒息感が襲ってきた。心臓を氷の万力で締め上げられるような、呼吸するたびに刺すような激痛が彼女をのみ込んだ。
衣装の布地が、いよいよ剥ぎ取られようとしている。
寧々は正気に戻り、必死に両手で抵抗した。
部屋のドアが激しく蹴破られ、ある男が入り込んでくると、井上社長を一撃で倒した。
寧々が顔を確認する間もなく、男の嘲る声が響いた。「何だ、ただのチェシャ猫じゃないか。こんな目に遭うなんて、あやかしの一族の恥だぞ」
のちに知ったのだが、その男もあやかしで、二宮勲(にのみや いさお)という妖狐だった。
人の心を操る術を巧みに使い、今もっとも旬な役者として君臨する彼は、妖艶な顔立ちと非の打ち所のない演技で世を虜にしていた。
寧々が投稿した内容に対し、瞬く間にアンチが殺到し、見るに堪えない罵詈雑言で埋め尽くされた。その凄まじい反響はすぐさまトレンド入りを果たし、彼女は文字通り炎上の渦中に叩き落とされたのである。
【またあんたなの!】
【どう考えたって、奈津美さんがこんなことをするはずがない】
【奈津美さんに似た顔を盾にして、厚かましいにも程がある】
【婚約者がいるくせに別の男と寝てただなんて、噂もあながち嘘じゃなさそうね……】
そう。直樹は、事故の後でさえ奈津美を忘れられず、寧々に彼女とそっくりの顔を纏わせ、まるで奈津美が今もそばにいるかのように自分を誤魔化し続けていた。
あの頃、人間界へやってきたばかりの寧々は、見た目などどうでもよく、ただ彼の言葉に従うことしか知らなかった。
今思えば、直樹は彼女本人を見てなどいなかったのだ。彼のそばにいられたのは、ただあの顔が奈津美に似ていたというだけの理由だった。
一方、奈津美は表向きの良き友人として「寧々さんは悪くないの」と弁解しながら、実は陰で汚名を着せるような小細工を重ねていた。
浴びせられる酷評を見て、ようやく人間界で知恵をつけた彼女には、それらが自分への純粋な悪意だと十分に理解できた。
鏡の中の、自分ではない他人の顔を眺めながら、ふと思った。もうどうでもいい。
人間界なんて、何一つ面白いことはない。
本当の居場所へ、今すぐ帰りたかった。
第4話
チェシャ猫一族というのは律儀なものらしい。一度恩を返すと言えば、相手との縁をすっぱりと断ち切るまでやめないのだという。
かつて直樹に命を救われたとき、彼女は修行を重ねて人間へと姿を変え、9つの命を得た。今の様子だと、彼への恩を返し切るためには、その全ての命を捧げねばならないのかもしれない。
自分で苦心して結んだはずの縁が、今では二度と解けない足かせになってしまったのだから皮肉なものだ。
寧々は疲れた体をひきずり、直樹との家へ帰った。そこは一見温かそうに見えて、彼女にとってはひどく冷たい場所だった。
ソファの上では、奈津美と直樹が体を寄せていた。
時折、彼が甘い表情で奈津美に何かをささやき、それに彼女が満面の笑みで笑い返す。その絵面はどこまでも仲睦まじく、甘い雰囲気に満ちていた。
玄関に立つ寧々が、冷たい風で冷え切ったドアノブを握ったまま、一瞬にして自分が完全な他人になったように感じたのは当然のことだった。
それもそのはず。直樹の心にはずっと奈津美がいるのだから、自分など最初から場違いなの。身の程知らずだったのは自分の方なのよね。
寧々の帰宅に気づいた奈津美は、いかにも予想外のことそうに、それでも直樹の肩に寄り添ったまま、寧々を挑発するようにちらりと視線を向けた。そして、これ見よがしに口を開いた。「寧々さん、おかえり」
まるで、自分こそがこの家の女主人だとでも言いたげな態度だ。
「寧々さん、今日の件は本当に助かったわ。直樹さんも、毎回あなたを困らせてばかりで、もう……」
奈津美はニコニコと微笑みながらそう言った。見た目はどこまでも純粋だが、その笑みは決して目に届いていない。
寧々はすぐに察した。今の言葉に罪悪感など微塵もなく、むしろ直樹との親密さと、この場での寧々のいたたまれない状況を誇示しようとする底意が見え隠れしていた。
直樹も直樹で、仕事のトラブルなど二の次かのように、ただ奈津美が傷ついていないかを気に掛けるだけだった。
これ以上関わり合う気力もなく、寧々は心身ともに限界で階段を上がろうとした。だがその時、直樹が冷ややかに声を掛けた。
「寧々。奈津美さんが時代劇のオファーを受けたんだが、作中で激しい殺陣や乗馬シーンがあってな。向こうの話では、体型や顔立ちが似た吹き替えがなかなか見つからないそうなんだ。お前が一緒に現場に入ってやってくれないか」
奈津美が慌てて寧々の手をとった。「だめよ、直樹さん!寧々さんに私の吹き替えを頼むなんてひどすぎるわ。今や売れっ子なのに、そんな雑用をさせるなんて!あとのシーンは私が自分でやるからいいのよ」
吹き替えだと?世間の評判は悪くても、寧々は確かな演技力を持つ女優だ。お騒がせ女優と揶揄されようとも、誰かの吹き替えにまで成り下がることなど、今までは一度としてなかった。
最後まで沈黙を守る寧々に対し、奈津美の方はあざといまでの演技を完遂させた。
奈津美のそんな健気な振る舞いに、直樹は胸を締め付けられたように心酔した。
直樹はくるりと振り向くと、焦燥と期待の入り混じった瞳で寧々を見つめた。「寧々、お前は以前、『俺の願いなら何でも聞く』と約束してくれただろう?奈津美さんにとって、この仕事は大事なんだ。お前の協力が必要なんだよ」
その言葉を聞いて、寧々の胸には複雑な感情が込み上げた。
最初から最後まで、彼の中にあるのは奈津美のことだけなのだ。
あの2人の間の、解こうとしても解けない深い縁がある。それがまるで目に見えない太い縄のように、ずっと彼女の首を絞め続けている。
ためらいながらも、寧々は静かに頷いた。喉が詰まって声も掠れていた。「わかった。引き受ける」
寧々のその一言を聞くやいなや、直樹は重荷を下ろしたかのように深く息を吐き出した。
寧々の心の中に最後に残っていたはずの恋心が、その瞬間に音もなく消えていったような気がした。
しかし、驚くべきことが起きた。直樹の要求に応じるたびに、二人を繋ぎ止めていたあの強固な「絆」が、わずかに緩み始めていたのだ。
つまり、彼に対する恩義をすべて返し終えたその時こそ、この「絆」から解き放たれ、彼の元を去ることができる――そう、彼女は確信した。
第5話
満月の夜。
壁越しに聞こえる奈津美のわざとらしい甘え声が、寧々の神経を逆なでする。その騒々しさに、彼女は一睡もできないまま夜を明かそうとしていた。
真の姿に戻った彼女の尻尾は、また一段と短くなっている。それが寿命のカウントダウンであることは、もう疑いようもなかった。
寿命が尽きる前に、直樹との「絆」を完全に断ち切れるか、彼女にはわからなかった。
ぼんやりしていると、奈津美が部屋から出てきた。
「声を出しすぎて喉が渇いたわ。ねえ、梨のはちみつ煮を作ってちょうだい」
寧々は化け猫の一族。火や水を扱うことは命に関わる苦痛だった。今まで直樹への情に溺れ、9つの命を盾にして無視してきたが、今は事情が違っていた。
「家政婦さんを呼ぶわ」
「あなたの手作りじゃなきゃ嫌よ。何よ、直樹さんには何でもしてあげるのに、私のはできないわけ?ねえ、寧々さん!」
2人の声を聞いて直樹が部屋から出てきた。「寧々、ただの梨のはちみつ煮だ。得意だろう、作ってやれ」
寧々はもう出ていくと決めていた。直樹の言いなりになるつもりはなく、奈津美の挑発に乗る気もなかった。
しかし、断ろうとしたその時、2人の間に漂う「絆」が見えた。
寧々は試すように応じた。「分かったわ」
果たして、直樹との「絆」が少しだけ薄れたのが分かった。
寧々は胸が高鳴った。彼の要求を満たせば、いつか必ず全ての恩義を返して自由になれるのだ。
昼どき。容赦のない直射日光が照りつけ、空は灼熱の青に染まり、雲一つ残っていなかった。
吹き替えと言っても、奈津美は極めてわがままだった。以前は寧々の幸運を横取りして人気者になったが、演技の苦労なんて何一つしたことがない。
このドラマは業界注目の大作だ。出演さえすれば、さらなる飛躍が望めるはずだった。
現場の奈津美は傍若無人で、セリフも当日覚えるほどだ。スタッフは辟易していたが、彼女の人気を恐れて誰も口を出せなかった。
対照的に、誰に対しても親切な寧々は、接する全員から慕われていた。
直樹が陣中見舞いにやってきた。
彼はドラマのスポンサーであるため、現場を訪れる口実には事欠かない。
助演女優が主役の奈津美をいじめるシーン。奈津美は「リアルな迫力を出したい」と、実際に平手打ちをし、髪を掴むことを要求した。
ところが、本番直前になって「熱中症で気分が悪い」と言い出し、吹き替えを立てるよう要求した。
現場中の視線が寧々に突き刺さる。彼女はかすかな笑みを浮かべた。「ええ、いいわ」
容赦なく寧々の頬に平手が打ち込まれ、くっきりと痕が残った。
寧々は高い演技力で瞬時に役になりきった。監督からも即座に「完璧だ、OK!」の声が上がる。
しかし、モニターを見ていた奈津美は難癖をつける。「監督さん、もう一度お願いします。ほら、横に美術道具が見えてますよ。時代劇で写り込みなんて、台無しでしょ」
直樹までもがそれに加勢する。「このドラマは傑作になる。一切の妥協は許さん」
スポンサーの声には、誰も反論できなかった。
「……では、もう一度」
ここから、奈津美の嫌がらせが始まった。
「今のシーン、感情が前回より悪いわ」
「メイクが崩れてる。撮り直しね」
……
十数回もNGが繰り返され、とうとう相手役の女優さえ「打たれすぎて手が痛いんです、これ以上続けるんですか?」と言った。
寧々の顔が赤く腫れ上がっているのを見て、さすがの直樹もためらった。「奈津美さん、もういいだろう」
引き下がるはずの奈津美だったが、直樹に庇われた寧々を見て腹が立った。
ロケバスの中で、塗り薬を持ってきた奈津美は得意げに笑った。「直樹さんがあなたを側に置く理由は分かっているでしょう?私に顔が似ているからよ。
まぁ、私に似た顔でいられるなんて、あなたにとっても幸運ね」
寧々は奈津美の挑発など全く気にしていなかった。
直樹の頼みを聞くことで「絆」が薄れるのを感じ、寧々の表情には思わず笑みがこぼれた。
その予期せぬ微笑みに奈津美は混乱する。寧々が未練がましく直樹を追う気だと思い込んでいたからだ。
「本当に図々しいわね。今日、直樹さんは私がわざとあなたをいじめていると気づいていたのに、結局は私の思い通りにさせてくれたじゃない」
寧々が全く相手にしないため、拍子抜けした奈津美は腹立たしげに立ち去るしかなかった。
奈津美が去った後、勲が突然現れて寧々を驚かせた。「どうしてここに?」
「誰も言ってなかったか?俺がこのドラマの主演だと」
「それが何よ?私には関係ないわ!」
全く関心のなさそうな寧々を見ても、勲は怒らなかった。彼女が直樹に一途であり、他の人間など眼中にないことを知っていたからだ。
勲はさりげなく手を差し伸べ、彼女の顔の傷を癒やした。
寧々は顔に冷たい感触を覚え、さっきまでの激しい痛みが跡形もなく消え去るのを感じた。
「ねえ、変な術を使わないで。寿命が縮まるわよ」
勲は気に留めない。「お前みたいに愚かに残り1つの命で執着している奴には言われたくないな」
寧々は顔を伏せ、掌を強く握りしめた。「私は『絆』が消えるのを待っているだけ。じゃなきゃ、あんな風にいじめられっぱなしでいるわけないでしょ」
第6話
ようやく目を覚ましたかのような寧々を見て、勲は安心したようにその場を去った。
ただ、2人が撮影現場で顔を合わせれば、彼は嫌味を言わずにはいられない。同じあやかしの一族でありながら、勲は我が物顔で華やかに生きているというのに、寧々はボロボロになるまで痛めつけられ、残された命はあと一つしかないのだから。
ある日、乗馬シーンの撮影があった。
ジリジリと照りつける日差しの下、今回の奈津美は我がままを言わず、時間通りに現れた。
「直樹さん、すごく暑いわ。寧々さんの手作りかき氷が食べられたら最高なんだけど」
奈津美はそう言って甘え、直樹を使って寧々にパシリをさせた。
直樹が口を開くより先に、寧々は作り終えたばかりのメイクや髪型のことも気にせず応じた。「分かった。すぐ作ってくる」
あまりにも積極的な寧々に直樹は少し違和感を覚えたが、彼への頼み事を何でも聞くのが当たり前だと思っていたため、深くは考えなかった。
奈津美は道具を使ったアップのシーンを撮るだけで、残りの撮影シーンの大部分は寧々に押し付けられた。
奈津美に求められたのは、引きの映像からアップに切り替わる時だけ、顔を出せばいいのだ。
暑い日差しの中、時代劇の衣装を着込んだまま待たされる奈津美を見て、直樹は彼女を心配そうに見つめた。
2人の親密なやり取りは誰の目にも明らかで、以前の熱愛スキャンダルが再び再燃しそうな気配さえあった。
同じく過酷な状況で馬を走らせ続けていた寧々は、額に滲んだ汗で髪が顔に張り付き、疲れ果てていたが、誰もそれを気にかけようとはしなかった。
ところが、いつもはおとなしいはずの馬が突然暴れ出した。後ろ脚を高く振り上げ、いななきを上げながら激しく身をよじり、まるで背中に乗る寧々を振り落とさなければ気が済まないかのようだった。
幸い、寧々は普通の女性よりも力があった。
これまでの撮影でこんなトラブルはなかったため、監督やスタッフたちは大慌てで混乱していた。
そんな中、物陰から見ていた奈津美は、人には気づかれないよう口元を吊り上げて得意げに微笑んでいた。
奈津美は怯えるふりをして直樹の胸元に倒れ込む。目の前で起きるこの大混乱こそ、自分が待ち望んでいた好機だからだ。
勲は眉間に深い皺を寄せ、鋭い眼差しを見せた。心の中で、この馬の異常は偶然ではないと確信していた。
彼は素早く術を唱えた。淡い光が一瞬放たれたかと思うと、先ほどまで暴れ回っていた馬が嘘のように静まり返った。まるで時を止められたかのように、ぴたりと止まったのだ。
寧々はここぞとばかりに馬から飛び降りた。
だがその直後、勲は急に思い立ち、馬の進む方向を強引に変え、再びわざと馬を狂わせた。
馬はぐるりと人だかりの方へ突進していく。
先ほどまで直樹の胸元にいたはずの奈津美だったが、なぜか自ら馬の進路に飛び出した。
彼女が事態を把握する間もなく、馬の蹄が彼女の腹部をまともに踏みつけた。
奈津美は大きく目を見開いた。腹部に走る激痛が、潮のように一瞬にして彼女の全身を飲み込んでいった。
耐え難い苦痛で唇が引きつり、喉から漏れる声を押し殺すこともままならない。
大粒の汗が額から溢れ、見る間に血の気が引き真っ青な顔になると、彼女はその場に崩れ落ち、二度と動けなくなった。
「痛い……痛いよ……」
それを見た直樹は、慌てて彼女を横抱きにして救急車に運び込んだ。「奈津美さん、しっかりしろ!」
勲と寧々を除いて、撮影現場にいる全員が凍りついていた。
寧々は馬から降りるなり、勲に近づいた。「あなたがやったの?」
勲は眉をひそめ、寧々の態度が不満なようだった。「何だよ。あの女、お前を殺そうとしてたんだぜ?俺が仕返ししてやって文句あるの?というか、これで俺がお前を救ったのは2度目だ。恩返しの一つでもしたらどうなの?」
寧々がお礼を言う間もなく、スマホの着信音が響いた。
「横山さん、社長から、すぐに病院へ来るようにとの連絡です」
第7話
病院。
直樹は救急治療室の前で、いてもたってもいられない様子で待っていた。
「陣内さん、全力を尽くして治療しております。ですが、菊地さんの状態は非常に深刻です。馬に踏まれたことで脾臓が破裂し、内出血も起きています。懸命に治療しますが、生存の可能性は極めて低いです。心づもりをお願いいたします」
寧々が姿を見せると、直樹は目を真っ赤にして声を荒らげた。「お前だ!お前のせいで、奈津美さんが馬に襲われたんだ!」
寧々は一瞬呆然とした。こんなことまで自分のせいにされるとは思ってもいなかったからだ。
「お前が奈津美さんを妬んでいるから、こんなことをしたんだろう!文句があるなら俺に言え、奈津美さんを傷つける必要はないはずだ!」
そこで、見ていられなくなった勲が間に入った。「直樹さん、頭がおかしくなったのか。あの子が降りた後に馬が奈津美さんを蹴ったんだ。しかも、寧々さんだって被害者だろう」
今の直樹は、何を言われても耳を貸さなかった。
寧々の腕を強く掴み、彼は奥歯を噛みしめるように絞り出した。「寧々、どんな願いも聞くと言ったよな。命令だ、今すぐ奈津美さんを助けろ。傷一つない元の姿で、俺の前に連れてこい!」
寧々は彼がここまで激怒するとは予想していなかった。焦燥に駆られた目の前の彼を見つめ、そして、2人の間で緩み始めている「絆」の気配を確認する。
彼女はとうとう決心した。口を開こうとした時、勲が慌てて制止し、隅へ引き寄せた。
「何考えてんだ。自分の体調を分かってるのか?もし力を貸せば、お前の命はないんだぞ!」
知り合ってわずか数日の相手の方が、5年寄り添った男よりも自分のことを心配してくれる。寧々は小さくつぶやいた。
「ありがとう。例え命を失っても、この『絆』は切りたいの」
寧々の覚悟を感じ、勲はもう引き止める術もなかった。
「直樹。あなたが昔、私の命を救ってくれたから何度も恩返しをしてきた。でもこれが最後よ。私が奈津美さんを生き返らせたら、あの時の命の恩は、これできれいに清算する」
直樹は手術室の中にいる奈津美のことで頭がいっぱいで、寧々が何を言っているのかまともに聞いていなかった。ただ「生き返らせる」という言葉だけを耳にして、二つ返事で承諾した。「わかった、わかったから!」
雲が渦巻き、雷鳴がとどろき、異様な冷気が吹き荒れた。
寧々に逃げ道はないと分かっていた。
彼女は真剣な表情で、決死の覚悟で自らの真の姿を現した。
強大で神秘的な力が体から溢れ出し、彼女の姿は奇妙な変化を見せ、背中に毛むくじゃらの尾が現れた。
寧々は歯を食いしばり、内側から裂けるような激痛に耐えながら、ゆっくりと鋭い爪を上げ、背後の尾へと伸ばした。近づくたび、心の中に抱える悲しみと苦しみがこみ上げてくる。
最後には意を決して、鋭く光るナイフのような爪で、最後の尾を力任せに切り離した。
鮮血が飛び散る中、彼女は鋭い悲鳴を上げた。魂を抉るような激痛が、潮のように彼女をのみこんだ。
魂を失った人形のように、寧々の体は倒れ込み、勲に抱きかかえられた。
同じ頃、医師が手術室から出てきて奈津美の無事を告げた。直樹はただ奈津美が助かった喜びに沸き立ち、傷だらけの寧々には気づかなかった。
直樹は手術室から出てきたばかりの奈津美に付き添い、失いかけた宝物を再び手にした喜びに浸っていた。
2日後。入院中でまだ衰弱した様子の奈津美を見て、直樹は寧々に連絡を入れ、体調を整える雑炊を作って持ってくるよう指示しようとした。
かつて彼自身が交通事故で命を拾い、その後奇跡的な回復を遂げたのも、寧々の献身的な看病のおかげだったからだ。
だが、いくらかけても応答はない。彼はやっと病院での自分の冷たい態度を反省した。
とはいえ深くは悩まなかった。いつものように拗ねているのだろう、甘い言葉を囁けば、懲りずにまた戻ってくると思っていたからだ。
しかし奈津美が退院し、家へ帰っても寧々の姿はどこにもない。直樹の中に、じわりと不安が広がっていった。
何度も何度も電話をしたが、一向につながらない。彼は迷いながらも、寧々の寝室へと足を向けた。
ためらってから、静かに扉を開いた。
全身を刺すような寒気がして、思わず震えが止まらなかった。
部屋には静まり返った重い空気が漂い、まるでもぬけの殻のように生気も感じられない。
荷物はすべて残っているが、彼女だけが消えている。
部屋に荷物が残されていることに微かな期待を寄せ、自分に言い聞かせる。「寧々がいなくなるはずがない」
家中を探し回っても人影は見つからず、家政婦にすがるように尋ねた。「栗原さん、寧々は帰ってきてないか?」
「横山さんなら、撮影現場に入られてからずっと戻っていらっしゃいません」
その言葉で直樹はようやく事態の大きさに気づき、あの日の病院以降、彼女の行方がぷっつり途絶えていることを悟った。
慌てて秘書に命じ、勲の連絡先を聞き出した。
「あの日のあと、寧々を連れて行ったのか。彼女をどうした!」
勲は寧々の亡骸を見つめながら答えた。「寧々さんか。奈津美さんを救うために……死んだよ」
直樹は獣のように咆哮した。「嘘をつくな!寧々は俺に9つの命があるって言ってたんだ!」