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弟子との一線を越えた夫は、憎む価値もない
神谷柚希(かみや ゆずき)は、事故で腕を切断されてしまった息子の神谷健太(かみや けんた)を抱き、空港で救援を待っていた。すると突然、こ...
Chương (1)
第1章
神谷柚希(かみや ゆずき)は、事故で腕を切断されてしまった息子の神谷健太(かみや けんた)を抱き、空港で救援を待っていた。すると突然、この便が誰かにチャーターされたという知らせが届いた。
「お願いします、どうにかなりませんか……」柚希は空港の係員の手にすがった。
「息子の腕は切断していて、一刻を争うんです。3時間以内に東都へ戻って手術を受けさせないといけないんです!」
切り落とされた腕が入った保冷バッグを、柚希は凍えそうになりながら必死に抱きしめ、絶対に離そうとはしなかった。
係員は困り果てた表情で答えた。
「申し訳ございませんが、神谷さんが通常の3倍の料金でこの機を貸し切られました。愛弟子の快気祝いを開かれるそうで、絶対に誰も乗せないよう指示を受けているんです」
神谷さんって?
「どちらの神谷さんですか?」柚希は問いただした。
係員は答えた。「有名なピアニストの、神谷雅臣(かみや まさおみ)さんです」
雅臣。それは、柚希の夫の名だった。
第1話
神谷柚希(かみや ゆずき)は、事故で腕を切断されてしまった息子の神谷健太(かみや けんた)を抱き、空港で救援を待っていた。すると突然、この便が誰かにチャーターされたという知らせが届いた。
「お願いします、どうにかなりませんか……」柚希は空港の係員の手にすがった。
「息子の腕は切断していて、一刻を争うんです。3時間以内に東都へ戻って手術を受けさせないといけないんです!」
切り落とされた腕が入った保冷バッグを、柚希は凍えそうになりながら必死に抱きしめ、絶対に離そうとはしなかった。
係員は困り果てた表情で答えた。
「申し訳ございませんが、神谷さんが通常の3倍の料金でこの機を貸し切られました。愛弟子の快気祝いを開かれるそうで、絶対に誰も乗せないよう指示を受けているんです」
神谷さんって?
「どちらの神谷さんですか?」柚希は問いただした。
係員は答えた。「有名なピアニストの、神谷雅臣(かみや まさおみ)さんです」
雅臣。それは、柚希の夫の名だった。
言葉が終わるか終わらないかのうちに、柚希は大勢のファンに囲まれ、サインに応じながら歩いてくる雅臣の姿を目にした。
いつも通り冷徹で凛とした雅臣。しかし柚希は、雅臣が隣を歩く弟子の入江遥香(いりえ はるか)をかばい、ファンにぶつからないよう手を添えているのを目撃した。
あまりにも慣れた所作だった。
思考を巡らせる暇もなく、柚希は血だらけの保冷バッグを抱えて雅臣に駆け寄った。声を震わせて叫んだ。
「雅臣、健太が大変なの……旅行先で農機の事故に巻き込まれて、腕を……
手術ができる病院に連絡はついたの。3時間以内に戻れればつなげる可能性はある……
健太はまだ3歳なのよ。この子の人生を潰したくない……どうか、私たちも乗せて。お願い」
雅臣の視線が、痛みで意識を失っている健太の姿を一瞬だけ捉えた。しかし、その目には何の情も宿らなかった。
「だめだ」
全身がこわばった。柚希は耳を疑った。
「今、何て言ったの?健太は、あなたの実の息子なのよ!」
雅臣が視線を上げた。その声は、驚くほど冷徹で残忍だった。
「この便は遥香のために手配したものだ。あまり聞き分けのない、幼稚な焼きもちはやめてくれないか?」
その一言が、まるで錆びた鉄釘のように、柚希の胸へ容赦なく突き刺さった。
柚希は言葉を失った。雅臣の性格なら、一度決めたスケジュールを他人のために変えないことは分かっていた。だが、目の前の健太は雅臣の息子なのに……
健太の人生がかかっているのに、それよりも遥香の快気祝いが重要だと言うのか?
たかが小さな公演を終えただけで、ここまで急ぐ必要があるのか?国内に戻ってから祝えばいいのではないか?
すると遥香がわざとらしく咳をし、か弱い様子で柚希に近づいた。
「柚希さん、神谷先生を困らせないでください……私、血が怖くて、この子と一緒に飛行機になんて乗れません。
他の便を探してみたらどうですか?ここは大きい空港ですもの」
雅臣は遥香の言葉を静かに黙認した。
柚希は悔しさを滲ませながら問い詰めた。「どうしてなの?健太はあなたの子供よ。入江さんと息子のどちらが大事なの?もしかして、自分の弟子とできているの?」
「やめろ。そんな汚らわしい勘繰りはやめてくれ。ただの師弟関係だ」
柚希の胸に、どす黒い屈辱と悲しみが押し寄せた。
このところ、雅臣が持ち帰ったペアグッズ、ラインのアイコン変更、そして、こっそりと微笑む練習をしていた雅臣の姿を思い出す。
ようやく雅臣が振り向いてくれると思ったのに。
彼は、とっくに不倫していたんだ。あの優しさも、すべて入江さんのためだった。
「雅臣、お願い。健太を救って。2時間後には嵐が来るわ、これが最終便なの!」
雅臣が迷った表情を見せると、遥香は髪を揺らしながら鼻で笑った。
「柚希さん、前も神谷先生の気を引くために倒れたとか嘘をつきましたね。そんなみっともないことで先生を困らせないでくださいよ」
雅臣が顔をしかめた。あれは随分と前の話で、一度嘘をついてからは絶対にそんなことはしていないというのに。
柚希は頭を振った。「違う、嘘じゃない!雅臣、どうか健太を助けて!」
雅臣は柚希の振る舞いを「面倒な騒ぎ」と断定し、高圧的に告げた。「幼稚な真似をして気を引くのはやめろ。そんな安っぽい手には乗らない」
そう言い放つと、彼は迷わずその場を去った。
今の雅臣が、まるで他人のように思えた。
便はもうないのに、どうして一度も信じてくれないのか?
結婚して3年、柚希がどれだけ尽くしても、雅臣の心を温めることはできなかった。
何をやっても無駄なのだ。
柚希がいくら叫ぼうが、雅臣は沈黙という壁を突きつけてくる。
柚希が円満な家庭を築こうとしても、雅臣は一度も笑顔を向けてはくれなかった。
エンジン音を轟かせながら、機体は滑走路を走り出した。雅臣は一度も振り返ることなく、そのまま去っていった。
力が抜け、柚希は床に崩れ落ちた。保冷バッグから、無数の氷が散らばった。
柚希は凍える手で散乱した氷を拾い集め、震える指先で、もう3年も着信拒否していた幼馴染、黒崎凛斗(くろさき りんと)に連絡を入れた。
「海外の劇団への移籍の話、受けるわ。その代わり、今すぐ東都へ帰れるプライベートジェットを手配してほしいの」
受話器の向こうから、静かな声が答えた。「分かった。簡単なことだ」
「ありがとう。離婚届が受理されたら、健太を連れて行くわ」
第2話
柚希と雅臣は、政略結婚の間柄だ。
25歳になる前の柚希は、生き生きとしていた。小さい頃から楽器を習い、いくつもの賞を勝ち取り、輝かしい未来が待っていたはずだった。それなのに、国際コンクールの表彰式の場で雅臣に一目惚れしてしまった。
結婚相手が雅臣だと知った時、柚希は飛び上がるほど喜んだ。
結婚後、柚希は雅臣のために尽くした。雅臣が静けさを好むと聞けば、柚希は口数を減らし、雅臣が他人と争うのを嫌うと聞けば、柚希はその尖った個性を必死に押し殺した。
しかし、その献身は報われるどころか、雅臣から思いがけない仕打ちを受けることになる。
救急治療室の前で、柚希が力なく項垂れていた。
あと一歩、間に合わなかった。
医師は苦い顔で首を横に振った。
「神経が壊死してしまっていて、腕の再接合はできません。
3時間以内に来なさいと伝えたはずですよね?健太くんの人生をめちゃくちゃにしたんですよ……」
雅臣の母親・神谷涼子(かみや りょうこ)は、怒りで卒倒しそうになりながら、憎しみを込めて柚希を睨み、容赦なくその頬を叩いた。
「飛行機は時間通りに着陸したはずでしょ!たっぷり時間はあったのに、こんな結果になって満足?
最初からわざと時間を引き延ばして、雅臣の気持ちを繋ぎ止めようとしていたんでしょ!健太くんが障がい者になったのも、毒親のあなたのせいよ!」
涼子の放った平手打ちは強く、柚希の唇の端から血が滲んだ。柚希は血を拭うと、自嘲気味に笑みを漏らした。
「お母さん。雅臣が入江さんのために開催したパーティー、あれが原因ですよ」
柚希はトレンドに入ったニュース画面を突きつけた。
「雅臣が3倍の料金で飛行機を貸し切りにして、入江さんの体調を理由に、私と健太の搭乗を拒否したんです。本来なら、健太の腕は間に合っていたはずです。雅臣が、私の息子を障がい者にしたんですよ!」
涼子は、絶句した。
「私がお母さんに嫌われているのは承知しています。もうどうでも良いです。雅臣とは別れますから。離婚届に判を押したら、すぐに健太を連れてここを出ていきます」
48時間が過ぎ、健太はようやく命の危険を脱した。柚希は一睡もせず、夜明けを待ちながら、バッグの中の離婚届を取り出して家路についた。
単に離婚届だと言えば雅臣は拒絶し、揉めるのは火を見るよりも明らかだ。
柚希は離婚届を、術前リスクに関する同意書の間に挟んだ。
柚希は雅臣とのメッセージアプリを開き、送った。
【健太の処置についてサインが必要よ。今夜帰るからサインして】
雅臣からの返信はなかった。
柚希は反射的にスマホのメモを開き、数字の499を打ち込んだ。
結婚して数年になるが、雅臣から柚希に発せられた言葉を足しても500字には満たない。
そのくせ、雅臣は遥香の初めての公演には2000字もの祝辞を準備し、病院の至るところのスクリーンで流し続けた。
遥香が現れてから、雅臣の口数は明らかに増えたのだ。
その現実を前に、柚希は諦めの境地に達していた。
雅臣のためにメモを取っていた自分が惨めになり、その文字を全て削除した。
帰宅すると、遥香がそこにいた。
遥香が目を真っ赤にして泣きじゃくっているのを、雅臣は苛立ちを見せることもなく、優しく宥めていた。
「安心してくれ。世論が君の活動の邪魔をするようなことはさせない。必ず名誉を回復させてみせる」
柚希の姿に気づいた瞬間、雅臣の言葉はピタリと止まった。
遥香が立ち上がり、控えめな笑みを浮かべて口を開いた。
「柚希さん、健太くんのことは神谷先生から伺いました。処置を担当してくださる医者は私の親戚ですから、腕は確かですよ。健太くんはきっと良くなります!
先生が病院へ来てくれないからって、怒っているんですよね?ごめんなさい、私と先生の動画を撮られたせいで不倫騒動になってしまって……先生は私を守るのに必死で病院へ行けなかったんです」
病院へ来なかった理由は、そんなことだったのか?
雅臣は証拠のない遥香の言い分を信じ、実の息子を一度も看ようとはしなかったのだ。
柚希は自嘲気味に笑った。雅臣とは、これで完全に縁が切れる。
「今回の縫合は難易度が高いわ。だから、両親二人のサインが必要なの」
雅臣が顔を上げた。「柚希、またそんな芝居か?怪我を大げさに言って健太をダシにするなんて、卑劣すぎるぞ」
雅臣の目には軽蔑の色が宿っていた。「遥香との関係は潔白だ。汚れた想像で勝手に疑って、健太まで巻き込んで騙そうというのか?そんな風に息子を教育しているのか!」
間に入った遥香が言葉を継いだ。「柚希さん、神谷先生を困らせないでください。悪いのは全部私です。コンクールになんか出るんじゃなかったんです」
「黙っててください」柚希は胃の底からこみ上げる吐き気をこらえ、雅臣を睨みつけた。
「早くサインをして。健太の命に関わるの」
叱責を受けた遥香は、傍らで小さく啜り泣き始めた。
「私のことで言い争わないでください。私は大丈夫ですから……ネットでどんなふうに中傷されても、構いません……」
それを聞いた雅臣は、拳を強く握りしめた。「こっちのサインが欲しいんだな?」
「ええ」
「だったら遥香に謝れ」
第3話
柚希は時間を無駄にしたくなかったし、雅臣が遥香に肩入れをしていることも分かっていた。
柚希は軽く身をかがめ、遥香に向って、「ごめんなさい」と告げた。
「これでサインしてくれる?」
その瞬間、雅臣が柚希のスマホのロックを解除した。
「まだ足りない。自分の方を向かせたくて、わざと息子の腕を機械に巻き込ませたって投稿しろ。俺が飛行機に乗せなかったのは、君の思惑を見抜いていたからだと書くんだ。
ネットでは騒ぎになっている。これ以上、君のせいで俺と遥香の名誉まで傷つけられるわけにはいかない」
なぜ?どうして自分がこんな汚名を着せられなければならないの?
「書くわけないでしょ!あなたが浮気をして、愛人のご機嫌取りのために、自分の息子すら切り捨てたんだから!」
雅臣は手を振った。
「君に付き合う気はない。10秒だけやる。よく考えろ。病院にはすでに根回ししてある。俺はすぐに健太の治療費を止めることもできるんだ」
「正気なの!健太はあなたの息子なのよ!」
「10、9……」
柚希は歯を食いしばり、涙をこぼしながら震える声で言った。
「分かったわ……投稿する」
2分後、柚希は言いなりどおり、投稿を公開した。すべての罪を一人でかぶる内容だった。
雅臣は書類を受け取り、自分のサインを書き込んだ。
彼は最後まで、それが離婚届だとは気づいていなかった。
「次はもっとマシな手を使えよ。子どもを使って俺を試すのはやめろ。健太まで巻き込んで嘘をつかせるな」
柚希は無言で荷物をまとめた。
家を出てすぐ、弁護士に全ての手続きを依頼し、15日後には離婚できる手はずを整えた。
あと半月、辛抱すれば、健太を連れてこの泥沼から完全に抜け出せる。
ネットに投稿してからは、過去の経歴や行き先をさらされ、柚希はマスクをして病院に向かったが、結局正体を見破られてしまった。
冷酷非道で、気に入られるためなら手段を選ばない女だと罵られた。
雅臣に捨てられ、いい気味だ、と言われることもあった。
心ない噂に柚希は耳をふさいだが、病室の前に立つと、中で看護師が刺々しい言葉を投げつけているのが聞こえてきた。
「そうよ、その腕の怪我はあなたのお母さんがわざとやったことで、お父さんの関心を引こうとしただけですよ。でも残念ね、お父さんは引っかからなかったんですよ。
あなたのお母さんは酷い人です!入江さんだけが、本当の味方なんですよ」
健太は目を真っ赤にして泣いていた。「そんな……ママが僕を傷つけるわけない!」
柚希は病室に飛び込み、看護師を突き飛ばした。
「適当なこと言わないでください!子供の前で変な嘘を吹き込むなら通報しますよ!」
看護師は冷たく笑った。
「嘘ですって?ご自身で認めたんでしょう?やったことを誤魔化すなんて……お子さんもかわいそうですね。私がこんな親を持つ子供なら、自殺した方がマシですよ!」
柚希が立ち去れと言っても、看護師は聞く耳を持たず、周囲の患者たちを巻き込んで騒ぎ出した。狭い病室はすぐに見物人でいっぱいになった。
柚希は浴びせられる罵詈雑言と下品なあだ名に耐えるしかなかった。反論する気力さえ失いかけたそのとき、健太が部屋にいることを思い出す――次の瞬間、響き渡った悲鳴に、柚希の思考は真っ白になった。
「ああ……あの子が、窓から飛び降りた!」
第4話
手術室の上に灯る赤いライトが、見ているだけで不安を煽る。
柚希は入口で立ち尽くした。健太が飛び降りたのは、自分への心ない罵倒を止めるためだと知っていたからだ。
柚希は、健太を守れなかった自分を責め、胸が押しつぶされるような痛みに襲われた。
医師がマスクを外すと、事務的な口調で支払いをするように促した。
「息子は、どうなりましたか?」
柚希の顔には疲れが滲み、まるで魂の抜けた人形のようになっていた。
医師は小さく溜息をつくと、告げた。
「足の骨折があり、腕の傷が開いてしまっています。まずは支払いの手続きを済ませてください」
支払い窓口へ向かった柚希は、そこで偶然にも雅臣を見つけた。
「健太の様子を見に来てくれたの?」
遥香が割り込んで言った。「いいえ、私はこの楽譜について分からない所があって……神谷先生が親切にも、ついでだからと柚希さんに聞くよう連れてきてくださったんです」
遥香は雅臣の弟子だが、問題があるなら彼に聞けばいいのに、なぜわざわざ自分を通すのか?
遥香が楽譜を差し出した。柚希が目を落とした瞬間、体中の血が凍りついた。
それは、自分が結婚する前に作った最後のピアノ曲だった。自分にとって宝物であり、家の金庫に隠して誰にも公開したことのない作品だった。
「誰が金庫を開けていいと言ったんですか!」柚希は激昂して手を振り上げたが、遥香に当たる前に、その手は雅臣に力任せに止められた。
「俺が許可した」雅臣は手を離した。「君は俺の妻だ。君の全て、持ち物も、俺がどう扱うか決める権利がある」
雅臣には、勝手に自分の私物を漁る権利なんてない。正妻である自分に、愛人へ自分のすべてを教えろと言うのか?
雅臣の影から顔を出した遥香が、「それじゃあ、よろしくお願いします」と嫌味な笑みを浮かべる。
雅臣の手が緩んだ隙をつき、柚希は溜め込んでいた怒りを爆発させ、今度こそ遥香の頬を強く打ち据えた。
廊下に乾いた音が響き渡る。
「雅臣、死んだとしても、この女には絶対に教えない!」
遥香の顔に赤い掌の跡が浮き上がった。雅臣の冷徹な視線が落ちる。
「俺の女に手を出したのか?こいつを連れていけ。言うことを聞くようになるまで躾けてやれ」
控えていたボディーガードが命令を受け、無理やり柚希を床に膝突かせた。
「奥様、お許しを!」
柚希は抵抗する術などなかった。何回平手打ちを受けたのか、その痛みに耐えきれず、思わず弱々しい泣き声が漏れた。
「分かったわ……入江さんに教えるから」
雅臣の合図で解放されると、柚希はその場にぐったりと崩れ落ちた。
雅臣が柚希の姿を見下ろした。瞳の奥には、かすかに後悔にも似た光がよぎる。
「君の楽譜を遥香が弾くなんて、その楽譜にとっても君にとっても光栄なことだ。
家に閉じこもって育児ばかりしていると、才能も埋もれていくぞ。遥香が、古いものを世に出すチャンスをくれたんだ」
雅臣は低く言い放った。
「健太の治療費は全部俺が持つ。家の家政婦は解雇したから、明日からは生活費を稼ぐ代わりに、飯炊きと曲の指導をしっかりやるように。君が言う通りにすれば、健太の治療も保証してやる」
柚希には、反論の言葉さえ残されていなかった。
雅臣は冷徹なまでにその弱点を握っている。我が子のために、柚希は屈するしかなかった。
第5話
遥香に楽譜を教えるのは、思っていた以上に大変だった。
遥香はいつも深夜3時に柚希の部屋のドアを叩き、楽譜の質問攻めにしてくる。
これ以上は無理だと、柚希は雅臣に伝えたこともあった。
雅臣は明らかに遥香を擁護し、冷たく言った。「若いんだから、夜遅くまで頑張るのは悪いことじゃない。なんで教えてやらないんだ?」
柚希のひどい目の下のクマなど、雅臣の視界には入っていなかった。
柚希は胸のつかえを感じながら言った。「私のことはどうでもいいの?毎日病院と家の往復で、夜くらいゆっくり休ませてよ」
「君の要領が悪いだけだ。言い訳をするな」
雅臣は吐き捨てる。「基本的な手ほどきだけでいい。あとは俺がコネを使って、審査で遥香が選ばれるようにしておくから」
コネ?雅臣は分かっていない。彼の人脈はすべて、この数年間、柚希がすべて陰で支えてきたものだからだ。
高慢で無口な雅臣は業界で孤立しやすかった。だから柚希は毎回、自分の時間を削って彼に代わって根回しに奔走した。
高級な贈り物を手配したり、急な用事があれば子供の迎えまで代行した。すべては雅臣のため。柚希は一度も自分の手柄だと彼に語ったことはなかった。
柚希の思考を遮るように、雅臣が一枚のチケットを押し付けた。施しのような態度だ。
「明日は、俺が引退する前の最後の公演だ。チケットはもうほとんど残っていないが、君の分だけは取っておいた」
この数年、雅臣のステージに柚希が足を運ばなかったことは一度もない。
けれど今、ひどく心が疲れていた。
書斎を出たところで遥香と鉢合わせし、柚希はわざと彼女の目の前でそのチケットをゴミ箱に捨てた。
その後、書斎で遥香が雅臣と何を話したのか。柚希にはもう、知る由もなかった。
翌日、健太の見舞いを終え、帰宅したのは夜の7時だった。
静かだったはずの自宅の敷地内が、雅臣のファンで溢れかえっている。彼らは抗議の声を上げながら、門を突き破ろうとしていた。
柚希に不吉な予感が走る。この時間、本来なら雅臣のステージの真っ最中のはずだ。
雅臣に電話をかけようとしたその時、柚希はふとスマホの検索トレンドが目に留まった。30分前に流れたばかりの情報だ。
それは雅臣スタジオの公式声明だった。
【妻の強い要望による旅行のため、やむを得ず本日の公演を欠席します。関係者の皆様に深くお詫び申し上げます】
電話が繋がると、山を渡る風の音と、楽しげなスキーの滑走音が聞こえた。
「もしもし?」雅臣の声は拍子抜けするほど穏やかで、緊張感もなかった。
「どこにいるの?家がファンたちに囲まれて大変なことになってるのよ!それに、あの声明はどういうこと?」
雅臣は冷静に答える。「遥香がスキーに行きたいと言ったんだ。公演を頑張った彼女へのご褒美だ。断る理由はないだろう?」
「だからって、あなたたちの尻拭いを全部私に押し付ける気?」
「そうだよ」と雅臣は当然のように言った。
「安心しろ。俺の顔を立てて、彼らも君をそう厳しくは追及しないさ」
「雅臣、どうして私を身代わりにしたの?」
言葉が終わらないうちに、ガチャンと非情な音を立てて通話が切れた。
もうこの場所に留まれないと悟った柚希だったが、敷地を出ようとした瞬間、待ち伏せしていたファンたちに囲まれてしまった。
第6話
「奥さん、なぜそんなに自分勝手なんだ?神谷さんの引退公演が、あなたの我儘で台無しだぞ!」
「神谷さんは今まで一度も穴を開けたことがなかった。あなたが無理やり引き止めて遊びに行かなきゃ、欠席するなんてあり得ないだろ!」
「前の空港での動画を見て、てっきり気の毒な人だと思って庇ってあげたのに……本当の悪魔はあんたの方ね!なんて最低な人間なの!」
「神谷さんはどこ?今すぐ神谷さんを出してよ!会わせなさいよ!」
柚希が反論する隙もなく、暴走した熱狂的なファンたちが雪崩れ込んできた。髪を掴まれ、顔を爪でひっかかれた。
さらには服を乱暴に破られ、その惨めな姿をスマホのレンズが執拗に狙い続ける。
柚希は必死で人垣を這い出したはずが、再び引きずり戻され、容赦のない暴力を一身に浴びた。
際限のない悪意の中で、激痛が全身を駆け巡る。限界を超えたところで意識が途絶え、柚希はその場に倒れ込んだ。
再び目が覚めた時、視界に入ったのは病院の殺風景な天井だった。
鼻を突く消毒液の匂い。この匂いが嫌いで、柚希は思わず眉をひそめた。
「切り傷など外傷はありますが、深刻な状況ではありません。暴行罪で立件可能な案件ですが、警察に届け出ますか?」
医師の言葉を耳にしたところ、柚希は完全に意識を取り戻した。
すると、枕元で雅臣の淡々とした声が響いた。
「警察沙汰にはしないでください。相手は感情的になっていただけで、自分のファンなんです。軽い鬱憤晴らしでしょうから、大事には至りません」
雅臣はそう言うと、無意識に柚希を覗き込んだ。その瞳の奥には、彼自身も気づいていないような焦りがあった。「他に痛むところは?」
「消えて」と、柚希はそれだけを絞り出した。
医師たちが気まずそうに去り、病室には雅臣と柚希だけが残された。柚希は顔を背け、雅臣と視線を合わせようともしなかった。
雅臣は背筋を正し、冷めた口調で切り出した。
「柚希、もうその芝居はやめにしないか?
ネットの動画は見た。メディアを使って自分を被害者に見せかけ、偽りの演出をしていたんだな。
体の傷だって、どうせ俺の気を引くための自作自演だろう?そんな汚い手で俺の関心を引きたいのか?いい加減その遊びは終わりにしてくれ」
雅臣はあまつさえ憐れむような響きを滲ませた。「こうして見舞いに来てやってるんだ。これ以上に何を望むんだ?」
柚希の脳裏に過去の記憶が蘇った。熱を出したとき、雅臣が薬を持ってきてくれたこと。たったそれだけの優しさが嬉しくて、何日も胸の中で反芻していた。
雅臣がほんの少しだけ優しくすれば、自分は過去のすべての苦しみなど忘れなければならないのだろうか?
沈黙する柚希に苛立ったのか、雅臣は袖口を乱暴に整えると、席を立った。
「退院の手続きをしておくように。明後日は遥香の二度目の公演がある。あれは彼女にとって何より大切な舞台なんだ」
柚希が横向きになると、頬を伝った涙がゆっくりとこぼれ落ち、枕を濡らした。
雅臣という男には、もう懲り懲りだ。愛することなど、とうに諦めていた。
雅臣の命令に従うこと。ただそれだけだ。
その夜、激痛をこらえながら、柚希は一人で退院手続きを済ませた。
柚希は感情が麻痺したまま、雅臣が差し向けた車に乗り込んだ。その瞳には、かつてのときめきは微塵も残っていなかった。
冷え切った絶望の最中で、ふと手の中のスマホが震えた。弁護士からのメッセージだった。
【離婚手続きが完了いたしました。元旦那さんとの婚姻関係は一切ございません】
次の瞬間、柚希の瞳から絶望が消え、解放感が静かに広がっていった。
第7話
柚希は傷だらけになって家に帰った。しかし、雅臣と遥香の反応は思った通り冷たいものだった。
「柚希さん、本当にごめんなさい。私がどうしてもスキーに行きたくて。責めるなら神谷先生じゃなくて、私を責めてください。
柚希さんはただの主婦だし、評判なんてどうでもいいですよね。でも私や神谷先生のキャリアに傷がついたら大変だし、怒ったりはしませんよね?」
自分に怒る資格など、あるわけがなかった。
雅臣にとって、自分は遥香を引き立てるただの引き立て役にすぎない。柚希はもう何もかもがどうでもよくなっていた。どうでもいい人に怒るなど、無意味なことだ。
そう言う間にも、雅臣が近寄ってきた。手には消毒液と綿棒を持っている。
「痛いか?」
雅臣は少し腰をかがめて柚希の手を取ろうとしたが、彼女は冷ややかにそれを避けた。
「必要ない。さっさとピアノの練習を始めて」
雅臣は視線が少し揺らぎ、伸ばしかけた手をきまり悪そうに引っ込めた。
彼は思った。最近、自分は柚希に少し厳しくしすぎたのではないだろうか?
遥香の二度目の公演が終われば、自分から謝るつもりだ。そうすれば丸く収まるだろう。
立ち去る柚希の後ろ姿を見つめながら、雅臣は何かおかしいと感じていた。
だが、遥香のステージが間近に迫っている。雅臣は深く気にするのをやめた。
遥香はピアノの鍵盤に手を置き、挑発的に言った。
「柚希さん、神谷先生の奥さんでいるのがどれだけ大変か、分かりましたか?先生は私のことを大切に思っているから、今まで離婚の話をしなかっただけですよ。本当なら、柚希さんはとっくに用済みなんですから。
私たち、一緒にスキーやバンジージャンプもしたんですよ」遥香はスマホで写真を見せた。「先生がこんな風に笑うところ、一度も見たことがないでしょう?」
確かに、一度も見たことはなかった。
けれど、どうでもいい。
柚希が思い通りに取り乱さないのを見て、遥香は逆にいら立った。鍵盤に両手を強く押しつけ、騒々しい音を響かせた。
「思い知らせてあげます。神谷先生が好きなのは、平穏な家庭じゃなく、いつも刺激を与えてくれる私のほうです」
……
いよいよ公演当日、柚希は無理やり雅臣に付き合わされて会場へと向かった。
本番前夜、柚希は購入した航空チケットを凛斗に送信した。
スマホのアプリを開き、そのデータも凛斗へと転送した。
すると凛斗からも、別のチケット情報が届いた。
【なぜ東都に戻ってくる?】
【もし急な変更があったら困るからね。今夜、柚希と健太くんを迎えに行く。健太くんの病室に変更はないかい?】
【ないよ。ありがとう、凛斗】
そのとき、演奏していた遥香が審査員から急に止められた。
「入江さん。その譜面は周防仁(すおう じん)さんの『深海の残響』と酷似しています。審査委員会の判断により、あなたの出場資格を取り消します。また、法的措置についても検討を進めます」
会場全体が凍りついた。最悪の場合、裁判で刑務所に入ることになるかもしれない。
「お待ちください」静寂を切り裂いて雅臣が進み出た。彼は瞬時に隠蔽を画策し、柚希の腕を強引に引いて審査員の元へと歩き出した。
「入江さんは無関係です。出場資格は奪わないでください。曲を書いたのは、妻の柚希ですから。
盗作をしたのは妻です。追放されるべきなのは、妻のほうです」
柚希は強引に掴まれた腕を振り払った。「絶対にそんなことしてない!」
そして舞台へと駆け上がり、楽譜を確認した。しかし、一ページ目を開いた瞬間に手が止まった。誰かの手で改ざんされているのは明らかだった。
「あなたが書き換えたんですね?」柚希は遥香を睨みつけた。
「柚希さん、私が受け取ったときには、もうこうなっていたんです!濡れ衣なんて、まっぴらです!」
そう言った直後、遥香は柚希にだけ聞こえる声で囁いた。
「ええ、私がやりました。けど、証拠なんてないでしょう?今度こそ牢屋に入って、神谷家を追い出されることになりますね。
神谷先生は私のものですよ。これからも、ずっと私の味方なんですから」
柚希は乱れる息を整えながら、審査員の前に進んだ。「楽譜を書いたのは私ですが、決して盗作していません!自宅にバックアップが……」
言葉の途中で、雅臣の冷徹な声がそれをさえぎった。
「柚希、逃げるばかりじゃなく、やったことの責任はきちんと取れ。
楽譜を盗作したのは君だ。今日の今日まで遥香をハメようとして、彼女を陥れようとしていたんだろう?本当にひどいやつだ」
柚希は驚愕で言葉を失った。この世界で、盗作をしないのは当たり前のモラルだ。まさかそれを雅臣に信じてもらえないなんて。遥香を守るためなら、自分を一生業界から締め出してもいいと考えているのだ。
「雅臣、長年連れ添いながら、一度も私を信じてくれなかったわね。あなたとの結婚なんか、死ぬほど後悔している!最初から結婚しなければよかった!」柚希は張り裂けるような声で訴えた。
崩れ落ちるようなその表情に、雅臣は心の中で狼狽を感じた。しかし、頑なに告げた。
「この曲がどういうものなのか、君も十分理解しているはずだ」
雅臣はそのまま審査員へと視線を戻した。「夫として、妻の愚行を止められなかった責任は私が負います。業界へのけじめをつけるためにも、私自身の手で警察へ引き渡します」
柚希は呆然と見上げた。「あなたも譜面を見たでしょう?明らかに入江さんが書き換えたのに。それなのに……」
「黙れ、ここまで来てもまだ遥香に濡れ衣を着せようとするか?」雅臣の顔に失望の色が滲んだ。
「心底がっかりしたよ。
安心しなさい。すべてが終わったら、迎えに行ってあげるから」
柚希はただ寂しそうに微笑んだ。こうなるのはずっと前から知っていたのだ。雅臣は最初から、自分のことなんて信じてなどいないと。
柚希は警備員たちに羽交い締めにされ、退場させられ、もはや抵抗する気すら起きなかった。これから自分の身に何が起ころうと、すべてはどうでもよくなった。
乱暴に車に押し込まれると、そこに健太が乗っていることにようやく気づいた。
「ママ、早く乗って!凛斗さんが助けに来てくれたよ!」
凛斗のこれほどまで行き届いた手配を、柚希は全く想像すらしていなかった。
彼女の目から涙があふれた。この3年ものあいだ、自らが囚われ続けたこの街を最後に見つめ、未練などはもう微塵もなかった。柚希はすぐにシートベルトを締めた。
車はスピードを上げ、土煙を巻き上げてその場から立ち去った。