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ドン・ファルコーネへ、四つの贈り物を
私はファルコーネ家の最高顧問。一族の頭脳として、表の事業をすべて裏から支え続けてきた。 そして今日、そのすべてに自ら幕を下ろす。手塩に...
Chương (1)
第1章
私はファルコーネ家の最高顧問。一族の頭脳として、表の事業をすべて裏から支え続けてきた。
そして今日、そのすべてに自ら幕を下ろす。手塩にかけて育て上げた合法ビジネスの帳簿を引き渡し、この家との最後の糸を断ち切るのだ。
「オーレリアさん、あなたこそがこの一族の未来なんです。こんなふうに去ってしまうなんて――」
悲痛な愛弟子の引き止めが背中に突き刺さる。けれど私は苦く笑い、ただ静かに首を振った。
誰も知らないのだ。私がドンであるヴィットリオ・ファルコーネと、この三年間、ひそかに夫婦であったことなど。
この顔も、この頭脳も、この身のすべてを彼に捧げ尽くせば、いつか必ず彼の心を丸ごと手に入れられる。そう、愚かにも信じていた。
その儚い夢は、三ヶ月前、港での抗争によって無残に打ち砕かれた。
十三発もの銃弾を受けた。一刻を争う致命傷だった。一族の専任外科医を動かすには、ドンであるヴィットリオ直々の命令が必要で、私は薄れゆく意識の中、十数回も彼に電話をかけ続けた。
ようやく繋がったとき――電話の向こうから流れてきたのは、ひどく甘く、柔らかな女の声だった。
「ヴィットリオ、まだケーキ切ってないよ。ねえ、一緒に切って?」
息が、止まった。
聞き覚えのある声。私の親友であり、かつてヴィットリオが恋心を抱いていた女――カリナだった。
大量出血で意識が朦朧とする中、私はセーフハウスで自ら弾丸を抉り出し、部下に命じてファルコーネ家の診療所へと運び込ませた。
しかし、手術室へ運び込まれるその直前、ヴィットリオが血相を変えて駆け込んできたのだ。
その腕に大切に抱かれていたのは、カリナだった。「足首を捻った、すぐ診てくれ」と叫ぶ彼によって、私を救うはずだった外科医は容赦なく連れ去られた。
抗生物質の投与は手遅れとなり、傷口は無残に膿んだ。私は一週間もの間、死の淵をあてもなく漂い続けた。
ようやく目を覚ましたとき、私はスマホの暗い画面をただ見つめていた。
通知は、何ひとつなかった。
とめどなく涙がこぼれ落ちたのは、そのときが初めてだった。
本当は、わかっていたのだ。私はただ、薬を盛られたあの夜の過ちを隠すために結婚しただけの女なのだと。
醜聞を封じ込めるための、かりそめの結婚。彼にとっての私の価値は、使い勝手のいい「頭脳」と、汚れのない「体裁」でしかなかったのだ。
それでも私は――誇り高きロッシ家の隠し姫として生まれながら、その確固たる地位のすべてを手放して、彼のために帝国を築き上げたというのに。
すべては、無駄だった。
だから私は、四つの餞別を用意した。
彼ら二人が、共に地獄で朽ち果てるための、私からの最後の贈り物として。
これを置いて、私は去る。そして二度と、彼らの前にこの姿を見せることはない。
第1話
私はファルコーネ家の最高顧問。一族の頭脳として、表の事業をすべて裏から支え続けてきた。
そして今日、そのすべてに自ら幕を下ろす。手塩にかけて育て上げた合法ビジネスの帳簿を引き渡し、この家との最後の糸を断ち切るのだ。
「オーレリアさん、あなたこそがこの一族の未来なんです。こんなふうに去ってしまうなんて――」
悲痛な愛弟子の引き止めが背中に突き刺さる。けれど私は苦く笑い、ただ静かに首を振った。
誰も知らないのだ。私がドンであるヴィットリオ・ファルコーネと、この三年間、ひそかに夫婦であったことなど。
この顔も、この頭脳も、この身のすべてを彼に捧げ尽くせば、いつか必ず彼の心を丸ごと手に入れられる。そう、愚かにも信じていた。
その儚い夢は、三ヶ月前、港での抗争によって無残に打ち砕かれた。
十三発もの銃弾を受けた。一刻を争う致命傷だった。一族の専任外科医を動かすには、ドンであるヴィットリオ直々の命令が必要で、私は薄れゆく意識の中、十数回も彼に電話をかけ続けた。
ようやく繋がったとき――電話の向こうから流れてきたのは、ひどく甘く、柔らかな女の声だった。
「ヴィットリオ、まだケーキ切ってないよ。ねえ、一緒に切って?」
息が、止まった。
聞き覚えのある声。私の親友であり、かつてヴィットリオが恋心を抱いていた女――カリナだった。
大量出血で意識が朦朧とする中、私はセーフハウスで自ら弾丸を抉り出し、部下に命じてファルコーネ家の診療所へと運び込ませた。
しかし、手術室へ運び込まれるその直前、ヴィットリオが血相を変えて駆け込んできたのだ。
その腕に大切に抱かれていたのは、カリナだった。「足首を捻った、すぐ診てくれ」と叫ぶ彼によって、私を救うはずだった外科医は容赦なく連れ去られた。
抗生物質の投与は手遅れとなり、傷口は無残に膿んだ。私は一週間もの間、死の淵をあてもなく漂い続けた。
ようやく目を覚ましたとき、私はスマホの暗い画面をただ見つめていた。
通知は、何ひとつなかった。
とめどなく涙がこぼれ落ちたのは、そのときが初めてだった。
本当は、わかっていたのだ。私はただ、薬を盛られたあの夜の過ちを隠すために結婚しただけの女なのだと。
醜聞を封じ込めるための、かりそめの結婚。彼にとっての私の価値は、使い勝手のいい「頭脳」と、汚れのない「体裁」でしかなかったのだ。
それでも私は――誇り高きロッシ家の隠し姫として生まれながら、その確固たる地位のすべてを手放して、彼のために帝国を築き上げたというのに。
すべては、無駄だった。
だから私は、四つの餞別を用意した。
彼ら二人が、共に地獄で朽ち果てるための、私からの最後の贈り物として。
これを置いて、私は去る。そして二度と、彼らの前にこの姿を見せることはない。
……
周囲には秘密にしている夫、ヴィットリオが、私の親友・カリナと関係を持っていると知ったとき、彼のもとを去る決意は固まった。
書斎の扉を押し開ける。手には、離婚届。
ヴィットリオは革張りの椅子に深く腰掛け、パパラチアサファイアを丁寧に手入れしていた。
柔らかな光が宿ったその瞳を、私に向けられたことなど一度もなかった。
息が、詰まった。
ヴィットリオは、ロマンチックさの欠片もない男だった。二年前、あるオークションの席で、妻へのプレゼントにとダイヤのネックレスを競り落とした実業家を、彼は鼻で笑った。
「宝石は資産だ。通貨と何も変わらない。女への贈り物なんて、金の無駄遣いだ」
そう言い放った彼が今、あの石をまるで世界で一番尊いもののように、ただひたすら丁寧に磨いている。
胸を突き刺したのは、ある記憶だった。カリナが最近インスタグラムに投稿した言葉――【パパラチアサファイアをくれた人と結婚する。迷わず結婚するわ】
腹の底に鈍い痛みが広がった。
三年間。彼は私に、何ひとつ贈ってくれたことはなかった。結婚指輪でさえ、私が自分で買ったものだ。誰にも知られないように、こっそりと。
私の気配に気づいたヴィットリオは立ち上がり、宝石をベルベットの布の上にそっと置いた。
「三ヶ月前のことだが」
彼はようやくこちらを向き、口を開いた。その声は、腹立たしいほど平然としていた。
「あのとき、お前がどれだけひどい状態か、俺はわかっていなかった。カリナは……繊細だから。泣いていて、どうしたらいいかわからなくて」
指先が震えた。
「それに、お前はいつだって自分でどうにかするだろう」彼は軽く肩をすくめた。「タフな女だ。スラム育ちなら、流血沙汰の一つや二つ、慣れたものじゃないか」
スラム育ち。
口の中に、じわりと苦さが広がった。
もし彼が知ったら、どうなるだろう。私がシカゴ最古のマフィア――ロッシ家の隠し姫であると。その揺るぎない地位も、安全も、名誉すらも、全て彼のために捨ててきたのだと。それでも彼は、こんなふうに私を蔑むだろうか。
でも、彼は永遠に知らない。
私の過去にも、感情にも、彼が興味を持ったことなど一度もなかった。私が語った身の上話を信じたのは、裏を取る価値もないと思っていたからに過ぎない。
「これを見てくれ」ヴィットリオは、一枚のスケッチを私の前に押し出した。自慢げな響きが混じっていた。「宝石職人と一緒に考えたデザインだ。傑作だろう」
目を落とした瞬間、世界が凍りついた。
【最愛のカリナへ】
流れるように優美な筆記体で、彼女の名前が記されていた。一文字一文字が、救いようのない私の愚かさを嘲笑っているかのようだった。
これが、愛というものか。
これほどまでに細やかで、期待に満ちていて、デザインのひとつまで自ら確認するほどに。
では、私はなんだったのか?
三年間、彼は私の誕生日すら覚えてはいなかったのに。
頭の奥を、鋭い痛みが突き抜けた。銃で撃たれた傷の疼きだ。
よろめいた拍子に、デスクの角に脇腹を打ちつけた。かろうじて塞がっていた傷口が、嫌な感触とともに再び開いた。灼けるような激痛に、顔に脂汗が滲むのがわかった。
「くそっ!」
ヴィットリオが一歩踏み出し、その瞳に一瞬だけ、明らかな狼狽の色が浮かんだ。
しかし彼の視線はすぐに、デスクから滑り落ちようとしているデザイン画へと移った。彼は床に触れる寸前で、それを空中で掴み取る。
息を詰めて確認し、長く、深い安堵の息を吐いた。「よかった、無事だ……」
スケッチをデスクに丁寧に置き直してから、ようやく彼は私に向き直った。不快げに眉をひそめた、先ほどの動揺を苛立ちで強引に塗り潰しながら。
「もう少し気をつけられないのか。コーヒーをこぼしただろう」
私はただ、彼を見つめていた。ゆっくりと確実に心が死んでいくのを感じながら。
血が滲み、足元のラグを赤く染めていた。それでも彼が心配したのは、たった一枚の紙切れだった。
これが、私の全てを捧げた男だった。
「サインして」
私はフォルダから書類の束を取り出し、彼の前に置いた。一番上にあるのは、港の緊急輸送承認書だ。
ヴィットリオは訝しげに眉をひそめ、ようやく何かを感じ取ったように私を見た。
「あの銃創は相当ひどかった。少し休んでもいい。ファミリーの仕事は、今はそんなに気にしなくていい」
気遣うような言葉だったが、そこに温もりは欠片もなかった。負傷した部下にかける、ただの事務的な労い。
彼が書類に目を落とそうとした瞬間、スマホが鳴った。
画面に浮かび上がった名前――【愛しい人】。
胸の奥で、何かが無残に抉り取られた。
私は、彼がスマホに私の名前をどう登録しているか知っている。
【相談役】
ひどく冷たく、無機質な、ただの肩書き。
「ヴィットリオ?」カリナの甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。「いつ来てくれるの? ネックレス、早く着けてみたくて……」
「すぐ行く」ヴィットリオの声は、蜜のように甘く柔らかかった。「待っていてくれ」
電話を耳に当てたまま、彼は無造作に書類をめくっていく。見慣れた私の筆跡、いつも通りの書式。彼はいちいち内容を確認することもなく、ページの下へと流れるようにサインを走らせていく。
その書類の束の真ん中に、ひっそりと離婚届を挟んでおいたことも知らずに。
「今夜は帰らない」最後のサインを書き終え、彼は扉へと歩き出した。
出口で立ち止まり、まだそこに立ち尽くしている私を振り返る。ひどく面倒そうな口調で、彼は言った。「他に何かあるか?」
「いいえ」自分の声が遠くから響いてくるように感じた。「これで……もう、何も……」
ヴィットリオは怪訝そうに片眉を上げ、やがて部屋を出ていった。「わかった。ここにいる間に、機密台帳の整理をしておいてくれ。あれを任せられるのはお前だけだ」
扉が、静かに閉まった。
がらんとした部屋に一人残され、私は自分の心が粉々に割れていく音をただ聞いていた。
「特別」だと感じられるのは、こんな瞬間だけだった。彼の秘密を預かるとき。
なんて惨めな「特別」なのだろう。
金庫の前に立ち、暗証番号を入力する。指が震えたが、強い意志でそれを押さえつけた。
中には、結婚後にこっそり撮った二人の写真が入っているはずだった。彼が泥酔した夜、勇気を振り絞って頼み込んで撮ったもの。これをここに置いておけば、彼の心の中に、ほんの小さな居場所を持てるような気がしていた。いつか、きっと愛してもらえると信じて。
でも、その写真は消えていた。
代わりに置かれていたのは、カリナの一人の写真だった。純白のドレスをまとい、天使のように微笑む彼女。まるで、彼の人生をずっと照らし続けてきた絶対的な光のように。
私たちの写真は、暗い隅へと押し込められていた。端は無残に折れ曲がっている。
三年間の結婚生活が、ゴミのように隅に捨てられていた。
私は写真を二つに引き裂き、さらに粉々に破り捨てた。
ひらひらと足元へ舞い落ちていく紙片は、粉々になった私の心そのものだった。
自室に戻り、暗号化された回線に電話をかける。
「ロッシ家のお姫様が、自ら電話してくるとはな」電話の向こうから聞こえるオリオンの声は低く、危険な響きを帯びていたが、その奥には確かな心配の色が滲んでいた。「何があった?」
鏡の中の自分を見つめる。白いシャツには、暗い花が咲いたように血が滲んでいた。顔は、幽霊のように青白い。
「昔、私と結婚したいと言ってくれたわね、オリオン」私は静かに言った。「三十日後に、離婚が成立する。あの話、まだ有効なら――受けてあげる」
第2話
重い沈黙が流れた。
オリオンのオフィスから、くぐもった声と椅子を引く音が聞こえてきた。どうやら会議の最中だったらしい。
「今日はここまでだ」オリオンの声が空気を切り裂いた。低く、有無を言わせない絶対的な響き。「全員、出ていけ」
慌ただしい足音が遠ざかり、重厚な扉が閉まる音がした。
「三年だぞ、オーレリア」オリオンの声が、氷のように冷たく響いた。「君があの男を守るためにモレッティ家を敵に回してから、三年。今頃になって電話してきたのか。世界が終わるような時にしか、俺の名前を思い出さないのか?」
目を閉じると、鮮やかな記憶が押し寄せてきた。
幼い頃からずっと一緒だった。オリオンはいつも私の後ろをついて回る忠実な騎士で、ハーバードのビジネススクールへの入学を蹴ってまで、私と同じ大学に進学してくれた。
けれど私はあのころ、家から逃げ出したくてたまらなかった。血の宿命から逃げたかった。そしてヴィットリオに出会い、どうしようもなく心を奪われてしまったのだ。
卒業の夜、オリオンは私に告白した。
「オーレリア、結婚してくれ。ずっと、それだけを望んでいた。俺は――」
でも私は、その言葉を遮った。残酷なほど、はっきりと。
「結婚はしないわ、オリオン。絶対に」
あの夜、彼はひどく泥酔したと聞いた。夜明けまでシカゴの街を、ただ歩き続けていたと。
「……そうよ」私は静かに認めた。「困ったことになったの」
「ほう」オリオンは鼻で笑った。「ロッシ家のお姫様が、ようやく間違いを認めたか」
「野良犬に賭けたくせに、王者だと勘違いしていたの」抑揚のない声で私は言った。「私の間違いだった」
しばらくの、沈黙。彼の動揺が、電話越しにも伝ってくるような気がした。そしてその奥にある、癒えない傷のようなものも。
「でも」私は続けた。泥のような疲れが押し寄せてくる。「もし気が向かないなら、忘れて。さっきの結婚の提案は、ただの狂った思いつきだから」
そのまま電話を切ろうとした。
「切るな」オリオンの声が、鋭い刃のように飛んできた。一切の反論を許さない命令口調。「セキュリティ回線をすべて復旧させろ。今すぐだ」
私の動きが止まった。
「位置情報を送れ。一ヶ月後、俺が直接迎えに行く」声のトーンが少しだけ柔らかくなったが、有無を言わせない強引さは変わらなかった。「オーレリア。今度は、絶対に逃がさない」
電話が切れた。
ベッドの端に腰を下ろすと、手からスマホが滑り落ちた。化粧台の引き出しを開ける。そこには、こっそり撮り溜めたヴィットリオの写真と、彼への狂おしいほどの想いを綴り続けた日記がしまってあった。三年分の片想い。三年分の、決して叶うことのない夢。
私はそれを全部抱えて、夜の庭に出た。
炎が写真を舐め、甘く愚かな言葉たちを灰に変えていく。揺らめくオレンジ色の光は、かつての私へのささやかな葬送だった。
「何を燃やしてるんだ」
不意に、ヴィットリオの声が背後から聞こえた。
私は振り返らなかった。「ただの、古い手紙よ」
「わざわざ燃やす必要があるのか?」近づいてくる気配がする。彼が炎を覗き込もうとしているのがわかった。
そのとき、女の甲高い泣き声が夜の冷たい空気を切り裂いた。
「ヴィットリオ!」カリナが涙で潤んだ瞳のまま、こちらへ駆けてきた。「ごめんなさい、わざとじゃないの!」
ヴィットリオは一瞬にして私の存在を忘れ、カリナへと駆け寄った。「どうした?」
「あの絵に……ぶつかってしまって」カリナは激しくしゃくりあげながら、階段の方を指さした。「赤ワインが飛んで……絵のオーレリアの顔に掛かってしまったの。本当に、わざとじゃなかったのよ」
胸が、きつく締め付けられた。
あの肖像画は、私が自分で描いたものだった。三ヶ月もの時間をかけて。ヴィットリオが結婚写真を撮ることを頑なに拒んだから、せめて二人の記憶を形に残しておきたくて。この冷たい家の中で、私たちの結婚が確かに存在したと証明できる、ただひとつのものだった。
「あの絵、ちょっと邪魔なところにあって……」カリナはまだ泣きじゃくっていた。「よろけてしまって。足首、捻っちゃったみたい」
言い訳をしたかった。あの絵はずっとあそこにあった。この三年間、誰の邪魔にもならなかった、と。
でも、ヴィットリオはすでにカリナを大切そうに抱き上げていた。
「大丈夫だ。絵なんてどうでもいい」囁くように甘い声で、彼女を抱き寄せる。「足を見せてくれ。すぐに医者を呼ぼう」
そして、そばに立っていた部下に振り返ると、氷のように冷たい声で命じた。
「燃やせ。邪魔だ」
第3話
ごうごうと燃え盛る炎が、絵を飲み込んだ。
三ヶ月の結晶が、三年間の確かな証が、黒い灰へと変わっていく。
私はただそこに立ち尽くし、炎が画布を舐め回し、寄り添い合う二人の姿を無残に消し去っていくのを見ていた。胸の奥に鈍い痛みがあったが、不思議と涙は出なかった。
わかっていた。これが、ヴィットリオの選択なのだと。いつだって、彼はそうだった。
「オーレリア」カリナを抱えたまま、ヴィットリオが私の横を通り過ぎざまに言った。「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ」自分でも驚くほど、穏やかで静かな声が出た。「カリナの足首の方が大事でしょう」
彼は立ち止まり、私をじっと見た。私がこんなにも静かに受け入れるとは、明らかに予想していなかったのだろう。
「カリナは、ちょうどヨーロッパから戻ったばかりでしょう。しばらくここにいた方がいいわ」私は二人に向き直り、淡々と言った。「あなたの部屋の隣のゲストルームに移ってもらうわ。私は下の階へ移るから」
ヴィットリオの腕の中で、カリナが顔を上げた。その瞳の奥に一瞬、明らかな勝利の色がよぎったのを見逃さなかった。それはすぐに、しおらしい感謝の表情へと変わったが。
「オーレリア、優しいのね……すぐに別の部屋を見つけるから、長居はしないわ」
ヴィットリオは複雑な表情で私を見た。「本当にいいのか?」
「ええ」
踵を返し、背後からカリナの囁き声が聞こえてくる。「ヴィットリオ、オーレリア、怒ってるんじゃないかしら……」
「あいつもわかってくれるさ」ヴィットリオの声は、どこかひどく疲れているようだった。
一時間後、一階の小さな部屋で荷物をまとめていると、扉が開いた。ヴィットリオが立っていた。その顔は、苛立ちで険しかった。
「芝居はやめろ、オーレリア」彼はついに口を開いた。「嫉妬しているなら、正直にそう言えばいい。悲劇のヒロインぶるのはよせ」
私は洋服を畳み続けた。決して手は止めない。
「ひとりで寝るのが寂しいのは知ってる」声が少しだけ柔らかくなった。罪悪感の滲んだ、甘い響き。「こんなことしなくていい。俺たちはまだ夫婦なんだ、オーレリア。ここはお前の部屋だ」
手が、一瞬だけ止まった。
そうだ。三年間、ヴィットリオは妻としての最低限の敬意を払ってくれていた。泥酔して帰ってきた夜は私の隣に滑り込み、愛情を錯覚させるような甘いキスで私を目覚めさせた。そんな仮初めの瞬間には、私たちはこのままずっと一緒にいられるのだと信じ込めた。
でもカリナが現れた瞬間、私はいつだって二番目に成り下がる。
「絵のことは悪かった」ヴィットリオはそう言って歩み寄り、私を抱きしめようと腕を伸ばした。「急いでいて、お前の気持ちまで気が回らなかったんだ」 私は身をかわし、彼の腕を避けた。
「嫉妬じゃないわ、ヴィットリオ」静かに言った。「ただ、少し休みたいだけ。銃で撃たれた後だし、そろそろ仕事を少し手放す時期かもしれないから」
ヴィットリオの顔から、すっと熱が引いた。
「好きにしろ」踵を返しかけ、ふと何かを思い出したように振り返った。「ところで、今日俺がサインしたあの書類、何だったんだ?」
私の唇の端が、ほんのかすかに持ち上がった。
「小さな贈り物よ。三周年の記念の」
ヴィットリオの表情がふっと和らいだ。彼は戻ってきて、私の頬をそっと撫でた。
「オーレリア」静かな声で囁く。「あいつがいるのは辛いよな。でも、お前は俺の妻だ。良き妻だ。決して蔑ろにはしない」
ひどく優しい言葉だった。でも、その奥に潜む本当の意味は痛いほど聞こえていた。
カリナは一時的なものだ。彼女への義理を果たしたら、必ずお前にも埋め合わせをする、と。
もう、そんな埋め合わせなど少しも欲しくはなかった。
「わかった」私は短く頷いた。
ヴィットリオはほっとしたように息をつき、私の額に口づけを落としてから部屋を出ていった。
真夜中、私は突然ベッドから乱暴に引きずり出された。
見上げたヴィットリオの顔は、荒れ狂う嵐のようだった。殺意すら滲むほどの激しい怒りで、全身が限界まで張り詰めている。
「上に来い。今すぐだ」
腕を掴まれ、引きずられるように階段を上らされた。寝室の扉が勢いよく開け放たれる。
ベッドの上で、カリナが異常に紅潮した顔でシーツを握りしめていた。息は荒く乱れ、汗に濡れた髪が頬にべったりと張り付いている。体が小刻みに震え、焦点の定まらない虚ろな目で私たちを見た。
私たちの姿に気づいた瞬間、彼女は怯えた子鹿のように身を丸めた。
「ヴィットリオ……体が、おかしくて……熱くて……」かすれた声が、切れ切れに紡がれる。その喘ぐような声の中に、制御できない熱のようなものが濃密に滲んでいた。
ヴィットリオが私を睨みつけた。その目は憎悪で燃えていた。「何を飲ませた」
「何も」私は平静に答えた。「ロマネ・コンティを開けたいと言ったのはカリナよ。私も同じものを飲んだわ。どうして私には何ともないのかしらね」
「お前の常套手段だろう」ヴィットリオは私の肩を乱暴に掴み、怒鳴りつけた。「汚い手を使って俺のベッドに潜り込んだのも、お前だ!」
その言葉は、鋭利なナイフのように私の心臓を深く突き刺した。
三年前のあの夜を思い出す。ヴィットリオが私設カジノで狙われているという情報を掴んだ。部下にも、本人にも全く連絡が取れなかった。焦燥の中で駆けつけると、彼はすでに媚薬を盛られた状態だった。
理性を失い、追い詰められた彼を前に、私は自ら身を差し出したのだ。乱暴に抱かれたとき、涙が止まらなかった。ずっと願っていた夢が叶ったのか、それともこの先の未来が恐ろしかったのか、自分でもわからないままに。
翌朝、目を覚ました彼の瞳に浮かんでいたのは、紛れもない憎悪だった。
今と同じだ。彼はずっとそう思っている。あの夜、罠を仕組んだのは私なのだと。自分は卑劣な罠にかけられた被害者なのだと。
「ヴィットリオ、彼女を責めないで……」
カリナが弱々しい声で庇うように言った。しかしその体は熱に浮かされたように激しく震え、艶めかしい吐息が漏れた。突然、彼女はナイトスタンドのライターに手を伸ばし、震える指でカチリと火を点けた。
「こんな感覚、もう耐えられない……」嗚咽に塗れながら、揺れる小さな炎を自分の白い肌へと近づけた。「あなたに迷惑はかけたくない……あなたの名誉を、傷つけたくないの……」
肉の焦げる嫌な匂いが広がった。カリナが鋭い悲鳴を上げた。しかしその瞳の奥には、歪んだ安堵の色が確かに浮かんでいた。
「カリナ!」ヴィットリオが弾かれたようにライターを奪い取り、彼女の華奢な腕に残った痛々しい赤い痕を見つめた。その顔に、悲壮な決意が宿る。
「俺がいる」
第4話
「オーレリアが仕組んだことだ」ヴィットリオは、凍りつくような低い声で言った。「夫として、俺がケジメをつける」
その言葉が、落雷のように私を打ちのめした。
彼は本当に、カリナを「助ける」つもりなのだろうか。
愛した男が、夫と呼んだ男が、私に向かってここまで屈辱的な言葉を口にするとは。
「つまり……私がカリナに薬を盛ったのは、あなたが他の女と抱き合う姿を見せつけられたいからだと、本気でそう思っているの?」声が震えた。
「黙れ!」ヴィットリオが怒鳴った。「口を慎め!」
ベッドの上で、カリナが震える手をヴィットリオの胸に這わせた。その瞬間、彼の体がびくっと強張る。
「ヴィットリオ……やめて……あなたを巻き込むわけにはいかないわ」カリナの声は弱々しく、それでいてひどく甘ったるかった。「行って……私、一人でどうにかするから……」
熱を持った指先が、彼の胸をゆっくりと這う。ヴィットリオの呼吸が荒く乱れていくのがわかった。
「いや、置いてはいかない」ヴィットリオはその手を固く握りしめ、憐れみに満ちた瞳で彼女を見つめた。「こうなったのはあいつのせいだ。自分が蒔いた種の代償は、あいつ自身に味わわせる」
カリナは首を振って拒むふりをしながらも、その体は抗えない熱に浮かされたように彼へとすり寄っていく。
「オーレリア……ごめんなさい……ヴィットリオを奪うつもりじゃなかったの……でも、苦しくて……」
涙ながらに謝罪の言葉を紡ぎながら、カリナはヴィットリオの手を引き、自分の熱い肌へと導いた。
その瞬間、私の中で何かが完全に音を立てて切れた。
「もういい加減にして、カリナ・ロマーノ!」私は叫んだ。声がかすれる。「三文芝居はやめなさい!私の家庭を壊し、夫を誘惑し、今度はこんな茶番まで演じて彼をベッドに引きずり込もうとするなんて。どこまで恥知らずなの!」
言葉が口を突いて出た瞬間、ヴィットリオの理性が吹き飛んだ。
乾いた、平手打ちの音が響いた。
左の頬が火がついたように熱くなり、口の中に生温かい鉄の味が広がる。
「カリナに向かって何てことを言うんだ!」ヴィットリオは私の両肩を乱暴に掴み、激しく揺さぶった。
「あいつはお前の悪口ひとつ言わない、心優しい女だ!それなのにお前は、最初から敵意剥き出しで!今日の大人しい態度も、全部芝居だったというのか!」
私を見下ろすその目には、深い失望と嫌悪が入り混じっていた。
「ヴィットリオ、オーレリアを責めないで……」ベッドの上でカリナが泣き崩れた。「私が悪いの……ここへ帰ってくるべきじゃなかった……」
ヴィットリオは振り返り、愛おしむように彼女の頬を撫でた。「お前は何も悪くない」
そしてナイトスタンドの引き出しから冷たい手錠を取り出すと、氷のような目で私を射抜いた。
「人の体に薬を盛るのがそんなに好きか」彼は低く吐き捨てた。「なら、俺がカリナの『熱』をどうやって冷ますのか、そこでじっくり聞いていろ」
私は引きずられるように階段を下ろされた。地下のワインセラーの冷たい鉄格子に手首を繋がれた。無機質な金属が皮膚に食い込む。鋭い痛みが、この悪夢のような現実を無理やり突きつけてくるようだった。
「ヴィットリオ、本気でこんなことが許されると思っているの!」必死でもがいたが、手錠はただ無慈悲に手首を締め付けるだけだった。
「聞け」彼の声は、抑えきれない怒りで小刻みに震えていた。「自分で蒔いた種だ、オーレリア。お前の『傑作』の結末を、その耳にしっかりと刻み込んでおけ」
彼は一度も振り返ることなく、階段を上がっていった。重い扉が閉まる。
目を閉じた。涙が頬を伝って落ちた。
やがて上の階から、くぐもった声が降りてきた。遮ろうとしても、繋がれた手では耳を塞ぐことすらできない。
「ヴィットリオ……やさしくして……っ」
「わかってる。もう少しだけだ」
ヘッドボードが軋む音。それに混じって、カリナの嬌声が高く響き、熱を帯びていく。
「そこ……っ、あっ、ヴィットリオ……」
一音一音が、鋭利な刃となって私の心をずたずたに切り裂いた。
冷たい石の床に膝を抱えて丸くなる。頭がぐらりと揺れた。古い銃創がひどく疼き、下腹部の奥に鋭い痙攣が走る。それでも一番痛かったのは、胸の奥だった。私の心臓がそこで、原型を留めないほどに引き裂かれていた。
一晩中、二階からの物音が止むことはなかった。ヴィットリオの荒い息遣いに、カリーナの喘ぐような鳴き声。そして、絶頂に達した二人の叫び。
私は冷たい汗で服を濡らし、床の上で震えていた。
夜明けが近づいた頃、下腹部の奥から耐え難い鈍痛と痙攣が襲ってきた。そして気づく。太ももを、じわりと温かい液体が伝い落ちていた。
かすかな嗚咽が漏れたが、それは上から響く嬌声に無残にもかき消された。
夜が完全に明けると、邸宅は水を打ったように静かになった。
涙は、とっくに枯れ果てていた。私は血だまりの中に丸くなったまま、手負いの獣のようにただそこに横たわっていた。
階段を下りてくる足音。
ヴィットリオがセラーの扉を開けた。私に向かって何か皮肉めいた言葉を投げかけようとして――血まみれの私を見た瞬間、その顔が完全に凍りついた。
「オーレリア!」かつて聞いたことのない、酷く狼狽えた声だった。駆け寄り、震える手で手錠を外そうと焦りながら手間取った。「こんなに……血が……」
私は重い頭をわずかに持ち上げ、最後の力を振り絞って彼を睨みつけた。
「触らないで……」
そのまま、意識が深い闇へと落ちた。失血で視界がぼやけていく中、彼が私を抱き上げるのを感じた。濡れて冷え切った私の服に、彼の手が触れる。
「病院に連れていく!」
そのとき、寝室からカリナの声がゆったりと降りてきた。満足しきった、気だるげで甘い声。
「ヴィットリオ……激しすぎて、もう立てないわ……」
少しの間を置いて、わざとらしく心配を装った声が続く。
「それに、ファルコーネ家の息のかかった病院に連れていったら、みんなに知れ渡ってしまうわよ。一族の名誉に関わるんじゃないかしら」
私を抱き上げたヴィットリオの腕が、ピタリと止まった。
激しい葛藤の気配が伝ってくる。蒼白になった私の顔を見下ろす彼の目には、確かな苦しみと罪悪感が浮かんでいた。
しかし彼は、扉のそばに立つ部下に向かって、低く命じた。
「モグリの医者を呼べ。裏の診療所に運ぶ。急げ」
結局、彼はカリナとの忌まわしい秘密を守ることを、私の命よりも優先したのだ。
出血はやがて止まったが、私の体はもう限界だった。意識が、完全に暗闇の中へ沈んでいった。
数時間後。目が覚めると、見覚えのない薄汚れた診療所の天井が見えた。
向かいに座った中年の女医は、ひどく硬い表情をしていた。
「妊娠されていました」彼女は淡々と言った。「三ヶ月ほどです。出血と外傷が重なり……残念ながら、流産となっていました」
涙が、音もなく頬を伝った。体に痛みがあるかどうかなど、もはや何も感じなかった。
「早急に処置が必要です。このままにしておくと、将来的に妊娠が難しくなる可能性があります」
目を閉じた。「……お願いします」
早く、すべてを終わらせてしまいたかった。この子を無事に産み育てられないのなら、いっそ綺麗に片付けてしまうべきなのだ。
冷たい医療器具が体に触れた瞬間、ヴィットリオへの愛の最後の欠片が、私の中から静かに抜け落ちていくのを感じた。
もう、ここから逃げ出したい。ただ、それだけだった。
手術を終えて硬いベッドに横たわりながら、私は震える手で暗号端末を取り出し、オリオンに短いメッセージを送った。
【一ヶ月は待てない。三日で来て。私を、ここから連れ出して】
第5話
スマホの画面がすぐに光った。
オリオンからの返信は即座だった。【わかった。三日だ。必ず行く】
その文字を見た瞬間、ようやくまともに呼吸ができたような気がした。私をこの泥沼のような地獄から救い出してくれる人間が、世界にたった一人だけはいるのだ。
私は裏の診療所で三日間を過ごした。その間、ヴィットリオからの連絡は一度もなかった。ただの一度も。
退院の日になって、ようやく彼が姿を現した。
「遅くなった」扉を押し開け、疲労の滲む顔で彼は言った。「カリナの精神状態が不安定でな。俺がそばにいてやる必要があったんだ」
私はただ、黙って彼を見つめた。まるでひどく悪趣味な喜劇を見ているような、乾ききった感情だけがあった。三日前、この男は別の女と関係を持った。そして私の腹から彼の子どもが流れたというのに、今は何事もなかったような顔をしている。
「オーレリア、あの夜のことは……」ヴィットリオが近づき、私の手に触れようとした。「すまなかった。あんなことをするべきじゃなかった」
私はすっと手を引いた。
「いいわ」声に感情は一切乗っていなかった。死んだ水面のように、ただ静かに。「もう、終わったことだから」
ヴィットリオが不快げに眉をひそめた。「お前がまだ怒っているのはわかる。でも信じてくれ。俺が本当に大切にしているのは、お前なんだ。カリナはただ――」
「ただ、何?」私は氷のような視線を射返した。「自分の体を差し出してまで『解毒』してやらなきゃならないほど、大切な相手?」
ヴィットリオの顔色が変わった。「あれは違う。俺には、他に選択肢が……」
「もういい」私は立ち上がり、バッグを掴んだ。「帰りましょう」
ヴィットリオが何か弁解を続けようとしたとき、女医が部屋に入ってきた。
「ファルコーネさん、奥様の処置について、ご説明しておきたいことが――」
「先生」私は冷ややかに言葉を遮った。「必要な薬は自分で手配します。お気遣いなく」
女医は私とヴィットリオの顔を交互に見比べ、それ以上は何も言わなかった。
邸宅に戻ると、ヴィットリオは玄関先で一族からの急な電話に捕まった。私は彼を置いて、一人で中へ入った。
リビングのソファには、カリナが優雅に腰かけていた。赤ワインの入ったグラスを手に、悠然と。
「あら、お帰りなさい」グラスから顔を上げ、彼女は口元に薄い笑みを浮かべた。「悲劇のヒロインごっこはもう終わったかしら?」
私は無言のまま、彼女を見つめ返した。
「この三日間、ヴィットリオはあなたのことをずっと心配していたわよ」カリナは立ち上がり、猫のような優雅な足取りでこちらへ近づいてきた。「でも、あの夜の激しさで私が傷ついていないか、そっちの方をずっと心配していたけれど」
彼女は私の目の前で立ち止まり、声をひそめた。毒を含んだ、甘く暗い声。
「ねえ、とっておきの秘密を教えてあげましょうか、オーレリア。あの夜、ヴィットリオに薬を盛ったのは……私よ」
全身の血が凍りつき、石のように固まった。
「彼がカジノで危険に晒されているって、あなたにこっそり情報を流したのも、この私」カリナは悪魔のような笑みを深めた。「あなたに行かせたかったの。一番弱り切っている彼に、あなた自身を捧げさせるためにね」
「……なぜ」声が震えた。
「彼があなたを愛することなんて永遠にないって、わかっていたからよ」カリナは猛毒を滲ませた瞳で言った。「いつまでも二番手であり続ける女に、彼を縛り付けておきたかったの。私を一度手放したという罪悪感を、彼に一生抱えさせるためにね」
部屋が、ぐらりと回り始めた。
「私は戻ってきたのよ、オーレリア」カリナが、冷たい手で私の頬に触れた。「もう出ていく時間よ。これ以上、私に言わせないで」
胸の底から、煮えたぎる溶岩のような怒りが噴き上がった。
私はコーヒーテーブルに置かれていたウイスキーボトルを掴み上げ、彼女の顔のすぐ横の壁に思い切り投げつけた。鋭い音を立ててガラスが砕け散り、琥珀色の液体が飛沫となって彼女に降り注ぐ。
「よく聞きなさい、カリナ・ロマーノ」這うような声で告げる。「私が彼の指輪をはめ、彼の妻としてその名を名乗っている限り、あなたは永遠に、ただの日陰者の愛人に過ぎないのよ」
カリナは恐怖に一瞬顔を強張らせた。だが、すぐに口角を上げた。
彼女の視線が玄関の方へ向いた次の瞬間、彼女は床に崩れ落ちて激しく泣き始めた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!私、戻ってくるべきじゃなかった!」大粒の涙が止まらない。「オーレリア、本当にあなたたちを壊すつもりなんてなかったの!」
振り返ると、ヴィットリオが玄関に立っていた。その顔は、夜の海のように暗く沈んでいた。
「オーレリア!」彼は私を乱暴に押しのけ、カリナに駆け寄った。「一体何をしているんだ!」
よろめいて、壁に背中を打ちつけた。脇腹の傷が鋭い痛みでひどく疼いた。
「カリナ、大丈夫か?」ヴィットリオがハンカチを取り出し、彼女の顔に跳ねたウイスキーを丁寧に拭ってやっている。
「大丈夫……」カリナは可憐にすすり泣いた。「オーレリアの言う通りよ。私、戻ってくるべきじゃなかった」
「そんなことはない」ヴィットリオは彼女をかばうように抱き寄せながら、私に目を向けた。全てを焼き尽くすような、炎の目だった。
「カリナに謝れ。今すぐだ」
「なぜ私が謝るの?」私は鼻で笑った。「何か間違ったことを言ったかしら?」
「いい加減にしろ、オーレリア!」ヴィットリオが立ち上がり、私の目の前に立ちはだかった。「カリナはあの夜の過ちすら不問にしてやると言っているんだ。これ以上、どんな陰謀を企てている!」
涙が、ぽろりと零れ落ちた。
「そんなに、私が悪者に見えるの?」声が震え、喉が詰まった。「これだけの時間を共に過ごしてきて……それでも、私を信じてはくれないの?」
ヴィットリオの表情がわずかに歪んだ。拳をきつく握りしめ、彼の中で何かが激しく葛藤しているようだった。
しかし、最後に出てきたのは、氷のように冷酷な声だった。
「俺が信じるのは、自分の目と耳で確かめたことだけだ」
――完全に、絶望した。
私は乱暴に涙を拭い、誇り高く顎を上げ、ふっと笑った。
「残念だったわね、ヴィットリオ。絶対に謝らないわ」言葉を一つ一つ、区切るように告げる。「間違っているのは、あなたたち二人の方だから。私じゃない」
ヴィットリオの顔が激しい怒りで歪んだ。彼の中に残っていた罪悪感の最後の欠片が、跡形もなく消え去ったのがわかった。
「わかった」彼はスマホを取り出し、冷徹に番号を押した。「マルコ、若い衆を集めろ」
まもなく、黒服に身を包んだ男たちが無言で入ってきた。
「家法に則る」ヴィットリオは一切の感情を排した無機質な声で告げた。「鞭打ち十三回だ」
「ヴィットリオ、やめて!オーレリアを傷つけないで……」カリナがとってつけたような悲鳴で懇願した。
乾いた笑いが漏れた。十三回の鞭打ち。それはファルコーネ家の苛烈な制裁。裏切り者と密告者にのみ与えられる罰だ。
この男は本当に、妻である私にそれをするつもりでいるのだ。
私は背筋を真っ直ぐに伸ばし、彼の目を正面から見据えた。
「ヴィットリオ。もし私に手を上げたら――あなたは一生、取り返しのつかない後悔をすることになるわよ」
第6話
ヴィットリオは私を見下ろした。その目に、もう温もりの欠片すら残っていなかった。
「執行しろ」
反応する間も与えられず、太い荒縄が手首に巻きつけられ、私は裏庭へと引きずり出された。
「ヴィットリオ!」私は必死に抵抗した。「後悔するわよ!」
しかし彼は、カリナの肩を抱いたまま邸宅の中へと歩き去っていった。ただの一度も、振り返ることなく。
空気を引き裂く鋭い音とともに、一撃目が背中の肉を無残に裂いた。
私は唇を強く噛み締め、口内に広がる生温かい鉄の味を感じながら、決して悲鳴だけは上げまいと歯を食いしばった。二撃目。三撃目。
温かい血が背中を流れ落ち、真っ白なシャツをどす黒く染め上げていく。
十撃目を数える頃には、もはや痛覚すら麻痺していた。十三撃の執行が終わったとき、私の背中はずたずたに引き裂かれていた。足の力が抜け、自分の血だまりの中へと崩れ落ちる。
意識が深い闇へと沈んでいく直前、二階の窓辺に立つカリナの姿が見えた。その顔には、隠しようのない勝ち誇った笑みが張り付いている。
彼女が、勝ったのだ。
三日後。スマホの鋭い着信音で目が覚めた。背中の傷が引きつって悲鳴を上げる中、なんとか体を起こす。
「オーレリア?」電話口のオリオンの声には、深い心配の色が滲んでいた。「大丈夫か。この三日間、ずっと繋がらなかった」
「平気よ」ひどくかすれた声が出た。
「三時間後に待ち合わせ場所に着く」声が安堵で穏やかになった。「準備はいいか?」
「ええ」
電話を切り、クローゼットへと向かった。持っていくものは、たった一つだけ。化粧台の上に置かれたアンティークの短剣を手に取る。ロッシ家から受け継いだ、唯一の形見。
それ以外のものは全部、この地獄に置き去りにしていけばいい。
再び、電話が鳴った。
「オーレリアさん!」直属の部下であるルカの声は、ほとんど悲鳴に近かった。「あのカリナとかいう女が、港の利権契約を台無しにしました!五千万ドルが、水の泡です!あいつが『臨時顧問』気取りで乗り込んできて、根こそぎ燃やしていったんですよ!」
入門したばかりの頃の記憶が蘇った。私が埠頭の取引先との契約を一つ間違えただけで、ヴィットリオは一晩中私を怒鳴りつけた。あれよりはるかに甚大な損失を出しても、彼はカリナには決して何も言わないのだ。
「ドンは何と?」私は全く興味も湧かないままに尋ねた。
「金ならまた稼げばいい、と」ルカの声は、信じられないものを見るような絶望に満ちていた。「オーレリアさん、戻ってきてください!あなたがいないと、ファミリーが持ちません!」
「ごめんなさい、ルカ」静かに言った。「ファルコーネ家は、もう私の関わることじゃないから」
「えっ?そんな――」
私は一方的に電話を切った。
すぐに、一族の古参幹部たちから立て続けに着信が入り始めた。
「オーレリア、一体どういうことだ!」老マッテオが受話器の向こうで怒鳴り散らした。「ファミリーがめちゃくちゃになっている時に、ふざけた真似をしてるんじゃない!」
「辞めさせてもらいます」ただ一言、そう告げた。
「辞めるだと?冗談じゃない!」別の古参が電話を奪い取った声で続ける。「今すぐ戻ってきて、この事態の収拾をつけろ!」
「文句があるなら、ドンに直接言ってちょうだい」私は鼻で笑った。「私を脅そうとしたって無駄よ。あなたたちが本当に恐れるべき相手は、もう私じゃないんだから」
一人ずつ順番に電話を切り、ファルコーネ家に繋がる番号を全て着信拒否の設定にした。
それからヴィットリオの書斎へと歩いていき、金庫を開けた。空のUSBメモリを取り出し、全てのデータをコピーしていく。
病院の流産証明書。邸宅内の監視カメラの映像データ。カリナの自白を録音した音声。そして――ヴィットリオ自身が内容も見ずにサインした、離婚届。
USBメモリを他の重要書類と一緒に金庫に戻し、重い扉の鍵をかけた。
この四つの真実が、私からの最後の餞別だ。
いつか彼が、この金庫を開ける日が来る。
その時、自分が一体何を永遠に失ったのかを、彼は骨の髄まで思い知ることになるだろう。
書斎を立ち去ろうとした瞬間、スマホが震えた。画面には、ヴィットリオの名前。
一瞥だけして、そのまま着信拒否にした。
それでもメッセージだけが次々と届き続けた。全て、彼からだった。
【オーレリア、カリナが港の契約を潰した。戻ってきて処理してくれ】
【怒っているのはわかる。だが、ファミリーのことを考えてくれ】
【頼むから返事をしろ】
【オーレリア、子どもみたいな真似はいい加減にやめろ】
一通ずつ未読のまま削除し、彼の番号もブロックした。
一時間後、約束の待ち合わせ場所へ到着した。寂れた滑走路には、プライベートジェットが静かに停まっている。その機体の傍らに、背の高い人影があった。
オリオンは漆黒のスーツに身を包み、彫像のように佇んでいた。その手には、一輪の黒い薔薇。ベルベットで精巧に作られた、永遠に枯れることのない造花。
私に気づくと、彼はゆっくりと顔を上げた。一歩踏み出し、深い緑色の瞳が私の目を真っ直ぐに射抜く。
「オーレリア」低く、海のように穏やかな声が響いた。「迎えに来た。さあ――家へ帰ろう」