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愛して、離れて、もう振り返らない
人工妊娠中絶の手術室の前で、医師が白川詩乃(しらかわ しの)に諭すように言った。 「中絶は体への負担が大きいです。産める状況なのであれ...
Chương (1)
第1章
人工妊娠中絶の手術室の前で、医師が白川詩乃(しらかわ しの)に諭すように言った。
「中絶は体への負担が大きいです。産める状況なのであれば、できれば出産することも考えてみてください。もう一度、ご家族と相談されますか?」
詩乃はスマホを手に取り、鷹宮蓮司(たかみや れんじ)にメッセージを送った。
【病院にいる。子どもをおろすつもり】
返事はすぐに届いた。
【うん】
彼女がスマホの画面を医師に見せると、医師はそれ以上何も言わず、手術の準備に入った。
詩乃はその短い返事を見つめながら、ふと、自分がひどく哀れに思えた。
彼女はずっと、蓮司はただ淡々とした性格で、余計なことを言わない人なのだと思っていた。
けれど結婚して五年が経ち、ようやく気づいた。彼は感情に乏しい人間なのではない。ただ、持っている熱のすべてを、幼なじみの常盤安奈(ときわ あんな)に注いでいただけだった。
当然のように、詩乃に向けるものなど、淡々とした態度くらいしか残っていなかったのだ。
詩乃だって、何も言わずに我慢してきたわけではない。けれど蓮司はこう言った。
「俺と安奈は子どもの頃からの友達で、今は同僚でもある。彼女とは仕事で必要なやり取りをしているだけだ。それに、結婚生活なんてこういうものだろ。穏やかに、淡々と続いていくのが本物なんだ。腰を据えて暮らしていけば、それでいいじゃないか」
彼女は言い返せなかった。だから、彼のその淡々とした態度を受け入れようとした。
第1話
人工妊娠中絶の手術室の前で、医師が白川詩乃(しらかわ しの)に諭すように言った。
「中絶は体への負担が大きいです。産める状況なのであれば、できれば出産することも考えてみてください。もう一度、ご家族と相談されますか?」
詩乃はスマホを手に取り、鷹宮蓮司(たかみや れんじ)にメッセージを送った。
【病院にいる。子どもをおろすつもり】
返事はすぐに届いた。
【うん】
彼女がスマホの画面を医師に見せると、医師はそれ以上何も言わず、手術の準備に入った。
詩乃はその短い返事を見つめながら、ふと、自分がひどく哀れに思えた。
彼女はずっと、蓮司はただ淡々とした性格で、余計なことを言わない人なのだと思っていた。
けれど結婚して五年が経ち、ようやく気づいた。彼は感情に乏しい人間なのではない。ただ、持っている熱のすべてを、幼なじみの常盤安奈(ときわ あんな)に注いでいただけだった。
当然のように、詩乃に向けるものなど、淡々とした態度くらいしか残っていなかったのだ。
詩乃だって、何も言わずに我慢してきたわけではない。けれど蓮司はこう言った。
「俺と安奈は子どもの頃からの友達で、今は同僚でもある。彼女とは仕事で必要なやり取りをしているだけだ。それに、結婚生活なんてこういうものだろ。穏やかに、淡々と続いていくのが本物なんだ。腰を据えて暮らしていけば、それでいいじゃないか」
彼女は言い返せなかった。だから、彼のその淡々とした態度を受け入れようとした。
三か月前、道路を渡っていた詩乃が車にはねられるまでは。
地面に倒れたまま、意識が何度も遠のきそうになる中で、彼女は必死にスマホへ手を伸ばし、蓮司にメッセージを送った。
それでも蓮司から返ってきたのは、やはり「うん」の一言だけだった。
彼女は長い、長い時間待った。
通行人が救急車を呼んでくれるまで、処置室へ運ばれるまで、傷を縫われ、病室のベッドに横たわるまで、そして意識がはっきり戻るまで、彼女はずっと待ち続けた。
それでも、蓮司は現れなかった。
彼女は痛みに耐えながら安奈に電話をかけ、蓮司がなぜまだ来ないのか、途中で何かあったのではないかと尋ねた。
話を聞き終えた安奈は、ふっと笑い、軽い口調で言った。
「詩乃さん、蓮司くんなら今、私と一緒にいますよ。蓮司くんのアカウント、ずっと私の端末でもログインしているんです。メッセージの返信も私がしてます。ご存じなかったんですか?」
詩乃は全身が凍りついたように固まった。
安奈はなおも続けた。その声には、それが当然だと言わんばかりの響きがあった。
「蓮司くん、仕事がすごく忙しいじゃないですか。メッセージなんて全部見ていられないから、ずいぶん前から私の端末でログインしたままなんです。何かあれば私が返して、大事なことだけ蓮司くんに伝えています。詩乃さんが送ったものも全部見ていましたよ。大したことじゃないと思ったので、代わりに返しておきました」
詩乃の手が震え始めた。
つまり、この数年、詩乃が蓮司に送ってきた一通一通のメッセージを見ていたのも、返事をしていたのも、蓮司ではなかった。
安奈だったのだ。
そして蓮司は、最初から最後まで、彼女が何を伝えたのかさえ知らなかった。
安奈の声はまだ耳元で響いていた。甘えるような響きを帯びて。
「詩乃さん、もしかして怒ってます?そんなに蓮司くんにそばにいてほしいなら、戻って付き添うように、私から言ってあげましょうか?」
詩乃は何も言わず、慌ただしく電話を切った。
彼女はずっと、彼は忙しいだけなのだと思っていた。気持ちを言葉にするのが苦手なだけなのだと思っていた。
けれど本当は、蓮司は詩乃の言葉に目を通すことすらせず、最初から彼女への返事を別の女に任せきりにしていただけだった。
……
詩乃は病室のベッドに横たわり、顔には何の感情も浮かんでいなかった。
手術の途中、彼女は突然大量出血を起こし、血圧が急激に低下した。モニターがけたたましく鳴り響いた。
看護師が家族へ連絡するために飛び出し、蓮司の番号へ何度も電話をかけたが、誰も出なかった。
最後は執刀医が病院側に報告し、自ら責任を負う形で二時間以上にわたる救命処置を行った。そうして彼女は、ようやく死の淵から引き戻された。
目を覚ますと、病室はがらんとしていた。誰もいない。着信履歴すら一件もなかった。
それなのに、蓮司はつい先ほど、新しい投稿をしていた。
写真には、海辺でキャンプをする様子が写っていた。焚き火が揺らめき、安奈は目を細めて幸せそうに笑いながら、彼の肩にもたれていた。
二人の前には小さなケーキが置かれ、その上には、クリームで少し不格好な数字が書かれていた。
【10000】
添えられた言葉は、とても短かった。
【人生はたった三万日。その三分の一は、お前だ】
詩乃はその写真を見つめたまま、親指を画面の上で止めたまま、長い、長い間動かなかった。
ふいに、自分はいったい何にしがみついているのだろうと、分からなくなった。
この結婚生活は、あまりにも虚しかった。
最初から最後まで、彼女は独り芝居をしていただけで、客席では皆が、彼女を笑いものにして眺めていたのだ。
詩乃は彼のページを閉じ、メッセージを送った。
【疲れた。離婚しよう。午前0時までに返事がなければ、この関係は終わったものとみなす。私はもうあなたの邪魔をしない。選ぶのはあなた】
午後11時59分になって、ようやく画面上の蓮司の表示が「入力中……」に変わった。
詩乃は小さく笑い、相手をブロックした。
【まさか、あなたにチャンスをあげていたとでも思った?蓮司、私たちはもう終わりよ】
送信を終えると、彼女は別の番号へ電話をかけた。
電話がつながっても、相手は特に驚いた様子ではなかった。
詩乃は単刀直入に言った。
「あなたの勝ちよ。賭けに負けたんだから、あなたが出した条件を受け入れる」
電話の向こうでしばらく沈黙が続き、それから低い笑い声が聞こえた。
「一度裏切った男なんて、二度といらない。情が尽きたなら、捨てればいい。俺に対しても、同じようにしてくれて構わない。三日後にプロジェクトが片づく。迎えに行く」
第2話
経過観察のため入院し、数値が安定したのを確認してから、詩乃は退院した。
家に戻ると、珍しくリビングの明かりがついていた。
ドアを開けると、蓮司がソファに座り、仕事の書類に目を通していた。スーツの上着は肘掛けに無造作に掛けられていて、帰ってきてまだ間もないようだった。
物音に気づいた彼はちらりと目を上げ、書類を脇に置いた。
「安奈が、お前が病院に行ったって言ってた。何しに行ったんだ?」
「中絶してきたの」
彼女がそう言いかけたとき、蓮司のスマホが鳴った。画面に表示された名前は安奈。甲高く弾むような着信音が、彼女の声を完全にかき消した。
蓮司は着信を見るなり、目に見えて口元を緩めた。
電話を切ってから、ようやく詩乃に視線を戻し、何気ない調子で尋ねた。
「さっき、何て言った?」
詩乃は彼の落ち着き払った顔を見つめ、ふいに、もう何も言う気が失せた。
安奈は確かに、彼に伝えはするのだろう。
ただし、それが正確に伝わるかどうかは、また別の話だ。
彼女は小さく息をついた。
「何でもない」
寝室へ向かおうと背を向けると、蓮司がふいに立ち上がり、後ろからついてきた。そして、力の抜けた腕で彼女の腰をゆるく抱き、顎を肩に乗せた。
「どうした?」
詩乃は一瞬、動きを止めた。
「何のこと?」
「俺が病院に付き添わなかったから、機嫌を損ねてるのか?」
蓮司の口調は軽かった。まるで、駄々をこねる子どもをなだめているかのようだった。
「今日は少し特別だったんだ。俺と安奈が出会って一万日目でな。あの子はそういう記念日を大事にするタイプだから、一日早くても遅くても駄目なんだ。抜けられなかった」
詩乃はそこでようやく、彼があのメッセージのことを言っているのだと気づいた。
彼はおそらく、彼女がただの検査を受けに行っただけだと思っている。そして離婚を切り出したのも、自分が安奈に付き添い、彼女の通院に付き添わなかったせいだと思っているのだろう。
「あなたに当てつけているわけじゃないの。あとで協議書を作って……」
「最近は仕事が忙しいんだ。安奈みたいな若い子の真似をして、いちいち拗ねるな」
蓮司は彼女の言葉を遮り、少し冷えた声で言った。
彼はソファへ戻って書類を片づけながら、顔も上げずに言った。
「今夜も会社に戻らなきゃならない。それでも、わざわざ時間を作って帰ってきたんだ。お前ももういい年だろ。たまに拗ねるくらいならなだめてやるが、あまり調子に乗るな」
彼は玄関に置いてあった車のキーを手に取った。
ドアが開き、閉まり、彼はそのまま出ていった。
詩乃は笑った。
彼の中では、彼女の感情はすべて「拗ねている」の一言で片づけられるらしい。
離婚を告げたあのメッセージでさえ、彼はまともに受け止めていなかった。彼女が何を求めているのか、向き合おうとしたことも一度もなかった。
彼女は寝室へ戻った。
弁護士は非常に仕事が早く、彼女の要望を聞いてからほどなくして、双方に偏りのない内容の離婚協議書を送ってきた。
詩乃は一通り目を通してから、電子ファイルを蓮司に送信した。
送信して一分も経たないうちに、安奈から返信が来た。
【詩乃さん、蓮司くんの気を引きたいからって、こんなことしちゃ駄目ですよ。彼、こういう試し行為がすごく嫌いなんです!】
【前に私、ゲームに負けて、男友達に恋人のふりをしてもらったことがあるんです。一番仲のいい男の人がどんな反応をするか、試したくて。蓮司くん、それを見てものすごく怒って。あとで試しただけだって説明してからも、私が一生懸命謝って、やっと許してもらえたんですよ。だから、こういうのはやめたほうがいいです】
詩乃は返事をしなかった。
しばらくして、安奈がファイルを送ってきた。開いてみると、蓮司の力強い署名がそこに記されていた。
続けて音声メッセージが届いた。安奈の声は明るく、何も知らないふりをした無邪気さを帯びていた。
「詩乃さん、蓮司くんって私のこと、けっこう信用してるんです。よく見ないで署名しちゃいましたけど、これが何なのか、私から教えてあげましょうか?」
詩乃はその署名を長いこと見つめていた。
予想どおりだった。安奈は口では離婚しないほうがいいと忠告していても、行動はずいぶん正直だった。
詩乃はわずかに口元を歪め、署名済みのファイルを弁護士へ送った。
そのとき、下腹部の痛みがまた波のように押し寄せてきた。
もう何かを考える気力もなく、彼女は体を丸めて目を閉じ、ほどなく深い眠りに落ちた。
深夜、電話の音で目が覚めた。
出た途端、向こうから切迫した声が飛び込んできた。
「詩乃さん、早く来てください!大変なんです!」
詩乃は反射的に起き上がり、下腹部の痛みをこらえながら上着を羽織ると、送られてきた位置情報を頼りに駆けつけた。
場所は会員制のラウンジだった。個室の扉は半分開いていて、中からはグラスの触れ合う音と笑い声が入り混じって聞こえていた。
詩乃が入った瞬間、誰かがはやし立てる声が聞こえた。
「次は安奈の番だぞ!ここにいる誰も知らない秘密、何かあるか?」
安奈は頬を赤く染め、酔いで潤んだ目で蓮司をちらりと見て、笑った。
「もちろんあるよ。私、蓮司くんと寝たことあるもの」
空気が凍りついた。
その場にいた全員の視線が、寝間着にサンダル姿で駆けつけた詩乃へ向いた。彼女の顔は青ざめていた。
その瞬間、詩乃は理解した。
あの電話は、安奈がわざとかけてきたものだったのだ。
この一言を、自分に聞かせるために。
安奈は彼女を見るなり目を輝かせ、ふらふらと立ち上がって歩み寄り、その手をつかんだ。
「詩乃さん、来てくれたんですね。蓮司くんを何とかしてくださいよ。ひどいんです。私がもう疲れたって言ってるのに、毎回なかなか満足してくれなくて。詩乃さんはベッドで、どうやって蓮司くんの相手をしてるんですか?」
個室の中は、水を打ったように静まり返った。
やがて、同情と気まずさの入り混じった視線が、一斉に詩乃へ注がれた。
詩乃の耳の奥で、キン、と音が鳴った。
次の瞬間、彼女は手を振り上げ、安奈の頬を思いきり叩いた。
第3話
安奈は突然の平手打ちに反応できず、よろめいてそのまま床に倒れ込んだ。
詩乃は一歩踏み出すと、身をかがめて安奈の髪をつかみ、顔を引き上げて、さらに容赦なくもう一度頬を打った。
「詩乃!」
蓮司が勢いよく立ち上がった。数歩で駆け寄ってくると、彼女の手首をつかみ、後ろへ引きずるように引っ張った。その力はあまりにも強く、彼女の体は大きく後ろへ引き離された。
彼は彼女の手首を強くつかんだまま、怒りを噛み殺すように低く言った。眉間には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「安奈は酔うとわけの分からないことを言うんだ。そんなことでいちいち本気にして、手を上げる必要があるのか!?」
詩乃は手を引き抜こうとしたが、彼の手はびくともしなかった。
「酔ってわけの分からないことを言っただけ?それとも、酔った勢いで本音を言っただけ?私に隠れて何度浮気したの?気持ち悪いと思わないの!?
私のことが嫌いなら離婚すればいいじゃない!」
詩乃の声が、不意にかすれた。涙が一気にあふれ出した。
「どうしてそこまで私を踏みにじって、弄ぶのよ!?」
安奈はそばにいた人に支えられて立ち上がり、頬を押さえて泣き出した。
「私の顔……」
そこでようやく、周囲の者たちは気づいた。彼女の右頬には、鋭いテーブルの角で切れた傷が一本走り、血が涙と混じって顎を伝い落ちていた。
それを見た瞬間、蓮司はもう怒りを抑えきれなくなっていた。
「詩乃、謝れ」
詩乃は胸の奥に火が噴き上がるのを感じた。
詩乃は揉め事が好きな人間ではない。
だからといって、黙って踏みにじられるつもりもなかった。
彼女は勢いよく彼の手を振りほどくと、テーブルの上にあった、半分ほど残った赤ワインのボトルをつかみ、中身をすべて安奈に浴びせた。
ワインが傷口にしみ、安奈は悲鳴を上げて後ずさった。
蓮司は完全に激怒した。
「本当にどうかしてるぞ!誰か、この女の頭を冷やしてやれ!」
詩乃が反応する間もなく、ワインクーラーに入っていた氷水が頭から浴びせられた。
全身がびくりと震えた。濡れた寝間着が肌にぴったりと張りつき、あまりの冷たさに呼吸まで震えた。
まだ息を整える間もなく、二人のボディガードが一歩前へ出て彼女の肩を押さえつけ、さらに氷水を頭からぶちまけた。
退院して間もない彼女は、もともと下腹部に鈍い痛みが残っていた。
そこへ立て続けに氷水を浴びせられ、痛みは一気に激しくなり、目の前が暗くなった。
蓮司は彼女の前に立ち、見下ろしながら言った。
「頭は冷えたか?謝るまで終わらせない」
詩乃は、自分の耳を疑った。
安奈は大勢の前で品のないことを言い、詩乃の面目を丸潰れにした。
それなのに、夫である蓮司は詩乃をかばうどころか、彼女に頭を下げろと言った。
彼女は口を開いた。
だが、言葉を発する前に、また氷水が頭から浴びせられた。
今度は、悲鳴すら出なかった。
下腹部の激痛で視界が暗くなりかける。けれど頭から浴びせられた氷水の冷たさが、容赦なく意識を引き戻した。
詩乃はうつむいた。足元にできた水たまりに、淡い赤がじわじわと滲んでいくのが見えた。
血が脚を伝って流れ落ち、氷水と混ざり合って広がっていく。
次の氷水が浴びせられようとしたそのとき、彼女はついに耐えきれなくなった。
「ごめんなさい……私が悪かった」
ボディガードたちは手を放し、脇へ退いた。
蓮司は安奈のもとへ歩み寄ると、自分の上着を脱いで彼女の肩に掛け、その肩を抱いて外へ出ていった。
蓮司の足音が完全に消えてから、ようやく周囲の人間が動き出した。
数人が慌てて詩乃を床から抱き起こした。誰かが床を見下ろし、顔色を変える。
「血がこんなに!早く救急車を!」
詩乃の視界はすでにぼやけていた。耳元の声は遠くなったり近くなったりし、騒がしさの中で意識が少しずつ消えていった。
再び目を覚ましたとき、彼女は病院のベッドに横たわっていた。
主治医がカルテを手に病室へ入ってきた。数ページめくるうちに、その眉間のしわはどんどん深くなっていく。
「まだ回復期なのに、どうして冷水なんかで体を冷やしたんですか。今回のダメージはかなり深刻です。今後、妊娠するのはほぼ難しいでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の目尻から涙が一滴こぼれ、こめかみの髪へと沈んでいった。
そのとき、病室のドアが開き、蓮司が入ってきた。
「何の話をしてる?」
医師は眼鏡を押し上げた。
「あなたがご主人ですね?どうしてこんな無茶を。奥さまはりゅう……」
「先生」
詩乃がふいに医師の言葉を遮った。
「自分の状態は分かっています。ありがとうございました」
それを見て、医師はそれ以上何も言えなくなった。最後にいくつか注意事項だけを告げ、病室を出ていった。
詩乃が言いたくなかったわけではない。
むしろ、彼女は数えきれないほど伝えてきた。
妊娠したときも言った。
流産したときも言った。
けれど彼は何も知らず、気にかけることもなかった。
何度言ったところで、惨めになるだけだった。
詩乃は顔を横へ向け、彼を見た。
「何しに来たの?安奈についていなくていいの?」
蓮司は眉をひそめた。彼女の言い方が気に入らないようだったが、責めることはせず、ただ淡々と言った。
「母さんの持病がまた出た。お前の体調が戻ったら、世話に行け。鷹宮家の嫁なのに、母さんのところへ顔を出す回数は安奈より少ない。今回はそれで埋め合わせをしろ」
詩乃は呆然とした。
蓮司の母、鷹宮莉子(たかみや れいこ)は体が弱く、年中、入退院を繰り返している。
そのたびに、細かいところまで気を配り、身を削る思いで世話をしてきたのは詩乃だった。
それなのに蓮司に言わせれば、詩乃は安奈ほど顔を出していないことになるらしい。
彼女は思い出した。
莉子が彼女を見るたび、最初に口にする言葉は決まって「安奈はどうして来ないの?」だった。
安奈が形ばかりの見舞いの言葉を送れば、莉子は「やっぱり安奈は気が利くわ」と笑った。
詩乃が三日三晩付き添っても、安奈が一度顔を出しただけで、莉子は目を覚ますなり「安奈には苦労をかけたわね」と言った。
莉子の前では、安奈こそが母の機嫌を取れる人間だった。
そして詩乃は、莉子の目には、きっと付き添いのヘルパー以下にしか映っていなかったのだろう。
もういい。
どうせ離婚するのだから。
妻として果たすべき義務も、守るべき立場も、そのときになればすべて安奈に譲ればいい。
第4話
体の傷が少し落ち着いてから、詩乃は鷹宮家へ向かった。
今夜は、約束どおり彼が迎えに来る日だった。離婚のことを、先に莉子へ伝えておくつもりでいた。何はともあれ、五年も嫁として過ごしたのだから、最後の礼儀くらいは尽くすべきだと思ったのだ。
莉子は庭の籐椅子に腰かけ、スマホを手にビデオ通話をしていた。
詩乃は歩み寄った。
「お義母さま」
彼女だと分かると、莉子はそっけなく「ええ」と返しただけで、視線をすぐにスマホへ戻した。その表情は、目に見えてやわらかくなっていく。
「おばさま!蓮司くんから、体調を崩されたって聞きましたよ。もうすぐ着きますからね!」
安奈の声がスピーカー越しに聞こえてきた。甘くやわらかく、語尾には甘えるような響きがあった。
莉子は目尻を下げて笑った。
「そうなの。あなた、クッキーが好きだったでしょう?今から田中さんに焼かせておくわ。着いたらすぐ食べられるようにね」
安奈が嬉しそうな声を上げる。二人は本当の家族のように、和やかに話していた。
通話を切ってから、莉子はようやく笑みを収めた。
「あなたは、いつもの紅茶でいいわね?」
詩乃が答えるより先に、彼女はそばの使用人へ顎で合図をした。
使用人はすぐに紅茶を一杯運んできて、詩乃の前に置いた。
詩乃は紅茶が好きではない。
ここへ来るたびに、そう伝えてきた。けれど莉子が彼女に用意するのは、いつも決まって紅茶だった。
以前、冗談めかして蓮司に愚痴をこぼしたことがある。ただ、何気なく聞いてほしかっただけだった。けれど彼はこう言った。
「母さんは物覚えがよくないんだ。それに、お前は母さんの世話をしに行ってるんであって、もてなされに行ってるわけじゃないだろ」
蓮司は、母は物覚えがよくないと言った。
けれど、めったに来ない安奈がクッキー好きなことは覚えていて、わざわざ先に焼かせておく。
詩乃は毎週三、四回も通い、三年間ずっと世話をしてきた。それでも莉子は、彼女が紅茶を飲まないことさえ覚えていなかった。
「詩乃、はっきり言わせてもらうわね」
詩乃は目を上げて彼女を見た。
「安奈と蓮司は、小さい頃から私が見てきた子たちなの。二人は昔から仲がよくて、お互いのこともよく分かっている。ここ数年、私の世話をしてくれているのはあなたで、人柄が悪いとは思わないわ。ただ、少し堅すぎるのよ。
蓮司があなたのどこを気に入ったのかは分からないけれど、結婚生活には努力も必要でしょう。安奈は性格が明るいし、蓮司もあの子といるとよく笑うの。あなたも少しは安奈を見習って、どうしたら蓮司を喜ばせられるのか、あの子に教えてもらったらどう?」
詩乃は指先が冷えていくのを感じた。
夫の母が、別の女に夫の機嫌の取り方を教えてもらえと言っている。
しかも、それをあまりにも当然のように。
馬鹿げているにもほどがあった。
詩乃はその紅茶に手をつけず、淡々と言った。
「ご心配には及びません。私と蓮司は離婚します」
「おばさま!」
甘ったるい声が、玄関のほうから大げさに響いてきた。彼女の言葉は、その声にかき消された。
安奈が小走りで入ってきて、にこにこと莉子のそばへ寄った。
「今着きました。これ、おばさまに買ってきたんです!」
莉子はたちまち顔をほころばせた。
「来てくれるだけでいいのに、わざわざ何か持ってこなくてもいいのよ」
安奈はしばらく甘えるように話していたが、ふいに額を軽く叩いた。
「あっ、そうだ。会社の取引先が今日イベントを開くんだった。蓮司くんに同伴者がいないって言ってたから、私、行かなきゃ。今日は一緒にいられなくてごめんなさい。また改めて来ますね」
莉子は手を振った。
「行ってらっしゃい。仕事のほうが大事よ」
安奈はそこで振り返り、初めて詩乃に気づいたかのような顔をした。
「詩乃さん?いらしてたんですね」
彼女は自分から詩乃の腕を取り、申し訳なさそうな声を出した。
「詩乃さん、この前のこと、全部聞きました。私が酔ってひどいことを言ったのが悪かったんです。どうか本気にしないでください。埋め合わせをさせてください。私、みんなにちゃんと説明しますから。ね?」
詩乃が断る間もなく、車に押し込まれていた。
会社の下に着くと、蓮司がロビーの入口に立って待っていた。
彼の視線は詩乃に落ち、眉がわずかに寄った。
「今日は母さんの世話に行くんじゃなかったのか?」
安奈が駆け寄り、彼の腕を軽く叩いた。
「同伴者がいないって言ってたじゃない。ちょうど詩乃さんがいたから、一緒に来てもらったの」
蓮司は何も言わず、詩乃を上から下まで一瞥すると、踵を返して中へ入っていった。足を止めることも、彼女を待つこともしなかった。
安奈は笑った。
「蓮司くん、いつもああなんです。詩乃さん、気にしないでくださいね」
詩乃は彼女に強引に引っ張られるまま、中へ入った。
中に入ってから、詩乃はようやく、蓮司がさっき向けたあの視線の意味を理解した。
イベントは会社の最上階の宴会場で行われていた。そこにいるビジネス関係者たちは、皆きちんとした装いで、身だしなみも隙がない。
一方、詩乃が着ていたのは、退院後に適当に袖を通した色あせたTシャツだった。顔には下地すら塗っていない。
安奈はいつの間にか場にふさわしい上品なミニドレスに着替え、細いハイヒールを鳴らしてそばを通り過ぎた。そして申し訳なさそうに笑った。
「私ったら、本当にうっかりしてました。詩乃さんの服を用意するのを忘れてしまって。気にしませんよね?」
詩乃は彼女に付き合うつもりなどなかった。
「わざと私に恥をかかせようとしたの?」
安奈は、いつも黙って耐えていた詩乃が面と向かって問いただすとは思っていなかったのだろう。笑顔がたちまち固まり、目元がすぐに赤くなった。
いつの間にか蓮司が近くに来ていた。今の言葉を明らかに聞いていた彼は、すぐさま安奈の前に立った。
「来るなら前もって言えばよかっただろ。安奈だって知らなかったんだ。そこまで悪く取るべきじゃないし、人前でそんな言い方をする必要もない」
——私が来たいと言ったのか。
明らかに、安奈が私の拒絶を無視して無理やり連れてきたのだ。
彼の口調には、かすかな苛立ちが混じっていた。
「まだ安奈が酔って言ったことを根に持ってるのか。どうせお前は、ここにいる連中の前で顔を見せて、何かを証明したいだけなんだろ。連れていってやる」
そう言い終えると、彼は有無を言わせず彼女の手首をつかみ、人の輪の中へ引っ張っていった。
それでも礼儀として、たとえ彼女の服装が場にそぐわなくても、グラスを手に挨拶に来る人はいた。
彼女はまだ酒を飲めないため、代わりにお茶で乾杯した。しばらく挨拶を交わしたあと、適当な理由をつけて隅へ逃れた。
隙を見てそっと帰ろうとしたそのとき、背後で急にざわめきが起こった。
振り返ると、蓮司が一人の男の手首を強くつかんでいた。少しひねっただけで、男の腕は不自然な角度に垂れ下がり、関節が外れる鈍い音が、男の悲鳴に混じって響いた。
安奈はそのそばに立っていた。目を赤くし、小さな声で言う。
「蓮司くん、あの人はただ……ちょっと触ってきただけだよ。私は大丈夫だから……詩乃さんのそばにいてあげて……」
第5話
蓮司は手を放さなかった。目の奥には、今にもあふれ出しそうな怒りが滲んでいる。
詩乃は数歩離れたところに立ち、その光景を見つめていた。ふいに、現実感が薄れていく。
蓮司がここまで怒ったところを見たのは、前に一度だけだった。
まだ二人が恋人だった頃のことだ。
詩乃が路地の入口で数人のチンピラに絡まれたとき、駆けつけた蓮司は、それでも冷たい顔で数言、警告しただけだった。
彼の育ちのよさは、取り乱すことを許さなかった。蓮司はいつだって感情を抑え、体面を崩さない人だった。
けれど今回は違った。
彼は場も、立場も、集まった取引先の目も気にせず、その男の腕の関節を外した。
騒ぎはすぐに収められた。
蓮司は安奈をかばうようにして外へ向かった。詩乃のそばを通り過ぎるとき、ふと足を止める。
彼は彼女を見た。目の奥にはまだ怒りが残り、声は低く抑えられていた。
「わざとなのか?」
詩乃はすぐには意味が分からなかった。
「何が?」
「こういう場で誰もそばについていなければ、変な人に絡まれる可能性がどれだけ高いか、分からないのか?
安奈は恋愛経験がない。断り方も分からないから、つけ込まれやすい。俺がお前についていたら、あの子を見ていられない。もう少し分別を持て」
詩乃は呆然と彼を見つめた。
かつて彼女の心を揺らした顔が、目の前にある。
冷ややかな眉目。くっきりとした輪郭。初めて会ったときと、何ひとつ変わらない。
けれど、どれほど見つめても、胸の奥は少しも波立たなかった。
どうやら、もうあの頃ほど愛してはいないらしい。
「私は、あなたにそばにいてなんて頼んでいないわ。
それに、そもそも私は来たくなかった。安奈が無理やり私を車に乗せたのよ。こういう場に連れてくるくせに、ドレスの一着も用意しなかった。私のほうこそ聞きたいわ。どういうつもりだったの?私に恥をかかせたかったの?」
その言葉が落ちた瞬間、周囲からざわざわと囁きが広がった。
安奈の目から、タイミングを見計らったように涙がこぼれた。彼女は蓮司の腕の中に小さく身を寄せ、肩をかすかに震わせる。
「詩乃さん……どうしてそんなふうに私を悪者にするの……一緒に行きたいって言ったのは詩乃さんじゃないですか。余っているドレスはないけど大丈夫かって、私、先に聞きましたよね。詩乃さんが気にしないって言ったんじゃないですか……」
詩乃の瞳がかすかに縮んだ。
安奈がこんなにも平然と事実をねじ曲げられるなんて、信じられなかった。
無理やり車に押し込んだのは安奈だ。断る余地など与えられなかった。いつ詩乃が、気にしないなどと言ったというのか。
反論しようとしたその瞬間、安奈がふいに声を高くした。
「本当は言いたくなかったんです!私だって、こんな恥ずかしいこと言いたくなかったんです!私がいったい何をしたっていうんですか?あの男にお金を渡して、私に恥をかかせるなんて……」
その一言で、会場中がどよめいた。
蓮司の顔は、見る間に陰った。
「詩乃、よくそんなことができるな」
詩乃は彼を見つめた。
私はやっていない——その一言が喉まで込み上げていたのに、どうしても口にできなかった。
やったか、やっていないか。
それが本当に重要だろうか。
大事なのは、蓮司が最初から彼女を信じていないということだった。
どれだけ言葉を尽くしても、彼は安奈のためにいくらでも反論を用意するだろう。
安奈が涙ながらに一言言うだけで、詩乃のどんな説明よりも重くなる。
愛されているか、いないか。
それは本当に、こんなにも分かりやすい。
詩乃は目を伏せた。睫毛がすべての感情を隠す。
数秒沈黙したあと、彼女は口を開いた。
声はひどく穏やかだった。
「それで、どうしてほしいの?私に謝れって言うの?」
蓮司は何も言わなかった。
ただ冷ややかに、彼女を見ていた。
詩乃は身を翻し、安奈のほうを向いた。
そして、全員が見ている前で、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。これでいい?」
その場にいた誰もが言葉を失った。
彼女がここまであっさり頭を下げるとは、誰も思っていなかったのだ。
言い訳も、口論もない。
ただ、まっすぐに謝った。
安奈はその場で固まった。頬にはまだ涙が残っていて、一瞬、どう返せばいいのか分からないようだった。
詩乃は体を起こした。
顔には何の表情もない。
そのまま背を向け、立ち去ろうとした。
その手首を、強い力が乱暴につかんだ。
「詩乃」
蓮司の声が背後から落ちてきた。低く、凍るように冷たい声だった。
「その態度は何だ。そんなものが謝罪だと思っているのか?
お前のせいで、今日のイベントは台なしになった。安奈にきちんと謝るだけじゃ足りない。取引先の皆さまにも、膝をついて詫びるべきだ」
第6話
取引先の人間が慌てて前に出て、その場を収めようとした。先頭に立った中年の男が、笑みを浮かべながら手を振る。
「鷹宮社長、そこまでなさらなくても。大したことではありませんし、こちらも故意ではないと信じています。常盤さんも驚かれたでしょうから、まずは病院へ行かれたほうが」
だが、蓮司は譲らなかった。
「駄目です」
その声は冷たく硬く、取りつく島もなかった。
「鷹宮家の妻が過ちを犯した以上、甘やかして済ませるわけにはいきません。事が事です。外に漏れれば、鷹宮家の面目に関わる。必ず謝らせます」
詩乃はその場に立ち尽くしたまま、その言葉を聞いていた。胸の奥に残っていた最後の温もりまで、すっかり抜き取られていくようだった。
彼女は顔を上げた。目元はうっすら赤く、声にはとうとう押し殺した怒りが滲んだ。
「安奈が適当なことを言ったから?泣いていてかわいそうに見えるから?だから、確かめもせず、事情も聞かず、私に罪をかぶせるの?」
彼女は蓮司の目をまっすぐ見つめた。一語一語が、胸を裂くようだった。
「私は争いたくなかった。それなのに、あなたはまだ私に恥をかかせるつもり?」
だが蓮司は、冷たく笑った。
「お前がやっていないなら、どうして謝った?」
詩乃は言葉に詰まった。
そこへ、安奈が絶妙なタイミングで口を開いた。涙を拭いながら、いかにも傷ついたような声を出す。
「詩乃さん、怒らないでください……私が何も言わなかったことにすればいいんです。
蓮司くん、前から私に言ってたんだ。詩乃さんは少し情緒が不安定で、いつも私のことで蓮司くんと気まずくなるって……でも私、今回は詩乃さんに悪気はなかったんだって信じてる。もう許すから」
わずかな言葉で、すべての罪を彼女にかぶせた。
情緒が不安定。
いつも拗ねる。
悪気のない過ち。
詩乃は、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いたくなった。
蓮司は本来、夫婦二人で解決すべき問題を、すべて安奈に話していたのだ。
外の人間の前で、彼女は理不尽に騒ぎ立て、嫉妬に狂う女にされていた。
胸の奥から怒りが燃え上がった。
詩乃は一歩前に出て、笑みを浮かべた。
「そう。そこまで言うなら、本当にやってあげないと損よね」
言い終わるより早く、彼女は手を振り上げ、安奈の頬を思いきり打った。
安奈はその一撃で床に尻もちをついた。起き上がる間もなく、詩乃に上から押さえ込まれる。
詩乃は身をかがめ、彼女のドレスをつかむと、力任せに引き裂こうとした。
「きゃあ――!蓮司くん、助けて!」
安奈は悲鳴を上げ、必死に自分のドレスを押さえた。
次の瞬間、蓮司の強い蹴りが詩乃の腹に入った。
彼女の体は床に投げ出され、後頭部を大理石の床に打ちつけた。視界が一瞬、真っ暗になる。
「いい加減にしろ!」
蓮司の声が頭上から降ってきた。氷のように冷たく、嫌悪に満ちていた。
彼はしゃがみ込み、安奈を腕の中にかばう。それから立ち上がり、背後へ手を振った。
黒いスーツのボディガードが二人、すぐに前へ出た。
「大勢の前で安奈に恥をかかせたんだ。なら、俺がお前の面目を立ててやる必要もないな」
蓮司は床に倒れた詩乃を見下ろした。その目には、わずかな情けすらなかった。
「服を引き裂け」
詩乃の瞳が大きく見開かれた。
ボディガードの手が彼女の襟元へ伸びる。布が裂ける耳障りな音が響いた。
「やめて!触らないで!」
詩乃は必死にもがき、悲鳴を上げ、両手で胸元を固く押さえた。
けれど、鍛えられた男たちから逃れられるはずもなかった。彼女の手はたやすく引き剥がされ、布が裂ける音とともに、肌が大勢の目の前にさらされた。
誰かが息を呑み、誰かが顔を背けた。けれど、それ以上に多くの人間がスマホを持ち上げ、レンズを彼女へ向けた。
ざわめきとフラッシュが彼女を呑み込んでいく。もう、身を隠す力さえ残っていなかった。
その屈辱に、彼女はとうとう声を上げて泣き出した。
どれほど時間が経ったのか分からない。
蓮司がようやく軽く手を上げた。
「もういい。放せ」
ボディガードは手を離し、脇へ下がった。
蓮司は袖口を整え、周囲を見回した。その顔には、その場にふさわしい、申し訳なさそうな表情すら浮かんでいた。
「本日は皆さまにご迷惑をおかけしました。鷹宮家の内輪のことをうまく処理できず、失礼しました。どうぞ続けてください」
そう言うと、彼は安奈の肩を抱いて外へ向かった。振り返りもせず、ひと言だけ投げ捨てた。
「外へ出せ。ここにいられると目障りだ」
ボディガードたちは前に出ると、詩乃を乱暴に抱え上げ、ものでも運ぶように脇の出入口へ引きずっていった。
扉が押し開けられ、彼女は外へ放り出された。
膝が階段にぶつかり、痛みに小さく呻く。
外の通りには人が行き交っていた。通りすがりの人々はその物音に引き寄せられ、視線が針のように彼女へ突き刺さる。
詩乃はうつむき、破れた服を必死にかき合わせて体を包むと、よろめきながら立ち上がり、路地へ逃げ込んだ。
けれど、どこへ行っても、あの異様な視線は影のようについてくる。
彼女は街角にあった小さな店に入り、適当な服を一式買って着替えた。
道端に立つと、初秋の風が吹き抜けた。それでも、震えは止まらなかった。
そのとき、スマホが鳴った。
詩乃はうつむいたまま電話に出た。
「着いた」
電話の向こうから、低く艶のある男の声が聞こえた。
「位置情報を送って。迎えに行く」
詩乃は現在地を送ると、蓮司の連絡先をすべてブロックした。
五年続いたこの想いに、彼女は自分の手で終止符を打った。