壊れた絵巻、消えゆく愛

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壊れた絵巻、消えゆく愛

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ドレス試着の日、彼氏の入江真宙(いりえ まひろ)は一緒に来ると約束していたのに、いくら待っても姿を見せなかった。 ウェディングドレスの...

Chương (1)

第1章

ドレス試着の日、彼氏の入江真宙(いりえ まひろ)は一緒に来ると約束していたのに、いくら待っても姿を見せなかった。 ウェディングドレスの裾は長く、私・大崎百華(おおさき ももか)はひとり鏡の前に立って、何度も体をかがめては裾を整えた。 3度目に裾を踏んだとき、ようやく真宙からメッセージが届いた。 【梨愛がさっき帰国したんだ。まだ気候に慣れてないみたいだから、迎えに行ってくる。先に試着しといて】 次の瞬間、SNSのタイムラインが更新された。 上杉梨愛(うえすぎ りえ)が、写真を投稿していた。 片膝をついた真宙が、梨愛の細い足首をそっと包み、ヒールのストラップを留めている――そんな写真だった。 一言だけ、キャプションが添えられていた。 【やっぱりこの人、絶対に自分でかがませてくれないんだから】 投稿を開いた瞬間、真宙の「いいね」がついているのが目に入った。 空気を読んだのか、スタッフがそっと声をかけてくれた。 「大崎様、入江様は大崎様のことをとても心配していらっしゃいます。『こっそりダイエットして体を壊すといけないから、ウエストは直さないように』と、わざわざご配慮くださって」 私は笑った。 心配してくれていること自体に、嘘はない。ただ、彼が別の誰かを優先することを、その優しさはちっとも止められなかった。 うつむいて、白いドレスを見つめる。 ふと気づいてしまった。 身の丈に合っていないのは、ドレスじゃない。 きっとずっと前から――この結婚そのものだ。 第1話 ドレス試着の日、彼氏の入江真宙(いりえ まひろ)は一緒に来ると約束していたのに、いくら待っても姿を見せなかった。 ウェディングドレスの裾は長く、私・大崎百華(おおさき ももか)はひとり鏡の前に立って、何度も体をかがめては裾を整えた。 3度目に裾を踏んだとき、ようやく真宙からメッセージが届いた。 【梨愛がさっき帰国したんだ。まだ気候に慣れてないみたいだから、迎えに行ってくる。先に試着しといて】 次の瞬間、SNSのタイムラインが更新された。 上杉梨愛(うえすぎ りえ)が、写真を投稿していた。 片膝をついた真宙が、梨愛の細い足首をそっと包み、ヒールのストラップを留めている――そんな写真だった。 一言だけ、キャプションが添えられていた。 【やっぱりこの人、絶対に自分でかがませてくれないんだから】 投稿を開いた瞬間、真宙の「いいね」がついているのが目に入った。 空気を読んだのか、スタッフがそっと声をかけてくれた。 「大崎様、入江様は大崎様のことをとても心配していらっしゃいます。『こっそりダイエットして体を壊すといけないから、ウエストは直さないように』と、わざわざご配慮くださって」 私は笑った。 心配してくれていること自体に、嘘はない。ただ、彼が別の誰かを優先することを、その優しさはちっとも止められなかった。 うつむいて、白いドレスを見つめる。 ふと気づいてしまった。 身の丈に合っていないのは、ドレスじゃない。 きっとずっと前から――この結婚そのものだ。 …… 翌朝早く、玄関の電子錠が解除される音が響いた。 すぐに掛け布団がめくられ、ひんやりとした手が後ろから私の腰に回され、強く抱きしめられた。 「寝たふりなんてしなくていいから。入った瞬間にわかった」 真宙が低く笑いながら、顎を私の首筋に押し当ててくる。 「何年一緒にいると思ってるんだ。俺がいないと、お前ってろくに眠れないだろ」 何気ない口ぶりのその言葉が耳に届いた瞬間、目の奥がじわりと熱くなった。 彼は全部わかっているくせに。それでも私を1人残して、一晩中帰ってこなかった。 さわやかなシャワージェルの香りが鼻をくすぐった。けれど少し嗅いでみると、その奥に混じる女性用香水の残り香に気づいた。 甘く、濃く、まとわりつくような匂い。 梨愛がいつも使っているブランドだ。私が好む、冷ややかなウッディ系の香りとは、全く性質の異なるものだった。 胸の奥がざわついた。何を言っても、もう意味がない気がした。 腰に回された手をほどいて、布団をはねのけ、裸足のままバスルームへ向かった。 顔に冷たい水をパシャリと浴びせると、雫が顎の先から落ちた。 鏡を見上げる。青白い顔。目の下には、一睡もできなかった夜を物語る深い隈が、くっきりと残っていた。 足音が追いかけてくる。真宙がバスルームに入り、また両腕を私の腰に回した。 鏡に映る真宙は、生き生きとしていた。目元にまで、どこか満ち足りたような色を宿していた。 「まだ怒ってんのか?昨日、俺が一緒に行けなかっただけで?」 真宙はため息をついた。 「あのウェディングドレス、もう何回も一緒に試着に行ったじゃないか。1回くらい抜けたっていいだろ。 梨愛は帰国したばかりで、荷物も多かったし、昔からの友人として迎えに行くのは当然だろ。 普段あんなに分かってくれるのに、なんでこういうときだけ拗ねるんだ。こんなことでだんまりを決め込むつもり?」 「何でもない」 私は真宙の手を払いのけ、タオルをハンガーに戻して、部屋へ向かった。 「本当に?」 真宙は軽い足取りでついてきた。 「じゃあ昨日のドレス、決めてきた?請求書送ってくれれば、俺がサインしに行くから」 ベッドサイドのチェストの引き出しを開けて、赤い判が押された予約書を取り出した。 真宙の脇を通り抜け、まっすぐ書斎のシュレッダーへ向かう。 紙をシュレッダーの投入口に押し込んだ。 けたたましい細断音とともに、何度も何度もウエストの直しを頼んだあの予約書が、細長い紙くずになって屑籠に落ちた。 真宙がほんの少し固まってから、振り返り、私の手首をつかんだ。 「何してる!」 その顔色が変わっていた。怒りを押し殺した低い声が響く。 「いったい何をそんなに拗ねてるんだ。ドレスまで捨てるつもりか?」 手首を、骨が軋むほど強く握られた。青筋の浮いた真宙の手を見つめていると、反論する気力さえ消えていった。 「拗ねてなんかいない」 私は真宙の目を見て、ゆっくりと手を引いた。 「あの店、何度直してもウエストが合わなかったから。キャンセルしたの、それだけ」 肩を押しのけ、玄関で靴を履く。 ドアが閉まる直前、リビングから、真宙が秘書に電話をかける声が聞こえてきた。 第2話 「昨日、ウェディングドレスの店で何があったか今すぐ調べろ!また誰が彼女の機嫌を損ねたんだ? せっかく平穏に暮らせているっていうのに、毎日こんなことで騒ぎ立ててさ。あの店のオーナーに伝えろ、『元のサイズでもう1着作り直して、すぐ届けるように』ってな!」 廊下はしんと静まり返っていた。 エレベーターの前にたたずんでいると、換気口から吹き込む冷たい風に、胸の奥まで凍らされていくようだった。 彼はわかっていない――私が気にしているのは、ドレスのことなんかじゃない。真宙のあのあからさまな特別扱いが、ただ、つらかった。 スマホを取り出して、メモアプリを開く。「式の進行」という項目を探して、左にスワイプした。 そして、削除をタップした。 …… 仕事を終えてから、リノベーションしたばかりの新居へ向かった。置いてきた原稿を取りに行くためだ。 エレベーターを降りた瞬間、玄関の前に置かれた女性用のサンダルが目に入った。 昨日、SNSに上がっていた、あのサンダルだった。 じっと見つめてから、ドアを開けた。 リビングは静かだった。 梨愛がオーバーサイズのTシャツを着て、私たちが3ヶ月かけて選んだミルクホワイトのソファに腰かけていた。 私の姿を見るなり、梨愛は慌てて立ち上がり、反射的に真宙を呼んだ。 「真宙!」 書斎のドアが開き、真宙が出てきた。 玄関に立つ私を見て、一瞬驚きの色が顔をよぎった。が、すぐに表情を取り繕った。 「あの……」 少し、近づいてくる。 「梨愛が1人でホテルに泊まるのが怖いって言うし、俺の実家にいるのも気まずいだろうから、ここに数日泊めることにした。部屋が見つかったらすぐ出ていってもらうから」 梨愛は上目遣いで私を見つめた。声には、こらえきれないような、いじらしい響きがにじんでいた。 「百華さん、私が悪いのはわかってます。でも、両親をホテルの火事で亡くしてしまって……もし嫌なら、今すぐシェアハウスでも探します」 そう言いながら、スマホへ手を伸ばした。 「梨愛!」 真宙が引き止め、眉を寄せながら梨愛を見た。 「そんなことしなくていい。百華は気にしないから」 私は静かに真宙を見ていた。 こんなに長く愛してきた人を、ただただ見つめていた。 真宙は私の前に立ち、当たり前のような顔で私たちの新居を別の女に明け渡し、私に異議を唱える隙さえ与えなかった。 ゆっくりと、この部屋を見回す。 ここにあるものは、どれも私がひとつひとつ選び、整えてきたものばかりだった。 ソファは一緒に選んだ。壁のペンキは私が自分で調色した。飾ってある絵も、私が描いたものだ。 今、梨愛はこの空間に当たり前のように座り、真宙に守られる特権を楽しんでいる。 視線が梨愛の着ているTシャツに止まった。 ペンキを塗った日のことを思い出す。スーツを汚さないようにと、私がわざわざ買って渡した着替えだった。 ダサいと思われるかもしれないと、ずいぶん迷ってから差し出したのに、真宙は嫌な顔一つせず、「洗ってとっておく」と笑った。 そのとっておくはずの服が今、堂々と、梨愛の体に着られていた。 外では雨がしとしとと降り続けていた。心の中にも、じわりと湿気が染み込んでくるようだった。 わめき散らして言い争う気にはなれなかった。ただ、原稿を探して部屋を見回した。 リビングのローテーブルの脇、床に半乾きのバスタオルが脱ぎ捨てられていた。 スケッチブックの角が、そのタオルの下から少しのぞいていた。 しゃがんで、引き抜いた。 タオルの湿った部分が、ちょうど後半のページを覆っていた。 紙は水を吸って、青、緑、赤が溶け合い、見るも無残な色の染みになっていた。 指が震えた。1枚1枚めくっていく。後ろのページも、全部同じだった。全滅だった。 梨愛は、私が必死に押し殺している感情を察せなかったのか、すぐに涙をこぼした。 「ご、ごめんなさい……お風呂に入る前に、ちょっと見たら可愛いなって思って、つい…… お風呂から出たらどこに置いたか忘れちゃって……大切なものでしたよね。私も絵を描く人間だから、弁償します」 水に浸かって、ぐちゃぐちゃになったスケッチブックを握りしめたまま、私の胸にぽっかりと穴が開いていくようだった。 立ち上がり、それをバッグに押し込んで、部屋を出ようとした。 「百華」 真宙が手首をつかんだ。 「梨愛だって、わざとやったわけじゃないんだ。そんな――」 「いいよ」 本当に、もういい。 ドアが背後で閉まった。エレベーターの金属扉に、ぼやけた自分の影が映っていた。 第3話 部屋の中から、くぐもった怒鳴り声と、梨愛の言い訳と、途切れ途切れのすすり泣きが聞こえてきた。 でも、もうどうでもよかった。 …… その夜、家に帰ってから、スケッチブックを広げて修復を始めようとした。 ちょうど筆を持ち上げたとき、スマホの画面が光った。 以前注文しておいたプチギフトの専門店からの、デザインの最終確認の連絡だった。 開いてみると、私たちをモデルにしたイラストのキャラクターが2人、並んでいた。 線は柔らかく、色は温かく、描いてもらった当時は胸いっぱいの幸せがあった。今はただ、失望だけが残っていた。 少し間を置いてから、キーボードにメッセージを打ち込んだ。 【ありがとうございます。キャンセルでお願いします】 送信した直後、以前やり取りしていた編集長から電話がかかってきた。 「大崎さん、大変申し訳ないのですが、先日結ばせていただいた出版契約を、こちらから解除させていただくことになりました。詳細はお伝えできないのですが、ほかによりふさわしい作家が見つかりましたので。大変失礼いたしました」 電話が切れた。ツーツーという音だけが続く。スマホを握る指先が、冷たくなっていた。 理由はわからないのに、ふと、ある推測が頭をよぎった。 真宙の番号を探して、そのまま発信した。 「出版社との契約、あなたが裏で手を回したの?」 電話の向こうで、数秒の沈黙があった。 この沈黙に、私は慣れすぎていた。言葉を選ぶとき、私を傷つけるような残酷な事実を口にする前、真宙は必ずこうして押し黙る。 「梨愛は今、お前より厳しい状況にいる。向こうでひどいDVを受けていたんだ。やっと離婚して帰ってきた。ここで生活を再建するための足がかりが必要なんだ。 昔、俺と両親は梨愛のお父さんたちに助け出されたんだ。両親は彼女の面倒をきちんと見ると約束した。だから、俺の立場も少しは分かってほしい」 目を伏せた。にじんだ色のスケッチブックを見つめていたら、涙が予告もなくこぼれた。 このスケッチブックは、母が逝く前に描きかけていたものだ。どうしても出版したいと、私は母に約束した。 3年をかけて、1筆1筆、母の未完の絵を補い続けた。色は試行錯誤しながら自分で探し出し、物語は母のノートをもとに一から組み立てた。 あの病室で、私は母に誓った。真宙と幸せになると。そして絵本を世に出すと。 たった2つの願いだったのに、どちらも果たせなかった。 私のすすり泣きが聞こえたのか、真宙の声が少しだけ柔らかくなった。 「そんなに思い詰めないでくれ。もっといい出版社を必ず見つけてやるから。お前の作品を埋もれさせたりなんか絶対にしない」 「……もう、いい」 この物語は、もう描き続けたくなかった。 日々は静かに流れていった。何事もなかったかのように。 私は部屋に籠もって鍵をかけた。これまでの画稿も、絵本も、スケッチも、全部整理して、棚の一番奥にしまい込んだ。 それから新しい画用紙を広げて、筆を持ち直した。母のための、新しい物語を始めるために。 3日後、スマホが鳴った。国際電話の番号だった。 「もしもし、大崎百華様でいらっしゃいますか?私どもはF国を代表する独立系アート出版社でございます。個人サイトに掲載されていた作品を拝見し、シリーズ作品を買い取らせていただけないか、ご相談したく……」 思わず固まった。 F国のその出版社は業界の最高峰で、極めてハードルが高いことで知られている。過去に3回投稿したが、返事すら来なかった。 こんな出来すぎた偶然などあるはずがない。裏で真宙が手を回したのだ。 「せっかくのお話ですが」 気持ちを落ち着けて、答えた。 「現在、作品を売却する予定はございません」 向こうはほんの少しだけ黙ってから、鼻で笑うような声を出した。 「大崎さん、そんなにもったいぶらなくてもいいでしょう?入江社長のコネで手に入れたチャンスを、一体何様のつもりで断るんです?自分の実力だとでも思ってるんですか?」 聞き慣れない言語で吐かれた罵声だけは、はっきりと耳に届いた。 何も言わずに、私は静かに電話を切った。 それからまた数日後、小さな出版社やアトリエのサイトをひとつひとつ調べながら、新しい可能性を探していた。 ふと、あるアトリエの名前が目に飛び込んできた。クリックすると、紹介文はたった1行だけだった。 【初心を忘れず】 初心を貫くことこそが、人間にとって一番難しい。 その言葉を、私はしばらく見つめていた。 第4話 新しいバージョンの絵本のサンプルデータを整理してメールに添付し、投稿フォームに必要事項を入力して、送信ボタンを押した。 …… 仕事を終える直前、真宙の母、入江裕子(いりえ ゆうこ)から電話がかかってきた。実家に夕食を食べに来るようにと言われ、ついでに結婚式の式次第を確認したいとのことだった。 スマホを握ったまま、画面に表示された名前を見つめ、結婚を取りやめることをどう切り出すか考えた。 入江家に着き、リビングのドアを開けた瞬間、笑い声が耳に届いた。 梨愛が裕子の隣にぴったりと寄り添い、ふたりで腕を組みながら楽しそうに笑っている。 玄関に立つ私は、ひとり浮いた存在だった。 裕子は梨愛の手の甲をポンポンと叩き、残念そうに言った。 「梨愛ちゃんが留学さえしていなければ、今頃は真宙と結婚していたのにねえ。器の小さい女を嫁にしなくてすんだのに」 足を止めず、そのまま靴を脱いだ。胸の奥がむかついた。 私には両親がいない。けれど、ふたりが遺してくれた財産は決して少なくなかった。 それでも、この家の人々から見れば、私はどこまでも格下の存在らしかった。 「母さん、もういいですよ」 真宙が眉をひそめて制した。 「俺は本気で百華のことが好きなんです。梨愛と比べるのはやめてください」 そう言いながら私に視線を向け、なだめるように近づいてきて、私の手を取ろうとする。 その手をさりげなくかわし、ソファの方へと歩いた。 裕子は私に気づくと笑顔を引っ込め、素っ気なく言った。 「来たなら座れば」 裕子のもう片方の手は、まだ梨愛の手を握っていて、私はまるで部外者だった。 ソファに近づいた次の瞬間、視線が止まった。 梨愛の首元に、ダイヤモンドのネックレスが光っていた。 あれは間違いなく、母の形見だった。 私の視線に気づいた梨愛が、手を伸ばしてそっとネックレスに触れる。得意げな色が、一瞬だけその顔に浮かんだ。 「ふふ、入江のおばさまにいただいたんですよ。よく似合うって言ってくださって。どう思います?」 私はネックレスを見つめたまま、冷えた声で言った。 「母の形見がいつから、入江家のものになったんですか」 裕子の顔色が変わる。立ち上がり、私を指差した。 「このネックレスは、あなたのお母さんが私に貸してくれたものよ。彼女の半分でも器が大きければ、そんなみみっちいことを言わなくてすむのに。たかが1本のネックレスで。誰も欲しがったりしないでしょうに」 私は口元を少しだけゆがめた。 「借りたものは返す。そんな当たり前のことも分からないんですか。ずっと手元に置いておいた挙げ句、他人へ渡すなんて、本当に恥知らずね」 「あなた!」 裕子が全身を震わせ、指先までぶるぶると震わせながら私を指す。 「生意気な!そんな口のきき方があるかしら!」 真宙が慌てて間に入り、声を低めた。 「百華、もうすぐ結婚するんだ。ネックレス1本でこじれるのは得策じゃない。結婚すれば、俺のものは全部お前のものになる。明日、一番いいものを買いに行こう、いいだろ?」 冷たい目で真宙を見た。 その瞳には、確かに誠意があった。でも今の私には、その誠意すら、ひどく薄っぺらに見えた。 「あなたのものなんて、いらない」 ゆっくりと手を引き抜く。 「この結婚、やめます」 リビングが静まり返った。 裕子が声を張り上げる。 「やめる?そんな一言で済むと思ってるの?入江家をどういう家だと思ってるの。勝手に決めつけるなんて、ずいぶん自分を偉いと思っているのね!」 私は彼女を無視して、1歩前に出た。梨愛の首から、ネックレスをひと思いに引きちぎる。 「きゃっ!」 梨愛が叫び、首を押さえながら後ずさりして涙をこぼした。 「真宙、この人が……っ!」 「もういい加減にしろ!」 真宙が私の手首をつかみ、眉間に深い皺を寄せた。 「こんな場所でお嬢様気取りのわがままを言って、どうするつもりだ!」 力いっぱい振りほどき、ネックレスを手に握ったまま、振り返らずに外へ出た。 夜風が頬を撫でる。手のひらに、ネックレスが食い込むように痛かった。 家に戻ると、スマホが一度だけ震えた。 あのアトリエから、原稿通過の知らせだった。 長い間、画面を見つめていた。目の奥がじわっと熱くなった。 ネックレスをバッグに入れてから、クローゼットを開けてスーツケースを取り出し、普段着をいくつか詰め込み、スケッチボードを手に取った。 スマホのアプリを開き、あの小さな街へと向かう航空券を買った。 この街には、もう、私を引き留めるものは何もなかった。