裁判官の妻に、腎臓を奪われた後

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裁判官の妻に、腎臓を奪われた後

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現役裁判官の妻・神崎志保(かんざき しほ)は、末期腎不全で命の危機にある初恋の相手・白石透(しらいし とおる)を救うため、あろうことか夫...

Chương (1)

第1章

現役裁判官の妻・神崎志保(かんざき しほ)は、末期腎不全で命の危機にある初恋の相手・白石透(しらいし とおる)を救うため、あろうことか夫である俺――黒瀬慎(くろせ しん)の腎臓に目をつけた。 「冗談じゃない!俺だって腎不全なんだぞ。これ以上腎臓を奪われたら、本当に死んでしまう!」 必死に訴える俺に、志保は憎しみを隠そうともせず吐き捨てた。 「透はあんなに苦しんでいるのに、あなたはまだ嫉妬して見殺しにする気?本当に血も涙もないのね!」 その後、裁判官としての立場と人脈を使って同意書はでっち上げられ、俺の訴えは握り潰された。 意識も朦朧としたまま手術台に乗せられ、腎臓を奪われた。 その結果、腎不全は急速に悪化。 誰一人として看取る者もいないまま、冷たい病室のベッドで孤独に息を引き取った。 第1話 現役裁判官の妻・神崎志保(かんざき しほ)は、末期腎不全で命の危機にある初恋の相手・白石透(しらいし とおる)を救うため、あろうことか夫である俺――黒瀬慎(くろせ しん)の腎臓に目をつけた。 「冗談じゃない!俺だって腎不全なんだぞ。これ以上腎臓を奪われたら、本当に死んでしまう!」 必死に訴える俺に、志保は憎しみを隠そうともせず吐き捨てた。 「透はあんなに苦しんでいるのに、あなたはまだ嫉妬して見殺しにする気?本当に血も涙もないのね!」 その後、裁判官としての立場と人脈を使って同意書はでっち上げられ、俺の訴えは握り潰された。 意識も朦朧としたまま手術台に乗せられ、腎臓を奪われた。 その結果、腎不全は急速に悪化。 志保が透の手術が終わるのを待っていた頃、俺は冷たい手術台の上で、ただ死を待っていた。 体中に管がつながれ、無機質な電子音だけが耳に響く。 その音はまるで、死神が「もう時間だ」と告げているようだった。 やがて心電図の波形が一本の線になり、ピーという長く単調な音が室内に響き渡った。 その頃には、透の手術も無事に終わっていたらしい。 手術室のランプが消えたのと同じ頃、俺の目も二度と開かなくなった。 未練があったのか、それとも深い恨みのせいか。気づけば魂だけになった俺は、志保のそばにいた。 死の淵から戻った透を抱きしめ、目を赤くして喜ぶ志保。 その姿を見た瞬間、胸の奥が絶望の底へ沈んでいった。 彼女は、一瞬でも俺の命を案じてくれただろうか。 そう問いただしたかった。 けれど、答えなど分かりきっている。 透を救うためなら、志保は何だってした。 ありもしない罪を俺に着せ、逃げ場のないところまで追い詰めた。 裁判官としての立場と人脈を悪用し、必死の訴えさえ握り潰したのだ。 腎臓を摘出される直前。 ストレッチャーで運ばれながら、震える手で志保に電話をかけた。 「志保……俺が悪かった。頼む、腎臓だけは取らないでくれ。もう体が限界なんだ。このままじゃ死んでしまう……」 出会ってからこれまで、彼女に頭を下げたことなど一度もなかった。 プライドを捨てて許しを請えば、ありもしない罪をすべて被れば、夫婦としての五年の情に免じて、せめて命だけは助けてくれるのではないか。 そう縋るように思っていた。 だが、電話の向こうから返ってきたのは、冷たい笑い声だった。 「謝るのは当然でしょう。透の命を救えるのだから、むしろ光栄に思いなさい」 その声には、かけらほどの迷いも憐れみもなかった。 「これで済むなんて思わないでね。腎臓を透に渡したからって、あなたの罪が消えるわけじゃない。あなたがこの何年も透にしてきた卑劣な真似、一つ残らず覚えているから。透が元気になったら、きっちり償ってもらうわ」 ひび割れた唇を動かし、必死に否定しようとした。 そんなことはしていない。 あいつを傷つけてなどいない。 けれど、もう声が出なかった。 それでも電話の向こうの志保は、吐き捨てるように言った。 「その惨めな声、気持ち悪いわ」 電話が切れた瞬間―― 五年間、志保を想い続けてきた気持ちも、完全に消えた。 俺を気持ち悪いと言ったその女は、結婚した時、涙ぐみながら誓ったはずだった。 「一生、あなたを愛する。あなたが私の一番で、特別で、誰よりも大切な人だ」と。 それなのに白石透が現れた途端、夫である俺の存在など、あっさり切り捨てた。 …… まるで壊れ物に触れるように、志保の手が透の頬をそっと撫でた。 「よかった……生きていてくれて、本当によかった……」 涙に震える声。徹夜で付き添ったことを物語る、血走った目。 では、その間。 この女は一度でも、自分の夫が死ぬかもしれないと考えただろうか。 透が、青白い唇をかすかに動かした。 「心配かけて、ごめん……そうだ、慎は?まだ僕のことを怒ってるのかな。僕、今から謝りに行くよ……」 そう言って、無理に体を起こそうとする。 あまりにも見え透いた三文芝居だった。 誰が見てもわざとらしいと分かるのに、志保だけは気づかない。 案の定、彼女は慌てて透の肩を押さえ、優しくベッドへ戻した。 そして、甘やかすようにその髪を撫でる。 「ダメよ。謝るべきなのは慎のほう。透は何も悪くないわ。あなたは優しすぎるから、いつも人に傷つけられるのよ」 その様子を見ていた看護師が、微笑ましそうに口元を緩めた。 「お二人、本当に仲がいいんですね」 そう言って、透に視線を向ける。 「手術中、奥様は廊下で一晩中待っていらっしゃったんですよ。一歩も離れずに」 透が照れたように赤らめた頬を、志保が一瞬強ばらせた表情で見つめる。 けれど、「自分が透の妻ではありません」と訂正しようとはしなかった。 やがて看護師が、ふと思い出したようにため息をつく。 「それに比べて、隣の手術室の患者さんはお気の毒でしたね……運ばれてきた時からずっと一人で、亡くなった後も、引き取りに来るご家族すらいないなんて」 志保の表情が、わずかに揺れた。 その瞬間、胸の奥にかすかな期待が灯った。 もし、志保が気づいてくれたら。 その可哀想な患者が俺だと気づいてくれたら。 せめて、亡骸くらいは引き取ってくれるのではないか。 長い沈黙のあと、志保はただ静かにため息をついた。 「……それは、お気の毒ですね」 たった一言。他人の死を悼むだけの言葉だった。 俺の中に残っていた最後の光が、ふっと消えた。 自嘲するしかなかった。 そうだ。今の志保の目には、白石透しか映っていない。 俺のことなど、思い出すはずもなかった。 その話題にそれ以上触れることなく、看護師に付き添われて透のベッドが病室へ運ばれていく。 途中、俺の遺体が一時的に置かれていた処置室の前を通りかかった時、志保の足がふと止まった。 開いた扉の奥へ、彼女がちらりと視線を向ける。 冷たくなった俺の体は、そこに横たわっていた。 顔には白い布が掛けられ、誰なのかは分からない。 ただ、足元だけがわずかに覗いていた。 それでも、もう少しだけ注意を向けていれば、足首に残る傷跡に気づいたはずだった。 あれは昔、志保の命を助けるために負った傷だったのだから。 第2話 志保が透に付き添って病室へ入った直後、外から息を切らして駆け込んできたのは、芹沢レイ(せりざわ れい)だった。 廊下で志保とすれ違っても見向きもせず、一直線に俺のそばへ駆け寄ると、震える両手で俺の手を固く握りしめた。 「慎……っ」 絞り出すような声が、ひどく震えていた。 俺の頬を撫でようと伸ばした指先が、すっかり冷え切った肌に触れた瞬間、レイの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。 「ばか……あの時、私を選んでくれていたら……こんな最期、迎えずに済んだのに……!」 ひどくやつれた顔を見て、胸の奥がつんと痛んだ。 きっと、遠く離れた赴任先から大急ぎで駆けつけてくれたのだろう。 志保と結婚してから、レイはこの町を離れた。 志保が彼女をよく思っていなかったこともある。 けれど何より、これ以上そばにいれば俺の負担になる――そう考えたレイは、自ら身を引いたのだ。 俺は孤児だった。七歳で芹沢家に引き取られ、レイとは名義上の兄妹になった。 最初の頃、俺たちの関係はぎこちなかった。 むしろ幼い頃のレイは、どこか俺を避けていたように思う。 けれどいつからか、レイは誰よりも俺を大切にしてくれるようになった。 それでも俺は、志保のために養父母と縁を切った。 養父母は俺を、取引先との政略結婚の駒として使おうとしていたのだ。 もともと愛情から引き取られたわけではない。都合のいい道具が欲しかっただけなのだ。 あの時、芹沢家から逃げ出す手助けをしてくれたのはレイだった。 彼女の想いにも、ずっと前から気づいていた。 けれど当時の俺には、志保以外の女性を選ぶことなどできなかった。 何より、養父母が俺たちを許すはずもなかったから。 レイが俺の遺体を引き取る手続きをしていた、ちょうどその頃。 志保は、透のために病室を出ようとしていた。 「……コーヒー飲みたい。車で1時間くらいかかるけど、前に一緒に行った店の」 透がそうわがままを言っただけで、志保は迷わず立ち上がった。 昔、俺が「駅前のおにぎりが食べたいから、仕事帰りに一緒に買いに行く」と頼んだ時でさえ、彼女は「面倒くさいわ」の一言で、寄り道すらしてくれなかったのに。 廊下で、遺体を乗せたストレッチャーを押すレイと、志保が正面から鉢合わせた。 俺の遺体は、頭から白い布ですっぽりと覆われている。 志保とレイの視線が、冷たくぶつかった。 「どいてください」 レイの声には、一欠片の遠慮もなかった。 無理もない。 愛する男を死に追いやった相手に、レイが優しくできるはずがない。 不愉快そうに眉をひそめた志保は、遺体を前にして道を塞ぐわけにもいかず、少し後ろへ下がった。 だが、レイが通り過ぎようとしたその瞬間。 志保の視線が、白い布の端からわずかに露出していた俺の足首に止まった。 「待って!」 何かを感じ取ったのか、志保が鋭い声で呼び止める。 「その人……誰なの?」 魂だけの存在であるはずなのに、俺は思わず息を呑んだ。 レイの口から俺の死が告げられてしまうのが怖かった。 けれど心のどこかで、告げてほしいと願う醜い自分もいた。 俺が死んだと知った時、志保はどんな顔をするのか。 そんな歪んだ期待が、胸の奥にあった。 レイはしばらく黙っていた。 やがて、静かに、はっきりと口を開く。 「私の夫です」 その言葉に、俺も志保も固まった。 俺とレイの複雑な事情を知っている志保は、レイが長年、俺に想いを寄せていたことも知っていたはずだ。 「いつ……結婚したのよ?」 思わず口をついて出た問いに、志保自身も動揺を隠しきれていないようだった。 レイは氷のように冷たく笑った。 「それを、神崎さんにわざわざご報告する義務がありますか?」 言葉に詰まった志保は、すぐに気を取り直し、薄く嘲るような笑みを浮かべた。 「昔はあれほど慎のことが好きだと言っていたのに。あなたの想いも、結局はその程度だったのね」 歩き出しかけていたレイの足が、ぴたりと止まった。ゆっくりと振り返り、志保を真っ向から見据える。 そして、たった一言言い放った。 「ええ。夫を平気で裏切れるあなたには、とても敵いません」 あまりにも鋭く、的を射た皮肉だった。 その意味が、志保に伝わらないはずがない。 レイのあとを追って、俺はその場を離れた。 最後にもう一度だけ振り返ると、廊下に呆然と立ち尽くす志保の姿が見えた。 けれど不思議と、胸はもう痛まなかった。 俺はたぶん、もう昔ほど――あの女を愛してはいないのだ。 第3話 透が一か月の入院生活を終え、退院する日。 迎えに来たのは、もちろん志保だった。 俺が孤独の中で死んだ時、そばにいてくれたのはレイただ一人だけだった。 けれど透の病室には、親族や友人たちが大勢集まり、退院を祝っていた。 志保が病室に姿を見せた瞬間、場の空気が一気に華やいだ。 「神崎さん、いつになったら透と一緒になるんですか?こんなに大事にされて、透は本当に幸せ者ですね」 友人から冷やかされ、透はうつむきながら、声を潜めて言った。 「そんなこと言わないで……志保には旦那さんがいるんだから。慎に聞かれたら、また誤解されちゃう。僕、そんな関係だって思われたくないし……また慎に責められるのも、怖いんだ」 すると、友人の一人が鼻で笑い飛ばした。 「あんな嫉妬深くて器の小さい男のどこがいいんだよ。志保さんに愛されてるのは透だろ?だったら、邪魔なのはあっちのほうじゃないか。まだ夫面してるほうがおかしいだろ」 その言葉を聞いて、俺は思わず吹き出しそうになった。 そうか。俺のほうが「邪魔者」だったのか。 いつものように、透は弱々しい被害者を装い、すべての矛先が俺に向くように仕向ける。 だが、それ以上に心が冷えたのは、周囲の言葉を否定しなかった志保の態度だった。 ただ黙って、透の荷物をまとめている。病室には大勢の人がいるのに、手を動かしているのは志保だけだった。 結婚してからの日々が脳裏をよぎる。 「一生愛する」と言ってくれた志保だったが、その言葉に行動が伴ったことは一度もなかった。 家事をするのも、理不尽に耐えるのも、いつだって俺の役目だった。 志保となら、どんな困難も一緒に乗り越えられると思っていた。 けれど実際には、俺を一番傷つけていたのは志保だった。 「透は神崎さんを一途に想って、ずっと独り身だったんですよ。そろそろちゃんと応えてあげてもいいんじゃないですか?」 さっきから一番はしゃいでいた男が、志保の腕を取り、透とくっつけようとする。 胸の奥がひどく苦くなった。 ああ、俺は彼らの間で、ずっとそんなふうに見られていたのか。 二人の仲を邪魔する、ただの悪者として。 あの言葉にはっきり答えはしなかったけれど、否定もしなかった以上、志保自身もきっと同じように思っていたのだろう。 退院した透は、そのまま志保のマンションへ連れて行かれた。 そこは、俺とひどい喧嘩をした後、志保が一人で過ごすようになった部屋だった。 夫である俺は、一度も足を踏み入れたことがない。 透だけが、志保にとって特別だった。 もっと早く気づくべきだった。 彼のためなら、志保はどんな原則でも簡単に曲げる。 マンションに着くと、透の荷物を丁寧に片づけ始める志保。 その背中が少し屈んだ瞬間、透がふいに近づき、後ろから腰に腕を回した。 胸が、ぎゅっと締めつけられる。 俺は死んで、まだ葬られてすらいないというのに。 二人は、こんなにも自然に寄り添い合っている。 まるで志保が、最初から結婚などしていなかったかのように。 避けようとしたのだろう、志保の体がわずかに強ばった。 だが透は、回した腕にさらに力を込め、志保の頭頂に顎を預けた。 そして、かすれた声で囁く。 「もう一度だけ、僕にチャンスをくれないかな。あの時、君から離れたのは本意じゃなかったんだ。母の治療費がどうしても必要で……君のお父さんからお金を受け取るしかなかった。そうじゃなければ、君の前から消えたりなんてしなかった……」 なるほど。 金のために身を引いた、悲劇の初恋。ありきたりな悲劇の恋愛話だ。 けれど志保は、それをずっと美しい思い出として抱え続けていたらしい。 感情の読めない笑みが、志保の唇に浮かんだ。 「あの時、本当のこと言ってくれればよかったじゃない。父が出した程度のお金なら、私にだって用意できたのに」 その言葉に、透は一瞬だけ言葉を詰まらせた。 けれど、すぐに立て直す。 今の志保が俺をどれほど憎んでいるか、透はそれをよく分かっていた。 だからすぐに、話題を俺への怒りへとすり替えた。 「じゃあ……僕を恨んでいたから、慎に何をされても黙っていたのか?会社で変な噂を流された時も、柄の悪い人たちに襲われた時も、君は何もしてくれなかった。僕が病気になって、本当に命が危なかった時でさえ……慎は助けてくれなかった。これが、君なりの復讐だったか?」 嘘だ。 こいつは、息をするように嘘をついている。 今口にしたことは、何一つ事実ではない。 そもそも俺は、透の会社がどこにあるのかさえ知らなかった。 孤児で、芹沢家とも縁を切った俺に、裏の人間を動かすような金も力もあるはずがない。 少し調べれば、透の言葉にはいくらでも綻びが見つかったはずだ。 けれど志保は、疑うことすらしなかった。 そもそも、透が口にした「黙って見ていた」などという言葉は、笑い話でしかない。 その一言で、あの日のことを思い出した。 透の嘘を信じ込んだ志保が、会社に怒鳴り込んできた日のことを。 真っ先に俺の会社へ乗り込み、大勢の同僚が見ている前で俺の腕をつかむと、無理やり外へ引きずり出した。 まるで俺が本当に許されない罪を犯したかのように、志保の顔は憎しみに歪んでいた。 それだけではない。 どこからか柄の悪い連中まで手配していた。 人気のない場所へ連れ込まれた俺は、男たちに罵られ、殴られ、地面に叩きつけられた。 その間、志保はただ冷たい目で見下ろしているだけだった。 あの時の俺は、絶望と恐怖で震えることしかできなかった。 男たちはスマホを向け、ぼろぼろになった俺の姿を面白半分に撮影していた。 ひとしきり暴行が終わると、志保はその動画の画面を俺の目の前に突きつけた。 その声には、明らかな脅しが混じっていた。 「今度、透に指一本でも触れたら、この動画をネットにばら撒くわよ。あなたの人生なんて、これでいつでも終わらせられるんだから」 「俺じゃない!俺は何もしていない」 何度そう訴えても、志保の耳には何一つ届かなかった。 そんなことを思い出しながら、俺は今の二人を見つめていた。 透が都合よく過去の話を持ち出しても、志保は何も答えない。 彼のたった一言の嘘を信じて、自分が俺に何をしたのか――その事実を、透に話そうとはしなかった。 なんて皮肉だろう。 志保は、俺のことなど欠片も愛していなかったのだ。 それなのに、どうして俺と結婚したのだろうか。 死んだ今でも、最後まで分からなかった。 第4話 「志保……もう一度やり直せないかな。君が結婚していたことも、僕が君から離れたことも、全部過去のことにしたい……僕は、君を愛したいんだ」 透が少し声をやわらげるだけで、志保の心は簡単に揺らぐ。透は昔から、志保をなだめるのが実にうまかった。そして志保は、いつもその手に乗った。 けれど俺がどれだけ必死に機嫌を取り、どれだけ尽くしても、怒った志保が笑ってくれることは一度もなかった。 愛されていたのは透で、愛されていなかったのは俺だった。 そんな残酷な答えに、俺は死んでからようやく気づいた。 俺の前では氷のように冷たかった妻が、別の男の前ではいくらでも優しくなれる。 透のためなら、自分で決めたルールも良識も、ためらいなく踏み越えていく。 その事実が、胸の奥に細かな痛みとなって広がっていった。 けれどもう、透がどんな手口で俺を陥れたのかも、志保がどれほど俺を憎んでいたのかも、少しずつどうでもよくなっていた。 「退院したばかりでしょう。今日はもう休んで」 そう言って、透の腕をそっと外す。 返事も待たずに部屋を出ていく志保を、透は黙って見送った。 扉が閉まった途端、苛立たしげに舌打ちする。 マンションのエントランスを出たところで、志保がふと足を止めた。 視線の先にあったのは、俺たちの家の窓だった。 明かりは消えている。 昔は、どれだけ帰りが遅くなっても、俺は必ず部屋の明かりを残していた。暗い部屋に帰らずに済むように。 少しでも、彼女の帰る場所でありたかったから。 その暗さに違和感を覚えたのか、志保はしばらく窓を見上げたまま動かなかった。 家に戻り、玄関の扉を開ける。 一か月以上、誰も足を踏み入れていなかった部屋から、ひやりと冷えた空気が流れ出した。 志保の眉が、不愉快そうに寄る。 「慎、いつまで拗ねているつもり!?透を助けるために少し手を貸したくらいで、そんなに怒ること?あなたが透にしたことを考えれば、当然でしょう!?」 暗い寝室に向かって、ヒステリックな声が飛んだ。 そこには、明らかな嫌悪と苛立ちがにじんでいた。 俺はその背中を見つめながら、冷たく笑った。 五年。 五年もそばにいた俺の言葉より、志保は透の嘘を選んだ。 むしろ、死んでよかったのかもしれない。 生きていたら、この先もずっと、こんな日々が続いていたのだろう。 あの日、この女は透のために俺の命を奪った。 もしまだ生きていたら、次は彼のために俺の何を奪うつもりだったのだろう。 苛立ちながら部屋中を探し回った末、志保はダイニングにたどり着いた。 テーブルの上には、病院へ連れて行かれる直前、俺が作った料理が、手つかずのまま残されていた。 一か月以上も放置されたそれは、すでに傷みきっていて、異臭を放っていた。 あの日は、俺たちの結婚五周年の記念日だった。 俺は朝から手の込んだ料理を作り、志保の帰りを待っていた。 待って、待って、待ち続けた。 けれど最後に玄関の扉を叩いたのは、志保ではなかった。 俺を手術台へ連れて行くための、冷たい手続きだった。 その頃、志保がどこで何をしていたのか。 見ていなくても分かる。 きっと彼女は、これから新しい人生を手に入れる透のそばで、優しく彼を慰めていたのだろう。 透が手術を怖がれば、その手を強く握りしめて、「私がついているから大丈夫」と囁いてやったに違いない。 一方の俺は、たった一人で絶望と死に向き合っていた。 誰よりも志保にそばにいてほしかったその時に、彼女は俺を見殺しにして、別の男の無事だけを願っていた。 荒れ果てた食卓を見て、志保の眉が不快そうに寄った。 やがてスマホを取り出し、俺に電話をかける。 一度。 二度。 何度、呼び出し音が繰り返されたのか、もう数える気にもなれなかった。 ここまでしつこく電話をかけてくることなど、今まで一度もなかった。 いや、正確には用事や文句がある時以外、志保のほうから電話をくれることなどなかった。 今日に限っては、妙に根気がある。 けれど、その電話に出る者はもうこの世にいない。 何度かけてもつながらないと分かると、今度はメッセージアプリを開き、音声を吹き込んだ。 「慎、いい加減にしなさいよ。家の中、ひどいことになっているじゃない。私のほうこそ、まだあなたと話をつけていないのに、先に逃げるなんていい度胸ね。一時間以内に戻ってきなさい。戻らないなら、もう離婚だから」 離婚。 ああ、いいじゃないか。 昔の志保がそう言ってくれていたら、俺はきっと二つ返事で頷いていた。 そうすれば、こんな結末にはならなかったのかもしれない。 ほどなくして、スマホが震えた。 画面を見た瞬間、志保の顔がぱっと明るくなる。 けれど送り主が透だと分かると、その光がほんの少しだけ翳ったように見えた。 気のせいだったのかもしれない。 【志保、病院に忘れ物をしたみたい。悪いんだけど、取りに行ってもらえるかな】 志保はすぐに【分かった】と返信した。 コートに袖を通しながら、玄関先で一瞬だけ立ち止まる。 振り返って、暗い家の中をじっと見つめた。 その瞳に何が浮かんでいたのか、今の俺にはもう分からない。 知りたいとも思わなかった。 乾いた笑いがこぼれる。 もう深夜だというのに。透に頼まれれば、いつだって迷わず飛んでいく。 昔、夜中に激しい胃の痛みでうずくまり、「病院に付き添ってほしい」と頼んだことがあった。 その時でさえ、志保は「遠いし、面倒だわ」と顔をしかめた。 なのに今は、深夜の病院までの道のりさえ、少しも遠いとは思わないらしい。 そのまま車で病院へ向かった。 透が入院していた病室へ向かう途中、静まり返った廊下で、俺の見覚えがあった看護師と鉢合わせた。 手術室へ運ばれた時、そばにいた人だ。 俺がどういう経緯で腎臓を失ったのか、彼女は知っていたのだろう。 あの時も、ひどく痛ましそうな目を向けていた。 相手が神崎志保だと気づいた瞬間、看護師の目が冷たく細められる。 「何ですか。今さら、手術台で亡くなったご主人を探しに来たんですか?」 志保の足が、ぴたりと止まった。 信じられない言葉を聞いたかのように、看護師を見返す。 「……何を言っているの?誰が亡くなったって?」 看護師は、軽蔑を隠そうともせずに志保を見た。 「ご主人の黒瀬慎さんですよ。……本当に、どういう奥さんなんですか。ご主人が重い腎不全だったこと、知らなかったわけじゃないでしょう?それなのに腎臓を差し出させるなんて、あんなの……殺したのと同じじゃないですか」