上場の鐘が鳴った日、彼を愛さなくなった

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上場の鐘が鳴った日、彼を愛さなくなった

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街角で小さな商売をしていたあの頃から、投資業界の風雲児と呼ばれるまで、深川綾人(ふかがわ あやと)は丸10年をかけて、ここまで這い上がっ...

Chương (1)

第1章

街角で小さな商売をしていたあの頃から、投資業界の風雲児と呼ばれるまで、深川綾人(ふかがわ あやと)は丸10年をかけて、ここまで這い上がってきた。 その10年間、私、荒木麻理子(あらき まりこ)はずっと彼の傍らで過ごしてきた。 どん底だったあの年、私はプライドをかなぐり捨てて、たった500円の食費を借りるためだけに、浮気をした父の前に膝をついた。 辛そうに私を見つめる綾人に対し、私はそれでもこう言った。 「会社がナスダックに上場する時は、私も連れて行ってね」 彼は頷いてくれた。 やがて会社は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し、私はもう一度その約束を口にした。 彼は顔も上げずに答えた。 「今は忙しいんだ。また今度な」 だから私も、それきり何も言わなくなった。 そんなある日、おすすめに流れてきたショート動画で、綾人の会社が上場を果たしたことを知った。 華やかな上場セレモニー。沸き起こる拍手。壇上で堂々と挨拶する綾人。 出張だと言っていたはずの彼は、ナスダックの壇上に立っていた。けれど隣にいたのは、私ではなかった。 異母妹――荒木桃子(あらき ももこ)だった。 綾人は桃子と並んで壇上に立ち、上場を祝う鐘を鳴らした。会場に拍手が沸き起こる。その瞬間、綾人は桃子をそっと抱き寄せた。その抱擁は、あくまで礼儀正しく、節度を保ったものに見えた。 「一番大切な瞬間に立ち会ってくれてありがとう。すごく幸せだ」 桃子はその抱擁に応えるように、そっと身を寄せた。「私も」 私はスマホの画面を消し、目元を拭うと、いつも通り買い物へ出かけ、夕飯の支度をした。 食事を終えてから、綾人にメッセージを送った。 【500円、貸してくれる?】 彼は理由も聞かず、迷いもせずに200万円を送金してきた。 私はそこから500円だけ抜き取り、残りのお金を送り返した。添えたのは、たった一行。 【多すぎよ】 その500円は、そのまま父に渡した。これで、全部終わりだ。 10年前、私はたった500円のために、プライドも見栄も捨てた。そして10年後、彼もまた、たった500円で、私たちの愛も未来も買い取った。 彼の上場という晴れ舞台に、私の居場所はなかった。それなら私のありふれた毎日にも、もう彼はいらない。 第1話 街角で小さな商売をしていたあの頃から、投資業界の風雲児と呼ばれるまで、深川綾人(ふかがわ あやと)は丸10年をかけて、ここまで這い上がってきた。 その10年間、私、荒木麻理子(あらき まりこ)はずっと彼の傍らで過ごしてきた。 どん底だったあの年、私はプライドをかなぐり捨てて、たった500円の食費を借りるためだけに、浮気をした父の前に膝をついた。 辛そうに私を見つめる綾人に対し、私はそれでもこう言った。 「会社がナスダックに上場する時は、私も連れて行ってね」 彼は頷いてくれた。 やがて会社は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し、私はもう一度その約束を口にした。 彼は顔も上げずに答えた。 「今は忙しいんだ。また今度な」 だから私も、それきり何も言わなくなった。 そんなある日、おすすめに流れてきたショート動画で、綾人の会社が上場を果たしたことを知った。 華やかな上場セレモニー。沸き起こる拍手。壇上で堂々と挨拶する綾人。 出張だと言っていたはずの彼は、ナスダックの壇上に立っていた。けれど隣にいたのは、私ではなかった。 異母妹――荒木桃子(あらき ももこ)だった。 綾人は桃子と並んで壇上に立ち、上場を祝う鐘を鳴らした。会場に拍手が沸き起こる。その瞬間、綾人は桃子をそっと抱き寄せた。その抱擁は、あくまで礼儀正しく、節度を保ったものに見えた。 「一番大切な瞬間に立ち会ってくれてありがとう。すごく幸せだ」 桃子はその抱擁に応えるように、そっと身を寄せた。「私も」 私はスマホの画面を消し、目元を拭うと、いつも通り買い物へ出かけ、夕飯の支度をした。 食事を終えてから、綾人にメッセージを送った。 【500円、貸してくれる?】 彼は理由も聞かず、迷いもせずに200万円を送金してきた。 私はそこから500円だけ抜き取り、残りのお金を送り返した。添えたのは、たった一行。 【多すぎよ】 その500円は、そのまま父に渡した。これで、全部終わりだ。 10年前、私はたった500円のために、プライドも見栄も捨てた。そして10年後、彼もまた、たった500円で、私たちの愛も未来も買い取った。 彼の上場という晴れ舞台に、私の居場所はなかった。それなら私のありふれた毎日にも、もう彼はいらない。 …… 「まだ起きてたのか」 夜10時、突然部屋のドアが開いた。綾人が帰ってきたのだ。 淡いグリーンのスーツケースを引き、身にまとっているのは動画で見たあのスーツのままだった。 私はいつものように駆け寄ることもせず、ソファに座ったまま顔を上げようともしなかった。それでも、口からは当たり障りのない言葉が出た。 「ずっと待ってたの」 彼が歩み寄ってきて、ネクタイに伸ばしかけた手がふと止まった。 「待つも何も、俺たち、もういい歳した夫婦みたいなもんだろ」 私はその言い方を訂正した。 「まだ結婚してないけど」 「時間の問題だろう」 そう答えた彼の身体から、香水の匂いが漂った。バラの香り。私の香水ではなかった。 すると、私はふっと笑った。 「ねえ、それでも私と結婚するつもり?」 ただ、少し確かめてみたくなっただけだった。 「当たり前だろ」 別の女に「幸せだ」と告げておいて、それでも彼はまだ私と結婚するつもりでいる。けれど、もう私の方が望んでいなかった。 彼はスーツの上着を脱ぎ、無造作にソファへ投げた。 「時差ボケ直さないと。先に寝てろ」 「わかったわ」 私は立ち上がり、そのまま寝室へ向かった。 彼は私の後ろ姿に、一瞬戸惑ったような目を向けた。今日の私が、いつもと違うことに気づいているのだろう。 いつもの私なら、どんなに遅くなっても、彼のために温かいお茶を用意していた。鍋には、すぐに食べられるよう、軽い夜食も用意しておいた。疲れて帰ってきた彼が、少しでもほっとできるように。 それだけでなく、まるでお手伝いさんのように後をついて回り、彼が無造作に脱ぎ捨てた服を一枚一枚受け取っていた。 口では絶えず、卵がまた値上がりしたとか、野菜の量が減ったとか、そんな生活の匂いのする愚痴をこぼしながら。 けれど今日の私は、何もせず、何も言わなかった。 しばらくして、寝室の扉がノックされた。 「いつも作ってたあれ、どうやって作るんだ」 「お米を多めの水で、弱火でゆっくり煮ればいいわ。1時間くらいでできるから」 暗がりの中、彼が近づいてきて、ベッドの端に腰かけ、手のひらで私の額をそっと確かめた。 「熱はなさそうだが、今日、どうかしたのか」 私はその手をそっと払った。 「……今回の出張、どこへ行ってたの?」 彼は一瞬言葉を止め、それから静かな声で答えた。 「ニューヨーク。ナスダックを見てきた」 嘘はついていない。けれど、本当のことも言っていない。 いつからだろう。彼がこんなにも滑らかに、私に嘘をつけるようになったのは。 その時、玄関のチャイムが鳴った。綾人は眉をひそめ、布団を私の肩まで掛け直すと、なだめるように言った。 「先に寝てろ。俺が見てくる」 彼は身を翻し、寝室を出て玄関の扉を開けた。 「どうしてここに?」 その声には、戸惑いよりも強い喜びがにじんでいた。 私も起き上がり、寝室を出た。そこに立っていたのは桃子だった。ドアの外で、知的な顔立ちに、どこか得意げな笑みを浮かべていた。動画で見たのと同じように。 「綾人さん、それ私のスーツケースだよ。間違えちゃったみたい」 私は彼女の手にしたそれを見つめた。色も、デザインも、ブランドも。 寸分違わず同じものだった。 桃子は私に気づくと、片方の眉を軽く上げた。軽く手を振り、弾んだ声で言う。 「あらお姉ちゃん、起きてたんだ。ごめんね、こんな時間にお邪魔しちゃって。二人の邪魔しちゃったね」 私は何も答えなかった。視界の端で、綾人がゲストルームからスーツケースを引き出してくるのが見えた。 すでにスーツの上着を羽織り直しており、手には車の鍵を握っている。 「どこへ行くの?」 「もう遅いし、桃子をひとりで帰すのは心配だから。送ってくる」 「あなたたち……」 言い終わらないうちに、彼の答えはもう用意されていた。 「誤解するなよ。たまたま同じ便で帰ってきただけだ。お前の妹だろ?送っていくところだよ」 私はじっと彼の顔を見つめた。表情は変わらない。声も相変わらず落ち着いていた。 綻びひとつ見つけられないほど、完璧だった。 第2話 私は微笑んで、前へ進み出た。 「ねえ、綾人」 彼の足が止まり、こちらを振り返った。 「どうした?」 「私へのプレゼントは?」 「なんの話だ」 覚えていないらしい。 「指輪よ」 彼は一瞬固まったが、真っ先に桃子の方を見た。 私はまた笑った。 「エレベーター、来たよ」 彼は適当に相槌を打つと、桃子を連れて逃げるように立ち去り、そのまま私の視界から消えていった。 5年前、私は彼に、いつ私と結婚してくれるのかと尋ねたことがある。 彼は私の髪をくしゃりと撫で、まっすぐな目で言った。 「会社が上場する日、絶対プロポーズする。お前を世界一幸せな女にしてやる」 けれど、指輪もないのに、どうやってプロポーズするというのだろう。 私は1本の電話をかけた。 「あの野外ケータリングの件、受けることにするわ」 電話口の声が弾んだ。 「よかったー!3年口説き続けて、やっと首を縦に振ってくれたな!」 何かに思い至ったのか、電話の向こうの声がふと尋ねた。 「でも今年、綾人くんと結婚するんじゃなかったのか?」 私は誰もいない家の中を見渡し、首を振った。 「……もうしないわ」 翌朝、目を覚ますと、綾人はすでに出勤していた。たった一晩帰ってきただけなのに、家中に彼の痕跡が散らばっていた。 浴室には脱ぎっぱなしの服。食卓には飲み残したコーヒーカップ。玄関には昨夜脱いだ靴下。 私はそれらをひと目見ただけで、自分では手を付けず、家事代行サービスを頼んだ。 やってきた女性はてきぱきと働き、30分もかからずに全部片付け、ついでに朝食まで用意してくれた。 「奥様、今度からもこういうご用があれば、ぜひまた呼んでくださいね」 「奥様じゃないわ」 「え?」 彼女はおずおずと言い直した。 「……ええと、荒木さん?」 「ええ。これから5日間、同じ時間に来てもらえる?30分だけでも、1日分のお給料は払うわ」 彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。 「はい、喜んで!」 彼女が帰った後、私は荷造りを始めた。すると、ナナが餌用のボウルをくわえてきて、私のスーツケースの中に放り込んだ。舌を出し、まるで笑っているような顔をする。 「わん!わん!」 私はその頭を撫でてやった。 「よし、一緒に連れて行くよ」 ナナは今年で6歳。私が流産したあの年、綾人が贈ってくれた犬だった。 「俺がいない時は、ナナにお前のそばにいてもらう」と彼は言っていた。 綾人はいくつも嘘をついてきたけれど、これだけは、嘘じゃなかった。なぜなら結局、ずっと私のそばにいてくれたのは、ナナだけだったから。そして、私が連れて行きたいと思うのも、ナナだけだった。 夕方6時、スマホが鳴った。綾人からだった。 「夕飯は俺の分はいらない。会食があるから」 私はテーブルの上のデリバリーに目をやり、適当に返した。 「わかった」 「あと、今日はお前の父さんの誕生日だろ。電話くらいしてやれよ」 私は箸を止めた。 「いつからそんなに仲良くなったの?」 「そんなことどうでもいいだろ。商売の世界に永遠の敵なんていない。頼むよ、俺の顔に免じて」 私が断る間もなく、電話は一方的に切られていた。 まるで、私が彼を愛するあまり、父への恨みを手放すはずだと信じ切っているかのように。 たしかにあの頃、私は彼を愛していた。けれど今は、もう違う。 私はスマホを置き、がつがつと食べ続けた。彼の言葉など、気にも留めなかった。 10分後、画面がまた光った。今度は桃子からだった。 数十秒の動画が送られてきていた。 父の誕生日の家族会食に、なぜか綾人までいた。動画の中で、彼は桃子の隣に座り、料理を取り分けていた。 彼女の皿が空くたびに、好みを知り尽くしているように、さりげなく次のひと口を添えてやっていた。 彼が私にそうしてくれたことは、一度もなかった。 すると、父は冗談めかして言った。 「娘も年頃になると、親より恋人か。こりゃ、うちにもそのうちめでたい話がありそうだな」 綾人はそれを否定しなかった。 続けて、桃子からメッセージが届いた。短い一文だった。 【お姉ちゃんじゃ、あの人を幸せにできないよ】 私は笑い、一文字ずつ、丁寧に、まるで祈るように打ち込んだ。 【うん。だから、あげる。欲しい?】 【欲しい】 第3話 私はスマホの電源を切り、涙をこらえながら食事を口に押し込んだ。お腹は満たされたのに、心にはぽっかりと大きな穴が開いていた。 ナナが何度か鳴いて、私の足元に伏せ、何も言わずに寄り添ってくれた。 夜11時、彼がやっと帰ってきた。手にはテイクアウトの箱を提げていた。 ナナが彼の足元にまとわりつくと、蹴り飛ばされた。くうんと鳴いて、私の腕の中に逃げ込んでくる。 私はナナを庇いながら、ゆっくりと彼の手の箱に目をやった。 「夜食?」 彼はその箱をテーブルに置いた。 「美味かったから、お前の分も持ち帰った」 「お腹空いてないわ」 彼は眉をひそめ、有無を言わせない口調で言った。 「わざわざ持ち帰ったんだ、食えよ」 自分たちの食べ残しが、わざわざ私のために持ち帰ったものにされていた。 私は答えなかった。 彼が歩み寄ってきて、私のスマホを取り上げ、見下ろすように言った。 「麻理子、一体どうしたんだ?言いたいことがあるなら、はっきり言え。そうやって黙り込まれるのが一番嫌いなんだよ」 「私、そんな顔してる?」 「してるだろ。さっきからずっと不機嫌そうな顔しやがって」 後ろめたいことがあるのは、彼の方じゃないか。 私は言い争うことなく立ち上がり、箱を開けた。エビフライに、カニクリームコロッケ、それに海鮮ちらし。並んだ料理を指差し、静かな声で言った。 「これ、本当に私のために買ってきたの?私、シーフードアレルギーだって、忘れたの?」 彼は一瞬固まった。 「知らなかった……いや、これはもも……友達が持たせてくれたんだ」 「桃子でしょ」 彼の眉間に皺が寄った。 「俺のこと、探ってるのか?」 私はスマホを掲げ、SNSのタイムラインを開いた。 何度もスワイプしても、出てくるのは彼と父の写真ばかりだった。 「見たくなくても、目に入ってくるのよ」 彼は私をじっと見つめると、背を向けてバーカウンターから酒瓶を取り、グラスに注いで一気に飲み干した。 「お前の父さんの誕生日に、電話一本くらいかけてやれよ。お前が拗ねてるからって、俺まで一緒になって意地を張らなきゃいけないのか?」 その声には疲労が滲んでいた。 「あの時、お前が素直に父親に頭を下げていれば、俺だって10年も苦労せずに済んだかもしれないんだぞ。はあ……麻理子、俺はもう、本当に疲れた」 彼は私を責めていた。私が、彼の成功への近道を用意してやらなかったことを。 私は寝室に戻り、そのままドアを閉めた。 「今夜はひとりで寝たいの」 …… 昨夜の言い争いは、結局うやむやなまま終わった。 そのまま私たちは、これまでにないほど長く口をきかなくなった。 彼が出勤している間に、私は自分の荷物を少しずつ片づけ始めた。 戸棚にしまってあった上等な昆布や干し椎茸、いただきものの鰹節も、すべて箱に詰めた。 何年もかけて少しずつ集めてきたお気に入りの調味料も、一つ残らず。 去年仕込んだ梅酒もちょうど飲み頃になっていたので、そのまま新しい家へ送った。 ナナも例外ではなく、車を手配して先に送り届けた。 …… 土曜の夜8時、綾人が帰宅したばかりで、まだカバンも下ろしていないうちに言った。 「桃子が明日の夜、うちの母を呼んだ。両家で食事するから、お前も来い」 私はスマホをいじる手を止めた。 「……断ってもいい?」 彼はまっすぐに私を見た。 「両家そろって食事する意味くらい、お前にもわかってるだろ。都合のいいところだけ受け入れて、恵まれているくせに、不満そうな顔をするな」 どういう意味なのか。 婚約?それとも結婚? けれど、その相手は私なのか、それとも桃子なのか。 私はそれ以上尋ねず、頷いて「わかった」とだけ言った。 理由なんてない。ただ、このふたりがどこまで進んでいるのか、知りたかっただけだった。 翌日、私が到着した時には、個室にはすでに人が揃っていた。 桃子は皆に囲まれるようにして中央に座り、何を話したのか、深川由加里(ふかがわ ゆかり)を絶えず笑わせていた。 私を見ると、由加里は笑みを引っ込め、素っ気なくひと言だけ言った。 「遅かったわね」 20年以上も父親らしいことをしてこなかった私の父、荒木清蔵(あらき せいぞう)が、初めて父親らしい態度を取った。 湯呑みを音を立ててテーブルに置いた。 「なんでこんな時間に来るんだ。目上の人間を待たせるなんて、どういうつもりだ」 私が答える前に、桃子が近づいてきて、笑いながら場を取り繕った。 「お姉ちゃんのせいじゃないよ。綾人さんが私を迎えに来てくれたせいで、お姉ちゃんまで遅れちゃったんだから」 私は頷いた。 「ええ、確かにあなたのせいね」 第4話 その場の空気は、しばらく気まずいものになった。 綾人は私を一瞥すると、すぐに桃子のために場を取り繕った。 「会社でちょっとトラブルがあって、桃子に頼み事をしていたんだ。だから俺が車で迎えに行った。頼み事をする側なら、それなりの態度を見せないとな」 親たちからどっと笑い声が上がった。 彼らはまた、和やかな家族団らんに戻っていく。 私だけを除いているけれど。 食事の席で、話題は綾人が起業してからの苦労話に移った。 由加里がグラスを掲げた。 「清蔵さん、綾人がいつもお世話になっています」 そう言って、私の父に酒を注いだ。 「綾人から全部聞いてますよ。あの子が一番苦しかった時、あなたが目をかけてくださったおかげで、なんとか乗り越えられたって」 私の箸が止まった。 私の努力と犠牲が、父の恩情にすり替えられていた。 父は得意げな顔をした。 「たいしたことじゃないですよ」 父は桃子の手をぽんと叩いた。 「綾人くんには本当に世話になったからな。桃子がM国にいた3年間も、何度も会いに行ってくれただろ。俺がそばにいてやれない時も、ずいぶん支えてもらった。今日は俺から一杯注がせてくれ」 由加里は嬉しそうに顔をほころばせ、しきりに言った。 「まあ、当然のことをしたまでですよ」 綾人と桃子は目を合わせ、微笑み合った。私が一度も見たことのない、二人にしかわからない空気の中で。 私は黙って箸を伸ばし、目の前の料理を少しだけ口に運んだ。けれど、何を口にしても、ひどく苦く感じた。 3年間で、彼は78回出張していた。そのうち51回が、M国行きだった。 一度、私が高熱で寝込んでいた時があった。今回だけは行かないでほしい、と私は頼んだが、彼はただ「悪いな」とひと言だけ言い残し、そのままM国行きの飛行機に乗った。 私はてっきり、彼が仕事のために飛び回っているのだと思っていた。けれど本当は、その飛行機の向こう側に、桃子がいただけだった。 私は箸を置き、口元を拭って、席を立とうとしたとその時、桃子の声が響いた。 「お姉ちゃん、こんなに長い間、恥ずかしいと思わないの?」 私の足が止まった。 「何が?」 「もう我慢できないから全部言うね。お姉ちゃんだって大卒なのに、どうして働きに出ないの?綾人さんだって人間なんだから、疲れることもあるんだよ」 私を責めるその目には、綾人を気遣う気持ちが隠しきれずに滲んでいた。 もう、演技すらする気がないのだろうか。 「綾人がそう言ったの?」 「彼は何も言ってないよ。でも、見てればわかる」 私は綾人を振り返った。 「そう。私を養う余裕はもうないってことね」 彼は私を見つめ、ふいに口を開いた。 「桃子の言う通りだ。お前もそろそろ、自分の仕事を持つべきだ」 私に、仕事がなかったとでも言うのだろうか。 綾人の起業を手伝う前、私はミシュラン三つ星レストランのメインシェフだった。 国内でも指折りの若手シェフだった。自分の業界で、第一線まで上り詰めていた。けれど、彼のために、そのすべてを手放した。 それなのに今、彼の口から語られる私は、何もせず養われているだけの人間になっていた。 人から後ろ指を指されるような存在に。 しばらくして、私は口を開いた。 「わかった」 そのひと言を言い終えると、私は席を立ち、そのまま歩き去った。 誰も引き止めなかった。まるで、私がとっくにここを去るべき人間だったかのように。 第5話 翌朝目を覚ますと、綾人はすでに食卓につき、私を待っていた。 「麻理子、昨日のお前の態度に、母はひどく腹を立ててるぞ」 私はコップにぬるま湯を注ぎ、数口飲んだ。 「それで?」 「少しは反省しないのか」 「何を反省するの?」 「遅刻したこと。場の空気を読まなかったこと。それに、桃子に対する態度もだ」 私はコップを置き、彼を見た。 「それで、何が言いたいの?」 彼は私の視線を受け止め、不満げに言った。 「麻理子、俺の我慢にも限度がある。本当に別れることになってから泣きついてきても、俺はもう慰めたりしないからな」 私はふいに顔を上げた。 「泣いたりしない。慰めてもらう必要もないわ」 彼は思わず失笑した。 「ふっ……あれだけ長い年月が経っても、相変わらず意地っ張りだな。 俺が別れを切り出すはずがないって、そう決めつけてるんだろ」 私は目を逸らさず、彼の心の奥まで見透かすように見つめた。 「じゃあ聞くけど、あなたは切り出すの?」 彼は私の視線を避け、声を落とした。 「……わからない」 わからない、というのは本当だろうか。それとも、単に言う勇気がないだけなのか。 けれど、もうどちらでもよかった。私は彼の横を通り過ぎ、キッチンに入った。 「ご飯、食べた?」 彼は一瞬、意表を突かれたような顔をした。 「まだだ」 「じゃあ、一緒に食べよう」 私はうどんを茹で、卵を半熟に仕上げ、刻んだねぎを添えた。食卓に出す前には、器の縁についたつゆまで丁寧に拭き取った。 彼はうどんをひと口すすり、しみじみと息をついた。 「昨日もこんな態度だったら、指輪、もう渡してたかもな」 私は一瞬、彼の言葉の意味がわからず戸惑った。 「昨夜、本当はお前にプロポーズするつもりだったんだ。指輪も、もう買ってあった」 そう言って、彼は黒いベルベットの小箱を私の前に押し出した。 そっと開けると、中には指輪が入っていた。 バラをかたどった台座に、大粒の黄色いダイヤモンドが埋め込まれている。 綺麗だった。 私はそれを手に取り、指にはめようとしたが、どうしても入らなかった。どう見ても、私のサイズじゃない。自分がまだ彼に、ほんの少しでも期待していたことに、私はふっと笑った。 10年も一緒にいて、彼が買ってくれた指輪すら、私の指には入らないなんて。 「それで、どうしてプロポーズしなかったの?」 彼は箸を置き、素っ気ない声で言った。 「桃子の言う通りだと思ったんだ。お前にも、少しはお灸を据える必要があるだろうってな」 私は指輪を箱に戻した。 「桃子は、あなたがプロポーズするつもりだったこと、知ってたの?」 「知ってたよ。この指輪も、桃子が選んでくれたんだ」 つまり、このサイズは、桃子の指のサイズだったということだ。 私は小さく笑い声を漏らし、指輪を彼の方へ押し返した。 「指輪、返すわ」 綾人は眉をひそめた。 「俺を、振るつもりか?」 私は顔を上げ、彼を見た。 「そもそも、プロポーズはしたの?」 彼は指輪を掴んでポケットにしまい、背を向けて立ち去ろうとした。 「麻理子、今回を逃したら、次がいつになるかわからないぞ」 けれど、次なんてない。私は彼の背中に尋ねた。 「綾人、プロポーズする気、あるの?」 彼は首を振った。 「お前が拒んだんだろ。しばらく仕事が忙しいから、家には帰らない」 そう言い残して、彼はそのまま家を出て行った。家の中が、恐ろしいほど静まり返った。けれど幸い、私はもう、ひとりでいることには慣れていた。 午後5時半、ちょうど退社ラッシュの時間帯。 配車アプリで呼んだ車が南大通りの交差点に差し掛かった時、赤信号に捕まった。見慣れた曲がり角に目をやり、私はふと気づいた。綾人の会社は、ここにあるのだと。 視線を向けると、誰かを待っているように、1階のロビーの入り口に、彼の姿があった。 ちょうどその時、1台の車が彼の前に停まった。桃子が車から降り、甘えるように彼の腕の中に飛び込んだ。その薬指にはめられた黄色いダイヤの指輪が、夕日を浴びて眩しく輝いていた。 人懐っこい運転手が、その光景を見て感心したように言った。 「見ました?あれ、深川社長ですよ。隣にいるの、恋人らしいです。この前、深川社長があの女性と一緒に上場の鐘を鳴らす動画がネットで拡散してましたよ。いやあ……ほらあの大きなダイヤ。近いうちに、社長夫人にでもなるんじゃないですかね」 私は、なんだか馬鹿らしくなった。あの指輪は最初から桃子のためのものだったのに、彼は「まだ私を愛している」なんて嘘で、ずっと私を騙し続けていたのだ。 私は窓を閉め、静かな声で言った。 「……行ってください」 信号が青に変わり、車は速度を上げた。 空高く、一機の飛行機が遠ざかっていった。 綾人、あなたにはあなたの築き上げた帝国がある。私には、私のありふれた日々がある。 これから先は、もうあなたにはついてはいかない。