濃煙の果てに、愛は灰となった

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濃煙の果てに、愛は灰となった

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授賞式の夜、消防隊長である彼氏の久保大介(くぼ だいすけ)は、控室で電話を受けたきり、煙のように消えてしまった。 残されたのは私、和泉...

Chương (1)

第1章

授賞式の夜、消防隊長である彼氏の久保大介(くぼ だいすけ)は、控室で電話を受けたきり、煙のように消えてしまった。 残されたのは私、和泉夏希(いずみ なつき)ひとり。ドレス姿のまま壇上に立ち、彼の代わりに「年間最優秀消防士」の表彰盾を受け取った。 司会者がにやりと笑いながら言う。「久保隊長の胸の内には、名誉よりも大切な方がいらっしゃるようですね」 どっと沸く会場の笑い声。私はただ立ち尽くし、手足の先がじんじんと冷えていくのを感じていた。 家に戻っても、彼が帰ってくることはなかった。出迎えたのは、鼻を突くガスの臭いだった。 次の瞬間、激しい爆発が家を襲った―― 瓦礫の中から近所の人に助け出されたとき、スマホに一枚の写真が届いた。 寮のベッドで、大介が上半身裸のまま横たわっている。その寝顔は、驚くほど穏やかだった。 一言メッセージが添えてあった――【隊長ったらもうヘトヘトで、今夜は帰れないって。「あいつがいれば、家のことは心配ない」って言ってたよ】 第1話 濃い煙にむせて目が覚めたとき、半身は完全に麻痺していた。 視界は一面、焦げた黒に覆われている。あたりには、ガスと何かが焼けたような刺激臭が充満していた。 隣の田中さんが、私を台所から引きずり出してくれた。顔中を黒い灰で汚したまま、彼は必死に叫んでいた。「救急車を呼べ!消防車も!」 頭の中でガンガンと音が鳴り響く。朦朧とする意識の中で、大介に助けを求めるメッセージを送ったことだけを覚えていた。 返信は、たった一言だった。 【待て】 待った。言われるままに信じて待ったら、爆発が起きた。 左脚を引き裂くような激痛に視線を落とすと、くの字に曲がった足首が目に入った。 やがて、遠くから消防車と救急車のサイレンが近づいてきた。オレンジ色の救助服を着た隊員たちが、どっと駆け込んでくる。 顔はよく見えない。それでも、そのオレンジ色が、たまらなく皮肉に思えた。 私も、消防士の妻になるはずの人間だ。大介はかつて「うちの中隊の太陽だ」と笑っていた。 なのに今、その太陽は自分の家で爆発に巻き込まれ、肝心の「ヒーロー」はどこにもいない。 救急車の中で酸素マスクを当てられながら、私は医療スタッフの腕をやっとの思いで掴んだ。「スマホが……」 「現場が混乱しています!しっかりしてください、重傷ですよ!」 目を閉じると、涙が煤と混ざり、頬に二筋の黒い跡を残した。 ただ確かめたかっただけだ。あの後、彼から返信が来ていたかどうかを。 病院に着くと、そのまま救急処置室に運ばれた。 全身数カ所の火傷、左脚の粉砕骨折、軽度の脳震盪。 傷の処置をされる間、体が震えるほど痛かった。それでも声ひとつ出さなかった。 こんな肉体の痛みなど、胸の奥の痛みの何分の一にも満たない。 看護師が私のスマホを持って入ってきた。画面は割れていたが、まだ点いていた。 「上着のポケットに入っていました」 「……ありがとう、ございます」声がひどくかすれていた。 LINEを開くと、大介との画面は、あの冷たい一言【待て】で止まったままだった。 スクロールすると、その前には、血を吐くような思いで送った私のメッセージが残っていた。 【大介、またガスの臭いがするの。この前みたいな感じ。早く帰ってきて】 以前にも、コンロの老朽化でガスが微かに漏れたことがあった。大介は確認して「大したことない」と言い、窓を開けて換気しておくよう言い残した。休みになったら交換すると約束していた。 でも、彼はずっと忙しかった。 南雲市消防中隊のヒーローとして、会議も出動も新人指導も、終わりがなかった。 私は一度も不満を言わなかった。彼を愛していたから。彼のことを理解していたから。 付き合って六年。まだ初々しい新人だった頃から、栄光を重ねた今の彼まで、ずっとそばにいた。 もうすぐ結婚できると思っていた。消防署の近くに、新居も決めていた。 子供の名前まで考えていた。 「やすちゃん」――平和で安らかに育ってほしいという願いを込めて。 スマホが震えた。 大介からだった。 【ごめん、寝てた。スマホ見てなかった】 【家、大丈夫?】 【今ニュース見たんだけど、お前のマンション、何かあった?どこにいる?】 並んだ三通のメッセージを見つめていたら、ふっと笑いがこぼれた。 ――寝てた? 西山麻衣(にしやま まい)が送ってきたあの写真が脳裏に蘇る。大介の逞しい胸、乱れたシーツ、そして挑発的な一言。 なるほど。私のヒーローは、他の女の腕の中で眠っていたのか。 第2話 両親が病院に駆けつけたとき、私はちょうど手術同意書にサインをしているところだった。 包帯だらけの私を見て、母が泣き崩れる。 「どうしてこんな……大介くんは?どこにいるの!」 父は母を支えながら、目を赤くして医師に尋ねた。「娘の怪我は?」 医師は深くため息をついた。 「……予断を許さない状況です。左脚の粉砕骨折で、今後歩行に影響が出る可能性があります。火傷の範囲も広く、傷跡は残るでしょう。まず手術の準備を」 母の泣き声がひどくなる。私の手を握って、痛いかと聞いてくる。 私は首を振り、かすれた声で言った。「……お母さん、大丈夫だから」 「大介のやつ!電話してやる!」父が怒りに任せてスマホを取り出した。 私は止めた。 「お父さん、いいの。彼は……忙しいから」 見えない手に心臓を握りつぶされるようで、息が詰まった。 誰よりも誠実で、献身的な男だと、みんな大介をヒーローだと思っている。 でも私が一番必要としていたとき、彼は別の誰かを選んだ。 その時、見知らぬ番号から着信があった。 出ると――電話の向こうで、大介が焦った声を上げていた。 「夏希!?」 両親から連絡が入ったらしい。 「中心病院にいる、今着いた。何号室?」 その口ぶりが、あまりにも当たり前といった調子だった。 今さら来てあげる、とでも言いたいのか。 今まで何もしなかったことは、遅すぎる形ばかりの心配ひとつで帳消しになるとでも? スマホを握る指先が、手のひらに食い込んだ。 「……大介、爆発からもう五時間が経ってる。外はとっくに明るいよ。今さら、何の顔で来るつもり?」 電話の向こうが沈黙した。 しばらくして、疲れたようなため息が聞こえた。 「すまない、怒るのは分かる。でも、あのときは事情があってさ。麻衣が寮でひとりで怖がってて、俺も少し飲んでたし、それで……」 そこで言葉が途切れた。続きは言わなくても、分かる。 彼女を巻き込まないでくれ。女の子だし、評判が大事だから――そんな彼の本音が透けて見えた。 スマホを持つ指の関節が白くなっていく。 これだけ心が砕けても、涙すら出なかった。 「終わりにしましょう、大介。もう、私に連絡しないで」 通話を切ると、私は声を出さないように、顔を布団に押しつけた。 両親に聞かれたくなかった。心配させたくなかった。 すかさず、LINEの通知音が鳴った。 麻衣からだった。 【夏希さん、本当にごめんなさい。どうしても謝りたくてLINEしたの……わざとじゃないの。隊長が飲んで、どうしても帰るって聞かなくて】 ブロックしようとした瞬間、また別のメッセージが届く。 【お願いだから、隊長のこと誤解しないでください。あの人の心の中には、あなたしかいないから。私がひとりで南雲市に来てて、身寄りもなくて可哀想だから、ちょっと気にかけてくれてるだけなの】 見たくなかった。それでも、気づいたら彼女のSNSの投稿を開いていた。 最新の投稿は三十分前。 【このバカに一晩中振り回されて、腰が限界。もう、私をいじめてばっかりなんだから】 添付された写真には、温かいはちみつしょうが湯と、貼るカイロが写っていた。 生理痛のときはお腹を温めると少し楽になると、いつか大介に話したことがある。 でも彼が私のために作ってくれたことは一度もなかった。消防隊のことで忙しくて、そんな時間はないと言って。 やれないんじゃなくて、する気がなかっただけだ。相手が誰かによって、態度を変えていただけ。 先週、生理痛でベッドから起き上がれなくて、そばにいてほしくて電話した。 新人の訓練中で手が離せない、と言われた。 その新人が、麻衣だった。 あのとき私は、きっと彼も疲れているんだと思った。理解してあげなきゃと思った。 今となっては、笑えない話だ。 「夏希、どうして泣いてるんだ?傷が痛いのか?」 顔を上げると、大介が心配そうな目でこちらを見ていた。いつの間にか病室に入ってきていたらしく、ベッドの横に立っている。 息が止まりそうになった。私はとっさにスマホを隠した。 私の態度を見て、彼は私がただ拗ねているだけだと思ったらしい。 両親にまで話を持ち込んで、彼に恥をかかせようとしているのだと。 手の中に、彼の浮気の証拠があるとは、思いも寄らないのだろう。 彼の目にじわりと責めるような色と、ほんの少しの苛立ちが滲んだ。 「俺たちの問題を、なんでおじさんたちに言ったんだ。心配かけてさ」 彼は「俺たちの問題」という言葉をことさら強めて、これ以上騒ぎを大きくするなと私に釘を刺したつもりだったのだろう。 けれど彼は知らない。 私たちの間には、もうとっくに、底の見えない深い溝ができていた。 第3話 「それと、麻衣は新入りだ。怒りをぶつけるな。あいつは何も知らないんだから」 彼は私が二人の関係を知らないと思って、麻衣を守られるべき無垢な被害者に仕立て上げようとしている。 そして私は、分別もなく喚き散らす嫉妬深い女に。 その言葉を聞いていたら、胃がむかついた。 胸の奥に詰まったものが、今にも爆発しそうだった。 「隊長」私は一言一言区切るように呼んだ。「勘違いしてる。両親に連絡したのは私じゃない。病院から家族に連絡が入っただけ。 それに、その新入りのことは……これから先、私には関係ない」 大介の顔色が一瞬で変わった。 母が水のコップをベッド脇の台に力任せに置いた。 「麻衣って誰よ。まず夏希に謝りなさい!仕事でも何でも、娘をひとりで置いて行くなんてありえない!コンロが古くなってて、ガスが漏れるって前から分かってたのに!交換するって約束したじゃないの!」 大介が固まった。戸惑ったように私を見る。 両親の目に、大介はずっと誠実で頼れる青年として映っていた。麻衣のことを言わずにいたのは、私に残った最後の矜持だった。 彼が約束を破った理由は、両親には当然「仕事」としか映らない。 「市民を守るヒーロー」が、出会って三ヶ月も経たない新入りのために判断を狂わせるとは、誰も思うまい。 大介の顔が青ざめ、白くなった。唇が動く。 「ごめん、夏希。俺……っ」 そのとき、麻衣が保温ポットを手に病室の入り口に現れた。 「すみません、おばさま。全部私のせいです。隊長を引き留めたのは私で、帰れなくさせてしまって……本当に申し訳なかったです、うう」 ピンクのパジャマ姿に、大介の上着を羽織っている。潤んだ瞳で、いかにも守ってやりたくなるような顔をしていた。 「あなたが麻衣さん?」母の声に怒気が滲んだ。 大介が即座に麻衣をかばうように自分の背中へ隠した。 「おばさん、そんな、彼女は悪くないです。いい子なんです、本当に」 反射的に庇うその仕草が、刃のように私の胸に刺さった。 麻衣が大介の陰からそっと顔を覗かせ、涙目で私を見た。その声には、微かな優越感が混じっていた。 「夏希さん、隊長を責めないで。私のことも。自分は若いし、まだ未熟だから、どうしても隊長に頼ってしまうの。あなたみたいに強くて自立してたら、何でもひとりでできるのに」 一拍置いて、唇を噛んでから、まるで覚悟を決めたように続けた。 「つらい気持ちは分かるよ。でも男の人って外で大変なんだから、もっと気持ちを汲んであげて。こんなふうに大ごとにして彼を困らせるんじゃなくて、少しは彼を思いやることも覚えてください」 母の手が震えていた。 「じゃあうちの夏希はどうなるの!もう結婚するって話だったのに!」 私は静かに視線を落とし、ギプスの巻かれた脚を見つめた。 「結婚の話、やめるわ」 大介が眉をひそめた。 「夏希、感情的に言うな。麻衣が正式採用になったら、俺は別の署に異動申請する。離れるから、それじゃ駄目か?」 脚の傷がまたうずいた。 骨の奥まで沁みるような痛みだった。 「……どこに異動するの?」私は聞いた。 「西区分署」 「……何が変わるの」私は目を上げて彼を見た。もう失望さえなかった。 「一番近い分署だぞ。まさか辞めろって言うのか?あいつは卒業したばかりの新人だぞ!」 かつて私を背中に庇って、ずっと守ると言っていた男が、今は向こう側に立って、仕事を盾にし、将来という言葉で私を縛ろうとしている。 六年間。それだけの時間が、こんなにも脆かった。 ふと、ひどく疲れた。何もかもが馬鹿らしかった。 もう、たくさんだ。 彼が麻衣を傷つけたくないなら、それでいい。私が消えればいい。 翌日、両親が転院の手続きをしてくれた。 第4話 転院先は、整形外科のリハビリで名高い私立病院だった。 費用はかさむ。けれど、静かで、大介がしつこく押し掛けてくる心配もない。 新しい病室は広々としていて、窓の外には青々とした芝生が広がっていた。 ベッドに横たわり、青空と白い雲を見上げながら、私の胸の内だけは、灰色のままだった。 父がリンゴを剥きながら、恐る恐る切り出してきた。 「夏希……大介とは、本当にもう終わりにするのか?」 答える間もなく、病室のテレビから昼のニュースが流れてきた。 「市内の老朽化した住宅で本日午前、火災が発生。女性1名が室内に取り残された危険な状況の中、消防中隊隊長・久保大介が先頭に立ち、濃煙と二次爆発の危険を顧みず女性の救出に成功しました」 画面の中で、大介が見覚えのある人物を抱きかかえ、炎の中から飛び出してきた。 あの新入り、麻衣だった。 かすり傷ひとつなく、ただ怖かっただけだとでも言うように、あどけない泣き顔で大介の胸に飛び込んでいた。 大介は自分の上着を脱ぐと、優しく彼女の肩にかけた。低い声で、何かをなだめるように声をかけている。 記者がマイクを向けると、彼はカメラをまっすぐに見据えて言った。 「これが、俺の仕事です」 母はテレビを見て、それから私を見て、深くため息をついた。 「夏希、ほら見てちょうだい。大介くんって、やっぱりそういう人なのよ。誰かのために動ける人。あの麻衣さんに対しても、きっと責任感からなんじゃないかしら」 父もそれに続いた。 「そうだよ。大介は若くて有能で、将来のある男だ。男という生き物は、たまには過ちも犯すものだ。でも本人にやり直す気があるなら、逃げ道くらい作ってやれ。我慢していれば、こんなこといつか過ぎ去るさ」 その言葉は、鈍い刃物のようで、何度も何度も私の心を削り取るようだった。 ……我慢していれば? あやうく死ぬところだったのに、我慢しろと言うの? 大介に何度も見捨てられてきたのに、それすら我慢しろと? そのとき、スマホが鳴った。着信画面には副隊長の番号。 ――大介だった。 声は少し疲れていたけれど、どこか手柄を誇っているような響きが混じっている。 「夏希、ニュース見たか?麻衣の寮、電気系統が老朽化してて火が出たんだよ。俺が間に合って本当によかった。あのままだったらどうなっていたか……」 一拍置いて、当然のような口ぶりで、私をなだめにかかる。 「まだ怒ってるのは分かる。でも見ただろ、俺の仕事ってこういうもんなんだ。いつ何が起きるか分からない。子供のように拗ねてないで、ちゃんと理解してくれよ」 私は、ただ黙って聞いていた。 彼がこの電話をかけてくる五分前、病室には看護師が処置に来ていたのだ。 薬のアレルギーで全身に赤い発疹が出た私は、急に息苦しくなり、ナースコールを押した。 駆けつけた看護師は慌てながら、「どうしてすぐご家族に電話をかけなかったんですか」と聞いてきた。 ――かけたわ。 息が一番苦しかったとき、窒息しそうな恐怖の中で、私は彼にだけ電話をかけた。 電話が繋がり、向こうの騒がしい音が聞こえた。「大介、助けて……」そう言いかけたところで、声を遮られた。 「出動中だ、人の命がかかってる!わがままするな!」 そして通話は、無情に切断された。 その瞬間、私はすべてを悟ったのだ。 他人の命は、かけがえのないもの。 一方で私の命は、忙しい彼が片手間に切り捨ててもいい「ただのわがまま」なのだ、と。 「大介」 私は電話口に向かって、静かに言った。 「あなたは確かにヒーローよ。でも、その勲章は、私の血と涙で作られたものだから。今日を限りに、もういらないわ」 私は無表情のまま、看護師が包帯を巻き直すのを見つめていた。彼女の憐れむような視線を受けながら、母に向かって、一言一言をはっきりと口にした。 「お母さん、弁護士を探して。 ……あの人を、訴えたいの」