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夫が初恋の人に会いに行ったので
妊娠が分かった、まさにその夜。 夫の南條征也(なんじょう せいや)は家に帰ってこなかった。 朝まで一緒に過ごしていたのは、いまだに忘れら...
Chương (1)
第1章
妊娠が分かった、まさにその夜。
夫の南條征也(なんじょう せいや)は家に帰ってこなかった。
朝まで一緒に過ごしていたのは、いまだに忘れられない初恋の相手・篠原渓(しのはら けい)だった。
あっそ。
なら、こっちも好きにさせてもらいます。
私、葉山莉乃(はやま りの)はその日のうちに荷物をまとめ、記入済みの離婚届だけを置いて家を出た。
今どき、あんな夫がいなくたって子どもはちゃんと育てられる。
慰謝料と財産分与はきっちり取って、お腹の子と気ままに暮らしてやる!
未練ゼロの痛快シングルマザー生活、むしろ最高じゃない?
第1話
昨夜、検査の結果が出た。私、葉山莉乃(はやま りの)は妊娠5週目だった。
真っ先に夫へメッセージを送った。けれど一晩待っても返信はなく、結局、彼は家にも帰ってこなかった。
翌日になって、夫の南條征也(なんじょう せいや)がどこで何をしていたのかを知った。きっかけは、誰かがSNSに上げた集合写真だった。その中央で、私の夫はある女性と隣り合って座っていた。征也の口元には、私には滅多に見せない、穏やかな笑みが浮かんでいる。
その隣の女性を、私は知っていた。
夫の初恋の相手であり、彼がずっと忘れられずにいた人――篠原渓(しのはら けい)だ。
四年。征也を好きになってから、追いかけ続けた時間だった。渓が夢を追ってパリへバレエ研修に旅立ったあの年、私はようやく彼との結婚に漕ぎ着けた。
それから結婚して三年。
渓が帰国したのは、よりによって私の妊娠が分かったその夜だったらしい。そして征也は、いともあっさり、渓のいるほうへ戻っていった。
本当に、笑える。
これだけ長くそばにいれば、どんなに冷たい人でも少しは情が移ると思っていたのに。
スマホの画面を見つめたまま、胸の奥が細かく引き裂かれていくように痛んだ。深く息を吸い込み、集合写真をもう一度だけ見つめて、静かに目を閉じた。
そして、決めた。
もう、征也にメッセージを送り続けるのはやめよう。
「見ました」という意味を込めて、私はその投稿に「いいね」を押した。
すぐに弁護士へ連絡を入れ、離婚届と必要な書類を手配してもらった。荷物をまとめながら待っていると、しばらくして弁護士の事務所から書類が届けられた。けれど、征也はまだ帰ってこない。
必要な書類に目を通してから、離婚届に必要事項を書き込んだ。それをダイニングテーブルの上に置き、私はスーツケースを引いて家を出た。
クローゼットに残してきた服も、妊娠している以上、どうせすぐ着られなくなる。そう思うと、一着も持っていく気にはなれなかった。
今の時代、夫がいなくたって子どもは育てられる。まだふくらみすらないお腹にそっと手を当て、これからどこに部屋を借りようかとぼんやり考えた。
征也はかなりの金持ちだ。結婚するとき、財産について特別な取り決めもしていなかったので、離婚となれば、婚姻後に築いた財産は財産分与の対象になるはず。
この三年で、その資産は大きく膨れ上がっていた。たとえその一部でも手に入れば、子どもを連れてのんびり暮らすには十分すぎる額だ。
離婚の件は、すべて片づいてから両親に話すつもりだ。
だから今夜の宿には、東都中心部のホテルを選び、征也から渡されていたカードで部屋を取った。
どうせ離婚すれば、私はそれなりの財産を手にする。今から少しばかり贅沢をしたところで、罰は当たらないだろう。
ホテルに入り、チェックインを済ませて部屋に入ったところで、ようやく征也から着信があった。きっと家に戻って、離婚届を見たのだろう。
「今度は何のつもりだ」
電話がつながった瞬間、耳に飛び込んできたのは、不機嫌で苛立ちの滲んだ声だった。
「俺は一睡もしてない。お前の相手をしている暇はない」
昨日までの私なら、きっと何も問いたださずに征也を心配していただろう。
一晩中帰ってこなかった理由なんて追及もできず、怒りもしぼみ、情けないほどあっさりと彼のもとへ戻っていたはずだ。
けれど、あの写真を見てしまった今、彼に尻尾を振るだけの妻でいるつもりは、微塵もなかった。
「離婚届は記入して、テーブルの上に置いてあります。あなたも署名したら、あとは弁護士に連絡してください」
自分でも驚くほど、声は冷たく落ち着いていた。
もう、征也を優先する理由なんてどこにもなかった。
それでも征也は、私が本気で離婚するなど、少しも思っていないようだった。私の言葉など聞こえていないみたいに、勝手に話を進める。
「浩也に迎えに行かせる。俺はこれから会議だ」
会議?知ったことか。
何も言わず、通話終了のボタンを押した。
出会ってから今日まで、私のほうから彼との電話を切ったのは、これが初めてだった。
それでも、胸の奥の痛みは止まらない。大きなベッドに倒れ込んでも、少しも楽にはならなかった。目尻から涙がこぼれ続け、ふかふかの枕を濡らしていく。
豪奢な天井を見上げながら、心の中でそっと決めた。
南條征也のために泣くのは、今夜で終わりにする。
妊娠初期特有の眠気のせいもあったのだろう。泣き疲れた私は、そのまま深く眠り続けた。
ふたたび目が覚めたのは、翌日の午後5時。
ひどい空腹で、ようやく意識が現実へと浮かび上がった。
第2話
深い眠りから覚め、スマホを確認すると、十数件もの着信履歴が残っていた。
征也からだろうか。
ほんの少しだけ期待して画面を開いたものの、表示されていたのは、征也の弟・南條浩也(なんじょう ひろや)の名前だった。
思わず鼻で笑ってしまう。
どうやら私は、征也にとっての自分の存在を、まだ少し大きく見積もっていたらしい。そもそも征也が私に、何度も電話をかけてきたことなんてなかった。
そのとき、再びスマホが震えた。
表示された名前は、やはり浩也だった。
通話ボタンを押した瞬間、耳をつんざくような怒鳴り声が響いた。
「お前、どこに消えたんだよ!こっちは午後ずっと探し回ってたんだぞ!」
さっき着信履歴を見たばかりだ。
13件の着信は、すべてこの10分以内に集中している。
午後ずっと探していた?
よく言う。
きっと午前中に征也から「探せ」と言われていたのに、午後になってようやく思い出し、慌てて電話をかけてきたに違いない。
浩也は昔から、私を兄嫁として扱ったことなどなかった。
今朝、私を打ちのめしたあの集合写真も、そもそも浩也のSNSに投稿されていたものだ。
「もう探さなくていいわ。離婚届には記入して置いてきたから、征也にも早く書くように伝えて」
征也のそばにいるために、私は彼の周囲にまで気を遣ってきた。
南條家では、浩也の機嫌を損ねないよう、いつも言葉を選んだ。正面から言い争ったことは一度もない。家族の前では、ろくに見つからない長所まで拾い上げて、わざわざ褒めたこともある。
それでも浩也は、昔から私にだけは刺々しかった。こちらがどれだけ下手に出ても、まともに向き合ってくれたことはほとんどない。
「離婚するって、お前それ何回目だよ。本当に兄貴から離れられたら、土下座してやるよ」
電話の向こうで、浩也が鼻で笑った。
どうやら彼も、私が本気で離婚するとは少しも思っていないらしい。
呆れて、ため息が漏れた。
私は冷え切った声で返した。
「じゃあ練習しときなさい」
言い捨てるなり、一方的に通話を切った。ついでに、南條家の親族の連絡先を片っ端からブロックリストに放り込んだ。
けれど、さっき言い負かされたのが、よほど悔しかったらしい。
浩也は、私も入っている共通の知人だらけのLINEグループで、私と征也の離婚話をさっそくネタにした。
【南條浩也:莉乃がまた兄貴と離婚するって騒いでるw】
【南條浩也:俺が「離れられたら土下座してやるよ」って言ったら、「練習しときな」とか言われたんだけどw】
【南條浩也:じゃ、俺が賭けを仕切るわ。あいつが3日以内にうちへ戻ってくる方に賭ける】
それをきっかけに、グループは一気に悪ノリし始めた。
私がいつ征也のもとへ泣きついて戻るのか。彼らは面白がって、次々に賭け始める。
1週間、半月、1ヶ月。
次々と流れていくメッセージを、私は無表情で眺めていた。
中には私をメンションして、【本人、ヒントくれよ。何日に賭ければいい?】などとふざけてくる者までいる。
グループにいる人間のほとんどは顔見知りだ。けれど、征也がいなければ、私とは一生交わることのなかった人たちでもあった。
彼らは皆、東都の裕福な家に生まれた、いわゆる御曹司やお嬢様たちだ。
他人を尊重するという発想が、最初からないのか。
それとも、私だけが徹底的に軽く見られていたのか。
私は東都の生まれではない。大学進学を機にこの街へ出てきて、征也を好きになり、結婚したから残っただけの、ただのよそ者だった。
南條家はもともと名の知れた家柄だったが、征也が事業を大きく伸ばしたことで、ここ数年で他家を大きく引き離し、東都でも指折りの資産家として知られるようになった。
征也の妻でありながら、南條家を中心に広がる華やかな付き合いの中に、私は最後まで入り込めなかった。
ずっと、見えない壁の外側に立たされていた。
そして皮肉なことに、今回初めて彼らの話題の中心に置かれた。
ただの笑いものとして。
征也との結婚を終わらせる決意に、少しの揺らぎもなかった。だから、反論する気すら起きない。
私は黙って「退会」を押した。
それから、そこにいた連中の連絡先をリストから一人ずつ削除していく。最後の一人まで、全部。
すべての作業を終えると、私のLINEに残ったのは、大学に入る前からの友人と、東都に来てから個人的に親しくなった、ほんの数人だけだった。
東都に来て、七年。
その長い時間を、私はいったい何に費やしてきたのだろう。
手に入れたものといえば、大学の卒業証書が一枚。
それ以外には、本当に何も残っていなかった。
第3話
大学を卒業してすぐ、征也と結婚した。
南條家では、嫁が外に出て目立つ仕事をすることをよしとしなかった。家に入り、夫を支え、いずれ南條家の跡継ぎを育てる。そんな古風な暮らしを、当然のように望まれた。
だから結婚してから、私は一度も外で働いていない。それでも当時は、征也に養われ、不自由のない暮らしを送ることこそが「幸せ」なのだと信じ切っていた。
けれど彼のもとを離れた今になって、ようやく気づいた。
私には、私だけの居場所も、人とのつながりも、何ひとつ残っていなかったのだと。
とはいえ、そんな残酷な現実も、今の私の食欲には敵わなかった。ホテルのレストランでコースを頼み、息が苦しくなるほど平らげる。食べすぎで張ったお腹をさすりながら、腹ごなしに近くの公園まで歩くことにした。
そこでまさか、渓と征也に出くわした。
二人は親しげに肩を並べ、公園の小道を歩いていた。整った顔立ちの征也と、華やかな雰囲気をまとった渓。並んでいるだけで目を引く二人は、楽しそうに笑い合っている。
「あれ、莉乃ちゃん?久しぶり」
征也を見上げて何かを話していた渓は、こちらに気づくと驚いたように目を丸くし、ひらひらと手を振ってきた。人懐っこい笑顔を向けたまま、その視線だけが、私の全身を上から下へとゆっくり滑っていく。
それから、にこりと微笑んだ。
「少しふっくらした?顔、丸くなって可愛いね」
以前の私なら、そんな嫌味を言われただけで恥ずかしさに縮こまっていただろう。バレエで鍛え上げられた彼女の体には、余分な肉など少しもない。そんな渓と比べれば、私の体つきはどうしても丸く見えてしまう。
太っているとまでは言わない。けれど、あちこちに肉がついているのは確かだった。
でも今は、どうでもいい。
私がちゃんと食べなければ、お腹の子にも栄養が届かないのだから。
黙っていると、渓はくすっと笑った。そして、私がお腹をさすっているのを見て、わざとらしく小首を傾げる。
「そのお腹……もしかして、妊娠?」
違う。ただの食べすぎだ。
たしかに妊娠しているものの、まだ5週目。お腹が目立つはずもない。
そう答えようとした瞬間、征也が眉をひそめ、私の言葉を遮るように口を開いた。
「食べすぎただけだろ。妊娠なんてしてるわけない」
その言葉に、思わず目を見開いた。
妊娠したことは、昨夜メッセージで伝えたはずだ。それなのにこの男は、初めて聞いたような顔をしている。
最初から読んでいなかったのだ。
でも、それでいい。
どうせ離婚する。この子は、最初から私だけの子だ。そう思えばいい。
「そう。食べすぎただけ。妊娠なんてしてないわ」
征也の言葉をそのまま繰り返して頷いた。それから、行く手を塞ぐ二人に淡々と言う。
「ちょっとどいてもらえる?散歩の途中だから」
公園の小道は決して狭くない。けれど二人は、ちょうど私の行く手を塞ぐように、道の真ん中に立っていた。
恋人同士のように仲良く歩きたいなら、よそで勝手にやればいい。どうして私まで、こんなところで足止めされなければならないのか。
「え?一人で散歩してるの?」
渓はわざとらしく口元に手を当ててみせるだけで、道を譲る気配は微塵もなかった。
私の夫が彼女の隣にいる以上、私が一人で歩く以外に何があるというのか。
「よかったら、私たちも一緒に歩こうか?」
抜け抜けと、彼女はそんなことまで言い出した。
――私たち。
渓はごく自然に、征也を自分の連れのように扱った。まるで私のほうが、二人の間に割り込んできた邪魔者であるかのように。
本来、南條征也の妻は私なのに。
たいした神経だ。
人の夫の隣に堂々と立ちながら、あくまで善意の顔でこちらの心をえぐってくる。
「遠慮しとく。あなたたちの邪魔をする気はないから。お二人でどうぞ。少し歩けばホテルもあるし」
これまでなら、渓が遠回しに征也との親しさを見せつけてきても、私は黙って飲み込んできた。
反論すれば嫉妬深い女だと疎まれる。問い詰めれば、征也はますます私を面倒がる。
そう思って、ずっと耐えていた。
でも、今は違う。
もう、この男にすがる理由はない。渓がどれだけ勝ち誇った顔をしても、心を乱される理由などなかった。
思ったことを、そのまま口にしただけだ。ついでに、行き先の候補まで教えてあげた。
しかし征也は、私の態度がよほど気に入らなかったらしい。顔を険しくし、氷のように冷たい声で言った。
「莉乃。俺は迎えに来ただけだ。渓とは偶然会っただけだろ。心配して声をかけてくれた相手に、その態度は何だ。いい加減にしろ」
「いい加減にしてほしいのは、こっちなんだけど」
征也の言葉は、どれもこれも私の癇に障った。思わず冷ややかに笑ってしまい、私は声を荒げて言い返した。
第4話
私に向ける声は氷のように冷たいのに、渓に話しかける声だけは、明らかに甘く柔らかい。
その声を聞くだけで、二人の距離の近さが分かる。
渓が私を心配している?
そんなの、彼に「優しい女」だと思わせるための芝居に決まっている。それなのに征也は、あっさり信じ込んでいる。
「莉乃」
征也の目に、かすかな怒りが浮かんだ。
いつも黙って従ってきた私が言い返したことが、よほど気に入らないらしい。
これまでは、この男に名前を呼ばれるだけで身がすくんだ。すぐに謝って、何が悪かったのかと自分を責める。それが「いつもの私」だった。
情けないことに、今もまだ体は反射的に強張ってしまう。
まったく、嫌になる。
こんな男を怖がる癖が、まだ体に染みついているなんて。
「離婚届はもう書いてきたって言ったわよね。一週間以内に署名してくれないなら、弁護士に任せるから」
苛立ちを隠さず、もう一度だけ離婚する意思を告げてから、私はスマホを取り出し、カメラを起動した。
そのまま二人に向けて、立て続けにシャッターを切る。
渓の顔が、わずかに引きつった。
「何してるの?」
「話し合いで済まなかったら、調停だの裁判だのになって面倒でしょう?夫婦関係が破綻していた証拠は、多いほうがいいから」
スマホを構えたまま平然と答え、渓に向かって軽く顎で示した。
「もう少し征也に近づいてくれる?そのほうが、不貞っぽく見えて分かりやすいわ」
その言葉に、渓はあからさまに動揺した。困ったように征也を見上げ、それから私を見る。
しかしファインダー越しに見ると、渓の体はわずかに征也のほうへ傾いていた。距離は、さっきよりも近い。
本当に、抜け目のない女だ。
私はすかさず、さらに数枚シャッターを切った。
「もういい加減にしろ!」
怒りに任せて一歩踏み出した征也が、私の手からスマホを奪い取った。写真を消すつもりなのだろう。けれど、画面はすでにロックされていた。
征也はスマホを手にしたまま、険しい顔で私を睨みつける。
「パスコードは?」
「私の誕生日」
それ以上は何も言わず、淡々と答えた。どうせこの短い間に、写真はもうクラウドへ同期されている。この端末から消したところで、家のタブレットには残る。
しかし――私が答えた瞬間、征也の表情が固まった。
画面に触れようとした指が、途中で止まっている。
ロックを解除できなかった。
自分の妻の誕生日さえ、覚えていなかったのだ。
なるほど。
これまでの誕生日プレゼントは、やはりすべて秘書が用意していたのだろう。当日になって秘書に言われて、彼はただそれを私に手渡していただけだった。
はぁ、とため息が漏れた。
彼の手からスマホを奪い返す。
「離婚は絶対にするから。あと、弟さんをどうにかしたほうがいいわよ。あの調子だと、賭け事で痛い目に遭うから」
本当に、自分でも親切な女だと思う。
こんなときまで、弟の不始末を知らせてやっているのだから。
「浩也が何をした?」
征也の問いには答えず、私は背を向けた。
追ってくるかと思ったが、渓が征也を呼び止めた。背後から、彼女の甘ったるい声が聞こえる。
「私も聞いただけなんだけど、浩也くん、グループLINEで賭けを始めたらしいの。莉乃ちゃんがいつあなたのところに戻るかって……けっこう大きな額で、みんなも乗ってるみたい」
「……くだらない」
征也が低く吐き捨てる声が聞こえた。
私は歩く速度を緩めなかった。
それでも背後で、征也がスマホを取り出す気配がした。次の瞬間、氷のような声が響く。
「――どこにいる」
今度は、あの弟が標的らしい。
けれど、その賭けで一番傷つけられたのが私だということに、征也は気づいていない。
弟を叱るためなら、すぐに電話をかける。それなのに、目の前にいる私には、謝罪の一言すらない。
ホテルに戻り、シャワーを浴び終えた頃、知らない番号から着信があった。
何も考えずに切ると、次の瞬間、その番号からメッセージが届く。
南條浩也だった。
どうやら征也にひどく叱られたらしい。画面には、私を見下すような言葉がびっしり並んでいた。
いつものことだ。
今回も、私に謝らせるつもりなどないらしい。
弟を力ずくで黙らせることならできるのに。
賭けるな。遊び歩くな。夜遊びするな。無茶な運転をするな。
そう命じれば、浩也は一応従う。
けれど、兄の妻に対する最低限の礼儀だけは、最後まで教えなかった。
それでも、昔からこうだったわけではない。
浩也とは、大学の同級生だった。
あの頃の浩也は、今のように私を見下したりしなかった。
征也だって、最初からこんなに冷たい男だったわけではない。