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元夫の愛は期限切れです
夫・藤沢直哉(ふじさわ なおや)の誕生日。 私、藤沢夏帆(ふじさわ かほ)はバラの花束を抱え、彼を驚かせるつもりで、足音を立てないように...
Chương (1)
第1章
夫・藤沢直哉(ふじさわ なおや)の誕生日。
私、藤沢夏帆(ふじさわ かほ)はバラの花束を抱え、彼を驚かせるつもりで、足音を立てないように郊外の家へ入った。
すると、私たちの寝室から、男女がじゃれ合う声が聞こえてきた。
西園綾香(にしぞの あやか)が、甘えた声で言った。
「夏帆さん、今日はこっちには来ないって聞いてますけど……大丈夫ですよね?」
直哉は、私には聞かせたことのない優しい声で答えた。
「心配しなくていい。あいつは俺に逆らえない。今日はこっちに来るなって言ってある。だから来ないよ」
床には、脱ぎ散らかされた服と、崩れたケーキがあった。
私は二人に声をかけることも、問い詰めることもせず、そっとドアを閉めて家を出た。
第1話
夫・藤沢直哉(ふじさわ なおや)の誕生日。
私、藤沢夏帆(ふじさわ かほ)はバラの花束を抱え、彼を驚かせるつもりで、足音を立てないように郊外の家へ入った。
すると、私たちの寝室から、男女がじゃれ合う声が聞こえてきた。
西園綾香(にしぞの あやか)が、甘えた声で言った。
「夏帆さん、今日はこっちには来ないって聞いてますけど……大丈夫ですよね?」
直哉は、私には聞かせたことのない優しい声で答えた。
「心配しなくていい。あいつは俺に逆らえない。今日はこっちに来るなって言ってある。だから来ないよ」
床には、脱ぎ散らかされた服と、崩れたケーキがあった。
私は二人に声をかけることも、問い詰めることもせず、そっとドアを閉めて家を出た。
……
さっき聞いた二人の笑い声が、耳から離れない。
思い出すだけで吐き気がした。あの家には、もう戻りたくない。
私は自分で束ねた花束を、門を出た先のゴミ置き場に捨て、秘書の小野寺遥(おのでら はるか)に電話をかけた。
「小野寺さん、郊外のあの家を売却する手続きを進めてください。それから、来週までに湊崎市で抱えている仕事をすべて片づけられるよう、調整してください」
窓の外に浮かぶ月をぼんやり眺めていると、直哉から電話がかかってきた。
「夏帆、今日が何の日か分かってるよな?少しは俺のことも考えろよ。稼げって言ったからって、本当に仕事しかしてないのか?俺へのプレゼントは?」
誕生日のことで直哉からこんなふうに責められたのは、これが初めてだった。
私はこの5年、毎年欠かさず直哉の誕生日を祝ってきた。
彼に喜んでもらえるよう、毎年、時間をかけてプレゼントを選んだ。
そしていつも、その贈り物に彼専用の家族カードも添えていた。
直哉はそのたびに私を抱き寄せ、愛おしそうに私を見つめた。
「夏帆、ずっと大事にするから」
私はコートの襟元をぎゅっと掴み、こみ上げる感情を必死に抑えた。
「仕事で立て込んでて忘れてた。あとでちゃんと渡す」
私がそう答えると、直哉の声はすぐに柔らかくなった。
「夏帆、愛してる。明日、迎えに行く」
私は答えず、車で会社近くのマンションへ戻った。
エレベーターに乗ったところで、SNSの通知が一件表示された。
知らないアカウントから、私宛てのメンションが届いていた。
投稿文は、こうだった。
【彼の30歳の誕生日に、最高のプレゼントを】
添えられていたのは、かなりきわどいポートレート写真の数々だった。
写真に写っているのは、綾香だった。
直哉が最近、撮影現場で目をかけている後輩の新人写真家。そして、さっきあの家のベッドにいた女だ。
返信はしなかった。ただ、いいねを押そうとした瞬間、その投稿は削除された。
翌日の昼、直哉は綾香を連れて私のオフィスに押しかけ、ドアを乱暴に蹴り開けた。
そして、私の前にスマホを叩きつけ、声を荒らげた。
「お前、綾香は俺の後輩で、仕事でも面倒見てるだけだって知ってるだろ?
SNSに写真を上げただけで、そこまで目くじら立てるか?わざわざ消させるなんて、みっともない真似すんなよ。
綾香はちゃんと俺の誕生日を祝ってくれたぞ。お前は?何を用意してくれたんだよ」
私は目の前の書類に視線を落としたまま、顔を上げなかった。
直哉の考えていることなど、とっくに分かっていた。
直哉が写真家としてここまで続けてこられたのは、この何年も私がお金を出してきたからだ。
新しいカメラが欲しいと言えば、買ってあげた。
スタジオを作りたいと言えば、手を貸した。
海外で勉強したいと言えば、学校を探し、手続きから生活の準備まで、すべて整えた。
愛していたから、彼がいつか写真家として名を上げる日まで、待てると思っていた。
でも今は、もう待ちたくない。
綾香は直哉の腕をぎゅっとつかんだ。
「直哉さん、大丈夫です。私、怒ってませんから。夏帆さんのこと、責めないであげてください」
目の前の女は若く、美しかった。
そのうえ声まで柔らかい。けれど、私を見る目には、少しの遠慮もなかった。
私は書類を閉じ、困ったように二人を見た。
「直哉、会社が今かなり厳しいの。これ以上、あなたに回せるお金はない」
直哉の表情がさっと強ばった。
「だったら、そんな会社やめちまえよ。今の俺なら、お前ひとりくらい養える。会社なんか売って、専業主婦にでもなって俺の世話をしてろ」
そう言い捨てると、直哉は綾香を連れて、振り返りもせず出て行った。
直哉は才能のない写真家だ。
でも同時に、プライドだけはやたらと高い。
仕事のために毎日駆け回る私を、彼はどこかで見下していた。
彼の中では、夢を追っている自分だけが純粋で、お金のために働く私は俗っぽい人間なのだ。
私が稼ぎ、直哉が夢を追う。
これまでの私たちは、そんな役割分担で成り立っていた。
私は5年間、直哉に本気で尽くしてきた。
けれど今日、私は嘘をついた。
第2話
もう直哉に、1円たりとも使いたくなかった。
自分の時間も体も削って築いてきたものを、あんな最低な男に食いつぶされるのはごめんだ。
どうせ終わらせるなら、最後くらいきっぱり片をつけたかった。
その日のうちに、私は郊外の家がある住宅地の管理事務所へ行き、防犯カメラの映像データの控えを取っておいた。
それから会社近くのマンションへ戻ると、直哉はすでにキッチンに立っていた。
彼は私の好きな料理ばかりを並べていたが、私は少しも食べる気になれなかった。
直哉は、私が箸を持ったまま何も口に運べずにいるのを見ると、立ち上がって味噌汁をよそってくれた。
「また忙しくて、食べるの忘れてただろ。まず味噌汁だけでも飲めよ。少しは落ち着くから」
私は椀を受け取ったものの、口をつける気になれなかった。
ただ、ぼんやりと湯気を眺めていた。
直哉は料理が得意で、最初の頃は毎朝、私に朝食を用意してくれた。
毎朝は大変だろうと思って断っても、彼はいつも笑って私を席に座らせた。
「夏帆は働きすぎなんだから、朝くらいちゃんと食べろよ。倒れたらどうするんだ」
けれど、いつの間にか彼が私のために料理をすることは減っていった。
ある日は、近所のコンビニで適当に買ってきたおにぎりやパン。
またある日は、夜景の撮影があると言って、そのまま帰ってこないことさえあった。
彼の周りには、いつも綺麗なモデルたちがいた。
そのことで私が怒ると、直哉は決まって逆ギレした。
「俺の仕事なんだから仕方ないだろ。気に入らないなら離婚すればいい」
浮気をしていると断言できる証拠はなかった。
だから私は、そのたびに自分に言い聞かせるようにして、直哉を信じてきた。
けれど、時間が経つにつれて、あの頃の気持ちは少しずつ薄れていった。
仕事を終えて帰っても、温かい料理が待っていることを、私はもう期待しなくなっていた。
直哉の料理をおいしいと思うことも、いつの間にかなくなっていた。
そして、直哉自身のことさえ、もう好きではなくなっていた。
彼がほかの女を抱いていた光景が頭に浮かび、吐き気がした。
私は箸を持ったまま、どうしても口をつける気になれなかった。
そんな私を見て、直哉は箸を床に叩きつけた。
「そんなに俺の飯が嫌か?それとも毎日外でうまいものばっかり食って、口が肥えたのか?
分かってんのか?俺の手料理を食いたがる女なんて、いくらでもいるんだぞ」
私は箸を置き、静かに彼を見た。
「じゃあ、その人たちに食べさせたら?きっと何でもおいしく食べてくれるんでしょう」
直哉の顔が怒りで強ばった。
「お前、何が言いたいんだよ。いつもいつも疑ってばかりで、自分がおかしいと思わないのか?
綾香は俺の後輩で、見込みがある。先輩として少し面倒を見てるだけだ。それの何が悪いんだよ」
私は椅子にもたれたまま、直哉が言いたいだけ言うのを黙って聞いていた。それから味噌汁に手を伸ばしたところで、直哉に椀ごと取り上げられた。
「お前みたいな女に、俺の作った飯を食う資格なんてない」
直哉は振り返りもせず、椀の中身をゴミ箱に捨てた。
そして上着をつかむと、乱暴にドアを閉めて出て行った。
さっきまで湯気を立てていた料理は、テーブルの上で少しずつ冷めていった。見ていると、自分の心まで冷えていくようだった。
以前、空腹で低血糖を起こし、今にも倒れそうになったことがある。あの時の私は必死に体を支えながら、横になったばかりの直哉を揺り起こした。
けれど彼は、うんざりしたように背を向け、布団に潜っただけだった。
「俺はお前の世話係じゃない。腹が減ってるなら、自分で何か作ればいいだろ。
今夜は綾香の撮影を手伝うんだ。そんな時間ない」
力が抜けて、その場に倒れ込んだ。そのまま意識が途切れた。
かつて私を愛してくれたはずの男が、いつからこんなに冷たくなってしまったのか、分からなかった。
目を覚ましたときには、部屋に直哉の姿はなかった。
思い出したくないことばかりが、頭の中に何度もよみがえった。
直哉に愛されていなかったと思い知らされた記憶が、次々と押し寄せてきた。
私はいつも頼んでいる家事代行に連絡し、部屋中を隅々まで掃除してもらった。
直哉の痕跡を、そこからすべて消し去るために。
第3話
考えてみれば、残された時間はあと5日しかなかった。
私は立ち上がり、会社へ戻って残業を続けた。
人けのないオフィスで、直哉と私の写真だけがやけに目立っていた。
それは、この5年で一番幸せだった記憶だ。
直哉が初めて買ったカメラで、最初に撮った一枚だった。
あのときの直哉は、うれしそうに私を抱きしめてくれた。
「夏帆、いつかウェディングフォトを撮ろうな。世界で一番きれいに撮ってやるから」
けれど5年たっても、プロポーズも、結婚式も、ウェディングフォトもなかった。
入籍だって、直哉と慌ただしく役所へ婚姻届を出しただけだった。
美しい思い出だったことは、たしかだ。
それでも、もう残しておきたいとは思えなかった。
私は写真を破り、ゴミ箱へ捨てた。
気づけば午前2時を回っていて、私は休憩室でそのまま眠りに落ちた。
すると、直哉の撮影アシスタント、白井悠(しらい ゆう)から電話がかかってきた。
「夏帆さん、迎えに来てもらえませんか?直哉さん、酔っぱらってしまって……どうしても連れて帰れないんです」
私は電話を切ると、離婚する前に夫に死なれて困る、と心の中で悪態をつきながら車のキーを手に取った。
店の個室では、直哉が綾香に寄りかかっていた。
悠がいくら引き離そうとしても、二人は離れなかった。
悠はひどく気まずそうに私を見た。
「夏帆さん、直哉さんは酔っているだけなので、あまり気にしないでください」
私はにこやかに笑い、足元にあった台車をつま先で悠のほうへ押しやった。
「大丈夫。そんなに離れたくないなら、二人まとめて運べばいいわ」
悠は目を丸くしたが、結局、店員を呼んで二人を台車に乗せ、そのまま運び出した。
私は近くのホテルに部屋を取り、二人を泊まらせることにした。
ところが部屋の前で、直哉はいきなり私を突き飛ばした。
「どけよ、夏帆。俺は綾香しか見てない。お前の顔なんか見たくもない」
私は一瞬固まったが、すぐにスマホを取り出して彼に向けた。
「直哉、もう一度言って」
直哉は幸せそうに笑い、スマホのカメラに向かって、はっきりと口にした。
「俺は綾香しか見てない。今も、これからも」
私は何も言わず、口元だけで笑って、直哉を部屋へ押し込んだ。
ホテルを出ると、空から雪が舞い落ちていた。
まるで、空にまで笑われている気がした。
車に乗り込んだ途端、涙が止まらなくなった。
直哉は昔、私にも同じようなことを言ってくれた。
けれど今、その言葉は綾香に向けられている。
この5年、私はなんて滑稽だったんだろう。
彼がくれる甘い言葉を、馬鹿みたいに本物だと信じていた。
私はずっと、直哉が私を愛していないという証拠を探していた。
それでも、彼が別の女を愛しているのだと、その口から聞かされた瞬間、張りつめていたものが一気に切れた。
私は車の中で、涙が涸れるまで泣き続けた。
翌朝早く、直哉から電話がかかってきた。
「昨日の夜は酔ってたんだ。何か変なことを言ったとしても、本気にするなよ」
直哉が本当に好きだったのは誰なのか、もう私には分からなかった。ただ、昨夜のあの迷いのない目だけは、嘘ではなかった。
私は責めるでもなく、静かに答えた。
「うん、分かってる」
電話の向こうから、突然綾香の声が聞こえた。
「直哉さん、このワンピース、どうしてもファスナーが上がらなくて……手伝ってもらえませんか?」
直哉はわざとグラスを床に落として割り、綾香の声をかき消そうとした。
「野良猫が水をこぼしたんだ。ちょっと片づけてくる」
私は気のない声で答えた。
「そう。野良猫は汚いから、ちゃんと消毒してね」
第4話
直哉があそこまで取り乱した声を聞くのは、初めてだった。
これまでも怪しいと思うことはあったが、どこかで一時の遊びにすぎないと思い込もうとしていた。
けれど今回だけは違う。直哉は本気で綾香に惹かれている。
私はテーブルの上のコーヒーを一息に飲み干した。弁護士が用意した離婚協議書は、すでに目の前に置かれていた。
私は直哉の不倫写真を離婚協議書の間に挟み、バッグへ入れた。
5年かけて作り上げてきたこの場所が、少しずつ、何もなかった頃の姿に戻っていく。
それを見ていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
ここには、必死に働いてきた私の時間が詰まっている。
けれど会社の将来を考えるなら、汐見市へ移したほうがいい。
3年前にも一度、会社の拠点を移そうとしたことがある。
けれどそのとき、直哉は丸1か月、ことあるごとに私を引き止めた。
――そんなに遠くへ行かないでくれ。夏帆がいないと無理だ。きっと寂しくなる。
彼はそんな言葉を、何度も何度も繰り返した。
……
あの頃の私は、傷ついたように振る舞う直哉にすっかりほだされていた。
私は残った。けれど直哉は、そこから少しずつ私から離れていった。
彼はもう、私に優しくしてくれることも、気遣ってくれることもなくなった。
私も、彼に愛されていた頃の感覚さえ、忘れかけていた。
今の直哉が私に優しくするのは、私から何かしらの利益を得ようとしていただけだった。
時には、ご機嫌取りさえ雑になった。
期待しないことに慣れすぎて、私は離れる勇気まで失っていた。
あの日、直哉の裏切りを目の前で見るまでは。
だから今度こそ、私は離れると決めた。
スマホにメッセージの通知が立て続けに届き、私は現実に引き戻された。
昨夜、私がホテルを出たあと、綾香はこっそり直哉の部屋に入り込んでいた。
送られてきた写真は、どれも二人で寄り添っているものばかりだった。
何枚も続けて写真を送りつけたあと、綾香は勝ち誇ったようにメッセージを送ってきた。
【夏帆さん、困っちゃいます。直哉さん、私を抱きしめてないと眠れないって言うんです】
私は冷たく笑い、その写真を一枚ずつ保存した。
【それなら今度、直哉に言って、特別手当でも出してもらわないとね】
綾香が言い返してくる前に、私はそのままブロックした。
直哉には【出張で忙しい。しばらく連絡しないで】とだけ送った。
そのあと私は汐見市へ向かい、移転に向けた仕事を片づけた。
再び直哉に会ったのは、3日後だった。
郊外の家に仕事の資料をいくつか置いたままだったので、取りに戻る必要があった。
ほんの数日来なかっただけなのに、玄関には女物のハイヒールが何足も並んでいた。
私が黙って玄関を見ていると、直哉が慌てて口を開いた。
「綾香が少し前に、前の部屋を急に出なきゃいけなくなったんだ。行くあてもない若い女の子を、ひとりで放っておけないだろ。それでゲストルームに2日だけ泊めてる。夏帆、怒ってないよな?」
私が黙っていると、直哉は近づいてきて私を抱き寄せた。
「嫌なら、明日には出ていかせる。でも綾香は仕事で面倒を見ている後輩だし、何かあってからじゃ遅いだろ。会社近くのマンション、綾香に貸してやれないか」
私は直哉の腕をほどき、一歩離れた。
「私が稼いだお金で、あなたの後輩の面倒まで見るつもりはない。1日だけ待つから、ここにあるものを全部片づけて」
今日の直哉は、いつもと違っていた。
私がきつく言っても言い返さず、ただ黙って、妙におとなしくうなずいただけだった。
彼は私をソファに座らせると、目の前で片膝をついた。
「夏帆、明日ウェディングフォトを撮りに行かないか」
私はその顔を冷めた目で見て、淡々と言った。
「明日は綾香と約束してるんじゃなかった?私に付き合ってる時間なんてあるの?」
後ろめたいことがある男ほど、急に優しくなる。
そのとき、ふと腑に落ちた。直哉がこれまでたまに見せてきた優しさも、もしかすると全部、やましさの裏返しだったのかもしれない。
直哉は、損得だけはよく分かっている。
写真家として売れるまでは、たとえ私を愛していなくても、この金づるを手放す気はなかったのだ。
直哉は一瞬だけ笑顔を消し、すぐにスマホを取り出して電話をかけた。
「綾香、明日は夏帆とウェディングフォトを撮りに行く。明日の予定はずらしてくれ」
電話の向こうから、綾香の泣きそうな声がした。
「直哉さん、ひどいです。昨日、約束してくれたじゃないですか」
直哉は急に真面目ぶった声を出した。
「俺にとって一番大事なのは夏帆に決まってるだろ。これ以上わがまま言うなら、俺も怒るぞ」
そう言って電話を切ると、直哉はあの夜のことを何度も私に説明し始めた。
取引先に無理に飲まされて、酔っていただけだ。綾香のほうが勝手にしがみついてきた。直哉はそう言い張った。
何度も同じ言い訳を繰り返す直哉を見ているうちに、私は思わず笑ってしまった。
「直哉、もういい。私は、自分の目で見たものしか信じない」
バッグから離婚協議書を取り出そうとしたそのとき、綾香からまた電話がかかってきた。
「直哉さん、私、事故に遭っちゃって……今、病院にいるんですけど、付き添いの人を呼んでくださいって言われたんです。両親は遠くてすぐには来られないし、こっちで頼れるのは直哉さんだけなんです」
直哉はすぐに腰を上げ、上着を手に取った。
「夏帆、少し出てくる。家で待ってろ。帰ったら埋め合わせするから」
私はテーブルの上の枯れきったバラに目をやり、薄く笑った。
「行ってらっしゃい」
直哉は私が許したと思ったのか、うれしそうにこちらを見ると、スリッパのまま玄関を飛び出し、ドアを乱暴に閉めた。
第5話
私はバラをゴミ箱に捨てた。
私はバラが好きだった。私が好きなものなら、自分も好きになれる。直哉はそう言っていた。
出張から戻るたび、家にはいつも鮮やかなバラが飾られていた。
けれど花は、いつか必ず枯れる。
愛も、いつかは終わる。
今夜は大雪のせいで、このあたりの道が通行止めになっていた。
身動きが取れず、私は持っていくものを少しずつ片づけ始めた。
直哉が戻ってきたのは、日付が変わってずいぶん経ってからだった。私は書斎にしゃがみ込み、書類を整理していた。
彼のズボンの裾は雪で濡れていた。冷たく赤くなった手で、私をリビングまで引っ張っていった。
直哉は背後から私を抱きしめ、ソファの上に置かれたウェディングドレスを指さした。
「気に入った?明日これを着て撮ったら、きっと誰よりきれいだよ。
明日は余計なこと、何も考えなくていい。俺の隣で笑っててくれれば、それでいい。誰にも邪魔させない。綾香にもな。
なあ、夏帆。俺たち、ずっと二人でやってきただろ。そろそろ子どものことも考えてみないか」
私は答えず、ただウェディングドレスを見つめていた。
3年前、同じことを口にしたのは私のほうだった。けれど直哉は、少しも迷わず首を横に振った。
「まだしばらくは二人でいいだろ。子どもなんていたら、今みたいに自由にできなくなるし、俺にはまだ無理だ」
今さら優しい夫のふりをされても、嫌悪感しかなかった。
私はもう、少し優しくされただけで舞い上がっていた頃の私ではない。
私の心は、もう揺らがなかった。
それでも直哉は諦めず、キスをしようと顔を近づけてきた。
私は顔をそむけて、彼を避けた。
直哉はわずかに眉を寄せたが、私は落ち着いた声で言った。
「生理が来たから、今日は無理」
言い終えると、直哉はすぐにキッチンへ向かい、牛乳を温め始めた。
キッチンに立つ彼の背中を見て、私は思わず目を疑った。
「あなた、本当に直哉なの?」
直哉はもうずっと、私の体調を気にかけることなどなかった。
毎月、生理痛でベッドの中で丸まっていても、直哉は冷たく見るだけで、ひどい時は別の部屋へ行って寝てしまった。
だから今になって急に優しくされても、理由はひとつしか思い浮かばなかった。
直哉はただ、私に疑われたままでいたくないだけなのだ。
「夏帆、今まで俺が悪かった。これからは、生理でつらい日はちゃんとそばにいるからな」
直哉はホットミルクをテーブルに置くと、私のほうへそっと押しやった。
私は手をつけなかった。胸の奥が、かえってざわついた。
まさか、会社のことに気づかれたのだろうか。
その夜、直哉は私の言うことを何でも聞いた。
寝室が汚れていて寝たくないと言うと、直哉は予備の布団をリビングへ運び、ソファで眠れるように整えた。
二人でソファに寝るのは狭すぎて嫌だと言うと、彼は床に布団を敷いた。
眠り込んだ直哉を見ていると、初めて出会った頃の彼に戻ったように思えた。
あの頃も、彼はこうして私を甘やかし、こんなふうに優しかった。
それなら、最後くらいきちんと別れを告げよう。
……
翌朝は、よく晴れていた。
私は眠い目をこすった。
「直哉、今夜、カウントダウンの花火があるの。一緒に行ってくれる?」
「もちろん」
直哉は迷うことなく、私の肩にコートをかけてくれた。
その笑顔は、昔みたいに優しかった。
もしかすると彼は、今日が5年前に私たちが出会った日だと覚えているのかもしれない。
私は花火会場で、寒さに震えながら直哉を待った。けれど彼は来なかった。
帰ろうとしたそのとき、直哉から電話がかかってきた。
「夏帆、綾香が大変なんだ。病院に行かなきゃいけない。もう少し待っててくれ。落ち着いたらすぐ行くから。
怒らないでくれ。綾香がひどくお腹を痛がってて、出血もあるらしい。あいつは俺が面倒を見てる子だから、放っておけないんだ」
私は、それが綾香の計算だと最初から分かっていた。
3日前、彼女は私にエコー写真を送りつけてきた。
【直哉さんの子です。夏帆さんを選ぶために、自分の子を見捨てられると思いますか?】
けれど直哉は知らない。
花火はもう終わっていた。
私がいつまでも同じ場所で彼を待つはずがない。
その夜、私は離婚の件を弁護士に任せた。
そして取れるいちばん早い便を押さえ、汐見市へ向かった。