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難産で死に戻った私。偽善な夫を捨てて即離婚!
社内の誰もが、渡辺空(わたなべ そら)が妻の渡辺蛍(わたなべ ほたる)を心から愛していることを知っていた。 蛍の誕生日には、給料の3ヶ月分...
Chương (1)
第1章
社内の誰もが、渡辺空(わたなべ そら)が妻の渡辺蛍(わたなべ ほたる)を心から愛していることを知っていた。
蛍の誕生日には、給料の3ヶ月分を使って人気のケーキを買ってきた。
蛍が体調を崩せば、身代わりになりたいと嘆き、昼夜問わず寄り添って看病した。
空が表彰された日、彼は全社員の前で蛍にプロポーズし、愛の誓いを立てた。
2人の話は職場でも有名になり、理想のカップルと誰もが憧れた。
まさか、幸せな結婚生活は3年にして、難産という最悪の結末を迎える。彼女の最期の言葉はこうだった。
「人生がやり直せても、もう二度とあなたと結婚しない」
目覚めると、蛍は空と結婚したばかりのあの日に戻っていた。
彼女は迷わず、離婚届を差し出した。
「空さん、約束通り、縁を切るね」
第1話
「蛍さんが大出血です!すぐに輸血の準備を!」
「蛍さんのバイタルが急低下しています。電気ショックの準備を!」
「いきます、3、2、1……充電完了!」
焦点の合わない目で天井を見つめる渡辺蛍(わたなべ ほたる)の周りで、医師や看護師たちが慌ただしく動き回っているのが見えた。
お腹に突き刺さるような激痛が走り、ここ10ヶ月間、自分と一緒に過ごしてきた重みが急に消えていく感覚があった。
医師は悲しげな表情で告げた。「残念ですが、手遅れでした。お子さんは、もう亡くなっています」
蛍の鼓動が激しく一度跳ね、モニターには平坦な一本の線が伸びた。だが、やがて弱々しくも再びリズムを刻み始める。さっきまでの激痛は嘘のように消え去り、氷のように冷たいはずの手術台が、今は雲の上のように柔らかく彼女を包み込んでいた。
「……全力を尽くしましたが。ご主人を呼んでください。これが最後のお別れになります」
手術室のドアが開くと、大柄な男性が蛍のそばに飛び込んできた。彼は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、「蛍、俺を置いていかないでくれ!」とすがりついた。
若い看護師たちまでもが、その光景に涙を拭った。
愛し続けた夫を見つめながら、蛍は人生の最後でようやく、自分がこの人を何も分かっていなかったことに気づいた。
彼女は震える手で渡辺空(わたなべ そら)の頬に触れ、かすかに微笑んだ。「空さん……あなたを愛したこと、後悔してないよ」
空は喉を詰まらせ、言葉さえ出てこない様子だった。
しかし、蛍が続けた最後の言葉は残酷だった。「人生がやり直せても、もう二度とあなたと結婚しない」
その言葉が途切れると同時に、空の頬に触れていた手は力なく落ち、蛍は永遠の眠りについた。
「そんな……嘘だ!」空の悲痛な叫びが響いた。
……
蛍は夢から飛び起きた。全身が冷や汗で濡れていて、パジャマまでびっしょりだった。
窓の外には月が明るく輝き、室内を照らしている。ふと見渡せば、枕元にはまだ新しさの残る婚礼用の華やかな装飾が並び、布団や枕も新調されたばかりの鮮やかな色に包まれている。部屋中が、あふれんばかりの幸福感に満ちていた。
これは空と結婚したばかりの頃、会社からあてがわれた社宅だ。
何かを思い出したように、蛍は明かりをつけて鏡の前に座った。
鏡の中にいる女の肌は雪のように白く、瞳には若々しい生気が宿っている。人生の終焉を迎えようとしていたあの時の、疲れ果てた自分の姿とは、まさに雲泥の差だった。
「もしかして……時を遡ったの?」蛍は独り言をこぼした。
彼女は立ち上がり、幸せの色に染まった新婚の部屋をあらためて見渡した。壁に飾られた二人の結婚写真は一点の曇りもなく美しく、かつて彼女が何よりも誇りに思っていた結婚生活そのものだった。
だが、そのまばゆい光景こそが、後に彼女をどん底へと突き落とす無情な一撃となるのだ。
前世で身重だった彼女は、正月なのに仕事だと出かけた空に手作り弁当を持って会いにいったが、彼は3日前から休みを取っていたと言われた。
何か事情があるに違いない。そう自分に言い聞かせ、必死に友人の間を回り、ようやく辿り着いたのは街外れに建つ豪華な洋館だった。
雪が降りしきる冬の夜。手作り弁当を温め続けながら駆けつけた彼女が見たのは、ありえない光景だった。手作り弁当が手から落ち、無残に散らばる。
温かな灯りに照らされた室内で、仕事だと言っていた空が、見知らぬ女と睦まじく料理を囲んでいた。女が後ろから彼を抱きしめ、二人は幸せそうに微笑み合う。その姿は、どこからどう見ても幸せな家族そのものだった。
大きなショックで茫然自失となって歩いていた蛍は、車に跳ね飛ばされた。足元から流れた血が、雪の道を赤く染めていった。
悲鳴を聞きつけた人が飛び出してきた。「なんてことだ……正月に、妊婦さんがこんな目に遭うなんて!」
瞳に降り注いだ雪の冷たさに、今も体温を奪っていくような錯覚に襲われる。蛍は思わず身震いをした。
再び目を見開いた時、彼女の瞳には強い決意が宿っていた。
前世で心に決めたはずだ。人生がやり直せても、もう二度と空と結婚しない、と。
この二度目の人生、今度こそこの泥沼のような愛に終止符を打ち、自分の足で歩き出すのだ。
第2話
翌朝早く、蛍は事前にサインしてもらった離婚届を提出した。帰り道、ちょうど勤務を終えた空とすれ違った。
「蛍、今日は休みじゃなかったのか?朝からどうしたんだ?」
彼は小走りで近づいてくると、微笑んで蛍の手を握り、自分の吐息で温めた。「そんな薄着で、風邪をひいたらどうするんだ」
蛍はまだ若い空を見て、込み上げる様々な感情を押し殺しつつ、甘美な過去への未練を断ち切れずにいた。「大丈夫よ」
空は蛍の目の下の隈に気づくと、眉をひそめた。「昨夜は眠れなかったのか?」
「ええ、少し嫌な夢を見てしまって」蛍はうつむいて小さく答えた。
すると空は悪戯っぽく微笑み、身を乗り出してきた。「まさか、俺が隣にいなかったからか?」
蛍は顔を赤らめ、彼の胸を突いた。「何言ってるのよ」
その直後、近くにいた空の部下たちの騒ぐ声が聞こえてきた。「課長、奥さん、おはようございます!」
蛍と空が同時に振り返ると、数人の男たちが慌てて逃げていくのが見えた。
「戻ったら、彼らに残業させて実験をやり直させてやる!」
蛍はただ苦笑いし、言葉を返さなかった。
空は彼女の顔色を伺い、慎重に口を開いた。「蛍、俺の隣人の妹がしばらくうちに住みたいって言ってるんだけど、いいかな?」
蛍の微笑みは唇の端で凍りついた。「誰のこと?」
蛍が即座に否定しなかったため、空は後ろに向かって手招きした。「百合、ほら、挨拶に来い」
空の視線を追った蛍の目から、微かな笑みさえ消え去った。
遠くから駆け寄ってきた女性は、大きな瞳を輝かせた、愛くるしい。
陣内百合(じんない ゆり)は空の胸に飛び込むと、甘えた声を出した。「空さん、今日から空さんの家に住めるの?」
空は気まずそうに彼女を突き放した。「蛍、誤解しないでくれ。百合はまだ子供で、分別のないところがあるんだ……」
しかし百合は離れようとせず、子供のように口を尖らせた。「空さん、もう百合は子供じゃないもん」
その光景に空は恥じ入るどころか、すっかりデレデレになって百合の頬をつねった。「ああ、百合ももう大人だもんな、もうすぐ大学受験も控えているし」
空の反応に満足したのか、百合はようやく蛍に視線を向けた。「初めまして、蛍さん。私、昔から空さんにベッタリで……変な誤解はしないでくださいね」
蛍は目の前の若い顔を見ていた。あの雪の夜に見た女の顔と全く同じだった。
一瞬で目の奥が熱くなり、胸には言いようのない酸っぱくて苦しい感情が込み上げてきた。
彼らの関係は、こんなにも前から続いていたのだ。
これほど長く、空は自分を騙し続け、甘い夢を見せ続けてきたのだ。
「蛍、百合を住まわせてもいいか?彼女、身寄りのない土地で俺を頼って出てきたんだ。放っておくなんて、俺にはできないよ」空は蛍の機嫌を損ねまいと、必死に抱きしめてきた。
「でも安心して。百合が来たところで、俺にとって蛍が一番の存在であることに変わりはないんだ」
蛍は視線を落とした。今この瞬間、これ以上彼を見ていたら、こぼれそうな涙を止めていられない気がしたからだ。
「ええ」
空は大喜びに声を弾ませた。「蛍、お前は本当に物分かりがいいんだな!」
百合が嬉しそうに空の胸に抱きつく様子を見ながら、蛍の心は苦い絶望で満たされていった。
真心を捧げ続けたあの10年間。そして、大晦日の夜、理不尽に命を奪われた我が子のために。
第3話
翌朝、雪はやんだが、蛍はキッチンから聞こえる音で目を覚ました。
リビングに出ると、百合と空が仲睦まじげに並んでいるのが目に入った。百合が殻を剥いたゆで卵を空の口元へ運び、彼が一口かじると、残りを自分が美味しそうに頬張っていた。
キッチンの隅に飾られた婚礼の華やかな設えが、今の蛍には針となってその目を刺した。一瞬、この部屋の主である新婚夫婦は、自分ではなくこの二人なのではないかという錯覚さえ抱く。
「蛍、起きたか?」空は蛍に気づくと、すぐさま百合から一歩距離を取った。
百合は一瞬不愉快そうな顔を見せたが、すぐにあざとい言い方で笑った。
「蛍さん、おはようございます。今日から学校だから、空さんが早起きして朝ごはんを作ってくれたんです。空さんみたいな人と結婚できて、蛍さんは本当に幸せ者ですね。私も将来、こんな素敵な人を見つけたいな」
空は目を細め、彼女の頭を優しく撫でた。「俺をからかうなんて生意気だぞ」
百合はおどけた表情を見せると、雑炊をたっぷりと入れたお椀を持ち、蛍のもとへ近づいた。「蛍さん、朝ごはんは私が持って行ってあげますね」
その馴れ馴れしい呼びかけに、蛍は眉をひそめた。「結構よ。余計なお世話だわ」
しかし百合は聞く耳を持たず、熱々の雑炊を蛍の目の前まで突き出してきた。蛍が思わずのけぞった時、ゴトッ、という音と共に、雑炊がお椀ごと床に叩きつけられた。
百合は足首を押さえ、悲鳴を上げて泣き出した。
物音を聞きつけた空は、真っ先に蛍の元へ駆け寄り、どこか怪我をしていないかと慌てた。
蛍が説明しようと口を開いたが、百合の話が先だった。「蛍さん、持ってきてあげただけなのに……食べたくないなら言ってくださいよ。どうして、あんなに強く突き飛ばしたりしたんですか?」
その一言で、空の顔色が険しく変わった。
「いつ私が突き飛ばしたっていうの?」蛍は呆然と彼女を見た。
百合は歯を食いしばり、涙目で見上げて言った。「もしやっていないなら、私がわざとお椀をひっくり返して火傷するって言うんですか?」
「なんだって?火傷したのか!見せてみろ」空はすぐに百合を抱き上げ、椅子に座らせた。両足の足首が真っ赤に腫れあがっている。
百合は空の肩にすがりつき、泣きじゃくった。「空さん、痛いよ……」
空は心を痛めるような眼差しで言った。「大丈夫だ、今すぐ病院へ行くぞ」
空が百合を抱いて走り出そうとしたその時、ふと立ち止まって、その場に取り残された蛍を振り返った。「……床の掃除、お前がやっておいてくれ」
その声のあまりの冷たさに、蛍は息を呑んだ。こんな仕打ちを受けたことは一度もない。
蛍は胸を押さえ、心の痛みを堪えようとしたが、腹部に雑炊がかかり火傷を負っていたことに気づいた。
さっきの一件で、雑炊が飛び散った先は自分の側だったのだ。今も服には米粒が張り付いている。
それなのに空は、ろくに見ようともしなかった。百合が先に「痛い」と言って濡れ衣を着せれば、彼は百合を信じてしまうのだ。
蛍が目に涙を浮かべて手当をしていると、家の電話が鳴った。
「こちらは役所の者です。昨日お預かりした離婚届の件ですが、当市の離婚受理保留制度に基づき、一旦お返しすることになりました。周囲の聞き込みでは、ご夫婦仲は極めて良好とのことで、明確な破綻の証拠が見当たりません。
婚姻は遊びではありません。どうか一時的な感情に流されず、もう一度冷静に話し合われてはいかがですか?」
皮肉にも、かつての自分が丹念に作り上げた「幸せな妻」というイメージが、今は自分自身を逃がさないための檻となっていた。
蛍は静まり返った室内を見渡し、実家の電話番号にかけた。
「蛍か、どうした?こんな時間に珍しいじゃないか」すぐに聞き慣れた慈愛に満ちた声が返ってきた。
蛍は前世、父・入江竜也(いりえ たつや)に二度と会えずに息絶えたことを思い出し、胸が張り裂けそうになった。
「お父さん、一つ頼みを聞いてほしいの」
「おいおい、泣いているのか?なんでも言ってくれ、必ず助けてやるぞ!」
蛍は鼻をすすると言った。「離婚届を出したの。でも、受理保留制度に引っかかってしまって……このままだと、いつ受理されるか分からない。お父さんの力で、すぐに受理されるよう手配してもらえないかな」
「どうしたんだ?空のやつが何かしたのか?」
「ごめんなさい、お父さん。今はまだ言えないの」
蛍は声を震わせた。「生まれて初めてのお願いよ。お願いだから、私を助けて」
電話の向こうでため息が聞こえた。「わかった。再提出しなさい。書類に不備がなければ5日後に受理されるだろう。その代わり、一つ条件だ。離婚が成立したら、すぐに迎えを寄越す。実家に戻ってくるんだ」
「ええ……ありがとう、お父さん」
第4話
空と百合が戻ってきたのは午後7時だった。部屋が真っ暗なことに空は心騒がしさを感じ、急いでドアを開けて「蛍?」と呼びかけた。
蛍はベッドで眠っていた。窓から差し込む月光が、彼女の白く綺麗な横顔を照らしていた。
空は思わず彼女の髪へ手を伸ばし、優しい声をかけた。「蛍、起きて。ご飯食べよう」
蛍のまつげが震え、目を覚ました。目の前の彼を見て、彼女は少しきょとんとした。
「ぼーっとしてるの?ほら起きて。お前が一番好きなかつ丼をテイクアウトしてきたんだ」
空はいつものように優しく蛍をなだめ、服を着替えさせた。まるで朝の出来事などなかったかのように。
蛍は、彼が自分の足を愛おしそうに持つ様子を見下ろしていた。昔、北州へ来たばかりの頃を思い出した。大雨による被害の支援中に足を捻挫した自分を、空は泥の中にしゃがみ込んで介抱し、周囲の視線も気にせず病院まで背負って運んでくれた。
懐かしい記憶に胸が熱くなり、思わず彼に抱きつこうとした時、少し開いていたドアが強く開かれた。「蛍さん、ご飯ですよ!空さんとかつ丼を分けてもらったけど、すごく美味しかったです」と百合が足をひきずって入ってきた。
空は焦ったように瞬きし、百合の言葉を遮ろうとした。「蛍、卵焼き、もう一品作ってくるよ」
蛍は淡々と彼の手を払いのけた。「いいわ、お腹が空いていないから」
空が何かを言うより早く、百合が口を挟んだ。「蛍さん、私と空さんの食べ残しだからって、そんなに汚いものを見るような目で見ないでください。食べる時、つばが入らないようにすごく気を使ったんですよ」
そう言って百合は目を赤くし、「蛍さんが私のことを嫌いなのは分かりますけど、空さんのためだと思って、お願いですから、もう私を困らせるのはやめてください」と泣き出した。
蛍は眉をひそめた。自分は大して何も言っていないのに、なぜ百合がこんなに長く語るのか。
「あなたとは親しくないもの。好きも嫌いもないわ。
それにしても、若いのに他人の夫婦仲をかき乱す方法をよく知っているのね。どんな教育を受けてきたのかしら」と蛍は正直に指摘した。
百合の顔がカッと赤くなり、目には大粒の涙が浮かんだ。
空は眉間にしわを寄せ、納得がいかないという様子で「蛍!」と彼女の名前を呼んだ。
「分かりました……空さんが私を大事にしてくれるから、誤解したんですね。私はまだ学生なのに、蛍さんにそんな目で見られたら、どう生きていけば……」
そう言って、百合は泣きながら走り去った。
空は彼女を追いかけようとして、バンと勢いよく閉まったドアにぶつかった。
一旦足を止めて、空は不機嫌な顔で部屋に戻ると、蛍を非難した。「言っただろ、百合は地元の妹みたいなもんだ。俺とあいつはやましい関係じゃないと言ってるのに、なぜお前はいつも彼女を追い詰めるような酷い仕打ちをするんだ?
彼女は身寄りがなく、過酷な暮らしをしてきたんだ。もう少し思いやりを持って接してあげられないのか?」
空は失望の色を見せた。「昔は一番優しい女性だったのに、結婚した途端、なぜそんなにトゲのある性格になってしまったんだ?」
喉元までせり上がる苦しさを飲み込み、蛍は問い返した。「私が、性格が悪いと?」
空は手をかざして制止した。「言い争いたくない。さっさとコートを着て、彼女を探しに行こう!今は夜の8時過ぎだぞ。もしものことがあったら、ただじゃ置かないぞ!」
「ただじゃ置かないって、どうするつもり?」
空は答えなかったが、振り向いた瞳には冷淡な感情だけが宿っていた。
蛍は力なく笑った。「探しに行くわ。でも、代わりにこれを署名して」
空が受け取った書類を見て呆れ果てた。「離婚届か?
蛍、いつもは騒ぐだけ騒いで終わりにしていたのに、よりにもよって今、そんな意地を張るのか!人命がかかってるんだぞ!」
蛍は静かに彼を見つめた。「署名するの?」
怒りの頂点に達した空は、離婚届を奪い取ると、勢いよく署名をして蛍に向かって投げつけた。「これで満足か!」
冷たい雪が降る夜、蛍はボタンも留めていないコート姿のまま空に引きずられて駆け出した。服が腹の火傷の患部をこすり、焼けるような痛みが走った。
1日中何も食べていなかった蛍は顔が真っ白だったが、空は彼女を一度も見ようとせず、速い足取りで走り続けた。
耐えきれなくなった蛍が言った。「空さん、そんなに急がないで」
「どこにもいないのに、急がないでいられるか!」と、彼は蛍に向かって怒鳴りつけた。
降りしきる雪の中で、焦りから目を充血させた男を見て、蛍の力は一気に抜けてしまった。
蛍の異変に気付いたのか、空は少しだけ悔やむように言った。「すまない、蛍。彼女のお父さんとの約束なんだ、ちゃんと面倒を見るとね」
蛍の胸には、果てしない悲しみが広がっていた。家族の最期を託されたのなら、なぜ私と一緒になったのか。
「空さん、私たち……」
蛍が最後まで言おうとしたその瞬間、空は彼女をすり抜けて駆け寄り、そこにいた女の子を強く抱きしめた。
「百合、心配で死ぬかと思ったよ」
「空さんが探してくれないかと、思っちゃって……」
「何を言っているんだ。君を一生守るって、言っただろ」
二人の様子を呆然と眺めながら、蛍はその言葉がどこかで聞いたものだと記憶を探った。
長い時間が経ってようやく思い出した。あれは空が自分にプロポーズをした時、彼が自分に誓った言葉だった。
蛍は自嘲気味に笑った。空の愛は、自分と同じ量を、別の女性にも与えていたのだ。
プライドの高い蛍にとって、自分一人に向けられないのなら、そんなものなど必要ない。
「空。離婚しましょう」
第5話
百合は帰宅してからもメソメソと泣き続けていた。空はそんな彼女を慰め、飲み物を用意してやり、寝室へ戻ったのは11時過ぎだった。
蛍がまだベッドサイドに座っていたのを見て、空はこめかみがズキズキと痛むのを感じた。
「蛍、もう言い争うのはやめないか。寝よう」
蛍が彼の方を向き、「私が何か言った?最初からずっと騒いでいるのは私なの?」と言い返した。
空は疲れた様子で眉間をもみほぐした。昼間、蛍が突きつけてきた離婚届のことを思い出し、頭が重くなった。
「なぜいつもそんな攻撃的な口の利き方をするんだ?疲れているんだ。ただゆっくり休ませてくれ。
百合のことをどうしても受け入れられないというなら、時間を作って彼女のためにアパートでも借りればいいだろう?」
蛍は呆れるしかなかった。何もしていないはずの自分なのに、空は二日間の騒動をすべて彼女のせいだと決めつけていたのだ。
「その必要はないわ。離婚すれば、彼女がどこに住もうと自由よ」
空の表情が凍りついた。「そんな些細なことで俺と別れる気か?蛍、俺たちの長年の絆を何だと思っているんだ」
「絆なんて最初から大切にしていなかったのは、あなたでしょう」と蛍は淡々と言い放った。
空は落ち着きを取り戻そうと、蛍にすり寄って腰を下ろし、彼女の肩をそっと抱き寄せた。「蛍、今日は少し感情的になりすぎた。俺が悪かったよ。許してくれないか。
知っているだろう。俺はこの先も、お前だけを愛し続ける。俺の心の中には、蛍しかいないんだ」
以前なら、そんな甘い言葉に舞い上がっていたかもしれない。しかし今の彼女には、百合に対する彼の態度が思い出され、ただ嫌悪感しか抱けなかった。
これ以上争っても無駄だ。離婚届はすでに署名済みで以上、まもなく二人の関係も終わる。
一騒動あってからは百合も多少大人しくなった。蛍は二人に会わないよう残業を重ねて遅く帰るようにしたが、百合はそう簡単には引き下がらないようだった。
この日、定時を過ぎたころ、蛍が同僚たちと社員食堂へ向かおうとすると、突然百合に立ちふさがれた。
怪しいと思った蛍は尋ねた。「ここはうちの会社よ。許可証のないあなたが入って来られる場所じゃないわ」
百合は答える代わりに、その場に崩れ落ちるように膝をついた。「蛍さん、私が悪かったです。空さんに追い出さないでほしいと言ってください!」
行き交う社員たちが足を止め、驚いた様子でその光景を眺めていた。
蛍はあまりのことに呆れた。「百合さん、何を言っているの?追い出そうとなんてしていないわ。演技をするなら演劇の舞台へでも行きなさいよ」
「蛍さんが結婚したばかりで私のせいで生活を乱されて、イライラするのはわかります。いくらでも私を罵っても殴ってもいいです。でもどうか私を追い出さないでください」
百合は哀れを誘うような涙をこぼした。土汚れがついたままの彼女の顔は、見る者の同情を買うのに十分だった。
予想通り、通りがかりの男性数人が声をかけた。「君、大丈夫ですか?立ってください、まずは話を落ち着いて聞きましょう」
百合は首を振った。「いいえ、蛍さんが許してくれるまで立ち上がりません」
蛍は相手にせず、歩き去ろうとした。
百合は慌てて追いすがり、彼女の足にしがみついた。「蛍さん!こうしてひざまずいているのに、なんて冷酷なのですか?私を追い詰めて殺すつもりですか?」
女の子がここまでプライドを捨てて必死になっていることに、蛍は絶句した。周囲に人だかりができ、あちこちからひそひそ話が漏れてきた。
「あれ、どういうこと?空さんの奥さんでしょ?」
「蛍さんは優しい人なのに、まさかあんな若い女の子にひざまずくよう追い詰めるなんて……」
「何か誤解じゃないか?空さんを呼んでこようか?」
蛍はこらえきれなくなり、足のしがみつきを振り払おうとした。
百合は突然「キャッ」と声を上げ、床に崩れ落ちた。
みんなが呆気にとられる中、長身の男性が人混みをかき分けて現れた。「蛍、お前は何をしている!」
顔を上げた蛍の視線は、怒りで真っ赤に染まった瞳とぶつかった。
第6話
「空さん、大丈夫だよ。蛍さんの怒りが解けるなら、私は何だってするから」百合は起き上がると、血がにじんだ袖を見せた。
空は一瞬動きを止め、百合を慎重に支え起こした。その目は心から彼女を案じているように見えた。「どうしてそんなひどい怪我を?」
百合はうつむいて涙を流すだけで、何も答えなかった。
空はやりきれない思いで顔をしかめ、蛍を見た。「一体どういうこと?百合を優しく扱えとは言わない。だがやりすぎだろう。昨日の火傷に今日の怪我、これじゃ百合のお父さんに顔向けできないだろうが」
蛍は静かに彼を見つめ返した。「彼女が会社に不法侵入して、私の邪魔をしたことについてはどう思っているの?」
「侵入なんて、大げさな。会社に入る許可証は俺が渡したものだ。仲直りの食事に招待しただけだぞ」空は呆れたような表情を浮かべた。
蛍は冷ややかに微笑んだ。「食事に誘う相手がいきなり膝をついて謝るなんて。一体全体、何というコントよ?こんな芝居じみた仲直りの方法があるわけ?」
空はきょとんとして、百合を見た。
百合は鼻をすすり、か細い声で言った。「蛍さんに無視されるのが怖くて……」
空は眉間にしわを寄せた。「いくらなんでも、騒ぎを起こすのは君のやりすぎだ」
「すみません空さん。私が悪かった。二度としない」百合は目を潤ませて頭を下げた。
空は何も答えず、視線を蛍に投げるだけだった。
百合はすぐに言った。「蛍さん、ごめんなさい。私の至らなさのせいで、あなたに不快な思いをさせてしまったんですね……」
二人を見せられ、蛍は呆れて食堂へと向かおうとした。
「どこに行くつもりだ?」空が慌てて彼女の腕をつかむ。
「ご飯」
「家で食べよう」
蛍は冷めた目で見つめた。「結構よ。誰も食事が楽しめなくなるでしょ」
空は唇を噛み締め、周りの人々に言った。「何を眺めてるんだ。全員仕事に戻れ」
そして彼女の意思を無視し、力ずくで蛍を家に引きずり込んだ。
「離して!」
「なら、帰って大人しく食事をしてくれ」
蛍は険しい顔で腕を振り払い、服を整えると、空の方を見ずに歩き出した。
家の食卓には、すでに蛍の好物ばかりの食事が並べられていた。
空は彼女を口説き始めた頃、ひたむきに料理を練習し、一年で何でも作れるようにして彼女の好みを完全に把握したのだ。
二人が付き合い始めてから、空が打ち明けたエピソードだった。
蛍が冗談まじりに笑って、「直接聞けばよかったじゃない」と突っ込んだ時があった。
空は彼女の手を取り、照れくさそうに鼻をさすった。「蛍、お前のことは、全部俺自身で突き止めたいんだ」
なのに今、百合が現れた途端、空は彼女の言いなりだ。蛍が何を説明しても「口答えするな」という態度だった。
「蛍さんも空さんの手料理がお好きなんですね」百合がなれなれしく笑った。「空さんが作るのが一番おいしいんですよ。たくさん召し上がってくださいね」
蛍は空を見て答えた。「以前は好きだったわ。今はもういいの」
空は顔色を変えて声のトーンを落とした。「蛍、そんな冗談やめろよ。お前、一生俺の作る料理を食べたいって言っただろ?」
蛍は答えず、ご飯をよそってそのまま部屋へと戻った。
しばらくして、空が追いかけてきて彼女を背後から抱きしめ、恨めしそうに言った。「ごめん、蛍。百合にちゃんと言い含めておかなかった俺が悪かった」
彼の無遠慮な手が蛍の痛む場所を押し、蛍は身をすくめた。
「どうした蛍?冷えてるのか?足を温めてやろうか」
体を起こして、蛍の冷えた足を懐に入れた。蛍の目が少しだけ揺らいだのを見て、空は笑った。「将来、俺たちの子を作ろうな。蛍似の可愛い女の子がいい。会社中の男たちから羨ましがられるようなさ」
蛍はまぶたを震わせ、前世で空の浮気が原因で、大晦日に亡くなった我が子のことを思い出した。
前世の空は、真実を知った時、何を思ったのだろう。
一時的に悲しんで、結局百合を選んだのだろうか。それとも一生、後悔に苛まれて生きたのだろうか。
空が幸せそうに妄想している姿を見て、蛍の表情は冷たく凍りついた。
空さん、あなたに親になる資格なんて、一生ないわ。
第7話
年末、会社は健康増進キャンペーンとして、恒例の忘年会をハイキングイベントに切り替えた。家族も参加可能で、一般からの公募も行われた。
話題のイベントに大勢の学生が申し込んだ。百合も、もちろんその一人だった。
いつもなら、支給される物資は一番に蛍に配っていた空だが、今回は迷わず百合へリュックを渡した。
百合は甘えるように背を向けて言った。「ねえ、背負わせて」
空は彼女の手を取り、背負い心地を調整して聞いてみた。「大丈夫か?」
「空さんがしてくれたんだもの。全然平気だよ」百合は微笑んだ。
空は頷き、顔を上げたところで、冷ややかな瞳とぶつかった。
彼は気まずげに笑い、言い訳をした。「蛍、百合は初めてで慣れてないからさ。先に手伝ってやろうと思って」
蛍は彼を無視して荷物を受け取ると、自分で背負い直した。
彼女は何も言わず、これまでのように文句も言わなかった。なのに、なぜか空の胸は締め付けられるように重かった。
ルートは鏡湖を目指し、10キロほどの平坦なコースだった。
歩き出したときは賑やかだった学生たちも、半分を過ぎると次第に静まり返っていった。
蛍と仲の良い女性職員が、彼女の腕を引いて笑った。「空さんと百合さんを見ていると、最初の山登りを思い出すね」
蛍はつい、目を細めてしまった。
「あの時は、蛍さんが転びそうになって、先頭を歩いていた空さんが飛んできたの。顔つきがもう、パニックになっててさ」
同僚は続けた。「また何かが起こるんじゃないかって、先頭を譲ってずっと私たちが歩くのを後ろから見守ってくれたわよね」
蛍はかつての空の優しさを誰よりも大切にしていた。だからこそ、今、彼が百合に向けているのが、ただの妹への感情ではないと理解していた。
急に隊列が止まった。見ると、空が前で屈み込み、ある女性がその背中に乗っかった。
空は周囲の目も気にせず、百合を背負った。
事情を知らない学生たちは、冷やかしの歓声を上げた。
「足が痛くなっちゃって……」と、百合は赤ら顔で言い訳をした。
「いいんだよ!お似合いだし!」
百合は周囲を嗜めつつも、幸せそうに空の肩に寄り添っていた。
空は学生たちの誤解を解こうともせず、ただ優しく彼女の話に耳を傾けていた。
同僚が憤慨した。「空さん、何考えてんのよ。背負うなら蛍さんでしょ?」
しかし、蛍の声は平然としていた。「別にいいよ。誰を背負おうが本人の自由だし」
鏡湖に到着したのは昼時だった。社長が休息を宣言するやいなや、人々は我先にとそれぞれの役割をこなし、焚き火の支度を始めた。
蛍が枯れ枝を探しに森へ向かうと、百合がすぐについてきた。
「手伝いましょうか」
蛍は彼女をちらりと見て、何も返さなかった。
人気がなくなると、百合は本音を漏らした。「蛍さん、あんたは私に勝てませんわよ。
私の方が、空さんにとっては絶対的な存在なのです」
面倒だと思った蛍は、枯れ枝を拾いながら聞き流すことにした。
返事がないことに満足したのか、百合は確信に満ちた口調で畳みかけた。「未来のことを教えてあげます。あんたがいつ死ぬかだって知っていますよ」
手に持っていた枯れ枝が、パキリと折れた。蛍は立ち止まった。「今、何て言った?」
百合は相手が恐れていると思い、嘲笑った。「3年後、あんたは交通事故で死にますよ」
頭の中が真っ白になった。顔を上げると、信じられないものを見るような目で蛍を見つめた。
この女も、人生をやり直している。
「あんたが死んだら、空さんは私と結婚します。私はあんたの居場所を完全に乗っ取りますよ」
百合は冷酷に宣告した。「どれだけ粘っても無駄ですよ。結局最後に手にするのは彼の思い出の品と、たまの線香番だけです。彼と一生を添い遂げるのは、私なのですから」
第8話
蛍は、時を遡る前の結末について薄々感づいていたが、百合の口から直接聞かされると、やるせなさと空虚感が広がった。
空は、自分と子供のことに対して罪悪感など少しもないのだろうか。
「蛍さん、素直に空さんと離婚しなさい。そうすれば命だけは助かるかもしれないわよ」
蛍は感情を整理し、信じられないといった風に装った。
「妄想癖があるのなら、空さんに病院へ連れて行ってもらえば?未来の話なんて子供っぽい脅し、何の意味があるの?」
百合の瞳に、悪意がよぎった。
「信じるか信じないかは勝手だけど、今後、私の前で助けてなんて泣きついてこないでくださいね!」
蛍は木の枝を抱えてその場を去ろうとしたが、百合がすぐ後ろをついてきた。
湖畔には学生たちが開けた穴がいくつもあり、張ったばかりの薄氷は蜘蛛の巣のようにひび割れ、深淵のような湖面が覗いていた。
「蛍さん、もし私と一緒にここに落ちたら、空さんは誰を先に助けると思います?」百合は気味の悪い笑みを浮かべた。
蛍は本能的に警戒し、早く離れようとした。「何をするつもりなの?」
しかし百合は笑いながら持っていた枝を捨て、猛然と蛍に突進した。「助けて!助けてください!」
ドボンという音とともに、刺すような冷たい水が蛍を飲み込んだ。全身が凍てついて感覚を失い、あがくことすらできず、肺には激しい痛みが走った。
意識が遠のく中、彼女の目に見慣れた人影が泳いでくるのが映った。
空だった。
蛍は必死に手を伸ばし、彼の名を呼ぼうとした。
しかし次の瞬間、彼は迷いもなくあがく百合の手を掴んだ。
絶望と無力感が頭の中を塗りつぶし、蛍は覚悟を決めて目を閉じた。
闇の中で、蛍は長く深い夢を見ていた。
空が初めてデートに誘ってくれた日、紳士のまねごとをして、美しい赤色の薔薇の花束を差し出してくれたこと。
二人が付き合うことになったあの日、興奮で眠れなかった彼は、寮の下で朝食を持って待っていてくれたこと。
彼は夢を語ったことも。カメラを買って、二人の何気ない日々を記録したい。老いてからその写真を子供たちに見せて語り合うんだと。
しかし、幸せな記憶のあとには、白髪混じりになった空と百合が公園を仲良く歩く姿が映り、自分はもう、墓石に刻まれた冷たい名前でしかなかった。
「お父さん、助けて……」
目尻を一筋の涙が流れ、彼女は濡れたまつ毛を震わせて目覚めた。
「蛍、やっと目が覚めたんだね。よかった……本当によかった」空がすぐさま駆け寄ってきた。その目には恐怖と心配が満ちていた。
あの時、迷わず百合を助けようとしたくせに、今さらこうして深く愛しているような演技を見せるなんて。
反応しない彼女を見て、自分が選んだ行動がバレたと察したのか、空はうろたえて言い訳を並べた。「蛍、あの時は人違いしたんだ。本当に……お前を先に助けるつもりだったんだよ」
到底納得のいかない弁解を聞きながら、蛍は空がこれほど平気で嘘をつく人間だったことに初めて気づいた。
「そう」と彼女は冷淡に答えた。
空は拍子抜けした顔をした。ここまであっさり引き下がるとは思わなかったのだ。
「蛍、許してくれたのか?やっぱりお前は、俺のことが一番分かっているな」
蛍は静かに言葉を遮った。「空さん、離婚届は既に提出してあるわ」
空の身体がこわばった。「え?どういうことだ。あれは冗談だったんだろ?」
「私は最初から本気だよ。理由はあなたが一番よく知っているはず」
彼は顔を青くした。「何度も言っただろう。百合と俺の間には、何も関係なんてないんだ」
蛍は皮肉な笑みを浮かべた。「何度も言い聞かせて、自分自身を騙し切っちゃった?」
「お前!」彼は憤った。「どうしてもそんな汚らわしい目でしか俺たちを見られないなら、もう勝手にしろ。好きなように離婚すればいい!
蛍、正直……がっかりだ」
そう吐き捨て、彼は不機嫌そうな面持ちで病室を後にした。
空っぽになった部屋を見て、蛍の心は軽やかだった。
彼女は喉元に手をやった。まだ水に溺れた苦しみが残っているようだった。
離婚が正式に受理されるまであと5日。そうすれば、すぐに以前の自分を取り戻せた。
第9話
あの日、喧嘩別れをしてから空は病院に来なくなったが、会社の同僚を使って蛍へ食事を差し入れさせていた。
気合の入った豪華な食事ばかりだったが、蛍が口をつけることはなかった。
出ていくと決めた以上、空が関わるすべてと距離を置こうと心に決めていたのだ。
退院当日、最後の検診のために看護師を探している途中、偶然百合の病室の前を通りかかった。
ベッドの上の百合に、空が雑炊を食べさせていた。一さじ一さじ、丁寧に冷ましてから口に運んでいた。
窓からの日差しが2人を包み込み、誰がどう見ても幸せな夫婦に見えた。
「空さん、毎日私にかかりきりで……蛍さんに誤解されないかな?」
空は黙り込んだ。蛍が離婚届に署名を強要したことを思い出し、また怒りが湧き上がってきたのだ。
「蛍の嫉妬深い性格を直してやるんだ。結婚してまだそんなに経ってないのに、先が思いやられるよ」
それを聞いて、蛍は思わず鼻で笑ってしまった。
これからの人生、百合とお似合いでいればいい。
「でも、本当は蛍さんのこと大切に思っているんでしょ?仲直りしてきてあげて」百合は嘘の気遣いを見せながら、わざとらしく咳をした。「私なら一人でも大丈夫だから」
空は慌てて彼女の背中を撫でた。「大丈夫だ。明日、蛍が退院したら迎えに行って、新しい服でも買ってやれば機嫌も直るさ」
ここ数日、まともに会ってもいない空は、蛍が既に今日退院できることさえ知らなかった。
蛍はそれ以上何も見ないようにして、背を向けて病院を出た。
今日は離婚届を受理してもらう日だった。これから、自分と空は本当に他人になった。
部屋には2人の思い出の品が溢れていた。入籍の前日、蛍がアルバムの整理をしている横で、空はそこに添えるメッセージカードを一枚一枚、大切そうに書き上げてくれた。
蛍はサイドテーブルの結婚写真を取り上げると、迷うことなくハサミを入れ、自分の姿だけを切り捨てた。それからタンスの奥に眠っていた、空との手紙の束を引っ張り出す。その一文字一文字には、かつての彼女が抱いた眩いばかりの情熱と、彼に捧げた青春のすべてが刻まれていた。
何気なく手に取った手紙を読み、冒頭の文字を見て、蛍は目を見開いた。
「百合へ、元気にしてる?」
震える手で、もう一通開いた。
「蛍、お疲れ様です」
手紙の温度差に、頭の中が真っ白になった。吐き気をこらえ、胸の奥に残っていた空への未練が跡形もなく消えていくのを感じた。
夜明け前、蛍は机の上に離婚届受理証明書を置くと、荷物をまとめて会社へ向かい、退職の挨拶をした。
数年付き合いのある同僚たちは皆名残惜しそうに、「最後に一度だけでいいから一緒に食事をしよう」と引き止めた。
しかし、蛍が答えるより先に、風のような勢いで一人の男が駆け込んできた。
「蛍!退院の日をなぜ言わなかった。病院に行ったら誰もいなくて、どれだけ肝が冷えたか分かるか!」空は怒鳴り散らした。
蛍は表情一つ変えずに彼を見た。「あなたに会う用事もなかったし、教える理由もないわ」
「下の階にいたのに……いや、帰ろう。帰って話すぞ」
彼が蛍の腕を掴もうと手を伸ばしたが、彼女は一歩引いて避けた。
妙な焦燥感がこみ上げてきた、空は「蛍、一体どうしたんだ?」と言った。
「空さん、私は……」
言い切る前に、遠くから呼び声がした。「課長、緊急会議です!出張へすぐに出てください!」
「分かった」空は申し訳なさそうに蛍を見た。「すまない、急いで帰ってくるから。戻ったら、新しい服を買いに行こうな」
これ以上揉めるのも面倒だったので、蛍は優しく微笑んだ。「ええ、気を付けていってらっしゃい」
空は一度去りかけたが、思い直したように戻ってきて蛍を抱きしめた。「お前、最近小言が多かったけれど、俺の心には本当にお前しかいないんだ。
帰ってきたら、やり直そう。信じてくれ」
蛍は深く頷いた。「ええ、信じているわ」
今日を限りに、私たちはそれぞれの道を歩むことになるわ。二度と、交わることのない道をね。
空は車に乗り、なぜか胸騒ぎに苛まれていた。
「課長、あれ、東都からの車ですか?なぜうちの会社に」運転手が窓の外を食い入るように見つめた。
空が視線を向けた先に、凛々しい顔つきの男性が立派なスーツ姿で車に乗っていた。
その車が会社の正面玄関に堂々と停車すると、会社中の人たちが足を止めて注視した。
鈴木亮太(すずきりょうた)が車のドアを開け、真っ直ぐに蛍の方へ歩み寄った。
「蛍さん。お迎えに上がりました」