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彼女は地獄のような場所で、一輪の希望を咲かせた
妊娠中、情緒が不安定な私・朝比奈静葉(あさひな しずは)を心配して、夫が気を利かせ、親友の九条夏帆(くじょう かほ)と一緒に美味しいもの...
Chương (1)
第1章
妊娠中、情緒が不安定な私・朝比奈静葉(あさひな しずは)を心配して、夫が気を利かせ、親友の九条夏帆(くじょう かほ)と一緒に美味しいものでも食べて気分転換でもしてほしい、という計らいで、プライベートジェットを手配し、帰国させてくれた。
帰国後私は、その足で夏帆が予約してくれた行きつけのレストランへ向かった。
だが、個室のドアを開けた瞬間、室内にいた全員が一斉に顔を上げ、きょとんとした。
私はすぐに、部屋を間違えたことに気づいた。
「静葉さん?」誰かが私の名を呼び、鼻で笑ったようだった。「さっきグループチャットで言ったでしょ?今日の同窓会は、大学入試で高得点を取った人限定だって。あなたみたいな偏差値すら平均に届かないのが来てどうするの?」
その言葉が終わるのと同時に、個室内にくすくすと笑い声が広がり、続いて別の声が聞こえてきた。
「どうせ拓野さんが来るのを知ってて、よりを戻しに来たんだろう」
第1話
妊娠中、情緒が不安定な私・朝比奈静葉(あさひな しずは)を心配して、夫が気を利かせ、親友の九条夏帆(くじょう かほ)と一緒に美味しいものでも食べて気分転換でもしてほしい、という計らいで、プライベートジェットを手配し、帰国させてくれた。
帰国後私は、その足で夏帆が予約してくれた行きつけのレストランへ向かった。
だが、個室のドアを開けた瞬間、室内にいた全員が一斉に顔を上げ、きょとんとした。
私はすぐに、部屋を間違えたことに気づいた。
「静葉さん?」誰かが私の名を呼び、鼻で笑ったようだった。「さっきグループチャットで言ったでしょ?今日の同窓会は、大学入試で高得点を取った人限定だって。あなたみたいな偏差値すら平均に届かないのが来てどうするの?」
その言葉が終わるのと同時に、個室内にくすくすと笑い声が広がり、続いて別の声が聞こえてきた。
「どうせ拓野さんが来るのを知ってて、よりを戻しに来たんだろう」
「残念だねえ、もう無理だよ。拓野さんは今、市立病院の院長で、まもなく市長の娘さんと結婚するんだから。二人は正真正銘のハイスペックカップル。三流大学卒のお前がしゃしゃり出る幕はないんじゃないのか?」
「そうそう、当時、拓野さんは誰もが羨むほど、あれだけ尽くしたのにね。結果どう?拓野さんとの子供は障害児で、おまけに死んだらしいじゃない。それも自分が監督ミスだったんだろ?」
それを聞いて、私が説明しようとした瞬間、視界の隅に一人の男が見えた。あれは私がかつて6年間もの結婚生活を共にしてきた元夫の神谷拓野(かみや たくや)だ。そして彼は今も変わらず、無表情にお酒を飲んでいるだけで、私と目を合わせようともしないのだ。
高校時代の拓野は、周りから羨ましがられる彼氏で、私にとことん尽くしてくれてた。
私が物理の先生に叱られて泣いている時は、拓野は休み時間にわざわざ先生を呼び出し、私のために弁解をしてくれた時もあった。
私が他校のヤンキーに絡まれた時も、拓野が駆けつけて一人で全員をボコボコにしてくれた。さらに、私に「怖い思いをしてないか?」と一番に声をかけてくれた。
私の成績が伸びずに悩んでいた夜は、寮に忍び込んで、一晩中、私に数学の解き方を優しく教えてくれた。
極めつけは卒業式の当日、校門で人混みの中、みんなが見ている前で私にキスをしてくれたことだ。その写真が噂となり、いいね数は300万を超えた。
当時、コメント欄には、これこそが理想のカップルという言葉が溢れていた。
当然の流れで私たちは結婚した。8年間ずっと愛し合っていて、卒業から結婚まで、一生このまま添い遂げるものだと信じていた。
でも、すべてが崩れたのは、息子の神谷安人(かみや やすと)が生まれた瞬間のことだ。
息子が自閉症だと診断された日、拓野は私を抱きしめて慰めることなく、バルコニーで朝までタバコを吸い続けていた。
そこから口喧嘩が絶えなくなった。安人の治療方針、教育施設、病院の予約、どちらが仕事を休んで付き添うか……
私は拓野が無関心だと不満を持ち、拓野は私が取り乱していると責め続けた。
結局、拓野も嫌気がさしたようで、私と話すことすら避けるようになった。彼は家から逃げるように病院に泊まり込み、「忙しいから」と言って、私を突き放した。
「もし子供がまともじゃないなんてわかっていたら、俺は君となんて結婚しなかった」
そして、安人が急死した日、私たちは喧嘩をすることもなく、淡々と納骨を済ませて、離婚届を出しに行った。
……
「静葉?」
そう思い返していると、いつの間にか夏帆が扉の外に立っていた。どうやら私が別の部屋に入ったことに気づいて探しに来たようだ。
夏帆が私の手を引き、焦った様子で言う。「ちょっと、やっと見つけたわよ!
旦那さんから私に連絡がなかったら、もう来てたなんて気が付かなかったよ!さっきから旦那さんの電話がひっきりなしに掛かって来ているんだけど、あなたがこれ以上現れなかったら、警察に連絡をしていたかもよ!」
夏帆はそう言って私を引きずりながら部屋を出ようとした瞬間、後ろでクスクス笑う声が聞こえた。
「うわ、これは役者でも雇ってきてるってこと?」
「拓野さんが今さらお前に未練なんてあるわけないだろ?結婚したフリなんて誰に見せつけるんだよ」
「ほんと、そんな見苦しい茶番で私たちをバカにするのも大概にしてよね」
嘲笑が激しくなる中、主席にいた拓野がようやく口を開いた。
「いいから」
拓野がグラスを置き、冷たい眼差しで私を見た。
「静葉。そういう卑怯な手段はいい加減にしろ。一度別れた女とよりを戻すほど、俺は未練たらしくないんだ。
しかも、もう腐れ切った縁だ。よりを戻すなんてもってのほかだからな」
その言葉に、部屋の空気が一瞬固まり、気まずい沈黙が続いたあとクスクス笑いが聞こえてきた。
夏帆がブチ切れそうになったが、私は彼女を止めて勢いよく個室を出た。
だから去り際、後ろから向けられた鋭い視線には気が付かなかったのだ。
一方、夏帆はまだ腹を立てていた。「何なのよ、あの男。学生時代はあなたにへばりついていたそうじゃない、今になって気取るようになったわけ!」
それを聞いて、私は苦笑いしながら、彼女をなだめた。
それから帰宅後、私は夫の朝比奈陽翔(あさひな はると)に電話した。そして帰国後に起きた他愛のない話で笑い合った。拓野はというと、二度と会うこともないだろうし、どうでもいい存在だから、敢えて口にしなかったのだ。
まして陽翔は独占欲が強すぎて、勘ぐられるのも面倒だしね。
しかし、まさか次の日に病院の廊下で、白衣姿の拓野に遭遇するなんて、私も予想外だった。
彼に気づいて少し歩みを緩めたが、それでも私は見て見ぬふりをして産婦人科へと急いだ。
「静葉」
拓野は私を呼び止めようとした。だが、私は振り返らなかった。すると、背後から追いかけてきた彼が私の腕を強く掴んだ。
そのひんやりとした長い指に力はそれほど込めていなかったが、離そうともしなかった。
それを見た通りかかった看護師も不思議そうに私たちに視線を向けた。
私は渋々歩みを止めて振り返るしかなかった。
一方、拓野は苛立ちを隠さずに私を見下ろした。
「何をするつもりだ?
昨日は同窓会、今日は病院か?俺と会うために病気の振りまでするなんて、どんだけ俺に未練があるんだ?わざわざ気を惹こうとするなんて見苦しいと思わないか?」
私はおかしくて吹き出しそうになった。
「拓野さん!」
その時、可愛らしい声に、拓野はすかさず手を離して目を向けた。
そこに、ポニーテールをした女性が拓野を慕うような瞳で笑いかけているのだった。
「3番の患者さん、ついに協力してくれることになったわ!3日間通い詰めて、私の手作りの差し入れをしたら、今日、ついに笑顔を見せてくれたの!」
それを聞いて、拓野はふいに口角をあげ、冷たいその表情が嘘のように和らいでいった。
そして、彼女が話し終えると、ようやく私に気づいたようだった。
「あ、そちらの方は……」
拓野は答えなかったから、彼女は少し考えるような表情を浮かべてから、ニコッと笑った。
「診察でしょうか?あいにく拓野さんは忙しいのよ、診察も予約待ちでいっぱいなんです。だって、拓野さんを頼ってくる方は山ほどいますからね」
この女性は市長令嬢で、当時拓野のもとで研修をしていた、江藤莉香(えとう りか)だ。
そして、私たちの結婚生活に深く刺さった「トゲ」でもあった。
当初、何度か莉香について拓野と言い合ったけれど、いつも彼は私に「大人げない」、「研修医相手に嫉妬するなんてどうかしてる」と言い返してきた。
だけど、本当に彼が言うように私はどうかしているのだろうか?
実際、莉香が医療ミスをした時は、拓野が全部責任を被って始末書を書いた。
莉香がカルテを書けずトラブルになった時も、彼は自分のサインで彼女のミスを隠蔽しようとした。
莉香が患者に食ってかかった時も、拓野が盾となって罵倒を受け止めた。
息子の安人が障害児として周囲に責め立てられて私が途方に暮れていた時、拓野はいつも莉香の傍に付き添ってあげていた。
だが、今となってはもはやどうでもいいことだ。私は莉香の皮肉には構わず、そのまま産婦人科へと向かった。
産婦人科の診療室で、私は席につくなりすぐに言った。
「木下先生、私、転院したいんですが……」
第2話
木下哲平(きのした てっぺい)は一瞬きょとんとして、私の顔を一度見てから、パソコンの画面に再び目を落とした。そして、彼は表情を少し曇らせて言った。
「朝比奈さん、もうこちらの病院で出産する予定になってますし、これまでの健診結果もすべてシステムに登録済みです。もし今から転院がご希望の場合……手続きを全部済まさないと、移るのは難しいですね。
カルテの移行には手順が必要で、最短でも4週間はかかりますよ」
哲平は少し間を置くと、柔らかい声で付け加えた。「もし何かご不満な点があれば、おっしゃってください。調整しますから」
4週間も?
私は苦笑して首を振って言った。「夫がもうすぐ帰国するんです。だから自宅に近い病院に変えたくて。他の理由ではないんです」
哲平は表情を和らげた。「なるほど、お気持ちはお察し致します。わかりました。まずは焦らず、書類の手続きを進めましょう。ただし、その間も定期健診は必要ですから、明日また来てください」
私は頷いて了承した。しかし診察室を出た直後、またもや拓野と出くわしたのだった。
彼は廊下の壁に背を預けていた。産婦人科から出てきた私を見るなり、眉間にしわを寄せ、何か言いかけようとした。
「うわ、もしかして静葉さん、妊娠中なのですか?」
莉香が拓野の背後から顔を出し、首をかしげながら私を見つめた。
「誰の子を身ごもられたのですか?」
莉香の甲高い声は、廊下を歩く人々の耳にも届いた。
私はうんざりしたが、隠す気もなかったので言い返そうとした瞬間、廊下の突き当たりから悲鳴が響いた。
「江藤!娘の命を返せ!」
一人の男がナイフを振り上げ、血まみれの姿で駆け込んできた。
拓野が即座に顔色を変え、本能的に一歩前へ出た。莉香をかばうように立ちはだかる。
だけど私はただ健診しにきているだけだから、争いに巻き込まれたくなかったし、お腹の子に危険が及ぶのは避けたかった。
そう思って、私は逃げようと診察室の方へ下がったが、狭い廊下は人で溢れかえっていて、私がドアに手をかける前に、背中を莉香に押されてしまったのだった。
その勢いでバランスを崩し、私は拓野の方へ倒れ込んでしまった。
そして、ナイフが振り下ろされたとき、相手の顔さえハッキリと見えていなかったのに、肩に冷たく鋭い痛みが走った。
見下ろすと、ナイフが深く私の肩に突き刺さっていた。血が刃を伝って溢れ出し、袖を濡らして、ポタポタと床に落ちていく。
一方、拓野も自分をかばって傷ついた私を見て、表情を一変させた。
その時、犯人は刺す相手を間違えたと気づき、悪態をついて私を突き放した。
弾き飛ばされ、私の腹部が消火栓の角に激突してしまい、激痛が走り、私は思わず蹲り、目の前がクラっとした。
それから犯人は駆けつけた警備員に取り押さえられ、ナイフが地面に落ちるのと同時に背後から莉香の怯えた声が聞こえてきた。
「わざとじゃないの……怖かっただけで、そんなつもりじゃ……」
目を向けると、拓野の顔が霞む視界に入った。でも、彼は私を見ていなかった。
急いで辺りをかき分けて駆け抜けると、彼は泣きながら震える莉香を抱きかかえた。
「大丈夫だ、君のせいじゃない」
莉香が泣きながら首を振る。「でも、静葉さんが怪我を……」
拓野は私を一瞥しただけで、どこを怪我しているかも見ようとせず、視線をすぐに戻した。
「彼女はただ怪我の振りをしているだけだよ」拓野は莉香を安心させるように言った。「それより君はどうだ?」
一方私は痛みのあまり、声を出さなかった。もう限界だったからだ。
視界がぐるりと回り、拓野の姿は白くぼやけていった。
それから目が覚めたとき、私は病室にいた。肩が痛む。でも一番痛いのは、お腹の方だった。
その傍らに拓野は腰を掛けていた。私の意識が戻ったのを見ると、彼は冷たく視線を逸らした。
私が子供が無事か聞こうとするよりも早く、拓野が皮肉めいた声で吐き捨てるように言った。
「復縁するために、こんな大それた真似までやるなんてな。静葉、前なら少しの怪我でも死にそうに泣いていたのに。
離婚してからずいぶん汚い手を使うようになったんだな?
だが、諦めろ」
拓野が立ち上がり、椅子が床の上をガタっと鳴った。
「俺を救ったからといって、恩返しによりを戻すつもりはないから。ドラマじゃないんだ。その卑屈な苦肉の策は俺には通じない」
そう言って、拓野は私に視線を向けた。まるで、私がいじけて泣き出し彼の慰めの言葉を乞うのを待っているかのようだった。
「あなたを助けようとしたわけじゃないわ」
弱々しくも、どこか苛立った響きのある私の口調に、拓野は驚いて絶句していた。
彼に私の妊娠を明かした記憶はない。医師がまだ何も言わないということは、この子は無事だ。それだけが私にとってせめてものの救いだった。
だが、拓野はその言葉が不快に感じたようで、私がどうせまた気を引こうとしているのだと決めつけ、続けた。
「どうしてもやり直したいなら、考えてやれなくもないのだが、その前に協力してもらいたいことがある。
まずは、莉香のために釈明をして欲しい。誰かが莉香がお前を押した動画をアップして騒ぎになっているんだ。莉香は医者だぞ。そんな誹謗中傷を受けて彼女がどれだけ傷つくと思う?だからお前からあれはお前が自ら身を呈して庇ったのだと説明してくれ。
それにお前はまだあのフォロワー100万人のアカウントを持っているんだろう?
彼女の医師としての立場を守るためだ。理解できるよな」
それを聞いて、手のひらに爪を食い込ませ、痛みが広がって、私はようやく口を開いた。
「私が江藤先生のために釈明をするとしたら、一体誰が……安人の無念を晴らしてくれるっていうの?」
それを聞いて、拓野の表情は一変し、冷たくなった。その表情には何か言いようのない感情がこもっているようだった。
第3話
あの日、仕事が立て込んでいた私は、安人を拓野に託して病院へ預けることにした。
「部屋で静かに待たせていてね。安人は騒がないし、紙とペンさえあれば、お絵描きに集中して夕方まで持ちこたえるから」と、拓野に何度も念を押したはずだった。
自閉症を持つ安人は、新しい場所も人混みも大の苦手だ。何に気を配るべきか、拓野も十分知っているはずだった。
しかし、あの日私は会議の合間にかかってきた電話に出られず、掛け直した時、電話口に出たのは警察だった。
当時拓野の院長室には、莉香しか行っていなかったそうだ。
莉香は体を震わせて泣きじゃくりながら、ほんの一瞬目を離した隙に安人の姿が消えていたのだと説明した。必死に探し回ってようやく見つけた時には、安人はすでに溺れていたのだという。
だけど、安人はまだ3歳だ。自閉症を抱えるあの子が、自ら進んで他人について行ったり、近づこうともしない水場へふらふらと走っていくはずがないのだ。
しかし、私の切実な声に耳を傾けてくれる人は誰一人としていなかった。
莉香の方がよほど哀れに泣き崩れたから。彼女はすぐさま拓野を探しに行き、そして霊安室の前で深々と頭を下げ、「私が責任を取るわ。一生償わせて」と必死に謝った。
一方、拓野はそんな莉香の手を優しく引き上げ、こう言った。「君を責めるつもりはないよ」
そう言って、拓野は私の了承なしに事を済ませようとした。私が駆けつけた時、安人はすでに白い布に覆われていて、拓野は目元を赤く染めながら、傍に立っているだけだった。
さらに、拓野はこう言い放った。「君が仕事にかまけてばっかりいるからだよ。もう少しちゃんと面倒を見てやれたら、こんなことにならなかったはずだ」
拓野は何もかもを私のせいにした。安人を彼に託したあの日、本当は何があったのか。事実確認すらしようとしなかった。
彼はただ、自分が大切にしている莉香が怯えて泣いているから、彼女はもう十分反省している、彼女だってわざとじゃないんだ、などしか気にしていなかった。
そして、今も、拓野は、思い出したくもないと言いたげに、口元を引き締めた。
「とりあえず莉香の潔白を証明してやってくれ」と彼は苛立った口調で取ってつけたかのように言った。「そうすれば、また改めて調査し直してやるから、いいだろ?」
それを聞いて、私はもうこれ以上、拓野と話し合っても無駄だと思った。
こんな相手と無益な議論を繰り返して自分を泥沼に引きずり込んでも、待っているのは空しい結末だけだ。
「スマホを貸して」
予想外のことにもすんなりと折れた私の態度に、拓野は呆気に取られたように顔を上げた。
彼が枕元から私のスマホを取ると、手渡してきた。かすかに指先が触れたが、彼はすぐに手を引っ込めた。
一方私は、スマホを受け取ると、数年間も放置していたそのアカウントにログインをした。
すると、読み込みが終わった途端、通知の山が炸裂した。未読のダイレクトメールが9000件超、コメント欄は4万件に達していた。溢れかえったイイネやリツイートの通知で画面が見えないほどだった。
このアカウントは、結婚当時、拓野と二人で一緒に始めたものだった。
当時の私たちは大学入試を終えたばかりで、試験会場から出てきて熱烈なキスシーンを投稿したツイートには、300万イイネがついたのだった。
その勢いで私は拓野を誘い、共通アカウントを作って幸せな日常を投稿しようと提案した。
拓野は面倒臭がっていたがそれでも了承をしてくれた。だから投稿された動画に映る拓野はいつも気乗りしない様子だったが、微かな笑みも見せていた。
ゆるい更新を続けていた数年の間に、ファンはいつのまにか百万人を超えていた。
最後に更新したのは、私たちの結婚式の写真だ。【これからも末永く】というキャプションをおき投稿は途切れたままだった。
それでも私はアカウントを消さずにいた。ただ、あれからログインすることもなかった。
そう思い返しながら、私は震える指で撮影ボタンをタップし、言うべきことを言って投稿した。
動画がアップロードされた途端、更新の嵐が始まった。
【本当に静葉ちゃん?久しぶり!】
【静葉さん、ケガしたんですか?例の動画で、血がたくさん流れてましたから……】
【今も拓野さんと一緒ですか?昔の動画、全部観ましたよ。大好きでした!】
私はその【まだ一緒にいるのか】というコメントを開き、一つ一つ文字を打ち込んだ。
【とっくに離婚しました。皆さん、今まで気にかけてくださり、ありがとうございました】
送信したあと、画面が暗くなった時、私はふと拓野の鋭い眼差しに気が付いた。
第4話
だが、私は怯むことなく、拓野の目をじっと見つめ返し、スマホを彼の目の前に突きつけた。
「私たち二人の関係についても、はっきりさせておいたよ」それから私は一語一句、力を込めて告げた。「だから、もう私に近づかないで。分かった?」
拓野は眉間にしわを寄せ、理解できないものを見るような目で私を見下ろした。
何か言おうと口を開きかけたその時、看護師がトレイを持って病室に入ってきた。トレイには輸液のボトルとチューブが載っている。
「点滴の時間ですよ」
私は条件反射で頷いて手を伸ばしかけたが、ふと手が止まった。何かを感じ取り、恐る恐る看護師の腕をつかんだ。
「どうして点滴なんですか?私の体に、何か問題でも……」
看護師はちらりと拓野を見た。彼はベッドの脇に立ったまま、彫像のように感情の読めない顔でこちらを見ている。
看護師は視線を戻すと、私に微笑みかけた。「ご安心を。体力が少し落ちているみたいですから、元気が出る点滴ですよ」
私は安堵して力を抜き、素直に袖を捲り上げた。
だが、拓野は部屋から出て行かなかった。彼は点滴をじっと見つめたままカウントをしていた。私は早く出て行ってほしかったけれど、ふと声を出す力すら残っていないことに気が付いた。
話したくないわけではない。ただ、体の中に少しずつ異変が起きていた。
指先、手首、腕全体へと、鉛を流し込まれたかのように重い痺れが広がっていく。体は言うことを聞かなくなった。
意識は鮮明だ。でも、体はもう自分のものではなくなったようだった。
そんな中、拓野が身を乗り出して、身動き一つできない私に囁いた。
「莉香のためにあと一つ協力しろ。そうしたら、俺たち二人のことを改めて考えてやってもいい」
私がその言葉の意味を理解する前に、病室の外が騒がしくなった。
莉香を先頭に、白衣を着た研修医と思しき6人の男たちを引き連れて入って来た。
「みんな入ってください。さあこちらに並んでください」そう言って莉香は笑いながら体を横にずらした。「院長の許可を得た特別講義ですよ。人体標本の触診だから、よく見て学んでくださいね」
一方それを聞いた私は血の気がサーッと引いた。叫ぼうとしたが、体が動かなかった。瞬きさえできないまま、迫り来る彼らの影を見つめるしかなかった。
並ぶ白衣を着た彼らはマスクをしていて、見知らぬ顔ばかりで、冷たい視線を向けてきているのだった。
拓野はベッドの足元に立ち、両手をポケットに入れたまま、その様子をじっと眺めていた。
彼は止めるどころか、見やすいようにと、少し頭を傾ける仕草すら見せた。
次の瞬間、布団が剥ぎ取られ、服がはだけさせられ、ペンライトの眩しい光が瞳を突き刺し、私の涙が止まらなくなった。
何か話そうとすると、口の中に無機質な金属を奥まで突っ込まれ、激痛と羞恥心で私は胸が張り裂けそうになった。
顔を真っ赤に染め、ひたすら涙を流す私を、彼らは容赦なく実験台のように扱った。
「実際に触ってみてください」と莉香の声が響く。「腹腔内器官の位置を、手でしっかり確認しましょう」
そんな中、男性研修医の一人が私の下腹部に手を当て、長時間弄くり回した。暫くして、周りから薄笑いが聞こえてきた。「うわ、結構小さいんですね」
私は窒息しそうなほどの恐怖の中で、声にならない嗚咽を上げるしかなかった。
「江藤先生、このモデル、本当に従順ですね。ずっと動かないのですね」
「当然ですよ。プロなんですから」
莉香は笑い声を上げると、私の耳元でこう囁いた。
「ねえ静葉さん、泣かないでくださいよ。昔は結構我慢強かったじゃない。自分の子供を死なせた時だって、そんな泣き顔じゃなかったでしょう?」
どれだけ時間が経ったのだろう。屈辱の時間が過ぎ去るのを、私はただ待ちわびるしかなかった。
それから、彼らはランチをどこで取ろうかと相談し笑いながら部屋を後にすると、病室の扉がやっと閉まり、静寂が戻った。
彼らに好きなだけ扱われた私だけが残った。
病衣はだらりと脱げ、体中はあちこちに赤く触られた痕が残り、私はただそこに横たわっていた。
拓野がベッドに近づいてきて、みすぼらしい私の姿を見下ろすが、罪の意識など欠片もなさそうだ。
「莉香は資格試験まであと少しだ。これで単位が取れて、正式に医師になれるんだよ」
私がまだ震えて泣いているのを見て、拓野はわずかに眉を寄せた。
「何泣いてるんだ?」その声は不快さを帯びているのだった。「これだけのチャンスをあげただろ?俺がやり直してやるって言ってるんだから、十分だろ?」
その言葉には、施しを与えてやっているという傲慢さが溢れていた。
「心配するな、お前を嫌ったりなんてしないし、ちゃんと考えてやるから感謝しろよ」
それだけ言って、拓野は冷たく部屋を出て行った。
けれど、私が泣き止まない理由はそんなことじゃなかった。腹の中に、刺すような激痛が広がっていたから。
第5話
消火栓にぶつかった時の痛みよりも酷く、あまりの痛さに、指先がようやく少し動かせた。
体を丸めてうずくまるうちに、私は急に恐ろしくなってきた。
「先生……」
呼んでも返事がないので、激痛に耐えながら、ベッドサイドのナースコールを押した。
廊下からようやく足音が聞こえ、数人の看護師が部屋に入ってきた。これで助かったと、思わず肩の力が抜けた。
「起きてください」看護師はそう言って、冷たい声で私の掛け布団をはぎ取った。
私は状況が飲み込めないまま、腕を掴まれて引きずり降ろされる。足に力が入らずその場で膝をつきかけたが、支えてさえもらえなかった。
私の腕を掴み廊下へと引きずり出すと、冷たい椅子の上に放り出した。
お腹を抱え、私は硬いプラスチックの椅子の上で蹲った。そして血が足を伝い、床や椅子へ滴り落ちた。
「院長からのお達しです。あなたには入院の必要はないから出ていってください。江藤先生のお母さんが貧血で運ばれてきたから、今すぐそこを空けてください」
看護師の言葉に、私は椅子から崩れ落ちた。廊下の向こうから、ストレッチャーを走らせてくる拓野と莉香の姿が見えたからだ。
二人が横を通り過ぎた瞬間、どうしようもなくなった私は思わず、渾身の力で拓野の服の袖を掴んだ。
すると、拓野は足を止め、仕方なく私を見下ろした。
ストレッチャーは、そのまま莉香と看護師たちによって私の元いた病室へ運び込まれていった。
拓野の顔には露骨に不快感が浮かんでいた。取り繕うことさえしない彼の態度に私は絶望の淵へと追い込まれ、恐怖が全身を駆け巡った。
「拓野……お願い。私、妊娠しているの。お腹がすごく痛いの、助けて」
震える声で私は懇願した。それと同時にこう続けた。
「今回だけ、お願い。助けてくれたら、もう二度とあなたの前には現れないから」
それを聞いて拓野は固まった。
私の顔とお腹に交互に視線を走らせる。嘘か本当かを見極めようと、眉をひそめて少しだけ迷っている様子だった。
その時、「拓野さん!お母さんが!お母さんの意識がもうなくなったの!」
莉香の泣き声が響くと、拓野は乱暴に私の手を振り払った。
勢いよく仰け反った私の後頭部が、椅子の金属部分に打ちつけられ、視界が一気に暗くなる。
「結婚しただの妊娠してるだの、どれだけ口からデタラメを吐けば気が済むんだ?」拓野は呆れたように鼻で笑った。
「どうせ大したことがないなら、余計な手間をかけさせるな。お前のせいで、本当に必要な人がちゃんと診てもらえなくなるだろ?」
そう言い捨て、拓野は振り返ることなく走り去り、病室のドアを力一杯に閉めた。
廊下には静寂が戻った。
私は廊下の真ん中に膝をつき、空中に手をかざしていた。何かを掴もうとしているようだった。
けれど、結局なにも掴めずにいた。
流れる血、止まらない激痛。視界の端から徐々に暗くなり、やがて何も見えなくなった。
……
目を覚ますと、体に明らかな異変があった。お腹が空っぽだと分かった瞬間、体の痛みも忘れて飛び起き、裸足のまま走り出した。
拓野と莉香を探さなければ。私の子を奪った二人を、あんなのうのうと生き延びさせておくわけにはいかない。
元いた病室の前で足を止める。ドアは半開きになっており、中の話し声が聞こえた。
「拓野くん、この数年は本当にありがとうね。うちの莉香をずっと支えてくれて、あの事件のことだって、莉香が悪かったのにいつもあなたが後始末をつけてくれて……」
続いて、中から拓野のどうでもよさそうな淡々とした声が返ってきた。
「お気になさらないでください。莉香はまだ若いし、未来がありますから。
それに、言ってしまえばあの子は生まれつき病気で、いずれにせよ先は長くなかったんです。かえってだらだらと生き延びさせないほうが、本人にとっても私たちにとってもためになるんです」
第6話
私は病室の外で凍りついていた。血の気がすっと引き、血管に氷水が流し込まれたような感覚だった。
拓野は知っていたのだ。最初から、ずっと。
安人が自分で迷子になったのではない。莉香が湖に連れ出したんだ。
事故じゃない。これは過失だ。人殺しだ。
そんな重大な秘密を何年も隠し続け、一度だって私に知らせなかった。
拓野は莉香の嘘を隠し通し、罪を肩代わりし、汚れた痕跡を拭ってやった挙句、平然と彼女といちゃついているのだ。
真実の重みに、もう耐えられなかった。私は激しい衝動に突き動かされ、ドアを押し開けた。
すると、病室の3人が私を見た。そんな中、私は拓野に詰め寄ると、思い切り平手打ちをした。手のひらが痺れるほどの衝撃だったが、彼はやり返そうとしなかった。
続いて私は莉香にも手を振り上げようとした。
しかし、振り下ろす寸前で強い力で押し返され、私は勢い余って地面に倒れ込んでしまった。
一方、拓野は手をおろすと、見下すような冷たい目で私を睨みつけた。
「いい加減、何を騒いでいるんだ?」
だが、私は返事をせず立ち上がり、勢いよく病院のロビーへ駆け出した。
待合室はいつもの風景が広がっていた。受付には長蛇の列。その平穏な日常を私はただひたすらぶち壊したかった。
「神谷院長と江藤先生が、私の二人の子供を殺したのです!どうか真実を暴いてください!
一人は3歳の息子、湖で溺死させられました。二人目のお腹の子だって、二人に病室を追い出されて、そのまま流産させられました!」
喉が張り裂けそうな声で叫び続けた。それでも私は止めようとしなかった。だってここで言わなかったら、もう真実を世に知らしめるチャンスはないと思ったから。
すると、そこへ数人の看護師が慌てて駆け寄り、撮影している人々を止めようとした。
「撮らないでください!こちらの方は精神的に不安定なんです、もうやめてください!」
彼女らに押され、群衆が離れていくと、廊下の端から拓野と莉香、そして江藤佳子(えとう よしこ)が姿を現した。
拓野は私の前で立ち止まり、憐れみにみちた目線を向けてきた。
「静葉。俺はこの病院の院長だ。何をどう暴こうが、警察を呼ぼうが、ネットで騒ごうが自由だ。それで、俺の座が揺らぐとでも思ったか?」
そして、返事をしない私を見て、拓野はため息をつき、詰め寄ってきた。
その瞳には、ようやく幾分かの感情が浮かび、申し訳なさというより聞き分けのない子どもに対しうんざりしたような様子だった。
「いい加減にしろよ。安人の件は事故だ。何年前の話だよ。誰も覚えていないし、今更警察が動くはずもないだろう?
分かっただろう?静かにしろ。復縁してやるし、また元気な子供を産めばいいだろ?」
頭を撫でようとする拓野の手を払いのけ、涙で真っ赤な目をして、私は奥歯を噛み締めて言い返した。
「通報させてもらう。安人を殺した犯人を見つけるの。あなたと江藤先生を絶対に許さない!」
すると、拓野の手が宙で止まり、その目は氷のように冷え切っていき、彼はもう何も言わなくなった。
次の瞬間、私の頬に強烈な衝撃が走った。
口の中が切れ、生臭い血の味が広がった。顔の半分が腫れ上がり、目が開かないくらいになった。
目の前では佳子が息を切らして立っていた。私を叩いた手は上がったままだった。
「うちの娘は悪くないわ!証拠はあるの?
それに、いつまでもこんなことに執着して、結局金が目当てなんでしょ?いいこと、こっちは金ならいくらでもあるんだからね!」
佳子はバッグから札束を取り出し、迷いなく私の顔に投げつけた。
現金の束が肌を打ち、角が頬を切り裂く。痛みは鋭く、刃物のように私の心まで貫いた。
さらに佳子は持っていた札束をすべて、頭上から派手にばら撒いた。
札が秋の落ち葉のように舞い、ゆっくりと私の周りに降り積もっていく。
そして、金に囲まれ、ひざまずく私を、拓野はただ無表情に見ていた。
これは私の人生で二度目の、徹底的な絶望だった。
一度目は安人が亡くなった日、二度目が、今この瞬間。
しかし、佳子の攻撃はまだ終わらない。彼女は群衆の方を向き、けたたましく喚き立てた。
「見てこの女!なんて図々しいの。うちの娘の恋人を誘惑して、病気の振りをして縋ろうとしているのよ!
娘の優しさを利用してのし上がってきたうえ、逆ギレして責任転嫁してるのよ。証拠もないのに大騒ぎして、見苦しいにもほどがあるわ!
言っておくけれど、以前子供を死なせたのもこの女自身の監督不行き届きなのよ。外で男遊びに夢中で気づかなかったの。それを他人のせいにしているんだから!
この女は精神的に病んでいるの。頭がおかしいのよ!」
言葉に勢いづき、佳子はさらに冷たく笑いながら私を睨みつけた。
「うちの夫が誰なのか知っているの?よくもまあ私の娘にそんな態度が取れたわね。
許さない。もうこの街で二度と仕事にありつけないようにしてやるわ。どの病院だって行けないようにしてやる。診療所だって同じよ。
通報だって?そんなことしたって捕まるのはそっちのほうよ。暴力騒ぎを起こして人を陥れて、どれをとっても立派な犯罪じゃない?
今に逮捕させてやるから。二度と出てこられないようにね」
そう言って佳子が再び手を上げた。私は身構えて目をつむったが、痛みは感じられなかった。
なぜかと思い目を開けると、佳子は背後から凄まじい力で引き倒されていた。
そして、手首をねじ上げられ、地面に顔を押し付けられていたのだった。
「いたた……何するのよ!」
佳子は必死にもがいたが、彼女をねじ伏せていた制服を着た男は彼女を押さえつけながら、手際よく手錠を出してきた。
それを見て、私は言葉を失い、その場にいた誰もが固まってしまったのだ。
ロビーは一瞬沈黙に包まれた。そして、すぐにまたどよめいた。
それから、ロビーのあちこちから警察が続々と現れ、ものの数分で周囲を囲んでしまった。
私は茫然と外を見ると、眩しい光の中に一人の男が歩み寄ってくる姿があった。