霧が晴れたので、私は私の道を往きます

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霧が晴れたので、私は私の道を往きます

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宇佐美駿(うさみ しゅん)と婚約して七年目。彼が結婚式を延期したのは、これで三回目だった。 理由は、彼の幼馴染である清水莉奈(しみず り...

Chương (1)

第1章

宇佐美駿(うさみ しゅん)と婚約して七年目。彼が結婚式を延期したのは、これで三回目だった。 理由は、彼の幼馴染である清水莉奈(しみず りな)が離婚して帰国し、情緒不安定になっているからだという。 駿は結婚式の招待状を一枚一枚回収しながら、落ち着いた口調で言った。 「莉奈のそばには今、誰もいないんだ。 このタイミングで彼女を刺激するわけにはいかない」 私・椎名杏(しいな あん)はサイズを二度も直した指輪を握りしめ、彼に尋ねた。 「じゃあ、私は?」 駿は私を一瞥した。 「お前は違うだろ、物分かりがいいんだから」 物分かりがいい――その言葉を、私は七年間も聞かされ続けてきた。 彼が起業に失敗したとき、私は祖母が遺してくれた古い家を売り払い、一緒に借金を返した。 彼が胃出血を起こしたとき、私は病院で三日間付きっきりで看病し、自分の昇格面接を棒に振った。 彼の母親に「家柄が普通で釣り合わない」と言われたときも、彼はただ眉間を揉むだけだった。 「杏ちゃん、俺を困らせないでくれ」 私はそのたびに、ただ「分かった」と受け入れてきた。 霧深い街だから、私がいつ帰ろうと、灯りをつけて待ってくれると、彼が言ったから。 しかし、あの日、莉奈が私のウェディングドレスを着て姿見の前に立った。 「杏さん、気にしないでくださいね? 駿が、どうせお二人の結婚式は延期になるんだからって」 駿は彼女の後ろに立ち、否定もしなかった。 それどころか、彼女のベールを優しく整えてやっていた。 彼が手ずから私に贈ってくれたナイトランプが、ドレスショップのショーウィンドウの脇に置かれていた。 ランプの光はまだ消えておらず、私が七年間待ち続けた純白のドレスを別の人間がまとっている姿を照らし出している。 私はふと悟った。 元から霧が深くて道が見えないわけではなく、彼は最初から私を迎えに来る気などなかったのだ。 第1話 宇佐美駿(うさみ しゅん)と婚約して七年目。彼が結婚式を延期したのは、これで三回目だった。 理由は、彼の幼馴染である清水莉奈(しみず りな)が離婚して帰国し、情緒不安定になっているからだという。 駿は結婚式の招待状を一枚一枚回収しながら、落ち着いた口調で言った。 「莉奈のそばには今、誰もいないんだ。 このタイミングで彼女を刺激するわけにはいかない」 私・椎名杏(しいな あん)はサイズを二度も直した指輪を握りしめ、彼に尋ねた。 「じゃあ、私は?」 駿は私を一瞥した。 「お前は違うだろ、物分かりがいいんだから」 物分かりがいい――その言葉を、私は七年間も聞かされ続けてきた。 彼が起業に失敗したとき、私は祖母が遺してくれた古い家を売り払い、一緒に借金を返した。 彼が胃出血を起こしたとき、私は病院で三日間付きっきりで看病し、自分の昇格面接を棒に振った。 彼の母親に「家柄が普通で釣り合わない」と言われたときも、彼はただ眉間を揉むだけだった。 「杏ちゃん、俺を困らせないでくれ」 私はそのたびに、ただ「分かった」と受け入れてきた。 霧深い街だから、私がいつ帰ろうと、灯りをつけて待ってくれると、彼が言ったから。 しかし、あの日、莉奈が私のウェディングドレスを着て姿見の前に立った。 「杏さん、気にしないでくださいね? 駿が、どうせお二人の結婚式は延期になるんだからって」 駿は彼女の後ろに立ち、否定もしなかった。 それどころか、彼女のベールを優しく整えてやっていた。 彼が手ずから私に贈ってくれたナイトランプが、ドレスショップのショーウィンドウの脇に置かれていた。 ランプの光はまだ消えておらず、私が七年間待ち続けた純白のドレスを別の人間がまとっている姿を照らし出している。 私はふと悟った。 元から霧が深くて道が見えないわけではなく、彼は最初から私を迎えに来る気などなかったのだ。 駿が莉奈のベールを整えている間に、私は指輪を外した。 莉奈は鏡越しに私を見て、いかにもしおらしい、か細い声を出した。 「杏さん、誤解しないでくださいね。 ちょっと写真を撮るために借りただけですから」 駿が眉をひそめる。 「おい、莉奈」 彼女はすぐにうつむいた。 「ごめんなさい、私、何か余計なことを言っちゃった?」 私はそのウェディングドレスを見つめた。 裾にあしらわれた手刺繍のランプの模様は、私が自分でリメイクしたものだった。 かつて私は、霧の日が一番苦手だと言ったことがある。 そのとき、彼は私の手を握り、低く囁いた。 「じゃあ、これからは俺が霧の中の灯りみたいに、守ってあげるよ」 私は指輪をカウンターに置いた。 「このドレスは貸さない」 莉奈の目元がみるみる赤くなる。 「杏さん、他意はないんです。ただ写真を撮って母に送りたかっただけで。 母、最近体調が優れなくて……」 駿が私を見た。 「杏、ただの服だろ」 私はふっと笑った。 「なら、他のを着せればいいじゃない」 「こんなことで意地を張るつもりか?」 彼の声が少し大きくなる。 「莉奈は離婚したばかりなんだ、刺激しないでくれ」 私は彼を見つめた。 過去の七年間、彼が私に声を荒らげることなど滅多になかった。 彼はいつも冷静で、体面を重んじ、あらゆる贔屓を「仕方のないこと」と言い換える。 私は言った。 「私のウェディングドレスよ」 彼は一瞬沈黙した。 「金を払ったのは俺だ」 店内はしんと静まり返った。 店員はうつむき、必死にドレスの裾を整えるフリをしている。 莉奈はベールをいじりながら、か細い声で言った。 「駿、もういいよ、撮るのをやめる。 杏さんはきっと、こういうカタチにすごくこだわるタイプなんですもの」 カタチ。 婚約して七年、結婚式が延期されたのはこれで三度目。 私が大切にしていたものは、結局「カタチ」の一言で片付けられた。 私はカウンターから指輪を拾い上げ、バッグにしまった。 駿は私がおれたと思い、ホッとした表情を浮かべた。 「莉奈の撮影が終わったら、また新しく選び直そう」 「新しく何を?」 「ドレスだよ」 彼は眉間を揉んだ。 「杏ちゃん、もういいじゃないか」 杏ちゃん。 彼がこう呼ぶときはいつも、私を従わせたいときだった。 私は店員の方を振り向いた。 「すみませんが、そのドレスを片付けてください。 レンタルも、貸し出しも、写真撮影も一切許可しません」 店員は困ったように立ち尽くした。 「椎名様、ですが、宇佐美様の方が……」 「契約書にサインしたのは私です」 駿の顔色が険しくなる。 「杏」 私は無視した。 莉奈が突然、駿の袖口を掴んだ。 「駿、やっぱり私、脱ぐわ。 杏さんはこれまでずっと待ってたんだもの。 きっと私なんかより、このドレスを必要としているわ」 「これまでずっと」という言葉が耳に入り、胸の奥がちくりと痛んだ。 駿の瞳がわずかに揺れ、少し声を和らげた。 「杏ちゃん、今日はひとまず帰って休んでくれ。後でちゃんと説明するから」 第2話 私はうなずいた。 「いいの」 彼はそれをただの拗ねた台詞だと思ったのだろう。 これまでも私は、何度も「いいの」と言ってきた。 誕生日は祝わなくていいの。 迎えに来なくていいの。 私のために母親と争わなくていいの。 そのたびに、彼は私の言葉をそのまま真に受けた。 私はいつも自分の感情を完璧に押し殺してしまい込んできたからだ。 今回も同じ。 私はバッグを肩に掛け、入り口へと歩いた。 あのランプは、まだショーウィンドウの脇で輝いている。 暖色系のランプシェードは彼が選んだもので、台座には一行の文字が刻まれていた。 【霧が晴れたら、家に帰ろう】 私は一瞬足を止め、手を伸ばしてその灯りを消した。 背後から駿の声が追ってくる。 「杏、どこへ行くんだ?」 振り返らなかった。 外へ出ると、スマホが小さく震えた。 ウエディングプランナーからのメッセージだった。 【椎名様、先ほど宇佐美様より、挙式日程は現時点で未定との確認がございました。 会場の仮予約は、このまま維持なさいますか?】 私はその文字をじっと見つめた。 長い沈黙の後、返信を打った。 【もう要りません】 …… 駿が私を訪ねてきたのは、その日の夜十時だった。 彼はドアの前に立ち、私がよく食べる店の弁当を手に下げていた。 以前の彼は、こういうものを滅多に買ってこなかった。 だが、私を怒らせた後だけは、いつも決まって買ってくる。 ドアを開けたが、彼を中に入れようとはしなかった。 彼は玄関に目をやった。 「まだ怒っているのか?」 「怒ってないわ」 駿は眉をひそめた。 「杏、今日のお前の態度のせいで、莉奈は傷ついたぞ」 私はその弁当に目を落とした。 ビニール袋の内側には水滴が滲み、まるで晴れることのない霧のようだ。 私は尋ねた。 「だから、彼女のために文句を言いに来たの?」 「ただ、そこまで頑なにならないでほしいだけだ」 彼のトーンは相変わらず平坦だ。 「彼女は離婚の傷が癒えていない。とても傷つきやすいんだ」 「私は傷つかないとでも?」 彼は一瞬、言葉に詰まった。 それは無視できるほど、ごくわずかな間だった。 やがって、彼は口を開いた。 「お前は、彼女とは違う」 思わず笑みが漏れた。またその台詞か。 私は彼女とは違う。 彼女は泣くから、優しくあやす必要がある。 私は泣かないから、我慢して物分かりよくいるのが当然なのだ。 駿は弁当を差し出してきた。 「まずは何か食べろ。胃が弱いだろう」 私は受け取らなかった。 「私の胃が弱いことは覚えていて、もっと大事な結婚式は覚えられないの?」 彼の腕が空中でぴたりと止まった。 「結婚式は延期になっただけだ」 「これで何回目?」 彼は黙り込んだ。 私は彼の代わりに答えた。 「三回目よ」 一回目は、会社の資金調達に問題が生じたとき。 二回目は、彼の母親が体調が悪いと言い出したとき。 三回目は、莉奈が帰国したから。 そのたびに、もっともらしい理由があった。 そしてそのたびに、私は譲歩してきた。 駿は声を低めた。 「埋め合わせはする」 「今まで、何を埋め合わせてくれたっていうの?」 「杏、どうして今日はそんなに棘のある言い方しかできないんだ?」 私は彼を見つめた。 「じゃあ、どう言えば満足なの?」 彼の返答よりも先に、スマホの着信音が鳴り響いた。 画面には「莉奈」の文字。 駿は一瞥したものの、出ようとはしなかった。 「出たら?」 「いい」 通話が切れた。 次の瞬間、莉奈から音声メッセージが届いた。 駿がそれを再生すると、スピーカーから漏れ聞こえてきたのは、泣きそうな声だった。 「駿、私、また迷惑をかけちゃった? 杏さんに嫌われちゃったかな…… 本当に、わざとドレスを着たわけじゃないの……」 駿の眉間のシワがさらに深くなる。 私はドアを少し広めに開けた。 「もう行って」 「杏ちゃん」 「彼女、傷つきやすいんでしょ?」 彼の言いたい台詞を、私が先に奪ってやった。 駿の目の瞳から温度が消えた。 「そうやって皮肉を言わないと気が済まないのか?」 私は、急にすべてが酷く億劫になった。 「駿、式場はキャンセルしたわ」 彼は呆然とした。 「……何だって?」 「だから、式場はもう要らないって言ったの」 彼の顔が完全に凍りついた。 「結婚式を盾にして脅すのはやめろ」 「脅してなんかいないわ」 「じゃあ、どういうことだ?」 私は彼の瞳をまっすぐ見つめた。 この七年間、私は彼の瞳の中に、ほんの少しの動揺でもいいから見つけたいと切望してきた。 しかし、そんなものは一度もなかった。 彼は、私が決して離れていかないと確信しきっているのだ。 「つまり、もう困らなくていいってことよ」 駿は私をじっと見つめ、声を潜めた。 「少し冷静になれ」 「私はいたって冷静よ」 「杏」 彼は弁当を玄関の棚に置いた。 「今日はもう休め。明日、お袋の家へ連れて行くから。会いたがっている」 第3話 私は拒んだ。 「行かない」 駿は聞こえていないかのように、淡々と言葉を続けた。 「莉奈もいるんだ。二人できちんと話し合ってくれ。親を心配させるな」 「行かないって言ってるの」 駿はじっと私を見つめ、やがて宥めるように呟いた。 「杏ちゃん、俺を困らせないでくれ」 私の胸の奥が、すっと冷たくなった。 その言葉は、どんな責め苦よりも私を惨めな気持ちにさせた。 ふと、彼が起業に失敗した年のことを思い出す。 祖母が遺してくれた古い家を売り払ったあの日も、外は深い霧に包まれていた。 水を含んだ綿のように重苦しい霧が、息が詰まるほど街を覆っていた。 私が霧の日を嫌うのは、ただの我儘ではない。幼い頃、深い霧の日に迷子になり、郊外の川沿いでようやく見つかった悲惨な記憶があるからだ。 それ以来、霧が立ち込めると動悸がして、手足が氷のように冷たくなる。 駿もそれを知っていた。かつては私を強く抱きしめ、「怖がらなくていい、俺がそばにいる」と何度も囁いてくれたはずだった。 だけどあの日、不動産屋を出た私は、彼に10回以上も電話をかけ続けた。 けれど、一度も繋がらなかった。 霧の中に立ち尽くし、家の売却契約書を抱えたまま、日が暮れるまで待ち続けた。 後から知ったことだが、その日、莉奈が元夫と喧嘩をして泣きながら彼に電話をかけていたのだ。 彼は私を置き去りにして、彼女の元へと車を走らせていた。 私は濃霧の中で車に轢かれそうになり、膝から血を流し、スマホを叩き割られ、両手は泥まみれになった。 彼が帰宅した時には、すっかり夜も更けていた。その体からは莉奈が愛用している香水の匂いがした。 なぜ電話に出てくれなかったのかと問う私に、彼はこう言い放ったのだ。 「莉奈の方が切羽詰まってたんだ。俺を困らせないでくれ」 あの日以来、私はさらに霧の日が怖くなった。 同じ場所に立ち尽くして彼を待っていても、彼はいつだって、私を置いて他の誰かのもとへと行ってしまうかって怖いの。 …… 翌日、私は結局、駿の実家へ向かった。 駿の母親・宇佐美由紀江(うさみ ゆきえ)から電話があり、血圧が上がって体調が悪いから顔を見せろと言われたからだ。 訪ねると、リビングにはすでに莉奈が座っていた。淡いブルーのセーターを着て、膝には由紀江が愛用しているカシミアのひざ掛けをかけている。 由紀江は私の姿を見つけると、浮かべていた笑みをすっと引かせた。 「来たのね」 「おば様、こんにちは」 莉奈が慌てたように立ち上がる。 「杏さん、おば様を責めないであげてください。 私がどうしてもお会いしたいと言ったんです。 昨日のこと、ずっと申し訳なくて……」 そう言うと、彼女の目元がまたみるみる赤くなった。 由紀江はいたわるように彼女の手を引いて座らせる。 「本当にこの子は。体が優れないんだから、無理して立っていなくていいのよ」 私は玄関に立ち尽くし、由紀江のために買ってきた血圧計を手に下げていた。 しかし、誰もそれを受け取ろうとはしない。 キッチンから出てきた駿が私に気づき、手から荷物を受け取った。 「そんな薄着で来たのか?風邪引くぞ」 それが、今日彼が口にした最初の気遣いだった。 由紀江がわざとらしく咳払いをする。 「杏、昨日の話、聞いたわよ」 私は静かに彼女に視線を向けた。 含みを持たせた口調で、彼女は言葉を続ける。 「たかがドレス一枚じゃない。 莉奈ちゃんがちょっと借りるくらいで、どうして他人の目の前であんな惨めな思いをさせるの?」 「私のウェディングドレスです」 「本当にこの子は、器が狭いわ」 莉奈が蚊の鳴くような声で遮る。 「おば様、杏さんを責めないでください。私が悪いんです」 「あなたのどこが悪いっていうの?」 由紀江は莉奈の手を優しく叩いた。 「あんなに辛い思いをして帰ってきたんだもの、綺麗な写真を数枚撮るくらい、何がいけないの?」 ぽつんと立ち尽くす私は、買ってきた血圧計が妙に滑稽で、無駄なものに思えてならなかった。 駿がそれをテーブルの上に置く。 「母さん、そのくらいにしてくれ」 「私が間違ったことを言っている? 結婚式を何度も引き延ばすなんて、そもそも二人が不釣り合いだからよ。 杏が本当にあんたを思いやっているなら、うちにこれ以上の揉め事を持ち込むべきじゃないことくらい分かるはずでしょう」 「私は、ただの揉め事なんですか?」 私の言葉に、リビングが一瞬、しんと静まり返った。 駿が低い声で私を制する。 「杏」 由紀江の顔が完全に険しくなった。 「なによ、その態度は」 莉奈が由紀江の手を優しく握りしめる。 「おば様、怒らないでください。 杏さんはただ、それだけ駿と結婚したくてたまらないんですよ」 その言葉が軽々と投げつけられた瞬間、全身に嫌な悪寒が走った。 ――彼と結婚したくてたまらない。 その一言のせいで、私がこれまで家を売り、夜なべをし、譲歩を重ね、耐え忍んできたすべての犠牲が、ひどく安っぽく卑しいものに塗り替えられていく。 駿がようやく眉をひそめた。 「莉奈、そんな言い方はやめろ」 莉奈はすぐに視線を落とす。 「ごめんなさい」 彼女はいつだって謝るのだけは早い。まるで言葉のナイフで相手を刺したあと、何事もなかったかのように血を拭い去るようだった。 由紀江が突然、手元のファイルを取り出した。 「そうだわ。莉奈ちゃん、近々個人の写真展を開きたいそうなの。 テーマは『ナイトランプ』。 駿から聞いたけれど、あなた以前に似たような企画書を作っていたでしょう? その資料をまとめて彼女に渡しなさい」 第4話 私は駿に視線を送ったが、彼はうつむいたまま私を見ようともしなかった。 「ナイトランプは、私たちの結婚式のテーマです」 「延期になったんでしょう。 眠らせておくくらいなら、有効活用すればいいじゃない」 私は駿に問いかける。 「あなたも、同じ考えなの?」 彼はわずかに沈黙した。 「コンセプトを少し借りるだけだ。これからのことに影響はない」 また、「これから」か。 彼はいつだって、私に実体のない未来を約束するのが上手だった。 莉奈が遠慮がちに呟く。 「杏さん、もし嫌なら、使わないようにしますから……」 「ええ、嫌よ」 由紀江の顔が露骨に不機嫌に歪む。 駿がとうとう口を開いた。 「杏、母さんの前で我が儘を言うな」 「分かったわ」 私はバッグから一冊の企画ノートを取り出す。 この数年間、私が少しずつ書き溜めてきた大切なノート。表紙には小さなランプのシールが貼ってある。 駿の視線がノートに留まり、その瞳が微かに揺れた。 覚えているのだろう。そのノートは、かつて彼が贈ってくれたものだった。 私はノートを開き、最初のページを力任せに破り取った。 莉奈が呆然と目を見張る。 私はそのまま、淡々と一ページずつ引き裂き始めた。 駿が慌てて私の手首を掴む。 「杏、何をしてるんだ!」 「ゴミにしてもこれからのことに影響はないでしょう?」 由紀江は怒りに震えた。 「あなた、正気なの?」 私は残りのノートをバッグにしまい込んだ。 「おば様、お体にお気をつけください」 莉奈が取り乱したように立ち上がった拍子に、湯呑みが倒れた。 こぼれた水が、駿がリビングに飾っていたあのナイトランプへと派手にぶつかる。 ランプの光が二、三度激しく明滅し、そのままぷつりと消えた。 「ごめんなさい!わざとじゃないんです……」 駿が真っ先に手を伸ばし、彼女の体を支えた。 私はその場に立ち尽くし、そのランプを見つめていた。 やはり、いついかなる時も、彼が最初に視線を注ぐのは私ではないのだ。 自宅に戻ると、私は結婚式に関するすべての品々を段ボール箱に詰め込んだ。 招待状の見本、ゲストのリスト、メイクリハーサルの写真、そしてかつて由紀江から贈られたダイヤのブレスレット。 最後に残ったのは、あの婚約指輪だった。私はそれを、ただじっと見つめ続けた。 インターホンが鳴ったとき、駿が来たのだと思った。 だが、ドアを開けると、莉奈だった。 彼女の両腕には、あの壊れたランプが抱えられていた。 「杏さん、駿に頼まれてこれを返しに来ました」 彼女は勝手に中へと上がり込み、ランプをテーブルに置いた。 ガラスのシェードには一本の亀裂が走り、台座に刻まれていた文字には、水が入り込み、白く曇っていた。 「なぜ、彼が自分で来ないの?」 莉奈は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。 「おば様に付き添っているんです。 今日、杏さんのせいでかなり血圧が上がってしまって」 私は何も答えなかった。 彼女はリビングを見回した。 「ここは相変わらずね。 駿が言っていましたよ、杏さんは未練がましいから、どんなガラクタも捨てられない性質だって」 私はランプを手に取った。 「もう帰って」 けれど、莉奈は動こうとしなかった。 バッグから一枚の写真を取り出し、テーブルへ滑らせる。 そこには、ドレスショップの前に並ぶ駿と彼女の姿が写っていた。私のウェディングドレスを身にまとい、彼の腕に嬉しそうに絡みつく彼女が。 「駿、結局撮影を許してくれたんです。 杏さんもそのうち怒りが収まるだろうから、たかが服一着のことで私の気分を台無しにする必要はないって」 私は写真を見つめる。 私があの店を去った後、彼はドレスを片付けさせなかったのだ。 ただ、私が十分に遠ざかるのを待っていただけ。 「杏さん、自分がどうして負けたか分かっています?」 私は目を上げた。 彼女は勝ち誇ったように微笑んだ。 「物分かりが良すぎるんですよ。 物分かりがいい人なんて、いつだって一番にはなれないの」 私はその写真を躊躇なく真っ二つに引き裂いた。 莉奈の表情が一瞬引きつったが、すぐにまた余裕のある笑みを作った。 「破けばいいじゃない。どうせ駿のスマホに写真が残っているし」 「出て行って」 すると彼女は突然手を伸ばし、あのランプを掴み取った。 私が振り返った瞬間、ランプは彼女の手から滑り落ち、激しい破裂音とともに、床の上で粉々に砕け散った。 彼女はすぐさまその場にしゃがみ込む。ガラスの破片で指先を切り、瞬く間に涙をボロボロとこぼした。 「杏さん、私、ただ拾ってあげようとしただけなのに……」 そのタイミングで、勢いよくドアが開いた。 入ってきたのは駿だった。 彼は莉奈の指から流れる血を見て、それから私を見つめた。 最初に放った言葉は、やはりこれだった。 「杏、今度は何をしたんだ!」