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今さら愛されても、もう遅い
俺、時沢晴人(ときざわ はると)は、陸崎汐音(りくざき しおん)を五年間愛し続けた。そして彼女は、俺の婚約者になった。 けれど、祖父が病...
Chương (1)
第1章
俺、時沢晴人(ときざわ はると)は、陸崎汐音(りくざき しおん)を五年間愛し続けた。そして彼女は、俺の婚約者になった。
けれど、祖父が病で息を引き取ろうとしていたとき、汐音は手を差し伸べてくれなかった。
きっかけは、時沢家の養子が彼女にそう吹き込んだことだった。
この機会に俺の尖った部分を削ぎ落として、少しは打たれ強い人間にしてやればいい、と。
祖父は誰にも助けを求められないまま息を引き取った。
俺は彼女の望みどおり、尖っていた部分を削ぎ落とされ、打たれ強くなり、もう彼女にまとわりつくこともなくなった。
もちろん、彼女を愛することもなくなった。
第1話
俺、時沢晴人(ときざわ はると)は、陸崎汐音(りくざき しおん)を五年間愛し続けた。そして彼女は、俺の婚約者になった。
けれど、祖父が病で息を引き取ろうとしていたとき、汐音は手を差し伸べてくれなかった。
きっかけは、時沢家の養子が彼女にそう吹き込んだことだった。
この機会に俺の尖った部分を削ぎ落として、少しは打たれ強い人間にしてやればいい、と。
祖父は誰にも助けを求められないまま息を引き取った。
俺は彼女の望みどおり、尖っていた部分を削ぎ落とされ、打たれ強くなり、もう彼女にまとわりつくこともなくなった。
もちろん、彼女を愛することもなくなった。
……
足を引きずりながら市街地へ戻ったとき、俺は界隈の笑いものになっていた。
みんな好き勝手に噂していた。
時沢家が連れ戻した、幼い頃から行方知れずだった御曹司は、大した能もないくせに気位だけは高く、すでに会社に入っている養子と公然と揉め、両親まで脅したあげく、最後は一文無しで家を飛び出した。
しかも、数万円すら人に借りるしかなかったのだ、と。
以前俺を辱めた遊び人たちは、どこから俺の消息を聞きつけたのか、堂々と仲間を引き連れて市街地に集まり、隠す気もなくスマホを取り出して俺に向けた。
俺は顔を隠して尊厳を守ろうと、手を上げることすらしなかった。そもそも俺に残っていた尊厳など、金貸しどもに少しずつ踏みにじられ、とっくに消え失せていたからだ。
地面に跪かされ、自分で自分の頬を叩かされたあの時から、俺はもう、こんなくだらない体面に心を動かされなくなっていた。
昔の、どこへ行っても問題を起こし、ハリネズミのように全身に棘をまとって、心の奥の劣等感を隠していた時沢晴人は、もう死んだ。
彼を殺したのは、時沢家であり、汐音だった。
ふいに、数台の黒塗りの社用車が、周囲の目など気にも留めない様子で堂々と乗りつけてきた。あの遊び人たちはナンバーを見るなり、すぐに四方へ散っていった。
先頭の一台は派手さこそなかったが、俺はその中に誰が乗っているのか知っていた。
陸崎グループを取り仕切る陸崎汐音。俺の婚約者でもある女だ。
俺はその車を見つめ、無意識に足を止めた。それから踵を返し、別の道へ回ろうとした。
ドアが開き、スーツ姿の女性が降りてきた。彼女は俺の前まで来ると、俺の顔と身なりを見て、一瞬だけ驚いたようだった。
自分でも、今の俺がひどい有様なのはわかっている。
身につけているのは、祖父の葬儀のときに着ていた白いシャツのままだった。
しわだらけで、くっきりとした靴跡までいくつも残っている。
顔は赤く腫れていた。前日に頬を張られた跡が、まだ引いていないのだ。
爪の間には黒い泥が詰まり、指先はかすかに震えている。
片足にはゴミ捨て場で拾った靴を履き、もう片方の足は裸足のまま、寒さで真っ赤になっていた。
汐音の秘書は目を伏せ、瞳に浮かんだ驚きを隠すと、丁寧に乗車を促した。
「時沢様、陸崎社長がお呼びです」
俺はうつむいたまま後ずさった。声はひどくかすれていて、口を開くだけで喉が焼けるように痛んだ。
「結構です。時沢家に戻ります」
そう言って、俺は彼女を避けて立ち去ろうとした。
秘書は目を見開いた。
俺にとって、汐音は救いそのものだった。
五年間、俺はずっと彼女の背中を追いかけてきた。会うたびに不機嫌な顔をされても、どうにか理由を作っては、彼女に近づこうとしていた。
そんな俺が今では、彼女を恐ろしいもののように避けている。
俺のしつこさを見慣れていた秘書が驚くのも、無理はなかった。
「晴人!」
冷ややかな声に、俺は反射的に足を止めた。
秘書は俺が唇をきつく結んでいるのを見ると、少しためらってから、それでも乗車を促した。
俺はできるだけ背筋を伸ばし、左脚の違和感に耐えながら、秘書の言いたげな視線を無視して、ゆっくりと車に乗り込んだ。
中には汐音が座っていた。
彼女は書類から顔を上げ、見る影もない俺の姿を目にした。
けれど心配するどころか、眉をきつく寄せ、不快そうに言い放った。
「その格好、何のつもり?みっともないにもほどがあるわ。恥ずかしいと思わないの」
その鋭い言葉を聞いても、俺の心はいつものように痛まなかった。彼女が俺の傷に気づいてくれないことに、落胆もしなかった。
ただうつむいたまま、低い声で答えた。
第2話
「ごめん」
けれど、俺だって望んでこんな姿になったわけじゃない。
葬儀の費用が足りなくて、だまされるようにして闇金に手を出すことも、金貸しどもに地面へ叩きつけられて殴る蹴るの暴行を受けることも、自分で自分の頬を叩かされることも、犬みたいに壁際につながれることも、床に這いつくばって舌で飯をなめろと強いられることも、望んでいなかった。
それでも、祖父の遺体が墓から掘り起こされ、死後も安眠を奪われるというそのことだけは、どうしても受け入れられなかった。
彼女の手がふと止まった。俺を一瞥した彼女の声には、なぜか少しだけ満足げな響きがあった。
「悠真の言ったとおりね。少し苦労して、少し痛い目を見れば、あなたもようやく性根が変わる。少しは打たれ強くなったじゃない」
俺が時沢家に引き取られるまで、時沢悠真(ときざわ ゆうま)はずっと俺の代わりにあの家で暮らしていた。そして時沢家の本当の息子である俺は、悠真と血のつながった祖父と、ずっと二人で支え合って生きてきた。
頭の回転が鈍っていた俺は、なぜ汐音がそこで悠真の名前を出したのか、深く考えることができなかった。
汐音はきっと、俺がようやく自分の思いどおりになったと思ったのだろう。
褒美でもくれてやるとでもいうように、俺へ向かって手招きした。
「もっと近くに座りなさい」
俺は汐音からいちばん離れた席に座っていた。車に乗ってから、一度も彼女を見ていない。ただずっと、足元のマットを見つめていた。
犬でも呼ぶようなその口調に、俺は強い拒絶感を覚えた。けれど、いつまで経っても動けなかった。
汐音は俺がいつまでも動かないのを見て、声を低くした。
「こっちに来なさいと言っているの」
俺は返事をしなかった。
背筋をぴんと張りつめたまま、崩れかけた自分の尊厳を、どうにかそれだけで保とうとしていた。
その尊厳など、闇金どもに殴られ、命乞いをしたあの瞬間に、とっくに跡形もなく消えていたというのに。
俺が何も言わなかったせいで、車内はしばらく沈黙に包まれた。
汐音はその空気に慣れていなかったのか、それとも待たされることに苛立ったのか、俺のほうへ手を伸ばしてきた。
その手が俺の腕をつかみかけた瞬間、俺は全身を強ばらせた。けれど、俺の座っている場所は窓際で、逃げ場などなかった。
彼女が俺に触れた瞬間、かすかな香水の匂いがした。
彼女がいつもつけている香水だ。しかも、それは悠真が贈ったものだった。
そもそも、その香水のせいで俺は侮辱された気がして、悠真と衝突した。両親にカードを止められた俺は、手元にあったわずかな現金だけを持って故郷へ戻った。
その頃には、祖父の腎機能はすでに衰えきっていた。金がないせいで、病院へ行くこともできずにいた。
俺は祖父を病院へ連れて行った。けれど手術費を払う金がなく、両親に電話するしかなかった。何度かけても、誰も出なかった。
その後、俺と折り合いの悪かった遊び人たちがそこへやって来て、にやにや笑いながら言った。
「時沢の若様、金に困ってるんだって?」
「だったらさ、俺たちもそこまで薄情じゃないし。俺らの股の下をくぐったら、金をやるよ。どうする?」
俺はためらいもなく膝をつき、腰をかがめ、膝で一歩ずつ進みながら、彼らの股の下をくぐった。
祖父は俺を幼い頃から育ててくれた人だ。助けられる可能性が少しでもあるなら、俺は絶対に逃すわけにはいかなかった。
個室の中は静まり返っていて、俺の服が床を擦る音さえ聞こえるほどだった。
彼らはスマホを掲げて、俺の惨めな姿を撮った。最後には笑いながら1万円札を三枚を床に投げ捨て、肩を組んで大笑いしながら出ていった。
「お前、自分が今どんな顔してるか、わかってんのかよ。そのざまで陸崎社長に付きまとうとか、よく恥ずかしくねえな」
「陸崎社長へのご立派な一途さってやつも、せいぜいこの程度の価値ってことだな」
追い詰められた俺は、あの連中に言いくるめられて闇金から金を借りてしまった。
結局、祖父は治療が間に合わず亡くなった。
祖父の葬儀を終え、返済の日が来たとき、俺は汐音に電話して金を貸してほしいと頼んだ。けれど彼女は苛立った声で、戻ってきて謝ればいいと言い捨て、そのまま電話を切った。
第3話
その記憶がよみがえった瞬間、息が詰まった。
汐音に触れられた腕にびっしりと鳥肌が立ち、まるで蛇に絡みつかれたように、胸の奥がぞくぞくと冷えていった。
めまいがする。気持ち悪い。吐きそうだ。
俺は反射的に汐音の手を振り払い、腰をかがめた。片手で前の座席をつかみ、もう片方の手で口元を押さえながら、車内で激しくえずいた。
ここ数日、ろくに食べていなかった。だから、吐けるものなど何もない。
車内に、かすかな酸っぱい匂いが漂った。汐音はティッシュで鼻を覆い、嫌悪を隠そうともせず俺の名を呼んだ。
「晴人!」
耳には何の音も入ってこなかった。俺はそのままえずき続け、吐き気が収まるまで止められなかった。
汐音は何も言わず、ただ冷ややかに俺を見ていた。俺は彼女のことをよく知っている。これはもう、怒りが爆発する寸前の顔だった。
俺はこれまでのように、ふざけてごまかそうとはしなかった。
自分にはもう、騒ぐだけの余裕も資格もないと、痛いほどわかっていたからだ。
弱りきった体は、かすかに震えていた。俺はうつむいたまま、前の座席の背もたれをつかむ手に、知らず知らず力を込めていた。
「ごめん……時沢家に着いたら、車は俺が洗う。ここで降ろしてくれたら、歩いて行く。マットを汚してしまって、本当に悪かった」
汐音は動きを止め、疑わしげに俺を一瞥した。
張り詰めた沈黙がしばらく続いたあと、彼女は突然手を伸ばし、俺の額に触れようとした。
だんだん近づいてくるその手を見て、全身がこわばった。避けるべきではないとわかっていた。かつての俺が何よりも望んでいたのは、汐音が俺の思いに少しでも応えてくれることだったのだから。
ただ、彼女は強引で、俺のことをひどく見下していた。少しでも彼女を不快にさせると、彼女は俺を完膚なきまでにこき下ろし、俺をひどく惨めな気持ちにさせた。
俺は座席の上で身を硬くしたまま、何度も自分に言い聞かせた。
避けるな。彼女を怒らせるな。
けれど、彼女の冷たい指先が俺に触れた瞬間、蛇に絡みつかれたようなあの吐き気がまた込み上げてきた。俺は耐えきれず、顔をそむけて彼女の手を避けた。
汐音の手は宙に止まったまま、ぴたりと動かなくなった。彼女の目が俺に向いたとき、その中に怒りと苛立ちが浮かんでいるのがわかった。
また、頭の奥がぐらりと揺れた。
俺は小さく頭を振った。目の前にいたはずの汐音の顔が消え、代わりに病室のベッドに横たわる祖父の姿が浮かんだ。
あいつらのせいで、俺は唯一優しくしてくれた人を失った。
瞬きをすると、涙が一粒こぼれ落ちた。
汐音は、俺を叱りつけようとしていた言葉をふいに飲み込んだ。涙で濡れた俺の顔を見つめ、結局何も言わず、ただ冷たい声で運転手に急ぐよう命じた。
俺は袖口で乱暴に涙を拭い、隅で身を縮めるように座って、できるだけ気配を消した。
視界に映る景色は少しぼやけていた。俺はぼんやりと窓の外を眺めながら、ふと思った。
あのとき汐音が俺に手を差し伸べてくれていたら、祖父は助かったのだろうか。俺も闇金に手を出さずに済み、こんなことにはならなかったのだろうか。
けれど、人生に「もし」はない。
車が止まった拍子に、その反動で額を前の座席の背にぶつけた。
汐音は珍しく、俺に一言だけ声をかけた。
「大丈夫?」
俺は額を押さえたまま何も言わず、首を横に振った。
彼女はそれ以上尋ねることもなく、そのまま車を降りた。俺を気にかけることもなく、まっすぐ時沢家の中へ入っていった。
二階に上がったあと、俺は急いでシャワーを浴びた。
汚れきったスラックスを脱ぐと、傷ついた左脚が露わになった。
左膝には、血のにじんだ穴がいくつも開いていた。血はすでに固まり、黒ずんでいて、ひどく痛々しい見た目になっていた。
あいつらにやられたものだ。俺がどれほど痛がってもお構いなしに、釘を俺の膝に打ち込んだ。痛みにのたうち回る俺の姿を見て、あいつらは腹を抱えて笑った。そのあと、残飯を少し食わせてやるから、その釘を自分の手で抜けと言った。
第4話
あれは、まさに悪夢のような時間だった。
清潔な服に着替え、傷の手当ても済ませてから、俺はようやく一階へ下りた。
ちょうど食事の時間だった。
母は俺を見るなり、少し驚いたような顔をした。それから俺に手招きし、わずかに責めるような口調で言った。
「帰ってくる気はあったのね。あんなに長く家出しておいて、電話の一本も寄こさないなんて」
急に、どうしようもなく悔しさが込み上げてきた。胸の中に溜まっていたものを吐き出したかった。けれど、口を開いて最初の一音を発したところで、すぐに遮られた。
「母さん、山下夫人とアフタヌーンティーの約束があるだろ。今度こそ遅れないようにしないと」
悠真が、仕立てのいいスーツを着て玄関から入ってきた。口調はどこまでも何気ないものだった。
母の注意はすぐに彼へ向き、視線も俺から離れた。
「ああ、そうだったわ。危うく忘れるところだった。悠真が言ってくれて助かったわ」
悠真はソファに腰を下ろし、俺に向かってかすかに口角を上げた。
「晴人、よく帰ってくる気になったね。これからは父さんと母さんに意地を張るのはやめなよ。そろそろ大人になって、自立することも覚えないと」
その言葉につられるように、全員の視線が俺へ集まった。
悠真の嘲りに満ちた目とぶつかった瞬間、心臓が強く跳ねた。それでも俺は、昔のようにかっとなって怒鳴ったりはしなかった。
母は悠真の言葉を否定しなかった。ただ彼を軽く見やると、すぐに心配そうな声を上げた。
「悠真、最近、ちゃんと食べていないんじゃないの?ほら、また痩せたわ。どんなに忙しくても、体のほうが仕事より大事よ。それに、会社にはお父さんだっているんだから」
その言葉を聞きながら、俺は黙って、手を背中へ隠した。
俺はこんなにも母の近くにいるのに、母は青黒く腫れた俺の手の甲にも、不自然な歩き方にも気づかなかった。なのに、悠真のこととなると、ちゃんと食事を取っているかどうかまで細かく察するのだ。
悠真は笑った。
「晴人だけで十分、父さんと母さんに心配をかけているからね。俺くらいはしっかりしないと」
母は何か言いたげに俺を見たあと、ため息をついた。
食卓では、母がしきりに俺の皿へ料理を取り分けてくれた。俺はこれまでとは違い、目を伏せて素直に礼を言った。
母は安心するどころか、かえって心配そうにため息をついた。それ以上説教することはなく、以前俺から取り上げたカードを俺の手のひらに置いた。
「晴人、あなたが家を飛び出していた間、私たちがどれだけ心配したと思っているの。これからはもう、あなたを縛ったりしないわ。このカードは返しておく。中にはお父さんが少しお金を入れてくれているから」
俺はそのカードを握りしめ、それから力を抜いた。
遅すぎた。このカードを返されるには、あまりにも遅すぎた。
悠真は、箸を握る指の関節が白くなるほど力を込めていた。彼はずっと俺を見ていたが、俺と目が合うと、すぐにまた笑みを浮かべ、隣に座る汐音に話しかけた。
「汐音にはかなわないな。オークションでも君には勝てなかったよ」
汐音はギフトボックスを取り出し、少しだけ声をやわらげた。
「あなたへの誕生日プレゼントよ。数日前は海外で会議があって、間に合わなかったから」
悠真は冗談めかして言った。
「君は忙しいから、俺のことなんて忘れているのかと思っていたよ」
そう言って、悠真は箱を開けた。
中には、深い緑の文字盤をした腕時計が、静かに収まっていた。
料理を取ろうとしていた俺の手が止まった。
その腕時計は、オークションのカタログで見たことがあった。ひと目見た瞬間から欲しいと思ったものだ。けれど俺には、オークション会場に入るための招待状がなかった。
あのとき汐音は、俺の視線がその腕時計に留まったことに気づき、淡々と言った。面倒を起こさなければ、落札して誕生日プレゼントにしてあげる、と。
けれど今、彼女はそれを悠真に贈っていた。
汐音は一言も説明しなかった。それでも俺にはわかった。これは俺への罰なのだ。
食事が終わったら、俺はみんなに「お先に」と言って席を立った。
二階の曲がり角で、俺は汐音と鉢合わせた。
第5話
彼女はハイヒール姿で、そこに立っていた。気の強さがにじむ、それでいて人を惹きつける姿だった。
以前の俺なら、とっくに自分から近づいていただろう。けれど今の俺には、もう胸が高鳴るような感覚はなかった。
彼女は俺の異変に気づいていなかった。
「晴人、変わったわね」
汐音が一歩近づくたび、ハイヒールの音がこつこつと廊下に響いた。
俺は目を伏せたまま、彼女を見なかった。
聞こえてくるのは、まるで機嫌のいい飼い主が褒美をちらつかせるような、上から目線の人の声だけだった。
「あの腕時計を気に入っていたのは知っているわ。でも、この半月、ずいぶん好き勝手してくれたわね。
だから罰として、誕生日プレゼントはなし。
ただ、今日はおとなしくしていたから、そこは褒めてあげる。あまり無茶なことでなければ、ひとつだけ願いを聞いてあげてもいいわ」
俺は顔を上げ、彼女の顔を見た。そこに、昔の記憶の中にある面影を少しでも探そうとした。
汐音と初めて会ったのは、とあるパーティーだった。
あの遊び人たちは、家の人間から、田舎くさい俺に取り入るよう言い含められていた。
けれど俺の服装を見て、彼らはその場で俺を笑いものにした。
あの頃の俺はひどく卑屈で、言い返し方もわからず、大きな声で話すことさえできなかった。そんな俺を助けてくれたのが汐音だった。
彼女はそのうちの一人の頬を平手で打ち、上から見下ろすようにして、ろくでもない連中だと叱りつけた。彼らは気まずそうにその場を去っていった。
そのとき、彼女は眉をひそめて俺に言った。
「あなたは時沢家の人間でしょう。おどおどする必要なんてないわ。相手があなたに取り入る立場なのよ。もっと堂々としていなさい」
「で、でも……嫌われたらって思うと、怖くて」
「嫌われる?覚えておきなさい。あなたが時沢の人間である限り、たとえ相手の頬を張ったとしても、向こうは『お見事です』と持ち上げるしかないの。わかった?」
俺はその言葉を五年以上も覚えていた。
けれどその後、汐音は大勢の前で俺を叱りつけた。俺のことを、少し触れただけで爆発する地雷みたいな人間だと言った。
でも、先に俺を困らせたのは、あいつらだったのに。
汐音の顔には、もう昔のように俺を守ろうとする優しさは少しも残っていなかった。彼女は俺を急かした。
「決まった?欲をかきすぎないで。急いでいるの」
俺は壁に手をついた。左脚からじくじくとした痛みが伝わってきて、その痛みが、俺の意識を常に冴えさせていた。
彼女のせいで、俺はどれほどひどい目に遭ったのか。
命乞いをしたとき、俺は自分が何者かを告げ、汐音の電話番号も口にした。何度も何度も心に刻み込んできたあの番号が、俺にどれほどの苦しみをもたらしたことか。
彼女はだんだん苛立ちを隠さなくなった。
「また何のつもりなの。
毎日あんなボンボン連中とつるんでばかりいて、少しも向上心がないのね。
時沢家に、あなたみたいな役立たずはいらないわ」
汐音の言葉で、またあの時のことを思い出してしまった。
以前、汐音があの金貸しどもを叱りつけ、かえって連中を怒らせたことがある。
その怒りは、すべて俺に向けられた。
連中は俺に、自分で自分の頬を叩かせた。頬が見る影もなく腫れ上がり、歯茎まで痛み出して、ようやく許してくれた。
顔が腫れたせいで、食べるのもつらかった。パンが硬すぎて食べられないでいると、彼らはそれを足でぐしゃぐしゃに踏み潰した。黒く汚れたそれを、俺の口の中に押し込んだ。
そこまで思い出した瞬間、胃の奥からまた吐き気がじわりと込み上げてきた。
俺は吐き気を必死にこらえた。
「ごめん。欲しいものは特にない」
汐音は眉をひそめ、疑わしげに俺を一瞥した。その表情には警告が滲んでいた。
「せっかく機会をあげたのに、手放したのはあなたよ。あとになって文句を言わないで。私、そこまで気が長くないの」
俺は小さくうなずいた。ただ、早く彼女に行ってほしかった。
「安心して、そんなことはしない」
汐音も、何かを望めと無理に迫ることはしなかった。もしかしたら、最初から俺に何かを贈るつもりなどなかったのかもしれない。
「ならいいけれど」
数歩進んだところで、彼女は足を止めた。俺に背を向けたまま言った。
「もう悠真に絡まないで。私と彼は何でもないから」
俺が返事をするより先に、彼女は立ち去った。
第6話
深夜まで待っていると、父がようやく会社から帰ってきた。
俺はスーツケースを引いて、父のもとへ向かった。
スーツケースの中には、古びた安物の服が数枚入っているだけだった。時沢家に見つけられる前日、祖父が俺に詰めてくれたものだ。
俺は涙を拭い、ファスナーを閉めて、スーツケースを玄関に置いた。それから父の書斎へ向かった。
父の返事を待ってから、俺はようやくドアノブを回して中に入った。
「お父さん」
俺は目を伏せ、おとなしく脇に立った。
父はしばらく、俺を頭の先から足元まで見つめていた。露出している肌が傷だらけなのを見て、唇を震わせた。
「晴人、父さんは全部知っている。私たちが悪かった。あのときお前のカードを取り上げたりしなければ、お前はこんなことには……」
俺は、あの悪夢のような出来事をもう二度と口にされたくなかった。初めて感情を抑えきれず、父の言葉を遮った。
「お父さん、俺、家を出たい」
父は力なく椅子の背もたれにもたれた。
「晴人、やはり私たちを恨んでいるんだな。
それも当然だ。お前を守れなかったのは、全部私たちのせいだから。
ただ、お母さんはお前が出ていくのを、きっとつらがる」
俺は目を伏せ、自嘲するように言った。
「家には悠真がいるでしょう」
「では、汐音は?お前は汐音のことがいちばん好きだったじゃないか。それでも離れられるのか」
俺はしばらく黙った。
確かに、俺が汐音を好きだということは、誰もが知っていた。彼女が一度俺を助けてくれたから、俺はどうしても彼女の後ろ姿を追わずにはいられなかった。
周囲の連中は、俺を汐音に尻尾を振る犬だの、どこへでもついて回る金魚のフンだのと陰で笑っていた。
けれど、あいつらは知らない。
悔しさのあまり悠真の真似をしようとして、かえって会社に数億円もの損失を出してしまったときも。
それでも俺のそばに立ち、「商売には損をすることもあれば、得をすることもある」と、迷いなく優しく言ってくれたのは汐音だけだった。
誰かに嘲られ、俺が反射的に殴り返したときも、そばにいて、よくやったと嬉しそうに言ってくれたのは汐音だけだった。
俺たちは一緒に食事へ行った。彼女は俺が贈った花を受け取ってくれたし、俺の誕生日も覚えていてくれた。
けれど、悠真が海外から戻ってきてから、彼女は変わった。
薔薇の棘は、自分を守るためにあるのだと教えてくれたのは彼女だった。
人は少しくらい尖っていたほうが、いじめられずに済む。まして俺は時沢家の人間なのだから、尖る資格がある。
そう言ったのも彼女だった。
なのにその後、その棘が自分に刺さるようになると嫌がり、それをすべて抜き取って、俺を飼い慣らそうとしたのも彼女だった。
「陸崎社長との婚約は、ここで解消してほしい」
俺は顔を上げて父を見た。それは父に告げる言葉であり、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
「もう陸崎社長に付きまとうことはしない」
父は深くため息をつき、俺の意志を悟ったように、カードを俺の手のひらに押し込んだ。
「たまには帰ってきて、顔を見せてくれ」
俺は無意識にそのカードを握りしめ、父に頭を下げた。
「ありがとう」
「これからは父さんが定期的にお金を振り込む。家に住みたくないというなら、それでもいい。
お前はずっと、私たちの子どもだ。帰りたくなったら、いつでも帰ってきなさい」
俺は、その遅すぎた気遣いに何も答えず、迷わず踵を返した。
「送ろうか」
俺は首を横に振った。自分でもよくわかっていた。俺が時沢家にいる限り、汐音のそばにいる限り、心の傷は永遠に癒えない。
過去を忘れなければ、もう一度やり直すことなどできない。
そして父もわかっていたのだろう。今回のことで、俺と彼らの間にはもう消せないわだかまりができてしまった。俺に恨まれないためにも、父は俺を行かせるしかなかった。
汐音がどんな反応をするかなんて、もう俺が気にすることではなかった。