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色を奪ったあなたへ、さようなら
御影樹(みかげ いつき)は、私が明るい色の服を着るのを嫌がった。 派手な色は安っぽい。自分まで安く見られる。 そう言われていたから、結婚...
Chương (1)
第1章
御影樹(みかげ いつき)は、私が明るい色の服を着るのを嫌がった。
派手な色は安っぽい。自分まで安く見られる。
そう言われていたから、結婚して六年。
私のクローゼットには、黒と白とグレーの服しかなかった。
一度だけ、違う色を着たことがある。
樹が新鋭画家賞を受賞した日だった。
私は、初めて彼に会った日に着ていた小花柄のワンピースを選び、オーダーメイドの小さなケーキを手に、お祝いに向かった。
「脱げ。じゃなきゃ、俺の車には乗せない」
その場にいた人たちが、一斉に私を見た。
笑っていた顔が、今にも崩れそうになる。ケーキの袋の持ち手が、手のひらに食い込んで痛かった。
「樹、帰ってから話そう?」
けれど彼は、何も言わずに車を出した。
その日は、ひどい雨だった。
樹は一度も振り返らなかった。知らない街に、雨の中、私を置いていった。
……
そして、カラフル・マラソンの取材に行った日。
私は、一組のカップルに声をかけた。
二人が顔を上げる。
樹と、彼の幼なじみの森美詩(もり みう)だった。
美詩は楽しそうに話しながら、小花柄のワンピースの裾を揺らしていた。
まるで蝶みたいに、樹のそばで軽やかに笑っている。
私は目を伏せた。
黒ずくめの自分が、視界に入る。
なるほど、安っぽかったのは、色じゃなかった。
私だった。
第1話
御影樹(みかげ いつき)は、私が明るい色の服を着るのを嫌がった。
派手な色は安っぽい。自分まで安く見られる。
そう言われていたから、結婚して六年。
私のクローゼットには、黒と白とグレーの服しかなかった。
一度だけ、違う色を着たことがある。
樹が新鋭画家賞を受賞した日だった。
私は、初めて彼に会った日に着ていた小花柄のワンピースを選び、オーダーメイドの小さなケーキを手に、お祝いに向かった。
「脱げ。じゃなきゃ、俺の車には乗せない」
その場にいた人たちが、一斉に私を見た。
笑っていた顔が、今にも崩れそうになる。ケーキの袋の持ち手が、手のひらに食い込んで痛かった。
「樹、帰ってから話そう?」
けれど彼は、何も言わずに車を出した。
その日は、ひどい雨だった。
樹は一度も振り返らなかった。知らない街に、雨の中、私を置いていった。
……
そして、カラフル・マラソンの取材に行った日。
私は、一組のカップルに声をかけた。
二人が顔を上げる。
樹と、彼の幼なじみの森美詩(もり みう)だった。
美詩は楽しそうに話しながら、小花柄のワンピースの裾を揺らしていた。
まるで蝶みたいに、樹のそばで軽やかに笑っている。
私は目を伏せた。
黒ずくめの自分が、視界に入る。
なるほど、安っぽかったのは、色じゃなかった。
私だった。
「あれ、紗和じゃん!」
美詩は笑いながら、樹の腕に絡めた手にさらに力を込めた。
「紗和、悪いのは樹だよ。今回の優勝賞品、私へのプレゼントにするって言い出してさ。私が甘やかしすぎたから、こんなことになっちゃった」
今回のマラソンは、カップル向けのイベントだった。
優勝賞品は、二人だけの刻印を入れられるプラチナリング。
私は、樹の手元に目を落とした。
いつもどおり、そこには何もない。指輪の痕すら残っていなかった。
一方で、私の指には、結婚指輪がぽつんとはまっている。
六年ものあいだ、ほとんど体の一部みたいになっていたはずのそれが、今は妙に指に当たった。
胸の奥に湧いた違和感を飲み込み、私はなだめるように笑った。
「今回はカップル取材なので、こちらは――」
美詩が歓声を上げ、樹の腕を揺らした。
「私、出たい!」
樹は眉をひそめた。
それでも最後には、彼女を甘やかすように笑う。
「仕方ないな。少しだけ付き合ってやる」
私も、どうにか笑顔を作った。
付き合っていた頃から、カラフル・マラソンのゴールでキスをしたカップルは一生幸せになれる、という話を聞いていた。
でも樹は、人混みが好きじゃないと言った。
私のことを、子どもっぽすぎるとも言った。
だから私は、物分かりのいいふりをして、その話をしなくなった。
六年かけて、自分をモノトーンに染めながら。彼は芸術家だから。人に合わせないのも、彼らしさなのだと。そう、自分に言い聞かせていた。
今になって、ようやく分かった。
彼が折れるのは、いつだって美詩のためだけだったのだ。
「御影紗和(みかげ さわ)、始めてくれ」
また、その呼び方。
姓も名もつけて呼ばれるたび、私たちは同じベッドで眠っているだけの他人なのだと思い知らされる。
何度もこなしてきた相性クイズだった。けれど今回だけは、質問を重ねるほど、顔から血の気が引いていった。
どうして彼が毎年、私がアレルギーを起こす白いバラを誕生日に贈ってきたのか。
どうして家にまるで合わないピンクのバス用品一式を、置いたままにしていたのか。
どうして寝るときのアイマスクが、妙なキャラクター柄だったのか。
私は深く息を吸い、震えそうになる声を押さえ込んだ。
「おめでとうございます。お二人の相性度は100%です」
一刻も早く、取材を終わらせたかった。
けれど、美詩に引き止められる。
「紗和、カップル取材なのに、お決まりの祝福コメントとかないの?」
私は一瞬、固まった。
思わず樹を見る。
彼は顔をそむけ、私の視線から逃げた。
私は目に滲んだものを瞬きで押し戻し、一言ずつ、私の夫とその幼なじみを祝福した。
「どうぞ、末永くお幸せに」
取材は終わった。
樹はそのときになって、ようやくまずいと思ったらしい。
「紗和、美詩はそういう性格なんだ。気にするな」
なのに、私は少し笑いたくなった。
樹は昔から、言葉の少ない人だった。結婚式の誓いの言葉さえ省いた。
雷が怖くて彼の腕の中で震えていたときも、浅く息をするだけで、「怖がるな」の一言すらくれなかった。
その彼が、私に向けて言った一番長い言葉が、幼なじみをかばうためのものだなんて。
「やだ、紗和って本当にプロ意識ないんだね」
我に返ると、美詩が露骨に嫌そうな目で私を見ていた。
「こんなにださい黒いスーツで取材に来るだけでもどうかと思うのに、マラソンにもついて走らないなんて。そんなので、いい記事なんか書けるの?」
私が反応するより早く、彼女は突然、私を突き飛ばした。
ハイヒールでは踏ん張れず、私はコースの内側に倒れ込んだ。
全身にカラーパウダーを浴び、足首もひねってしまう。
地面に倒れたまま、痛みに息をのむ。
舞い上がった粉で、さらに咳き込んだ。
カメラマンに助け起こされた頃には、美詩はもう樹を引っ張って、遠くへ走っていた。
「早く走って!優勝できなくなっちゃう!」
風に乗って、樹の甘い声が届く。
「まったく、いたずらっ子だな」
カメラマンが水を差し出し、大丈夫かと尋ねてくれた。
私は痛みで滲んだ涙をさりげなく拭い、カメラに向かって笑った。
「大丈夫です。私が足を滑らせただけです」
スマホが震えた。
樹からのメッセージだった。
【きれいにしてから戻ってこい】
目の奥が熱くなる。
私は【わかった】と返した。
一日分の取材を終える頃には、私はすっかりみすぼらしい姿になっていた。
ハイヒールを手に提げ、ドリンクショップの前を通りかかる。
【二杯目半額】
ふと、前にもそれを買ったことを思い出した。
褒めてほしくて差し出したのに、最後には樹に中身をトイレへ流された。
私は口元をかすかに歪め、角を曲がった。
そこで、樹と美詩が同じドリンクを手にしているのが見えた。
期待に満ちた美詩の視線を受けて、樹は笑いながら、彼女の鼻先を軽くつつく。
「けっこううまい」
その光景を見て、私は妙にすとんと腑に落ちた。
これが普通なのだ、と。
私は静かに視線を外し、その場を離れた。
ホテルでシャワーを浴びてから家に戻り、樹のアトリエの扉を叩いた。
「薬、塗ってくれない?」
中からは、筆がキャンバスを走る音がした。
返事はない。
私はため息をつき、自分で薬を塗った。
夜になっても、樹はアトリエにこもったままだった。
私は布団の中で体を縮め、魂まで砕かれそうな雷鳴を聞いていた。
ふいに、隣が沈む。
誰かが布団越しに私を抱き寄せた。
樹は何も言わなかった。
ただ、私の背中を軽く叩くだけだった。
私は布団から顔を出した。風のように軽いキスが、額をかすめる。
「お前の会社の取材、受けることにした」
私の目がぱっと明るくなった。
けれど、まだ何も言わないうちに、彼は続けた。
「今日、美詩がしたことがネットに出たら、いろいろ言われる。
美詩は子どもっぽいところがある。お前が大人の対応をしてくれ。
取材のマスター映像を持ち帰ってこい」
珍しく長い言葉。珍しく優しい態度。
結局、それも美詩のためだった。
私は自嘲するように口元を引き、なぜかまた足首が痛み出した気がした。
「記事の本数が足りなかったら、私、クビになるかもしれない」
樹の目は静かだった。
彼は手を伸ばし、私の耳にかかった髪をそっと整える。
「だから、お前の会社の取材を受けると言ってる」
私は樹を見つめた。
その目も、見慣れてしまえばどうということはないのだと、ふと思った。
私は承諾した。
樹の新作を取材できれば、昇進は難しくない。
取材当日、私は現場へ急いだ。
だがそこには、同じ会社のライバル、藤沢瑛里(ふじさわ えり)もいた。
第2話
彼女は、鮮やかな青いワンピースを着て、マイクを整えていた。
私が声をかけるより早く、樹はうなずいた。
「藤沢さん、始めてください」
樹は口数こそ少ない。けれど、どの記者が相手でも見栄えのする記事が書けるだけのことは、十分に話していた。
ただ、その向かいに座っている記者は、私ではなかった。
私は壇下に立ったまま、黒いスーツに包まれた自分を見下ろした。
それから、樹の向かいにある鮮やかな青へと目を移す。
卒業した年。
将来に迷っていた私を、彼はこう慰めてくれた。
「何を心配してるんだ?俺が有名な画家になったら、お前が俺を取材すればいい」
あのとき、私は顔を上げた。
彼が身をかがめ、私にキスをする。
シャッターが一度光った。
その卒業写真には、彼の嘘まで写り込んでいた。
取材が終わると、私は樹の袖口を掴んだ。
問いただしたかったのは、今日のことなのか。それとも、あの日の約束なのか。自分でも分からなかった。
「私が取材するって、約束したよね?」
樹の表情は変わらない。
私を見る目は、淀んだ水面みたいに静かだった。
結婚して六年。
私は、その目が何を意味するのか、嫌というほど知っている。
家を出て、鍵を忘れたとき。
彼がどこにいるのか分からなくて、私だけが焦って汗だくになったとき。
彼の乗った飛行機が無事に着いたか心配で、夜中まで眠れなかったとき。
樹はいつも、その目をしていた。
どこか他人事みたいに、私を物分かりの悪い女だと責める目。
でも、彼は知らない。
私が彼を好きになったのは、その目のせいだった。
名もない小さな展覧会だった。
片隅に、一枚の絵が飾られていた。
私がその絵に見入っていると、彼が尋ねた。
「その絵、好き?」
振り返った私は、彼の瞳に宿る星の光にぶつかった。
そこから、もう引き返せなくなった。
今、その光は消えている。
私の声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。
「新作の予告が必要なの。そうじゃないと、私、クビになるかもしれない」
樹は眉を上げた。
その声は、氷水みたいに冷たかった。
「予告なら、もう彼女に話した。
クビになるなら、お前の能力不足だ」
樹は、私が握って皺になった袖口を整えると、一度も振り返らずに歩き去った。
胸の奥から冷たさが広がっていく。けれど、それに構っている余裕なんてなかった。
私は彼の車の前まで走った。
「会社まで送って。事情を説明しなきゃ。まだ間に合うかもしれない」
樹は、助けを求める私の目を見た。
そして首を横に振り、私の服の裾を指さす。
私は呆然として、視線を落とした。
いつの間にか、そこには青い絵の具が少しだけついていた。
「たぶん、家でついたんだと思う。今すぐ拭くから――」
そう言って拭いている途中で、エンジン音が少しずつ遠ざかっていった。
ぼんやりと、あの雨の日に戻ったような気がした。
置き去りにされた、あの日に。
でも今度の私は、顔を上げなかった。
ただ手を止め、ため息をついた。
急に、ひどく疲れた。
六年間ずっと我慢してきた、この結婚生活にも。
何をするにも気を遣ってしまう自分にも。
いつも彼の顔色ばかりうかがっていることにも。
全部、疲れた。
もう続けたくなかった。
私が会社に着いた頃には、瑛里の記事で決まっていた。
樹の新作のテーマは『永遠の愛』。
そして、その着想の源は、小花柄のワンピースを着た少女だった。
その瞬間、彼がキャンバスの裏に書いていた【MU】の意味が腑に落ちた。
美詩。そして、ミューズ。
だからあの日、彼はあんなに怒ったのか。
扉を指さして、出ていけと言ったのか。
私は自分から退職届を出し、海外企業からのオファーを受けることにした。
会社を出ると、空から細い雨が降り始めていた。
スマホに、銀行から誕生日を祝うメッセージが届く。
【お誕生日おめでとうございます】
それを見て、ようやく思い出した。
大学時代、樹が私にラブレターを書いてくれたことがある。
手紙には、私の誕生日を毎年祝いたいと書いてあった。
一年目は、レストランで誕生日を祝う。
二年目は、海辺で花火を見る。
そして今年は、遊園地へ行く。
そんな約束が並んでいた。
けれど、彼の約束は結婚してから、すべて白いバラに変わった。
今ではもう、誕生日の朝に抗アレルギー薬を一錠飲み、彼から白いバラを受け取って、「ありがとう」と言うことにも慣れてしまった。
会社を離れ、遊園地の前を通りかかったところで、私は足を止めた。
アレルギーの出ない誕生日を、自分にあげてもいいかもしれない。
思いきり遊び回ったあと、最後に小物を少し買って帰ろうとした。
「樹、これ、かわいい?」
第3話
私は聞こえなかったふりをして、気に入ったウサギのぬいぐるみを手に取った。
そのまま店を出ようとする。
「紗和!」
手首を、樹に掴まれた。
彼は私の目を見て、一瞬だけ動きを止める。
「お前……なんか変じゃないか?」
「そう?」
樹は何か言いかけた。
けれど、手に込める力はさらに強くなる。
痛みに顔をしかめた瞬間、美詩が私の手からぬいぐるみを奪い取った。
「これ、かわいい!紗和、私のものを奪ったんだから、これくらい譲ってよ」
「美詩、いたずらしないで、それは彼女が先に取った――」
樹はぬいぐるみを取り返し、私に渡そうとした。
「いいよ」
樹は怪訝そうに私を見る。
私は笑った。
「美詩にあげて。ちょうど、私もいらなくなったところだから」
言い終えた直後、美詩は樹の腰に両腕を回して抱きついた。
「紗和って太っ腹。じゃあ、これも譲ってくれる?」
「ふざけるな!」
樹の目が、ほんの一瞬だけ慌てたように揺れた。
彼は、腰に絡みついた美詩の腕を外そうとする。
私は、二人のペアリングが照明の下できらきら光るのを見つめていた。
そして、樹が唯一、結婚指輪をはめた日のことを思い出す。六年前の、結婚式の日だ。
前に一度、どうして指輪をしないのかと聞いたことがある。
彼は、指輪をしていると絵が描きにくいと言った。
私は六年間、それを信じていた。
「持っていけば」
樹の動きが、ぴたりと止まった。
顔色を沈ませ、にこにこと笑う私の目を見る。
私は踵を返した。
「譲るわ」
ギフトショップの入り口に立つと、雨はもう本降りになっていた。
「紗和、お前どうした?」
私は振り返り、雨の幕を見つめた。
もう愛していないだけだとは、言わなかった。
美詩が小さく身を震わせた。
「樹、寒い」
樹は上着を脱いだ。そして、私のむき出しの腕を一度だけ見る。
私は、好きにすれば、と目で示した。
彼は満足げにそのまま美詩の肩に上着をかけた。
「雨が強くなってきた。先に美詩を送ってから、迎えに来る」
私はうなずいた。
二人が一枚の上着をかぶり、雨の中へ走っていくのを見送る。
美詩の家は、ここから車で十分ほどの距離にある。
私はハイヒールのまま、一時間半待った。
送ったメッセージには、ひとつも返事がなかった。
「お客様、そろそろ閉店のお時間です」
仕方なく、私は大雨の中へ踏み出した。
自分に言い聞かせる。これが、彼に雨の中へ置き去りにされる最後だ。
タクシー乗り場へ向かう途中、私は不意に転んだ。
膝が擦りむけた。
治りきっていなかった足首の傷も、またじくじくと痛み出した。
タクシーに乗り込めた頃には、もう十一時になっていた。
運転手は何度も首を振った。
「お客さん、こんな天気の日は、早めにお帰りになったほうがいいですよ。せめて旦那さんに電話して、迎えに来てもらうとか。
膝もそんなに擦りむけて……見ているこっちがひやひやしますよ」
私はくしゃみをして、どうでもよさそうに笑った。
「離婚したんです」
「そんな大きなダイヤの指輪をしていらっしゃるのに?またまた、ご冗談を」
私は指輪を外し、バッグの外ポケットに放り込んだ。
「偽物です。遊びで買っただけ」
足を引きずりながら車を降り、私は用意しておいた離婚届を取り出す。
丁寧に皺を伸ばし、バッグの一番奥にしまった。
家には誰もいなかった。
私はシャワーを浴び、荷造りを始めた。
クローゼットいっぱいのモノトーンの服を見て、今さらのように思い出す。
昔のクローゼットには、かわいいワンピースがぎっしり詰まっていた気がする。
色だって、もっと明るかった。
私はずいぶん長いあいだ、自分自身を置き去りにしていたのだ。
六年分の日々も、畳んでしまえば二十インチのスーツケースひとつに収まる。
引き出しを開けると、そこにあったはずの赤いマフラーが消えていた。
家中をひっくり返して探しても見つからない。
樹にも連絡がつかなかった。
ドアが開いた。
樹は髪から水を滴らせ、ぞっとするほど暗い顔をしていた。
「私のマフラーは?」
「何のマフラーだ」
私は深く息を吸い、胸の中の怒りを押さえ込んだ。
「母が編んでくれた、あの赤いマフラー」
「美詩が持っていった」
私は冷たく笑い、上着をつかんで美詩の家へ向かった。
美詩の目に、一瞬だけ後ろめたさがよぎる。
「マフラーなんて知らないよ。紗和が自分でなくしたんでしょ?」
その背後で、猫が赤い毛糸玉を転がしていた。
引っかかれ、噛まれた跡が、無数についている。
胸が大きく震えた。
私は部屋の中へ駆け込んだ。
そのマフラーは、母が重い病に倒れる前、残った力を振り絞って編んでくれたものだった。
母は亡くなるとき、こう言った。このマフラーと樹がいれば、あなたの人生にも寄りかかれるものがある、と。
でも今、マフラーは毛糸玉になっていた。
樹も、変わってしまった。
私は毛糸玉を拾い上げる。ぼろぼろになった毛糸を撫で、元に戻そうとした。
でも、どうしても直らなかった。
樹が追いかけてきた。疲れたような声だった。
「ただのマフラーだろ。
また何を騒いでる。
美詩の代わりに俺が謝ればいいんだろ?」
私は彼を見つめた。この男が、ひどく見知らぬ人のように思えた。
「これが母のたった一つの形見だって、あなたも知ってるでしょ!」
美詩は樹の背中に隠れ、不満そうに言った。
「こんなボロいマフラー、うちの子の爪とぎにしてあげただけありがたいと思ってよ!樹、甘やかさないで!」
怒りで全身が震えた。
私は手を伸ばし、美詩を引きずり出そうとした。
その瞬間、樹が私を突き飛ばした。
「少しは分別をつけろ!」
よろめいた私は、ローテーブルの角に脚をぶつけ、その場に崩れ落ちた。
足首はみるみる腫れ上がる。膝にできたばかりのかさぶたからも、血が滲み出した。
痛みの声を飲み込み、私は被害者ぶっている美詩を睨みつける。
樹は低い声で彼女をなだめてから、こちらへ歩み寄った。
私を起こそうと、手を伸ばしてくる。
その手が届く前に、私は彼の頬を打った。
樹はその場で固まった。
私は毛糸玉を抱きしめ、足を引きずりながら出ていった。
「紗和!樹を叩くなんて!」
「よせ、美詩。少し頭を冷やさせろ」
私はソファに座ったまま、一晩を過ごした。
手首に噛みつき、嗚咽が漏れないよう必死にこらえた。
樹は一晩中、帰ってこなかった。
朝の光がうっすら差し込む頃、私はスーツケースを閉じた。
署名済みの離婚届をテーブルに置く。
その隣に、結婚指輪も置いた。
搭乗前、樹にメッセージを送った。
【署名して。これ以上、私を失望させないで】
電話は、ほとんどすぐにかかってきた。
私は切った。
SIMカードを抜き、飛行機に乗った。