黄金の林檎を奪われて、私は死ぬことにした

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黄金の林檎を奪われて、私は死ぬことにした

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私は人間の巫女。それなのに、タルタロスの死の呪縛に、この身は静かに蝕まれつつあった。 助かる道はただひとつ、百年に一度しか実らない、オ...

Chương (1)

第1章

私は人間の巫女。それなのに、タルタロスの死の呪縛に、この身は静かに蝕まれつつあった。 助かる道はただひとつ、百年に一度しか実らない、オリュンポスの黄金の林檎。魂を浄化できるのは、その果実だけだった。 けれど、運命の伴侶であるはずのゼイル——ポセイドンの息子は、私の手からその林檎を奪い取り、妹のメローラに食べさせた。 彼女が、ほんの軽い魔法の火傷を負っただけだというのに。 私は、アポロン神殿で受けていた最後の治療を自らの意思で投げ捨てた。そして代わりに手に取ったのは、ステュクスの水を混ぜ合わせた忘却の毒だった。 あらゆる苦痛を黙らせてくれる毒。 その代償は、3日後に魂が灰となって散ること。輪廻の輪から外れ、二度と生まれ変わることもない、永遠の消滅だった。 地上に残された最後の3日間で、私はすべてを手放した。 治癒の神殿はメローラに譲り渡した。大祭司である両親は、肩の荷が下りたと言わんばかりに、安堵の微笑みを浮かべた。 ゼイルがオリュンポスの刃を抜き、運命の絆を断ち切ろうとしたときも、私は喜んで自らの血を差し出した。彼は私の頬を優しく撫で、私の「寛大さ」を褒めた。まるで私がようやく聞き分けのいい女になったとでも言うように。 息子のフィロンをメローラのほうへと押しやり、「母様」と呼んでいいのよと告げた。フィロンは歓声をあげて彼女の腕に飛び込み、メローラの子守唄のほうがずっと心地いいのだと、無邪気にはしゃいだ。 すべてを手放した。それでも誰一人として、私が死にゆく身であることに気づきもしない。 みんな、ただ誇らしげに私を見つめていた。 「クレッサも、ようやく自分の立場をわきまえたようだ」 それでも、ふと思ってしまう。 私が永遠に星屑となって散り去ったとき、彼らは私のことを、ほんの少しでも覚えていてくれるのだろうか……? 第1話 アポロン神殿の巫女たちが向ける、哀れみに満ちた眼差しの中、私は顔を上げ、忘却の毒を一息に飲み干した。 冷たい液体が、喉を灼きながら胃の奥へと落ちていく。だが次の瞬間、タルタロスの呪いがもたらしていた魂を引き裂くほどの激痛が、嘘のように消え去った。 これが、毒がもたらした唯一の救いだった。もう、どこにも痛みはない。 その代わり、私に残された時間はあと3日。その果てに待っているのは、ただ星屑へと還ることだけだった。 神殿を後にした私は、その足でメローラの暮らす海辺の館へと向かった。 扉を押し開けた途端、母の怒鳴り声が耳に飛び込んできた。 「クレッサ、いつまでそんな惨めな芝居を続ける気なの!あなた、どこも悪くないのでしょう!」 母は鋭い指先を私の顔へと突きつけた。その瞳に宿っているのは怒りではない。怒りよりもずっと冷たく刺々しい、失望の色だった。 「あなたは神々に祝福された、治癒の巫女なのよ!昔はあんなに優しくて、思いやりのある子だったのに……どうしてここまで堕ちてしまったの!妹の命を救う黄金の林檎を、醜い嫉妬心から奪おうとするなんて!」 父もまた、苦々しい失望を滲ませた声で言葉を重ねる。 「クレッサ、お前はずっと我ら一族の誇りだった。姉として、メローラを慈しみ導いてくれるものと信じていたんだ。まさかお前が、実の妹にここまで冷酷になれるとはな……我々がお前を甘やかしすぎたせいかもしれん」 万力で胸を締めつけられるような息苦しさに襲われた。 毒は、この肉体の痛みを消し去ってくれた。けれど、実の家族に切り捨てられる悲しみだけは、いまだに私の呼吸を奪おうとする。 これが、私の両親だ。 私が死の呪いに蝕まれているという真実よりも、妹が些細な火傷を治すために百年を経た黄金の林檎を必要としたという言葉の方を、彼らは疑いもなく信じたがっている。 目を向けると、メローラは大きな真珠貝のベッドで、力なく身をもたせかけていた。けれど両親の死角に入るや、その口元がにやりと歪む。濃密な悪意と、勝ち誇った色を隠しもしないで。 以前の私なら、怒り狂っていただろう。喉が裂けるまで叫び、服を破ってでも、腐食し始めた魂の刻印を突きつけていたに違いない。 けれど今は、指一本動かす気になれなかった。 言い争ったところで、何一つ変わりはしないのだから。 呪いが魂を喰らい、毒が肉体を溶かしていく。私はただ、深い疲労の底に沈んでいた。 父が再び怒声を上げるより早く、私は静かに口を開いた。 「メローラは、私の治癒の神殿が欲しいのでしょう。信徒たちの信仰も。いいわ、全部あげます」 ふっと、場に沈黙が降りた。 父は凍りつき、母は口をぽかんと開けたまま言葉を失っている。 驚くのも無理はない。メローラはずっと、私の神殿を欲しがっていた。両親もまた、あらゆる手を尽くしてきたのだ——脅し、懐柔、そして罪悪感に訴える言葉。人間である私がこの手で築き上げた聖域を、幾度となく手放させようとしてきた。それでも私は、決して屈しなかった。 だが、今はもう違う。死にゆくばかりの魂にとって、そんなものはどうでもよかった。 私の言葉が本気だと悟るやいなや、母の顔にようやく笑みが戻った。驚きは瞬く間にむき出しの身勝手な歓喜へと変わり、母は私に歩み寄ると、愛おしげに髪を撫でた。 「やっと分かってくれたのね!メローラは生まれながらに神性を宿す子よ。信仰を糧にして育たなくてはいけないの。正直なところ、クレッサ、あなたが運よく海神の後継ぎと結ばれていなかったら、あの神殿はとっくにメローラのものになっていたはずなのよ。これでようやく安心できるわ」 運がよかった。 そのひとことは、頬を叩かれるよりも深く心を抉った。あの神殿を築くために、私がどれほどの血と汗を流してきたというのか。彼らにとっては、それすらもただの「運」にすぎなかったのだ。 私は無表情のまま袖から羊皮紙を取り出し、差し出した。 「なら、血の誓約で封じて」 メローラの瞳に、貪欲な光がよぎった。彼女は自らの指先を噛み切り、羊皮紙へと強く押しつける。 契約の文言がまばゆい光を放ち、私の手の甲から金色の神殿紋が剥がれ落ちて、メローラの額へと吸い込まれていった。 「ああ、クレッサ。ようやく目を覚ましてくれて、嬉しいよ」 いつ以来か思い出せないほど久しぶりに、父が私の肩に厚い手を置いた。その声には、隠しようのない安堵と温もりが滲んでいる。 「お前はやっぱり、我が家の聞き分けのいい娘だ」 私は、彼らが描く幸せそうな家族団らんの風景を、ただ虚しい皮肉を感じながら眺めていた。 なんと滑稽なのだろう。母が私に向けて優しく笑いかけてくれるのは、私がメローラのために命まですり減らすときだけなのだから。 それでも、ひとつだけ疑問が残った。いつの日かメローラの本性に気づき、そして私がもうこの世にいないのだと知ったとき、彼らは、少しでも後悔するのだろうか。 その夜、私は海神の宮殿へと戻った。 運命の伴侶であるゼイルと、息子のフィロンは祭壇のそばにいた。 深海で採れた真珠をひと粒、またひと粒と糸に通し、メローラへと贈る祝福のネックレスを編んでいる。 毒のせいで足音まで軽くなっていたのか、ふたりは私が帰ってきたことにすら気づかず、ただ楽しげに笑い合っていた。 ゼイルが最後の真珠を通し終え、ふと振り返って私に気づく。その口元の笑みは一瞬凍りついたが、すぐに何事もなかったかのように柔らかな表情へと戻った。 「クレッサ?いつ帰っていたんだ?」 彼は作りかけのネックレスを脇に置くと、いつものようにごく自然に腕を広げながら、こちらへと歩み寄ってきた。 私はその手を、思わず避けた。 ゼイルの腕が、行き場をなくして宙で止まる。その瞳に、傷ついたような色がわずかによぎり、やがて彼は疲れたような溜息を吐いた。声が、ふっと和らぐ。 「まだ黄金の林檎のことで怒っているのか?クレッサ、お前はいつだって強かっただろう。メローラにはどうしても必要だったんだ。あのままじゃ、あの子は死んでいた。メローラが元気になったら、お前の好きな東の海のオーロラを見に連れて行ってやるから。いいだろう?」 私は、台の上のネックレスをじっと見つめた。ひと粒ひと粒が海神の魔力を纏っている。メローラが愛してやまない、あの深い海の青だった。 皮肉なものだ。死を目前にして、ようやく知ることになるなんて。五年連れ添った夫が、これほどまでに辛抱強い人だったとは。 昔、私が心を込めて編んだ祈りのブレスレットを「野暮ったい」とあしらった人。彼の影響で、息子のフィロンもいつしか私から心を離していった。 私はこの宮殿に、自分のすべてを注ぎ込んできた。けれど返ってきたのは、冷ややかな無関心だけだったのだ。 以前の私なら、この仕打ちに涙し、取り乱していただろう。 だが今の私は、ただふたりの脇を静かに通り過ぎるだけだった。珊瑚細工の椅子に腰を下ろし、魔法の巾着の中身を静かに整理し始めた。 私の沈黙に、ゼイルは戸惑いを覚えたようだった。ネックレスをビロードの台座に戻し、再びこちらへと近づいてくる。 彼は私の手に触れようとした。その指先はためらいがちに、そっと伸びてくる。 彼の瞳には、何かを探るような、落ち着かない色が揺らいでいた。 「クレッサ、お前に話しておきたいことがあるんだ」 彼はためらうように唇を結び、気まずそうに目を伏せた。少しの沈黙ののち、ようやく重い口を開く。 「お前の妹、メローラのことなんだが」 心臓が、ずんと重く沈む。嫌な予感が胸の奥をかすめた。 そして続いた言葉は、稲妻に打たれたような衝撃だった。 「メローラは林檎を食べたが、魂はまだ弱っている。だから、その……しばらくの間、彼女と仮の婚姻を結ぼうと思うんだ。俺たちの運命の刻印を彼女にも分け与えて、その魂を癒してやりたい」 第2話 耳の奥で、甲高い耳鳴りが響いていた。私はただその場に立ち尽くした。 運命の伴侶の刻印とは、何よりも深い魂の結びつきを示す証だ。それを分け与えるということは、私たちの絆を根底から断ち切り、この魂を真っ二つに引き裂いて、その半分を別の女の体へと押し込むことに他ならない。 伴侶を持つ者にとって、これ以上の侮辱は存在しなかった。 私が言葉を失っているのを見て取ると、ゼイルはすぐさま一歩詰め寄ってきた。 「クレッサ、俺が永遠に愛するのはお前だけだ。そう誓ったことは、忘れてないだろ?これはただ、彼女の命を救うための一時的な措置なんだ。俺だって、こんな道を選びたくて選んだわけじゃない! お前とメローラに血の繋がりはないかもしれない。それでも神々の前では、お前の大切な家族なんだろ?少しだけ耐えてくれ。あいつの神核さえ安定すれば、すぐにお前のもとへ戻る。俺はお前だけの夫だ。フィロンの父親も、この俺ただ一人だ」 「母様、どうして一度くらい譲ってあげられないの!」 いつの間にか駆け寄ってきていたフィロンが、小さな手でゼイルの脚にしがみつき、眉間に深い皺を寄せて私を睨みつけていた。 「メローラ叔母様、今もすごく苦しんでるんだよ!どうして父様の愛を、ほんの少し分けてあげられないの?叔母様が言ってたよ、少し分けてもらえたら、もう毎日血を吐かなくて済むようになるって。母様って意地悪!」 ——意地悪。 私は、命懸けでこの世に産んだ我が子を見つめた。 それから、永遠の愛を誓い合ったはずの男を見つめた。 なるほど、これが行き着く果てか。自分の夫と、自分の魂を守ろうとする私の切実な思いすら、彼らの目にはただの「意地悪」と映るらしい。 でも、もういい。どうでもよかった。メローラが私のすべてを欲しがるというのなら、何もかもくれてやればいい。 全部だ。私はもう、すべてを終わりにする。 私は顔を上げ、ゼイルの瞳をまっすぐに見据えた。 「いいわ。同意する」 ゼイルの瞳に明らかな驚きが浮かび、憐れみに似た何かがよぎった。 「本当に?」 彼はためらう素振りすら見せず、虚空からオリュンポスの刃を呼び出すと、それをすぐに私へと差し出した。 私は力なく自嘲の笑みを浮かべた。 ——ゼイル。あなた、そこまで必死なのを隠す気すらないのね。 私はそのずっしりと重い刃を受け取ると、迷うことなく自らの手首を深く斬りつけた。 聖なる伴侶の血が滴り落ち、冷たい大理石の床へと点々と染みを広げていく。耳の奥で、何かが砕け散るような音がした。 ゼイルの厚い胸に浮かんでいた、私の名を宿す淡い印が、炎に包まれて跡形もなく消え去っていくのを、私はただ静かに見つめていた。光が収まったその場所には、輝くセイレーンの鱗の印が新しく浮かび上がっていた。 彼とフィロンは、心底ほっとした表情を浮かべていた。そればかりか、どこか誇らしげな色すら漂わせている。 「メローラの状態が安定したら、俺たちの絆はすぐに元に戻す。心配するな、俺は絶対にお前を裏切らないから!」 ゼイルは自らの血を魔法陣へと垂らし、儀式を完了させた。 彼は私を見つめて安堵の溜息をつくと、そっと私の乱れた髪を耳にかけ直した。 「クレッサ、お前も随分、聞き分けがよくなったな。俺だって決して完璧じゃなかった。今までお前の気持ちをないがしろにしてきたことは分かってる。 メローラがすっかり元気になったら、フィロンと二人で必ず埋め合わせをするよ。また3人で……前みたいに、幸せに暮らそう」 「うん、母様!」 フィロンが、まるで小さな大人のように口を挟んだ。 「メローラ叔母様にすごく優しくできたね!僕、母様のこと誇りに思うよ!」 二人を見つめる私の心は、すっかり冷え切った灰のようになっていた。 彼らに対する最後の希望を、私はずっと捨てきれずに握りしめていたのだ。でも、もういい。本当にどうでもいい。私はもう、この世から消え去る覚悟ができていた。 自室へと戻ろうと立ち上がった瞬間、激しい眩暈が全身を襲った。目の前が急速に暗転していく。 意識が深い闇に呑まれる直前、ゼイルの狼狽した顔だけが視界の隅に映った。 骨の髄まで凍りつくような寒さの中で、私は目を覚ました。重いまぶたを押し開けると、私はまだあの冷たい大理石の床の上に横たわっていた。 見上げると、そこにはゼイルとフィロンの姿があった。父子は揃って、心配と、それ以上にあからさまな失望とが入り混じった顔で、私を見下ろしている。 私が意識を取り戻したのを確認すると、ゼイルは目に見えて安堵の息をついた。それでも、その眉間に刻まれた深い皺は解けなかった。 「もう頼むから、こういう芝居はやめてくれないか?お前が急に倒れたとき、俺がどれだけ肝を冷やしたか分かるか! さっきも言っただろう?絆はあくまで一時的に切れているだけで、俺のお前への気持ちは何一つ変わってない。俺の愛情を試すために、こんな子供じみた仮病なんて使わなくていいんだ!」 「ほら見てよ、父様!やっぱり僕が言った通り、また芝居だったんでしょ!」 フィロンが不満げに唇を尖らせながら口を挟む。 「母様、もういい加減にしてよ。これじゃメローラ叔母様にあのネックレスを届けるのが遅れちゃうじゃない!」 芝居? 私は苦い笑みを無理やり唇に貼り付け、重い身体を起こした。 あの毒は、なんて見事な嘘をつくのだろう。死呪の激痛を完璧に黙らせ、身体の崩壊を食い止めているように見せかけながら、その内側から私の命そのものを着実に喰らい尽くしていく。地上に許された最後の3日間、私の頬にはむしろ、健康そうな血色すら宿っていたのだから。 どうやら、うまく効いてくれているらしい。 私はよろめきながらも立ち上がった。 「魔力が少し乱れただけよ。もう大丈夫。一緒に神殿へ行きましょう。メローラ本人の印が必要な、権限移譲の巻物があるの」 ゼイルは何の疑問も抱かず、ただ頷いた。驚いた様子もない。きっと両親が、すでに彼にすべての段取りを伝えていたのだろう。 神殿へ到着すると、メローラは自室で、人間たちが献上した煌びやかな宝石の数々にうっとりと見入っていた。 「クレッサ!来てくれたのね!」 メローラの顔色はまだ多少青白かったが、以前よりも血の気が戻っていた。その瞳の奥に浮かぶ、傲慢な勝ち誇りの色を、私が見逃すはずもなかった。 「私にこの神殿を託してくれて本当にありがとう。安心してちょうだい、あなたを失望させるような真似は絶対にしないから!」 「そうよ、クレッサ」 母が得意げに頬を緩め、言葉を重ねる。 「メローラが大祭司の座に就けば、あなたもようやく海神の宮殿でゆっくりと静養できるじゃないの。これですっかり安心したでしょう?」 私は鞄から最後の巻物を取り出してみせた。 「それなら、私の個人資産とすべての黄金も、残らず彼女に譲渡するわ。そうすれば、もう何の心配もなくなるもの」 神殿に仕える神々も、周囲の召使いたちも、ただ呆然と私を見つめていた。 第3話 神殿の空気が、凍りついたように静まり返った。 誰もが、自分の目を疑うかのように驚愕した顔で、私を凝視している。 私は、もとは力を持たない、ただの人間だった。このオリュンポスで生き延びるために、これまでどれほど容赦なく嘲られ、蔑みに耐えてきたことか。1枚1枚の金貨を、爪を立てるようにして積み上げてきたのだ。 ここにいる祭司も召使いも、誰もが知っているはずだ。あの膨大な富と、権威の象徴たる杖を手にするために、私が人生の半分を費やしてきたという事実を。 それを今、何一つ成し遂げたことのないあのセイレーンに、すべてくれてやろうとしているのだから。 ゼイルが戸惑ったように眉を上げた。 「クレッサ、お前……」 何か言いかけたようだが、彼は結局、満足げに深く頷くだけにとどめた。 「らしくないな、お前がそんなにあっさりと手放すなんて」 「いや、珍しいこともあるものだ」 父が大股で歩み寄り、私の手から巻物を乱暴にひったくった。その顔に浮かんだ笑みは、ここ数年見たことがないほどに満ち足りたものだった。 「クレッサ」 父は朗々とした声を響かせた。 「お前もようやく、大祭司らしい度量の広さを見せられるようになったか。ようやく、我が一族の名にふさわしい娘になったな」 寛容。物分かりがいい。 彼らはそんな美しい言葉を並べ立てて、自分たちの強欲な行為を、平然と正当化していたのだ。 そんな彼らを見つめていると、突然、胃の底から激しく込み上げてくるものがあった。 体が、ついに私を裏切ったのだ。 激しい咳の発作が全身を貫き、私は耐えきれずに冷たい大理石の床へと、どす黒い血と、黒い灰の塊を吐き出した。 それは、タルタロスの死呪の紛れもない証。私の魂がすでに焼け落ち、灰になろうとしている何よりの証だった。 ホールが、一瞬にして死んだように静まり返る。 ゼイルが弾かれたように立ち上がり、手にしていた杖が大きな音を立てて床へ転がった。 彼は瞬く間に私のそばへ駆け寄ってきた。 震える両手で、今にも崩れ落ちそうな私の身体をしっかりと支える。 「クレッサ!どうしたんだ!なんで血を吐くんだ!」 母が短い悲鳴を上げ、手にしていた巻物を放り出して駆け寄ってきた。その瞳は瞬く間に赤く潤む。 「そんな……!あなたは神殿の治癒の巫女でしょう、どうしてこんなに深く傷ついているの……!」 父は一言も発しなかったが、強く食いしばられた顎と、鋭く息を呑む音が、彼の胸中を走った恐怖をありありと物語っていた。 彼らの瞳に浮かんだ、紛れもない動揺と痛みの色を見て、私の胸の中に苦い波が広がっていった。 そう、彼らにだって、私を案じる心は残っていたのだ。私のために、痛みを感じる心があったのだ。 なんて残酷なことだろう。 そう気づくには、あまりにも遅すぎたけれど。 ゼイルの指先が私の頬に触れようとしたまさにその時、メローラが甲高い悲鳴を上げた。 彼女は玉座にぐったりともたれかかり、胸を苦しげに押さえて荒い息を吐いた。 「お姉様……!神殿を手放すのがそんなに嫌だったのなら、はっきりそう言ってくれればよかったのに!自分にまでそんな『憐れみの呪い』をかけて、私たちを罪悪感で追い詰めるなんて!ごほっ、ごほっ……そんなに辛いなら、お姉様……神殿なんて、私いらないわ……!」 メローラの一言で、場に張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。 母の差し伸べかけていた手が、ぴたりと空中で凍りつく。その瞳に浮かんでいた親としての痛みは、瞬く間に裏切られたことへの激しい怒りへと塗り替えられた。 彼女は露骨な嫌悪を浮かべて手を引っ込めると、後ずさって絹のハンカチで自らの鼻を覆った。 「クレッサ、いい加減にして、被害者ぶるのはやめなさい!メローラに罪悪感を植え付けるために、自分にそんな邪悪な呪いをかけるなんて! せっかくみんなであなたの寛大さを褒めていたのに、こんなふうに血を吐いて、その場を台無しにするつもりなの!同情を引こうとするその見苦しい芝居……本当にいい加減にしなさい!」 ゼイルの手もまた、宙で止まったまま動かなくなった。その瞳から先ほどの動揺はすっかり消え去り、代わりに底知れない疲労と、背筋が凍るほどの冷たい色が浮かび上がる。 「クレッサ、お前には失望した。危うくお前の芝居に騙されるところだったよ。いつになったら、こんな子供じみた真似をやめるんだ?」 彼は、メローラの口にした「自らかけた憐れみの呪い」という都合のいい言い訳にすがりついた。 それはあまりにも非情な解釈だったが、あの黒い灰が示している、もっと恐ろしく絶望的な真実を認めるよりは、彼にとってずっと楽だったのだろう。 私は手の甲で、口の端に付着した黒い灰をゆっくりと拭い去った。 そして、再び冷淡でよそよそしい表情に戻った彼らの顔を見つめた。私の瞳もまた、よどんだ深い水面のように静かで、何一つ感情の残っていない空っぽなものだった。 彼らこそが、この世に残された最後の身内だった。 「母様、父様」 私の声はひどく静かだった。それでいて、探るような奇妙な響きを帯びていた。 「もし、いつか私の魂が完全に砕け散って……私がただの星屑になって、二度とこの世界に戻ってこなくなったら……あなたたちは、後悔しますか?」 「馬鹿げたことを言うのはいい加減におしなさい!」 母が甲高い怒声で私の言葉を遮った。 「あなたは海神の魔力に守られてきた、治癒の巫女でしょう!魂が砕けるなんてそんなこと、ありえるはずがないじゃない!ただメローラが幸せになるのが気に入らないからって、死なんて不吉な言葉であの子を呪おうとするなんて!」 「そうだよ、母様!」 フィロンが、いつの間にかメローラの隣へと移動し、彼女の衣の袖を強く引っ張りながら叫んだ。 「父様がこんなに魔力を注いで守ってあげてるのに、まだ自分が可哀想だって顔をするつもり?本当に可哀想なのはメローラ叔母様の方だよ!メローラ叔母様は呪われたセイレーンだから、ずっと苦しんでるんだよ!母様の持ち物くらい、あげたって当然でしょ!」 メローラは玉座に力なくもたれかかったまま、フィロンの髪を撫でた。その瞳には、隠しようのない勝ち誇った優越感が輝いている。 「ありがとう、フィロン。彼女をそんなに責めちゃだめよ。ちょっとだけ、いじけているだけなんだから」 いじけている? 私はフィロンの幼い顔をじっと見つめた。ゼイルの面影を濃く残したその顔。彼が心の底から嬉しそうに、メローラの腕へと擦り寄っていく姿を、ただ静かに見つめていた。 「ふふふ……フィロン」 私はふっと微笑んだ。それは、この数週間でいちばん、心からの安堵に満ちた穏やかな笑みだった。 「そんなにメローラ叔母様が好きなら……これからは、彼女のことを『母様』と呼んでいいわよ」 フィロンの目が、驚きと喜びで丸く見開かれた。 「本当に?母様って呼んでいいの!?」 彼は歓声を上げてメローラへと飛びつき、その上質な絹の衣に顔をすり寄せた。 「やったあ!メローラ母様!本当の母様より、ずっといいや!」 ゼイルは、目の前で繰り広げられる幸せそうな「3人家族」を見つめながら、目元に柔らかな笑みを浮かべていた。 両親もまた、これこそが理想の一家団らんだとでも言わんばかりに、満足そうに頷いている。 私はただ静かに、その光景を見つめていた。 「メローラ母様」。その無邪気な一言を聞いた瞬間、私の心の奥底にわずかに残っていた最後の希望が、音を立てて燃え尽き、完全な灰になった。 彼らには、私など最初から必要なかったのだ。誰も、私の存在など気にかけてはいなかった。 私は背を向け、神殿の重い扉を閉めてその場を後にした。 残された時間は、あと1日。この広い世界のどこにも、私の行く当てなどなかった。 思えば、私は生まれてから息をつく暇もなく、ただ気を張り詰めて生きてきた。一度でも立ち止まって、人間の世界をこの目でゆっくりと眺めたことなど、なかった気がする。 私は人間界の渡し船の切符を買い求めた。一度でいい、ただの人の目で、夜の静かな海を見てみたかったのだ。 そびえ立つ人間界の山にも登ってみたかったけれど、崩壊しつつあるこの体はもう、その苦行に耐えられそうになかった。 意識が完全に途切れてしまう直前、私はこの5年間、一度として触れることのなかった通信の水晶を、力強く握り砕いた。 そして、私の視界はすべて深い闇の底へと沈んでいった。