自分が替え玉?身代わりの代償は永遠の別れ

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自分が替え玉?身代わりの代償は永遠の別れ

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結婚式の日、ちょうど指輪を交換しようとした時だった。 突然一人の女が駆け寄り、手に持ったナイフで藤堂清也(とうどう せいや)を突き刺そ...

Chương (1)

第1章

結婚式の日、ちょうど指輪を交換しようとした時だった。 突然一人の女が駆け寄り、手に持ったナイフで藤堂清也(とうどう せいや)を突き刺そうとした。 藤堂雪乃(とうどう ゆきの)は反射的に身を翻し、清也を庇った。 ナイフが胸に刺さった瞬間、雪乃の身体から力が抜け、そのまま清也の腕の中へ崩れ落ちた。 突き飛ばされた女は、声を振り絞って叫んだ。 「清也、私たちの決着はまだついてない!何が結婚よ!?」 雪乃は、その女が6年前に清也と絶縁した篠原莉子(しのはら りこ)だと悟った。 騒然とする中、押さえつけられていた莉子は突然暴れ出し、その刃先を自分の首に向けた。 「清也、もう疲れたわ。二人の縁も、ここで終わりにしてやる」 雪乃を抱えていた清也は瞳を見開いて手を離すと、莉子のもとへ駆け寄り、素手でナイフを掴み止めた。 その勢いで、雪乃は硬い地面に強く叩きつけられた。 胸からの血が、純白のドレスを真っ赤に染め上げていく。 清也は莉子を強く抱きしめ、傷つけまいとその身を庇っていた。 そして、情緒不安定で気を失った莉子を抱き上げ、目の前を急ぎ足で通り過ぎる清也を見る。 最初から最後まで、清也が自分を振り返ることは一度もなかった。 第1話 藤堂雪乃(とうどう ゆきの)は冷静沈着で理知的な女医として有名で、多くの男たちの初恋の人でもあった。 そんな雪乃が、なぜか陰鬱で近寄りがたい藤堂清也(とうどう せいや)に一目惚れしてしまった。 藤堂グループのトップに立つ清也。6年前、婚約者だった女性の父親が婚約パーティーの最中に泥酔して火事を起こし、清也は藤堂家の唯一の生き残りとなった。 それ以来、清也はかつて婚約までした恋人である篠原莉子(しのはら りこ)と絶縁し、誰も寄せ付けないほどに性格が歪んでしまった。 誰もが雪乃の恋は実らないと思っていたが…… 氷のように冷たい清也が、雪乃にだけは心を開き、3年間もの間、独占的で優しい愛を捧げ続けた。 結婚式の日、ちょうど指輪を交換しようとした時だった。 突然一人の女が駆け寄り、手に持ったナイフで清也を突き刺そうとした。 雪乃は反射的に身を翻し、清也を庇った。 ナイフが胸に刺さった瞬間、雪乃の身体から力が抜け、そのまま清也の腕の中へ崩れ落ちた。 突き飛ばされた女は、声を振り絞って叫んだ。 「清也、私たちの決着はまだついてない!何が結婚よ!?」 雪乃は、その女が6年前に清也と絶縁した莉子だと悟った。 騒然とする中、押さえつけられていた莉子は突然暴れ出し、その刃先を自分の首に向けた。 「清也、もう疲れたわ。二人の縁も、ここで終わりにしてやる」 雪乃を抱えていた清也は瞳を見開いて手を離すと、莉子のもとへ駆け寄り、素手でナイフを掴み止めた。 その勢いで、雪乃は硬い地面に強く叩きつけられた。 胸からの血が、純白のドレスを真っ赤に染め上げていく。 清也は莉子を強く抱きしめ、傷つけまいとその身を庇っていた。 そして、情緒不安定で気を失った莉子を抱き上げ、目の前を急ぎ足で通り過ぎる清也を見る。 最初から最後まで、清也が自分を振り返ることは一度もなかった。 雪乃は口の端から血を溢れさせながら、皮肉な笑い声を漏らした。 なぜ清也があの時、自分と付き合う気になったのか分かった気がした。 目の前の莉子の顔が、自分によく似ていると気づいた瞬間、すべてを悟った。 自分はただ、莉子の「替え玉」だったということに。 意識が途切れる寸前、客たちの悲鳴が耳に届いた。 「花嫁が大量に出血してる!早く救急車を!急ぐんだ!」 …… 病院での3時間にわたる救命措置を経て、雪乃はついに意識を取り戻した。 枕元に立つ清也は、一枚の書類を差し出した。 「これにサインしてくれ」 莉子に対する示談書だった。 雪乃は冷めた表情を浮かべた。刃先は心臓からわずか半ミリの位置。まだ生死の境をさまよっている状態なのに、自分の夫が目覚めた自分に最初にかけた言葉は、自分を殺しかけた人間を許せというものだったのだ。 「清也」と雪乃は掠れた声で呼んだ。「私と結婚したのも……私が元恋人さんに似ているから?大切にしてくれたのも……私が替え玉だから?」 清也は答えず、ただ沈黙を守った。 その沈黙は何の弁明よりも残酷で、鈍いナイフとなって雪乃の心臓をえぐった。 清也は、生理中なら何十億もの契約書さえ放り出して一晩中お腹をさすってくれたし、連休には全ての仕事をキャンセルして海外へオーロラを見に連れて行ってくれた。こっちの夜勤のたびに夜食を届けて、明け方には病院の入り口で毎日欠かさず出迎えてくれた…… そのすべての温もりも愛も、自分が莉子に似ていたからに過ぎなかったのだ。 「莉子との間には埋められない深い恨みがある。もう一生、関わることはない。 だから、俺の妻は君だけだ」 清也は少し間をおいて続けた。「だが、莉子を刑務所に入れる気はない。雪乃、この示談書にサインしてくれ。俺を困らせないでくれ」 微かに残っていた最後の希望さえ、これで完全に断たれた。 雪乃の心は内側からずたずたに引き裂かれ、ぐちゃぐちゃになっていくのを感じた。 清也の「妻は君だけ」という言葉は、彼が自分を愛しているからではなく、ただ「莉子との復縁は不可能だから」という妥協の結果でしかないのだ。 雪乃の視線は、莉子を守ろうと素手でナイフを掴んだ清也の、厚いガーゼに包まれた手に止まった。 「仮にターゲットが私じゃなくてあなたでも、私があなたを庇ったせいで殺されそうになっても、私にサインしろって言うの?」 清也は目線を落とし、雪乃から顔をそらした。 「助けてくれなんて頼んでいない」 雪乃はふっと表情を緩め、赤く充血した目で、呆れたように笑った。 3年間の純粋な恋心を笑い、自ら身を滅ぼす道を選んだ愚かさを笑い、これこそ愛だと信じ込んでいた全ての妄想を笑った。 「そうよね。余計なことをしたのは私だわ」 3年前、雪乃は友人に頼まれて、藤堂家で清也の治療にあたることになった。 怪我をしながらも淡々と仕事に向かう清也の姿を見た瞬間、彼の放つ孤独で鋭い美しさに魅了されてしまったのだ。 あの一瞬で、すべては決まった。 冷静な雪乃が身を滅ぼす姿を、周りの者は皆「狂っている」と言った。 それでも、雪乃は自分でも驚くような行動をとった。清也への告白である。 冷酷に断られると思いきや、あの氷の彫刻のような清也はふっと微笑んだ。 「告白なんてのは、男がするものだろ? 雪乃、俺と付き合わないか?」 以来、陰鬱で近寄りがたかった清也は、雪乃にだけ甘く接するようになった。 周囲の皆が、冷淡な清也を雪乃が本当に変えたのだと驚いていた。雪乃自身も、自分だけが清也にとって唯一の例外だと思っていたのだ。 だが、すべてが自分本位な愛の勘違いだった。 それなら、もうこんな夫はいらない。 「示談書にはサインするわ」 雪乃は清也を見つめた。その眼差しは、かつてないほど冷たく、遠かった。 「その代わり、あなたも私との離婚届にサインして」 第2話 清也は、微かに眉をひそめた。 二人の結婚式は今日だが、婚姻届は2週間前に受理されていた。 「離婚は、ありえない。 莉子は早急に海外へ送り返す。1ヶ月後、君にはもっと盛大な結婚式をやり直してやるから」 清也の口調は拒絶を許さない。「示談書についてもだ。雪乃、無理強いをするような真似はしたくない」 雪乃は目を閉じた。縫い合わせたばかりの胸の傷口が、また引き裂かれたような気がした。 無理強いはしたくない? じゃあ、これは一体何なの? けれど雪乃はよく分かっていた。清也は一度言ったことは必ず実行する。 承諾しようとしまいと、結局は示談書にサインさせるはずだ。 長い沈黙の後、雪乃は目を開き、掠れた声で言った。「分かったわ」 雪乃は冷たい手でペンを受け取り、示談書の最後に名前を書いた。 清也は示談書を手に取り、雪乃の血が付着したままの結婚式のスーツのポケットから、ブラックカードを取り出してサイドテーブルに置いた。 「20億だ。莉子が君を傷つけたことへの補償金だと思え」 そう言うと、病室を後にした。 病室のドアが閉まり、雪乃は無理やり身を起こし、そのカードを手に取った。 ふと、笑いがこみ上げた。 それと同時に、理由もなく目から涙が零れ落ちた。 これが自分の3年間と、全プライドを賭けた愛の代償というわけね。 …… 夕方、病室のドアが開き、莉子が入ってきた。 自分によく似ている顔をし、あわや殺されるところだった相手を前にして、雪乃の機嫌が良くなるはずもなかった。 「出ていってください」 しかし莉子はそのまま椅子に腰を下ろし、雪乃の胸の包帯をじっと見つめた。 「ごめんなさい。あの時、カッとなって……傷つけるつもりなんてなかったんです。 あなたが示談書にサインしてくれた理由なんて分からないけれど、私、借りを作りましたね」 莉子はそこで言葉を切ると、複雑な表情を浮かべた。 「でも、清也からは離れてほしいです。私と彼は、寄り添えば寄り添うほど互いを傷つけてしまうハリネズミみたいなものなんです。離れられないのに、傷つけ合うことしかできない。次に感情を抑えられなくなったとき、あなたまで傷つけないとは言い切れないです」 誠実そうな莉子の様子に、雪乃は少なからず驚いた。 挑発でも嘲りでもなく、本心からの言葉だと分かったからだ。 清也がなぜ、これほどまでにこの宿敵に惹かれ続けているのか、少しだけ理解できたような気がした。 雪乃は伏せた睫毛の下で、かすかに口角を上げた。 「なら、清也を説得して離婚届に判を押させてください。それでおあいこです。その後は、私はあなたたちとは一切関わりません」 今度は、莉子が驚く番だった。 雪乃がこれほどあっさりと別れを決断するとは、思いもしなかったのだろう。 やがて、莉子の眼差しに影が差した。 清也は離婚するつもりがない、だから雪乃は自分に頼ったのだと、莉子もようやく理解したからだ。 「わかりました。後で送ります」 莉子は立ち上がり、メモ用紙に自分の番号を書いて去っていった。 ドアの前で、ふと立ち止まる。 「みんな知っているでしょう、父が起こした火事が原因で清也の家族を焼き殺してしまった事件。 でも誰も知らないんです。清也が報復のために、私の父だけでなく母や祖父母まで……一人残らず地獄に落としたなんて。 私にまで手を出してしまいそうだからと、清也は私を海外へ追いやったのです」 莉子の声は震え、ドアノブを握るその指も小刻みに震えていた。 「だから離婚が成立するまで、清也に伝えないでください。 じゃないと、あなたはここから出られなくなりますから」 ドアが閉まった後、雪乃はその場で愕然と立ち尽くした。指先が氷のように冷たい。 …… その後も、雪乃の意思に関係なく、清也は毎日病室へやってきた。 雪乃が好む店の料理や、小さく切られたフルーツを持ってきたり、眠る彼女のそばで仕事をこなしたりした。 雪乃は冷めた目で見ると、それがたまらなく卑しく感じられた。 結婚式の日の絶望を直接体験していなければ、まるで何事もなかったと錯覚しそうになるほどに。 ある日、看護師からファイルが一つ届いた。 中に入っていたのは、莉子が送ってきた離婚届だった。 最終ページには、確かに清也の署名がある。 仕事をしていた清也が顔を上げる。 「なんだ?」 雪乃は持っていた書類を掲げて言った。 「私のカルテよ。見る?」 雪乃の冷めた視線を受け、清也は眉間にしわを寄せてから再び視線を仕事の書類に戻した。 「いや」 雪乃は離婚届の署名を見つめ、自嘲気味に微笑んだ。 3年前は、夫婦生活のさなかでさえ、清也はどんな書類でも中身を詳しく精査する人だった。 それは、何事にも慎重だからだと思っていた。 まさか、特別扱いを受けるほど自分は清也にとって重要な存在ではなかったなんて。 清也が去ると、雪乃はすぐに離婚届を弁護士に送信した。 手続きに問題はないが、清也の本人確認書類が必要だと返事が来た。 数日間の入院を経て、雪乃は必要な書類を取るため帰宅した。 邸宅は祝い飾りが張り巡らされており、目に入るたびに傷ついた。 書類を見つけて家を出ようとした時、莉子を抱きかかえ、血相を変えた清也が駆け込んできた。 「全員外に出ろ! ここを封鎖しろ。俺の命令がない限り、誰も一歩も通すな!」 清也は使用人やボディーガードに冷たい声で言い放った。 その腕の中で意識を失っている莉子の頬は、異様なほど赤く染まっている。 医師である雪乃は一目で事態を察した。 雪乃が薬を飲まされていることに。 清也が何をしようとしているかも明白だった。 愛がまだ完全に枯れきっていなかったのか、雪乃の心臓がズキズキと痛み出す。 雪乃は書類を固く握り締め、他の者たちと一緒に立ち去ろうとしたが、背後から声が聞こえた。 「雪乃、残れ。 君は医者だ。何か突発的な事態が起きたら、対処してくれ」 第3話 清也は雪乃に一瞥もくれず、そのまま2階へと駆け上がった。 雪乃は怒りで息も絶え絶えだった。 「私は外科医であって、解毒の専門家じゃないわ。人違いじゃない?」 清也は階段で足を止めると、雪乃越しに立ち去ろうとしているボディーガードを見据えた。 「部屋の前にいろ。絶対に妻を出すな」 そう言い捨てると、莉子を抱き抱え、二人の寝室へと消えた。 雪乃は魂を抜かれたように、その場に立ち尽くした。 誰もいない広々とした邸宅で、新婚の華やぎがひどく惨めな皮肉に思えた。 寝室から聞こえてくる音が、静まり返った邸宅に響き渡る。 抑えきれない、絡み合う吐息…… 耳を塞いでも、どうすることもできなかった。 その音は壁を突き抜けて、雪乃の脳裏に焼き付くようだった。 そして、清也が何度も漏らす、切なく激しい呼び声が聞こえてくる。 「莉子……」 雪乃の体は凍りついた。 莉子。 「雪乃」ではなかったのだ。 これまでの3年間、夜を共に過ごすとき、清也は一度だって自分の名前を呼んだことがなかった。 夢の中や肌を重ねるとき以外は、「雪乃」と呼んでいたのに。 見えない巨大な手に心臓を握りつぶされ、息すらできなくなった。 現実はとうの昔に理解していたつもりだったけれど、それでもなお、張り裂けそうなほど心が痛い。 壁に掛けられたウェディングフォトを見上げた。写真の中の自分は、これ以上ないほど幸せそうな顔で、清也に身を委ねていた。 なんという皮肉だろう。 雪乃は赤く充血した目でキッチンに向かい、ハサミを手に取った。 写真の自分を、一度に全部切り刻んでいく。 さらに3階の書斎へ向かい、すべてのアルバムを引っ張り出した。 二人が歩いた場所の数だけ、思い出のツーショットがある。 サクッ、サクッ…… 自分の写っている箇所をすべて切り取って暖炉に投げ込み、燃え尽きて灰になるのを眺めていた。 夜は、ひどく長かった。 下の階からの音は、一度も止むことがなかった。 雪乃は書斎の隅で一夜を明かし、外が白み始めた頃にようやく静寂が戻ってきた。 どれくらい時間が経ったのか、扉が大きく開くと、清也が入ってきた。 シャワーを浴びたのか、体にはバスローブが雑に巻かれているだけだった。 書斎の隅でうずくまり、充血した目で青ざめている雪乃の姿を、清也は見下ろした。 一瞬、彼の目に悲しげな色が浮かんだ。 「ここで何をしてる?」 雪乃は清也を見上げ、嘲るように口元を歪めた。 「あなたの熱演に感心していたのよ……一晩中、大変だったわね」 清也は険しい顔になった。 「雪乃、いつからそんな減らず口を叩くようになった?」 「自分の夫が別の女を寝室に引きずり込んで、朝まで夢中で溺れていた時じゃない?」 雪乃の声は虚しく響く。「あ、忘れてたわ。私はただの替え玉で、ここは私の居場所じゃないものね」 清也は雪乃の目の前に立つと、何かを言いたげにじっと見つめていた。 すると急に表情が変わり、雪乃を抱き上げて立ち上がった。 何が起きたか分からぬまま叫ぶ暇もなく、雪乃は大きな書斎のデスクに放り投げられた。 抵抗する隙も与えず、清也は覆いかぶさると両手首を頭上で組み敷き、もう片方の手で乱暴に雪乃の服を脱がしにかかる。 雪乃は予期せぬ挙動に動転して逃げ出そうとしたが、清也の手から逃れることはできない。 「清也、頭がおかしくなったの!?」 次の瞬間、清也の唇が力強く彼女の口を塞いだ。 その時、部屋の入り口に莉子が立っていた。震える手でドア枠につかまり、その見るに堪えない惨状を目に焼き付けていた。 莉子が震える声で尋ねる。「昨夜……一体、誰だったの?」 雪乃はこの瞬間にすべてを悟った。清也は自分を利用して、莉子を刺激しようとしているだけなのだと。 雪乃が反応するよりも早く、清也の動きが止まった。 清也は雪乃を片手で抱き上げると、もう片方の手で彼女の頭を自分の胸元へ強く押し付けた。 清也にがっちりと拘束され、鼻と口が塞がれて身動きも取れず、雪乃は息すらできない。 清也の冷ややかな嘲笑が耳に入る。 「俺だと思うのか? 莉子、勘違いするな。 俺は君に触れるだけでも虫唾が走るんだ。 過去のよしみで、代わりに抱く男を見つけてやったぞ。追いかけたければ今すぐ行け。まだ間に合うかもしれない」 莉子の体は震え、しがみついていた指は白くなっていた。 「清也……人でなし!」 「そっちが愚かだっただけだ」清也は鼻で笑う。「簡単に薬を盛られるなんて、どのツラ下げて飲み会に参加してたんだ?」 立ちすくむ莉子を見て、雪乃を抱える清也の手がより強くなった。 「何だ?まだ俺たち夫婦の仲睦まじい姿を見たいのか? なら、しっかり見ておくんだな」 胸の中で酸欠により意識が遠のきかけていた雪乃。死を覚悟したその瞬間、後頭部を押さえていた清也の手が不意に緩んだ。 大きく息を吸い込んだのも束の間、清也の唇がまたもや覆いかぶさる。 これまでになかったような羞恥が、雪乃の全身を駆け抜けた。 彼女は全霊の力を振り絞り、強く清也に噛み付いた。 生々しい血の味が、二人の口内に広がっていく。 清也はうめき声を上げ、険しい顔をしたが、雪乃を放すどころか、挑発するように唇を合わせ続けてきた。 その時、不意に視界の端をかすめたのは、よろめきながら窓辺へ向かう莉子の姿だった 清也も気づいたようで、雪乃を突き飛ばすと、一目散に窓へと駆け寄る。 莉子が窓から身を投げるその刹那、清也は躊躇なく後を追い、空中で莉子を強く抱きとめた。そして、自らの体をクッションにして、地面へと転落していった。 第4話 気持ちを落ち着けた雪乃は、窓辺に立ち、下の芝生で重なり合っている二人を冷ややかな目で見ていた。 清也はかなりひどい怪我をしているようで、周囲の使用人たちがパニック状態で駆け寄っている。 雪乃は深く息を吸い込んだ。目の前の命を救うのが、医者の務めだ。 ただ、清也だけは例外だった。 引き裂かれた自分の服に目をやり、雪乃はウォークインクローゼットへと向かった。 破られた服のポケットから書類を取り出すと、そのまま邸宅を後にした。 外ではすでに救急車のサイレンが鳴り響き、使用人たちは右往左往して騒ぎになっていた。 雪乃は清也の方を一瞥もせず、そのまま車に乗り込み、アクセルを踏んだ。 本人確認書類を弁護士へ送ると、雪乃は足早に病院へと向かった。 院長室を訪ね、異動届を院長に提出する。 「院長、以前おっしゃっていた、海外分院への異動の件。まだ有効でしょうか?」 「ええ、もちろん。現地からずっと人員を催促されているから。ただ、以前は結婚されると言っていたのでは……」 「今すぐに行けます」 「分かった。それなら、至急手続きを進める。ただ、最短でも1ヶ月はかかるよ」 「ありがとうございます」 院長室を出てエレベーターに向かうと、扉が開き、急ぎ足の看護師たちがベッドを押しながら出てきた。 そこに乗せられていたのは、清也だった。 雪乃の傍を通り過ぎる瞬間、何かを感じ取ったのか、清也は急に目を覚ました。 目が合うと、彼の瞳に、複雑な色が浮かんだ。 だが雪乃はすっと視線を外し、下の階へ向かうボタンを押した。 しばらくして、雪乃は自分の所属する診察室へ呼び戻された。 科の部長が困り果てた顔で雪乃を見つめている。 「藤堂社長ですが、肋骨を3本折っており、すねの骨も骨折しています。直ちに整復手術が必要なんです。ところが今日の当直担当が急病でしてね。あなたは最も信頼できる執刀医であり、一応彼と結婚式も挙げましたから……」 雪乃は、部長の言いたいことが痛いほど分かった。清也の傷を診られるのは、自分しかいないのだ。 とことんまで、運命からは逃れられないらしい。 「承知いたしました。すぐに手術の準備をいたします」 手術室では、すでに麻酔をかけられた清也が眠っていた。 深呼吸をし、感情を一切断ち切って、雪乃は執刀に集中する。 手術の翌日、雪乃は病室で淡々と診察を行っていた。 冷めきった雪乃の横顔を見つめ、清也がため息をついた。 「もうすぐ式をやり直すんだから。 退院したら、莉子を海外へ行かせる」 疲れ切った様子の清也に、雪乃は背を向ける。「だから雪乃、いい加減もうやめろよ」 雪乃の手が止まる。 いい加減やめろ? こっちが命を狙われて殺されそうになったというのに、結婚式当日には置き去りにされたのだ。 示談書を書けと脅され、莉子の身代わりとして扱われ、二人の寝室では別の女と楽しみ、今度は自分を莉子のあて馬にして侮辱したばかりだ。 この状況で、清也は自分に「いい加減やめろ」と言うのか? ふっと雪乃は皮肉な笑みをこぼした。聴診器を手に取ると、清也の骨折した肋骨あたりに、力任せにそれを押し付けた。 「うっ……」 激痛に清也が声を上げる。顔色が瞬時に険しくなった。 「雪乃!」 相手にせず、雪乃は淡々と数値をメモし続ける。 その時、病室のドアが押し開かれた。 車椅子の莉子が、点滴スタンドを押しながら入り口に現れ、ベッドの清也をじっと見つめている。 清也がクッションになったおかげで、莉子は足を少し痛めただけだった。 莉子の姿を見ると、清也の眼差しが一瞬動き、そしてすぐに凍りついた。 「勘違いするなよ。君が簡単に死んだら、これから受ける罰を味わえなくなるだろ。 あの夜は気持ちよかったか?複数の男相手に、まだ足りないって顔をしていたけどな」 莉子の顔から血の気が完全に引く。全身を抑えきれない震えが駆け抜けた。 二人のおぞましい因縁にこれ以上巻き込まれたくない雪乃は、その場を立ち去ろうとした。 だが清也が不意に腕を伸ばし、雪乃を抱き寄せてそのまま強引に唇を奪った。 莉子を傷つけるために、自分をまた利用している。 湧き上がる屈辱と怒りに、雪乃の全身の血が頭へとのぼっていく。 雪乃が抵抗する間もなく、赤く充血した目で莉子が叫びながら、そばにあった重い点滴スタンドを力任せに投げつけてきた。 「清也、もう死んでやる!」 清也は雪乃を庇うように、とっさに身を翻して覆いかぶさった。 ドン! 金属製の点滴スタンドが、清也の背中に無情に突き刺さった。 清也が苦悶の声を漏らして倒れる。患部を激しく打った痛みで、額には脂汗がにじんでいる。 食いしばる歯の間から唸りを上げながら、車椅子で遠ざかる莉子を睨みつけた。 パンッ。 鋭い音が、病室にこだまする。 雪乃は憤怒の声を叩きつけた。 「清也!二人の殺し合いに、二度と私を巻き込まないで!」 言い返そうとした清也の耳に、廊下から車椅子が激しくひっくり返る嫌な音が響いた。 雪乃を突き飛ばし、清也は骨折している脚でそのまま駆け出していく。 不意に押された雪乃は足元がふらつき、額を近くのテーブルの角に激しく打ち付けた。 強烈な痛みが駆け抜け、視界がぐるりと回る。 しばらくしてようやく机にすがって立ち上がり、フラフラしながら病室を後にした。 そこには、自分の怪我も顧みず、血相を変えて莉子を抱き上げて走り去る清也の姿があった。 雪乃は鼻で笑った。額から滑り落ちる赤い筋が、だんだんと視界を赤く染めていった。 …… 傷を処置してもらうと、雪乃はすぐに休暇届を出し、病院を去った。 離れるその日まで、あの狂気じみた二人とはどこまでも縁を切るつもりだった。 雪乃はかつての住まいに戻り、スマホからSIMカードを抜くと、それから数週間、静かな日々を過ごした。 第5話 ある日、ゴミ出しのためにマンションの下へ降りた時だった。突然、背後から腕を掴まれる。 険しい顔をした清也が、そこにはいた。「答えろ。莉子をどこに隠した?」 病院の近くで莉子が失踪し、清也は雪乃が莉子を拉致したと決めつけた。 「莉子を恨んでいるのは君だけだ。君以外に誰がいる?」 雪乃はその言葉を荒唐無稽だと思った。 「忘れたの?篠原さんを一番恨んでいるのは私じゃなくて、あなたでしょ?」 清也の目は一瞬にして殺気立ち、今まで見たこともないほど残虐な本性を露わにした。 「どうやら、君を甘やかし過ぎたようだ」 清也は背後のボディーガードに手で合図を送った。 数人のボディーガードが雪乃の体を取り押さえ、海辺へと強制的に連れ出した。 雪乃の頭は、容赦なく冷たく刺すような海水へと押し付けられた。 窒息感が全身を包み込んだ。 意識が遠のきかけたその時、乱暴に頭が水面から引き上げられた。 「げほ……っ、ごほっ!」 「どこだ?」清也の声は氷のように冷え切っていた。 雪乃は必死に息を吸い込んだが、肺に逆流した海水が焼けつくように痛んだ。 「もう一度聞く。莉子はどこにいる?」 激しい咳き込みで声も出せず、雪乃はただ赤く充血した瞳で清也を睨みつけた。 次の瞬間、またもや雪乃の頭は海中に押し付けられた。 何度も、何度も。 清也は雪乃を水に沈め、浮かべ、また沈めることを繰り返した。 息が詰まるたびに意識は遠のき、せっかく癒えかけた心の傷口がまた大きく裂けるようだった。 雪乃がもう終わりだと死を覚悟したその時、清也のスマホが鳴った。 「社長、病院付近で篠原さんを連れ去ったのは、かつてのライバル会社の……」 電話を切ると、清也は急いで車に乗り込んだ。ビーチの上で濡れそぼり、咳き込んでいる雪乃を一瞥だけした。 「妻を病院へ送らせろ。いい医者に診てもらうんだ」 そう、ボディーガードに冷たく投げつけると、車は猛スピードで去っていった。 ボディーガードが歩み寄ってきた。「奥様、社長の命令ですので、病院へ送ります」 雪乃は地面に手を突き、よろよろと立ち上がった。 「必要ない」 ふらつく足取りでその場を去った雪乃は、すぐに警察に電話をした。 「もしもし、事件です……」 清也が莉子を捜すのに躍起になっているなら…… 好きにさせるつもりはなかった。 …… 警察署に着くと、すぐ後ろに付いてきた清也の姿があった。 清也は雪乃を冷たい目で見て、怒りを押し殺したように言った。 「雪乃、誤解は解いたんだから、もういい加減にしろ! 莉子がまだ見つかってない。君にかまっている暇はないんだ!」 「いい加減?」雪乃は顔を上げ、掠れた声で言った。「あなたの時間は貴重で、篠原さんの命は重要で、私はゴミだとでも?」 清也は不機嫌に黙り込んだ。やがて弁護士が駆けつけた。 全てを弁護士に任せると、帰ろうとする清也は見下すように雪乃を鼻で笑った。 「ここから動きたくないなら、そのまま一生反省していればいい」 弁護士は警察にこう告げた。「こちらの方は藤堂社長の奥様です。ご夫婦の間で少し行き違いがあっただけで、事件性はありません」 結局、雪乃は「偽計業務妨害」の罪で、3日間の拘留処分となった。 弁護士が要求したからだった。「藤堂社長のご意向ですので、『妻であっても例外は認めず、法的に処理してほしい』とのことです」 しかし、雪乃は留置所に入ってわずか30分も経たぬうちに、清也の手によって釈放されることになった。 留置所を出ると、車に寄りかかって待っていた清也の姿があった。 「大事な人を救わなくていいの?わざわざ私なんかの面倒を見に来るなんて暇ね」 清也は答えず、無言で雪乃の手首を掴むと、力ずくで車に押し込んだ。 車は一路、人里離れた廃工場へと向かった。 雪乃が車から引きずり下ろされると、清也は叫んだ。「妻を連れてきたぞ!莉子を放せ!」 雪乃の体が一瞬で凍りついた。すべてを悟ったからだ。 自分を釈放したのは、犯人と引き換えにするためだったのだ。 清也の横顔を見つめると、雪乃の心の中に残っていた僅かな愛情さえ完全に消え失せた。 一人の男が意識のない莉子を車椅子に乗せ、物陰から現れた。莉子の首元に刃物が突きつけられている。 「藤堂、新しい女も結局は古い女には勝てないんだな」 清也は振り返り、雪乃に済まなさそうな顔をした。 「ごめんよ雪乃、あとで必ず埋め合わせをする」 雪乃は冷ややかに笑った。「清也、本当に虫唾が走るわ」 清也は顔を背け、暗がりに隠れた。 そしてまた、目の前の犯人に向き直った。 「妻は連れて行っていい。だがもし莉子に一つでも傷をつけたら、お前の家族全員、後悔することになるぞ」 「家族全員だと?ははは……」 犯人は狂ったように笑い出した。 「藤堂、地獄を見るのはお前だ!以前、俺の土地を奪って破産に追い込んだな。妻とも離れ離れにされたんだ!だから、お前も最愛の女も、ここで最期だ!」 犯人が叫び、手元のスイッチを押した。 ドーン! 爆発音が響き、火柱が上がる。廃工場は大きく揺れ、石材や鉄筋が崩れ落ちた。 犯人が怯んだ隙に、清也は走り出し、蹴り飛ばした犯人に落ちていた鉄パイプを容赦なく叩きつけた。 犯人はその場に倒れ込んだ。 一方で、雪乃は崩れ落ちた巨大なコンクリートの下敷きとなり、身動きが取れなくなっていた。 莉子を抱き抱え、脱出しかけていた清也は、雪乃の横を通りかかってふと歩を止めた。 腕の中の莉子、そして下敷きになった雪乃を一瞬だけ見比べた。 火の勢いは強まり、濃い煙が喉を締め上げ、天井からは破片が降り注ぐ。 迷いはなかった。 「雪乃、すぐ戻る。絶対に助けに戻るから、信じてくれ」 清也はそう言って、莉子を抱きしめたまま迷うことなく外へと駆け出した。 煙の中に消えていく背中を見ながら、雪乃は痛々しい笑みを浮かべた。 信じろって? そんなこと、とっくにできなくなっていた。 廃工場から逃げ延び、安全地帯に莉子を置いた清也は、戻ろうとしていた。 しかし、背後から凄まじい轟音が響き、目の前の廃工場が完全に崩落した。 噴き上がる業火が、愕然と立ち尽くす清也の顔を真っ赤に照らし出していた。 第6話 雪乃は運が良かった。コンクリートの残骸が崩れ、奇跡的に彼女の周りに三角のスペースを作ったおかげで、後の崩落や火災に巻き込まれずに済んだのだ。 そして、消防隊に救助され、九死に一生を得た。 清也は眉間に微かにしわを寄せた。 …… 病院で目を覚ました雪乃の表情からは、何の感情も読み取れなかった。 清也はベッドのそばに付きっきりで看病していたが、充血した瞳と伸びた無精髭のせいで、疲れの色は隠せなかった。 「悪かった」 清也は雪乃を見つめ、掠れた声で言った。 雪乃の表情に変化はない。 「何が?篠原さんを救うために私を見捨てたこと?それとも、死ぬような目に遭わせたこと?」 清也は言葉に詰まり、押し黙った。 雪乃は冷ややかに笑った。 「もういいわ。 ここにあなたは必要ないから」 清也は動けず、病室はまた長い沈黙に包まれた。 しばらくして。 「莉子が、妊娠した。俺の子供だ」 清也は絞り出すようにそう告げた。 雪乃の瞳が揺れた。数週間前、清也が莉子を抱き、一晩中、愛を囁き合う声がフラッシュバックする。 皮肉めいた笑みを浮かべようとしたが、上手くいかなかった。 「私には関係ない。自分のプライベートの話は私に話さないで」 清也は顔をしかめた。胸の奥に、言葉にできない違和感が広がる。 かつての雪乃なら、こんなに冷たく接することはなかった。 確かに最近、莉子の件で雪乃を傷つけてしまったことは認める。 だが、莉子を海外へ送りさえすれば、すべて以前の状態に戻るはずだ。 雪乃は自分を愛している。自分のために命まで賭けようとするほどに。 時間が解決するだろうし、機嫌を取ればきっと元に戻るはずだ。 「少し待っててほしい。莉子が出産を終えたら、俺が追い出す。 2週間後の結婚式に問題は出させない。 約束する」 清也は一息ついてから言った。「それにその子供は……いずれ君を『お母さん』と呼ぶはずだ。俺たち二人の、唯一の子としてな」 雪乃はじっと清也を見つめた後、突如として笑い出した。 「あなたの『卑劣さ』には驚かされるわ。 子どものことは、あなたが気にする必要はないわ。別の男との子を産むから」 清也の顔色は一瞬で強張った。 「雪乃、自分が何を言ってるか分かっているのか?」 「言葉足らずだった?ならもう一度言うわ。あなたの償いなんていらないし、保証も信じるつもりはない。他人の子供なんて絶対に育てない」 清也は雪乃を射るような目で見つめ、突き放すように言った。 「結婚すれば俺は夫として責任を持つ。『藤堂夫人』にふさわしい待遇は約束する。だから、黙って俺の傍にいればいい」 雪乃は静かに目を閉じた。もう会話にならないと悟ったのだ。 その時、慌てた様子のボディーガードが駆け込んできた。 「社長、一大事です!病院で篠原さんに妊娠のことを伝えると、そのまま行方をくらましてしまいました……」 清也は血の気が引いた。雪乃の元を離れ、慌ただしく病室を後にした。 …… それからの数日間、清也は世界中を駆けずり回り莉子の捜索に奔走し、二度と雪乃の前に現れることはなかった。 体調が回復するやいなや、雪乃は退院の手続きを済ませ、海外行きの航空券を手配した。 その帰り道、日用品を買いに地元のスーパーへ向かった。 すると突然、背後から鼻と口をふさがれ、そのままワゴン車の中に力づくで引きずり込まれた。 再び意識が戻ると、そこには失踪していたはずの莉子がいた。 雪乃は動こうとして、自分の手足が縛られ、口をガムテープで塞がれていることに気づいた。 「目が覚めました?」 莉子は雪乃の起きる様子を見届けると、歩み寄ってきて、腰を落とし、申し訳なさそうな顔を作った。 「ごめんなさい」と小声で呟く。 「やりたくなんてなかったんです。でもこうでもしなきゃ、清也は言う事を聞いてくれないんですもの。 結局、清也は心からあなたを愛しちゃったみたいですね」 莉子の言葉を聞き、ただ皮肉だとしか思えなかった。 愛している? 清也の行いのどこに愛があるというのか? 「信じられないんですか?」 莉子には雪乃の心の声が見抜けたようだ。 「私は清也を知っています。清也は決して『替え玉』のような女と入籍はしません。 清也が誰かと結婚を決めたというなら、それは相手を愛したという証拠ですよ。 清也本人でさえ自覚していないでしょうけれど」 莉子は一拍置くと、不気味に笑った。 「清也は適当な男の種を、私に植え付けたんです。 ひどいことをするでしょう?」 莉子の表情がゆっくりと歪んでいく。 「清也は、私が他の男といちゃつくのを見るのが好きですよね? なら、思う存分、目に焼き付けてあげましょうよ」 そう言って手で合図すると、影から何人もの男が現れた。 第7話 清也が駆けつけると、数メートルの高さに吊り下げられた雪乃の姿があり、彼は呆然と立ち尽くした。 「清也、来たのね」 莉子は、指をさして雪乃の方を見た。 「雪乃さんを吊るしているロープは半分だけ切っておいたわ。あと20分もすれば、真っ逆さまね」 清也は目を血走らせ、莉子を鋭く睨みつけた。 「一体何をするつもりだ?」 莉子は答えず、隅に積まれた廃棄用の木箱を指した。 「雪乃さんを救うために早く動けば、梯子くらいは組めるんじゃない? あ、言い忘れたけれど、ここは郊外だから。救急車を呼んでも到着まで最低30分はかかるわよ」 清也は拳を固く握り、指を鳴らした。 「頭がおかしいのか!」 「ええ、もうイカれちゃってるわよ」 莉子は哄笑した。その瞳には、これまでにない狂気が宿っていた。 彼女は男たちに近づき、着ていた服の襟を乱暴にはだけた。 「ねえ、汚れた女は嫌いなんでしょ?だったら、他の男の子を身ごもって、この男たちに好きなだけ汚してもらうわ。 今日はとことん、見届けてよ」 莉子はポケットから錠剤を数粒取り出し、飲み込むと、男たちにも同じ薬を差し出した。 「今さら逃げようなんて思わないで。そんなことしたら、雪乃さんはここで死ぬわ」 清也は青ざめた。喉の奥に鉛を詰められたかのような感覚だった。 躊躇う暇などなかった。彼はすぐに積まれた木箱に飛びつき、無我夢中で積み上げ始めた。 時は容赦なく過ぎていく。 莉子は薬が回り始め、自分の服を剥ぎ取りながら、荒い吐息を漏らし始めた。 男たちも獣のような瞳で、一歩ずつ莉子へにじり寄っていく。 木箱を運んでいた清也の手が止まった。莉子たちが飲んだ薬の正体を、ようやく悟ったからだ。 莉子は本当に狂っていた…… 男の手が莉子に届こうとした瞬間、清也は持っていた木箱をそちらに投げつけた。 「ぐあっ!」男が激痛に声を上げた。 清也は間髪入れず駆け出し、最も近くにいた男を蹴り倒すと、莉子を腕に抱えて素早く距離をとった。 意識が混濁し始めた莉子は、清也の胸に寄りかかり、その服の襟を指で引っかけた。 「清也……まだ、私のことを見捨てられないのね?」 莉子は笑みを浮かべたが、目元から一筋の涙が伝った。 清也は迫り来る男たちと、空中で今にも落ちそうな雪乃の間で、極限の葛藤に身を焦がしていた。 腕の中の莉子は高熱を出し、支離滅裂な言葉を口にしている。 男たちは荒い息を吐き、欲情に支配された目で獲物である莉子を狙っている。 清也は唇を噛み締め、頭上の雪乃へ叫んだ。 「頭をしっかり抱えろ!この高さなら……命は助かるはずだ!」 清也は莉子を抱えたまま、一度も振り返ることなく廃倉庫を飛び出した。 雪乃は清也が莉子を抱いて消えていく後ろ姿を見つめた。その瞬間、胸の奥で最後の希望が音を立てて崩れ落ちた。 これで3回目だ。清也がまた自分を見捨て、命の危機にさらして背を向けた。 瞳が熱くなったが、一滴の涙も流れない。 下で待ち構えていた男たちは莉子を失ったが、すぐに獲物を切り替え、高所の雪乃へと目を向けた。 届かない場所の雪乃に群がり、卑猥な言葉をわめき立てて手を伸ばす。 服を脱ぎ捨ててくる男たち、そして、紐がちぎれる不穏な音が響く。雪乃の全身から血の気が引いた。 分かっている。墜落して生き残れたとしても、この男たちの餌食になるだけだ。 こんなにも激しい絶望と恐怖を味わったことはない。 何もできない雪乃は、死を覚悟して静かに目を閉じた。 パシッ―― ロープが、完全に断ち切れた。 第8話 体が宙に浮き、真っ逆さまに落ちていく瞬間、雪乃は死を覚悟した。 ドンッ! しかし、落下地点には複数の男たちが重なるように座り込んでいた。クッション代わりに、雪乃は男たちの体の上に激しく叩きつけられた。 生存本能が働き、意識が一気に鮮明になる。 全身の激痛を押し殺し、男たちが異変に気づくより早く、雪乃は這いつくばって廃倉庫から外へと転がり出た。 背後から男たちの怒号と、追いかけてくる足音が響いてくる。 雪乃は夢中で走り続けた。肺は焼けるように熱く、喉には鉄さびのような血の味が広がっている。 それでも立ち止まるわけにはいかない。どれくらい走っただろうか。目の前の暗闇の中に、ようやく車のライトが見えた。 公道へ駆け出したところで、ついに限界が訪れた。目の前が真っ暗になり、雪乃は意識を失った。 …… 次に目を覚ますと、そこは再び病院のベッドの上だった。 枕元では清也が付き添っていた。彼の目は充血し、その顔には疲れが滲んでいた。 「雪乃、すまなかった。 莉子が今、精神的にひどく不安定なんだ。カウンセリングの手配は済ませてある。 莉子のことを、許してやってくれないか?彼女だってわざとやったわけじゃないんだ」 清也は一息つくと、こう付け加えた。「それに、君に莉子を訴えるための証拠も残っていないだろう?」 清也の意図は明らかだった。たとえ追及しようとしても、無駄だと突きつけているのだ。 後ろめたさからか、清也は最後に言い足した。「この件については、俺から莉子に厳重注意をしておいたから」 雪乃は、清也の首筋にある赤いキスマークに目を奪われた。あまりにも目に刺さる、禍々しい赤色だった。 雪乃は思わず笑みを浮かべた。 ああ、なるほど。「厳重注意」とやらは、さぞ激しくおこなわれたようね。 雪乃は視線を外し、落ち着いた声で答えた。「2000億。これで示談に応じるわ」 清也は一瞬、黙り込んだ。「分かった」 そう言って、彼はデスクに黒いカードを一枚置いていく。 「莉子には子供がいるんだ。精神的にも不安定でね。 君と子供、双方の安全のためだ。莉子は当面、遠方で静養してもらうことにした。 1週間後の結婚式には戻る。何が何でも、結婚式には影響させない」 雪乃はただ目を閉じ、沈黙を守った。 しばらく雪乃の様子を窺っていた清也だったが、最後には背を向けて立ち去っていった。 ドアが閉まった瞬間、雪乃は目を開けた。そこにはもう、何の感情も残っていなかった。 その後の数日間、雪乃は病院のベッドで大人しく療養生活を送った。 5日目、弁護士からの連絡で、離婚が確定したことを知る。 雪乃は退院の手続きを済ませ、清也の邸宅へと戻った。 室内には、すでに新婚の華やいだ飾りが溢れていた。あちこちに祝いの装飾が施されている。 前回見たときは眩しく感じたのに、今ではただ、痛烈な皮肉にしか見えなかった。 寝室へ向かい、ベッドサイドの金色の花瓶の前で立ち止まる。雪乃は中に手を差し込み、カメラを取り出した。 前回の結婚式前日に結婚の思い出として録画した告白動画だ。結婚式の夜、清也にプレゼントしようと思っていたものだった。 録画を終えたそのとき、突然清也が部屋に入ってきたのだ。 慌ててしまった雪乃は、カメラを咄嗟にその花瓶の中に隠したのだった。 カメラを手に、雪乃は書斎のパソコンに向かい、記録されていたデータを開く。 案の定、映像には自分自身の告白動画だけでなく、莉子の助けに応じようとする清也のあられもない姿が鮮明に収められていた。 自分に関する箇所を削除すると、雪乃はそのデータを自分の端末へ送った。 それから、どこかへ連絡を入れる。 「ある動画を送りました。あさっての、清也の結婚式で流してください」 今回、莉子に拉致された件について、清也から示談金として2000億円を受け取った。 だが、自分を欺き、見世物にし、あまつさえ莉子と引き換えて危うく殺しかけたことに対する代償は、まだ払われていない。 それならば、この動画をその清算に充てるとしよう。 全てを片付けた後、雪乃は、結婚式で交わすはずだった指輪と、離婚届の受理証明書を並べてデスクに置く。 荷造りを済ませたスーツケースを手に、雪乃は一度も振り返ることなく邸宅を後にした。 空港にて。 搭乗を前に、雪乃は清也に関する全ての記録を消し、電源を落とした。 機内の窓から見る街並みはみるみる小さくなり、やがて雲の下へと消えていった。