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待ち続けた先に君は
結婚して4年。周防律人(すおう りつと)の口癖は、いつも「待って」だった。 旅行に行きたいと言うと、彼は「プロジェクトが終わるまで待って...
Chương (1)
第1章
結婚して4年。周防律人(すおう りつと)の口癖は、いつも「待って」だった。
旅行に行きたいと言うと、彼は「プロジェクトが終わるまで待って」と言う。
結婚記念日を祝いたいと言うと、「会議が終わるまで待って」と言う。
実家に両親の顔を見に行きたいと言っても、「次の休みまで待って」と言う。
しかも今日は、私・周防汐里(すおう しおり)の誕生日だった。半月も前から、夜に時間を空けられるか彼に確認していた。
彼からは大丈夫だと返事をもらっていたので、私は午後の時間をかけて彼の好きな料理を作り、帰りを待っていた。
けれど、夕方6時から夜9時を過ぎても、彼が戻る気配はない。
そのとき、テレビで今日のニュースが流れた。
「周防グループ社長が、雨の中『初恋の人』をお迎えしています!2人に復縁疑惑が浮上!」
聞き覚えのある名前に、反射的に顔を上げた。
そこには、傘を差し出し、薄着の女をしっかりと抱き寄せている彼の姿があった。
ビルからマイバッハまでは目と鼻の先だ。それでも彼は、彼女が濡れないように傘を大きく傾け、自分の肩をずぶ濡れにしていた。
スマホがラインの通知音を鳴らした。律人からのメッセージだった。
【用事があったんだ。すぐ帰る】
今までもずっと待つのが当たり前だったし、いつものように食卓でじっと待ち続けるつもりだった。
でも、ずぶ濡れになったスーツを見ていたら、もう待つのはやめようと、急に心が冷めた。
第1話
結婚して4年。周防律人(すおう りつと)の口癖は、いつも「待って」だった。
旅行に行きたいと言うと、彼は「プロジェクトが終わるまで待って」と言う。
結婚記念日を祝いたいと言うと、「会議が終わるまで待って」と言う。
実家に両親の顔を見に行きたいと言っても、「次の休みまで待って」と言う。
しかも今日は、私・周防汐里(すおう しおり)の誕生日だった。半月も前から、夜に時間を空けられるか彼に確認していた。
彼からは大丈夫だと返事をもらっていたので、私は午後をかけて彼の好きな料理を作り、帰りを待っていた。
けれど、夕方6時から夜9時を過ぎても、彼が戻る気配はない。
そのとき、テレビで今日のニュースが流れた。
「周防グループ社長が、雨の中『初恋の人』をお迎えしています!2人に復縁疑惑が浮上!」
聞き覚えのある名前に、反射的に顔を上げた。
そこには、傘を差し出し、薄着の女をしっかりと抱き寄せている彼の姿があった。
ビルからマイバッハまでは目と鼻の先だ。それでも彼は、彼女が濡れないように傘を大きく傾け、自分の肩をずぶ濡れにしていた。
スマホがラインの通知音を鳴らした。律人からのメッセージだった。
【用事があったんだ。すぐ帰る】
今までもずっと待つのが当たり前だったし、いつものように食卓でじっと待ち続けるつもりだった。
でも、ずぶ濡れになったスーツを見ていたら、もう待つのはやめようと、急に心が冷めた。
私は1人でロウソクに火をつけ、誕生日の願い事をした。
【これからの1年、私が幸せであるように】
これは結婚してから4年で初めて、律人のことを願わなかった誕生日の願いだった。
これまではいつも、律人と一生添い遂げられますようにと願っていたのに。
今はただ、自分の幸せだけを考えていた。
ロウソクを吹き消すと、ケーキにフォークを入れる。
ブルーベリー味。律人が好きな味だ。
自分の誕生日でさえ、全部彼の好みを優先してきた。
口に入れた瞬間、どうしても馴染めない酸味が広がった。
嫌いなものは、無理に好きになれるはずもない。
ケーキも、彼自身も。いくら慣れようとしても無駄だったのだ。
私はチケット予約サイトを開き、今夜、実家へ向かう最終の寝台列車を予約した。
結婚してからは、一度も実家に帰っていない。
帰りたいと言うたびに彼は「忙しい。時間ができたら今度一緒に行こう」と繰り返すだけだった。
私は待ち続けた。けれど、彼の言う「今度」は一度も訪れなかった。
今日こそ、彼を待つのはやめよう。私は一人、実家へ向かった。
スーツケースを持って玄関へ向かうと、まだテレビでニュースが流れていた。
まだ出発しない車に向かって、記者が窓越しに食い下がっている。
「周防社長、雨の中わざわざ初恋の女性を迎えに?奥様に知られたら怒りませんか?」
「そんなことはない。ただの昔からの友人を送るだけだよ」いつもならこうした質問に答えない彼が、珍しく口を開いた。その声は余裕たっぷりだった。
「それに妻は物分かりのいい人だ。怒るなんてありえないし、今も家で待っているさ」
最後の言葉が終わるのを見計らったように、私はスーツケースを持ってドアを開けた。
彼の言葉を耳に入れながら、私は皮肉に笑って玄関のドアを閉めた。
律人は知らない。私がもう二度と、彼を待つつもりはないということを。
第2話
律人から着信があった時、私はすでに列車に乗っていた。
真夜中の微睡みの中、スマホの着信音に叩き起こされた。
「……もしもし?」声が掠れてしまった。
受話器の向こうは一瞬沈黙したのち、聞き慣れた彼の声がした。
「家にいないのか?」
ぼんやりしていた頭が一気に冴えた。
スマホの画面を見ると、深夜2時を示していた。
彼は相原千夏(あいはら ちなつ)を送り届けるだけで、深夜2時までかかったのか。
この時、私は皮肉にもホッとしてしまった。
彼を待ち続けるような愚かなことはせず、本当に良かったと。
「うん。実家に向かう列車の中よ」
「実家?どこの……」そこで律人は、私の言う「実家」が、あの冷え切った高級マンションのことではなく、私を産み育てた南部の地方にある実家だと気づいたらしい。
「どうして急に。この前、話したばかりだろ?」
彼の声は低く、戸惑いが隠せない様子だった。
彼の言う「この前」とは、母から電話があった1ヶ月前のことだ。母は私に、律人を連れて実家へ誕生日のお祝いに来てほしいと、控えめに頼んできたのだ。両親はもう何年も、私の誕生日を祝えていないから、と。
私が困らないように、律人が仕事で忙しいのなら構わない、無理にとは言わないからと言い添えて。
だが、話の端々から寂しさが滲んでいた。
私は泣きそうなのを堪えて、律人に、一緒に実家へ帰れないか尋ねた。
彼はこめかみを押さえ、ひどく疲れた様子だった。
「汐里、最近仕事が忙しすぎるんだ。落ち着いたら、実家に帰るのに付き合うから」
彼の目の下の濃い隈を見て、それ以上は何も言えなかった。
しかしその後、偶然SNSで千夏の投稿を見つけた。
【忙しい中、無理して登山に付き合ってくれた彼に感謝!モヤモヤした気持ちが晴れた!】
そこには、山頂で明るく笑う彼女の写真が添えられていた。
画像の右下には、手首の一部が写り込んでいる。
4年間毎日顔を合わせていた私は、それが律人の手であると即座にわかった。
律人は、千夏が必要としている時なら、48時間ぶっ通しで働いた後でも時間を作って駆けつけるのだ。
私に対しては、いつも「待たせる」ことしかしないのに。
私は車窓の外を見た。闇夜の中で絶え間なく流れていく山影を眺めながら、静かにつぶやいた。
「ただ、家に帰りたくなっただけ」
いつ帰っても、2人が家の前で待っていてくれる、あの場所が恋しかった。
電話の向こうがまた沈黙する。律人はすべてを悟ったのか、諦めのような声で言った。
「……俺が帰るのが遅くて、機嫌を損ねたのか?
仕事の付き合いで少し遅れただけだ。わかってくれると思っていたよ」
律人は少し間を置いてから、付け加えた。
「お前への誕生日プレゼントは用意してある。忘れてなんかない。もう拗ねるな……」
「律人」
私は彼の言葉を遮った。
彼のいう「仕事」が一体誰との付き合いなのかを問う気もなく、私は淡々と言った。
「私たち、離婚しましょう」
第3話
返事も待たず、そのまま電話を切った。
言葉にした瞬間、胸の奥で重くつかえていた岩のような塊が、すっと取り除かれた気がした。
スマホの電源を落とし、横になった。
列車の走る音が大きすぎて、寝返りを打ってもちっとも眠れない。
「ごめんなさい。少し、いいですか」と、甘い声が上から聞こえてきた。
見上げると、上段には18歳か19歳くらいの少女がいて、興味津々といった様子で私を覗き込んでいる。
「さっき、離婚の話をされていて。盗み聞きするつもりじゃなかったんです。ただ、寝付けなくて」と、彼女は慌てて手を振って釈明した。
彼女の瞳にある戸惑いは嘘ではないようだ。それどころか、奥の方には同情さえ滲んでいた。
「私、大学でメディアを専攻しているんです。結婚をテーマにした課題に取り組んでいるのですが、差し支えなければ少しだけお話を聞かせていただけませんか?」
カバンから学生証を取り出し、差し出した。そこには「安藤柚葉(あんどう ゆずは)」という名前が書かれていた。
その期待に満ちた眼差しに、私はついインタビューを承諾した。
寝台列車の個室には、私たち2人しかいなかったので、彼女はベッドを降りて私の向かい側に腰を下ろした。
私の指にある指輪に気づき、彼女は驚きの声を上げた。
「この指輪、4年前にサザビーズのオークションで謎の買い手が落札したってニュースで見ました!まさか、その買い手が……旦那さんだったんですか?
大金を出して指輪をプレゼントしてくれるなんて、旦那さんはあなたのことを大切に思っているはずですよね。なのに、なぜ離婚なんて?」
柚葉の純粋な疑問に、私は指輪を外し、静かに語り始めた。
「この指輪……もともとは、私への贈り物ではなかったんです」
私と律人は、住む世界がまったく違っていた。
大学時代、彼は誰もが知る「周防グループ」の跡取りとして有名だった。雲の上の存在であると同時に秀才で、おまけにあのルックスだ。彼に憧れる女子は数えきれないほどいた。
対して私は、地方の片田舎から自分の力だけで勉強して東都中央大学に入った、何の変哲もない学生。
私と律人が出会ったのは、ある些細な出来事がきっかけだった。
講義に遅れまいと教科書を抱えて歩いていた時、飛んできたバスケットボールが不意に私の肩を直撃した。
その衝撃で教科書が散らばり、痛みで動けなくなってしゃがみこんだ。
加害者の男子たちは謝るどころか、「お前が道を塞いでいたのが悪いんだ、謝れ」と逆に凄んできた。
野次馬の嘲笑が耳障りで、弁解したくても痛みで力が入らない。
その時、ふっと目の前が暗くなったかと思うと、冷淡な響きの声が聞こえてきた。
「なら、俺がお前にぶつけたら、お前も俺に謝るのか?」
顔を上げると、律人がバスケットボールを男子たちの足元に投げ捨てたところだった。
木漏れ日が律人の姿を照らし出し、全身が光り輝いて見えた。
もちろん、彼が私を助けたのは特別な感情からじゃない。正義感が強くて、理不尽な振る舞いが我慢できなかっただけだと分かっている。
それでも、あの瞬間から私の中で秘密の恋心が育ち始めたのは、否定しようがなかった。
それからというもの、大勢の片思いをする人たちと同じように、律人のことを密かに想い続けた。
大学卒業、留学、そして周防グループの継承。やがて海外の初恋相手との婚約まで。
結婚式の日、私はこれまでの想いに終止符を打つべく、贈り物を持って足を運んだ。
律人と対面した時、彼は控室のソファーで深い影の中に埋もれていた。そこにいるのは晴れの舞台を控えた新郎ではなく、虚脱感に沈んだ男だった。
質問を挟む隙もなく、彼は疲れ果てた顔をゆっくりと上げて、こう口にした。
「……汐里さん。俺と結婚してくれないか?」
第4話
驚きよりも先に、彼が私のことを覚えていてくれたことに驚いた。
以前、彼に助けてもらって以来、学校で顔を合わせることはあったけれど、挨拶をする程度の仲だった。
その後彼が海外へ行ってしまい、もう会うことはないと思っていたから、きっと忘れているだろうと諦めていた。
気づくと、心臓が痛いくらい激しく高鳴っていた。
何がどうなってこうなったのかは分からない。でも、彼と結婚できるなんて、夢にも思っていなかった幸運だ。
「はい」
ヘアメイク中に、律人の本来の婚約者が式場から逃げ出したことを人づてに聞いた。
彼女は【結婚して夢をあきらめたくない。海外に行って挑戦したい】と書き置きだけを残して姿を消したという。
名門の周防家にとって、式の当日に花嫁がいなくなるなんて大失態。家としても許されるはずがない。
私はただ、穴埋めとして選ばれただけの存在だった。
それでも、私は結婚式の壇上に立つことを選んだ。
指輪交換の時、本来の花嫁のために用意されていた指輪は、明らかに私の指には大きすぎた。
律人は一瞬驚いた顔をしたが、私にこう約束した。
「申し訳ない。式が終わったら、新しいものを買ってあげる」
私は小さく、「大丈夫です」と答えた。
そうして私は、私の指には合わない指輪をはめ、私を愛さない人と結婚したのだ。
それから結婚生活は4年続き、私は4年待ち続けた。
妻として相応しいジュエリーも、パーティー用のドレスも、高級なバッグも揃ったけれど……
彼が約束してくれたはずの、私の指にぴったり合う新しい指輪が来ることは一度もなかった。
「ええっ?ずっと旦那さんに片思いしてたんですか?しかも、花嫁に逃げられた彼のために式に出たなんて」
私がこれまでの経緯を話し終えると、柚葉は怒りを隠しきれない様子だった。
「旦那さん、ひどすぎますよ。新しく買ってくれるって言っておいて忘れっぱなしだなんて。あなたは彼のピンチを救ってあげたのに!」
私は手のひらの中で輝く、今の自分には大きすぎる指輪を見つめた。
わざと忘れているのか、それともかつての恋人である千夏が残したものだから手放せないのか、もう聞く気も起きない。
視線を逸らし、私はそっとその指輪をポケットにしまった。
4年間、サイズが合わないせいで落ちないように気を使うのも疲れた。
もう、気にする必要もなくなったんだ。
柚葉はまだ純粋だ。愛に夢を抱いている。
「でも、あなたの話ってまるで恋愛小説ですね」と、柚葉は目を輝かせて言った。
「『契約結婚から始まる本当の恋』ってやつですよ!初恋の人が戻ってきて、あなたが諦めた時に初めて、彼が自分にとって大切な存在だと気づくのです。旦那さんは本当はもうあなたのことが好きなのではないでしょうか」
そんな幼い考えに、私は思わず苦笑してしまった。
結婚1年目、私と律人は互いに礼儀を保ち、穏やかに暮らしていた。
私もその頃は、いつか律人が本当に私を好きになってくれるはずだと信じていたのだ。
千夏が海外から戻ってくるまでは。
第5話
千夏が帰国したことを知ったのは、なんてことのない普通の日だった。
私は律人と、夜に食事の約束をしていた。
午後は特に予定がなかったから、早めに彼の会社へ行って、仕事が終わるのを待っていた。
結局8時を過ぎても、律人は戻らなかった。約束の時間を大幅に過ぎていた。
社長室は、ずっと閉まったままだった。
秘書に尋ねると、午後から重要な客人が来ているのだという。
周防グループのトップとして、取引先との面談があるのは珍しいことじゃない。
私は気にせず、そのまま休憩室で彼を待ち続けた。
秘書が何か言いたげな目をしていたことにも気づかずに。
ようやく社長室のドアが開いたのは、夜の9時のことだった。
中から出てきた「客人」を見た瞬間、心が少しずつ沈んでいった。
千夏だった。
彼女が戻ってきたのだ。
律人はふと時計を見て、いつものようなすまなさそうな顔をした。
「悪い、こんなに待たせてしまったな」
律人は少し体を寄せると、彼女のことを紹介した。
「千夏だよ、俺の……」律人は言葉を切り、「友達だよ」と付け足した。
千夏はウェーブがかった髪をかき上げると、にっこり笑って私に手を差し出した。
「はじめまして。汐里さん、ですよね?律人からお話は聞いています。
ごめんなさい、律人とは2年ぶりで。つい話が弾んで、こんな時間まで。ずいぶんお待たせしてしまいました」
私は律人の隣に立ち、明るく堂々と微笑んで挨拶するその女を見た。
初めて気づいてしまった。
「待つ」という時間が、これほど耐えがたいものだったなんて。
結婚して1年あまり、いつも彼が終わるのを待ちに会社へ来ていた。
でも毎回、私が居たのはあくまで休憩室だ。
彼の社長室に足を踏み入れたことは一度もない。
ましてや千夏のように、中で2人きりで過ごしたことなんて。
律人はいつも言っていた。「仕事とプライベートは別物だ」と。
社長室はあくまで仕事をするだけの場所だと。
でもその時、思い知らされた。
厳しいはずの律人のルールにも、例外はあるのだと。
ただ、その例外に私は入っていないということだけだ。
千夏は窓の外を眺め、嬉しそうに提案した。
「律人、せっかくだから3人で食事に行かない?昔、私たちがよく行っていたイタリアンのお店にしましょうよ」
律人は頷いた。
「ああ」
そう答えてから、ようやく思い出したように私を振り返った。
「千夏は2年も帰ってきていなかったんだ。今夜は千夏の行きたい店にしよう。予約していた店はまた今度でいいだろ」
律人は仕事人間だ。
ドタキャンや待ちぼうけなんて、日常茶飯事だった。
「また今度」という言葉も、聞き飽きるほど聞いてきた。
なのになぜかその日は、馴染みのはずの言葉が何度も何度も胸を刺した。
あの店は、店主が地元へ戻るために閉店すると聞いていた。それを伝えようとして、私は口を開きかけた。
しかも、営業はその日が最後だった。
もう二度と、あの店では食べられないのに。
でも、肩を並べてエレベーターに向かう2人を見て、私は言葉を飲み込んだ。
結婚式当日に彼を捨てて海外へ行った人なのだから、さすがにもう未練などないはずだ。
律人はただ、長年の友人として気遣っているだけ。
きっと、そうに違いない。
でも食事が終わる頃には、突きつけられるような現実に気づいてしまった。
律人は、心のどこかでずっと千夏を忘れられずにいたのだ。
第6話
律人と結婚して1年以上経ち、日常の中にはときどき温かい瞬間も増えてきた。
料理の注文で同じメニューを同時に言って2人で笑い合ったり、食事会で羽織るスーツを彼が掛けてくれたり、朝の額への軽いキスだったり。
そんな小さな出来事の積み重ねで、私は自分に言い聞かせていた。律人は、私に心を開き始めたんだって。
すべては、あのイタリアンでの食事までの話。
律人は千夏に何を食べたいか聞くこともせず、手慣れた様子で7、8品もの料理を次々と注文した。
最後には忘れずに、こう付け加える。
「アラビアータは、かなり辛めで」
千夏は彼と向き合い、頬杖をついてじっと彼を見つめていた。
店員が去った後、千夏は口元を少し緩めて微笑んだ。
「私の好み、覚えていてくれたのね」
律人はゆっくりとナプキンを整えていたが、その言葉に一瞬動きを止めた。
しかしすぐに平然と返した。
「汐里ともここへ来たことがある。どれもここの名物で、味が良かったから覚えていたんだ」
彼は嘘をついた。
彼が私とここへ来たのは、確かに一度だけ。
注文した料理も、全く同じものだった。
しかし、あの夜帰宅したあと、彼がひどい胃腸炎に苦しんでいたことを私ははっきり覚えている。
彼は本来、辛いものなんて全く食べられない人だ。
「そうなんだ……」千夏は尾を引くような声で言った。「あなた、昔は辛いのが苦手で、いつも私が食べているのを横で見ているだけだったのに。この1年で味覚が変わっちゃったのね」
ちがう。
その瞬間、私は悟った。
律人は何一つ変わっていない。
彼の心にある大切な人のことも、好みの味付けも。
その後、何を食べても味がしなかった。
千夏は、楽しげに海外での学生時代の話を律人に語っていた。
私は隣で、まるで存在感のない傍観者のように、2人の青春の話を聞かされていた。
たとえ今、律人の妻が私であっても。
食後、私と律人を家まで送るため、運転手が迎えに来た。
律人は、まず千夏を送り届けると提案した。
彼女はそれを断り、1人で帰ると言った。
律人はそれ以上強引に勧めなかった。
ただ、車に乗り込んでからすぐには出発させなかった。
彼は車内から、静かに通りに立つ千夏の姿を見つめ続けていた。
千夏の前にタクシーが止まったのを確認すると、ようやく発進を指示し、シートにもたれて目を閉じた。
その時、静寂を引き裂く悲鳴が聞こえた。
タクシーのドアを開けたばかりの千夏が、数人の酔っ払いに腕を掴まれ、小路へ引きずり込まれそうになっていた。
律人は顔色をがらりと変え、すぐに車を降りた。
あれほどまでに怒りに震える律人を見たのは、初めてだった。
ボディガードが駆けつけて酔っ払いたちを制圧しても、彼の暴力は止まらなかった。
リーダー格の男を押さえつけ、何度も拳を叩き込み、相手の顔が腫れ上がるまで止めようとしなかった。
周囲がスマホを向けて録画しているのに気づき、事態が悪化するのを恐れた私は、止めに入った。
肩に触れた瞬間、彼は目もくれず、私を強く振り払った。
私はそのまま地面に倒れ込んだ。
歯を食いしばって起き上がろうとした時、腹部に激しい痛みが走った。
恐る恐る目を落とすと。
地面にはどす黒い赤が滲み出していた。
その日、お腹に宿っていた命に気づくよりも先に。
私は、我が子を失った。
第7話
手術室から出てきた時、律人は私のベッドのそばから一歩も離れなかった。
普段は几帳面な彼なのに、ネクタイは曲がり、真っ白なシャツには血の痕が点々と付着していた。
いつも静かに私を見つめていたその瞳には、拭いきれない痛みが滲んでいた。
彼はそっと目を閉じ、掠れた声で言った。
「汐里、ごめん。お前だと気づかなかった」
私は顔をそらし、初めて彼に応えなかった。
丸7日間、私は一言も口を開かなかった。
彼を恨んでいるのか?
多分、そうかもしれない。
彼があんなことをしなければ、私はあの子を失わずに済んだ。
それ以上に、自分自身が憎かった。
もっと早く妊娠に気づいていれば、彼を助けようなどとはしなかったのに。
律人も罪悪感を抱いていたのだろう。
仕事が一番だったはずの男が、毎日休まずに病院へ来て付き添ってくれた。
それでも私は、口を閉ざしたままだった。
ある日の深夜、夢を見た。二つ結びの小さな女の子が、駆けてきて私にしがみつく夢だ。
「ママ、泣かないで。また帰ってくるからね」
目が覚めると、枕が涙で濡れていた。
翌日、律人が病室にやってきた時、私は7日ぶりに初めて口を開いた。
「家に帰りたい」
それ以降、私たちは互いに暗黙の了解で、あの子の話は一切しなくなった。
私も、千夏のことを問い詰めることはなかった。
何もかもが今まで通りであるかのように振る舞った。
ただ一つ変わったのは、彼が「仕事で忙しい」「また今度」と口にする回数が、以前より少し減ったことだった。
それでも、彼がそう口にするたび。
私は無意識に千夏のSNSで彼の姿を探してしまうのだった。
青春時代の愛と、夢の中でのあの子との約束を支えに、私は何年も耐えてきた。
そして今日、いつものように約束を破られた。
私に残された僅かな愛すらも、とうとう消え去ってしまった。
あの子もきっと、こんな父親のもとには戻りたくなかったのだろう。
だから、私は離れる決意をした。
私の話を聞き終えた柚葉は、とっくに目を潤ませていた。
「私……」柚葉は声を詰まらせ、どう慰めればいいか分からないようだった。
「心配しないで。このインタビュー、私のすべてを懸けて書きますから。クズ男の元夫を絶対に後悔させてやるんだから!」
私のために怒ってくれる姿を見て、私は微笑み、柚葉を抱きしめた。
「ありがとうございます。記事、楽しみにしていますね」
律人が後悔するかどうか、今の私にはもうどうでもいいことだった。
「列車が到着します。海鳴市でお降りの方は……」
いつの間にか、空は白み始めていた。
私も、降りる時が来たようだ。
柚葉と連絡先を交換してから、私はスーツケースを手に列車を降りた。
駅を出て真っ先に向かったのは、近くの法律事務所だ。
弁護士に離婚届を用意してもらい、私は妻側の欄に丁寧に自分の名前を書いた。
2つ目として、私のものではない指輪を離婚届と一緒に封筒へ入れ、事務所から会社へ送ってもらうよう手配した。
宛先は、律人。
それらすべてを終え、私は実家へ向かう車に乗った。
わずか30分の距離なのに、帰るまでに4年もの時間がかかってしまった。
スーツケースを持って母の前に立つと、母は信じられないとばかりに口を押さえ、目を赤くした。
涙を拭い、夢ではないと確信すると、母はすぐさま私を抱きしめて涙をこぼした。
「あなた、帰ってくるなら一言連絡してよね」
口では恨めしげに言いながら、驚きと喜びを隠しきれない笑顔を見せてくれた。
母は私の後ろを確認して、恐る恐る尋ねた。
「律人さんは……一緒に来なかったの?」
私は視線を下げ、「うん」と答えた。
母はそれ以上追及せず、スーツケースを受け取ると急いで私を家の中に招き入れた。
「すぐにお父さんに電話して呼び戻さなきゃ。公園で将棋をしているのよ。あなたが帰ってきたと知ったら、きっと大喜びするわ。
それより、先にスーパーでスペアリブと白身魚を買ってきてもらわなきゃ。あなたの好物でしょう……」
母は耳元でそんな話をずっと続けていた。
4年の歳月を経て、私の心は初めて凪いだ海のように穏やかだった。
外の海を漂い続けていた小舟が、ようやく帰るべき港に着いたような気がした。
母はしばらく話したあと、急に額を叩いて私を寝室へと促した。
「あら、うれしさで忘れるところだった。長旅で疲れたでしょ。先に部屋で休んでいなさい。ご飯ができたら起こすから」
ドアの向こうから、母が鼻歌を歌う声が聞こえた。
久しぶりの小さなベッドに横たわると、陽だまりのような匂いがして、埃一つ付いていなかった。
そこで、ようやく私はスマホの電源を入れた。
電源を入れるや否や、ちょうど律人から着信があった。
私は電話を取った。
「家に着いたか?」
「……うん」
「昨夜言っていた離婚って、どういう意味だ?聞こうと思ったのに、ずっと電話が繋がらなかった」
気のせいだろうか、彼が甘えるような響きが混ざっているように聞こえた。
私は首を振って、そんな非現実的な妄想を消し去った。
離婚届を目にすれば、彼だってすべて理解できるはずだ。
「あなた宛に荷物を送ったわ。受け取れば分かるはず」
私は通話を切り、彼の電話番号を着信拒否リストに入れた。
……
律人は二度も妻に電話を切られたことになる。
もう一度かけ直すと、今度は電話がつながらないのではなく、着信拒否されていた。
帰りが遅くなっただけで、汐里がここまで怒るとは思えなかった。
以前は、そんなことで怒る汐里ではなかったのに。
彼は疲れ果ててこめかみを押さえた。
昨晩は、ほとんど一睡もできていなかった。
それでも、汐里から荷物を送るというメッセージがあったのだから、怒りはかなり収まっているはずだ。
あと数日、仕事を片付けて時間が空いたら、自分から海鳴市まで迎えに行けばいいだろう。
そう思い、律人は仕事へ没頭し続けた。
翌日、秘書の小林健二(こばやし けんじ)が一通の書類を届けてきた。
「周防社長、海鳴市からお届け物です」
律人は契約書にサインする手を止めずに言った。
「開封して、何が入っているか確認しろ」
口調には少しの愉快さが混ざっていた。
封を開けるカサッという音の後、健二が全身を強張らせて固まった。
律人は顔を上げて、怪訝そうに眉を寄せた。
「なぜ黙っている?」
健二は奥歯を噛み締め、震える手で離婚届を取り出し、律人の前に突き出した。
「周防社長……離婚届でございます」