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あなたを待つことがあった
初夏の親族の集まりで、堂島蒼真(どうじま そうま)は私を正式に家族に紹介すると言った。 私は3ヶ月も前から準備を重たあげく、彼の実家の前...
Chương (1)
第1章
初夏の親族の集まりで、堂島蒼真(どうじま そうま)は私を正式に家族に紹介すると言った。
私は3ヶ月も前から準備を重たあげく、彼の実家の前で1時間も待ち続けるのを余儀なくされた。
ようやく中へ通されたかと思えば、彼の母親が高級な着物をまとった女性の手を引いて現れた。
そして、満面の笑みで参列者全員に向かって告げた。
「紹介するわね。こちらは柊柚葉(ひいらぎ ゆずは)さん。蒼真の婚約者です。結婚式は秋に決まりました」
私は蒼真を見た。
彼はうつむいたまま、一言も否定しなかった。
宴席の間中、蒼真と柚葉は親族たちからの祝福を一身に浴びていた。
一方で私は、使用人に勝手口から通され、広間の隅のテーブルに追いやられた。そこには私の分の箸や取り皿すら用意されていなかった。
宴もたけなわの頃、蒼真からLINEが届いた。
【待っててくれ。俺がちゃんとするから】
私は一言だけ返信した。
【おめでとう】
第1話
初夏の親族の集まりで、堂島蒼真(どうじま そうま)は私を正式に家族に紹介すると言った。
堂島家の立派な本邸の前に車が止まると、蒼真はシートベルトを外した。
「5分待っててくれ。先に中に入って、母さんに話をつけてくるから」
5分が過ぎ、蒼真から「もうすぐだ」とLINEが来た。
10分後、「すぐに行く」とメッセージが届いた。
40分後、「もう少し待ってくれ」と言われた。
私はもう何も返信しなかった。
車の窓越しに、蒼真の母親が自ら玄関先まで出向き、着物姿の女性を出迎えるのが見えた。
その女性は車を降りるなり蒼真の隣に歩み寄り、親しげに腕を絡ませた。
蒼真は彼女を突き放すことはなかった。
3人は談笑しながら中へと消えていき、重厚な門が私の目の前でピシャリと閉ざされた。
スマホの画面はまだ明るく、トーク履歴は「もう少し待ってくれ」で止まったままだ。
さらに20分が経過した頃、使用人が車の窓をノックした。
「弓月綺織(ゆづき きおり)様ですね?奥様が、キッチンが立て込んでいるから先に入って手伝うようにと仰っております」
「堂島の奥様が、どうして私のことを?」
「若旦那様がそうおっしゃったのです。来たら手伝いしなさい、と」
私は使用人の後に続き、勝手口からキッチンへと足を踏み入れた。
使用人は私に小皿の束を押し付け、広間の隅にあるテーブルを指差した。
「あのテーブルは食器が一組足りていません。並べ終えたら、料理の配膳をお願いします」
私は皿を手に宴会場へと向かい、途中で鏡の前を通り過ぎた。
薄暗い廊下に一張羅のワンピースを着て立っている自分の姿は、あまりにも場違いで惨めだった。
宴会場からは絶え間なくどっと笑い声が湧き上がっている。
私は指定された隅のテーブルに皿を置き、顔を上げた。
蒼真の母親は主賓席の横に立ち、柊柚葉(ひいらぎ ゆずは)の手をしっかりと握っていた。
「今日は本当におめでたい日です。皆様にも喜ばしいご報告があります。柚葉さんと蒼真の結婚式は、秋に執り行うこととなりました」
会場全体が割れんばかりの拍手に包まれ、親族の誰かが「キスしろ」と囃し立てた。
柚葉は背伸びをして、蒼真の頬にキスをした。
蒼真は口元に笑みを浮かべたままで、それを避けようともしなかった。
私は部屋の隅に立ち尽くしていたが、蒼真は最後までこちらに視線を向けることはなかった。
私は手にしていた箸を置き、勝手口から外へと出た。
庭に出ると、蒼真の母親が後を追うように出てきた。
彼女は階段の上に立ち、私を頭の先からつま先まで値踏みするように見下ろした。
「あなたが弓月綺織さんね?蒼真から話は聞いているわ。聞き分けの良いお嬢さんで、決して騒ぎ立てたりしないって」
彼女は薄く笑い、近づいてきて私の手の甲をポンと軽く叩いた。
「今日のことはあなたも見たでしょう。柚葉さんが堂島家の嫁よ。蒼真は優しすぎてあなたに言い出せなかったみたいだから、私が代わりに言ってあげるわ。もうお帰りなさい。そして、二度とここへは来ないでちょうだい」
そう言い残すと、彼女は冷たく背を向け、家の中へと戻っていった。
私が門の外へ出た瞬間、スマホの画面が光った。
【待っててくれ。俺がちゃんとするから】
私は一言だけ返信した。
【おめでとう】
そして、配車アプリでタクシーを呼び、その場を離れた。
車が路地を曲がろうとした時、バックミラー越しに堂島家の二階の窓を見上げた。
柚葉が窓辺に立ち、ワイングラスを手にして、私の方に向けて軽く掲げているのが見えた。
その直後、見知らぬ番号から一枚の写真が送られてきた。
それは蒼真と柚葉の親密なツーショット写真だった。
柚葉は蒼真の肩に寄りかかり、蒼真はカメラに向かって幸せそうに笑っている。
写真の下には一行のメッセージが添えられていた。
【彼は、あなたはただの部下だと言っていたわよ】
私はその写真を長い間見つめた後、スマホを裏返して膝の上に置いた。
ふと、臨終の際に私の手を固く握りしめた母の言葉を思い出した。
「綺織、あなたを待たせるような男は選んではだめよ。
お父さんは私を10年間も待たせておいて、最後はあの女と一緒に出て行ったわ。あなたには、私のようにただ待つだけの人生を送ってほしくないの」
私はその時、母の手を握り返してしっかりと頷いたはずだった。
なのに今、私はタクシーの後部座席に揺られながら、自分がどこへ向かえばいいのかさえ分からずにいた。
アパートに戻ってクローゼットを開けると、蒼真が初めてプレゼントしてくれたワンピースが掛かっていた。
3年間大切に着続けて、どうしても捨てられなかったものだ。
私はワンピースを丁寧に畳んで紙袋に詰め込み、さらに引き出しの奥からパールのイヤリングを取り出した。
それは彼が初めてのボーナスで買ってくれたもので、「これからは毎年の記念日に一つずつプレゼントするよ」と約束してくれた品だった。
しかし、記念日を3回迎えた今も、私が彼から受け取ったプレゼントは、このイヤリングだけだった。
第2話
3日後、蒼真が私を訪ねてきた。彼の手には、老舗の蟹めし弁当が提げられていた。
私が一番好きな店のものだ。
蒼真は袋をローテーブルに置き、私の向かいに座り込んだ。
「母さんが急に決めたことなんだ。あんなふうに皆の前で発表するなんて、俺も本当に知らなかったんだ」
「でも、お母様は私にこう言ったわよ。あなたが言い出せないから、代わりに言ってあげるって。それも急に決めたことなの?」
蒼真は言葉に詰まった。
「母さんが君に会いに行ったのか?」
私は頷き、彼の目をまっすぐに見つめ返した。
「私にふさわしい相手を見つけて結婚しなさいって言われたわ。自分の人生を無駄にするなって。それで、あなたは私にあとどれくらい待てって言うつもり?」
蒼真はしばらく重い沈黙を落とした。
「もう少しだけ時間をくれ」
「どれくらい?3年じゃ足りなかったの?」
蒼真は顔を上げ、すがるような目で私を見た。
「柚葉の家と俺の実家は、ビジネスで深く結びつきすぎているんだ。今すぐに関係を白紙に戻すことはできない。だから、もう少しだけ待ってほしい」
結局、私は何も言い返さなかった。
翌日、蒼真は何事もなかったかのように、「重要な取引先の接待だ」と言って私を会食に同行させた。
仕事である以上、断るわけにはいかない。
私は昨日のことには一切触れず、指定された個室に入った。だがそこには柚葉の姿もあり、当然のように彼の隣に座っていた。
蒼真は他の客に向けて私を紹介した。
「こちらは弊社の弓月綺織です。企画の立案などを担当しております」
食事中、柚葉は甲斐甲斐しく蒼真の皿に料理を取り分け、お酒を注いでいた。
蒼真もごく自然な手つきで、彼女のためにエビの殻をむいてやった。
その一連の動作は、すでに何百回と繰り返してきたかのように滑らかだった。
蒼真はふと私の存在を思い出したかのように、こちらを振り返った。
「綺織、今日の重要なポイントをメモしておいてくれ。後で各部署に共有するように」
私はスマホを取り出し、メモアプリを立ち上げた。
柚葉はわざとらしい小声で蒼真に囁いた。「弓月さんは本当に真面目ね。お食事の席でもお仕事を忘れないなんて」
蒼真は笑って答えた。「彼女はそういう性格なんだよ。何事にも真剣でね」
最初から最後まで、彼が私を自分の恋人だと紹介することは一度もなかった。
会食がお開きになり、柚葉が立ち上がると、蒼真はすかさず彼女のコートを取って羽織らせた。
そして私を振り返って言った。「綺織、先に車を出してきてくれ。俺は柚葉をエントランスまで送るから」
私は車を回し、エントランスの前に停めた。
蒼真と柚葉は階段の上で話し込んでおり、彼女は蒼真の袖を引っ張りながら甘えるように笑い声を上げていた。
通りすがりの客が「堂島社長と奥様は本当に仲がおよろしいですね」と声をかけると、蒼真は満更でもない様子で笑って応えた。
柚葉を見送った後、ようやく蒼真が助手席に乗り込んできたが、私はハンドルを握ったまま車を出そうとはしなかった。
「さっき、どうして私を彼女だって紹介してくれなかったの?」
「今日はそういう場じゃなかったんだ。先方の社長もいたしな」
「だから、私はまたあなたの秘書役を演じさせられたってわけね」
「今回だけだ。その場しのぎの対応だよ」
私は蒼真の方へと顔を向けた。
「蒼真、私はあなたのそばに3年間いたわ。恋人から配膳係になり、配膳係から秘書になった。次は一体何になればいいの?」
蒼真は眉をひそめたまま、押し黙った。
帰りの車内では、互いに一言も口をきかなかった。
彼のマンションの下まで送り届けると、蒼真は車を降りる直前に私の手を握りしめた。
「綺織、分かってくれ。俺の心には君しかいないんだ。彼女とはただ名目上の関係にすぎない」
私は彼の手を振り払い、車を走らせた。
バックミラーに映る蒼真はエントランスの前に立ち尽くしたままで、追いかけてくる気配はなかった。
ふと、付き合い始めた年の冬の記憶が蘇った。あの頃、彼は熱を出しているのに、温かいミルクティーを両手に抱えて学生寮の下で私を待っていてくれた。
あの頃の蒼真は、私を40分も待たせるような真似はしなかった。
勝手口からコソコソと入らせることもしなかった。
食事の席で、ただの同僚のふりをさせるようなことも絶対にあり得なかった。
いつの間から彼は変わってしまったのか、私にはもう思い出せなかった。
その週末、私は一人でショッピングモールに出かけ、4階のレストランで蒼真と柚葉の姿を見かけた。
二人のテーブルにはペア向けの限定コースが並んでおり、柚葉がスプーンでデザートをすくい、蒼真の口元へと運んでいた。
蒼真は自然に口を開けてそれを受け取り、笑顔でペーパーナプキンを取って彼女の口元を優しく拭ってやった。
私は吹き抜けの手すりの陰に立ち尽くし、彼が先週「今度の週末は休日出勤だ」と言っていたことを思い出した。
休日出勤とは、こういう意味だったのだ。
私は彼らのテーブルへは近づかず、背を向けて下りのエスカレーターに乗った。
エスカレーターが一段、また一段と下るにつれて、私の心も地の底まで沈み込んでいくようだった。
彼は決して、人前で誰かに優しくできないわけではなかった。
ただ、その相手が私ではなかったというだけのことだ。
第3話
その夜、私は蒼真との共通の友人たちが集まる飲み会に一人で顔を出した。
私は何気なく尋ねた。「柊柚葉さんのこと、知ってる?」
その瞬間、席が水を打ったように静まり返り、誰も口を開こうとしなかった。
皆の気まずそうな反応を見て、私はようやく悟った。
蒼真に婚約者がいることは、彼らの間では周知の事実だったのだ。
事情をよく分かっていない一人が、空気を読まずに口を開いた。「知ってるよ。蒼真さんの婚約者だろ?」
別の友人が慌ててフォローするように続けた。「ほら、蒼真があんたを彼女だって紹介した時、実家の事情があるのに健気だなって、みんな感動してたんだぜ」
「感動?」
「実家があんたよりずっと家柄のいい婚約者を決めたってのに、それでも蒼真はわざわざ時間を割いてあんたの機嫌を取ってくれてるんだろ。そりゃ男気があるっていうかさ」
私はテーブルの下で両手を強く握りしめ、全身の血の気が引いていくのを感じた。
「婚約者がいるのに、私を彼女として扱っていた。それはただ騙していただけじゃない」
次の瞬間、誰かが鼻で笑う音が聞こえた。
「当の柚葉さん本人があんたの存在を気にしてないってのに、何をそんなにムキになってるんだよ?
綺織、向こうの家同士の方が先に話がついてたんだから、あんたは後から来たようなもんだろ。言葉は悪いけど、あんたの方が愛人みたいな……」
その言葉が出た瞬間、場の空気は完全に凍りついた。
しかし、私の目には、他人の修羅場を面白半分に見物するような彼らの視線がはっきりと映っていた。
「綺織、そんなに思い詰めるなよ」
それ以降の言葉は、もう耳に入ってこなかった。
我に返った時、私はすでに居酒屋の外に出いた。
最終的に、私はその場にいた全員のLINEをブロックして削除した。
翌日は母の命日だったため、私は仕事を休んだ。
母が生前好きだったカラーの花を買って、霊園へと向かった。
到着すると、墓石の前にはすでに花束が供えられていた。
同じカラーの花で、まだ新しく、朝露も乾ききっていなかった。
花束にはメッセージカードが添えられており、私はそれを開いた。
驚いたことに、それは柚葉からのものだった。
【おば様、私は蒼真の婚約者です。
生前、他人の家庭を壊すような人間を最も憎んでいたと伺いました。どうかご安心ください。これからは私が代わりに、綺織さんが真っ当な道を歩むよう導いていきますから】
母は生涯、家庭を壊す愛人の存在を心底憎んでいた。
父が外に女を作った年、母は台所で私を抱きしめたまま一晩中泣き明かした。
翌日、涙を拭った母は私に一言だけ言った。
「綺織、まっとうな人として誇りを持って生きなさい」。
母は死ぬまで父を許すことはなかった。
なのに今、見知らぬ女が母の墓前で、母の遺志を盾にしてその娘を侮辱している。
「お母さん、私は泥棒猫なんかじゃないよ。彼らが私を3年間騙し続けていただけなの」
その日の夜、私はこの一連の出来事を蒼真に話し、問い詰めた。
「どうして彼女が私のお母さんのお墓の場所を知っているの?」
「あの日は俺が立て込んでたから、彼女が気を利かせて代わりにお参りに行ってくれたんだよ」
「彼女に私のお母さんのお墓へ行かせたの?一体どういう立場で?」
蒼真の目には少しのうんざりした色が浮かんだ。
「そこまで深く考えてなかったんだよ」
「蒼真、あなたは彼女を私のお母さんのお墓に行かせたのよ?
彼女はあなたの婚約者だと名乗ったわ。お母さんが草葉の陰でどう思うか、少しも考えなかったの?」
蒼真はわざとらしくため息をつき、手を挙げて眉間を揉んだ。
この仕草は何度も見たことがある。彼が苛立っている時の癖だ。
「綺織、会うたびに彼女のことばかりじゃないか。もう彼女の話は終わりにしないか?」
蒼真の声は低く沈み、この話題に心底辟易しているようだった。
私は彼を見つめ、ふと目の前にいる男が見知らぬ他人のように思えた。
私は両拳を強く握りしめ、かすれた声で口を開いた。
「最後に1ヶ月だけ時間をあげる。私たちの関係を公表するか、さもなければ私が出ていくかよ」
蒼真は私の目が赤く充血しているのに気付いて少し驚いた顔を見せ、そして頷いた。
「わかった」
その後の1ヶ月間、彼はまるで付き合いたての頃に戻ったかのように優しく振る舞った。
わざわざ自分からスマホを差し出し、「ほら、何も怪しいことはないだろう」とアピールしてくるほどだった。
しかしある日、私は退社した後、蒼真と一緒に夕食を取ろうと考えた。
だが、彼の車がビルのエントランスに停まっているのが見えた。
ちょうど助手席から柚葉が降りてくるところだった。
蒼真は手を伸ばして彼女の涙を拭い、優しく彼女を胸に抱き寄せた。
私は通りの反対側に立ち尽くし、彼が彼女の背中に手を回し、軽くポンポンと叩くのをただ見つめていた。
夜、帰宅した彼の手には花束が握られていた。
「今日は会社が早く終わったから、早めに君に会いに来たよ」
私はその花束を受け取らなかった。
「今日の午後、あなたが柚葉を抱きしめているのを見た」
「彼女が落ち込んでいたから、少し慰めただけだ」
「慰めるのに抱きしめる必要があったの?」
「綺織、俺は俺たちの関係をなんとかしようと努力しているんだ」
「3年間も努力して、その結果がこれなの?」
私が言い終わるや否や、彼は突然手に持っていた花束を床に激しく叩きつけた。
「君はそうやって騒ぎ立てなきゃ気が済まないのか?俺だって疲れてるんだよ!毎日あっちこっちに気を遣って、全員の相手をしてる。俺がどれだけ大変か分かってるのか?」
「だから、私だけが黙って待つべきだって言うの?」
「君は今すぐ答えが欲しいのか?」
私は静かに頷いた。
蒼真の目は暗く沈み、怒りで胸が激しく上下していた。
「いいだろう。今言ってやる。君が欲しい物を俺は与えられない」
部屋の中が不自然なほど静まり返った。
その言葉を口にした直後、彼自身が真っ先に呆然とした表情を浮かべた。
「綺織、俺はそういうつもりじゃ……」
その日の夜、私は荷物をまとめてゲストルームに移ったが、彼は止めようとしなかった。
ゲストルームのベッドに横たわりながら、3年前に初めて彼の家に行った日のことを思い出した。
あの頃は、辛抱強く待っていればいつかは私の順番が回ってくるのだと信じて疑わなかった。
今になってやっと分かった。恋を巡り、一生懸命相手を愛しているのに愛されていない方がどれほど惨めなのかを。
そして私は、正に愛されてない側、ただの部外者だ。
第4話
母は亡くなる直前、古い実家の鍵を私に託した。
それは母が私に残してくれた唯一の形見だった。
同時に、私にとっての永遠の逃げ道でもあった。
3年前、私はその鍵を蒼真に渡し、保管を頼んでいた。
私がLINEで鍵を返してほしいと伝えると、随分と時間が経ってから彼から電話がかかってきた。
「その鍵でちょっとしたことをしたんだ。怒らないで聞いてくれ」
「何をしたの?」
「柚葉が実家の立地を気に入って、あそこにアトリエを建てたいと言い出したんだ。だから鍵を渡して、中を見に行かせた」
「どういう権利があって、私のお母さんの家に彼女を立ち入らせたの?」
「ただ中を見ただけだ。もし気に入れば彼女が買い取るって言っている。かなりの高値でな」
私は無言で電話を切り、すぐに柚葉の番号に発信した。
「鍵を返して」
彼女は電話の向こうでふっと嘲るように笑った。
「綺織さん、何をそんなに焦っているの?ただ下見に行っただけよ。蒼真さんも、どうせ空き家にしておくくらいなら私に売った方がいいって言ってたわ」
「あれは私の家よ。彼のじゃない」
「でも、あなたは彼に鍵を預けていたでしょう?法律上はそれを授権って呼ぶのよ。それに、私はあなたのボロ家になんて興味ないわ。ちょうど私と蒼真さんは今ここにいるから、自分で取りに来ればいいじゃない」
彼女は一方的に電話を切った。
私はその夜のうちに最終の長距離バスに飛び乗り、実家へと向かった。
実家の前に着くと、玄関のドアは開け放たれ、中は煌々と明かりがついていた。
中に足を踏み入れると、そこは無惨な有様だった。
壁は叩き壊され、床板は乱暴に剥がされ、家具は庭に山積みにして投げ捨てられていた。
壁に飾ってあった母のお気に入りの絵画は半分破られ、力なく垂れ下がっている。
私が窓辺で大切に育てていた君子蘭の鉢は床に叩きつけられて割れ、土が一面に散乱していた。
それは母が生前一番大切にしていた花で、亡くなる前に「ちゃんと世話をしてね」と私に言い残したものだった。
私はその場にしゃがみ込み、散らばった陶器の破片を一つ一つ拾い集めた。
柚葉は無残に荒らされたリビングの中央に立ち、蒼真がその隣に寄り添うように立っていた。
「どういう権利があって私の家を壊したの?」
柚葉は蒼真の腕にすり寄った。
「綺織さん、この家はあまりにも古すぎるわ。私と蒼真さんで話し合って、少し手を入れてあげようと思ったのよ。
それに、この家は本当にあなたの名義なの?お母様が亡くなって、まだ相続登記も済んでいないんでしょう?」
彼女はしゃがみ込み、床から君子蘭の千切れた葉をつまみ上げると、立ち上がってそれをポイとゴミのように捨てた。
「あなたのお母様が育てていた花は、まるであなたと同じね。見た目がちょっと綺麗なだけで、何の役にも立たないわ」
私は立ち上がった。
心の底から激しい怒りがマグマのように込み上げてきた。
もう理性を抑えきれず、思いきり彼女の頬を平手打ちした。
彼女は顔を押さえてよろめき、蒼真の胸にぶつかると、瞬時にボロボロと涙をこぼした。
蒼真はそれを見るなり、私を力任せに突き飛ばした。
男の強い力だった。
私はバランスを崩し、敷居の外のコンクリートの地面に激しく倒れ込んだ。
手のひらを砂利の山に強くつき、血が滲み出した。
膝もすりむいて血が流れていた。
彼は柚葉をかばうように立ち塞がり、私を見下ろして冷酷な声で吐き捨てた。
「何を狂った真似をしてるんだ?」
柚葉は彼の背後に隠れ、顔を覆って泣きじゃくっている。
「なぜ彼女に手を出した?文句があるなら俺に言えよ」
私は冷たい地面にへたり込んだまま、彼を見上げた。
手のひらと膝から走るジンジンとした痛みに、全身が小刻みに震えた。
しかし、柚葉をかばって私の前に立ちはだかる彼の姿を見ていると、不思議ともう何の痛みも感じなくなっていた。
私はゆっくりと地面から立ち上がった。
彼を一瞥し、背を向けてその場を立ち去った。
私は南部の海沿いの小さな町へ向かう列車の切符を買った。
列車が動き出した時、窓の外の空がようやく白み始めていた。
座席に深く背を預け、目を閉じる。
頭の中には、臨終の際に母が私の手を固く握って言った言葉だけが何度も響いていた。
「あなたを待たせるような男は選んではだめよ」
……
翌日、蒼真が私のアパートを訪ねると、ドアは開け放たれ、清掃業者がハウスクリーニングを行っていた。
彼は呆然とその場に立ち尽くした。
「ここの住人は?」
「ああ、引っ越しましたよ。昨日で退去手続きが終わってます」
彼は玄関に立ち、部屋がすでに空っぽになっていることに気づいた。
部屋の片隅に残されたローテーブルの上には紙袋が置かれており、その中には彼が私にくれた物の大半が詰め込まれていた。
彼がそれに手を伸ばすと、袋に一枚のメモが添えられているのに気づいた。
そこに書かれていたのは、たった一言だった。
【おめでとう】
彼はそのメモを強く握りしめ、手が小刻みに震え始めた。