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母のいる場所こそ私の家
一年待ちわびて、ようやく私の母、白川小百合(しらがわ さゆり)が蒼海市(そうかいし)まで私に会いに来てくれた。 ところが、時刻はまだ午...
Chương (1)
第1章
一年待ちわびて、ようやく私の母、白川小百合(しらがわ さゆり)が蒼海市(そうかいし)まで私に会いに来てくれた。
ところが、時刻はまだ午後になったばかりだったというのに、夫の橘蒼介(たちばな そうすけ)はこう口にして母を急かした。
「お義母さん、そろそろ帰る時間じゃないですか」
結婚して七年。母は毎年電車に乗って会いに来てくれるが、毎回夕方には帰っていく。
泊まっていってほしいと私が口を開きかけた時、蒼介が突然言った。
「そのスリッパ、お義母さんに差し上げますよ」
そのスリッパを、母はまだ三時間も履いていない。
言葉を言い終えるや否や、彼は足でそれを蹴り飛ばした。スリッパは母の足元へ無造作に転がっていった。
母はハッとして、しわの刻まれた顔にゆっくりと作り笑いを浮かべると、腰をかがめて両手で拾い上げた。
「ありがとうね、蒼介さん」
その態度は卑屈なほどへりくだっていた。私に迷惑をかけるのを恐れているのだと、痛いほど分かった。
母が帰る前に、蒼介の幼馴染の藤堂佳奈(とうどう かな)の母親が寝室から出てきた。
彼女は除菌スプレーを手に持ち、シュッシュッと吹きかけ始めた。
「ああ汚い、アレルギーが出そう。まったく、どうしてこう勝手に人を家に呼ぶのかしら」
彼女はこの家に三ヶ月も居座っている。蒼介が自ら出向き、連れてきたのだ。
母の顔はパッと赤くなり、いたたまれなくなって逃げるように帰っていった。
私、白川雨音(しらがわ あまね)は頭がジーンとするような感覚を覚えながら、ゆっくりと蒼介を見た。
しかし彼は何事もなかったかのように振り返り、藤堂頼子(とうどう よりこ)の手伝いをして除菌スプレーを吹きかけている。
私は迷うことなく背を向け、母の後を追った。
「お母さん、私も一緒に行く」
第1話
一年待ちわびて、ようやく私の母、白川小百合(しらがわ さゆり)が蒼海市(そうかいし)まで私に会いに来てくれた。
ところが、時刻はまだ午後になったばかりだったというのに、夫の橘蒼介(たちばな そうすけ)はこう口にして母を急かした。
「お義母さん、そろそろ帰る時間じゃないですか」
結婚して七年。母は毎年電車に乗って会いに来てくれるが、毎回夕方には帰っていく。
泊まっていってほしいと私が口を開きかけた時、蒼介が突然言った。
「そのスリッパ、お義母さんに差し上げますよ」
そのスリッパを、母はまだ3時間も履いていない。
言葉を言い終えるや否や、彼は足でそれを蹴り飛ばした。スリッパは母の足元へ無造作に転がっていった。
母はハッとして、しわの刻まれた顔にゆっくりと作り笑いを浮かべると、腰をかがめて両手で拾い上げた。
「ありがとうね、蒼介さん」
その態度は卑屈なほどへりくだっていた。私に迷惑をかけるのを恐れているのだと、痛いほど分かった。
母が帰る前に、蒼介の幼馴染の藤堂佳奈(とうどう かな)の母親が寝室から出てきた。
彼女は除菌スプレーを手に持ち、シュッシュッと吹きかけ始めた。
「ああ汚い、アレルギーが出そう。まったく、どうしてこう勝手に人を家に呼ぶのかしら」
彼女はこの家に3ヶ月も居座っている。蒼介が自ら出向き、連れてきたのだ。
母の顔はパッと赤くなり、いたたまれなくなって逃げるように帰っていった。
私、白川雨音(しらがわ あまね)は頭がジーンとするような感覚を覚えながら、ゆっくりと蒼介を見た。
しかし彼は何事もなかったかのように振り返り、藤堂頼子(とうどう よりこ)の手伝いをして除菌スプレーを吹きかけている。
私は迷うことなく背を向け、母の後を追った。
「お母さん、私も一緒に行く」
……
結局、私は母に追い返されてしまった。
母は頑なに私を押し返した。顔には笑みを浮かべていたが、その瞳には涙が光っていた。
私は母の重たそうな後ろ姿を見つめながら、その場に長く立ち尽くした。
けたたましい着信音にハッと我に返るまで、ずっと。
「お前、いつ外に出たんだ?」
私はうつむいて時計を見た。すでに2時間近くが経過していた。
蒼介はようやく私が家にいなかったことに気づいたらしい。
私が口を開き、まだ何も言わないうちに、彼はまた言った。
「頼子おばさんが一階の店で売ってるナッツを食べたいって言うんだ。少し買ってきてくれ」
私の言いたかった言葉は喉の奥に飲み込まれた。
上の階に戻ると、頼子はちょうど母が使っていたコップをゴミ箱に捨てようとしていた。
私は手を伸ばしてそれを取り返した。
「このコップ、どうかしたんですか?」
頼子は少し気まずそうにしながらも、ニコニコと愛想笑いを浮かべて答えた。
「古くなったから。ちょうど佳奈が新しいセットを買ってくれたところだし、入れ替えようと思って」
「捨てなくていいです。私が使いますから」
彼女はきまり悪そうに口を閉ざし、手を伸ばして私が持っていたお菓子の袋を受け取った。
背を向けて立ち去ろうとした彼女に、私は突然声をかけた。
「頼子おばさん、これ、レシートです」
彼女はピタッと動きを止め、レシートを受け取ろうとせず蒼介の方を振り返った。
蒼介はシャワーを浴び終えたばかりで、ごく軽い口調で言った。
「受け取らなくていいよ。そんなはした金、おばさんに奢ってやれよ」
3500円。
確かに大した額ではないが、今月に入ってもう9回目だ。
合計で4万円ちょっと使っている。
最初から最後まで、私には1円も払われていない。
それなのに、ついさっき、彼は母のために乗車券を一枚買ってやるのさえ渋ったのだ。
私が切符を買おうとした時、蒼介はこう言った。
「お義母さんには年金があるんだから、自分で買えるだろ。だいたい、お前が使う金は夫婦の共有財産なんだぞ」
母の切符代は、夫婦の共有財産。
彼の頼子おばさんがナッツを食べたい時の代金は、共有財産ではなく「はした金」になるらしい。
私が声を出すより早く、頼子は満面の笑みを浮かべて自分の寝室に戻っていった。
私はレシートを突き出したままの姿勢で、宙に取り残された。
私は深呼吸をして、唐突に尋ねた。
「頼子おばさんたちは、いつ引っ越すの?」
「佳奈がまだ物件を探してるんだよ」
その言葉を、彼はもう3ヶ月も言い続けている。
「ずいぶん長く探してるじゃない。とりあえずどこか見つけるか、親戚の家に身を寄せることはできないの?」
蒼介が髪を拭く手が止まり、不可解そうな顔をした。
「なんでそんなに急かすんだ?家に誰か住まわせる予定でもあるのか?」
私が口を開く前に、彼はまたため息をついた。
「たとえ誰か来るにしても、部屋はもう一つ空いてるじゃないか」
そうだ、もう一つ空いているのに、どうして私の母の居場所だけはないのだろうか。
私は思わず拳をきつく握りしめ、手のひらのレシートはくしゃくしゃになった。
その時、外で雨が降り始めた。
稲妻が走り雷鳴が轟いた瞬間、私の耳の奥でキーンという耳鳴りがした。
雨の日に土手から滑り落ちたことが原因で、母は昔から雨を極端に恐れていた。パニック発作を起こして舌を噛み切ってしまうことすらあるのだ。
こめかみがドクドクと脈打ち、私はすぐに母に電話をかけた。
コール音が2回鳴って通話が繋がったが、そこから聞こえてきたのは見知らぬ人の声だった。
「もしもし、この携帯の持ち主がバスターミナルのロビーで倒れまして、現在病院に搬送中です」
私は背中に冷や汗をかき、震える声でお礼を言って電話を切った。
寝室に飛び込み、服を着替えながらリビングにいる蒼介に叫んだ。
「蒼介、お母さんが倒れたの。私の車は修理に出してるから、お母さんを迎えに連れて行って」
しかし、私が服を着替え終わった時、蒼介の姿はどこにもなかった。
焦りで胸が張り裂けそうになりながら彼に立て続けに3回電話をかけたが、すべて出なかった。
その時、頼子が出てきた。蒼介がいないとあって、彼女の顔には露骨な苛立ちが浮かんでおり、私に直接説教を始めた。
「雨音、あなた足が悪いわけでもないでしょ。蒼介は佳奈を迎えに行ったのよ。用があるなら自分で何とかしなさい。彼を煩わせないで!」
彼女の語気は荒く、言葉の端々に滲む独占欲は、まるで蒼介が自分の娘婿であるかのようだった。
第2話
私は怒りのあまり歯の根が合わず、ドアを指さして彼女に「出て行きなさい!」と言い放った。
頼子は軽蔑したように鼻で笑い、ふんぞり返ってソファに座り込んだ。
「私は出て行かないわよ、出て行くならあなたが出て行きなさい!ここは蒼介の家なんだから、あなたに私を追い出す権利なんてないわ!」
呼んでおいたタクシーが到着し、私はもう二度と彼女を見ることなく、身を翻して病院へ向かった。
母は恐怖のあまりパニックを起こして倒れ、頭を切って怪我をしていた。
私を見ると、母は所在なげにうつむき、まるで過ちを犯した子どものようだった。
額にはまだ乾いた血の跡が残っており、その姿はあまりにもみすぼらしく見えた。
私は目頭が熱くなり、前に進み出て母の手を引いた。
「私と一緒に家に帰ろう」
「いいのよ、あなたは帰りなさい。お母さんは病院で一晩明かせばいいから」
母は指を丸めて私を避け、早口で言い、最後には無理して作り笑いを浮かべた。
「お母さんの心配はいらないわ。もういい大人なんだから、自分のことくらい――」
言い終わらないうちに、母はふいに顔色を変え、慌てた様子で言った。
「ああ、いい子だから、泣かないで、泣かないで」
しかし、私の涙はどうしても止まらず、後から後から溢れてきた。
母は呆然と私を見つめ、しばらくして、諦めたように言った。
「あなたと一緒に帰るわ」
車に乗り込んだ時、母の手はずっと私を強く握りしめていた。まるでこれから恐ろしい猛獣に直面するかのように。
家のドアの前に着いた時、私は母の白髪交じりの髪を撫でつけた。
「怖がらなくていいから、私についてきて」と小声で言った。
ドアを開けると、佳奈はすでに迎えられて帰宅していた。
3人がテーブルを囲んで談笑している。
私と母の姿を見ると、3人は申し合わせたように一斉に黙り込んだ。
蒼介はハッとして、無意識に眉をひそめた。
「お義母さん、どうして戻ってきたのです?」
彼は母の額の血の跡も見えていないし、汚れた上着も見えていない。
開口一番は、どうして戻ってきたのかという問いだった。
母は少し萎縮し、乾燥して皮のむけた唇を震わせ、何かを言おうとした。
私はそれを遮って言った。
「ここは母の家でもあるのよ。今日は一晩泊まっていくわ」
そう言って、部屋中の人間たちの奇異な視線を浴びながら、私は母の手を引いて客用の寝室へと向かった。
「待てよ」
蒼介が私を追いかけてきた。その顔色は少し険しい。
「お義母さんを連れて帰るなら、どうして前もって俺に一言ないんだ」
「あなたが彼女たちを連れて帰ってきた時、私に一言でも言った?」
蒼介は言葉に詰まり、すぐに反論した。
「それとは話が別だろ!」
私は首を横に振った。
「もちろん別よ。一人は私の母親で、もう一人は赤の他人」
その言葉が落ちると同時に、部屋の中は一瞬で水を打ったように静まり返った。
母は焦って泣き出しそうになっていた。私は母の手の甲を撫でて、怖がらなくていいと合図した。
佳奈が突然立ち上がり、目を真っ赤にして私を見た。
「雨音さん、私がお邪魔だったんですね。ごめんなさい、今すぐ出て行きます」
しかし、彼女より早かったのは蒼介の手だった。
彼は佳奈をガシッと掴み、私の方を怒りに満ちた目で振り返った。
「雨音、いい加減にしろ!」
私は静かに彼を見つめた。彼が一人の他人のために私を辱めるのを見つめていた。
結婚して7年。この瞬間、私はこの結婚生活が底抜けにつまらないものだと感じた。
もう一言も発することなく、私は母を引っ張って寝室に入った。
ドアを閉めた時、一滴の涙が私の手の甲に落ちた。
母は顔面を蒼白にさせ、自責の念に駆られて涙を流していた。
「全部お母さんのせいだわ、お母さんのせいであなたたちが喧嘩になってしまった」
母は女手一つで私を育て上げてくれた。それなのに、よりによって私のせいでこんな屈辱を受けさせてしまった。
私は手を伸ばして母を抱きしめた。彼女を守りきれなかったという自責の念が心の底に満ちていた。
「明日お母さんが帰ったら、蒼介さんとちゃんと話し合うのよ。夫婦喧嘩は犬も食わないって言うじゃない」
しかし、彼女には分からないのだ。この結婚は、もう終わりを迎えているということが。
スマホが震えた。依頼していた弁護士から離婚協議書が送られてきて、修正箇所はないかと尋ねてきている。
私はすぐにそれを開かず、まずは母のためにパジャマを探した。
「お風呂に入ってきて。中からちゃんと鍵をかけてね」
母はそれを受け取り、うつむいて返事をした。
水を汲みに出た時、主寝室の方から甲高い笑い声が聞こえてきた。
私は歩み寄り、ドアノブに手をかけ、力を込めた。
ガチャッという音がしたが、ドアは微動だにしない。鍵がかかっていた。
中の音は一瞬で消え、すぐにカサカサと衣擦れの音が聞こえてきた。
完全に静まり返った後、蒼介がドアを開けた。
彼の後ろから佳奈が出てきた。
彼女は頬を上気させ、瞳を潤ませていた。
「雨音さん、私、着替えがないから、あなたのお洋服をお借りして試着していたんです」
私には理解できなかった。なぜ着替えを蒼介の目の前でするのか、なぜ鍵をかける必要があるのか。
佳奈の話し方は穏やかだったが、その目は瞬き一つせず私を見据え、私の表情の変化を一つたりとも見逃すまいとしているかのようだった。
釈明に見せかけた、明らかな挑発だった。
第3話
蒼介は咳払いをして、佳奈に先に寝るように振り返って言った。
佳奈が去った後、蒼介は私を寝室に引き入れた。
何事もなかったかのようにスマホを私に差し出した。
「雨音、これ、お義母さんに買っておいた電車の切符なんだけど、この時間でいいかな?」
朝の7時半。彼は本当に一分たりとも母をここに滞在させたくないのだ。
私はそれを受け取らず、ただ静かに言った。
「誰が明日帰るって言ったの?」
蒼介はハッとし、やがてその顔に苛立ちの色が浮かんだ。
嫌悪感、そして本能的な拒絶反応だ。
過去7年間、私はこの表情を嫌というほど見てきた。
母が私に会いに来るたび、彼は無意識にこの表情を見せていた。
以前は、単に年寄りとの同居が嫌なだけだと思っていた。
しかし今ならはっきりと分かる。
蒼介は私の母を見下しているのだ。
彼女が田舎の出身だからかもしれないし、単純に彼女が佳奈の母親ではないからかもしれない。
「雨音、家にはもう人が多すぎるんだよ」
彼が再び暗に家を出るようほのめかした。
私はうなずいた。
「だったら、頼子おばさんたちに引っ越してもらえばいいじゃない」
「それはちょっと良くないな」
蒼介は即座にその提案を却下し、まるで聞き分けのない子供を見るような目で私を見た。
「あの人たちはあくまでお客さんなんだから」
彼女たちは尊い客人であり、私の母は煙たがられる部外者。
私はふと、私たちに子供がいなくて良かったと少し安堵した。もし子供がいたら、財産分与の話し合いがどれほど面倒なことになっていただろう。
「もういい、お前の母親が泊まりたいなら何日でも泊まればいいだろ」
彼は苛立たしげな顔をして、ドアを押し開けて出て行った。
外に出ると、母はすでにお風呂から上がっていた。
私は彼女を座らせて休ませ、夕食の準備のためにキッチンへと立ち上がった。
しかし、母が座った途端、頼子が大声で喚き立てた。
「ちょっと!立ちなさいよ、そのクッションは私が買ったの。他の場所に座ってちょうだい」
母はすぐに縮み上がって立ち上がった。
その声には波風を立てまいとする卑屈さが滲んでいた。
「ごめんなさい、知らなかったもので」
頼子の怒りは収まるどころか、むしろ口調を荒らげた。
「知らないなら先に聞くべきでしょ。本当にしつけがなってないわね」
母は全身をこわばらせ、泣き出しそうなほどいたたまれない表情になった。
しかし彼女は口答えもできず、助けを求めて蒼介の方を見たが、彼もまた我関せずといった様子でうつむき、スマホをいじっていた。
私はただならぬ気配を感じ、換気扇のスイッチを切った。
頼子の声が耳に飛び込んできた。彼女は子供を叱りつけるように、母を指差して罵倒していた。
「急に他人の家に上がり込んできたかと思えば、今度は図々しく居座って出て行かないなんて。
あなたみたいに空気の読めない人、本当に見たことないわ。いい年して、少しは恥じらいというものを持ったらどうなの」
頭の中でブチッと何かが切れる音がして、私は振り返ってキッチンから飛び出した。
母はその場にこわばったまま、心がここにないような虚ろな表情で、彼女の侮辱に耐えていた。
頼子はそれでもなおまくしたてた。
「明日には出て行ってちょうだい。あなたみたいな農民が、畑の綿花や小麦の収穫を放置してていいわけ?私が――きゃあっ!」
私は彼女の頬を思い切り平手打ちにした。
「雨音!」
先ほどまで耳が聞こえないふりをしていた蒼介が突進してきて、私を突き飛ばした。
「どうしておばさんを叩くんだ!」
佳奈も駆け寄り、母親を抱きしめて泣き始めた。
「お母さん、この人たちひどすぎる。私たち、今すぐ出て行こう」
頼子はさらに死ぬの生きのと大騒ぎを始めた。
「こんな年になって顔を叩かれるなんて、もう生きていけないわ!」
そう言うと、彼女はテーブルに駆け寄ってフルーツナイフを手に取った。
第4話
母は私が叩かれるのを恐れ、私をかばうように前に立ちはだかった。
その唇は恐怖で震えていたが、一歩も退こうとはしなかった。
蒼介は危険を察知し、素早くナイフを奪い取った。
私を振り返った彼の目は、怒りに満ちていた。
「雨音、今すぐ謝れ」
私は彼を無視して、母を先に寝室へ行かせた。
蒼介は私の手首を強く掴み、その力は私の骨を砕かんばかりだった。
「早く謝れ!」
佳奈は彼の後ろで腕を組みながら私を見ていた。その勝ち誇ったような卑しい目つきは、吐き気を催すほどだった。
私は血が逆流するのを感じながら、はっきりと告げた。
「私は絶対に謝らない。この親子は今すぐここから出て行かせて!」
蒼介は彼女たちの前に立ちはだかり、氷のように冷酷な口調で言った。
「よく考えろよ。彼女たちが出て行くなら、俺も出て行く」
蒼介は高をくくった表情で私を見ていた。
長年連れ添ってきて、私たちが喧嘩をすることは滅多になかった。
数少ない喧嘩の際も、いつも私から歩み寄って和解してきた。
付き合っていた頃と同じだ。私は彼に一目惚れし、一年間も彼を追いかけ回した。
私がどれほど彼のことを好きか、誰もが知っていた。
だからこそ、蒼介はこんなにも強気でいられるのだ。
「だったら、あなたも出て行って」
私の返答はきっぱりとしていた。
彼は信じられないというように私を見た。
私が冗談を言っているのではないと悟ると、彼は冷笑し、きびすを返して佳奈たちを連れて出て行った。
ドアが鼓膜を破らんばかりの勢いで乱暴に閉められた。
しかし今回ばかりは、私は心底ホッとしていた。
その後数日間、蒼介は家に帰ってこなかった。
彼は佳奈たち親子を連れて蒼海市中の観光地を巡り、私の目に入るSNSのアカウントに様々な写真をアップロードしたが、微塵も気にする素振りを見せなかった。
いや、むしろ私にわざと見せつけているのだ。
私から無条件で許しを乞うてくるだろうと高をくくっているのだ。
私が荷造りをするのを見ても、今回は母は何も聞かず、しつこく私を説得しようともしなかった。
ただ黙々と私の荷造りを手伝ってくれた。
すべての作業が終わった後、私は引越し業者を手配し、結婚前に買っていた私名義のマンションに荷物を運んだ。
車の修理も完璧に終わっていた。
家を出るその日は、意外なほど見事な快晴だった。
私は離婚協議書をテーブルの上に置き、一度も振り返ることなくその家を後にした。