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豪華な結婚式のあと、私は新居の一時滞在者になった
七夕の夜、牧野瑛斗(まきの えいと)は莫大な金を投じて、街じゅうの大型ビジョンに私・林柚葉(はやし ゆずは)の名前を煌々と浮かび上がらせ...
Chương (1)
第1章
七夕の夜、牧野瑛斗(まきの えいと)は莫大な金を投じて、街じゅうの大型ビジョンに私・林柚葉(はやし ゆずは)の名前を煌々と浮かび上がらせた。
涙が止まらなかった。
私は彼と結婚するために、アイビーリーグ大学院から届いていた推薦入学のオファーを断った。
それが、今日、区役所で思いがけない事実を知るまでは。
窓口の職員は、気の毒そうな目を私に向けて言った。
「林さま、こちらの住民票を確認しますと、このマンションの所有者は白鳥音花(しらとり おとか)さま。また、ご主人さまの配偶者として届け出がなされているのも白鳥さまとなっております。
林さまは一時滞在者扱いとなります」
私は瑛斗の社長室のドアを押し開けた。彼は音花の薬指に、口づけているところだった。
「どういうことか説明して」
私の声に、彼は眉をひそめ、心底うるさそうな顔をした。
「音花は子供の頃に親を亡くしててな、人一倍さみしがりなんだよ。たかが不動産の名義と婚姻届だ。名義だけ貸してやって、安心させてるだけだ。
お前には誰もが羨む結婚式をやった。誰もが羨むような幸せを味わわせてやった。体面ってやつは全部与えてやったんだ。まだ足りないってのか」
音花は彼の胸に寄りかかり、勝ち誇ったように笑った。
「柚葉さん、そんな怒らないでくださいよ。私は形だけでいいんです。夜になれば、彼はちゃんとあなたのところに帰って、夫のつとめを果たしてるんでしょ?」
私は自分の指にある結婚指輪を見つめた。その輝きが、唐突に、耐えがたいほど目に痛かった。
指輪を抜き取り、静かに彼の社長机の上に置いた。
そのまま背を向けて部屋を出る。歩きながら、父にメッセージを打った。
短い、四文字のメッセージだ。
【家に帰る】
第1話
七夕の夜、牧野瑛斗(まきの えいと)は莫大な金を投じて、街じゅうの大型ビジョンに私・林柚葉(はやし ゆずは)の名前を煌々と浮かび上がらせた。
涙が止まらなかった。
私は彼と結婚するために、アイビーリーグ大学院から届いていた推薦入学のオファーを断った。
それが、今日、区役所で思いがけない事実を知るまでは。
窓口の職員は、気の毒そうな目を私に向けて言った。
「林さま、こちらの住民票を確認しますと、このマンションの所有者は白鳥音花(しらとり おとか)さま。また、ご主人さまの配偶者として届け出がなされているのも白鳥さまとなっております。
林さまは一時滞在者扱いとなります」
私は瑛斗の社長室のドアを押し開けた。彼は音花の薬指に、口づけているところだった。
「どういうことか説明して」
私の声に、彼は眉をひそめ、心底うるさそうな顔をした。
「音花は子供の頃に親を亡くしててな、人一倍さみしがりなんだよ。たかが不動産の名義と婚姻届だ。名義だけ貸してやって、安心させてるだけだ。
お前には誰もが羨む結婚式をやった。誰もが羨むような幸せを味わわせてやった。体面ってやつは全部与えてやったんだ。まだ足りないってのか」
音花は彼の胸に寄りかかり、勝ち誇ったように笑った。
「柚葉さん、そんな怒らないでくださいよ。私は形だけでいいんです。夜になれば、彼はちゃんとあなたのところに帰って、夫のつとめを果たしてるんでしょ?」
私は自分の指にある結婚指輪を見つめた。その輝きが、唐突に、耐えがたいほど目に痛かった。
指輪を抜き取り、静かに彼の社長机の上に置いた。
そのまま背を向けて部屋を出る。歩きながら、父にメッセージを打った。
短い、4文字のメッセージだ。
【家に帰る】
……
家に帰ると、マンション管理人がドアの前に立ち、気まずそうな声で言った。
「林さま、システム上、白鳥さまがあなたの長期入室権限の取消を申請されておりまして……こちらに継続してお住まいの場合は、あらためて一時滞在の登録が必要になります」
ドアの画面に表示された「指紋未登録」を見て、私は指を空中で止めた。
「一時滞在の登録」
「はい」
管理人は手にしたタブレットの管理システムの画面を開き、私の前に差し出した。
「こちらの物件の所有者は白鳥音花さまとなっております。規定により、所有者の配偶者または直系親族以外の方は、一時滞在者としてしかご登録いただけません」
タブレットの画面がまぶしくて、目が痛くなった。
所有者、白鳥音花。
配偶者、牧野瑛斗。
電子データはあまりにも明瞭で、言い訳の余地すらなかった。
私はゆっくりと手を戻し、声を絞り出した。
「わかりました。ありがとうございます」
管理人は気の毒そうにこちらを一瞥し、エレベーターに乗り込んだ。
廊下に静寂が戻った。人感センサーの照明だけが、かすかな電子音を立てている。
私はスマートフォンを取り出し、瑛斗に電話をかけた。
長いコールの末、ようやく応答があった。
背景はひどく静かで、書類をめくる紙の音だけが遠くに聞こえる。
「どうした」
瑛斗の声は落ち着いていて、いつもの余裕がにじんでいた。
「家に入れなくなった」
閉じたままの防犯ドアを前に、私は静かに言った。
受話口の向こうで一拍の間があった。
「音花が、知らない人が出入りするのを気にして、一度指紋認証の設定を整理したいって言い出してな。たぶん、うっかりお前の指紋まで消しちまったんだろう」
ため息が聞こえ、それから宥めるような口調になった。
「とりあえず暗証番号を使え。番号は変わってない、俺の誕生日のままだ。
柚葉、気にするな。俺がちゃんと片をつける」
私はまぶたを伏せ、つま先を見つめた。
「瑛斗。管理人に言われた。私はここの一時滞在者なんだって」
瑛斗は電話口でほんの少し黙り、それから、小さく笑った。
「柚葉、今日会社に怒鳴り込んできただけじゃ、まだ足りないのか。
説明しただろう。音花は小さい頃に孤児院で育ってな。自分の家ってものに、人よりずっと飢えているんだ。このマンションを彼女名義にしてやったのは、ただ安心させてやるためだ。
お前には街中が羨む結婚式をやってやった。お前が俺の妻だってことは、誰もが知っている。この家に住んでいるお前を、一時滞在者扱いする奴なんているか」
彼の中では、愛情と体面は私に、名分と財産は音花に、それで釣り合いが取れていると思っているらしかった。
「じゃあ婚姻届の受理は?」
私はスマートフォンを握りしめた。指先が白くなる。
「区役所のシステムが処理中だから、私たちの受理証明書はもう少し待たないともらえない。あなた、そう言い続けてきたわよね。
でも、システム上であなたの配偶者になっているのは、彼女のほうだ」
瑛斗の声が一段低くなった。
「柚葉、どうしたんだ。お前、前はそんな女じゃなかった。
俺が毎晩帰っているのは誰のところだ。七夕の夜、街じゅうの人々の前で結婚を誓った相手は誰だ?
紙切れ一枚で、お前に向ける気持ちが変わるもんか。証明書より、お前自身のほうがずっと大事だ。
この件はちゃんと片をつける。ただ少し時間がいるだけだ」
私は何も言わなくなった。
胃のあたりに、きりきりと痛みが走る。
「わかったな」
瑛斗は声をやわらげ、なだめるように言った。
「今夜は付き合いの予定がある。遅くなるが、あとでちゃんと帰る。あまり考えすぎるな。今晩、ゆっくり話そう。いいな」
電話が切れた。
受話口の無機質な電子音を聞きながら、彼の誕生日の番号を押す。
ピッ――ドアが開いた。
玄関には、昨日私が生けたばかりの百合がそのまま置かれている。
リビングのテーブルに、段ボール箱が積まれていた。
近づいて蓋を開けると、中には瑛斗が私に宛てて書いた誓約書と、私がドライフラワーにしたブーケが入っている。
昨日まで家のいちばん目立つ場所に飾っていたそれらが、今はすべて、この雑貨入れの箱の中だ。
私は主寝室へ向かい、いちばん下の引き出しを開ける。
その奥に、結婚証明書がしまってある。
結婚式の日、瑛斗が私に手渡して、「これは俺たちの愛の証だ」と言ったものだ。
取り出し、静かにそれを開く。
第2話
証明書の内側には私たちの名前が印刷されていたが、法的効力はなく、ただの記念品だ。
私は爪の先で、証明書の表紙に貼られた見返しをそっと剥がした。一枚のツーショット写真が、はらりと落ちる。
写真のなか、瑛斗は白いシャツを着てやわらかく微笑み、音花が彼の肩に寄りかかって目を細めて笑っている。
私はその写真を長いこと見つめ、それから元どおりに見返しのあいだに挟み込んで引き出しに戻した。
クローゼットを開け、スーツケースを取り出す。服を何着かたたんで静かに詰め、ファスナーを閉めたちょうどその時、チャイムが鳴った。
玄関に向かい、ドアを開けると、音花が立っていた。トレンチコートを着て、背後にはスーツ姿の男が一人と、作業服を着た二人の業者が控えている。
「柚葉さん、やっぱりいらしたんですね」
音花はとても愛らしく微笑み、私の肩越しに部屋の奥へと視線を流した。
「何の用?」
私は入り口に立ったまま、彼女を通す気はない。
音花の後ろにいたスーツの男が一歩前に出て、名刺を差し出した。
「林さま、私は白鳥さまの顧問弁護士をしております。こちらの物件は白鳥さま個人の婚姻中に取得した財産にあたり、白鳥さまには現在、住居の改装および家具やインテリアの入れ替えを行う権利がございます。ご協力をお願いいたします」
音花は小さくため息をつき、無邪気な目で私を見上げた。
「柚葉さん、誤解しないでください。ただ、いまの内装って少し冷たい感じがするから、もう少しあたたかい色合いの家具に変えたいと思っただけなんです。
だってここは、私と瑛斗の家ですから」
彼女は「私と瑛斗の家」という部分だけ、ことさらはっきりと発音した。
「柚葉さんが使っていたもの、私、嫌じゃないですよ。ただ主寝室だけ空けていただければいいので」
私は彼女の顔を見つめた。急に、すべてがどうでもよくなった。
「空けるまでもない」
体を横にずらす。
「私が出る」
音花の目が一瞬輝き、彼女は業者に作業を始めるよう指図した。
そのとき、エレベーターのドアが開き、瑛斗が大股で歩いてくる。眉間に深い皺を寄せていた。
「音花、どうしてここに」
彼は音花のそばに歩み寄り、問いかけるような口調で言った。
音花はたちまち目を赤くして、彼の袖口をぎゅっとつかんだ。
「瑛斗、ただ私たちの新しい家を見に来たかっただけなのに、柚葉さん、なんだかとても気を悪くされたみたいで。私、なにか悪いことしちゃったかな」
瑛斗は彼女の手の甲を軽く叩き、それから私に顔を向けた。彼の視線がスーツケースの上で止まり、表情がさっと曇る。
「柚葉、本気でこの家を出ていくつもりか。暗証番号は変わってない。いつだってここに住んでいいと言っただろう」
私は彼を見つめ、静かな声で言った。「あなたの法律上の妻が、弁護士を連れて家を受け取りに来ているのに、私がここに残って何になるの。寄生虫?それとも、あなたの愛人?」
瑛斗の顔色がひどく悪くなった。
彼は私の手首を握りしめ、手のひらをきつく閉じながら、親指だけが私の首筋を、そっと撫でている。
「林柚葉、自分で自分をそんなに貶める言い方をしなくてもいいだろう。
言ったはずだ、俺が愛しているのはお前だと。『妻』という肩書きをあいつに与えたところで、何も変わりはしない。
音花はこれまでずっと一人で生きてきて、苦労が絶えなかった。これ以上あいつに重荷を負わせられない」
彼は隣ですすり泣く音花をちらりと見て、また私に視線を戻した。
「柚葉、これは彼女を庇っているんじゃない。ただ誤解だけは避けたいんだ。
とりあえず何日か、ホテルに泊まっていてくれ。こっちが落ち着いたら、俺が迎えに行く」
私は自分をつかむ彼の手を見つめた。指は細く長く、節の一つひとつが整っている。
この手はかつて、空港で私を抱きしめて離さなかった。
あのとき私は、アイビーリーグの大学院から推薦入学の通知を受け取ったばかりだった。
彼は人混みの中で目を赤くし、私に言った。「柚葉、残ってくれ。俺がお前の帰る場所になる」
私は彼のために残った。
そして今、彼は私にこの家から出て、ホテルに行けと言っている。
私は彼の指を、一本一本ゆっくりとはがした。
「わかった」
スーツケースを手に取り、エレベーターへと歩き出す。
瑛斗は一瞬きょとんとしたが、すぐに二歩だけ追いかけてきた。
「アシスタントに、いつものホテルのスイートを予約させる。それから温かいお粥も手配する。お前、胃が弱いから」
「いらない」
私がエレベーターの下りボタンを押すと、背後から瑛斗の声が追いかけてくる。その声には強い口調が混ざっていた。
「柚葉、3日後は牧野グループのチャリティーパーティーだ。準備をして、俺と一緒に出席しろ」
私は振り返り、彼を見た。
「何の立場で?」
瑛斗は眉をひそめ、私の問いかけが理解できないといった顔で言った。
「決まっているだろう、牧野夫人としてだ。この街の誰もが、俺が結婚した相手はお前だと知っている。
お前が来なければ、音花がマスコミに好き勝手なことを書かれる」
第3話
3日後、牧野グループのチャリティパーティー。
行くつもりはなかった。
だが、瑛斗のアシスタントが開始4時間前からホテルの入り口に張り込み、スタイリストとともに、あのオートクチュールのドレスを持って私を足止めした。
「林さま、本日のパーティーは重要な場です。どうか状況をご理解いただけますよう」
慇懃な口調だったが、一歩も引く気はない。
私はそのドレスを見つめた。
結婚式の前、瑛斗がフィッティングに付き添ってくれたとき、彼は言った。「柚葉、このドレスはお前にしか似合わない。お前は誰かを羨む必要なんてないんだ」
私はそのドレスに袖を通し、会場へ向かう車に乗り込んだ。
ホテルに着くと、報道陣が左右にびっしりと並んでいる。瑛斗がレッドカーペットの先で待っていた。黒のスーツに身を包み、凛とした佇まいだった。
私が車から降りるのを見るなり、早足で近づき、腰に腕を回した。
「今夜は綺麗だ」
彼は声を潜め、耳元でささやいた。
「柚葉、今夜は堪えてくれ。俺の隣に立つお前こそ牧野夫人だ」
私は何も言わず、彼にエスコートされるまま中へ進んだ。
宴会場に足を踏み入れた途端、人混みがざわめいた。
視線の先を追う。音花がシャンパンタワーのそばに立っていた。手にはジュースのグラス。
彼女のまとうドレスは、私のそれとまったく同じものだった。
ただウエストだけが少し手直しされていて、それがなおさら彼女を可憐に見せている。
彼女が手を上げ、髪を整える仕草をした。薬指に光る結婚指輪が、シャンデリアの下で目を刺すようにきらめいた。まわりの招待客たちがひそひそと囁きはじめる。
「どういうこと、お揃いのドレス?」
「あれ白鳥秘書じゃない?指につけてるの、結婚指輪だよね」
「結局、牧野社長が結婚したのってどっちなんだ」
記者たちが数人、彼女を取り囲んだ。
「白鳥さま、お揃いのドレスは偶然でしょうか?」
「その指輪は、もうご結婚されたという意味ですか?」
音花は怯えたように一歩後ずさり、瑛斗の方角をおずおずと見上げた。それから、マイクの前でか細い声を出す。
「みなさん、誤解しないでください。
私と瑛斗はもう入籍しています。ただ、柚葉さんは結婚式にこだわる方だから、瑛斗が彼女のためにあの結婚式をしてあげたんです」
会場がどよめいた。すべてのレンズが一斉に私と瑛斗へ向けられる。フラッシュが眩しくて目が開けられない。
「牧野社長、白鳥さまの話は事実ですか?
システム上、社長の配偶者は白鳥音花さまだと確認されていますが、では林柚葉さまはいったい何なのですか?」
「林さま、お伺いします。あなたは相手に妻があると知りながら関係を続けていたのですか。それとも、結婚詐欺に遭われたのですか」
マイクがほとんど顔に突きつけられた。
人混みに押され、誰かが私を突き飛ばす。
瑛斗は私をぐっと胸に引き寄せ、その手のひらが本能的に私の下腹をかばった。彼は冷たく厳しい目で記者たちを一瞥する。
「下がれ」
記者たちは彼の気迫にたじろぎ、わずかに身を引いた。だが、フラッシュはまだ光り続けている。
「牧野社長、正面からお答えください」
私は瑛斗を見上げた。彼の顎は固くこわばり、その目には複雑な色が揺れている。
私は彼が口を開くのを待った。これはすべて誤解だと、私が不倫の相手なんかじゃないと、皆の前で断言するのを待った。
けれど彼は、私の下腹をかばう手に力を込めただけだった。
「俺の妻が誰かは、この場にいる皆さまがご存じのはずだ」
彼はレンズに向かって、穏やかな口調でそう言った。
「本日のチャリティーパーティーは、支援を必要としている方々のために開くものです。私的な事情に焦点を当てるべきではない」
記者たちは明らかに納得せず、質問はますます鋭さを増す。
音花は目元を赤くして歩み寄り、瑛斗のもう片方の側に立った。
「瑛斗を責めないでください、私が悪いんです。私が口を滑らせたから」
瑛斗は手を伸ばして彼女の肩を支え、彼女を背にかばうように立った。
「怖がらなくていい。俺がついている」
彼は音花をなだめ終えると、私に顔を向けた。
眉をわずかにひそめ、声には確信がこもっている。
「柚葉、しっかり立て。俺がなんとかする」
第4話
わずかに眉を寄せた瑛斗の顔を、私は見つめていた。
しっかり立て、と彼は言った。
私が不倫相手扱いされているこの瞬間に、何があっても自分がなんとかすると口では言いながら、彼は何ひとつ動こうとしない。
宴会場の空調はよく効いているのに、全身が冷えきっていくのを感じた。
バッグの中でスマートフォンが震えている。見なくてもわかる。私に関する検索ワードはすでにトレンド入りしている。あの言葉が、私のいちばん弱い部分を直撃し、背筋を凍らせるようなコメントで埋め尽くされているはずだ。
私は腰に回された瑛斗の手をほどき、一歩うしろに下がった。
「牧野瑛斗」
彼の目をまっすぐに見て、声を出した。それは小さな声だったけれど、静まり返った宴会場にくっきりと響いた。
「今、この場でみんなの前で言って。林柚葉は不倫相手じゃないと。
そうしたら私、あなたを最後にもう一度だけ信じる」
周囲の記者がぴたりと静まり、すべてのマイクやICレコーダーが一斉にこちらへ近づけられる。
瑛斗の顔色が変わった。彼は声を潜め、苛立ちを含んだ口調で言った。
「柚葉、まず落ち着け。いまはそれを問題にする場じゃない。今夜が終わったら、すべてのことをちゃんと説明する。お前がここで口を開けば、事態がもっと収拾できなくなる」
制止の言葉を無視して、私は頑なに彼を見つめ続けた。
「あなた、一度も私と入籍してない。あの結婚式に法的な効力なんて何もなかった。それ、ここで認められる?」
瑛斗は黙り込んだ。唇をきつく結び、視線が私と音花のあいだを迷う。
彼には言えないのだ。
ここで真実を明かせば、音花が他人の夫を奪ったと非難される。
事実が公になれば、自分の評判が傷つく。
彼の沈黙こそが、何より深く私を傷つけた。
その様子を見て、音花が突然泣き声を上げた。
彼女は瑛斗をぐいと押しのけ、私の前まで歩いてくる。そして、すべてのメディアが見ている前で、膝をついた。
「柚葉さん、ごめんなさい」
彼女は私のドレスの裾をつかみ、涙をこぼした。
「柚葉さんが瑛斗を愛していること、知っていました。私が欲をかいて、名分なんて欲しがったのがいけなかったんです。
明日にでも瑛斗と離婚して、牧野夫人の座を返します。だから、もうこれ以上彼を責めないでください」
フラッシュが瞬く。
記者たちのひそひそ声は、いつしかあからさまな非難に変わっていた。
「本妻の方がお気の毒に、公衆の面前で謝罪させられるなんて」
「愛人のほうがずいぶん強気だな」
地面に膝をつく音花を見下ろし、吐き気がこみ上げてきた。
私は裾を引き抜こうと手を伸ばす。
「離して」
音花はしがみついたまま手を離さず、顔を上げて私を見る。
その表情の下に、彼女の目に宿る悪意を、私ははっきりと見た。
彼女は突然、私が裾を引く勢いを利用して、身体を後ろへ倒した。
「きゃあっ――」
鋭い悲鳴が上がる。
瑛斗は血相を変え、本能的に駆け寄り、倒れかけた音花を抱きとめた。
だが、その瞬間だった。音花は袖に隠した手で、私の膝を逆に突き飛ばした。
もともと私はわずかにふらついていた。その力を受けて、全身が制御を失い、のけぞるように倒れていく。
背後には、あのシャンパンタワーがある。
ガラスの砕ける音が、宴会場じゅうに響き渡った。
私は床に叩きつけられ、無数の破片が全身に降りかかる。激しい痛みが腹部から突き上げてきて、内臓を引き裂かれるような痛みだった。
会場が静まり返る。
私は割れたグラスのなかに倒れたまま、手のひらに破片を押しつけていたが、その痛みは感じなかった。
下腹部の鈍い痛みだけが、すべての感覚を呑み込んでいた。
温かい液体が、太腿を伝って流れ落ちる。ドレスの布地に、血の染みがじわじわと広がっていった。
瑛斗はまだ、音花を抱きかかえた姿勢のまま硬直している。
彼が振り返り、床に広がるあの血溜まりを目にした瞬間、その顔から血の気が一瞬で消え去った。
「柚葉!」