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彼の「おやすみの電話」の相手は私じゃない
私の名前は、錦木依織(にしきぎ いおり)。 夫の朱川悠彦(しゅかわ はるひこ)は、ある日課を8年間、1日たりとも欠かさなかった。 それは、毎...
Chương (1)
第1章
私の名前は、錦木依織(にしきぎ いおり)。
夫の朱川悠彦(しゅかわ はるひこ)は、ある日課を8年間、1日たりとも欠かさなかった。
それは、毎晩23時きっかりに、梁瀬静音(やなせ しずね)に電話をかけることだ。その電話は、いつも3分間で終わる。
「静音は不眠症でさ。寝る前に誰かと話したほうがいいって、医者にも言われてるんだ」
「どうして、それがあなたじゃなきゃダメなの?」
「あの事故の時、静音は俺を庇って大怪我をしたんだ。命の恩人なんだよ」
8年。
2900回を超える、3分間の通話。
私はずっと、命の恩人なのだからと自分に言い聞かせ、目をつぶってきた。
3回目の結婚記念日。悠彦がようやくまとまった休みを取り、私たちは遅すぎる新婚旅行へ出かけた。
それは、旅行最終日の前夜のことだった。
悠彦がシャワーを浴びている間、私はホテルのベッドで、旅行中に撮った写真をスマホで見返していた。
そのとき、枕元に置かれた悠彦のスマホが震えた。
静音からの動画メッセージだった。
画面の中で、静音は私たちの寝室のベッドに寝そべっていた。
私のパジャマを着て、私の枕に頬をすり寄せながら、カメラに向かって甘えるように微笑んでいた。
「悠彦くん、今日はいつもより1分だけ長く話してくれない?早く声が聞きたくて……いつもの時間まで、あと3分だね」
第1話
私の名前は、錦木依織(にしきぎ いおり)。
夫の朱川悠彦(しゅかわ はるひこ)は、ある日課を8年間、1日たりとも欠かさなかった。
それは、毎晩23時きっかりに、梁瀬静音(やなせ しずね)に電話をかけることだ。その電話は、いつも3分間で終わる。
「静音は不眠症でさ。寝る前に誰かと話したほうがいいって、医者にも言われてるんだ」
「どうして、それがあなたじゃなきゃダメなの?」
「あの事故の時、静音は俺を庇って大怪我をしたんだ。命の恩人なんだよ」
8年。
2900回を超える、3分間の通話。
私はずっと、命の恩人なのだからと自分に言い聞かせ、目をつぶってきた。
3回目の結婚記念日。悠彦がようやくまとまった休みを取り、私たちは遅すぎる新婚旅行へ出かけた。
それは、旅行最終日の前夜のことだった。
悠彦がシャワーを浴びている間、私はホテルのベッドで、旅行中に撮った写真をスマホで見返していた。
そのとき、枕元に置かれた悠彦のスマホが震えた。
静音からの動画メッセージだった。
画面の中で、静音は私たちの寝室のベッドに寝そべっていた。
私のパジャマを着て、私の枕に頬をすり寄せながら、カメラに向かって甘えるように微笑んでいた。
「悠彦くん、今日はいつもより1分だけ長く話してくれない?早く声が聞きたくて……いつもの時間まで、あと3分だね」
22時59分。
時間どおりに浴室から出てきた悠彦に、私は無言でスマホを差し出した。
濡れた髪からは、まだ水滴がぽたりぽたりと落ちている。
悠彦は何事もなかったように画面を一瞥し、そのまま受け取った。
「どうして俺のスマホを見た?」
「通知が来たから、目に入っただけ」
「静音はこの数日、猫の世話をしに来てくれてただけだ。疲れて、少し横になっただけだろ」
「それで、私たちのベッドに?」
悠彦はバスローブの帯を締め直し、ほんの少し黙った。
「ベッドは寝るためのものだろ」
そう言うと、スマホを手にバルコニーへ出て、電話をかけた。
結局、その夜、悠彦はその話題に二度と触れなかった。
ベッドに入るなり、彼は布団を引き寄せて、こちらに背を向けた。
暗闇の中、私は彼の後頭部をただじっと見つめていた。
やがて、規則正しい寝息が聞こえてくる。
私は何度も寝返りを打った。けれど、一晩中眠れなかった。
家に戻ったのは、翌日の午後だった。
玄関にスーツケースを置くなり、悠彦は「会社に用がある」と言って出かけてしまった。
ひとり残された私は主寝室へ向かい、ベッドのそばで立ち尽くした。
ベッドには、見覚えのないライトグレーのシーツが掛かっていた。
私が買ったものではない。
元のシーツは、クローゼットの奥にくしゃくしゃに丸められていた。
私のパジャマを着て、私のベッドに寝転がった。
そのうえ、シーツまで替えたというのか。
冷蔵庫を開けると、買った覚えのないクッキーの箱が目に入った。
保存容器まで、私の知らない並びに変わっている。
箱の横には、淡いピンクの付箋が貼られていた。
【悠彦くんへ。好きだって言ってたクランベリー味だよ】
食器棚には、金縁のピンク色の食器が一式並んでいた。
まるで、前からそこにあったみたいに。
手刺繍の入ったコースターまで置かれている。
そこには、ご丁寧にも【静音専用】と縫い取られていた。
代わりに、私の白い食器は、いちばん奥へ押しやられている。
皿には、うっすらと埃がかぶっていた。
よく見ると、縁が欠けている。
結婚1年目に買った、4枚組の皿。
無事なものは、もう3枚しか残っていなかった。
私はそれらを1つ残らず写真に収めた。
夜、帰宅した悠彦に、その写真を1枚ずつ見せた。
けれど彼は一瞥しただけで、すぐにスマホを返してきた。
「俺は何も知らない」
「シーツは?」
「静音が、前のシーツだと滑って寝づらいって言うから替えたんだよ」
「寝づらいって……あれ、私たちのベッドでしょう?」
すると悠彦は、眉をひそめた。
「あいつは一人で大変なんだ。少しは思いやってやれないのか?
最近は情緒不安定だって、医者にも言われてる。もし何かあったらどうするんだよ。頼むから、俺のためだと思って、静音を責めるようなことはやめてくれ」
それだけ言うと、彼はまたスマホを手にバルコニーへ出ていった。
悠彦が静音をかばうとき、理由はいつも決まっていた。
可哀想だから。不安定だから。
そして最後に我慢するのは、いつも私だった。
胸の奥が、じわじわと冷えていった。
私は無言のまま、ゲストルームへ向かった。
やがて、23時ちょうど。
リビングのほうから、声を潜めて笑う悠彦の声が漏れてきた。
「今日は楽しかった?……うん。俺も会いたい」
3分。
短くも、長くもない時間。
やがて電話が切れ、バルコニーのサッシが閉まる音がした。
足音がゲストルームの前まで近づいてきて、一度、止まる。
けれど、ドアが開くことはなかった。
足音はそのまま遠ざかっていった。
第2話
ゲストルームで寝起きするようになって、7日が経った。
その日は珍しく仕事が早く終わった。帰宅すると、玄関はまだ暗かった。
靴を脱ごうと屈んだとき、靴箱の中の見慣れない靴が目に入った。
ピンクベージュのスリッパ。
真新しくて、靴底には埃ひとつついていない。
私のネイビーのスリッパは、一番下の段へ押し込まれていた。
左右が重なるように、無造作に置かれている。
私はそれを黙って取り出し、元の場所へ戻した。
けれど翌日の夜、帰ってみると、スリッパはまた下の段へ押し込まれていた。
代わりに上の段には、ピンクベージュのスリッパがつま先を外へ向け、きちんと並べられている。
キッチンの食器棚には、あの【静音専用】と縫い取られたコースターが、まだそこにあった。
私はそのコースターを取り出し、リビングのローテーブルの真ん中に置いた。
しばらくして、悠彦が帰ってきた。
片手にビジネスバッグ。首には、緩めたネクタイがだらりとかかっている。
ローテーブルの上のコースターを見ると、悠彦はぴたりと足を止めた。
「……静音が自分で刺繍したんだ」
「『静音専用』のコースターを、私たちの家に置くの?」
悠彦はバッグをソファに置き、ネクタイを外した。
「あいつ、少し子供っぽいだけだろ。いちいち目くじら立てるなよ」
「27歳にもなって?」
その夜、書斎の前を通りかかると、ドアがほんの少し開いていた。
中から、悠彦の低く抑えた声が漏れていた。
「静音、泣くなって。依織も本気で言ってるわけじゃないから。
……大丈夫。この家のことは俺が決める。だから、気にせず来ればいい」
――この家のことは俺が決める。
その言葉だけが耳に残ったまま、私は廊下に立ち尽くしていた。
手の中のマグカップを、指が白くなるほど握りしめていた。
結局、ドアを押し開けることはできなかった。
翌朝、ローテーブルの上に白い封筒が置かれているのを見つけた。
朱川グループ本社の赤いロゴが印刷されている。
宛名は【朱川悠彦様 親展】。
悠彦の祖父、朱川宗一郎(しゅかわ そういちろう)の、堂々とした筆跡だった。
中に入っていたのは、親族の食事会の案内状だった。日時は来週土曜の18時。
出席者の欄には、2人の名前だけが並んでいた。
【朱川悠彦、梁瀬静音】
私の名前は、どこにもない。
案内状を悠彦の前に広げ、その一行を指先でとんとんと叩いた。
「……祖父さんが書き忘れただけだろ」
「静音の名前はあるのに、私の名前だけないのね」
「祖父さんは昔から静音を可愛がってる。知ってるじゃないか」
「じゃあ、私は?」
悠彦は何か言いかけて、結局、顔をそらした。
私はスマホを手に取り、宗一郎に電話をかけた。
「お祖父様、依織です。来週のお食事会のことで、少しお伺いしたいことがあって」
電話の向こうで、宗一郎が小さく笑った。
「ああ、悠彦から聞いているよ。その日は出張なんだろう?君が来られないなら、静音を呼ぶと聞いていたが……違うのか?」
リビングがしんと静まった。
受話口から聞こえる宗一郎の声と、テレビから低く流れるニュースの音だけが、耳に残る。
「……私は、出張など入っておりません」
電話の向こうで、一瞬だけ間が空いた。
「……そうか。では、君も来なさい。こちらで席を用意しておく」
通話を終えると、悠彦の顔が険しくなっていた。
「なんで余計なことするんだよ。祖父さんに変に思われるだろ」
「変に思われて困るのは、嘘がばれるから?それとも、静音の立場が悪くなるから?」
悠彦は黙り込んだ。
返事を待たず、案内状を二つ折りにして、静かに封筒へ戻した。
「静音と行けばいい。私は行かないから。そのつもりだったんでしょう、最初から」
いつものように23時きっかりに、リビングのほうから話し声が漏れ始めた。
イヤホンを耳にねじ込み、音量を最大まで上げた。
音楽で耳を塞いでも、頭の奥にはひとつの事実だけが張りついて離れない。
悠彦は私を親族の集まりから外し、その席に静音を座らせた。
ふと、手元のスマホが光った。
宗一郎からの追加のメッセージだった。
【依織、来週土曜の料理は、静音の好みに合わせて手配してある。君に苦手なものがあるなら、早めに知らせなさい】
返信する気力は起きなかった。
翌朝、悠彦はすでに家を出ていた。
代わりに、彼からメッセージが届いていた。
【依織、食事会のことは祖父さんに俺から話しておいた。静音は小さい頃に両親を亡くしてるだろ。昔から親族にも、あいつのことは気にかけてやれって言われてきたんだ。だから、つい――】
お茶の入ったマグカップを握る手に、思わず力が入った。
カップの熱が、じんじんと指先に伝わってくる。
静音が可哀想だから。
その一言で、私は席を譲らされ、案内状から名前まで消された。
夫が毎晩23時に彼女を寝かしつけることさえ、黙って受け入れなければならない。
では、私は?
この結婚の中で、私は可哀想ではなかったのだろうか。
第3話
また偏頭痛が始まった。
午後からずっと続いていて、こめかみを誰かの指で強く押さえつけられているかのように、夜になると痛みで目を開けていられないほどだった。
ベッドに横たわったまま、手探りでスマホをつかんだ。
【頭が割れそうに痛い。鎮痛剤、買ってきてくれない?もう家になくて】
すぐに返信があった。
【分かった】
けれど、40分待っても薬は届かなかった。
悠彦からの連絡もない。
一分一秒が、気の遠くなるほど長く感じられた。
痛みはこめかみから目の奥へと広がり、息をするのさえ苦しい。
我慢できずに催促のメッセージを送ったが、既読はつかない。
電話をかけても、聞こえてくるのは、電源が入っていないと告げる自動音声だけだった。
日付が変わるころ、ようやくスマホの画面が光った。
【ごめん。さっきまで静音のリハビリに付き添ってて、スマホをマナーモードにしてた。大丈夫か?近くにドラッグストアあるだろ。悪いけど、自分で買ってきてくれ】
上着を羽織り、ふらつく足で部屋を出た。
深夜のエレベーターには、私しかいなかった。
鏡に映る顔は、ひどく青ざめている。
ドラッグストアまでは、マンションのエントランスを出て右へ少し歩くだけのはずだった。
外へ出ると、冷たい夜風が吹きつけてきた。
重い足を引きずるようにして向かったものの、店のシャッターは下りていた。
入口には【時間外対応】のステッカーが貼られている。
その下に、小さく【夜間はインターホンを押してください】と書かれていた。
けれど肝心のインターホンには【故障中】の貼り紙があり、何度押しても反応しなかった。
冷たい風が襟元から入り込む。
頭は割れるように痛み、体まで小刻みに震えていた。
いちばんそばにいてほしかった夜なのに、悠彦は静音のそばにいた。
結局、私はひとりで救急外来へ向かった。
救急外来の待合スペースには、何人もの患者が座っていた。
あちこちから、すすり泣く声や咳き込む声が聞こえてくる。
ひとりで受付を済ませ、順番を待ち、検査を受けた。
渡された検査結果には、専門用語がびっしりと並んでいた。
ほとんど意味はわからなかった。
それでも、ひとつだけ目に入った。
【要精密検査】
診察室を出てふと顔を上げると、廊下の先に悠彦の姿があった。
手には、病院の書類らしき紙を握っている。
私に気づいた瞬間、眉をひそめた。
「……なんでお前がここにいるんだ?」
「頭が痛いって、メッセージしたでしょう」
悠彦は手元のスマホに目を落とした。
画面には、静音からの通知が表示されている。
視線を画面に残したまま、彼は軽い調子で言った。
「そんなにひどいのか?」
「家に薬がなかったの。あなたも、買ってきてくれなかったから」
悠彦が一瞬、言葉に詰まる。
「どうしてここまでひどくなったと思う?私、もう2か月もゲストルームで寝てるんだよ。自分の家なのに。枕も合わなくて、首も肩もずっと痛かった。
でも、言わなかった。どうせ『大したことじゃない』って流されるだけだと思ってたから」
悠彦の手の中で、紙がくしゃりと音を立てた。
次の瞬間、彼はうんざりしたように息を吐いた。
「たかが頭痛くらいで、そこまで言うか?お前、もう子供じゃないんだぞ」
かつて、この人は私を一生大切にすると誓った。
私はその言葉を信じていた。
けれど今、同じ口で、別の誰かのために私へ我慢を強いている。
悠彦の目を見つめた。
もう、何も言う気にはなれなかった。
返事を待たずに背を向け、そのまま歩き出した。
第4話
それから、私たちは夫婦でありながら、ほとんど口をきかなくなった。
出張は6日間の予定だったが、仕事は思いのほか早く片づいた。
5日目、取れる中で一番早い新幹線に乗って帰路についた。
玄関のドアを開けた。
見慣れないハイヒールが一足、置かれていた。
静音のものだと、すぐにわかった。
ローテーブルには、彼女の雑誌が広げっぱなしになっている。
ソファにはフリルのついたルームウェアが放られ、キッチンのコンロには、まだ湯気の立つ鍋が置かれていた。
そのまま、まっすぐ主寝室へ向かった。
シーツが、また替えられていた。
ドレッサーの前で足が止まった。
戻しておいたはずのスキンケア用品は、透明な収納ケースに押し込まれて、床に置かれていた。
ボトルや小瓶がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、あちこちに傾いている。
代わりにドレッサーの上には、静音の化粧品が整然と並んでいた。
どのボトルにも、静音の名前入りのラベルが貼られている。
クローゼットの扉は半分開いていた。
私の服は端へ押しやられ、空いた場所には静音の服が掛けられていた。
下着用の引き出しを開けると、一番上に彼女のレースの下着が置かれていた。
ベッドサイドのテーブルには、白い薬袋があった。
袋には【梁瀬静音様 就寝前に1錠】と印字されている。
その横に、1枚の写真があった。
少し黄ばんだ写真の中で、静音は悠彦の肩にもたれ、目を細めて笑っている。
裏返すと、手書きの文字が1行。
【悠彦くんとずっと一緒】
日付を見ると、15年前の写真だった。
そのころ、私はまだ悠彦を知らなかった。
私たちが出会ったのは、大学の新歓コンパだった。
床に落としたペンを、悠彦が拾ってくれた。
顔を上げて礼を言うと、彼は少し笑った。
それが、私たちの始まりだと思っていた。
ずっと、自分が悠彦の初恋なのだと思っていた。
けれど、違った。
私はただ、静音のあとに現れた人間でしかなかった。
ベッドのそばに立ち尽くしていると、浴室のドアが開いた。
腰にバスタオルを巻いただけの悠彦が出てきた。
髪は濡れたままで、水滴が首筋を伝っていた。
私の姿を見た瞬間、悠彦の動きが止まった。
「なんで帰ってきたんだよ。6日間の予定じゃなかったのか」
「早く終わったの」
悠彦が何か言うより先に、浴室のほうから声がした。
「悠彦くん、私のルームウェア、どこ置いたか知らない?」
静音がドアの隙間から顔をのぞかせた。
白いバスローブを羽織り、髪も濡れている。
私に気づいた瞬間、彼女の笑みが一瞬だけこわばった。
けれどすぐに、何も知らないふりをして微笑んだ。
「依織さん……?お帰りなさい。すみません、今日戻られるなんて思ってなくて。悠彦くん、1週間は出張だって……」
「静音は先に戻ってろ」
悠彦が遮るように言った。
静音は唇を噛み、浴室へ戻ってドアを閉めた。
すりガラス越しに明かりが漏れていた。
かすかな咳払いが聞こえた。
「依織、聞いてくれ」
「静音に帰ってもらって。今すぐ。そうしたら、私はこの家に残る」
悠彦の眉間にしわが寄った。
「その言い方はやめろ。静音は体調が悪いんだ。こんな時間に、どこへ行けって言うんだよ」
「ここは私たちの家でしょう。ここは、私たちの寝室でしょう。どうして出ていくのが静音じゃなくて、私なの?」
「数日泊まっているだけだろ。そこまで言うことか?」
「言うわよ」
悠彦の顔が険しくなった。
「いい加減にしてくれ。静音が今どんな状態か、お前だって分かってるだろ。そんなに俺を追い詰めたいのか?」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
彼を見つめる。
「私が、あなたを追い詰めてるの?静音に浴室を使わせて、主寝室まで明け渡したのはあなたでしょう。それでも、悪いのは私なの?」
悠彦が深く息を吐いた。
声には苛立ちが混じっていた。
「少しは状況を考えろよ。相手は病人なんだぞ。こんな時間に追い出して、何かあったらどうするんだ」
「命の恩人なら、何をしても許されるの?このベッドで寝ることも、この家に入り込むことも、私の居場所を奪うことも。じゃあ、私は何なの?」
「お前、自分だけが被害者だとでも思ってるのか!静音は今、不安定なんだよ。医者にも、しばらく目を離すなって言われてる。お前も少しは大人になれよ」
すりガラスのドアが細く開いた。
中から、静音の涙声が聞こえてくる。
「悠彦くん……やっぱり私、出ていくね。ホテルなら自分で探すから。依織さんに、これ以上迷惑かけたくないし……」
悠彦はすぐに遮った。
「気にしなくていい。明日の朝、俺が泊まるところを探す。それまではここにいろ。だから――」
奥歯を噛みしめた。
もう、それ以上聞いていられなかった。
ドレッサーの上に並んでいた彼女の化粧品を、まとめて床へ払い落とした。
ボトルや小瓶が硬い音を立てて床に散らばった。
「今すぐ出ていって」
浴室の中から、小さなすすり泣きが聞こえた。
「やめて……分かった、出ていく。今すぐ出ていくから……」
ドアが開き、静音が白いバスローブのまま出てきた。
「いい加減にしろ!」
悠彦が一歩前に出て、静音を背中にかばった。
その勢いで、私は押しのけられるようによろめいた。
腰をデスクの角にぶつけ、鈍い痛みが走る。
「依織、お前はそこまでして静音を傷つけたいのか?少しは頭を冷やせ。静音は病人なんだぞ!」
悠彦は私を見なかった。
そのまま静音の手を引き、寝室を出ていった。
しばらく、その場にうずくまっていた。
痛みが少し引いてから、立ち上がった。
そして、荷物をまとめ始めた。
部屋を出て書斎の前を通り過ぎるとき、悠彦が静音を低い声でなだめているのが聞こえた。
タクシーがマンションの敷地を出た。
車窓越しに振り返ると、2階の主寝室の窓が見えた。
ピンク色のカーテンが、まだ揺れている。
タクシーはそのまま、夜の街へ走り出した。
下腹部に手を当てる。
そこには、まだ悠彦に伝えていない事実があった。
妊娠が分かったのは、出張に出る前日のことだった。
今夜、彼に伝えるつもりだった。
けれどもう、その必要はない。
……
静音がようやく泣き止んだころには、夜もかなり更けていた。
ふと、家の中が妙に静かなことに気づいた。
悠彦はそのとき初めて、私の姿が見えないことに気づいた。
寝室のドアを開けた瞬間、足が止まった。
目の前の光景に、息をのんだ。