春に別れて

Đang tải thông tin quảng bá...

春に別れて

GoodNovel Hoàn thành

夫の今野洋一(こんの よういち)はもともとそういう欲が薄く、夫婦の営みさえ、いつもきっちり時間を決めていた。 今日も、まさに夫婦の営み...

Chương (1)

第1章

夫の今野洋一(こんの よういち)はもともとそういう欲が薄く、夫婦の営みさえ、いつもきっちり時間を決めていた。 今日も、まさに夫婦の営みの最中だった――彼のスマホが、特別な着信音を響かせた。 漏れ聞こえてきたのは、若い秘書・筒井有菜(つつい ありな)の泣き声だった。 「社長、家の水道管が破裂して……怖くて……」 洋一は一瞬の躊躇もなく、さっとベッドから身を起こして服に手を伸ばした。 私・今野薫(こんの かおる)はシーツをきつく握りしめ、思わず手を伸ばして彼の腕にすがりついた。 「もう遅いし、まだ……終わってないわ」 「有菜には身寄りがない。上司として、見捨てるわけにはいかない」 彼は私と目を合わせることもなく、静かに腕を振り払い、淡々と乱れた襟元を直した。 「今日のノルマは果たした。不足分は、次に埋め合わせる」 私は、短く息を呑んだ。 ――そうか。私との営みは、彼にとってただの「ノルマ」でしかなかったんだ。 彼が出て行ってから間もなく、有菜からメッセージが届いた。 送られてきた写真の中で、彼女は洋一の肩にそっと頭を預けていた。 【ほんとごめんなさい。ただ、怖くて。次は絶対、社長にお詫びさせますから。今夜はひとりで何とかしてね】 最後まで読み終えても、私は何も言わなかった。 静かに立ち上がり、シャワーを浴びた。シーツを洗い、新しいパジャマに着替えた。 そして、決心した。 ――彼はもう、いらない。 第1話 夫の今野洋一(こんの よういち)はもともとそういう欲が薄く、夫婦の営みさえ、いつもきっちり時間を決めていた。 今日も、まさに夫婦の営みの最中だった――彼のスマホが、特別な着信音を響かせた。 漏れ聞こえてきたのは、若い秘書・筒井有菜(つつい ありな)の泣き声だった。 「社長、家の水道管が破裂して……怖くて……」 洋一は一瞬の躊躇もなく、さっとベッドから身を起こして服に手を伸ばした。 私・今野薫(こんの かおる)はシーツをきつく握りしめ、思わず手を伸ばして彼の腕にすがりついた。 「もう遅いし、まだ……終わってないわ」 「有菜には身寄りがない。上司として、見捨てるわけにはいかない」 彼は私と目を合わせることもなく、静かに腕を振り払い、淡々と乱れた襟元を直した。 「今日のノルマは果たした。不足分は、次に埋め合わせる」 私は、短く息を呑んだ。 ――そうか。私との営みは、彼にとってただの「ノルマ」でしかなかったんだ。 彼が出て行ってから間もなく、有菜からメッセージが届いた。 送られてきた写真の中で、彼女は洋一の肩にそっと頭を預けていた。 【ほんとごめんなさい。ただ、怖くて。次は絶対、社長にお詫びさせますから。今夜はひとりで何とかしてね】 最後まで読み終えても、私は何も言わなかった。 静かに立ち上がり、シャワーを浴びた。シーツを洗い、新しいパジャマに着替えた。 そして、決心した。 ――彼はもう、いらない。 …… 深夜に差し掛かった頃、ドアノブがかすかな音を立てた。 洋一が帰ってきたのだ。 彼はやはり、私を見ようとはしなかった。 上着をハンガーに掛けると、そのままベッドに倒れ込んだ。 その体からは、嗅ぎ慣れない甘い香水の匂いが漂っていた。 私が寝返りを打つと、彼のスマホで通知音が立て続けに鳴っていることに気づいた。 そっと手に取ると、有菜からのメッセージだった。 【社長、今日は来てくれてありがとうございました。奥さん、怒ってないですよね?いつか直接謝りに行きます】 私は俯いたまま画面を見つめ、目を伏せた。 指先で静かにトーク履歴を遡る。 ふたりのやり取りは、曖昧さを通り越して露骨だった。洋一からの返信も、明らかに増えていた。私に向けるような冷たさは、そこには微塵もなかった。 喉の奥が、じわりと重く詰まる。 私は指先を動かし、静かに打ち込んだ。 【彼は寝ています。私は怒っていないので、また明日連絡してあげてください】画面を暗くして、スマホを彼の枕元に戻した。 自分の枕を抱え、ゲストルームへ移ろうと身を翻す。 その瞬間、手首を力強く掴まれた。熱い体温が、肌越しに伝わってくる。 私の足が止まった。 洋一は目を閉じたまま、夢うつつに呟いた。 「……っ。有菜、ここにいるよ」 彼の整った横顔を見つめながら、私は自嘲するように薄く笑った。 そして、静かに部屋を出た。 翌朝、ゲストルームの扉が乱暴に開け放たれた。 洋一は袖口を整えながら、低い声で詰め寄ってきた。 「なんで有菜にあんな真似をした。あの子はまだ若いんだ、傷つきやすいのがわからないのか!それに、彼女はただの新入り秘書にすぎない。なんのつもりで嫌がらせをする」 私はゆっくりと顔を上げ、怒りを滲ませた彼の瞳を見つめ返した。 「ただの秘書?そっか。隣で寝ていて、寝言で下の名前を呼ぶ上司もいるものね」 洋一の動きがぴたりと止まった。その表情がわずかに揺れる。 「俺と彼女は、ただの上司と部下だ。仕事で呼び慣れているだけだ。妻なんだから、少しは大目に見られないのか」 私は彼から視線を外し、静かに頷いた。 「ええ。これから、何度呼んでもかまわないわ」 彼はいきなり私の腕を強く掴み、語気を荒げた。 「俺と有菜は何もないんだ。薫、いい加減にしろ」 私は目を伏せ、彼の手から腕を引き抜いた。 指先で彼の襟元を直しながら、努めて穏やかな声で告げた。 「何もないのね。わかったわ。あなたは、部下のために生理用品まで買いに行く上司なのよね」 洋一の背筋が、ぴくりと強張った。さっと顔色が変わる。 彼は深く息を吸い込んだ。 「あいつは量が多くて、家の買い置きじゃ足りないから、俺が……」 私は手を止め、再び顔を上げた。 「気が利くのね。部下の体調までそこまで把握してるなんて」 実は最近、ずっと気づいていたのだ。それだけではない。 家の中には、見覚えのないキャラクターのマグカップや、口紅、片付け忘れた服まで現れるようになっていた。 ただ、私がいちいち口に出さなかっただけ。 洋一は眉をひそめ、苛立ったようにポケットに手を突っ込み、私を一瞥した。 「薫、もう何度も説明したはずだ。お前、おかしくなったんじゃないか?まったく話にならない」 言い終わると同時に、また彼のスマホが鳴った。 あの、深夜と同じ特別な着信音。 私は静かに言った。 「行ってあげて。行かなければ、またここへ泣きついてくるでしょう」 こんなことは、一度や二度のことではない。 洋一は何か言いかけて、一瞬だけ躊躇した。 それでも、彼は背を向けて出て行った。 私はゆっくりと、長く息を吐き出した。 俯いて、広げた地図にある小さな街の場所に、赤い丸をひとつ描き込んだ。 第2話 洋一と私は、無言の冷戦状態に陥った。 彼は家に帰らず、私も彼の動向を一切尋ねなくなった。 3日目の朝、彼の秘書からメッセージが届いた。 【奥様、社長はここ数日ずっとS国への出張で大変お忙しく、今日ようやく戻られました】 私は返信した。 【もう大丈夫です。これからは報告しなくていいですよ】 メッセージ履歴を遡ると、いつも私から洋一に連絡していたことがわかる。本人よりも、秘書に連絡した回数の方がずっと多かった。 しばらくして、また秘書からメッセージが届いた。 【奥様、もしかして喧嘩をされましたか?】 返事をしないでいると、さらに続きが送られてきた。 【社長の心の中には、奥様しかいないはずです。あの方がご自分からアプローチされるなんて、普通じゃないことですから】 私は思わず、瞬きをした。 確かに、この結婚は彼が望んでくれたものだった。 あの頃の洋一は冷たい性格ながらも、自分から私の側にいてくれた。いつも私を見つめて、綺麗だと言ってくれた。 なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。 秘書のメッセージは続く。 【社長は今日が奥様のお誕生日だとご存じで、ずっと欲しがっていらっしゃったブレスレットを用意されているそうです】 一緒に送られてきた写真には、本当にそれが写っていた。 以前、洋一の前で何度もねだったことのあるブレスレット。まさか覚えていてくれたなんて。 胸の奥が、小さく震えた。 私は小さくため息をついて立ち上がり、彼の好きな料理を作り始めた。 洋一が帰宅したのは、すっかり夜も更けてからだった。 ネクタイを緩めながら、足早に書斎へ向かおうとした。 私が呼び止めると、彼は煩わしそうに眉を寄せて振り返った。 「何だ」 その声は、相変わらず冷ややかだった。 私は息が乱れそうになるのを抑えながら、テーブルの縁をぎゅっと握りしめた。 「今日が何の日か、わかる?」 彼はさらに眉をひそめた。 「何?」 胸の奥がじくりと痛み、声が掠れた。 「……私の、誕生日」 洋一はようやく納得したように頷き、袖口を下ろした。 「今日か。忘れてた」 たった、それだけだった。 喉が締め付けられるようだった。 水底に沈められたように、息が詰まる。 彼は私を一瞥して、淡々と言い放った。 「来月、埋め合わせをする。そもそも、別に絶対に祝わなきゃいけない日でもないだろう。大げさにするな」 ところが次の瞬間、有菜が1時間前に投稿したSNSの写真が私の目に入った。 そこに写っていたのは、ここ何ヶ月も私が夢に見ていたあのブレスレット。そして、言葉にできないほどたくさんの高価な品々。 キャプションには、こう書かれていた。 【旦那様ありがとう(本当はお仕事の上司なんだけどね)】 そこには、洋一からのコメントもあった。 【またそういうこと言って。これくらい当然だろ】 私は、引きつる唇の端を無理やり上げた。 以前、SNSで私の投稿に「いいね」をしてほしいと頼んだことがある。でも、彼はいつも断った。 子どもっぽい、自分には似合わない、と言っていた。 なのに今、目の前にあるこれは、いったい何なのだろう。 スマホを握る手が、止めどなく震えた。 「有菜には、こんな甘い言葉をかけられるのね。彼女へのプレゼント選びは、楽しかった?」 洋一は眉を寄せて、無言で私のスマホを取り上げ、何かを操作した。 「嫌なら見なければいい。これは部下へのちょっとした気遣いだ。仕事をもっと頑張ってもらうための投資にすぎない。 あいつは仕事に前向きだ。だから受け取るだけの理由がある。お前と違って、家でぼーっとしているわけじゃないんだ」 私は、全身が強張った。 まるで雷に打たれたような衝撃だった。 彼はずっと不規則な生活のせいで、胃が弱かった。痛い、辛いとよくこぼしていた。私の作る料理が一番美味しいと言ってくれたのも、彼だった。 だから私は仕事を辞めて、家で彼を支える道を選んだのだ。 私はずっと優秀な学生だった。海外からのオファーだって手にしていた。もっと遠くへ羽ばたけたはずだった。 なのに、どうして。 愛していると最初に言ってくれたのは、彼だったのに。 どうして私だけが、過去に縛り付けられているの。 胸をきつく押さえ、浅い呼吸を繰り返す。 喉の奥が引きつって、何の言葉も出てこない。 洋一は私を見ることもなく、視線をテーブルに落としたままだった。 それでもなお、不満そうに口を開く。 「それと、一日中家にいるなら、料理の腕を上げるくらいできないのか。こんな味のしない飯では、食欲も湧かない」 私は、乾いた笑いを漏らすしかなかった。 そうよね。有菜と外で刺激的な辛い物ばかり食べていれば、こんな優しい味の料理なんて、舌に合うわけがない。 次の瞬間、書斎のドアが冷たく閉まる音が響いた。 一切の迷いもない、乾いた音だった。 私は、がらんとしたリビングにひとりきりで立ち尽くしていた。 ゆっくりと俯き、丹精込めて作った料理を、すべてゴミ箱に捨てた。 第3話 彼は朝早く家を出て、夜遅くに帰るようになった。 私は彼が不在の昼間に荷物をまとめ、私たちはすれ違いの生活を続けた。 ひと通りの片付けが終わりかけた頃、突然、彼から電話がかかってきた。 画面上で揺れる名前を、私はしばらくの間、ただ見つめていた。 それでも、通話ボタンを押した。 「何?」 彼の口調は相変わらず、仕事の電話のようだった。 「服が濡れた。クローゼットの一番右にある黒いスーツを持ってきてくれ」 私は何も返事をしなかった。 ただ何となく、クローゼットへ向かい、その服に手を触れた。 ポケットの中に、硬いものが入っている。 息が止まった。 電話をつないだままのスピーカーから、洋一の低い笑い声が聞こえた。どこか気だるげな声で、彼は言った。 「気づいたか」 私はぼんやりとした頭で、それをポケットから引きずり出した。 指輪だった。 ぎゅっと握りしめると、ダイヤモンドの鋭いカットが手のひらに食い込んで痛かった。 声が、かすれる。 「あなた……」 彼は相変わらず淡々としていたが、少しだけ声を張った。 「気に入ったか?」 心臓が激しく跳ね上がった。手のひらが、じんわりと汗ばんでいく。 唇を開きかけたものの、すぐには言葉にならなかった。 胸の奥から、言葉にできない感情が止めどなく溢れ出してくる。 「なんで……っ」 しかし、先に向こうから言葉を遮られた。 「有菜に感謝しろよ。あいつのアイデアだ。あいつがお前に謝れって言うから、詫びを入れることにしたんだ。あいつの顔を潰すわけにもいかないからな」 私は、その場に縫い止められたように立ち尽くした。 まるで頭から氷水を浴びせられたみたいだった。 心が、完全に凍りついた。 手の中の指輪を見つめていると、喉が焼けるように熱くなった。 服の生地をぎゅっと掴み、激しく呼吸が乱れる。 「……そこまでして私を辱めて、一体どういうつもり!?」 長い沈黙が流れた。 やがて、電話の向こうから洋一のくぐもった低い声と、有菜の甘い吐息が混ざり合って漏れ聞こえてきた。 彼の声は、ひどく柔らかだった。 「痛かったか?俺を怖がる必要なんてないだろう」 その声音は、私に向けるものとは明らかに違っていた。濃密な情欲を帯びた声だった。 全身が小刻みに震えた。思わず目を強く閉じる。 自分でも信じられなかった。心のどこかでまだ彼に期待していた自分が、あまりにも滑稽だった。 けれど、私の知る洋一は、もともとそういう欲の薄い人だった。 しばらくして、再び受話口から彼の声がした。 「指輪も見たんだ、もう機嫌を直しただろう。何日も口もきかずに俺を避けて……薫、そんなことを続けてもお前のためにならないぞ」 少し間を置いて、彼は傲慢な響きを含ませて続けた。 「もし許してくれるなら、ベッドでの時間……あと一時間増やしてやってもいい」 私は、信じられない言葉に目を見開いた。 「洋一、何を言ってるの」 返事をしたのは、洋一ではなく有菜だった。 「社長ぉ、あの指輪で奥さんを丸め込んだら、私にくれるって言ったじゃないですかぁ。いつ持ってきてくれるんですか……裏に、私のイニシャルまで入ってるのに」 全身の毛が逆立った。 慌てて俯き、指輪の裏側を確認する。 冷たいプラチナの内側には、確かに刻まれていた。 【AT】 ――有菜のイニシャルだ。 ぞっとするような鳥肌が、全身を一気に駆け巡った。 もう、感情を抑えきれなかった。 「洋一、最低!」 洋一の声が、途端に低く冷たく沈んだ。 「薫、謝りもしたし、プレゼントもやった。なにが不満なんだ。最低だと?お前がもっと抱いてくれと俺に縋りついてきた時は、最低じゃなかったのか」 目の前が真っ暗になった。 口を動かしたけれど、声が出なかった。 電話の向こうでは、有菜を優しくあやす声が聞こえ続けている。 「わかった、あれは、とりあえず先にあいつへ渡すだけだ。次はお前に、もっと大きなダイヤを買ってやるからな」 有菜が拗ねたように不満を漏らすと、彼はさらに甘く囁いた。 「俺のために頑張って働いてくれれば、何でも好きなものを与える。わかったか?」 私は力の限り、その指輪を壁に投げつけた。とめどなく涙が、頬を伝い落ちる。 「洋一!ひどすぎるわ!自分が昔言ったこと、もう忘れたの?」 結婚式の日、彼は私の頬に優しくキスをしてくれた。 そして、確かにこう言ったのだ。 「安心してくれ、薫。一生お前のそばにいるから。いつか子どもを作ろう。お前に似れば、絶対に可愛い子になる」 それなのに、今は―― 声もなく震えながら、ふと気づいた。電話は、とっくに切られていたのだ。 スマホが手から滑り落ち、床に転がった。私は呼吸をすることさえ満足にできなかった。 その時、リビングの方から騒がしい物音が聞こえてきた。 私は涙を拭い、勢いよくドアを開けた。 鍵が開けっぱなしだったのか、見知らぬ業者が入り込み、壁に巨大なウェディングフォトを飾りつけているところだった。 彼らは私を見ると、愛想よく笑いながらご祝儀を催促してきた。 「おめでとうございます、末永くお幸せに!」 「旦那様に本当に愛されてますねぇ。このウェディングフォト、お金に糸目をつけずに最高のプランで撮られたんですよね」 「本当にお似合いのカップルですよ」 私はゆっくりと顔を上げた。 そして、息が完全に止まった。 写真の中で微笑む新郎は、間違いなく洋一だった。 しかし、その隣で純白のドレスを身に纏う花嫁は、私ではなかった。 私は、力なく薄く笑った。 「そうね。あの人は、不倫相手にはお金を惜しまないから」 一瞬にして、部屋が凍りつくように静まりかえった。業者たちは気まずそうに小声で謝罪した。 私は再び、洋一に電話をかけた。 「……家に、写真が飾られてるわよ。洋一、あなたはまだ、私をどこまで辱めれば気が済むのかしら?」 第4話 電話の向こうに落ちた沈黙のなかで、洋一もようやく異変に気づいたようだった。 「どうした?」 私は、壁に飾られたウェディングフォトをスマホで撮り、彼に送信した。 「ちゃんと見て」 再び沈黙が落ちる。やがて、深いため息が聞こえた。 「送り先を間違えたんだろう」 「間違いですって?じゃあ、有菜とウェディングフォトを撮ったのも間違いだと言うの?」 洋一の口調は、少し困ったようだった。 「会社に来い。説明する」 通話が切れる。私はバッグを掴み、ふらつく足取りで家を出た。 胸の奥が、きつく締め付けられた。 公私のけじめだと言って、洋一はこれまで、私を絶対に会社へ来させなかった。まさか、その唯一の例外がこんな理由になるなんて、思いもしなかった。 エレベーターに乗ろうとしたところで、見知らぬ社員に呼び止められた。 「申し訳ありません、外部の方はオフィスに入れません。応接室でお待ちください」 私が口を開きかけたその時、有菜が突然姿を現した。 彼女は私の腕を引き、強引に中へ連れ込んだ。 「大丈夫ですよ、私の知り合いですから」 彼女はまるで自分がここの主であるかのように、我が物顔で振る舞っていた。 連れ込まれた部屋で、有菜はグラスに水を注ぎ、私に差し出してきた。 「社長は今、会議中です。少しお待ちくださいね」 私はそれを受け取ることなく、ゆっくりと部屋の中を見渡した。 ソファにはペアのパジャマが無造作に置かれていた。洋一のマグカップも、いつの間にかペアのものに変わっている。デスクの上には、ふたりで手作りしたと思われる小物が並んでいた。 思わず、自嘲の笑みが口元を歪めた。 結婚してから、私もずっと「一緒に何かを作りたい」と彼に言い続けていた。でも洋一はいつも気乗りしない顔をして、「時間がない」「また今度にしよう」と躱すばかりだった。 結局、その願いが叶うことはなかった。 今になって、ようやくわかった。 彼はただ、「私とは」一緒に何かを作りたくなかっただけなのだ。 有菜は私の視線に気づかないふりをして、笑いながら自分の荷物をまとめていた。 「誤解しないでくださいね。私と社長は、何でもないんですから。奥さんが傷つくのもわかります。夫婦の時間も少なくて、寂しいんですよね。あとでちゃんと、社長に話しておきますから。 でも、社長は体力がありますし、奥様は痛みに弱いですから……そういう気になれないのも、仕方ないかと……」 口ではそんな気遣うような言葉を並べながらも、彼女の口調には明らかな皮肉がにじみ出ていた。 心から血が流れるような、ひどい痛みを感じた。私は冷たく笑い返した。 「へえ。私たちの夫婦生活のことまで、随分と詳しく知っているのね」 有菜はくすりと笑い、少しだけ頬を赤らめてみせた。 「ううん、社長が私のことを信頼してくれているから……動画まで持っているんですよ」 彼女はスマホの画面をちらりと見せびらかすようにして、続けた。 「私の友だちも一緒に見たんですけど、みんな、奥さんはお堅すぎるって言ってましたよ。 まあでも、お母さんが愛人だったような人に育てられたなら、そういうふうになっちゃうのも……ねえ」 有菜の意味ありげな視線が、ゆっくりと私に向けられた。 全身がぞわりと総毛立った。震えが止まらなくなる。 「あなた、そこまで……」 有菜は笑みを隠すように、優しげな顔を作って私の手を取った。 「ふふ、悪気はないんですよ?ただ、あんなお母さんがいたら、社長に好かれないのも仕方ないですよねって話で」 私は勢いよく、その手を振り払った。呼吸が激しく乱れていく。 「母のことを、そんなふうに言わないで!」 母のことは当時、大きな騒動になった。 彼女は重い病気を患い、私を育てられなくなった。それでも私を連れて、遠い土地へ出稼ぎに出ていた父を頼り、会いに行ったのだ。 しかし、そこで私たちが目の当たりにしたのは、別の家庭を持ち、幸せそうに暮らす父の姿だった。 私たちは父の妻に追い出され、恥知らずだと口汚く罵られた。 母は私を守るため、最後は絶望のあまり、自ら壁に頭を打ちつけて命を絶ったのだ。 ――なのに母は、息絶えるその瞬間まで、何も知らなかった。 夫は家族のために出稼ぎで頑張ってくれているのだと、ずっと信じ切っていた。ずっと、騙されたまま死んでいったのだ。 この過去を知っているのは、洋一だけだった。 事もあろうに、彼はそれを……全部この女に話したのだ。 視界が怒りで真っ赤に染まった。私は咄嗟に平手打ちを食らわせようと手を振り上げた。 その瞬間、応接室に入ってきた洋一が、私を力強く押しのけた。 「薫、来てもらったのは話し合いのためだぞ!こんなところで暴れるな!」 私は彼を渾身の力で押し返し、そのまま胸倉をきつく掴み上げた。 「なんで私の動画を彼女に見せたの!母のことを、なんで話したの!あなただって知っているでしょう、うちの母は何も悪くなかったのにッ!」 洋一の声音はいくらか柔らかくなったものの、その表情は相変わらず、どこか他人事のようだった。 「有菜は、たまたまスマホを見てしまっただけだ。それに、友だちに見せただけで、絶対に外には出さないと約束してくれている。お前の母親のことは……」 彼は面倒そうに言葉を引き伸ばした。 「一方的に被害者ぶるのも、どうかと思うがな」 私は、乾いた笑いを漏らした。 目の前の景色が色を失い、真っ白に飛んでいくようだった。 被害者ぶる。 私はありったけの力を込めて、彼の頬を平手で張り飛ばした。 しかし、その勢いで私自身の体勢が崩れ、背後の大きな本棚に強くぶつかってしまった。 本棚が、ぐらりと大きく揺れた。 倒れてくる――そう思った、次の瞬間。 洋一は反射的に腕を伸ばし、有菜を庇うように抱き寄せた。 直後、凄まじい音とともに、私は重い棚の下敷きになって床に叩きつけられていた。 激痛のなか、意識が遠のいていく。薄れゆく視界で、彼の顔を見た。 最後の一瞬、洋一の瞳が大きく揺れ、こちらへ向かって駆け出してくるのが見えた。 次に病院のベッドで目が覚めた時、どれだけの時間が経っていたのかわからなかった。 肋骨が3本、折れていた。 スマホを見ると、今度は洋一からメッセージが届いていた。 【服を買いに来た。何が好きだ?】 だが、その写真の端には、試着している有菜の姿が見切れて映り込んでいた。 きっとまた、彼女の買い物の「ついで」なのだろう。 ふと、笑いたくなった。 あの洋一が自分からアクションを取ることなど、滅多にないことなのに。 それでも今回は、絶対に返事をしたくなかった。 私は静かに画面を操作し、彼の連絡先をブロックして削除した。 病室のサイドテーブルに、記入済みの離婚届を置いた。 そして痛む体を引きずり、空港へと向かった。 …… しばらく時間が経っても、薫からの返信はなかった。 眠ってしまったのだろうか。 洋一は彼女の好みに合わせて、何着か服を見繕って選んだ。 病院に戻り、病室のドアを開ける。しかし、そこにあったのはきれいに整えられた空っぽのベッドだけだった。 そして……真っ白なシーツの上に、ぽつんと置かれた離婚届。 洋一は、大きく目を見開いた。 手に持っていた紙袋が、音を立てて床に落ちた。